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実家の母が先月手術をして、何とか、退院に繋がりそうなタイミングです。やはり、入院が1ヶ月にもなると、リハビリが大事。ということで…手や足や様々な動きが日常生活に戻れるようサポートももらいながらやっていかねばならないところ。本人のやる気がない、という声を聞きながら私は遠方で術後まもなくから会っていませんがそんなに母はやる気がないのかな…などと思いを馳せ。日中、話す人もいなければ気持ちが前向きになんてなかなかなれないのかなと思ったり。人はそのタイミングでしなくてはならないことがある。けど、苦手だったり、好みじゃないことは避けてしまうでしょう。ここは一番、踏ん張らなければとなれば底力が出たりするのだろうけど。あなたはやる気がない、と言う人は果たして、自分は嫌なことも何もかも厭わずやってきたのか?誰だって、やる気のない時なんてある…それを取捨選択しながらやるのも自分だしやらないのも自分。いやいや。本人がやらなければ周囲も困る。そういうことももちろんあるでしょう。やるべき、と強く言えるサイドもあれば思っても言えないサイドだってある。言っている人は果たしてどんな位置でどういうスタンスで話しているのだろう。自分も時々、そこを認識しとかないといけないなと強く思う今日このごろです。
2025.10.25
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モラハラ気質の人って案外、あたりまえのように身近にいるのだと思います。なんとなく見極め方があるなと思いました。その人がモラハラ気質かどうか、はその人が自分に対して「どういう類の関心を持っているか」だと思います。直接的な言葉を使うと 「利用価値」私という人間はどういう人?という純粋な関心なのか?あるいは私という人間が「こういうことはできる(できるようになった)」という視点で「自分(モラハラな人)のためにこういう風に役に立つ(利用できる)から関わる価値がある」という見方をしているのか?静かに見てみると、なんとなくわかるような気がします。***自分から見た周囲も見てみないといけない。他人を利用価値で見ていないか?こういうところに役立つから仲良くしておこうみたいな見方。普通にそこいらじゅうにあるとは思いますがそういう関係は 「利用価値と認識しているもの」がなくなれば簡単に壊れてしまうのかもしれません。何ができるとかできないとか利用できるとかできないとかそういう目線ばかりで誰かを見てはいないだろうか。
2025.10.14
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実家に住む実母が、今年の9月16日に地元の病院で手術をうけ本日は23日目です。術前から大体入院は1か月くらいと聞いていたこともありほぼ順調に術後回復している模様です。実家方面には実姉と実弟がいて2人が面会に行ってくれているのです。愛媛県松山市ということで(実家)愛知に住む私が移動するには、思い付きでは行けなそうな距離ではありますが術前にめちゃ急なスケジュールで帰省していました。というのも、8月に検査結果が出てドクターから手術の必要性を聞いて、ドクターのスケジュールで手術の予定を入れ、手術を受ける実母本人の準備(フィジカルにもメンタルにも)がありでもそうのんきなことを言っているような状況でもないとのこと(考える時間がほしくてキャンセルできなくはないけど、その決意ができたころには手術ができなくなっている可能性もあるとのことで…)おのずとスケジュールどおりにやっていかないと。となりました。実姉も実弟も仕事をしていて(私もアルバイトではありますが働いています)全ての日に実母についているというわけにもいかず、という話から急遽私も帰省したわけです。***術前のドクターの話「手術をしなければ、(年末の)紅白は見れても、(来年春の)桜は見れないかもしれない」と言われたということで…私たち「子」たちはまあまあなショックを受けていたのです。なんといっても、四国で第一でありそうな病院のドクターが見たことがない症例ということで、はっきりはわからないけれど、疑われることを想定した場合・・・そういった予想がされるということだったのです。そして手術自体も…ドクター曰くの「未知のもの」だということで開けてみないとわからないという状況。最悪の事態も想定します。そんな中、弟から連絡があり、入院前に自宅で会えるのは今だけかもしれない。みたいな話になって…手術前日だけ、姉も弟も実家にいられないので母も不安だろうし、「お話相手」として来れないだろうか。という相談でした。というのも…以前、父が入院して亡くなったときの経緯も関係がありました。父の病気は、脳の血管(脳梗塞的なもの)で高齢ではあるけれど、このままにしておいてもよくはならない。頑張ってやってみますか、みたいな感じで手術の流れに。手術自体は困難で危険なものという認識がドクターにはなさそうで私たちも父本人も、術後にリハビリを、と思い描いていたのですが…手術自体は成功しましたが、そのあとの身体の回復が想定外で手術室に送り出してから、ちゃんとした会話もすることなく帰らぬ人にということがあり弟の頭にそれがよぎったと絶対大丈夫がない以上、悔いのないように…との配慮で私を呼んでくれたのでしょう。手術の前日というのは私はアルバイトのシフトが入っておりえ!ここで明日休む!?みたいな状況ではあったのですが少し前に職場の先輩に母の件は話をしてあり今回の事情もお話ししたら急ではありましたが交代してもらえたので奇跡的にでかけることができたのです。感謝です。お話相手。ということについては…ことわっておくと私は我慢強い人間でもないですし、まあまあ短気だったりもするので適しているとは思えませんが…まあ、そういうことは抜きにして。私は30数年、専業主婦でしてかといってずっと家にいたのかというと???こちらのブログにも時々、書いてたりもしますがボランティア的な活動をまあまあハードにやってきていました。がそれがない時期などは、1日家にいて、夫以外の大人と話さない、産後みたいな生活を送っていた日々もあり誰かと話す、ということの重要性を感じないわけではないのでした。手術前日に移動したので、実家に着いたのは夕方になってしまいました。母に気を遣わせないよう、夕飯用に買い物もしたりして遅くなってしまいました。それでも、一人で過ごすよりはいいのか?という気持ちで帰省しましたが実際、母としてどうだったかはわかりませんがいないよりましなんだったら行こうかな。くらいな自分。日ごろからたまに電話がかかってきたり。こっちからかけることもありましたが。お話相手…。今入院中で、弟や姉が仕事おわりなどに面会してくれています。様子なども聞かせてくれますが個室なので、看護師さんとか以外に話すこともなさそうと思うと暇じゃないのかなあ。とか。まあ遠い空からこんなことを思っていられるのですから、のんきなものです。弟や姉からするといい身分なのかもしれない。忙しい中、面会に行ってくれている兄弟には感謝です。自分が話したい時だけ出かけたらいい、みたいな部分もあるのかもですがお話相手、発動できたらいいのに。近かったら話に行けるのになあ。などと思う今日です。
2025.10.09
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現在、私は口腔顔面痛の治療中です。2023年ころから、気になる症状があったものの原因がわからず、痛みが出たり引っ込んだり。2024年の年明けくらいから痛みが強くなり、3月くらいまでがピークだったように思います。日常生活に支障をきたすようになりました。歯が痛い。顔が痛い。首が痛い。口腔顔面痛、という名前をよく付けられたと思うほどそれに合致する症状です。顎関節症のため10年以上マウスピースを使用。定期健診にも3,4か月ごとに行っていたけれどもちろん悪くなる歯もあったり、その都度治療には行っていたのですが痛みを訴える私に、虫歯など歯が原因ではないという主治医。「でも痛いんです」「でも歯はわるくない」「ならこの痛みは何科でみてもらったらいいんでしょうか」「どこの医院にいっても診断は同じだよ」この問答の繰り返しでした。その後意を決して、他の大きい病院で診てもらったりいろいろしましたがどうにも原因がわからない。そうこうしているうちに強い痛みで主治医の病院に駆け込み、痛いと訴える箇所の歯を少し削ってみても歯には異常がないことがわかりこの症状については主治医の手には負えないとのことそこで、主治医が口腔顔面痛の専門医に紹介状を書いてくださいました。専門医の先生の診察日に予約を入れました。問診では、痛みのパターンを詳しくヒアリングしてくださるのですが自分が感じる痛みを説明することの難しさ。それによって、複数ある原因のどれなのか?を特定するとのこと。どういった痛みがどういうときにどのくらい続くのか。頭痛などとも関連があったり様々な原因で口腔顔面痛が現れるようです。結局自分の場合は、特発性口腔顔面痛 と診断されました。(といっても…他の片頭痛とか群発頭痛などとは診断されず、わかりにくいやつということのようでした)ちょうど、初回の診察日のころには、脳神経外科から処方された薬を服用していました。(三叉神経痛疑い)その日からその薬は減薬、他の薬を処方され飲むことに。とにかくはっきりわからないから、一つずつ治療法を試さないといけない。どうなるんだろう、でもこの痛みから解放されたい。その思いで、治療が開始。その処方薬を漸増して様子を見るに、ある量で痛みが消失したのです。とにかく酷い痛みで、日常生活がままならない。というところから開放されています。もちろん、多少痛みを感じるときは出てきますがそれへの対応もとても大事(認知行動療法)という説明もお聞きしました。病院でもらった資料も参考にしつつ、先生をはじめとする専門医の先生方が執筆された本があるということで、中古市場でしたが購入して読みました。主治医の先生が書かれた本はとてもわかりやすかったのですが新刊は販売されなくなっていました。最近、この本が出版されたと知り、私も購入しました。痛みのメカニズムはわかっていないことが多いというのを耳にしますがとにかく、日常生活が送れることに感謝しています。そして、自分の思考のくせについても気づきがありました。リンクにて紹介させていただきます。どうしても消えない「歯・舌・口・顔の痛み」はなぜおこる? 口腔顔面痛がわかる本 (健康ライブラリー) [ 井川 雅子 ]価格:1,760円(税込、送料無料) (2025/9/29時点)楽天で購入
2025.09.29
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先日、トイレブラシを買い換えました。いぜん使っていたブラシは、ブラシの先にゴムが仕込んであり洗剤が要らないブラシでした。古くなってきたので、こういっては何なのですが…某量販店PBの安いブラシを買ってきました。どんなブラシでも頻回に掃除すればいいコト。などと思っていたら…なんと!!よくテレビのCMなどで言っている「さぼったリング」がすぐ現れるではありませんか。前のブラシはそんなことなかったのに…こんなに汚れが目立つなんて…><そこから…前のような、繊維にゴムが付いたブラシを探し求めていました。ネットでも販売されているのを見つけました。が…トイレブラシ1本で送料もかかるし、すぐにでも使えるものがいいなあ、と地元のホームセンターなど渡り歩き、、、ゴムじゃないけど、可愛いし、これにしよう。と決めたのがこのブラシ。トイレバスボンくん 3点セット | バスボンくん トイレブラシ トイレ掃除ブラシ バスボン トイレ掃除 トイレ用洗剤 トイレ 洗剤 便器 コーティング 防汚 汚れ防止 こすらない 業務用 トイレ掃除 グッズ 傷つけない かわいい おしゃれ 収納 アラウーノ対応価格:3,280円(税込、送料別) (2025/6/24時点)楽天で購入ふわふわの青いボールを水につけてこすると汚れがあっというまに落ちます。最近は、デリケートな便器があるのですか??(売場で、便器に傷がつかないみたいなコピーを見かけました)このブラシはそういう便器にもおすすめらしいです。便器の裏側にも届く球状なので、とても良い!です。洗剤は使わなくても汚れ落ちよいです。これで洗うようになってから、水たまりのところの黒い汚れは出なくなりました!そして水がたまる部分も、ブラシが球状なので洗いやすい。普通のブラシだと、奥のほうの汚れが取れなくて悩ましかったのですがとても頼れます^^こちらはセットですが、ホームセンターとかドラッグストアなどでもあるところもあります。ちょっとうれしくてブログに書いてしまいました。
2025.06.24
