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あるところに小さな女の子がいました。女の子はとても無口でした。話ができないわけではありません。話すのがきらいなわけでもありません。でも、口を開いて何か言おうとすると、言い終わる最後のことばと、その後にくるマルまでが、ぱっと見えてしまうのです。あわててそのマルをごくんとのみこんでしまうと、結局はなにも言わないままに終わってしまいます。そうしていつも自分の話をのみこんでいるうちに、いつのまにか人から「無口だ」といわれるようになってしまいました。女の子には三軒隣に、すみれちゃんという同い年の友だちがいました。すみれちゃんはとてもおしゃべりでした。女の子とすみれちゃんはとても気が合いました。すみれちゃんは話すのが好き、女の子は聞くのが好き。ふたりでいるととても自然に時間が流れるのです。でもすみれちゃんには悩みがありました。彼女は音楽が大好きだったのですが、自分ではうまく歌が歌えないのです。いい曲だなあと思って、自分で歌おうとすると、最初の一声で「ああ、だめ、だめ」と思ってしまいます。自分のあたまのなかで鳴っている音楽と全然ちがう音が出てしまうのです。彼女はいつもため息をついて、歌うのをやめてしまいました。「どうしてうまく歌が歌えないのかしら」すみれちゃんは女の子にそうたずねます。「そう?でもわたしすみれちゃんの歌って聞いたことがないような気がするんだけど」「だって、私、音痴だもん。人になんて聞かせられないよ。」「ふーん、でもそのうちにうまくなるかもしれないよ」「だめ、ぜんぜんそんなんじゃないの。お話しにならないのよ。せっかくのいい曲がだいなしになっちゃうから、ひとりの時だって私、歌わないことにしてるの」「ふーん」「悲しくなっちゃうわ」「でもね、すみれちゃん」「うん?」「歌が歌えないってそんなに悲しいことじゃないような気が私はするよ」「なんで?」「だって、すみれちゃんのあたまのなかには世界中のすてきな音楽がたくさんつまってるんでしょう。それだけでもすばらしいことだと思うし、どんなに歌のうまい人だって、すみれちゃんの頭のなかにあるくらいたくさんの曲を自分で歌える人っていないんじゃないかしら」「うーん、まあ、それはそうかもしれないけど」「だったら、いい音楽を聞いて、ああ、いいなあって思えるほうが、自分で歌うよりもだいじなことなんじゃないかしら」「ふーん、そんなふうに考えたことって今までなかったな。ほんとはいい音楽が聞けて、時々それを自分でも歌えればもっと楽しいんだろうけど、音楽って聞くだけでもけっこう楽しいよね。そっかー、あんまり歌えない、歌えないって悲しむこともないんだ」「そう思うよ」女の子は自分でそう言った後で、こう思いました。私はいつもあんまりしゃべらない。しゃべろうと思うと、最後のマルが見えちゃって、それをごくんとのみこむと、結局なにも話さないうちに終わってしまう。なんだかいやだなーって思ってたけど、ほんとうはどうなんだろう。自分で話すのと、人の話を聞くのと、いったいどっちがたいせつなんだろう。わたしが話せることってそんなにたくさんはない。でもわたしが聞ける話はそれよりもずっとずっとたくさんある。だったら、話せない、話せないって悲しむよりも、もっともっと一生懸命、人の話を聞いて、聞いたことをこころのなかにたいせつにしまっておくほうがひょっとしたらたいせつなことなんじゃないかしら。女の子はそう思いました。女の子はその日、うちに帰って、自分の部屋に入り、そっと自分の顔を鏡に映してみました。まず、ぱくぱくと口を開けてしゃべっているふりをします。次に、黙って目の前の人の話を一生懸命聞いているふりをします。そのふたつの顔を見比べてみると、自分で話しているときよりも、人の話を聞いているときのほうが、「考える」顔をしてるんだなと感じました。じっと人の話に耳をかたむけているとき、その人の顔は「考えている」顔をしている。もちろん話すときにもあたまのなかではいっぱいいろんなことを考えているわけだけど、実際に話しているときには、その人は「考えている」というよりも、どっちかというと、人を「見ている」顔をしている。そういう気がしました。不思議だな、と女の子は思います。人の話を聞いているときのほうが相手の顔を見ているはずなのに、実際に聞いている顔を鏡に映してみると、それは「見ている」というよりも「考えてる」顔になってる。逆に自分で話をしているときには、何を話そうかと一生懸命考えているはずなのに、実際に話している顔を鏡で見てみると、それは「考えてる」顔というよりも、「見てる」顔になってる。なんでそうなるんだろう。しばらく考えた後で、「そうか」と女の子は思いました。話すときには頭のなかでいろんなことを考えているんだけど、自分の話を相手がどういうふうに聞いているかということがとても気になる。だから相手の顔を見ちゃうんだ。だから、「見ている」顔になっちゃうんだ。でも、人の話を聞くときには、この人の言いたいことはなんだろう、次にどんな話をするんだろうっていつも考える。その人のこころのなかには何があるんだろうって思う。その手がかりを探して、その人の顔をじっと見るんだけど、ほんとうにいいたいことはその人の顔に描いてあるわけじゃなくて、こころのなかにある。だから、聞いてるときは相手のこころのなかにあるなにかを知ろうとして、自然に考える顔になっちゃうんだ。話すことと聞くことって、いったいどっちが大事なんだろう。女の子はそう思います。もちろんふたつとも大事なことはわかってる。でも自分にとってほんとに大事なことはそのどっちなんだろう。たぶん聞くことだ、と女の子は思いました。私はそんなにたくさんのことは知らない。そんなにいっぱい考えたこともない。自分のあたまのなかを「お腹」にたとえたら、たぶん、朝起きたばっかりの胃袋みたいなものじゃないかしら。昨日の晩ごはんからなにも食べてないから、胃袋のなかはけっこうすかすかになってるはずだ。だったら、朝起きていきなり走り出すよりも、まずはしっかり朝ごはんを食べたほうがいい。お腹がいっぱいになって、少しやすんでから走り出せばいいんだ。人の話を聞くことって、ごはんを食べるのとおんなじなんじゃないかな。そして話をすることは、運動をすることに似てる。じゃあ、まず、ごはんをたべなくっちゃ。お腹をいっぱいにするのが先決だ。次の日から女の子は、これまでよりももっともっと一生懸命、人の話を聞くようになりました。相手が話している途中で、自分が何か言いたくなっても、「ちょっと待って。もう少し、この人の話を聞いてみよう」と自分に言い聞かせるようにしました。そうして注意深く人の話を聞いていると、時々「あっ」と思う瞬間が訪れます。この人がいいたい「あれ」って、わたしのこころのなかにある「これ」ととってもよく似てる。そして、その人が話し終えてひといきついた時、女の子はそっと自分のこころのなかにある「これ」について話をするのです。すると、相手の顔がぱっと輝きます。「そうなのよ、私がいいたかったのは、それなのよ」その顔をみている女の子の顔も相手につられて思わずほころんでしまいます。そして、気がつくと、夢中で話している自分自身がいる。そういうことが何度もありました。そのうちに、誰も女の子を「無口」とはいわなくなりました。ある日、親友のすみれちゃんが女の子のところへやってきて、とってもすてきな歌を歌ってくれました。「すみれちゃん、すごい、すごい。すごく、歌、うまいじゃない」「えへへ、こないだ自分が音痴だって話したでしょう。でもそれはそんなに悲しむようなことじゃないって言ってくれたよね。すてきな音楽を聞いて、味わうことのほうがずっと大事だって。だからあれからこれまでよりもっともっと一生懸命、好きな音楽をこころをこめて聞くようにしてみたの」「うん」「なんどもなんども繰り返し好きな曲を聞いてね。あー、ほんとにいい歌って思って、こんないい曲聞けてしあわせーって思ったら、なんとなくその曲を口ずさんでたの。」「うん」「そしたら、なんか歌えるようになってたの、なんだかとっても不思議な気分なんだけど」「うん、なんだかわかるような気がする」「ほんと?」「うん」すみれちゃんの話してくれた「あれ」って、私の「これ」と同じものなんだ。女の子はこころのなかでそう思っていたのでした。
2007.01.30
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柳父章「翻訳語成立事情」(岩波新書)の中に、レビィ・ストロース「悲しき熱帯」からの次のような引用がある。(p.83)「ストロースが南米のナムビクワラ族といっしょに生活しているとき、紙と鉛筆を人々に与えて、何かを書かせようとしてみた。字はもちろん、絵も描いたことのない人々は、すぐあきてしまう。が、酋長だけは、書くことに興味をもつ。 たしかに、酋長だけは、書くということの働きが分ったのである。そこで彼は、私と同じようなメモ帳を私に要求し、私たちはそれでいっしょに仕事をすることになった。私が何か聞くと、ことばで伝えないで、その紙の上に、くねくねとした線を書き、私に示す。あたかもその返事を読み取れ、と言わんばかりである。自分の芝居に、自分も半分だまされているのだ。」「およそ書くということ、エクリチュールの始源の現われが、ここに見事にとらえられている。初めに、線の形があったのである。あるとき、ある人が、おそらく感受性も知的好奇心も盛んな人が、その形に得体の知れぬ感動を受ける。そして、やがてそこに意味を求める。」文字はまず意味不明の線として人を訪れ、その後に意味がやってくるという順序が面白い。文字の意味がわからなくても、文字の機能は直観的に理解できると見てとったストロースの観察眼の鋭さが光る部分である。この直後にはこのような引用もある。「レビィ・ストロースは、ナムビクワラの人々に贈物をし、酋長は、自分で何やら書いた紙を読むふりをしながら、品物の受渡しをするのである。 こんな芝居が二時間ほど続いた。酋長はいったい何を望んでいたのか。たぶん、自らだまされることだ。しかし、それ以上に、自分の仲間たちを驚かすこと、品物がそのやり方で受渡されることを人々に承知させること、そして自分が白人と結んでいて、白人たちの秘密に加担している、ということを人々に承知させることだったのだ。」この後、ストロースは権力的支配の道具としての文字について考察を進めるわけだが、このような経緯は未開民族に特有のものではない。日本もまた漢字伝来の頃には、意味不明の線を描き出すことによって何らかの意味を伝えている(らしい)と人々に思わせ、文字をあたかも呪術の祭具のように用いていた時代があったはずである。そして、その伝統は今でもこの国の文字の使い方に濃厚に残っている。定義の明らかでない意味不明の単語やフレーズ(とくに舶来語)をありがたがる心性の根はおそらくこのあたりにあるのではないかと思う。そして、人間は一人の例外もなく、未開人として生まれてくる。文字という権威を承認し、その支配に服し、それを操作する技法に熟達することを通して、人は世界へと参入していく。しかも、表意文字というきわめて特異な性格をもった漢字においては、その呪術性はいっそう強まる。お札、お守り、護符、封印、印影、御璽。現在に至るまで、文字はさまざまな形をとりながら呪具として用いられてきた。要するに、文字は道具だったということである。その目的が呪術であれ、コミュニケーションであれ、認識作用であれ、権力的支配であれ、少なくとも文字以外の目的を果たすための道具として文字は認識され、使われていたということになる。しかし、文字ははたして道具にすぎないものだろうか。たしかに道具としての一面をもちながらも、それを超えた領域への豊かな広がりをもつ媒体、それが文字であり、ことばなのだと思う。その裾野の広がりを見きわめようとして、私はことばの稜線のはるかかなたを凝視する。「ことばで世界をつくる」ーーふと気がつくと、そうこころのなかでつぶやいていることがある。この場合の「ことば」とは、話しことばではなく、書きことばとしての文字を意味している。もちろん、自分のことばで世界をつくりだそうというのではない。そんな力は私にはない。そうではなくて、何らかの形でことばによって世界をつくりだそうとしている人々の仕事に強い興味を抱くようになってきた、そういうことである。「グレート・ギャツビー」を繰り返し読んだのも、ことばで人間を、世界をつくるとはどういうことか、それを解く手がかりがここにあるのではないかと感じたからだ。そこにはきわめて限られたことばによって、人間が、状況がみごとに彫琢されている。その謎を知ろうとして、私は何度もあの本に目を通した。ことばによって、文字によって、白い紙の上に、ある輪郭をもった世界をありありと現出させる。そういうことがなぜ可能なのか。それにはどういう意味があるのか。その時、ことばはどのようなものとして機能しているのか。そういうことを考えながら、読みさしの本を閉じ、しばらくの間、ぼんやりと物思いにふけることがある。「ことばで世界をつくる」という時、ふつうに考えれば、「ことば」は道具ないしは手段であり、その目的が「世界」だということになる。しかし、はたしてそうだろうか。その時、つくりあげられた「世界」が、ことばから自立し、独立したものであるとは考えにくい。そこでは「ことば=世界」という等式が成立しており、両者を切り離すことはできないはずである。その時、ことばは道具以外の何物かに変質しているのではないか。ことばを創造的かつ想像的に用いる時、そこにはなんらかの変質が生じる。それはことばそのものの本質に由来したものだ。道具は所有可能なものである。では、ことばを所有することはできるか。自分だけのことばを、箱に閉じ込め、しまい込み、所有することができるだろうか。おそらくそれは不可能だろう。もしできたとしてもそれは文字通りの「死蔵」にすぎない。ことばは必ず他者の理解を必要とするのであり、その理解が行われる時、ことばはすでに個人の手を離れて、他者との共有物となっている。ことばは個人が所有することのかなわぬものなのだ。だから、当然、自分だけのことばを愛するということもできない。ことばは本質的に一般性、通有性をもつものであり、自分だけのことばなどというものは存在しない。存在しないものを愛することはできない。ことばは必ず「他者」の存在を前提とするのであり、ことばへの愛はどこかで必ず他者への愛と回路を通じている。このようなことばの他者性を深く自覚する者だけが、ことばで世界をつくりだすことができる。なぜなら世界もまた他者へと開かれたものだからだ。ことばは古来から他者を支配する道具として機能してきた。また自らを支配し、統御する道具としても機能してきた。人間の内面を支配し、外的世界を支配する道具としても存在しつづけてきた。だが、人間がことばを道具として使いこなしていると思いこむ時、実はことばのほうが人間を支配しているということもしばしば起こってきた。この「支配―被支配」の関係から、ことばを、そして人間を解き放つ手がかりが、「ことばで世界をつくる」という行為の中にあるように私には思えてならない。しかし、どのような理路によってそれが行われるのか、その経緯は今の私にはまだわからない。ことばで世界をつくりだそうとする時、それ以外の目的でことばが使われる時にはけっして現れることのない、ことばのある特性が浮上してくる。それはおそらく自己と他者をつなぎ、人間と世界をつなぐ紐帯としてのことばの本質にもとづくものであるはずだ。今の私にはそういう漠然とした予感があるだけだ。
2007.01.26
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ポール・オースター「幽霊たち」(柴田元幸訳、新潮文庫)を読む。読み終えてまず感心したのは、柴田氏による翻訳のすばらしさである。読み進めながら「いったいここは原文ではどうなってるんだろう?」という疑問を、ついに一度も抱くことはなかった。平明で、正確で、日本語のリズムや呼吸にも周到な配慮がなされた見事な訳文である。私はすっかり感心してしまった。そもそも以前から柴田氏の存在は知っていたし、村上春樹氏との共著「翻訳夜話」(文春新書)で、その卓越した英語力と翻訳の水準の高さは認識していた。内田先生とのトーク・ショーにもおじゃまして、尊顔を拝したことすらある。ただし、私にとっては「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ)の巻末にある彼の短い解説文を読んだことが彼への評価を決定づけた。こちらの読後感とぴたりと重なり、もやもやとした星雲状態だった頭の中に形あるものが現れ、そこに生理的な快感すら覚えたのである。爾来、私は柴田元幸という人を「信用」することにした。まことに口はばったい言い方ではあるが、他に言い方がみつからない。彼の語学力と、日本語の感覚と、文学作品を選択する眼力において、彼に全幅の信頼を置くことにしたのである。信用ということばは、今日軽々しく用いられているが、私としてはこの語にかなりの重みを置いている。「信用を築くには気の遠くなるような時日を要するが、それを失うのは一瞬である」ということをいつも自分に言い聞かせている。信用とは要するに相手を信じる際に根拠を求めないということである。それは論理的判断の世界ではなく、信念の世界に属する。この信憑はよほどのことがない限り揺らぐことはないだろう。しかし、初めて読む作者の文学作品の感想を、翻訳への賛辞から始めるのはあるいは不適切なのかもしれない。だが、読後の率直な第一印象がそうだったのだからしかたがない。少なくとも現代の米文学作品を村上春樹氏にも匹敵するほどの日本語力の持ち主を介して読むことができるというのは幸福なことである。翻訳に際して彼の脳裏に浮かんだであろういくつかの訳例の候補や、そのうちのどれを選択するかという決断や、どこで息を吸い、どこで息を吐くかという呼吸のリズムやタイミングのとり方を想像するだけで、私は十分に楽しい時をすごすことができた。さて、本書の内容だが、あらすじのようなものを書いてもほとんど意味はないだろう。私は読みながら「安部公房」を思い浮かべていた。状況の設定の仕方、非現実的な舞台設定のもたらす奇妙な現実感、なによりも一幕の舞台を観ているような演劇性(柴田氏の解説によると、この作品は作者自身が以前に書いた戯曲を下敷きにしているそうである)など、安部公房の世界に近接する何かを感じた。柴田氏の解説のことばを借りれば、この作品は「何ひとつ起こらない、『どこでもない場所』に迷い込んだ人物が、次第に『誰でもない人間』と化してゆく状況」を描いたものということになる。冒頭部は印象的だ。「まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。」この書き出しを指定して小説コンクールを催したらなかなか面白そうである。それはともかく、主人公はブルー、次に重要な人物はブラック、この二人である。ブルーとブラック。こう並べると、私は「ブルー・ブラック」、すなわち万年筆のインクを連想する。そして、この作品では、「書く」ということ、ことばと世界との関係についてしばしば言及される。設定はきわめて具体的である。固有名詞のようなものはほとんど出てこないが、どのような状況にあるかということはとても具体的にビジュアルに説明されている。だが、具体的な展開はほとんどない。独白と内省と想像といくつかの印象的なエピソードの紹介(それらの多くは主人公が読んだ雑誌の記事にもとづくものだ)に叙述のほとんどが費やされる。そして主人公の想念は、具体的であると同時に抽象的、普遍的である。彼は本来、観念的な人間ではない。とても実務的な人間である。しかし、ある状況が彼に通常の実務の遂行を許さなくなる。彼は行動する自由を奪われ、戸惑い、次第に日頃は考えてもみなかったことを考え、目にとめることもなかったものを凝視するようになる。しかし、彼のその状況はけっして特殊なものではない。比喩的な意味においては、現代に生きるわれわれすべてが何らかの形で彼と状況を共有しているといってもいいだろう。だからこれは決して特殊な話ではなく、一般性と普遍性をもった、われわれの日常にもつながる話なのだ。「幽霊たち」というタイトルは、おぞましい妖怪を指しているのではない。ブルーもブラックもホワイトもある意味では「幽霊」であり、この作品を読む私たちもまた「幽霊」なのである。しからば、幽霊とは何か。それは生の領域と死の領域にまたがって生きる両義的な存在である。彼らは「生きている死者」であり、それは「死んでいる生者」と漸近線を挟んでどこまでも近接している。だから、「幽霊」とはわれわれの生のあり方を映し出す鏡像でもあるのだ。ブルーとブラックは合わせ鏡のように、互いに互いの姿を映し合い、そのどこまでもつづく遠い回廊の奥に自らの存在の核を探ろうとする。しかし、その探究の末にたどりついたのは互いの存在の核心ではなく、バニシング・ポイント(消失点)だった。これはそういうお話である。え、よく意味がわからない?そういえば、最近、読み、観るもののことごとくが感想を述べにくいものばかりだ。自分のことばの領域の臨界点すれすれ、あるいはそれを超えるものばかり、見聞きしているような気がする。これをして充実した生活と呼んでいいものかどうか。私は迷う。まあ、しかし、自足よりは不安、後方確認よりは見切り発車、鈍よりは敏、既知よりは未知、曇天よりは豪雨、慎重よりは無謀、定住よりは放浪、そういう選択をしたいと思っているのはたしかだ。とすると、これは幸せの証しといってもいいのかもしれない。そういう実感はどこにも少しも感じられないのだけれども。
2007.01.24
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温度を計ることはできるが、ぬくもりを計ることはできない。あたたかさはひとりでも感じることができるが、ぬくもりをひとりで感じることはできない。開放された空間では、あたたかさは感じられても、ぬくもりは感じられない。ぬくもりにはある一定の区切られた空間が必要だ。個に閉ざされた空間では、ぬくもりを感じることはできない。個のなかに自閉し、逼塞していては、ぬくもりを味わうことはできない。ぬくもりには何らかの「他者」が必要だ。巨大な空間にアトム化した個人が無秩序に散らばっている状態ではぬくもりは生まれない。かといって、孤立した原子としての個人のなかにぬくもりが宿ることもない。ぬくもりは、異なる原子同士がある一定の比率で結びつき、そこに安定した状態が訪れた時、原子と原子の間に発生するものだ。要するにぬくもりは「分子」によってもたらされる。原子と原子を引きつけ合う力がそこには必要になる。ぬくもりは自立した状態ではない。それはもう一方の極に「冷え」や「凍え」を置くことによってはじめて認識可能となる相対的な感覚である。しかし、ぬくもりは単なる熱の移動とも異なる。一方から一方へと熱が伝導され、移動する時、そこに生じるのは、あたたかいものが冷たくなり、冷たいものがあたたかくなるという双方向の変化だけだ。そこにはまだぬくもりは生まれていない。寒気で冷たくかじかんだ足先があたたかいもうひとつの足先にそっと触れる。じーんとした体熱が少しずつ凍えた体にしみとおっていく。あたたかい足先は、一瞬、体内の熱を奪われたように感じる。しかしそれはあくまでも刹那の出来事だ。移動した熱はやがて相手の体を経由して、こちらへと回帰する。その時、単なる「奪う、奪われる」の関係を超えた新たな「場」がそこに生まれる。そのような「場」にぬくもりは宿る。ひとときの熱の移動の後に訪れる、静かな安定の時、その時が徐々に成熟し、やがてもたらされる果実、それがぬくもりだ。互いの熱が持ち寄られ、混淆し、親和しあい、新たなあたたかみが生まれる。そのようにしてぬくもりが誕生する。そのぬくもりの場は、ふんわりとした一枚の毛布を隔てて、その外にある世界と区切られる。生きものの形をした、こんもりとした毛布の稜線。それがぬくもりの輪郭線だ。静かなぬくもりが、そのひそやかな空間に満ち、やがて甘い眠りが訪れる。からだを浸す静かなぬくもりと、甘くひそやかな眠りは、互いに境界線を溶かしあい、ひとつの夢となって、夜の闇にふんわりと浮かびあがる。ぬくもりは、空間的な限定と、原子間の親和と、「奪い奪われる」関係の超克を通してこの世に現出する。しかし、そこにはもうひとつの限定が加わらざるをえない。それは時間の限定である。ぬくもりというひそやかな生きものの寿命はけっして長くはない。むしろ短命といってもいいくらいだ。眠りはやがて醒め、夜の闇は白み、ぬくもりは朝の冷気にさらされる。しかし、その冷気こそ、ぬくもりを生む大事な核なのだ。雪が大気中の微細な塵を核として、その幾何学模様の結晶を形づくるように、ぬくもりもまた、朝の冷気を核として、その周囲にふんわりとしたやわらかな毛糸を静かにからみつかせ、その玉を少しずつ少しずつ大きなものにしていく。一人ひとりのこころのなかにある氷の核をよりどころとして、やわらかな淡雪が育まれ、その淡雪を互いにもちよって小さな祠(ほこら)が作られる。淡雪をつきかためて作られた小さな祠。これほどぬくもりにふさわしい住み処はないだろう。その小さな雪の祠のなかにともされたあたたかなだいだい色のともしび。それがぬくもりの色だ。いのちあるものは、ぬくもりなしではいきられない。しかし、そのぬくもりにはかぎりがある。いや、かぎりがあるからこそ、そこにぬくもりがやどるのだ。いきものとは、ひとときのぬくもりをもりつけるうつわだ。そのぬくもりをいとおしむきもちから、感情がうまれる。そのぬくもりを見失うとき、理性は死ぬ。ぬくもりはどこまでいっても現象であり、あらわれである。そこには本質というようなものはない。早朝の冷気に思わず目を覚まし、身震いしながら毛布を顎の上まで引き上げる。体の下に毛布をたくしこみ、体を包んで、一匹の大きな毛虫になる。そんな毛虫の頭に浮かんだ、やくたいもない、これは「ぬくもりの現象学」のお話である。