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I(アイ)メッセージという言葉をご存じですか?I…とは、英語で「私」を表す言葉です。私は~という表現の時に使いますね。誰かに何か伝えたいときに「私」を主語にして伝える言い方をI(アイ)メッセージと言うそうです。誰かへの期待や希望を述べるときには「あなたは〇〇だ」という言葉はまあまあ…強い、印象がありませんか。「あなたが〇〇ならいいのに」これもまあまあ、一方的な期待を表しているようにも感じます。誰かを主語にして語るものは、自分の希望だったり、決めつけみたいなものが入りがちなのかもしれない。本質的な相手の状況や気持ちなどはわからないまま、「誰誰は〇〇だ」と言い切ってしまうことのリスクもなくはなさそうです。反面、「私」を主語にすると、自分のお気持ち表明(?)みたいになるのか?少なくとも、自分がどう思うとかどうしたいとかいう表明なので自分の気持ちを誰かに決めつけられるわけでもなく語ったその言葉は自分から発せられたものだからしいて責任という言葉をつかうなら、その責任は自分に由るものです。想像やこちらの期待、願望で他人の何かを語ることはあくまでこちらの欲求がベースにある言葉なのに、その思い通りにならない相手が悪いとか、相手がおかしいとかそういう流れになりがちです。相手が何をどうしたから、良いとか悪いとかけしからんとか許せないとかそういうことを言い出すと、無尽蔵にでてきそうです。(笑)「私はあなたにこうなってほしい(だからそうなるべき)」「私はあなたにこうなってほしい(でもそうなるかどうかはあなた次第)」上記の「私」のスタンスには違いがありますね。***ところで「私はこうしたい」を述べることを回避したい人もいるでしょう。なぜならそう語ることで、自分に責任がかかってくることを望まない場合が多いから。または、「自己主張をする人はわがまま」「自分優先でずうずうしい」そんな風に周囲の目に映るといやだなとか、そういう感情でしょうか。私はこうしたい、を述べるということはその言葉による責任を自分が背負う覚悟がある人でないとできないのかもしれません。責任を負う、などど…こう、大げさな感じもしますが「どっちでもいい」とか「なんでもいい」とかそうではなく…他の人はどうであれ、自分はこう、を表明できることは決してわがままでもずうずうしいわけでもない、とは思います。誰かに自分の気持ちを述べられることでモヤモヤしてしまう人は普段、自分の気持ちにフタをして我慢している人かもしれない。嫌なことを嫌といってはいけない。我慢しなければならない。私はそうして我慢しているのに、なぜあの人は「嫌だ」と言えるのか。そういう怒りが湧いてきてしまうからただ自分の意思や希望を述べているだけの人の言葉をすんなり受け容れにくいのかもしれません。「自分さえよければいい」みたいな話はまた違ってきますが…自分の思い通りにならないことと、必ず思い通りにしないといけないこととはちがう。思い通りにならないこともあると自分で理解し、そういう場面も受け容れる必要もある。ただそれがどうしても受け容れがたい。となれば受け容れないのも自分の意思であって、自分がそれに対してどうするか?の言動を決めることは自分の責任で決めるということだと思います。あとは…誰かを配慮するとしたらその言い方とか場面とかを選ぶということもセットになってきますね。***とかく、自分の責任で、ということは勇気が要るとか…そういうこともありますが逆にいつでも「自分以外の誰かの責任を担保にする」という生き方もなくはないだろうけれど…。果たしてそれは、自分を生きているのだろうか?誰かの責任を担保にする生き方を心から望んでいればいいのかな。ただ…自分が担保する「他人の言動(責任)」に対して思い通りになるかどうかはまた他人の問題であってそこと自分との間には境界線があり、まったく別のものであるという自覚も必要かなと思います。「あの人のここが気に入らない」を言い出したら、きりがないし、解決するはずがない!そんな、一見、不毛に見える生き方よりも「あなたはこう思うのね。でも私はこう思う。どちらも尊い自分の気持ち」というスタンスで生きられたほうが、清々しいのかもしれないなとも思った午後。でした。
2025.05.31
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有給休暇を取ると会社は損をするのかこちらの日記に思いのほかアクセスをいただいているようでもう何年も前のものではあるのですが。ともすると従業員の有給休暇の取得が雇用する側にとって損、のような感覚を持たれがちですがなぜ有給休暇を取得することで、企業や組織にプラスに働くのか。の考え方をざっくりまとめたものです。有給休暇を取得する際に必要であるポイントとして以下の項目を挙げました。1.スケジュール管理2.チームワーク3.プライベートの充実これは有給休暇に限らず、育児休暇などでも同じことが求められると思います。逆に、休みがとりにくい原因の一つに特定の人がいないと、業務に支障がでる仕組みになっているというものがあるのではないかと思います。特定の人に業務が偏っているということはもちろん、その人が休暇を取ることに高い壁になっている可能性が高いのですが実は、休暇の取得 以前に、問題が生じやすい状況であるとも言えます。***特定の人がある業務を一手に負ってくれている状態は見方によっては、・安心して任せられる・他の人の手を煩わされないという状態かもしれません。一見、効率的なようにも見えますし、何より周囲が楽。だったりします。が、本当にこの状態が理想的なのか?短期的に見れば、そういう面もあるかもしれませんが。実は大きなリスクにもなっている可能性もあります。一定の業務の内容を、特定の人しか理解していない。というのはその人がいないと業務が成り立たないことを意味します。それは…やはりリスクでもあると言わざるを得ません。「これは私にしかできない」という言葉は、なんとも、言う本人を酔わせてくれるような甘さがあります。あなたが必要不可欠です。と言われることで得られる感情はあると思いますがそれと真反対のリスクが存在するのです。自分だけの業務には、他人の目がなくなり、脇も甘くなる。周囲が不正にも気づきにくくなる。休暇をきっかけに業務のやり方を見直すことは、企業や組織にとって大きなプラスがあるとそんな風に思うのです。
2025.05.01
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陽の当らない、というのは一種の比喩でもありますがいわゆる、外向きに見えないところとでもいいますか「表から見えない場所」とでもいいましょうか。たとえば仕事で業績が上がり世間から脚光を浴びる…など。世間からの脚光というと、最近ではSNSなどのメディアでも評価をされる場所にもなっていたりしてフォロワーが、とか「いいね」がとかバズる、っていうやつとか、つまり「注目される」みたいなやつでしょうか。表から見えない場所、と自分が認識しているものに長年、日本の主婦がになってきた「家事」「育児」などもあるのかなと思います。評価ができるようで、できないようで。(そもそも、そんなことするべきものかどうかもあるけれど)家事などは、近年では「ミニマリスト」が流行っているのかSNSで片付いた部屋などみると、頑張って家事をしている証になるのだろうか、とか。それも考え方でしょうね。では育児は?自分の年齢的に、自分の子が結婚して、子どもが出来て、という人も周囲に現れるようになりました。余談ですが今日、某〇メダ珈琲から車で出ようとしたところ、おじいちゃんと思しき男性が小さい子を抱っこし、おばあちゃんと思しき女性が寄り添って歩いていました。少しバックしたら頭をさげられたので、私もおじぎしたりして。お孫さんだろうなあと見ていた自分がいるのですが。家庭をもって子どもを産むような人に「育てる」のが目標なのか?高学歴のエリートで、世の中のために華々しく活躍する人に「育てる」のか?こういうのはあまりにステレオタイプかなとも思います。自分の子育ての完結っていつなんだろうなと思うことはあります。世間では、自立していきていくことができていることを指すのでしょうか。なにをもって自分の子育ては〇だったのか×だったのかなんて、わからない気がしています。幸せになってほしい、と願っても幸せなんて人によって感じるところが違うだろうしただ、自分の子には、いちいち親に断ることなくやりたいことに邁進して幸せになってほしいとは思いますけども。子どもがどう生きていきたいかなんてことについては親がいちいち審判することもない。ただ、顔色をうかがう子もいるので、親の意向に沿った人生を無意識に選ぶこともあるかもしれない。自分も子どもたちにも、双方、過度に期待しないような生き方ができたら。***ところで次世代というのは、個人でもそうだし、家庭とか企業とか団体とかにもあるのだろうか。次の世代に代替わりする、それがスムーズにいくことが「成功」なんだろうか???陽の当たる場所。自分はほぼ、そういうことに縁なく生きてきて(たまに陽に当たりそうになったことはある(笑))なんとなく、おひさまを求めて生きてきたような気もするのですが自宅に一人でいる時間や、空間は誰かが見るわけでもないけれどそこを、誰かのためにというよりは、自分が快適と思えるようなことをまず自分のためにやれるっていうのも悪くない気がする。あえて「やれる」って書きます。(笑)もちろん、家事育児の多くは「タスク」なんだと思うのですがタスクにはきっと理由があって、それを分かった上で動くのもありなのかと思ってみたり。自分は一人では生きていけないけれど、周りの人と自分は別の人間なので、誰かからの関わりがあっても自分はこうしたい、こうする、を陽が当たろうが当たらなかろうが決められるベースをもってみたい。陽に当たりたくなったら。公園へ歩きに行きましょうか。(ちょっと違うか)
2025.04.08
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「痴人の愛」谷崎潤一郎著有名な本なのだと思うのですが、初めて読みました。ある本に登場した名前だったので、どんな話かと興味を持ったのです。書名で検索してみると、表紙が…様々な絵柄で出版されているようです。自分的には、読んだ後の気持ち悪さがぬけなくてそれほど、文章での表現がすごいということだとは思いますが表現というのも心情の上で、登場人物たちの気持ちを追って読んでしまったのもあるかとは思います。(ネタばれ的内容を含む可能性があるのでご注意)自分の気持ち悪さの正体はなんだろうと考えてみました。登場人物の30代の男が15歳の少女をカフェで働くのをみておそらく「容姿が好みだった」ということと、自身が都会で働くなか、これといった趣味などもなく経済的に恵まれていたことも手伝って少女を自分のもとにおいて教養などをつけさせて好みの女性に仕立てたい、というような願望から始まります。この男といえば、まじめな人で通っている人であることと会社勤めで一定の給金がある出身は地方なのだが資産のある実家である語学などの学問的な教養を多少身に着けているこういったところから15歳の女性(少女)、それもこの時代にカフェで働くというのは経済的になどの事情(経済的な)により「労働している」子であったと思われるのですが経済的に優位に立つ男が、少女を「所有して」「教育を施す」というところから始まるのです。現代では法的に難しい行動ではないかと思われますがこれを男性は「良かれと思って」行うし、提案された少女も首を縦に振る、少女の実家の家族も文句はないとなる。そうして生活が始まるけれど、最後の最後にはいろいろ教養を身につけさせて、あわよくば妻にめとって(実際、結婚した)「自分の思い通りの女性との生活」を夢見たところが最後には自分の実家の財産まですべてつぎ込むことになるくらい少女の言いなりになるという結末を迎えるのです。…著者が何を言いたかったのが、今一つ、わかりづらいのですが(別に何かが言いたいわけでもなかったのかもしれないけれど)私個人としては、登場人物のエゴが少女をモンスター化してしまった話に思える部分もあったり。魅力に抗えなくなったということだけれど、それがただの容姿の魅力というだけではなく、ほかの要素にも感情がからめとられて身動きがとれなくなってしまった、ともいえるような。今では男女平等が言われる時代になってきているけれど自分が結婚した1990年代では、やはり経済的に力のある男性とそれを持たない女性の結婚というのは当たり前にあって(専業主婦になることで実質経済力をなくすという意味もありますが)なんというのか、その中での力関係というのはそれぞれの家庭であったりするとは思うのですが現代ではむしろ、「女性に教養など必要ない」と言い切る人も当たり前にいて配偶者の女性に教養を付けさせようとする男性というのは稀な感じもするのですが教養などいらない教養をつけさせたい上記の2つには共通点もあると思っていて、それは「男の意向に沿うように」物事が進むという部分かなという気がしています。もちろん物語の中で、教養をつけさせたい男の意向とそうさせてほしいという少女の気持ちが一致したので共同生活が始まっているのだと思うのですが(結果「教養を付ける」部分からの広がりで男の意図しない展開になっていくのですが)なんというか、経済的優位にある側からパートナーを「こうさせたい」という意向については、因果応報な何かが付いて回る、という結論に至ったか、というのが個人的な感想ではあります。自分の人生においての自分の「意向」について、はっきり述べることができる人はそんなにはいないような気もします。主婦になったから、家事育児を担当する。働かないと食べていかれないから働く。世間一般での「常識」「当たり前」に則って生きている人も多い。それが叶わなくても、そこからの振れ幅があったとしても支障を最小限に保ちながら、どうにか生きているということもある。人と関わりながら生きていくわけですがたとえ家族であってもその人の「人生の領域」に入り込むようなことで良いことはない、いずれ報復される(!)というのがこの本の教えなのでしょうか。(違うかも)私が引きずっている「気持ち悪さ」というのはこの「他人の人生に入り込んで意向どおりにさせたがる」部分かもしれない。ちょっと思ったことですが、文字化しておきたく、記します。
2025.03.20
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今の世の中、ハラスメントという文言を聞かない日がないくらい、そこここで「ハラスメント」という言葉があふれています。言葉だけが独り歩きしているわけでもないであろう、そういった事象が人々の日常に溢れていることを意味するのではないかと思います。ハラスメントとは「相手に不快感や不利益を与え、尊厳を傷つける行為です。嫌がらせやいじめとも呼ばれ、人格を否定する言葉や集団での無視などが該当します」定義は上記のようなものでしょうか。ここに非常に重要な言葉が入っています。なぜ、ハラスメントが罪なのか。不快感や不利益を与える尊厳を傷つける人格を否定するまさに、これが問題だということです。おそらくハラスメント的暴力を加害する側は、ただむしゃくしゃして気に入らないことがあるとかうっぷん晴らしをしたい、という気持ちや自分の力を自分に知らしめる必要があるときなどに相手を支配することによって自分の価値を高めるような錯覚を得たくて行為を起こすのではないかと思います。相手を支配する、ということは相手を自分の意のままに動かすことで完全に相手の「尊厳」や「人権」を無視する行為です。嫌がらせなどもまさにそこに触れる行為ですがそれをして快感を得るとか(脳内物質か)そういうことのために他人を利用するという行為がまさに人権を踏みにじる行為だということです。どういうわけか、そういう自覚があってかなくてか世の中には「こいつにはこれを言って(やって)もいい」とターゲットと認識し暴言や暴力、支配的な態度をあらわしてくる人というのが存在します。はたからみてあからさまにそれとわかる怒鳴る、拳を振り上げるなどの行為のみならず表面的には丁寧な言動を装い、内実は陰湿な嫌がらせをしてくるという人もいます。行為に種類や程度があれど、根幹はすべて同じような源にあるのではないかと想像します。誰かを支配する、自分の意のままに動かす、相手の嫌がることを言う、行う。また自分の存在意義を確認することを優先するばかりにそれを受ける相手がどんな気持ちになるのかを考えられない。というような人も存在します。人はコミュニケーションをしあって生きていますが生きていれば困ったこと腹の立つこと、いろいろあるとは思うけれどそれを誰にでも公表するわけではないでしょう。この話題をこの人との間に持ち出す、というのは都度、選んでいるはずで自分が言わずにおれないことをぶちまける相手もおのずと選んでぶちまけるのです。ただ話を聞いて、と聞いてもらえる時間は貴重ではありますがその内容によっては、話を聞くことさえ拒否したくなることもあります。自分の困り話を聞かせて、相手に対して「あなたはいいよね」と言うような会話はただ愚痴を言っているだけのようで実は暗に相手に対して攻撃的な感情を背景に話されていたりしてそこで話を聞く人が罪悪感を持ってしまったりするとそれも「支配」の一種だったりもするのです。何が良くて、どっちのほうが良くて、というような話は当の本人が語るならわかるけれど外から「お前は恵まれていていい思いをしている」というようなことを言われる場合ただの会話に見えて攻撃の一種である場合もあるのです。ハラスメント…のニュースを見聞きする中で「たったそのくらいで」という感想をSNSなどで述べる人も散見しますが「たったそのくらい」かどうかは、やられた側が決めることです。直接的な怪我などをさせていないから、などは理由にはなりません。暴力は行為であっても言葉であっても態度であっても相手に対して「お前の人権を認めない。お前の人権などどうでもいい。お前は踏みにじってもいいやつだ」と認定しなければ、加害行為は行えないはずなのです。年齢とか性別とか人種とか、その他の属性などから相手を低く見下し自分の欲求を満たすため相手を傷つける行為だから、あってはならないことなのです。誰かから見下されてうれしい人はいるでしょうか。暴力振るわれて楽しくなる人はいるでしょうか。見るからにわかりやすい行為以外にも上の立場だからこのくらいのいじわるをしてやれうっぷんたまってるから発散してやれ意識しているか無意識化に関係なく投げかけられた当人が不快で不利益を被る傷つけられる行為はいまや「犯罪」に問われることであるという認識を持っていないといけない世の中です。***人間だからうっぷんもたまります。楽しくないことも起こります。誰にでもそういうことはあると思うのですがだからこそ、そういったモヤモヤをリリースする方法を持っていないといけないのでしょう。リリースするときに、誰かを傷つけたり加害したりする方法は不適切な犯罪行為です。またこういった被害に遭ったときにどうするか。被害に遭わないようにするためにどうするか。そこも悩ましいところです。明らかに理不尽な加害だというようなことが自分の属するコミュニティなどで行われたときにはそれが不当であることを管理する人や周囲の人に伝え、相談し再び起こらないようにするにはどうするか対策を打っていきたいところです。なかなかそれが可能ではない場合もあるとは思いますがそういったときは、その場から距離をおくことも必要になっていくと思います。理不尽な加害があった場合、被害者は悪くはないけれどそこで口をつぐんでしまい、なかったことにすれば加害者は味をしめて増長していく、という側面もあると思います。そういった行為は許さない、許されないということ自分は受け取るつもりがないということを何らかの態度で表せたらコミュニティの環境ごと変わっていくのかもしれません。誰かに共有することは今の日本では勇気の要ることかもしれませんが共感してくれる人がいれば、理解の輪を広がりも期待できるかもしれない。何よりハラスメント的なことを受けたときのつまり自分を軽んじられ支配されようとしたときの心底不快な気持ちは、やれたことがある人でないとわからないかもしれないしたとえそうだとわかっても口に出せないことも多いのですができうる限り、不当なことだという認識が持てたときには拒否して巻き取られない一歩を考えたいと思っています。
2025.02.05
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誰かにサービスする仕事について思ったこと。特定の人にだけ過剰なサービスをする、というシーンをたまに見ます。仮にそれが自分に対するものなのだとしたら、「特別扱いしてもらった」という嬉しさにつながるのかもしれません。どこを利用してもいいことなら、またここに来よう。そう思う動機になるのかもしれません。ですがこのやり方には落とし穴もあると思います。自分にだけ特別にしてくれる、というのは場面を変えてほかの誰かにだけやってあげていることもある(かもしれない)ということです。みんなには内緒だよ。というのは、簡単に言えば「不公平な対応をしている」ということに他ならないのです。人には「信用」というものが付きまといます。信用とは;他者の言葉や行動、約束、能力などに対して抱く信頼感のこと。その人から物を買いたい。その人に対応してもらいたい。そういうのが信頼だったり信用だったりします。自分にとって「だけ」特別、という気持ちにさせるということは一歩、誰かが自分の中に入り込もうとしている。ともいえるのかもしれません。「私にとってあなたが特別なように、あなたも私に対して特別な気持ちを持ってほしい」の体現が、特別扱いなのかもしれない。特別扱いというのはときに打算的な感情から生まれる場合もあるとは思うのです。
2024.12.28
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ここのところ、SNSやメディアなどでは暴力にまつわるニュースなどが多く報道されています。いま、暴力は罰せられる対象となる犯罪、となることも多いです。だがしかし、昭和の時代などはそこいらじゅうで見聞きしたりもして、その感覚が抜けない人は「そのくらいで」と思うのかもしれない。人を押さえつけることで成り立つ関係というのは、やはり「支配」「被支配」なんだと思う。自分が押さえつけることで自分に対して逆らえない対象がいるということは物事が自分の言いなりになる、実に「自分には都合のいい状況を作り出す」ための手法の一つなんだと思う。だが、それを振るわれる人にとっては人権を無視されている。ニュースなどで取り沙汰されるのは、誰の目から見てもわかりやすい暴力、が多い。え?そんなことで?みたいなことはただ、ニュースにならないだけなのかもしれない。支配したい人は、自分に自信がないのだろう。そうしていないと不安なのだ。自分が無力で、無能で、虐げられる存在かもしれないという感情を心のどこかに持っているから「自分より弱いやつを支配する」ことで自分は強いんだ、と力があることを確認したり実生活が有利に運ぶように誰かを利用したりするのだろう。まやかしの力なんだろうが。支配される人は、支配されながら生きる道というのもあるがどこか心の中で悲しみと情けなさと無力感にさいなまれる。そしてまたどこかで、違う対象に対して形を変えた支配が現れないとも限らない、のかもしれない。「日ごろこのくらいのことが当たり前」だから「自分だってそのくらいのことをしても当然」みたいな空気の中で、当たり前になることがある。それは当たり前じゃない、という認識がないと無意識に…広がっていくんじゃないだろうか。押さえつける事で成り立っている関係は本当に親密な関係とは言い難いし組織などでは持続不可能なのではないかと思うけれど人と人が関わりあうなかで、自分の存在を確かめるために他人に対して支配的な行動をとってしまう人は世の中にたくさんいる。ニュースになるほどではない、そして発している人が悪気がないことであっても相手に対して差別的なことであったり、支配的なこともある。何か、嫌な気持ちになる。というのがバロメーターかなとも思うけれど人間だれしも完全な人はいないので、そこここでそういう場面に出会う、というのは避けられないのかもしれないけど。自分も傷つきたくないのと同時に誰かを傷つけたくない、とも思う。誰かを馬鹿にしたり、蔑んだり、差別したり。無意識に発していることに慎重に、と思った瞬間です。
2024.12.21
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今の職場に入ってから7か月が過ぎました。実は何度か…もう辞めよう、と思ったこともあるのですがだましだまし(?)今日に至っています。新しい職場でも人との出会いがあります。今回の職場はほぼ同年代の主婦の人がメインで、人数は少人数。自分にとっては、比較的働きやすい場所だと感じています。最近、こちらでメインで業務を担っていたスタッフさんが退職されました。理由は…ご本人の心の中にあったとは思うのですがちょうど1年ほど前に、似たような格好なのか?辞めた自分の経験と重なったりもしました。周囲が把握し得る退職理由は「雇用されている会社・上司への不満、納得のいかなさ」みたいなものが前面に出ていると思いますが自分の経験を振り返っても、最後は自分に返るのだろうなということです。言い換えれば「自分の居場所のなさ」みたいなものでしょうか。前の職場は、違法とは言えない範囲の人の動きで、だんだん自分の居場所のなさを私が感じてしまったというのはあります。具体的にいうと、年齢、みたいなことですね。いや、私が気にしなければよかっただけの話です。でもなんとなく、肩身が狭くなってしまった。そして転職した今の場所で、主だったスタッフさんが辞めるということはもしかしたら似たような動機があったかもしれません。(年齢は同年代ですけれど)***職場というのは、人が集まって業務を行うのでそこここで「合う」「合わない」みたいな人間関係の話がありがちです。今の世の中、人の嫌がる言動を行うとハラスメント、と認定される時代です。一人ひとりの人権を踏みにじるようなことは許されない。そういう時代の中で、厳しく見られる世の中です。自分は人が人に行う、理不尽な行為に多少敏感なのかもしれません。謂れのない落とされ方をしたときに感じる違和感など。会話や行動のなかでさらっと行われていて、その時には気付かないこともあります。もう何十年も前からそういう違和感を感じながら生きてきた気もします。そこここにある、ということでしょうか。それでも自分は今の職場に転職してきて収穫もあったと感じています。それは自分の中の問題にも気づくことができたことです。他人や家族と接する中で感じる違和感に反応するのはその違和感の中に自分を見るから反応するんだろうと思います。「あの人は〇〇でとんでもない人だ」とまるで自分には無関係のような言い方をしながらそれに該当する部分が(割合はともかく)自分にもあったりします。昨今、「あの人は〇〇だ」という貶し文句の中に自分を見ます。あの人はね、ああでこうでこういう人なんだよ。という言葉の中に、あ、それ私だわ。みたいなことが多くて、そばで話を聞きながらつい遠い目をしてしまいます。そうか。今の周囲の人が嫌っている点に私自身もけっこう該当するなァ。と思わざるを得ないほど共通項がある。「あの人、こういう仕事は好きなんだよね」あ。私も好きかも。「あの人、〇〇な人にたいしてこういう対応するんだよ」あ、私もそうかもしれない。言えやしないよ…と言葉を飲み込み返事は「へえ」とまるで他人事のような返し方、酷い人間ですね私も。でも心の中で深く…私もだ…と感じていたのです。業務に支障が出ることや道徳的観点に自分の正義感も手伝って?黙っていられないこともあったりで不正や不適切が居心地悪い空気につながったのかなとも思うけれどそうして不正の温床みたいなことが解決しつつある今のこるのが「自分だってそうかわりゃしない」みたいなことで。偉そうなこと言ってたって、皮一枚剥がせばそんなに違うんだろうか?って思うこともたくさんある。人は育ってきた中で、つい求めてしまう何かがあって大人になってもそれを引きずっていたりするしひょんなことでその個性が顔を出してしまうことがある。本人はまるで間違ってはいないという確信のもと大きな声で話す背景が「大きな承認欲求」みたいなことでなんだか、クレクレな子どもなんだなと思う。そういうのを自分の中に見てしまった近年。***主だったスタッフが辞めて、職場は「人的に」火の車だけれどなんというのか、依存症の人が依存先がなくなったときに感じる空虚感というのかそういうぽっかりしたものを感じなくはないのですが。でも他のスタッフも言っている。「あんなこと言われないか、こんなこと言われないか」と怯えて神経つかうようなことはこれでなくなった、と。これまでやってこなかった(これなかった)業務にて失敗などもありつつそれを過度に責めたり騒ぎにしたり陰口叩いたりそういうことはかなり、少なくなっていると…勝手に思っています。(あれ?私に聞こえてこないだけ?)搾取っていいますけど何を搾取されていたのかな。一人ひとりが安心して働ける環境は簡単でもなくて平気な顔してその安心を踏みつぶしていく人がいたりするものです。奪われたくないものを、とりあえずそんなに奪われなくなったかな、というそういう感想です。これってまあまあ重大なことだとは思うのですけど。人的には安心しながら、でも仕事や業務にはシビアに向き合う。そういう職場で働いていたい。そんなことを思うこのごろです。
2024.12.12