2007.01.23
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「できる」ということばは、「能力があって、何かを行うことが可能である」という時に用いられる。われわれはそう考えている。だから、英語のcanには迷わずに「~できる」という日本語を当てる。これが日本語の「可能」を示す表現だと信じて疑わない。しかし、はたしてそうだろうか。そんなことをふと考えた。たしかに、「車の運転ができる」、「英語ができる」、「逆上がりができる」、「懸垂ができる」という言い方をすることはある。でも、このような場合、純然たる個人の能力の問題というよりも、むしろ一定の修錬、トレーニングを積んだ結果、気がついたら自然にそれらを行うことが可能になっていたという場合が多いのではないだろうか。特定の個人にあらかじめ与えられていた能力というよりも、後天的な努力によってつかみとられたものというニュアンスがここには強く感じとれる。もともと日本語で可能を示す表現といえば、助動詞の「る・らる」が思い浮かぶ。ただし、平安時代の「る・らる」の用法を見てみると、それらが可能の意で用いられる場合には、そのほとんどが否定辞を伴う否定表現となっている。ほとんどの場合、「つゆまどろまれず」(少しも眠られず)とか「ものも言はれず」とか、「~できない」という形でしか使われないのである。これは考えてみるとかなり奇妙な現象である。日本人はもともと「特定の個人が自分に与えられた能力のみを用いて何事かを達成する」ということにあまり関心を払わなかったようである。その証拠に「る・らる」という助動詞も、そのおおもとの意味は「自発」ではないかと考えられている。「自発」とは外国の学習者に伝えることがむずかしそうな意味用法だが、要するに「自然発生的に起こる」ということである。決して「自発的に自分の意志で物事を行う」という意味ではない。むしろその逆だ。なんらかの大きな力が背中を押して、思わず知らず、そちらの方向に来てしまった。たまたまその結果として、なにごとかをなしうるようになった場合に「可能」の意味が派生したと考えられるのである。このような物事のとらえ方は現代の日本人の意識の中にも根強く残っているように思われる(おっと思わず自発表現を使ってしまった)。「いやいや、そんなこと、私にはとてもできません。」という言い方はきわめて日本的な表現である。しかし、これも能力不足を告白しているというよりも、むしろ謙遜表現と受けとるべきだろう。「お前はそんなこともできないのか。」という威圧的な言い方も能力不足を指弾するというよりも、できて当然のことをなぜサポタージュするのかという叱責と考えたほうがいい。これに対して、「私は~ができる」という生きた用例を日常生活で耳にする機会は驚くほど少ない。少なくとも私には用例がうまく思い浮かばない。「僕には彼女を捨てることなんてできないよ」という例文を考えてみよう。ここで問題となっているのははたして「僕」の能力だろうか。そうではないだろう。彼は捨てようと思えば、彼女を捨てることは「できる」のである。でもそんな不人情な、情のないことは人としてすべきではない。そういう人間として本来歩むべき大きな流れに逆らってまでそんなことをするべきではないというニュアンスが、この表現の背後には感じとれる。ここでも「大きな流れの前にたたずむちっぽけな僕」というものが暗黙のうちに前提されているのである。「できる」が可能を示している文例を探すのはなかなかむずかしい。1 「いつのまにか、にきびができちゃった」2 「あの二人、できてんだぜ、ひっひっひ」3 「いやー、うちのガキはできが悪くて」これらはいずれも能力、可能を表現したものではない。むしろ、自生的にそうなってしまったというニュアンスのほうが強い。にきびはこちらの意志とは無関係に勝手に「できちゃった」のであり、あの二人も相互に熱い愛のことばを交わし合うというよりも、飲み会の帰りに「自然発生的に」情を交わしてしまったと考えられる(何の根拠もないが)。3はやや「能力」に近いが、これとて生まれもっての性質がそうなっちゃってていかんともしがたい、という含意が感じられる。いずれも、できたり、できなかったりするのは個人の能力というよりも、小さな人間を呑み込む滔々とした大きな流れ、勢いのなせるわざである、という点では共通している。だから、能力別教育とか、能力差による個人の選別とか、競争社会とか、そういうものは、もともと日本人本来のこころの持ち様にはそぐわないのではないかと思えるのである。(またまた自発表現)たとえば、自由競争にもとづく能力主義社会を作ろうと思うのならば、まっさきにやらなければならないのは、その競争を行うために不可欠な「社会的公正、公平」の実現であるはずだ。しかるに小泉以降の為政者が「社会に公正さを実現しよう」などと唱えたことがあるだろうか。彼らは「こーぞーかいかく」だとか「官から民へ」とか「美しい国へ」とか、意味不明な呪文を唱えているばかりで、公正の実現などには何の関心も払っていない。これも要するに、この呪文にしたがって大きな流れができれば、自分のやりたいことは自ずから叶うと信じているのである。人間の能力なんかよりも、社会全体を巻き込む大きな流れを作っちゃえば勝ちと高をくくっているからこそ、彼らは内容空疎な呪文を唱え続けるのである。社会を動かし、変えるのは個人の能力ではなく、社会全体の大きな流れである。彼らは無意識のうちにそういう行動原理に従っている。しかし、古来から日本人の精神に伏流する大きな流れに身をまかせる心性と、能力主義、自由競争という理念が合体(「野合」というべきか)すると、どういうことがおきるだろうか。そこでは公正や公平や平等を見失った「競争原理」のかけ声が怒号のようにあちこちに響き渡り、誰も彼もがその流れのなかに飛び込み、われ先にと泳ぎを競うことになるだろう。社会的な公正や公平を見失った競争社会というのは、一言でいえば「地獄図」である。競争をしたくてたまらない人間が存在していることは認めるが、彼らには鉄条網で囲った闘犬場か闘牛場のようなものを作って、その枠の中で思い切り「競争」をしてもらうのがいいと思う。公正なレフェリーも、金網も存在しないところで勝手気ままに行われる競争は、競争とはいわない。それは「殺し合い」と呼ぶべきである。私は格闘技を見るのを好むし、バーリートゥードも大好きである。しかし、それは彼らが厳密なボディーチェックを受け、互いに裸でぶつかりあい、厳正なレフリーが試合をコントロールするからである。通りのそこらへんでピストルやら日本刀やらを振り回して行われる無法な殺し合いを鑑賞する趣味を私は持ち合わせていない。個々の人間の能力を軽視し、社会全体の大きな流れに身をまかせるという生き方には大きな危険が伴う。近い歴史においてこの国の人々は、その危うさを身をもって痛切に味わったはずである。その危うさについてはこれからも何度も何度も反復して学びつづける必要があるだろう。その一方で、個人の能力を過大に評価し、社会に能力主義が貫徹しさえすれば、問題はすべて解決するという短絡した考え方もきわめて危険である。少なくともそこに社会全体を見渡すパースペクティブと「公正さ」の理念が存在しなければ、そこは肉食獣の闘争の場と化すだろう。考えられる最悪のシナリオは、この大勢順応主義と能力主義が野合することである。社会全体を視野に入れる姿勢と公正さの欠落した競争主義、能力主義を、大きな社会の趨勢として無自覚に人々が受け入れてしまうことによって、この野合は完成する。そういう危険が日に日に迫っているように思えてならない。はて、私は日本語の可能表現の話をしていたはずなのだが、いつのまにこんな悲憤慷慨調の文章になってしまったのだろう。不思議だ。ともかく、われわれはそういう最悪の流れをくいとめることが「できる」のだろうか。伝統的な日本語の用法にしたがえば、未来はあまり明るいものとは思えなくなってくる。私は事態をあまりにも悲観的に見すぎているのだろうか。
2007.01.21
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デビット・リンチ「マルホランド・ドライブ」を見る。以前、テレビで深夜に放送されたものをビデオで録画して、そのまま忘れてしまっていた。昨日の午後、何気なくビデオの整理をしていて偶然発見し、冒頭部に引かれて見始めるうちに、なんと二時間以上、そのままの姿勢で身じろぎもせず最後まで見てしまった。録画したきっかけは、おそらく村上春樹氏が朝日堂でこの作品に言及されていたからではなかったかと思うが、正直、これほどの映画とは思わなかった。見終わった後、魂が抜かれてしまったような気がしたほどである。だが、これほどことばで説明するのがむずかしい映画もない。見ている時も、見終わった後も、いやおうなく強烈に画面に引きつけられ、その印象は今も鮮明なのだが、見ている最中にはほとんど頭の中に「ことば」が浮かんでこなかった。ある種の失語状態といってもいいくらいだ。感動的な映画を見たときには、印象的な場面で、ことばの切れ端が頭のなかに浮かび、それらをパッチワークのようにつなぎ合わせて感想文を書くことが可能なのだが、この作品に関しては、まったくそれができない。素材となるべきことばの断片そのものが存在しないのに、パッチワークを作ることはできないのだ。あらためて考えてみると、この作品のどこにもゆるみやたるみがないことに気づく。それなのに、どういう作品であったかをうまくいうことができない。これは不思議な現象である。わけがわからない作品ならば、ゆるみやたるみがないなどということはありえないし、なによりも二時間以上にわたって集中して見ることができるわけがない。また、どこにも傷もゆるみもない完璧ともいうべき作品ならば、それを形容することばはいくらでも出てくるはずである。しかし、ゆるみもたるみもどこにもないにもかかわらず、一言でどういう作品であったかを言い表すことができない。「マルホランド・ドライブ」とはそういう作品なのである。というようなことを書いてもさっぱりなにがなんだかわかりませんよね。なんとかことばのきれっぱしをかき集めて、見終わった感じを少しでもことばの形にしたいと思います。文学作品において、作品の内容よりも、むしろその文体に引かれる場合がある。もちろん作品の内容と文体とを分離することは不可能であり、両者はひとつの作品の中に切り離しがたい形で融合しているのだが、その作品世界への吸引力が、ストーリー展開に多くを負うのか、文体そのものに多くを負うのかという違いはあるように思う。たとえば村上春樹氏の長編小説の場合、私はまずその文章の手ざわりの確かさに引かれ、一文一文をていねいに確かめ、吟味するうちに、いつのまにか彼の作品世界の中へ引き込まれているのに気づくことが多い。彼の文体は、けっして特異なものではない。むしろ律儀なほど、きちきちと時系列に即して、ていねいに、きめ細やかに、ときには平板と思われるほどに平明にことばが積み重ねられていく。しかし、その文体に導かれてたどりついた世界でふとあたりを見回すと、そこには現実の秩序や時系列を超えた不思議な風景が満ち満ちている。ことばとそれが作り出す世界とのこのへだたりの大きさに、彼の作品の魅力が存在しているように思える。彼はけっして幻想的なことばづかいをしないにもかかわらず、いや、むしろそういうことばづかいをしないからこそ、きわめてリアリティのある幻視の世界を読者の意識のうちに構築することができるのだ。話を「マルホランド・ドライブ」に戻せば、リンチ監督は、ことばではなく、ひとつひとつの映像、あるいはその映像の連鎖によって、見るものの目をいやおうなく引きつけ、作品世界の中へ引き入れる、そういう力の持ち主だと思う。そして、その映像にはほとんどことばが介在していない。映像だけで、絵だけで、ほとんど自立している。彼の作品を観る者がきわめて強い吸引力をその映像に感じるのは、おそらくその映像がわれわれのこころの奥深くにある無意識と強く結びついているからだと思う。といっても、これは単なる直感であり、何も根拠はない。ただ、瞬間的な映像や、ひとつながりのエピソードが、一瞬にしてわれわれの精神の奥深くに食い込み、有無をいわせず、ぐいぐいとその作品世界に引きずりこむのを体感すると、そうとでも思わなければ説明がつかないのである。そういう否応のない、観る者を抵抗不能に陥れる力を、デビット・リンチ作品の映像はもっている。もちろんこれは実験映画ではなく、芸術映画(こういう言い方が妥当かどうかわからないが)でもない。ある種のエンターテインメント映画として観る者に「ああ、面白かった」と思わせる力をもった映画なのである。