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これまで出会ってきた人を思い起こしながら長年つきあっても、最終的にどうにも関わりが難しくなった人には特徴があることに気付きます。それは自分の非を認められないというものです。つまり、ごめんなさい、が言えない。自分が悪くもないのにやたらめったら謝罪する必要はないと思うのですが多少なりとも自分に非がある可能性があることについてごめんなさいが言えない人 というのは、まず、自分の非を自分で受け止められない弱さがあるのだと思います。それは自分に自信がないから。そのうえで目の前で指摘された「非」について受け止めてしまったらその人の自尊心が崩壊してしまうのかもしれません。だから、受け止める事ができないし、受け止めたうえでの謝罪ができない。いい大人が謝れないのか、と思うシーンがたまにありますがそれは「私は弱い人間だから謝ったら死ぬ」病なのだと思うことが多くなりました。謝れる人は、自分の間違いや弱さを受け止められる強い人なのかもしれません。***ごめんなさいが言えない人は、自分の非を認められない。と仮定してそういう人は、似たような目線で…他人のすごさを認められないという特徴もあわせもっています。言い換えると「他人をほめたら死ぬ」病かもしれない。これまで私が濃厚めに関わってきた人に、上記の特徴を持つ人がいてそういう人は、常に自分に自信がないので、自分より力を持っていそうな人を「脅威」に感じるのではないかと思います。自分に持っていない何かをもっている人、近くにいるその人をそばで「搾取」する。その人の力は自分のもの。たとえば社会的立場で自分の配下にあるような人のばあい、その人の力をさも自分の力のように取り込み、語る。搾取される人は、それを感じていながらその場から動くことができないことからその場所に居続けて、「陰で支えることへのやりがい」みたいなことを感じている。その「陰で支える」というのはたとえ自分がどんなに優れていたとしても、なにか力を持っていたとしても「自分の評価」にはならないのです。それに日々晒される。自分の頑張りのはずなのに、それを具体的に評価する人はいない。自分のそばで搾取する人は、力のある人を評価することはせずそこで搾取した力をさも「自分の力である」かのようにふるまう。それも目の当たりしている搾取された人はどうなるか…。自分の人生を振り返ると、搾取され続けてもう無理だ、とぺしゃんこになったことがある。その理由を考えてみたら、やはりそこに行きつくのです。***「ほめる」ことはしないとしても、日々の小さなあれこれに感謝の気持ちを述べるということは、健全な関係の人同士なら交わされるであろう当たり前の「礼儀」であろうと思われますがそれができない人もいる。いかに多くの人と「社交的な会話」ができようとごく身近で支えてくれる人に感謝を述べることができない人。なんというのか本当の意味での「品性」について…考えさせられるのです。
2024.10.11
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職場の中でメインで働いていたスタッフが辞めることになりました。繁忙期をのぞく通年のスタッフはこのスタッフ以外に4人いますが、みな週2くらいしか勤務しないので、実質の業務のメインは週5で来る人にかかってきます。その人が(あえていうと辞める準備もできていないタイミングで)急に辞めるとなると当たり前ですが、業務がわからなくて困ることがでてきます。まったくもって個人的なことですが私がまえの職場を退職したのもまあまあ急に決めたことで辞めると決めてから実質勤務したのは半月ほどでした。ですが、私がいうのもなんですが…そこで一緒に勤務していたスタッフは私が辞めたとてそんなに困らなかったと思います。なぜかというと…ほとんどの業務を日ごろから共有しており、また分担を決めてあることも私が辞めると決めたタイミングで、これはこうなっていてここに購入力してもらって、月初にここに報告してね、というくらいだったと思います。実質、人が一人来なくなることでの負担というのは…人時がうまらないという困りごとは社としてあったとして…実質、セクションの業務に支障がでるということはあまりなかったのでは?と思っています。***そして今の職場。メインのスタッフが急に辞める…そして、メインの業務をその人がほぼやっていたため急にいなくなったことで、その人がやっていた業務を他のスタッフが担うことになりますが初めてのことだったり、申し送りをもらっていないと「わからない」という現象に陥る。実際、今日も…「これは教えてもらっていない」「これは聞いていない」という事態がありある程度は想定内とはいえど…実際は困る。でも「教わってないのだからわからない」といったところで、らちが明かないのでそれでキレても仕方がない、と腹をくくろうと思った本日でした。こちらに必要なのは「覚悟」かもしれない。
2024.10.10
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他人の目を軸に生きてきた人はとかく、自分の感じる「快・不快」は後回しになりがちではないでしょうか。人が来るから家を片づけなくちゃは、この30年の自分のコトではあります…。べつに…この家に一番長くいるのは私であり私の家族でありつまり…自分たちが住んでいるメインなのだから自分たち中心で考えればいいじゃないか片づけとか掃除とか誰がみるとかくるとかそれも原動力になるのだけど…誰が見なくても自分のためにやればいいじゃないかそういう「肩の力がぬける」ような暮らし方ができたらいいな(理想…)だれかにどうこう言われる必要もない評価のためにやることは、どこまで行っても満たされないのだと思うだって他人の感情はあちらのもの何をどう感じるかは相手のものですからその前に自分が感じる、を大切にしよう。
2024.10.05
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自己愛性人格障害。最近、気になっているキーワードです。身近な人でこういう人がたまにいたりする。特徴をネットなどで調べたりすると、見事に合致する。なぜでしょう、みんな知り合いでもないのに、ケースにだいたい当てはまる。それは人間が感情を持つ生物であり、その中で生き延びなくてはいけない策としてそういった保身から言動に出てしまうのでしょう。***自分もめんどくさい性分だと思っているのでこれまで関わってきてくれた人に「この人めんどう」と思わせたことが多々あるとは思います。多くの人のパターンを見ていくに従い、こういった同じパターンの人がいてその人の周囲に被害者がいて、困っている人がいてその人がどうしてそうなっているのか探ってみると自我の形成についての特徴があるということがわかり呼称が決められたりするのでしょう。それにしても嘘をつくとか だますとか 陥れるとか激高するとか 人から搾取するとか 無責任になるとか自分の近くにいたら…被害が深刻でしょう。「恣意的ではなく」自然にそういうことをやってしまう人への対応は同じ土俵にのって感情的にならないことアドバイスや進言はしない(自分への批判を嫌う)ここからすごいと思うことは本心からほめる(自分が特別な人だと思っているので)勝ち負けを競わない安易に人の言うことを鵜吞みにしない自分も優劣で人や物事を判断しない証拠を残すこと世話になったらその点には感謝しつつあまり頼らないようにするまずは…理不尽なことにこちらが腹を立てずに済むか?ですが被害を被っている人は早めに離れるのに越したことはないようです。間違ってもその人を正そうとか教えようとか話せばわかるとかそういうことをしたり、努力しようとしないことが大事。
2024.09.28
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4月の末から新しい仕事に就くことになりました。昨年末で一つの仕事をきりにしてきました。そんな中、大事なんだろうなということに気付きがあったので記しておこうと思います。***やりがいとか、ミッションとか。そういうのは何かと原動力になる。生きていく上で、必要ないとは思わないけれどそれを持ち出すタイミングがあるのかもしれません。たとえば、自分などは、前の職場でアルバイトとして働いてきましたがひょっとして、アルバイト以上のことをしようとしたのかもしれない。本来の自分の役割を「超えた」何かに気付いて、何かを求める。そのためには自分の意志とか気持ちだけではどうにもならなくて決定権のある人に働きかけようとするもうまくいかない。そして撃沈するというパターンです。お客様のために、こうしたらいい、ああするといい、というようなこと。上司はこまごまと口を出さない人だったから、ある程度は自分がいいと思うやり方で自由にやらせてもらったことがたくさんありました。でも今思うと、もしかしたらアルバイトの自分がそこまでやる必要はなかったのかもしれない。求められてもいなかったのかもしれない。でも非効率なやり方でお客様にご迷惑がかかるなら、改善の余地がある。禁止されずやっていいよといってもらえて、進めたこともある。それは上司の寛容性のなせる業なのか(もしくは反対するのも面倒がられていた可能性もある)とにかく…工夫してやっていこうという気持ちはあって進めたこともたくさんあった。だが、もっとこうならいいのに、がどんどん出てきて、欲深くなったのかもしれない。何かを求めすぎたのかもしれないです。***そして今の職場。まだ数回しか出向いていませんが、そんな素人目にもあ、、、ここはこうしたらこんな手作業いらなくなるのに。みたいなことが山のようにあります。昭和時代の遺産のようなやり方で進めているなと。そのために、定時より時間が過ぎてしまう。非効率だなと…でもこれまでここで従事した人はそういうことを思わなかったのか、知らないのか、そのあたりは定かではありませんが。私の悪い癖は、「ここをこう工夫したらいいのに」を思ってしまうところです。新しく来た人間が、中のことをよくわかりもしないのに改善案を提案するのは出過ぎたことなのかもしれません。つい、こうしたらいいのに。みたいなことを思ってしまうのは、出過ぎたことかもしれない。そしてこうしたらいいのに、が自分の帰宅時刻などと直結しているのでちゃんとやってほしい、などと思ってしまうのだけれど・・・それが仮に、「経費削減のための業務改善」だったとしても。入ったばかりの、それもアルバイトの私の仕事ではない。ということを、肝に銘じなければならないと思います。私の仕事、役割ではない。そこにはっきり、境界を設けないといけないなと思っています。なぜかというと自分は責任者ではないからです。そこの場を改善する責任を負っているわけではない。だから求められもしないのに、中途半端に意見を述べたり、手や口を出すべきではないのかもしれない。責任を負う、という立場の人なら他にいるのです。いまの遅れたやり方で、人件費が余分にかかっている。非効率なやり方でロスがある。したがって、利益をそこねているとしてもそれは私の責任ではないし、私の仕事ではない。はず。責任をとれない人間がやるべきではない、のかも。仮に・・・責任ある人に「どうしたらいいと思う?」とたずねられたとしたら何かしら答えることがあるかもしれない。でも聞かれない限り・・・自分がそれに「こうしたら」というべきではないと心にとめておかなくてはなりません。これが、半年、何年、と経ってきて、さらに具体的な改善案が自分に浮かべばそしてそういう話をしても「お前に何がわかる」と言われない経験があればもしかしたら自分が思うことを口にしても、いいこともあるのかもしれない。けれどそれもわからない。責任のない立場の者が理想だけ述べるのは、場合によって現場の責任者の士気を下げる気がする。だから、今は黙って一通りのことをミスなくやれるようになるのが先なのかもしれない。立場以上のことに手や口を突っ込もうとして、撃沈する前にこの場所にいさせてもらえている機会に感謝しつつ、自分がそこで何か役に立てるのが先。かもしれません。***わかってなさそうな奴にえらそうなことを並べられる、っていうのは害悪しかないのかも(笑)だって、いくらそれが正しくても、「そいつの話は聞きたくない」と思われたら、どんなにいい話をしたとしても、聞く耳を持ってもらえないのですから。それはもう初めからコケている!作戦ミスですね。これまでの私はそういうことがまるでわからなくてつい、口に出してしまうことが多かった。もちろん、相談して変えていって、よかったこともあると自負はあります。だけど、組織にはいろんな事情がある!(私のような中年アルバイトがバンバンアイディアだしてうまくいったりすると立場が悪くなる上部の人がいたり。正社員がいたり。)上司はこうあるべき、はあるとしてもその当たり前が人によって本当に違うというのも、これまで学習してきたことです。上司であっても万能なはずもなく(みな人間だもの)そこに過剰な期待をもってしまうのは本当に、破滅につながる第一歩なのです。そして・・・おまけ自分だけ優等生になろうとしないこと!これ大事・・・。いや、仲間とつるむのが嫌いだから、一人で当たり前のことをしているだけのつもりではありますが。少し、そういう意識をもってするとこれまでの何かとは違う結果が生まれるかもしれない。頭に浮かんだので、つれづれなるまま書き綴りました。これの答えがでたらまた報告できたらいいです。
2024.05.06
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今朝は嵐のような雨だったけれど、風と共に雲は去り、一気に気温が上がる日になりました昨日、ふと思ったことがあるので誰かから自分に向けられたことばというのは、自分を映す鏡。でもあるのかもしれない「敵が多いね」旧知の方と久しぶりに会って話したときのワードですその方には自分の職場関係の話をしたときにこういう人がいてこまっている!というような半ば愚痴のような話をしたのですがおそらくそれを指して出たワードだとおもいますたしかに…けしからん人の話をして私が立腹しているのを見ての発言そう、私は怒っている腹の立つ話をして怒っているのだとおもえばこういうことはこれまでも何度もあってそれがみじかな人であることもままあり、もうすこし広範囲の物事にたいしてであったりもしたその一歩手前に「正義感」みたいなワードが自分の中にいっぱい溢れてそこから正義感からの怒りに変わっていったんだと思いますそこで発する言葉は刃のようにするどくなり振りかざすなり振り回すなり、傷つけた人がいたかもしれないひとからみればさして大した話でもないのに正義、正論をもとに腹が立ってしまうんだろう(自分のことです)これは。。もはや思考の癖みたいなもので、ぐるぐると自分をしばっているそう簡単に解くことはできないのかもしれないけど自分をぐるぐる縛っているといいましたが刃は外に向いているようで、それで傷つける相手もいたりするけれど結局、それは最後は自分に戻ってくるようにも思うのですつまり私はひとをゆるしていないのですだから腹が立つし裁こうとするだがしかし、自分の中にあるそういった感情はめぐりめぐって自分に戻ってくるそれは以前他人の失敗を許せない最中に自分も失敗をおかしたりしてはじめて許されないこととは?と考えることになった、それと同じゆるさないからゆるされないそういった思考の癖みたいなのが自分にあると気づいた瞬間人はまちがえるし、完璧な人などいない不利益をこうむったら相手を責めたくなってしまうそれは普通の感情なんだとは思うけれどそれを始終やっていたら当然自分もゆるされない、が答えになってしまうつまりただただ…自分がくるしくなっていくだけなんだとようやく今頃きづいているのです誰に対する何の怒りなのかちょっと答えはわからないけどもしかしたら向けるべき人に向けられていない怒りや不寛容があるのではないかとちょっと疑ってみてもいいかもしれない***ちょっと前まで自分は正しくて相手が間違っている、あの人のせいだとそういうことで頭がいっぱいになっていたそういう自分はどうですか?間違えないのですか?いつも正しいのですか?そんなわけはないけど相手よりは自分のほうがましだとか自分は誠実に生きているからだとかそういう気持ちで誰かのまちがいや未熟さみたいなものを正そうとしていたのかもしれないつい正したくなるのも私の思考、行動パターンの一つだとは思うのですが(簡単には変わらないのかもしれないけれど)そうなるとほんとこれからもしんどい生き方をすることになるのかなとか人を裁くような考え以外のパターンを探っていければいいかなと思うのですきっと簡単ではないとは思うけれどつづく
2024.03.29
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お笑いの中に「人を貶めて笑いをとる」という種類の「笑い」があるねという話を今日、家族と話していました。人を馬鹿にしたり…なんというかそういう笑いでしょうか。実は先日まで私が所属していた職場にもそういった類の人たちがいてなぜそんなことをするのか、不思議で仕方なかったのです。ですが…今日、家族と話していてふと…腑に落ちたというか。そういう感覚があったので書き記しておこうと思ったのです。***私はいわゆる動画投稿配信サイト「YouTube」をそんなには見ません。ハンドメイドの方法を知りたいときとか、アーディストの歌を検索した時くらいしか見ないのですが夫がいうには…そういった動画投稿サイトには多種多様な投稿がされているのだといいます。格好からやっていることまで、いわゆる自分たちの思う「世間一般」とはかけ離れたことをやっている人がいる。そういった世間一般からかけ離れたことだからこそ人はおもしろがってチャンネル登録をして何度も視たいと思うのかもしれないと。これまでいわれてきた世間一般の常識の範囲のものでは「注目してもらえない」それが今の若い人たちの常識なのでしょうか。私が職場で見た光景は20代30代の新しく入社した女性たちがその職場の責任者である上司や、先にいた先輩に敬語をつかわないいわゆる「タメ口」で話し、人をアゴで使うような態度でした。あまりにルールに外れた業務のやり方に、「こうしてほしい」と私からお願いをしても無視されたことも複数回あります。…上記のような態度は世間一般のオフィスにおいては非常識と言わざるを得ない態度だと思います。それに違和感を持った人は私だけではありません。複数人が違和感を唱え、どうしたらいいのか…随分頭を抱えたものです。上司に相談もしましたが、取り合ってもらえませんでした。新しい人が入ってから突如、そういう雰囲気にガラリと変わってしまったのです。ですが上司がそれを容認する以上、「そういう職場に変わった」と認識するしかありません。***私は、「これまでの世間一般の常識」しか認識していなかったため上司にタメ口でしゃべるとか顎で使うようなことをすることに対して非常識であるとか違和感しか感じなかったのですが今日、夫と話してあらためておもったのはこういった「奇をてらった行動」をクソ真面目にやる人がいるのでは?ということです。これまでどおりの「常識的」な行動をしているだけでは世間一般では認めてもらえない、というムードが今の世の中にあるのではないか。それは、動画投稿サイトなどの再生数などを見るに明らかなことであるとするならば新しく入った職場で、これまでのような「常識的な」行動をしていたのでは認めてもらえない、注目してもらえない。そういった理由でクソ真面目に、不真面目な、私たちの思う「非常識な」行動をする人たちがいるのではないか。だから行動だけみていると「クソ非常識」なのだけれど行動している当人たちは「クソ真面目」というなんとも…相反するような、不思議な現象がおこっているのではないか。という仮定を立てている自分です。もしこの仮定が正しいのであれば新しく入った若い女性たちが行っていた、上司や先輩をいじる態度も「良かれと思ってやっている」ことになるのでしょう。自分は、職場とは、オフィスでの態度とは、という感覚を「世間一般常識としてこうだ」と思う方法で職場での立ち居ふるまいを考えてきました。ですが、それが「奇をてらった行動こそが正しい」に則って行われるべきとなれば自分が行ってきた基準はすべてひっくり返ることになります。それでは「奇をてらったことをしないといけない」と思いながらオフィスにいる人と自分とでは接点を持てるはずがありません。(ここで唖然とする)どうして自分に非があるように言われる必要があるのか、どうしても理解できなかったけれどふと、夫との「人を貶める笑いをとる」という話の中でそういった態度でないと生き残れない発想の人がいるのではという仮定からもと居た職場の状況を鑑みるに、なるほど、と思わざるを得ないような感覚に陥ったのでした。
2024.01.26
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今年、仕事を辞めたことで思うことたくさんあって正直、あれが嫌だった、これが嫌だったってこともたくさんあったわけですが。ただ、思い返すとそんなことばかりでもなかったかもしれないです。優しいお客様。職場の先輩、仲間。いつも優しく声をかけてくれた方がたくさんいました。その空間は決して嫌なものではなかった。思いを共にできる人もたくさんいたし自分の気持ちをそっとわかってくれた人もたくさんいたと思う。だからとても貴重な機会をいただいたんだと思います。感謝。やっぱり人は人でありみんな気持ちがあるもの。未熟すぎる自分だけどもしこんど別の仕事の場などで出会った人たちにはいずれさよならが来るときに「一緒にはたらけてよかった」って言ってもらえるような関わり方ができるようにこういうのを一期一会、っていうのですよね。機会を大切に。自分で決心して行動できたことだって自分の行動力。周囲の人に対してやれること自分が果たす責任と頼ることと相談することとやれることは全部やってきたんだと思う。だから最後に決めることができた。それぞれ一生懸命だろうから。出会いに感謝。そういう大切な1年になりました。
2023.12.31
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先日まで自分が働いていた職場では、「アルバイトの評価制度」がありませんでした。(賃金も…一応最低賃金ではありました)つまり、業務の中で何をがんばっても(がんばらなくても)時給は変わらないということです。もしそのアルバイトを評価する場面があるとしたら、契約期間が満了になったときに更新するか?しないか?というときに「更新しますのでさらに〇か月、〇年働いてほしい」といってもらえるかどうか?くらいでしょうか。一度、職場の上司にこの「アルバイトの評価制度」について質問したことがあります。そうしたら「そういうものはないですね」との回答がありました。なるほど、そうか。となりました。オープン当初はアルバイトだった先輩が、前回の投稿に登場したAさんが退職した後のタイミングでフルタイムに昇級?したことはありました。フルタイムの区分けの従業員が辞めたというのもあったかもしれないし理由はわかりませんが。アルバイトが自分の業務に向上心を持って取り組むことが望ましいと思いますがそのモチベーションをいかに保つのか?というところで、昇級・昇給制度があったりする職場もあるでしょう。逆にその制度がないということは「とりあえず出社して業務に携わってやるべきことをやってくれればいいよ」というようなことでしょうか。働く人に、次の課題を指し示すことをしないのでステップアップもないということです。(あるとしたら社員やフルタイム職員への登用ですがこれも規定が明確ではなかったです)アルバイトなり従業員にステップアップを促さないという背景は何か?雇用する側が昇給したくないということでしょうか。業務の負荷を増やさない代わりに給与も上げる予定がない。これは…何を意味するのか?その理由は①人件費を上げたくない②現在権限をもつ管理職や社員という職員の地位を守るためではないかと想像しました。①は、サービスレベルや働く人のスキルを上げるという発想がないからでしょうか?いや、レベルは上げてほしいけど給与を上げるつもりはないから「各自、勤務年数に沿った努力をしスキルは上げて行ってね。でも給与は上げないよ。」ということ。②は仮に、アルバイトなどが社員以上の能力があったりする場合管理職や社員の地位があやぶまれる(場合によって、降格?)のを避けたいから?あくまで想像ですが、そういった心理はないでしょうか。この辺りで、その企業の、「働く人への考え方」が現れていると思います。人はより誰かの役に立ちたい、努力して自分を向上させたいと思うものだと仮定した場合評価制度がないというのは、従業員にとって何を頑張っても同じ、頭打ち状態ですし自分には何も期待されていないのだなと思われても致し方ないのかなとも思います。「いや、給与にかかわらず自分は今の業務に対して自分の仕事をより高めたいと思っています。」という従業員ももちろんいると思いますが。現に自分も施設長に「期待していますよ」と入社当時に言われたものですが今になって思うとあの期待というのは「とりあえず一通りのことができるようになって、さらに精進してサービスレベルを上げてくれるとうれしいな」ということでしょうけれど、それには「あ、でも給与上げたりはしないから、今の給与分しっかり働いてね」という意味も含まれていたのかもしれないとも思います。世の中の大半の企業がそうなのかもしれませんが従業員に対して・どこまでのものを求めるかが明確で働く当人にも共有している・それがなしえているか時期をきめて確認している・課題に対して適切な評価をし、評価を形にする(昇給など)というようなことをやっていないのかも…。(やっているところが少ない)やっていないのかやれないのかわかりませんが。少なくとも自分の勤務していた職場ではそういったものが指し示されていなかったしこちらから質問したこともありますが、それに対して明確な返答もありませんでした。ただ自分が「自分なりの」課題を見つけて、判断が必要なことは具体的に提案し進めてきたことはありますが、「評価はなし」(むしろ、求めてもないのにいろいろ提案してきて面倒なアルバイト認定されていた可能性もあるかも!)今思うと自分が求められていた「理想のアルバイト像」は決まった賃金に不満を持たず、決められたことに対して意見や文句を言わず従順に勤務することだったのかもしれません。課題を見つけ、問題提起して意見をいうなど、出過ぎた行動だったのかもしれません。(がいかんせん、自分の性分ゆえにそういう行動に出てしまうこともありました)昇級・昇給制度はなぜあるのか…所属する年数に比例して業務に対する習熟度が上がると考えるとそういった「ベテラン」がいることが職場にとっては「強み」となるのではないか。(あくまで習熟度が上がった人を求めるかどうかにもよるかと思いますが)「働く一人の人として業務に対する姿勢と習熟」を求めるのかはたまた「何も知らないフレッシュな(若い)人材」を求めるのか、で答えが違ってくるのかもしれません。私の印象としては、自分のいた職場の印象は後者で所属年数を重ねた人は不要で、新しい人を重用していきたい。といった考えなのだろうと思われるような姿勢でした。それも企業の方針といってしまえばそれまでですが業務の年月を重ね、さらに何ができるか考えながら働きたい者としては居場所がなくなる残念な思いは残ってしまいましたが。それもそれぞれ職場の判断次第、なのでしょうか。***人件費、という数字と生産性、という数字は無関係ではないとは思いますが昇給により従業員の習熟度、サービスレベルなどが上がることでのプラスによってより生産性が上がるのだとしたら、それによる人件費のアップは無意味なことではない。だからこその昇級制度なのでは?とここまで来て思いました。お客様は最後は満足度で足を運ぶ場所やサービスを選ぶのだと思います。何をどう提供するのがお客様のためなのか。その考え方が、職場によって違ってくるのでしょう。
2023.12.28