ただし、普通の映画と違うのは、「何が面白かったのか」を説明することがほとんど不可能だということである。サスペンスやある種の謎解きに近い要素が作品の中に含まれているのはたしかだ。謎が提示され、その謎を解く方向に観客を引っぱっていくのも事実である。そこには50年代、60年代、いやもっと映画の歴史をさかのぼった映像的文法とでも呼ぶべきものがたしかに踏まえられている。だが、彼の映画については、その謎は最後まで解けないで終わる。そもそも何が謎だったのかがわからなくなるような混迷の中に観客は置いてけぼりにされる。そして、その謎が解けない理由を観客はどうしても映画のせいにできないような心理的状態に置かれる。この作品を観ている自分の側に何か問題があるのではないか。そういう気にさせられてしまうのである。だから、一通り作品を見終わった後に、満足感のようなものはほとんど感じられず、何かとても落ちつかない気持ちにさせられる。そして、どうしていいかわからずに、もう一度、作品を冒頭から見直すことになる。彼の映像がある種の魅力的な「文体」として機能する理由のひとつは、そのカメラワークにもありそうだ。彼の画像はほとんど固定していない。それは上下左右に微妙に揺れ動きながら、外界をとらえる。ちょうど道を歩くわれわれの頭にカメラを載せて撮った映像がそうであるように、それは歩行とともに細かく上下動し、自分の関心に応じて移動する。その微妙な動きがきわめて「リアル」であり、観る者の眼の動きとほとんど同化してしまう。彼の映像から目が離せなくなる理由のひとつはそこにもあるのではないだろうか。これはきわめて個人的な感想にすぎないが、この「マルホランド・ドライブ」という映画には、現実と虚構、その間に横たわるリアリティの問題が示されているように思う。そして、それは「映画」という媒体そのものの本質にある問題でもある。「マルホランド・ドライブ」は「夢のような映画」ではない。むしろ「夢に出てくるような映画」である。いつのまにか、その映像が、エイリアンのように見る者の体内に食い入って、その夢の世界にまで浸食してくるような、そういう映画である。その映像には驚くべき新鮮さと同時に、不思議な懐かしさがただよっている。とても不思議な映画であり、映像作品である。見終わった後も、まだ呪縛が解けていないようだ。ことばがまったく動いてくれない。くやしいなあ。でも、しょうがない、暇な時にもう一度見直すことにするか。ことばを仲立ちとしない、映像そのものの力を体感したいという方にはおすすめできる映画である。もちろんことばを仲立ちとしない以上、「わからない」ことに耐える力も少なからず求められるわけだけれども。そして、フェリーニ作品のお好きな方にもおすすめできると思う。いくつかの場面で、私は思わず小さな声で「フェリーニ」とつぶやいてしまった。そのつぶやきは私としては最高の賛辞なのである。とにもかくにも、不思議な魅力に満ちあふれた映画ではありました。
2007.01.20
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「彼は教えようとした。だから私は学ばなかった。 彼は教えようとしなかった。だから私は学んだ。」どこで読んだのか定かではないが、吉本隆明氏が数学者の遠山啓(ひらく)氏へあてて書いた追悼文の一節である。「リベラル」や「知識人」ということばに、人々がまだ一片の夢や希望を託すことができた時代。その時代の代表的な知識人の一人が遠山啓だった。数学の世界における彼の業績について私はなにひとつ言うことができない。しかし、専門知を超えた地点で、その構想の高さによってわれわれにその偉大さを感じさせる、そういう知識人がかつてこの国にも存在していたのである。今となってはすでに追憶の対象でしかないが、私は高校生の頃、遠山氏の「文化としての数学」という薄黄色い表紙の文庫本を手もとに置いていたことを思い出す。私は人に教わることが苦手である。だから、学校も嫌いだった。なぜ学ぶのかという理由もわからぬままに、何ごとかを教えられるということほど苦痛を感じることはない。今思うと、私は理由も知らずに、与えられる「学び」を嬉々として受け入れる同年代の人間の存在に耐えられなかったのかもしれない。とにかく知りたいことがあったら、本屋か図書館へ行って勝手に調べるから、オレのことはほっといてくれ。高校を卒業するまでずっとそう思っていた。当然、教師も嫌いだった。他人にものを教えることが好きな人間というのは、他人の顔に吐瀉物を浴びせかけるのが好きな人間と同類だと思っていたし、正直なところ、今でもどこかでそう思っている節がある。教える側からすると、ずいぶんと扱いにくい生徒だったにちがいない。教師を尊敬したり、私淑したりというようなことは当時の自分には想像もできないことだった。中学校の3年生の頃だったろうか、技術家庭にSという先生がいた。背が低く、顔は真ん丸で血色がよく、薄くなったおでこのあたりがワックスで磨いたようにつやつやと光り輝いていた。その小さな体からエネルギーが周囲に自ずと放散されるような、そういうタイプの先生だった。もともと「技術」の先生というのは他の教科の先生とは若干肌合いを異にする人が多い。実務家というか、技術者というか、大工道具や工具をもたせると、にわかに精彩を放って輝きだすような、そういうタイプが多かったように思う。ある日の「技術」の授業のこと。われわれは薄いブリキ板を使ってめいめいに「ちりとり」を作る作業を行っていた。一班は四名で構成され、私は班長だった。所定の工程を終え、続きはまた来週ということになり、作業を終えたわれわれは、周囲に飛び散った金属のかけらを拾い集め、使用した工具を元の位置に戻して点検し、整理整頓を行っていた。すると気の弱い、青白い顔をしたMが泣きそうな顔をして、私にそっと耳打ちをする。金属板の厚みを計測する工具がどうしても見つからないというのだ。私はみんなに命じて、もう一度作業台の周囲をくまなく探すようにいった。床にはいつくばって隅から隅まで探したのだが、どうしてもその工具はみつからなかった。「どうしよう」Mはもう半べそをかいている。S先生は明朗闊達で豪快な人だったが、怒ると怖いことでも知られていた。中学校で番長格の札付きの生徒もS先生に一度、拳で殴られて以来、頭が上がらないというもっぱらの噂だった。「しょうがないじゃないか。工具が揃っているかどうか、先生に報告しないといけないんだから、ごまかしはきかない。正直になくしたというしかないよ。」私はそういったが、Mはおろおろしている。「そんなこと、いえないよ」そうこうするうちに、私の班が作業終了の報告をする番が回ってきた。「三班の班長、前へ」私は、前に出る。「工具の数は点検したか」「はい、しました。」「異常はないか」「いえ、○○という工具がひとつ足りません」「なに、ちゃんと探したのか」「みんなで手分けして探しましたが、どうしてもみつかりません」S先生は私をじっとにらんだ。「誰がなくしたか、わかるか」「わかりません」「じゃあ、誰の責任だ」「私です」「よし、よくいった。」以前にもその授業で誰かが工具をなくしたことがある。日頃からあまり素行のよくない生徒だった。S先生は問答無用で黒板拭きを手にとり、頭をぽかりとやった。彼は先生に叩かれることには慣れっこになっており、殴られた頭をぽりぽりと掻きながら、自分の席に戻っていった。S先生は時折生徒を素手や黒板拭きで軽く叩くことがあった。だが、たいていの場合、生活態度がだらしないとか、ことばづかいが悪いとか、そういう生徒ばかりであり、叩かれる側からしてみれば、その程度の罰はあいさつのようなものだったように思う。だが私はその時、学級委員をしていた。三年上の兄が優等生だったということもあり、小学校一年から中学校三年まで級長選挙ではなぜかいつも名前が挙がり、選挙で選ばれることが多かった。いやでいやでしかたなかったが、拒否する方法が思いつかず、いやいやその役回りをこなしていた。先生に頭を殴られたという経験はそれまでに一度もなかった。周りにいる生徒は私とS先生をじっと見つめていた。彼らがごくっとつばを呑み込む音が聞こえるようだ。S先生の目にも少し迷いが見える。私の班の四人のうち、Mがさっきからおろおろしていることに先生が気づかないはずはない。「○○」「はい」「こっちへこい」私は先生のほうへ近づいていく。私自身はその時、とくに何も考えてはいなかった。あまり何も考える余地のない状況である。でも、そういう状況をこれまで一度も経験したことがないということはどこかで感じていた。先生は明らかに殴りたくなさそうな顔をしている。まわりの生徒は「あいつが殴られるのか」という顔をして固唾をのんでいる。私は先生の目の前にやってきた。「○○」「はい」「頭を下げろ」やがて、ぱこーんという乾いた軽い音を立てて、私は黒板ふきの裏側で頭を叩かれた。春の陽射しが深く差し込む工作室の中に、白や黄や赤のチョークの粉がふわふわとただよう。「○○、なぜ叩かれたかわかるか」「はい、わかります」「そうか、わかるか」「ありがとうございました」「よし、もどっていい」その後、先生は連帯責任の話を少しだけしたのではないかと思う。でもその内容はよく覚えていない。私はその時、なぜか爽やかな気分だった。よく理由はわからないのだが、とてもすっきりした気持ちだった。S先生は直前まで迷っていたように思う。なんとか殴らずにすます手だてはないか。そう考えていたように思う。でも、次の瞬間、先生はこう自問した。「なぜこいつだけ特別扱いするんだ」。そして、特別扱いをしようとした自分の気持ちを先生は黒板拭きでぴしりと叩いた。黒板ふきが自分の頭に当たる瞬間、なぜか私はその経緯を一瞬にして了解し、納得した。だから、叩かれた理由はよくわかったのである。そしてとてもすっきりした気持ちになった。特定の生徒に対する一瞬の逡巡を自ら叩いた先生の判断は正しいと思った。なんだか自分がやっと一人前に扱われたような気がして、正直うれしかった。だから「ありがとうございました」ということばはすなおに出た。私が叩かれた話はしばらくの間、他のクラスで小さな話題になったらしい。でも、そんな些細な話はすぐに忘れられ、消えてしまう。それから、職員室でS先生を見かけると小さく頭を下げるようになった。先生は最初は少し決まり悪そうだったが、それから少しずつ自分の戦争中の思い出話などをしてくれるようになった。S先生は生徒に何も教えようとしなかったわけではない。彼は人間の生き方の基本について授業中よく語っていたように思う。でも残念ながら、その内容はまったく記憶に残っていない。ただあの時、一瞬だけ、彼は教えることを忘れた。そして、その一瞬に、私は何ごとかを学びとった。私はその時、何を学んだか?教えようとする時には伝わらず、教えようとしない時にだけ伝わる何か。おそらく私は「それ」を学んだのだと思う。
2007.01.17
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正月に帰省した折り,ようやく日も暮れようとする頃、ふと気がつくと母親の姿が見えない。ガラス戸を開けて外の様子をうかがうと、遠くでぱちぱちと火の粉のはぜる音がかすかに聞こえる。そのまま庭履きのサンダルをつっかけ、その音のする方へと歩いていく。「なんばしようと、正月から」「暮れの贈りもんやらなんやらで、空き箱のたまったけん、ちょっとだけ燃やしようと。この頃は灰の飛んでくるやら、ダイオキシンやらなんやらで庭でゴミば燃やしちゃいかんごとなっとうとやけど、今日はお隣さんも留守やし、ちょっとだけ燃やさせてもらおうと思って」そういえば、家のはずれのこの場所は、昔からわが家の「ゴミ燃やし」の定位置であった。家のゴミの大半はここで燃され、ゴミ回収に出されるのは純然たる台所の生ゴミだけ。2,3日分の生ゴミといっても、スーパーの中くらいのポリ袋に十分収まるくらいの分量だった。それ以外の紙くずはすべてこの場所で焼却処分され、その灰は周囲の畑にまかれて野菜類の肥料として再利用されていた。ゴミ燃やし担当は兄だった。彼は何事によらず、あまり執着心をみせないタイプだったが、ことゴミ燃やしに関してだけはほとんど宗教的使命感すら感じさせるほどの情熱をもって業務に当たっていた。ゴミ山の築き方から、点火ポイントの確定、炎の管理、追加するゴミの配分とその適切な挿入箇所の探索、焼却作業の見届けまで一貫して行い、他者の容喙を許さなかった。当然、私もあまり口出しはできなかったが、たまにやってみると、このゴミ燃やしという作業は意外に奥が深く、興趣が尽きないものだった。私は母親に代わって、ひさしぶりにゴミの焼却を最後まで見届けることにした。先の曲がった鉄の棒を片手に炎が途中で消えないように、少しずつ内部に空気を送り込み、完全燃焼できるように細心の注意を払う。炎の中心部には真っ赤な「おき」があり、時折吹きつける風につれて、まるで生き物のように、あるいは心臓のように、赤みを増したり、灰色に青ざめたりという消長を繰り返す。