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この3年くらい、このブログを読み直してみると、苦悩が満ち溢れていました。(笑)かなり苦悩している!(笑)ほとんど、職場でのことをどうにか乗り越えたいと…自分の考え方やスタンスを変えようとか何とかしようともがいていた形跡がうかがえます。が…思うと、もう初めから厳しかったのかな、と本当に感情の「軌跡」が見えます。やはり、人は人であって、どこかで人に出会ってもやっぱり人として扱ってほしいものです。労働力といえど「人」雇用する人が望むような「労働力」であることが求められるのだろうけれどその前にまず「人」だから、どんな技能や能力にたけているとしても、その前にまず「人」としてまずいことが出来てしまう人は良くないという結論に達してしまうのだと思います。***人間なので、合う、合わないはあるんだと思います。私が3年余り前に入社したときに、私に仕事を教えた人が数人いたのですが社内の決まりというわけでもなく、新しくできた部署を取り仕切っていたAさん。やり手だと彼女の仕事を評価する人は多くいました。が、私が入社して8か月後くらいに退職されました。Aさんはバリバリのキャリアのある方でフルタイムで働いている方のようでした。新しく入った私については、お気に召さなかった点があったんだろうと推測できる言動が多々ありました。私の前任者の方は当時から逆算して2か月ほど前に派遣で入られた方だったようでした。ですが…そのAさんが「やめさせる」といっていて、やめることとなったそうです。(前任者ご本人に聞きました)とにかくAさんは自分の気に入らないとあたりが強くなる人で(言動、態度)前任者さんとは私は2日ほどしか同日に勤務しませんでしたが、Aさんのいる事務所に入って休憩をとるのがとにかく苦痛だと話していました。派遣社員さんだったようで、契約が終了してしまった前任者さん、あとでAさんに理由を聞くと「Excelが使えないような人は必要ない」とのこと…。普通の表などはつくっていたようですが、どこまでのことを求められたのか?とにかくそういう理由だったようです。とても接客が上手な前任者さんでしたが、そこでお会いする機会もなくなりました。***Excelというと、私もそのスキルを試された一件がありました。その職場ではアクティビティの体験という事業がありました。有料で体験を提供するのですが、その予約から利用状況を報告するのも自分の業務にありました。ある日、Aさんが私にいいました。「このアクティビティ、何曜日に何件利用があったが一発でわかる表を作って」正直、月間数件みたいな利用状況だったけれど、さらに「曜日別」にする必要があったのかどうか?今となってはわかりませんが、とにかく「曜日別の件数がわかる表」がミッションでした。私はその指示に対して質問をしました。「平日と休日を分けるとかではなく、曜日別ですか?」「申し訳ありません、表の軸のイメージができなくて、どんな感じにしましょうか?」と恐る恐る聞いたのを覚えています。そうすると、Aさんは面倒くさそうにこう答えました。「だから、曜日別!表?だからこっちが日付でこっちが曜日で、みたいな感じで!」殴り書きのメモを渡されたので、わかりました、とその場を後に。27年専業主婦だった自分が、Excelでこういう表が作れるのか?指示を聞いたときに、、、顔面蒼白になりました。そんなことまで…できないといけないの?そして先日の前任者さんのことが頭に浮かびました。「Excelができないからやめてもらう」…そうか、これができないと私、辞めさせられるかも?(そもそも採用は販売とインフォメーション業務だったので、ここまでのExcelスキルは必要だったのかどうか、今でも謎ではあります)おそらくAさんは、何のキャリアもない専業主婦から採用された私にこういうお題を出せばやれないだろうなと予想していたのかも?と想像します。それで…私がもし「できません」といったら…Excel使えないと困るから、と辞めさせられたかもしれません。指示のあった日から私は業務の合間に作表をしようとネットなどでいろいろ調べてみました。幸い、やり方が掲載されているページもありましたし、私が専業主婦時代に市の講座で「Excel中級」を受講していたので、関数などについてもうっすら覚えがありましたので、やり方を見ながら、こういう意味のことをやればいいのか?と関数を当てはめていきました。結果…なんとか、日別に数を入力していけば、最終的に曜日別に数を知ることができる表が出来上がりました。心底、ほっとしました。そして、その表を指示を出したAさんにメール添付で送り、確認をお願いいたしますと添えました。ところが…1週間経っても、何の音沙汰もなくそれでいいのかいけないのかもわかりません。一度直接聞いてみようと事務所で尋ねたところ…(ちょうど虫の居所がわるかったのか)「そんな表!私が自分で作ろうと思ったら作れるんだから!要りません!」と言われてしまいました。…え、そうなんですか?指示を出されたのでそのようにしたら、自分でやるから必要ないと言われ業務でそんなことってあるんだとビックリしてしまったのでした。ここからは想像でしかないのですが、Aさんはもしかしたら、私を試すつもりで上記のような指示をしたのかもしれません。そしてもしできなければ、「あの人はExcelが使えないので使える人を採用してください」と上司にあたる人に話したかもしれません。実際、前任者さんも見る限り、決してExcelが使えないようには見受けられなかったのですがそれを理由に解雇されているので、同じようなパターンかなと…。職務経験があまりないのでわからないけれど、気に入らない人がいたときに辞めさせる口実に、こういうやり方があるのかな?とふと思った次第です。(実際はわかりません)そして…PCの技術を理由に辞めさせられることはなかったのですが、そのあとからもAさんのあたりは強く、という日々が始まりました。
2023.12.28
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気付けば年の瀬…皆さん今年一年、どんな風に過ごされていたでしょうか。自分のことで個人的な印象深い出来事というと、3年半ほど勤めていた職場をつい先日退職したことでしょうか。退職を決めたのは11月11日。12月12日付で退職しました。勤務していたのは地元でも話題の某施設。個人的に27年ぶりの有給の仕事に就くこととなり、ありがたいやら楽しいやら。の日々…だったはずなのですが、それは、まあ…。(笑)ハラスメントあり、差別あり、なかなか盛沢山ではありました。最初にハラスメント案件があったときは…とにかく辞めたくなくて被害を申し出た自分が辞めなくて済む方法をとにかく考えたり。被害を申し出たのに、施設の長に「喧嘩両成敗だから」みたいなことを言われてかなり驚きました。副施設長には「(ハラスメントの加害者の)経理担当者が辞めるほうが今の職場にとってはこまる」とはっきり言われましたし、(別に辞めさせる権限が私にあるわけがないのですが)なかなか、事なかれ主義な部分が表面に出ていましたね。思えばこのころから、職場からは私は面倒くさがられていたのかもしれません。(笑)ただ被害を申し出ただけなのに辞めさせられたり、っていうことが理不尽過ぎて、そうならないように踏ん張った感じでしょうか。ハラスメントなんて職場では普通にあるし、加害者とされた人にだってその意思がない場合もあったり業務指導なのかなんなのか?っていうのは、被害の申し出や相談があったときに管理職がきちんと双方に聞き取りをして、何らかの方策をとるのが一般的なのかな?と思いますが社内にいてもこういったケースは、被害を訴えられた人を辞めさせるというような暗黙のルールみたいのがありましたね。実際はやめさせられないので、こう遠まわしに話して本人に辞めると言わせる的な…(ハラスメント以外でも)よその企業がどうなのかはわかりませんが、そういうことがまかり通る職場でした。なにせ…第三セクターで、管理職が役所の人とか某組織からの出向の人とかだったのでそのせいかどうかわかりませんが一般的な企業の管理は難しかったのかなと思わざるを得ないような対応がかなりあり…。私のようなアルバイトが何を言っても変わるはずもないですがこう、性格もあって…疑問におもったり、これはどうか?と思ったことについては施設長、副施設長ともに直接話を聞いてもらう場を持たせてもらいましたが…何度お話ししても説明を聞いても、堂々巡りだったなというのが正直なところです。アルバイトだからなのか、業務についての共有もしてもらえないことも多く(これは社内の大半の人の意見でした)そのせいでお客様にご迷惑がかかることもしばしば…ですがこういうのも管理職の方の意識しだいといいますが…あまり重きを置かれていないのか、ただ忘れてしまうのか?みたいなこともたくさんありましたね。私は大昔ではありますが、小売り流通業に従事していたころがあり、入社時の社員研修でとにかく「お客様のお役に立つ」を叩き込まれたせいもあると思うのですがその目線で物事を考えないと。という意識を持ってしまっていたのですがいくらサービス業だとはいえ、従事する人や管理職がすべてそういう気持ちでいるわけもありません。それを、自分がどうしても不可思議でしかたがなかったということ。また、従業員に対して理不尽な差別が露骨にあり(縁故による依怙贔屓など)これも管轄の役所に相談するも(出向の人を通してですが)らちが明かないという結末でとにかく安心して働くことが難しいと判断したうえに決めた退職でした。ですがまあ、こういう職場はそこいらじゅうにあるものだと夫などには言われたりもして珍しくもないのでしょう。勝手に私が期待しすぎていたのかもしれません。ずっと、どこかでお勤めしたいという気持ちがありながら諸事情でそれが叶いませんでしたがこの歳になって、やってみたいことは後悔ないようにしたい気持ちだとかそのほかにも理由はありますが、出会った求人に、これだ!と思い切った応募をしたことから始まりました。業務については過去におこなっていた経験も活かせる部分も多々あったとは思いますがなにぶん、ブランクが長すぎだったり、自分の年齢だったり。職場の期待するような働きができていたのかどうかはわかりませんが…自分が退職の意思をかためたときに、多くの方に「やめなくていい人がやめていく」という声をかけていただいたので、微細なお役に立つことはあったのかもしれないと思いたいところです。都合というのは誰の目からみた都合なのか、という点もありますし私個人としてはもっと働いていたかった、という気持ちが正直ありましたが職場の人からみたらどうだったのかな?なんでもハイハイと素直に聞くばかりではなく、質問や意見を述べるアルバイトは邪魔だったかもしれない。それに50代となると…上司の中にはあきらかにそれを苦にしているなという方もいましたし。業務に対する疑問質問にこたえてもらえなくなったら…いよいよ。安心して働けない。この一点で、ここにいることは難しいと判断して退職した次第。でした。お世話になった方がとてもたくさんいて、寂しくて仕方がない12月を過ごしております。(笑)この歳でこんな場でこんな時間を過ごさせてもらえたことにとにかく感謝しないといけないですね。株式会社だったけれど、一般企業の社会通念上の常識が通用しない(特に2023年4月以降)ことがかなりあって、どうしてだろう?なぜこんな対応をされないといけないんだろう?ということが激増しました。働く者は自分で健康管理をしないといけないものですから健康を維持できないと判断すれば誰も守ってくれません…。自分が決めるしかない。自分が決めたことなのでもう後ろは振り向く必要がなくなりました。残念で悔しい思いがないと言えばうそになりますが、そんなことを言っても始まらないし。お役所の身内かばう「事なかれ主義」も存分に目の当たりにしましたし、これが答えか。という感じ。今後、ハラスメント的な場面に遭ってもたぶん、誰にも守ってもらえない職場です。(と、これから働こうと思う人に言えるなら言ってしまうかもしれませんが)市内でも注目の新施設で、期待もされていたと思うのですが、ここまで働く人を大切にしない面が出てくると厳しいなという…。世の中で当たり前になっている人権意識が薄かったり、コンプライアンス違反が横行していたり。当事者としてわからない人にはわからないんだろうなと思いますし実際、やっていることがさほど「重い内容ではない」と判断されると、触法とするにも難しいしそれを誰も指導しない、改善しようがないのが現実です。(管理職によるものなので)管理職が問題行動を起こしていて、管轄の官庁が何もしないとなるとどうなるのか?このあたりが一般的な企業とも違う、第三セクターの課題じゃないかなとは思いますがもう退職した職場なので、私がなにか言う立場にもありません。私が知るだけでこういった格好で辞めた人を5人以上知っています。それも3,4年の間に。それが問題かどうかも…辞めれば募集すればいい、という感覚だと問題視すらされない現実があります。ただ経営者の道楽で済むなら自由かと思いますが・・・一応、公金の入った組織なので、そこだけがどうしても最後まで引っかかってしまって。気になってしまうのも私の性分なので、これまたどうしようもないことなのでした。でも決めることができてよかった。今はそれしかないのでした。追伸;ふりかえりの意味があるかどうかは置いておいて…またこの件の続きを綴ることがあるかもしれません。
2023.12.27
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自分はこれまで、人間関係が原因で離脱した場所がいくつもあることに気づきまさに今も、今いる場所からともすると離脱する、しない、を選びそうになっていることに気づきどうして自分の周りの人はいつもこうなんだ?みたいに思いながら、いやちょっとまてよ?それは…周囲の人の問題なのか?などと思ってみたりしていやこれは…これらは…なにか共通点があるのか?などと振り返って棚卸しをするなどしてみると「過度の期待」というキーワードがぽつんと見えてきた。特に目上の人に対して、それが大きかったかもしれない。でも自分が離脱するときは、目上の人から何らかの被害を受けてそこから脱している傾向がある。自分のせい…とは違うと思ってきた。正確には自分のせいかはわからないが発端が自分にある可能性も考えてみた。私に対して加害的になる人達から離脱してきたわけなのだがなぜ、そうなってしまったのだろう。私が弱いから?加害しやすいから?それもあったかもしれない。やれる条件が整ったから?その手前で…なぜそんなことを?と冷静に考えてみたら…一般的には攻撃してくる人間は、なにかしらにおそれをもっていたりするのではなかろうかと。だからそれに対して、怖いなにかが自分に向かないように予防的に先手を打ち攻撃してくるのではないだろうか?という仮説をたててみたら。これがなんとなく、そうかもしれないと想像できてしまうのだった。私が先に攻撃しているつもりはなくても相手が、「怖い何かを持っている」そぷりを見せている可能性がある。つまり相手にとって私が「有害」な「危険」をもっているから先に潰そう、となるのではないか。その有害な要素とは?正しいことを指摘したりできていないやるべきことを突いたりする。正論だと上から踏み潰すこともできない。そして、身動き取れなくなりそうになった相手が、苦し紛れにやること、それが私への攻撃なのかもしれないと、ふと思って。もちろん、いわれのない攻撃ではあるが恐れを持った人からすると正当防衛かもしれない。それが正当かどうかは実は問題ではなくこちらが攻撃されたくないのであればそうならずにする方法をとるべきなのだと。自分の思考パターン。行動パターン。それを知って、対処する必要があるのかも。然るべき立場の人に、自分の理想を押し付けないこと。簡単そうで難しいのかもしれないがこの心の持ちようは、生き方を大きく左右する気がする。
2023.10.04
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まあ。。。今日のことなんですけども。夫に最近の私のこと言われたのが…「〇〇がどうあるべき、っていう話が年々きつくなっている」んだそうです。そう、昔からそうなんだという自覚はあります。確かに、昔働いていた職場などでも上司に対する期待は強かったと思う。なんで上司なのにこれもできないの?上司の失敗を私がかぶらないといけないの??いわゆる「上司のくせに」ってやつですね。…まあまあ、皆さん、私のような部下がいてやりづらかったことでしょう。自分がリスペクトできる上司なら、どこまでもついていった…んだろうか。たまたまお勤めの部分ではそうだった。それ以外の場所で、尊敬できる人との出会いは当然あってでも、一日の多くの時間を共有するような人はそうそういないのでそんな中でも「リスペクトしてるからついてく!」みたいな風には結局なっていないんですよね。なぜなんだろう、とふと思ったりする。自分の上役である人は、尊敬するに値する人「でなければならない」みたいなべき思考がつよいのかもしれない。それに合致していない部分には当然、不満がのこり「なぜこの人はリーダーなのに〇〇じゃないのか」という不満だけがクローズアップして自分の中に積もっていく。人は多面的なものだから自分と会っているときのその人は、「その人と会っているとき用の自分」を演出している可能性もあるし何を大げさな、演出などという前に、場面を変えた「自分」があるのは誰しも当たり前のことなんだろうとは思う。そして、何より自分が「尊敬に値する」と設定している姿というのはあくまで「私が設定している偶像」でしかないのだということをもう少し、自覚しないといけないのかもしれない。***最近の不満の種はズバリ「職場の上司」いわゆる、組織の長という立場でもあるので、まあまあな期待をしてしまう自分です。〇〇な立場なのに、〇〇の責任があるのに、××をやらない、やれない、やろうとしない。というのがとても大きな不満になって、自分を締め上げています。(笑)そういうのが夫に言わせると、べき論が強いようなことばっかり思ったり言ったりして叶わないことにさらに不満を持って、かたくなになっている(私)らしい。自覚はある。ということは、私の心持次第っていうことなんだろうか?私さえ、「まあそんなこともあるさ」と流せば楽になっていくんだろうか…。なんとなく。人は、誰かの役に立っていたいと思うものではないでしょうか。それは家庭でも職場でもそうだと思うのですが何をどうして役に立っていくのか。みたいなことは人それぞれだとは思うのですがそういった「課題」がわかった時点で、「課題解決」をしようとする。それがお役に立つということだと思うと、課題解決が自分のミッションだと思ってしまうわけです。お客様から改善してほしい話を聞くと、それはすなわち課題だからどうやって解決したらいいか?と上司に相談したりする。でもその解決がままならないことも多々あり、なぜ・・・と自分の中で不満としてため込んでしまうようなサイクルができあがっているのかもしれない。お客様からの申し出で「課題だ」と自分が思ってもそもそも上司の人たちは「課題」だと認識しない場合もある。また、「課題」なんだろうけど、喫緊の解決を求められるものなのか?優先順位がねえ・・・そんなすぐどうこうってしなくても・・・みたいに放置されることもある。そういうときに、まず自分がいろんなことを思うのだけどそれは「課題」を共有できない虚しさだったり解決していきたい。という思いの温度差が激しかったりそもそも、そういった思いを汲んでもらえなかった悲しさだったりそんなんでいいの?って思ってしまう自分…。何を課題に思うのか?も人によって違う、答えがないものについてはなおのこと自分が相談したからといってすぐに解決に向かうというようなことは、あまりないんだなと痛感している日々であったり。でも…お客様からみたらこれは、解決してほしい。(気の利いたよりよいサービスの提供)ってことだったり従業員同士の関わりの中で、配慮したい。(お互いがスムーズに気持ちよく関わりあうためのそもそものマナーみたいな)ことだったり。その実、とても大事なことばかりだと思うのになぜかそれを言う自分が奇特なことを言い出す者のような認識を持たれているのではないか…という話。理想を追い求めるみたいなことをしたら傷つく人がいるんだろうか。もしや上司まで傷つけるんだろうか。そして、動いていかない事態にたいして、上司の対応に対してそれがストレスになったりして自分がどんどん抱えてしまう傾向…そして最後は自爆みたいにですね、なっていくwそうみてくると、自分の考え方が割とかたくなで融通きかないものなのかな、とも思う反面、節度や規律のなさとか、配慮のなさなどからもとはといえば場を仕切る人が気にしないといけないことを気にしないことで嫌な思いをしたり、傷ついたり、取引先に愛想をつかされるみたいなこともあったりで少なくともそれに気づいた者が「これはまずいと思いますよ?」と声をあげることそれすら、「過度な期待」にあたるんだろうか…。明らかにおかしな事態なのに、嫌われたくない、うるさいやつだと思われたくない、そういう理由でだんまりを決め込む人の多さ。黙っていれば悪く思われることもないだろう。口をひらいて正論を述べれば不快に思われる。正論であれば正論であるほど、図星である対象からは反感を買う…。人とうまくやっていくには、そういう言いにくいことは黙っていることが一番の秘訣なんだろうか。だが。このままにしておくといけない、ということに目をつぶり何事もなかったかのようにやり過ごすことがとても苦手な自分。やっぱり、べき、にぶつかる。べき、にこだわる自分がダメなのかな。何事も程度の問題だとは思うけれど。こっちは間違ったこと一つも言っていないのに、なぜ諫められるのかな。っていう気持ちになってしまった一日でした。でも…きっと、正論を述べてもそれが一気に解決するなんてこと、一般的にはないのでしょう。そして正論であれば正論であるほど、対象の相手を追い詰めるのかもしれない。うっすらとわかるような気もするけれどなぜ、と思ってしまう自分となかなか折り合いをつけるのが難しい今日この頃。
2023.08.30
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専業主婦というワードが定期的にSNSなどをにぎわせているようです。専業主婦、と聞くと何を想像するでしょうか。専業主婦のライフスタイルにもいろいろ、あるとは思いますが。よく、小さい子の子育てを家庭でしている主婦が仕事から帰宅した夫に話かけると「仕事から帰ったばかりで疲れてるんだから(話をきかされるのは)勘弁してくれよ」みたいなやり取りがある、みたいな話って聞きませんか。ご多分にもれず、我が家もそういうことが多々あったと思います。正直、一日中、話せない子どもと二人きりっていうのはあんがいきついものです。(きっとやったことない人にはわからないかも)話せないのもきついし、子の世話も、命がかかっているからさぼることもできないからそういうプレッシャーもあってなんかこう、子どものことでも自分や家族のことでも、誰かと話せるだけでも違うんですよね。疲れて帰ってきた人に、「あのね、今日ね・・・」と機関銃のように話されてうんざり。みたいなこと思う人もいるのかもしれない・・・でも、自分たちの大事な子を一日守ってきた人にねぎらいの気持ちややさしい言葉かけがあってもいいんじゃないかな。と、家にいる側の経験者の自分は思ってしまいます。いや、仕事にいっていたほうの人が、自分だって仕事が大変だったけどそんな話を妻にはしないけど?って人もいるかもしれないけど・・・どっちがいいのかわからないけれど。とにかく自宅にずっといて、大人と話せない日々を過ごすのって子連れだろうが大人個人であろうが まあまあ、きついってことは経験した人でないとわからないかもしれない。今の自分の身近な人にこういう話をしてもあまり、理解されないなって感じる。その分職場で一緒の人たちは少なくともこれまで職場での生活をつづけてきたのなら少なくとも出勤して職場にくれば、誰とも話せないなんてことは必然的にないわけで話せないつらさ、っていうのは理解できないかもしれないなとは思う。そして・・・外からそんなこと言われても、「じゃあ話し相手を作る努力をすればいい」って言い捨てられて終わりかもしれませんね・・・。話し相手がいない、というのは案外、切実なものだと私は思っています。だから・・・居場所みたいなものがとても大事だなって思っていてそういう場、についての思いみたいなものもありますが人為的にそういうものを「作る」というのも簡単じゃないのかもしれないし、想いだけが宙ぶらりんな感じはありますがいつ、どこでも人は人の間で生きている。のだから「話し相手がいない」というのはそれなりにきついもの。そういうことに対して、今の自分は何かできるわけではないけれどそういう気持ちになることだってある、ということは思っていたい。・・・と言いつつ、逆の悩みもあるんでしょうけどね。(いつも周囲に人がいて、たまには一人になりたい、というような望みなど)どちらが贅沢な悩みかはわからないけど学校などでも、一日ひとりでいることのきつさみたいなものを思うとやっぱり、他愛ない会話ができる人がいるっていうのはとても大事なことなんだとは思う。ちょっと話そ。って言える人がいる、って幸せなことかもしれませんね。
2023.08.24
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先週、美容院に行きました。美容師さんがお盆休みがあるし、その前にすっきりしたかったので前の週にカットしてもらうことにしたのです。カットが終わってお会計時、支払いの値段を提示された際「もしかして誕生月割引などありますか?」とおたずねした私。あっ。と気づいた美容師さんでしたが、今月中にカラーをしてほしいという話もしていたので次回のほうがお金かかるし割引はその日のほうがいいかも?少し9月にかかっても大丈夫と言ってくださったので今回はそのままお支払いしてきました。当たり前のように聞いてしまったけど…美容院って時折、割引してくれるタイミングがあるのですがそれは誕生月に利用したときとかポイントカードがたまったときとか次回の予約を来店時にしていったときとかそんなときにあるみたいなんですけれどたまに…美容師さん、割引わすれてるなあということもなくはないのです。でもそれをいちいち、会計時に言うのもなんだか、いやだなあと思うようになってきました。もちろん、割引してもらえる基準を満たしているのでそれをお店としてうたっている以上、割引しないと信用問題になるとは思うのですがあんまりよくない考え方かもしれないけどそういった割引はあくまで「サービスだから」と思うようにしています。つまり、うっかりスタッフが割引を忘れても気にしすぎるほうがしんどいなというような話。そういうお店を選ばないようにすればいい話ではあるのですが。サービスというのはあくまでサービスで割引は店の利益を削る話でもある、そういう部分もあるということを同業者としてはちょっと、意識してみてもいいかなとは思うのでした。ただし、割引があるならという理由で利用してくださるお客様もいるのでそこは本当は間違えないようにするのが信用を失わないための誠実なやり方だとは思うのですが。自分が割引する側なら、忘れないようにするのは本当に大事と心得つつ自分がお客にまわったときにそこをしつこくするのもちょっとスマートじゃないなと、理屈では合わないようなことを思ったりもします。一番大事なのは、その店が存続して、自分が必要な時にサービスを提供し続けてもらうことなので(だから割引わすれてもいい、にはなりませんが)割引は利益を削る部分があるということだけ、忘れずにいたいなと思ったのでした。
2023.08.14