考えてみると、このような「生きた」炎を見るのはひさしぶりだ。均一に整えられたガスバーナーの青い火しか日常生活では目にしていない。私は久方ぶりに「生身」の炎を目にし、その動きに強く引きつけられた。激しく火が燃えさかっている時にはそれほど強い興趣は感じない。それは単なる燃焼にすぎず、盛んに燃えさかる火があたりに飛ばないように気をつけるだけのことで、それを見ながら物思いにふけるというような余裕はない。興味深いのは炎の勢いが徐々に弱まり、やがて消えるか消えないかという段階に達した時である。火の勢いは弱まり、ゆらめく炎が周囲の燃えかすから出る白い煙に包まれて、一時的に火が消える瞬間がある。折良く、そこに風が吹きつければ、炎は再び生き返るのだが、風がないとぶすぶすとくすぶりながら、白い煙に覆われて鎮火してしまう。燃え残るのを防ぐために、こちらが「ぷー」と火の中心部に向かって息を吹きかけると、人工呼吸が功を奏し、炎はふたたび息を吹き返す。しかし、それを繰り返すうちに中心部の鼓動は徐々に弱まり、ついには最後のオレンジ色の明かりも消え、薄く軽い灰の山だけが後に残る。かすかに漂うぬくもりを除いては、炎の記憶はどこにも見られない。その一部始終を見ていると、ひとつの事物が与えられた使命を終え、静かに息を引きとる場に立ち会ったような気持ちになる。生命活動の静かな終焉。そういう感慨がこころをかすめる。思えば、われわれ生命体も体内で緩やかな燃焼を営むことによって生のエネルギーを得ているのであり、程度の差はあれ、生命活動はすべて「燃焼」だということもできる。だから、何かが燃えるさまを見て生命活動を連想することにはなんの不思議もないし、むしろそれは同じひとつの現象のふたつの異なる現れ方とみることもできる。日常生活から日に日に「死」が隠蔽されていくように思える。大家族での暮らしが一般的だった頃には、年長者の死は日常生活の延長線上にあり、多くの子どもは自分とは一世代の隔たりをはさんだ、祖父、祖母世代の死に遭遇することを通して「死」と出会い、その意味を考え、その受容の方法を知った。だが、核家族化の進行に伴い、もはや自分の家の内部で、生活の一部として、人間の死に向き合う機会はごく稀なものとなってしまった。病院という非日常的な空間で遭遇する死は、日常の延長線上に位置する「死」とは異なる。病を得た時点で病人は日常性とは切り離された場所に隔離され、その非日常的な空間でやがて「死」を迎える。そこで味わう喪失感は日常とは分離した地点でもたらされたものと感じられる。かつては生活の一部をなしていた身の回りの自然も徐々にその姿を消していき、小動物の死に出会う機会もめっきり減った。小動物にとどまらず、われわれは事物の「死」からも周到に遠ざけられているように思える。今では、ムダなもの、不用なものは、そのままの姿で半透明のゴミ袋に詰め込まれ、口をくくられ、戸外のゴミ集積場に無雑作に積み上げられる。やがて回収車が来て、それをどこかへと運び去っていく。この過程のどこにも「誕生」も「死」も存在しない。廃棄物は原形をとどめたままで、なんらの質的変化も遂げることなく、そのままの姿でいずこかへ連れ去られる。その行く末がどこであるのか、われわれは知らないし、また知ろうともしない。かつてゴミを自宅で燃やしていた時には、役目を果たし終えた事物の死と消滅を直接、体感することができた。特定の物へと形を変えたさまざまな事物は、火をつけられることによって、その形をとる以前の原始の生命へと戻り、その律動や呼吸をひとときの間、炎の形で表わしながら、自らの葬送の儀式に彩りを添えた。やがて太古の踊りも徐々に弱まり、その鼓動も聞きとれるか聞きとれないかというほどかすかなものとなる。風や人の息の助けを借りながら、かろうじて命脈を保っていた炎もついには最期の時を迎える。ふと何かを思いついたように、忽然として最後の炎が姿を消し、後には蒼白い灰だけが残り、白い煙があたり一面に漂う。そしてその灰はやがて大地へと帰っていく。この一連の過程はすべての生命活動に通ずるものだ。やがてはわれわれも何らかの目的を果たし、身内に灯された炎が徐々にその勢いを失っていくのを感じながら、他者の助力を得てかろうじてその炎を維持し、やがて、最後のひと息を吐き終え、青白い抜け殻だけを残して静かに大地へと帰っていく。われわれがぱちぱちと火の粉をあげて燃え盛る焚き火からしばしば目が離せなくなるのは、そこに自らの生命の消長を見るからなのである。身近な空間から「生きた炎」が消え去ってしまった。われわれは自らの生命の軌跡を想起させてくれる貴重なアナロジーの手がかりを失ってしまった。その時、いったいなにが起こるだろうか。まず人間が「モノ」と見なされるようになり、その価値は有用性で計られるようになる。他人だけでなく、自己に対しても「その存在がどれだけ有用であるか」という基準で評価が行われる。有用性が確認できるうちはまだいいが、徐々にその有用性が減じていくにしたがって、他人の、そして自分の価値は減衰していく。やがて一定の水準を下回った時点で、それらは「廃棄物」となる。不要なゴミとなる。たとえ、それが家族であっても、配偶者であっても、ひいては自分自身であったとしても基本的には同じことである。不要なゴミは処分しなければならない。有用性はある日突然失われ、そのモノはゴミという宣告を受ける。その時点でそのモノにはなんらの存在価値もなくなる。それらは生命装置のスイッチを切られ、ゴミ袋に入れやすい形に寸断され、半透明の袋に押し込まれ、口をしっかりとくくられる。そして、週に二回訪れる燃えるゴミの日に集積場へと出される(それが「燃えるゴミ」として扱われるのは、生命活動が燃焼であったことの遠い記憶にもとづくものである)。そして、どこかへ運ばれていく。どこへ行くのかは、捨てた人間にはどうでもいいことである。とにかく自分の目の前から不快な「ゴミ」が消え去ってくれれば、それで十分なのだ。不要なモノは消えてゆくのみ。そこにはどのような感慨も存在しない。連日報道される殺人、死体遺棄のニュースを目にし、耳にしながら、私はその事件のどこにも「炎」の赤みを感じることができない。マスコミの扇情的な報道にもかかわらず、そこには「熱」も「炎」もなく、あるのは冷ややかなゴミ集積場の風景だけだ。われわれは生命活動の中核にある生命の炎を見失うことで、人間そのものを、そして生命そのものを見失ってしまったのかもしれない。白い煙がうっすらとたなびく灰の山を眺めていた正月の夕暮れを、私はぼんやりと思い出していた。
2007.01.15
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「内部の内部は外部である」という風変わりなタイトルの小文を読んだ。著者は以前にも紹介したことがある分子生物学者の福岡伸一氏。講談社のPR誌「本」の07年1月号に掲載されている。科学的な読み物の多くは、いわゆる啓蒙書や一般的説明書の体裁をとる。それらのライターは専門的な知識をわれわれの胃袋が消化、吸収できるようにやわらかくほぐして提供してくれる。それ自体は意味のある仕事だし、時にはそこから貴重な示唆や教示を受けることもある。ただ惜しむらくは、彼らの多くはいわゆるトーナメント・プロではなく、レッスン・プロである。研究の最前線で戦う当事者というよりも、むしろ従軍記者に近いスタンスで前線の様子をわれわれにレポートしてくれる。そのことに読み手は(少なくとも私は)少しだけ欲求不満を感じる。本当の最前線にいけば、もっとラディカルなもの、われわれの日常の風景を根底から変えてしまう発想や仮説があるいは存在しているのかもしれない。そう思うことがある。しかし、最前線の研究者としての能力と、その内容を一般向けに明快に伝える表現力を同時に兼ね備えることはむずかしい。まして単なる文章化ではなく、その問題が一般社会に与える意義や可能性まで示唆するような喚起力のある文章の書き手を捜すとなると、絶望的に困難な作業になってしまうだろう。だが、私は現時点でそういう文章を書く可能性をもった書き手をひとりだけ挙げることができる。それが福岡伸一氏である。今回の彼の文章は、それ自体きわめて興味深い内容を含むと同時に、単なる生命現象の説明を超えた、示唆的、暗示的なメタファーをも伝えるものとして強く印象に残った。かいつまんで、この文章の内容を紹介しよう。これは膵臓細胞の話である。膵臓は消化酵素やホルモンを消化管や血中に送り出す臓器である。膵臓細胞の内部で作られた酵素やホルモンは、細胞の外部へと送り出される。これは単純な作用に見えるが、実はきわめて複雑、かつ危険な作業である。生物の細胞は細胞膜という防御壁によってシールドされている。この壁によって内部世界を作り、その中で恒常性を保つことにより、円滑な生命活動を行うことが可能になる。だが、細胞の内部から外部へと物質を移動させる時には、どうしてもこの防御壁の一部を開かなければならない。たとえ一瞬であっても、その時に外部世界から異物が一気に混入してくるおそれがある。その結果、生命活動が損なわれる危険が常につきまとう。この危険性がぴんとこない方は台所から出刃包丁をもってきて自分の腹にぶすりと刺すとよくわかる(よいこのみんなはまねしないようにしましょう)。外部から守ってくれている障壁に穴を開けることはとても危険なことなのである。まず、このことを確認しておきたい。でも、だからといって、外部から完全に遮断された状態では生命体は生きてはいけない。外部の物質を取り込み、それを代謝作用によって同化しなければ、生命活動は維持できない。扉を開くのは危険だが、生きるためにはどうしてもその扉を開かなければならない。このむずかしい問題を生命体は不可避的に抱えていることになる。この困難な問題を生物はどのように解決したか。それに対するひとつの回答がこの小文に示されている。その根本原理が冒頭に挙げた「内部の内部は外部である」ということなのである。細胞の内部にはタンパク質合成などを行う小胞体と呼ばれる器官がある。その表面にはリボゾームが付着しており、ここでタンパク質の合成が行われる。合成されたタンパク質は小胞体の表面から、その内部へと移動する。その瞬間、実は細胞の内部から外部への放出が準備されるのである。ちょっと待った、という声がどこからか聞こえてきそうである。それはおかしい。細胞の中に小胞体がある。小胞体の表面で作られた物質がさらにその内部にもぐりこむということは、その物質がさらに細胞の内部に移動するということである。それがなぜ外部への放出の準備となるのか。おっしゃることはまことにごもっともである。でももう少しだけ話の続きを聞いてほしい。福岡氏はこのプロセスを風船の比喩を使って巧みに説明する。小胞体はもともと次のような過程を経て生まれた器官である。いま、目の前に一個の風船があるとする。これが細胞である。この風船の表面をにぎりこぶしでぐーと中心部に向かって押す。そうすると、こぶしは内部に向かって陥没していく。その陥没がある程度の大きさに達したところでこぶしを抜き、陥没のはじまっている部分を内側から紐でぎゅっとくくる。そうすると、大きな風船の中に小さな風船ができる。このようにしてうまれた小さな風船が小胞体なのである。つまり、この小胞体の内部は、もとをたどれば大きな風船の外部だったことになる。表面が陥没してもうひとつの風船が出来たのだから、その小さな風船の内部はもとは外部だったというわけである。ちょっとややこしいが、わかっていただけただろうか。これが「内部の内部は外部である」ということなのである。一応わかったけど、それがいったいどうしたんだよ、といわれそうである。もうちょっとがまんしてくださいね。今から細胞膜の内部から外部への物質移動のマジックをお見せします。さあ、小胞体の表面で作られたタンパク質、この場合は消化酵素ですが、それが小胞体の内部にもぐりこむ。やがて、その小胞体自体が徐々に細胞(風船)の外周部に向かって移動を始める。ついに小胞体は細胞の内壁にぺとりと貼り付き、そこで癒着する。その癒着面に小さな穴を開ける。さっきのにぎりこぶしを風船に押し込んだ動きとは逆回しの運動をイメージしてもらえるといい。そうすると、癒着した部分に空いた穴から小胞体はその内側の膜を細胞の外部に向かってべろんとさらしだすことになる。まるでたんこぶのように。当然、この時、小胞体の内部にたまっていたタンパク質は外部に放出される。こうして細胞内の物質は外部に移動するのである。なんという精妙な機構だろう。でもこうすることによって、生命体は細胞膜を直接開閉することなく、外部から異物が一気に流入する危険を防ぎながら、内外の物質の移動を行うことができるのである。万一、事故が起こったとしても、その影響は小胞体の内部にとどまり、細胞全体がダメージを受けることはない。この一連のプロセスを福岡氏は「内部の内部は外部である」という表現で要約する。「異文化の受容と寛容」、「国際化の必要性」。これらはよく取りあげられるテーマである。また、その過程で固有文化のアイデンティティが危機にさらされるという問題もしばしば論じられる。これは要するに、外部的な要素をどのように内部に取りいれるか、その際に生じる秩序の揺らぎをどのようにして最小限のものにするか。そういう問題だろう。そして、論じられることが多いわりには、異文化受容のあり方や、固有文化との軋轢はいっこうに解決していないように見える。異文化との交流という時に、われわれは目を外部にのみ向けてはこなかっただろうか。しかし、「内部の内部は外部」なのである。外部との扉を開け放つことが唯一の連絡経路ではない。むしろ目を内側に転じ、われわれの内部に周囲とはやや異質な肌触りをもった集団、コロニーを形成する。つまり、内部の中にもうひとつの小さな内部を作ることによって、外部との経路を発見することが可能になるのではないだろうか。均質ののっぺらぼうの集団には、集団内集団は存在しない。それは巨大な原核動物のようなものである。この集団は原始的な衝動に突き動かされ、個体維持の本能のみに従って行動することしかできない。しかし、この均質性の中にある程度の異質な要素を寄せ集めて、周囲とは弁別可能な一定の大きさのコロニーを作る。そして、その内部に様々な価値や思想、行動をためこむ。そのコロニーが一定の自立性をもつようになったら、それをその国の周縁にあたる部分に移動させる。そして外部世界とそのコロニーとの接点を探る。もしも接点が見つかったら、そこで両者を融合し、コロニーの内部に蓄積された思想を外部世界に放出し、また外部的な価値をコロニーの内部に取りいれる。「内部内内部」を媒介として内部と外部を連絡すること、両者の交流、移動、交通を可能にすること。そういう文化理解のモデルを膵臓細胞はわれわれに教えてくれているのではないか。目を外部のみに向けるな。むしろ内部に向けろ。そして、均質に見える内部社会に周囲とは異なる価値によって動く集団を作れ。それはやがて「内部の内部」的組織となり、それが、そのまま外部世界へと通じる回路を開いてくれるのだ。私の耳には膵臓細胞の小胞体がそうささやく声がかすかに聞こえるのである。
2007.01.12
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今年の仕事が始まってまだ数日なのに、あれよあれよという間に手帳のスケジュールが埋まっていく。高速でジクソーパズルをやっているように、陸上競技のアスリートが椅子取り合戦をやっているように、次から次へと空白がなくなっていく。あのねー、といっても誰も聞いてはくれない。しかたないので、わずかに空いた一日を使って、来年度の一学期のテキストを編集する。国公立の現代文のテキストである。これでもかというくらい密度の濃い、脳細胞をちくちくと刺激する文章を使った入試問題をセレクトし、頭のなかで高速度で解いていく。「うーん、これはちょっと詰めが甘いな」とか、「答えだぶっちゃうじゃないか、見苦しい」とか、「問い方がまだるっこしくて、答えがみえねえんだよ」とかぶつぶつつぶやきながら。そうして、こちらの頭のなかの濾過装置を無事くぐり抜けたものだけを素材として選び出し、一学期という時間の流れをイメージしながら、それらを配列し、ひとつながりの交響曲を作っていく。あまり経験された方はおられないだろうが、これはこれでなかなか面白い作業なのである。でも一日集中してこの作業を続けるとさすがに疲れる。へとへとになって、帰りの電車に乗る。乗り換えの駅で降り、階段を下りて一番向こうのホームへ歩いていると、体がなぜか勝手に改札口のほうに動き出す。「おい、おい、オレは疲れてるんだよ、寄り道なんかしてる余裕はないよ」そう自分の体に言い聞かせるのだが、体は言うことを聞かない。こういう場合、考えられるのは次の三つのケースである。1 ブックオフの105円コーナーにとんでもない稀少本がある2 日頃は手に入らない垂涎の日本酒がお一人様一本限りで店頭に並んでいる3 ずっと探していた中古のCDが入荷しているまあ、だいたいこんなところだ。こういう場合、まったく何の根拠も前兆もなく、体が勝手に動き出し、店に入って所定の場所に行くと、こちらが望んでいたものがまったく当たり前のように所定の位置に鎮座している。なんだかうれしいというよりも、あっけなくてすこし悔しいような気がするくらいだ。「なんだよ、さんざん苦労させておいて、そんなにあっさり手に入れられるんじゃねーよ」という感じである。何事であれ、中古品あさりをされた経験のある方ならばわかってもらえるのではないかと思うのだが、この愛憎半ばする瞬間がコレクターにはあるのである。その「からだ勝手動き」がよりによって疲労困憊している今日の帰りにやってきた。「いいよ、きょうは、またこんどで。それにこの駅はブックオフも酒屋も中古CD屋もないじゃないか、いったいどこにいくんだよ。」私は自分の体の意図するところをはかりかねる。ブックオフはしょっちゅう行ってるし、本は部屋に山積みになってるし、酒はまだ風邪が治りきらないのであまり飲めないし、風味もわからない。とすると、後は音楽だけだ。音楽、音楽と。ああ、そういえば、去年の年末にラジオで気になる曲をふたつばかり聴いた。ひとつは、TBSラジオで宮崎哲弥が推薦していた曲だ。あの年末恒例の、私がごきぶりよりも30倍くらい嫌いな、M台S司といっしょにやってたJポップ批評の回で「お気に入り」としてかかった曲だ。そんなに嫌いなら聴かなければいいのにと思われるだろうが、なぜか所々聴いてしまうのである。もちろんM台先生のご卓説になったところでボリュームを絞るからせわしないのだが、風呂に入りながらその曲を聴いて、痛く感動してしまった。思わず風呂から上がって曲名をメモに書き留めたほどである。次は年始のこと。これも同じ局のラジオの(私は原則としてこのラジオ局の番組とNHKの演芸番組しか聴かないのだ)朝のニュース番組で解説者の一人が推薦した曲だ。なんとバッハのゴールドベルク変奏曲!しかもそのテーマの数音を聴いただけでAMラジオであるにもかかわらず、その音の美しさと演奏の新鮮さに魅了された。たしかマルティン・スタットフェルトとかいうピアニストだった。あれはすごかったなあ。聴いたのはほんの数十秒か一分程度だったが、強い衝撃を受けた。日頃、音楽番組などまず聴かないので、こういう経験はひさしぶりだ。このふたつのうち、どっちかだな。いったいどっちなんだろう。そう思って、駅の改札を出る。真正面にレンタルビデオ&CD屋がある。そうか、中古じゃなくて、レンタルしろってことか。でも、入って人気のないほうに行くと、中古販売というコーナーがある。ほんの小さなコーナーだ。棚にして1~2段。いくらなんでもこんなとこにあるわけないよ。はじめのほうのやつはシングルで出てるということで買ってもいいかなって思ったけど、でも一曲のために千円払うのもなあ、と思ってためらっていたのである。最近の曲だし、まだ中古盤はないだろうと思いながら、一番下の段だったので、よっこらしょっとしゃがみこんで覗きこむ。えっと、あれ、あった。この曲だ。たった一枚、それ以外のものから離れてぽつんとシングル盤が置いてある。しかも一枚しかない。値段は、と。100円か。おい、おい、こんなことってあるかよ。なんだかくやしいなあ。そう思って、ゴールドベルク変奏曲も探したがこれはなし。それ以外に借りるべきCDを物色したが何もない。30分以上かけて探し回ったが、収穫はゼロ。やれやれ。それに比べて最初のCDを見つけるまで30秒もかかってない。わかったよ、わかりましたよ、買やーいいんでしょ、買うよ、買いますよ。そして、レジで100円玉をぽちっと置いて買った曲、それがこの曲である。どうしてあなたは年下なのと窓にもたれて静かにきいた半分裸のあなたは笑って水夫のようにわたしを抱いた遠いくにから波がくる部屋がはてない海になる今夜二人が乗る舟は夜明けに沈む砂の舟一夜で千夜を生きるからいのち惜しむと愛せない汚れたいのちを清めるように星のしぶきをなんども浴びた死にたくなるようなキッスがつらくて感じるたびにわたしは泣いた波に揺られて夢がくる好きというたび深くなる今夜このまま流されて知らない国へ逃げますか一夜で千夜を求めあい過去も未来も捨てますか今夜二人が乗る舟は夜明けに沈む砂の舟一夜で千夜を生きるからいのち惜しむと愛せない今夜このまま流されて知らない国へ逃げますか一夜で千夜を求めあい過去も未来も捨てますか(今井美樹「年下の水夫」)しかしなあ、せめてゴールドベルクであれば、ブログのネタになったのになあ。この曲じゃあ、ちょっとなあ。これまでのイメージっつうものもあるし。え、おい、おい、何書いてんだよ、おい、ゆびくんよ。勝手に書くんじゃねーよ。しょーがねーなー、きょうはぜんぜんこっちの言うことをきかねーや。もう勝手にしろ。そう思って、自宅につき、郵便受けを覗く。さすがにもう年賀状はないだろうと思うと、一通だけ私あての賀状が入っている。いったい誰だろう、今頃。しかも、オレの名前の最後の字がまちがってるじゃないか。あわてもんだなー。仕事関係の人かなー。なになに。「恭賀新年」と。その後は小さなポイントの字でびっしりと近況が書いてある。最後に手書きで何か書いてあるぞ、なになに、「ブログにいつも深いコメントをありがとうございます。」???私は他人のブログにコメントなんか書いたことないんだけど。第一、毎日見るブログは三つくらいしかないし。その横にはネコの絵が、と。え、ええ、えええ、ひょ、ひょっとすると、ひょっとして、こ、これは。ネコさんの右側には一言「よんでます」。ひょ、ひょえー。う、うちだせんせい。コメントって私の張ったトラックバックのことだったんですかー。「よんでます」って、せんせい、わたしのぶろぐ、よんでるんですかー、(って、勝手に先生のブログにあんまり関係ないトラックバック張っといてよく言うよ、でもあんなに忙しい先生が、ま、まさか読んでおられるとは)も、もったいない。せんせい、お目が汚れますー。なまえの字がちがってる?いやだいじょうぶです、ほとんどあってますから、ぜんぜんもんだいないです。ありがとうございまーす、せんせーい。実は昨年、先生に「私家版ユダヤ文化論」を送っていただいたので、クロネコヤマトの送り状をしっかりと握りしめて保管しておき、生まれてはじめて先生に年賀状を差し上げたのである。でも、まさか、返事が返ってくるとは。えーん、うれしいよー。ということで、からだもゆびも私のコントロールをはなれて勝手に動いちゃうし、内田先生からは年賀状が来るしで、なんだかわけのわからない一日でした。でも「年下の水夫」。大人の女性のノーブルなエロスがただようすてきな曲ですよ。おい、また勝手に動き出すんじゃないよ。まさか、この文章、アップロードしようってんじゃないだろうな。まだぜんぜん推敲もしてないし。お、おい。おまえ、まさ……。
2007.01.10
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去年の暮れに帰省する際、新幹線の中で何を読もうかと思い、書棚を物色した。荷物も重いことだし、ここは文庫本か新書から選ぶのが常道だが、しばらく考えた末、かねてから気になっていた一冊のハードカバーを手にとった。けっこう部厚い。350ページほどある。でも、ある程度まとまった時間のある時に読もうと思って用意していた本である。その本を荷物でぱんぱんにふくれあがったバッグの中にむりやり押し込み、玄関のドアを閉めた。その本のタイトルは、カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」(土屋政雄訳、早川書房)である。この本を手にとったのは村上春樹氏が「最近おもしろかった本」として村上朝日堂で紹介していたからである。もちろん彼が読んだのは原書であり、タイトルも「Never Let Me Go」と紹介されていた。もしも彼が本書を翻訳したならば、「ネバー・レット・ミー・ゴー」という原題をそのまま用いたにちがいない。私も少なくともこの本に関しては原題通りのほうがよかったと思う。その理由はビートルズの最後のシングル曲が「レット・イット・ビー」であるのと同じである。これから読む方に無用の先入観を与えないために、これ以上の説明は控えておきたい。本書は06年の4月に発行されている。話題となった本であり、新聞、雑誌の書評欄でもとりあげられることが多かったと思う。私も書評を2~3読んだ記憶がある。ずいぶん以前のことであり、その内容もほとんど覚えていないが、本書を読み始めてしばらくしたあたりで強く感じたことは、それらの書評の書きぶりのひどさだった。たちの悪い書評の定型的なパターンは、「1 声が大きすぎる、2 おせっかいである、3 がさつであり、無神経である 4 書評の形をとった自己顕示欲の満足にすぎない」のいずれか、あるいはその組み合わせである場合が多い。大仰な賛辞の濫発は1、無用な先入観を与えるのは2、ネタをばらして興趣を削ぐのが3、ふんぞりかえって慎みを失い、作品への謙虚さを見失っているのが4である(なんだか書いてるうちに心臓のあたりがちくちくと痛み出したな、いったいなぜだろう)。本書に関する書評では、2と3のケースが多かった。本書は介護人を勤める一人の女性の独白体で書かれた小説である。そして、彼女が育った「ヘールシャム」という施設の回想から話は始まる。私が以前読んだ書評ではその「ヘールシャム」がどのような施設であるかが一言で説明されていたように思う。ここはこれこれこういう施設です、というように。私はここで息をひとつふーと吐き、ずいぶん控えめな表現で、その書評を書いた人たちにとりあえず一言申し上げたいことがある。「バカヤロー!」ちょっと表現を抑制しすぎて真意が伝わらなかったかもしれないが、私の中のある種の感情はおくみとりいただけたのではないかと思う。そんなことをこの本の書評に書いてはいけないのだ、絶対に。作者がどのような意図で、気持ちで、この作品世界をことばによって紡ぎだしているか、それをほんのすこしでも感じとる感受性があったとしたら、そんなことは絶対にしないはずであり、できないはずなのである。ほんとうに愚かな人間がこの国には棲息しているものである。(少し気持ちを落ちつけて)でも、まあ、考えてみれば、声が大きく、がさつで無神経な書評に取り柄があるとするならば、それはたとえそのような文章を読んだとしても、書き手の声の大きさとがさつさと無神経さしか読み手の記憶には残らないということである。私の記憶からもその文章の内容は(もしも内容があったとしての話だが)すっぽりと消え失せている。何にでも取り柄はあるものである。ということでつまらない前置きは終え、肝心の本書について述べなければならない。しかし、実はこの本について語ることはとてもむずかしいのである。もしも現時点ですでに本書を読もうと決めておられる方がいれば、とりあえずいっさいの先入見なしでこの本を読むことをおすすめしたい。ていねいに最後まで読み進められれば、失望や落胆を味わわれることはまずないだろうと思う。それだけは保証できる。だから、そういう方には当然この文章も必要ないことになる。この本のことを知ってはいるが、読むか読まないかはまだ決めていない。あるいはその本のことは全然知らない。そういう方を前提としてこれから話を進めていきたいと思う。もちろんこういう方々もこれから同書を読まれる可能性はあるわけだから、読解の妨げになるような余計なことを私は書くべきではない。だから、本書について語るのはけっこうむずかしいのである。私はカズオ・イシグロの作品を読むのは初めてだ。だから、本書を彼の他の作品と比較することはできない。冒頭からしばらく読み進めて私が感じたのは、その文章のきめの細かさ、繊細さ、微妙さである。訳文も流麗で自然であり、読解の妨げになることはない。ただ、私の勝手な想像では、原文にはもう少し香気というか、ほのかな香りのようなものが漂っているのではないかという気がする。単なる勘にすぎないが、文章全体に漂うパフュームのようなものが訳文で再現されているかどうかについてはやや疑問が残る。本書の前半部の描写を読んで、私が想起したのは「水彩画」である。薄く淡い絵の具を丹念に重ね塗りすることによって、そこに現れる微妙な色合いと形。大声を出したり、強い原色を混ぜたりすると、一瞬で消え失せてしまうような繊細な世界。それがここには現出されている。細やかでていねいで緻密な筆致でひとつひとつのエピソードが静かに語られる。その口調は「淡々と」といってもいいくらいである。そして、そこに描き出される人と人との微妙な触れ合い、共感、齟齬、誤解、和解は、われわれの誰もがいつかどこかで(おそらくはずいぶん若い時分に)経験してきたことである。しかし、そのような描写のあちこちに、時々ちくりと指先に痛みを感じさせるような、目には見えない鋭い棘のようなものをわれわれは感じることになる。しかし、その棘の痛みは、やがて水彩絵の具によってきれいに覆われ、そして、また忘れた頃にちくりと痛みはじめる。このあたりの息づかいの微妙さは独得である。他の文学作品で同種の感触を得た経験はちょっと思いつかない。誰にもなじみのある話であるにもかかわらず、結果としてここに描かれている世界は、誰も経験したことのない独自な世界だ。そういう世界がやさしく、細やかな語り口で静かに静かに紡ぎだされていく。主人公と彼女をとりまく人々との交流のあり方をみていると、思わず「日本的な」といいたくなるような瞬間がある。ことばを多用せず、言外の意味を汲み、顔色を覗き込み、視線を読む。ちょっとしたはずみですべてが崩れ去ってしまうような予感をもちながら、互いに震える神経組織の先端を触手のようにからまりあわせている、そういう人間関係。読んでいて、やや息がつまるようなせつなさを感じさせることばのやりとり。「日本的」ということばは的はずれかもしれないが、思わずそういいたくなるような繊細な心理描写が随所に見られる。本書は三部構成である。第一部「ヘールシャム」での出来事。第二部「コテージ」という施設での出来事、第三部、主人公が介護人になって以降の出来事となっている。この切れ目は明確であるが、本書の内容面の構成はなかなか独得である。私は第二部に入ってしばらくのあたりで、同じようなエピソードの描写が少し続きすぎるのではないかという印象をもった。もう少し早く次の展開に移るべきではないだろうか。そうも思った。しかし、それは圧倒的なクライマックスである第三部の後半を読むと誤りであったことがわかった。前半の、ある意味での平淡さ、静けさ、繊細さ、きめ細やかさ、そして、平板さにまでも、実は意味があるのである。そして、それはクライマックスという高みから光を照らし返されることによってはじめてくっきりと浮かび上がってくる。そういう入念な構成がなされているように私は思った。後半部から前半部を振り返らせることによって、読む者に深くため息をつかせ、考え込ませるような書き方があえてなされているのである。具体的な内容を伴わない書き方をしているのでわかりにくいとは思うのだが、この構成もまた独得なものである。本書のクライマックスから終結へと至る描写には寸分の隙もない。圧倒的な読後感が残り、その後には巨大な問題が読み手のこころに残される。この読後感の深さにも、前半の描写が深く寄与していると感じられる。この部分は、村上春樹氏の長編の終結部を思わせる。そして、その終結部は圧倒的な力感をもちながら、あくまでも静かな声によって語られる。作品を読みおえた後に感じる問題意識や感想は、おそらく読む人によってまちまちなものとなるだろう。この多様性と多義性もすぐれた文学作品が共通してもつ特徴のひとつである。これから本書を読まれる方は、前半部をなるべくていねいに先を急がず読み進められたほうがいいと思う。そして、先を予測したり、焦ったりせずに、静かに作品世界のなかに自分の身を沈められたらいいだろう。そこでは一切の先入見は邪魔になる。そうすれば大きく深い実りと達成とが最後には待っている。これはそういう本である。新年第一冊目の読書として私にはなんの不満も残らなかった。繊細な叙情詩と荒々しい叙事詩がこの作品の中では無理なく共存している。きわめて特殊でありながら、同時に普遍的でもある小説。個人のこころの襞を描き出しながら、それが同時に社会の暴力性の開示にまで至っている小説。これはそういう作品である。最後に。本書の巻末には柴田元幸氏による短い解説が添えられている。一冊の本を読み終えた後に、まったく同じ読後感を得るというのは稀有なことだと思うのだが、彼の解説は私の感じたことと寸分も異なっていなかった。そのことばを最後に引いて、この文章の締めくくりとしたい。「まずは漠然とした言い方で賞賛したあとは、内容をもう少し具体的に述べるのが解説の常道だろう。だがこの作品の場合、それは避けたい。なぜならこの小説は、ごく控えめに言ってもものすごく変わった小説であり、作品世界を成り立たせている要素一つひとつを、読者が自分で発見すべきだと思うからだ。予備知識は少なければ少ないほどよい作品なのである。」(柴田元幸「同書 解説」p346)
2007.01.08
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先日、スポーツライターの小林信也氏がラジオで次のようなことを言っていた。「人間が、何かの刺激を受けて瞬間的に行動するのに要する時間は約0.2秒。その後、その行動を頭で理解するのに約0.3秒かかる。つまり、刺激から行動までが約0.2秒、刺激から頭による理解までが約0.5秒。この0.3秒の差は大きい」小林氏は現在のスポーツ界で主流となっている筋力トレーニングに批判的である。筋力トレーニングは徹頭徹尾「こうしたら、こうなる」という理屈の上に成り立っている。そこには未知の要素が突然現れるということがない。このようなトレーニングに頼ってばかりいると、実際の試合で起きる瞬間的な変化にうまく対応できなくなってしまう。彼はその自説の根拠として先の数字を挙げたのである。私は土曜の朝のラジオでたまにこの人の話を聞くだけだが、その限りではなかなか信用のおけるライターではないかと思う。以前、ボクシングの亀田の試合の翌日(例の疑惑のタイトルマッチよりずいぶん前のことである)に、アナウンサーが彼に「昨日の試合はどうでしたか」と水を向けたことがある。彼は即座に「きたないものの話はしたくない。ここはTBSだからこんなこというと降ろされちゃうかもしれないけど、日本のスポーツ界のいちばんきたない部分があそこには集約的に表れている。だから一言も話したくない」と言って、別の話題について語った。なかなか気骨のあるライターだと思い、それ以来注目している。冒頭の話に戻ろう。刺激から行動まで0.2秒、刺激から頭による理解までが0.5秒。この間にある0.3秒はいったい何を意味しているのだろうか。人間は無意識のうちに0.5秒間行動する。この間は「体が勝手に動いている」状態である。その行動を後から「思考」がフォローする。この説明はわれわれの生活実感にもうまく符合するように思える。もちろん、だからといって、スポーツに「思考」が必要ないというのではない。むしろ逆である。スポーツのアスリートは反射神経、刺激受容のすばやさにおいては超エリートの集まりである。そこでは反射的な行動に至る0.2秒を0.19秒、0.18秒へと限りなく短縮する試みがたえず行われている。しかし、この時短競争には自ずから限界がある。そこで視点を切り替え、むしろないがしろにされている「考える」要素を取り入れて、「刺激→行動→思考→次なる行動への模索→刺激→行動」というフィードバック回路を形成する。そのことによって、彼は他の選手より上位の成績を手に入れ、長い選手寿命を保つことができるようになる。私の高校時代の愛読書に、ドン・ブレイザーの「シンキング・ベースボール」がある。野村のIT野球などといわれるが、あのネタのほとんどはこの本の中にある。彼は徹底的に野球を考え、それを実践的な行動に移そうと試みたインテリジェンスあふれる選手であり、指導者だった。その中でも印象的だったのは、1塁ランナーが2塁に盗塁を試みる際に、相手のグラブに入っているボールをどうすれば足でうまく蹴り出すことができるかを事細かに教授している部分だった。彼における「思考」とは一言で言うと、情熱を示すための手段である。「闘争心なきものは去れ」というのが彼の野球哲学の根本であり、そのスピリッツをグラウンド上で体現するためには徹底的に合理的に考え、行動しなければならない。そういう意味での「シンキング・ベールボール」なのである。彼は敏捷な条件反射にもとづく個々の点としてのプレーを、「思考」という線でつなぐことで、持続的で連続的な運動理論を作ろうとしたのではないかと思う。これとは逆に、いわゆる「考える」世界の住人にとっては、その対極にある条件反射の要素を取り入れることが重要になってくる。たとえば学者の世界。これは「考える」世界である。ある行動が終息した後、「えっと、今の行動が意味するのはね」とあとづけの理屈を考えるのが彼らの仕事である。だから、未来予測などを彼らに期待するのは、はなからおかど違いなのである。しかし、この世界の住人のうち、きわめて限られた人間だけが、一瞬にして事象の奥に潜むメッセージを読みとり、それに条件反射的に対応することができる。そのような能力の持ち主であるかどうかを見きわめる手がかりのひとつは、「彼が文章を書けるかどうか」にある。しばしば誤解されがちなことだが、「学者だから文章が書けるだろう」と思うのは早計である。文章とは少なくともそれが書き始められる時点では「条件反射」の世界である。けっして純然たる思索の世界ではなく、論理よりもむしろ感覚優位の世界である。実際に文章を書いてみれば、そのことは説明するまでもないことなのだが、「読む」だけの立場の人にはなかなかこのことが理解しづらいようである。だから、「学者で文章が書ける」というのは稀有な例外と考えるべきなのである。それはおそらく瞬間的に正しく判断した後に、その判断の意味を事後的に細密に検証する能力をもった人間、そういう人だけが、学者と文筆家という相異なる職域を兼ねることができるのである。「教師」も同列だ。一般的にいって「教師は文章が書けない」と思ったほうがいい。彼らの表現手段は、主に発声器官であり、肉体言語であって、優秀な教師に例外なく備わっているのは生徒に対する「観察眼」である。いずれも文章力にそのまま直結するものではない。ここで私は将棋の棋士のことを思う。朝の10時から夜、深更に至るまで盤前に正座し、次の指し手を延々と考えつづける。最終盤で頭をフル回転させる彼らの髪をそっとかき分けると、その頭皮は真っ赤に充血しているそうである。これもまた徹底的に「考える」世界である。しかし、彼らをテレビで見ていて、「ああ、私たちとは違う世界の住人だな」と感じるのは、彼らの思考力の抜群の高さではない。そんなものはテレビで眺めていてもわからない。むしろ難解きわまりない局面で、高段のプロ棋士が口にする「ここはひとめ○○ですね」という言葉に私は彼らの卓越した能力を見る。このことばが意味するのは、根拠なんて必要ない、考えるまでもない、とにかくここはこうだろう、これしかないだろう、ということである。しかし、素人にはなぜ考えるまでもなくその手なのかがさっぱりわからない。彼らはきわめて高度な実戦経験の積み重ねを通して、自分を勝ちに導き、負けに導かない指し手を瞬時に直感的に察知できるのである。徹底的に0.5秒の世界、考える世界であるからこそ、逆に0.2秒の世界、感じる世界が大きな意味をもつということがここでもいえるように思う。一般的にいって人間を誤謬に導くものは、「考えない」ことよりも、むしろ「考える」ことのほうが多いように思える。多くの場合、人間は「考える」からこそまちがえるのである。だから、正しく感じ、正しく反射することをこそわれわれは日頃から心がけなければならない。正しく感じ、正しく(というのはひとりでに)その状況に応じた行動をとれる反射力を磨いて、はじめてその0.3秒後に訪れる思考の時間が意義あるものとなる。私は理想の文章を夢想してみる。まずイメージが存在する。そのイメージは正しい直感力を背景にして、ムダのないセンテンスを作り出す。そのセンテンスはまるで事象に深い点をうがつように、的確で核心をついた表現となる。その点が次々と打たれていった後に、それらは自ずからなる線を描き、ある形へと造型されていく。この線を一定の枠内に収めることによって論理的に堅固なブロックが作られる。パラグラフの誕生である。そして、そのブロックはさらに大きな流れを形作るひとつの要素として全体の大きな構図の中に組み込まれる。このような力仕事には、敏捷な反射神経よりも、引き締まった筋力と胆力、それに持続力が必要になる。0.2秒の世界と0.5秒の世界がそこで融合する。そのようにして描き出された文章は、しかし、ほとんど時間を超えた力をもつはずである。しかし、そういう文章は、私には気の遠くなるような彼方に存在するもののように思える。0.2秒と0.5秒の間にある0.3秒の狭間には、あるいは目のくらむような深淵が横たわっているのかもしれない。
2007.01.05
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昨日、新幹線で福岡から戻ってきた。どうもその前日、初売りで繁華街へ繰り出したせいで、風邪というありがたくない土産物を頂戴してしまったようである。頭が痛く、鼻と喉が炎症を起こしている。病院もまだ休診中であり、安静にして回復を待つしかない。しかし、一日、二日は何ともなくてよかった。昨年暮れのエントリーでご紹介した博多雑煮をぶじに味わうことができた。風邪を引くのが2、3日早ければ、味のわからない状態で雑煮を食う羽目になったろうから、むしろ運がいいと思わなければいけない。記憶だけを頼りにお雑煮の文章を書いたので、何か書き忘れてはいないかと思って、食膳に供されたお椀の中を仔細に観察したが、具そのものには書き誤りはなかった。ただし、だしのとりかたが「あごだし+しいたけ+昆布」のコンビネーションであることが判明。そうか、餅を煮る鍋の底に敷くのは「だし」をとり終わった後の昆布だったのかと一人納得する。閑話休題。以前、生徒と自由作文をして遊んでいた時、いろいろなテーマを考えた。「はじめての記憶」というのも有力候補だったのだが、結局は一度も使うことがなかった。テーマを選ぶ時には、まず自分の頭に文章、ないしはそのもととなるべきイメージが思い浮かべられるかどうかをチェックする。うまく像を結ばない時には、即、却下。そういうルールを自分に課していたので、そのハードルを越えることができなかったのである。遠い遠い記憶の果ての薄暗がりのなかにある微かな像を思い出せないわけではないのだが、それはあまりにも頼りなく、かつ断片的であり、うまく文章化することができない。考えてみると、それは自分のことばの世界の果てに近いところにある記憶なわけで、それだけに言語で把捉するのがむずかしいのかもしれない。でもひさびさに生家に帰ると、いたるところに記憶を生々しく想起させる「フック」に出くわす。洋服ダンスの隅っこに貼られたシールの剥がし残しや、気の遠くなるような昔から食器棚にある小皿の花柄模様や、郵便局からもらった40年以上前の手紙差しや、平凡社国民大百科事典の「ストリップショー」の写真や(何を見てるんだか)、やすりがつるつるに磨り減った貝印の爪切りなどを眺めていると、しばし茫然としてしまう。それらの物自体を今の家に持ってきたとしてもさほど感興を感じるとは思えない。やはり、それらのものは所定の場所の、所定の空間的位置に置かれた時、頭のなかに記憶の煙を立ちのぼらせるのである。でもそれらはあくまでも子供時代の継続的な時間のなかでの記憶である。けっして「はじめて」の記憶というのではない。いったい自分にとってひとつづきの流れをもった、ことばにすることのできるはじめての記憶とはなんだろう。晩秋の早朝。私は母親に体を揺すられて起こされる。自分にとっては未知の時間帯だ。寝ている部屋の雨戸をがらがらと開ける音がする。ようやく暗闇の中に曙光が差しはじめる。5時頃だろうか。空は一面、茜色に染まり、ところどころに白い雲が浮かんでいる。出窓越しに見たその鮮やかな色彩はいまだに眼に焼きついている。その時の私は五歳。その日の深夜、母方の祖父がなくなったのだ。私は「じいちゃん」のことが大好きだった。巨大な梅干しの種のような大きな頭をして、髪の毛は薄く、顔は酒焼けした赤ら顔で、割れ鐘のような声でよく笑った。「おまえんとこいくると、ちいさか手が両方から酒ばついでくれるけん、気分のよか」といっていつも上機嫌だった。父親の家系はそのほとんどが教師であり、真面目でお酒も飲まず、車座になって饅頭を食いながら、静かに郷土の歴史の話などをしていることが多かったので、幼心にも苦手だった。窮屈で肩がこるのである。そこへいくと母方の実家は、福岡の市内から深く山間部に入ったところにあり、周囲はほとんど農家。母親だけが師範学校に行って小学校の先生になったという変わり種であり、お盆や正月に家族連れでいくと、そこらへんを走り回っている鶏を一羽絞めて「鳥すき焼き」で歓待してくれた。小学校の一年生でも酒を飲ましてくれるので、我々兄弟は大いに楽しみにしていた。その大きな農家の家長が「じいちゃん」である。子供心にも豪快な人に見えた。周囲の人望も厚く、ぜひとも村長にと請われながら、「オレはそげなとはすかん」と頑として首を縦に振らなかったそうである。相撲をやっている時期には、テレビの前に刺身の皿を置き、白身の刺身をぴちゃぴちゃとうまそうに食べながら、すいすいと酒の杯を空けていた。そのじいちゃんが、昨日の晩、相撲が終わって便所に行くときに突然、卒中で倒れ、そのまま明け方に亡くなったという。私の家族はハイヤーに乗って急遽、山あいにある母の実家にかけつけた。家の門にたどりつく道の両側にはすでにたくさんの花輪が所狭しと並んでいた。そこから先の映像は今でも頭の中に鮮明に思い浮かぶ。頭に三角巾をのせ、ふんどしを締めたじいちゃんが棺桶の中に入れられる。ばあちゃんが泣きながらハイライトの箱を5つほど頭の脇に置く。母親と叔母たちはみな号泣している。「じいちゃーん」という声が部屋中に響きわたる。私はといえば、まったく悲しくはなかった。皆がなぜ泣いているのか皆目わからなかった。私はその時、「死」というものを理解していなかったのである。だが、不思議なことに「自分は人の死というものをまったく理解していない」と思ったことだけは鮮明に覚えている。それはおそらく私が「死」を理解できなかった最後の瞬間だったのだろう。じいちゃんは毎年大濠公園で行われる花火大会の夜には、我が家に来て、孫を膝の上に座らせ、家の出窓から打ち上げられる花火を眺めながら、おいしそうに刺身を食い、酒を飲んでいた。「○○」とじいちゃんは私の名前を呼びながら、「おおきうなったら、じいちゃんと酒ば飲もう」と言った。私は大きくうなずいた。「それまでこれば預けとくけん、大事にもっちょけ」私は小さな白いぐいのみを手のひらの中に入れられた。「萬代」という地元の酒造メーカーの名前が底に書かれており、ぐいのみの周囲には「仲よきことは美しき哉」と毛筆で書いてある。私は二十歳過ぎるまで、このぐいのみを机の引き出しの中に入れていた。何度か引っ越しをするうちに、その大事なぐいのみもどこかへ行ってしまったが。じいちゃんは我々兄弟に木でできた小さな四角いかるたのような積み木をおみやげにもってきてくれた。おそらくは兄用のかるただったのだろう。表には「あいうえお」の50音で始まる漢字が一文字書かれ、その裏にはその漢字を使ったさまざまな物の絵が描かれていた。私はじいちゃんの耳元で表面の漢字の読みを小さな声で次々にささやいていった。じいちゃんは驚いたようだった。「おーい、○○ム(母親の名)、○○は字ば読みようぞー」「そげな、字やら読めるわけのなかやないですか。絵ば見て、勘で言いようだけですよ。小学校もいきよらんとい、漢字やら読めますもんかいな」しかし、じいちゃんと私の前に広げられたかるたはすべて「漢字」の面だった。じいちゃんはじっと私の顔を覗きこんだ。そして、酒臭い息を振りまきながら、「そうやね、小学校もいきよらんとに、漢字やら読みよったら、かあちゃんのびっくりして腰ば抜かすかもしれんね」と言った。そして、私の頭をぐるぐると撫でて、「感心、感心」と小さな声でいった。私はじいちゃんと二人きりで交わした男の約束を守るために、じいちゃんだけに自分の秘密を打ち明けたのだ。簡単な漢字はすでに読めていた。じいちゃんにもらったぐいのみに書かれた文字も「哉」以外はすべて読めた。でも、これはいったい何て読むんだろう。そう思って首をひねったことも覚えている。そのじいちゃんがひつぎに入り、小窓から最後の対面をすませると男衆に担がれて、静かに座敷から庭へと運び下ろされていく。周囲には白と黒の幕が張りめぐらされている。そういう記憶が鮮明にしかも唐突に頭の中によみがえってきた。しかし、その場所は自宅ではない。母の実家でもない。正月二日の初売りに出かける羽目になり、繁華街の天神の新天町という商店街にある店の一角で突然、その記憶がよみがえってきたのである。初売りのあまりの人の多さに私は気分が悪くなり、とりあえず人のあまりいない店に緊急避難しようと思って、誰もいない店に飛び込んだ。そこは鞄屋だった。「大隈カバン店」と書いてある。店内には店員以外誰もいない。店の右手には上の方まで一面にランドセルが積み上げられている。背負い紐をこちらに向けて6段か7段にわたってぎっしりと、黒、茶、赤のランドセルが並べられている。なぜこんなところでじいちゃんのことを思いだしたんだろう。そう思った瞬間にはっと気づいた。母方の孫は小学校に上がる時、大隈カバン店でじいちゃんにランドセルを買ってもらう習慣があったのだ。私の兄は買ってもらった。私もその日のことを心待ちにしていた。でも五歳の時、じいちゃんは死んでしまった。私はばあちゃんと、この店にきてランドセルを買ってもらったのだった。「どげんとのよかね」と母親に聞かれながら、その日、私は不機嫌だったように思う。「どげんとでもよか」。そう答えたような気がする。そして、その時「じいちゃんが死んだ」ということがはじめて、しかも痛切に理解できたのである。煌々とあかりのともるカバン屋の店内にひとり立ちつくし、壁一面に積み上げられたランドセルの山を眺めながら、私は自分の「はじめての記憶」を静かに思い起こしていた。
2007.01.04
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