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後進を育てる、と簡単に言うけれど育てる側にも育てられる側にも相応の覚悟がいる場合もあります。育てる側と育てられる側の信頼関係も不可欠ではないでしょうか。自分の大事な場所を譲る、ノウハウを含めたマインドを伝える。どうでもいい相手には伝えられないものでしょう。伝えるといっても容易でない場合もあるかもしれない。誰かを信頼して託す、というのは思いのほか、ハードルが高い。だけれど、自分のミッションとして、または必然として自分のポストを含めた役割を伝承していかなくてはならない場合があるとも思いますがそれを決め実行することが困難だとしたらその理由はなんだろう?と思うこともあります。***私は特に地位や名誉や特殊な技能をもつわけではありませんがこれまでやってきた業務を人に伝える、ということを何度かやったことがあります。(今もやっています)それは、トレーナーとして伝える、ということだけかもしれないしそれ以上のものは(誰かに)求められてはいないかもしれないけれど自分なりのミッションが原動力で働いていると、そういう片鱗もエッセンスに加えていたりしますけれどね。そのときに何をまず思うか「これからこれを担う目の前の人や組織が潤滑に回っていくにはどうするか」を考えていることが多いです。とかく…地位や名誉の人は、その「立場にいること」に異議を感じたりしがちな気もしますが(言ってしまえば全体からしたらそんなことはどうでもいい)(なんなら誰がやるかなんてどうでもいい、必要なことがいかに遂行されるかのほうが重要)現場が回り機能しなければ、組織としても機能していかない。その点を理解して先を見越した「何ができるか」が重要ではないでしょうか。(ここでリーダーという言葉が降りてきました。(笑)いまさらですが)自分がいなくても回る組織。自分がいなくても?というのも一つのキーワードでそもそもこれを受け容れるのが難しい人もいるかもしれない。なぜなら…これを受け容れたなら「あんたがいなくてもいい」を認めなくてはならない。人は、お前はいらないと言われて平気では…居づらいのではと思います。なんなら「必要とされたい」生き物です…。でもそれにしがみついて何万年も生きるわけにもいかないのです。***後進を育てられる人というのは、今の自分を通して所属する組織や職場にある種類の「愛情」や「ミッション」を明確に持っているのではないでしょうか。自分が担っている役割の本当の目的を理解している。どこの何に「寄与」したくてこれをやっているのか。まっとうするには何が必要なのかを日々考えている、実行している。その「ミッション」がまっとうなのだとしたらその焦点は本来のミッションにあたっているはずなのです。それは個人の自己満足や自己愛などではない、遠く先にあるものではないでしょうか。誰もが見据えることができる、目指すことができるもの。それをまっとうすることに立ち向かう人。そのためには何が必要か冷静に考えて同志を求められる人。同志にミッションや手法を共有し、かなえたいことを実現していく。目的地が明確なら、得たいものが明確ならそれを共有しよう、とおのずとなるはずではないでしょうか。これが困難なのだとしたら今のポストにいる「こと」に執着してはいないか?今の自分に注目される「こと」に意義を感じていないか?皆から見えて共有できるものではなく自分個人の「損得」が目的になってないか?つまり誰かからの「承認を得たい」がメインの生き方になっていないか。もしそうなら、きっとその人は後進を育成したりはできないかもしれません。出来ないどころか、「絶対やらない」(笑)だって自分を超える人の出現は脅威にしかなりません。組織や社会の将来?そんなことはどうでもいい。自分のことが一番大事、それしかない。(自分を大事にするのと、周囲を巻き込んで自分の承認欲求に寄与させるのはちがいます)そういう人が仮にリーダーになったとしたら後進を育成できないだろうし組織自体は衰退していってしまうでしょう。後進を育てる意識は、その人がどういうつもりでその業務に、役割にむきあっているのかそれを通して何をどう成し遂げたいのか?の思いの強さにつながっていると思うのです。
2023.05.04
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ここ20年来くらいで身近にいる人(今現在も含む)について最近思うことがあるのですが職場や組織などでまあまあ中堅以上、管理的運営の主体的立場にいながら「後進をそだてられない人」に遭遇してきました。後進、つまり 承継する人、や後輩みたいなものでしょうか。誰しも自分の役割を持ちながら組織や職場などで働いているものだと思いますが果たしてその仕事について「その人にしかできない」を作っていないだろうか?というのは働き方改革等の考え方の中でも非常に重要なことになっていると思います。***ところで日々、「この仕事は自分にしかできない」と思う業務・役割がありますか?私の場合、「たまたま、今はそうかもしれない」と思うこともあります。人の配置とか、自分が採用されたタイミングとか。社内でこれを担っているのは自分だけ、という自負があったりだからこそきちんと全うしなければというモチベーションになったりもしているかもしれない。それはそれで大事なことだとは思うのですが、とはいえ同時に「自分にしかできない仕事」としてしまうことに問題はないのだろうか。という気持ちも持ち続けてきました。なぜなら「働く人はみな人間」だから にほかなりません。生きているなら休みも必要です。またはその場に所属しなくなる日がいつかくるのも例外はありません。その場合、どうなるのか?その組織があり続けてその業務があり続けるのだとしたら自分の代わりにその役割を担う人が現れるはずです。「自分がいないこの場所」を想像できるか?そして滞りなく、今と同様、または今以上にスムーズに運営ができること。それを見越してやるべきことを考えると…後進の育成というのは避けて通れないと思っています。(組織そのものが消滅してしまったら役割そのものもなくなってしまうのでしょうが)組織が持続可能であるために「後進の育成が不可欠」なのだと思います。***次に、後進の育成をする側の視点からみてみます。ある(比較的責任があったり地位のある)役職にある人が自分が去った後のことを考えるのは容易なことではないかもしれません。なぜならその立ち位置にいることで受けている恩恵を(地位なのか、給与なのか、世間からの脚光なのか)わかりませんが容易に手放したくない要素があればあるほど、執着するのではないでしょうか。執着すると、この役割を、仕事を誰かに手渡したくない。つまり後進を育てるなんてもってのほか。という感情が生まれないとも限りません。そもそも、なんでも自分でやったほうが早かったりします。だがしかし…先も述べたように諸行無常。永遠と思うには限界があります。そこを怠ると、自分がいなくなる=即、そのポストに穴が開くになってしまわないか。そこまでのことに思い及ぶ人がどのくらいいるのだろうか。つづく
2023.05.04
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普段のコミュニケーションの中でやたら相手に「媚び」ていないかということを気にするようになりました。たとえば「すみません」というワードを多用していないか?「すみません」はコミュニケーションを円滑にしてくれる枕詞みたいなイメージもあるしこれを言われて腹を立てる人はいないのかも。いきなり用件を言う前につけておこうという使い方もあるかも。だがしかし…謝るときに使う「すみません」を普段の会話に常用する必要が果たしてあるのか?と思うとどうでしょう。どうせなら相手から敵意や悪意を持たれたくないものですがその流れで「すみません」を入れることでなんとなくヘリくだっているような姿勢に見え相手から見た自分が「謙虚な人」に映るようなキーワード?なのだろうか。LINEやメールで使われる「すみません」・遅い時間に「すみません」・返事が遅くなって「すみません」・文章が長くなって「すみません」・いろいろお願いして「すみません」とりあえずちょっと気になることがあるかもだから「すみません」入れとこってなっているのかもしれない。でも本当にその「すみません」が必要なのかどうか立ち止まって考えてみる。そこで相手にその一言で断らなくてはならないのかもしかしたら必要ないのに自分を悪く思われたくないからとりあえず言っておこうとなっていないか。具体的に申し訳ないという事象があるならばそれに対してすみませんを使えばいいのかもしれません。もしくはすみませんではない言い方を使う。ありがとうごめんなさいあたりは伝えたい内容がはっきりしている気がする。その投稿で感謝したい何かがあるのならありがとうを使う申し訳ないことをしたということならごめんなさい、申し訳なかったです など謝罪の表現を使いましょうか。あまり深い意味なく「すみません」を使うことで自分の身にはあまりいいことはないような気がして使用を控えてみたりしています。対面の中では「ちょっとごめんね~」というような使い方もしているけどこれももしかしたら自分は多用しているかもしれないと見直す余地があるかもしれない。とにかくすみませんごめんなさいを言っていないと気が済まないみたいな姿勢は改めてみたら自分からみた人間関係が変わるかもしれない。そういう気がしています。***「すみません」を多用する人からみた視点を考えてみる。自分が日ごろ「すみません」を多用する人はもしかしたら「すみません」を添えない人に対して横柄に感じたりしないだろうか。(こんな時間にLINEしてきて…)(私忙しいのになんども連絡してきて…)(休みの日なのに…)もやっとする中に「すみません」が入っていたらまあ許さなくもないか。ってなりますか?そういう「違和感」ももしかしたらこちら側の問題かもしれません。何をされたら腹が立つのか?も人それぞれだとは思いますが「相手が自分にへりくだらないと腹が立つ」という気持ちがあるのだとしたらそれはそれで少し何かが偏っているようにも思えなくもない。意味もなくへりくだるクセがある人は他人に対してもへりくだる姿勢を求めるのかもしれません。そう考えると自分が(必要以上に)へりくだる人は場面を変えて相手にへりくだった姿勢を求めるのかもしれません。対等でないというか。対等でないということは上下関係があるということ。本当に非がある内容については「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」が入ってしかるべきだと思うし逆に非があるのにそれが言えない人もまたアレだとは思うのですがそこの線引きというのかそして謝る必要のないときにしいてへりくだる相手には「この人には強く出ていい」という誤解を与える可能性があると仮定するとそれを辞めてみると自分と誰かの関係性が変わってくるのかもしれないとも思うのです。
2023.04.26
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マニュピレーターについて(他人をコントロールせずにいられない人)・弱い立場にいたり出世コースから外れたりした人には非常に素っ気ない態度を示す。・つまり相手が持っている権力や影響力をみて態度を変えるカメレオンなのであり、自己保身のためにずっとカメレオンであり続ける。そういう処世術を身に着けているだけに「いい人」のふりをするのも得意である。なぜ?・何か得することがある・強い支配欲・自分の影響力を誇示したい・自己保身が何よりも大切。・自分の非を認めたくない「ゲミュートローゼ」思いやり、良心、羞恥心、同情心などの高等感情を持たない人。罪悪感を覚えることを徹底的に拒否し、反省も後悔もない。良心が咎めることも一切ない。”絶対に謝らない”・他人を道具としかみなさない・悪性のナルシシズム【ターゲットになりやすい人】・他人の話を真に受ける・経験不足・何となくおかしいという直感にふたをする・他人を喜ばせたいという願望が強い・自信がない・強い劣等感・他力本願・「幻想的願望充足」・見せかけの幸福を手放したくない・波風を立てたくない・孤立している・弱っている好かれる必要はなく面倒くさいやつと思わせる。戦うのを避けてなるべく距離をおく。
2023.04.15
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ハラスメント体質な人と付き合っていくコツなど。本当は離れるのが一番だけれど、それができないことも多いのでそういう人とかかわっていくためのこちら側の心得的な覚書。「エレガント・ダンディを意識する」・敵対的な行動も態度も見せず、対応は常に丁寧でつけ入る隙がない。 かといって誰にも従属的ではなく自分をしっかり持っている。・感情を露わにしないため、本当は何を感じ考えているのかわからない。・相手のことははっきり言ってどうでもいいけれど、 相手が自分に実害を及ぼす部分については冷静に冷徹に対処していく。・「相手の存在に心底冷める」こと。・憎悪、承認欲求、罪悪感は邪魔になる。・人間性ー自分の人間性は守る(隠す)/相手の人間性には無関心になる・関わり方ー「弱い」「有害」と見なされないような関わり方をしていく・結果ー相手はあなたにとってあなたは「(敵対的ではなく)底知れぬ強さを秘めた存在」 となり、相手の攻撃性が萎えていく・いつも攻撃してくる人に私の感情を見せてあげる必要はない・自分の限界を見せない(号泣・落胆・爆笑)・媚びるというのは心の中で土下座しているようなものです・要は「極端なことをしない」ということです。反応を「しすぎない」と同時に「しなさすぎない」ことも重要・相手が責めようがない程度に無難なリアクションの範囲で最小限に薄い態度いつも態度が変わらないリアクションの起伏が浅い感情表現の浮き沈みが浅いビクビクオドオドしないその場に合わせてきちんと微笑みきちんと困る個性的な言動をしない①自分の人間性を守るため②人間性を隠すことで何かを秘めている雰囲気を出し、得体のしれない怖さを纏うためキーワードは「最低限」・私的な会話は極力やめる。ただし挨拶は毎日にこやかに。・2人きりになったら向こうから話しかけられない限りだまって自分の仕事に集中。悪人の意識をもって反応を減らし、淡々とふるまっていると次第に敵対的ではない「強さ」「怖さ」が醸しだされます。・相手の攻撃の糸口は多くの場合あなたの言葉にあります。・いつも攻撃されている時点で間違ってももう相手に好かれようとなんてしないこと。
2023.04.15
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「自分で決める」というキーワード世の中、自分ひとりで生きているわけじゃないしなにをもって自分で決める、なのか。ではありますがそこをスッパリ吹っ切れると、楽になるのかなと思ったりする。相手に合わせるというのは 悪いことであるどころか生きていくうえで不可欠なことだとは思うのだけどそれが正しいかどうかはわからない。***昨日読んでいた本なのですが美容室の方の生き残りをかけた(?)方針みたいな話でつまりは顧客ってなんなんだみたいな話ですがスタイリストがこうしたい、という思いとお客の側がこうしてほしい、という要望との間にあるもの。結局、お客は「自分の都合がすべてでそのようにしてほしい」という目線しかなくたとえば安ければ安いほうがいい、安くしてほしい、安いところに行くという「価格」の要望がある人はそれで選んでいる場合、こういう施術をしてこうなってほしい、こうしたいというスタイリスト側の意向とは相容れないわけですよね。それが悪いわけじゃないけれどそうして、思いの方向が相容れない人をお客様として接客するとスタイリストも疲弊してしまうし、クレームの件数も増えてしまう。だから、自分の思いに合った限られたジャンルの方だけ来店いただければよくてそういうスタイルの営業にすることでかえって儲かる、みたいな話でした。だから値上げが悪いわけでもなく、値上げすればそれに見合ったお客がくるようになる、というような話。本の中の登場人物でアドバイスしている人のライフスタイルが、なんとなく、アレでしたがまあそういう考え方もあるのだなと気づいた一冊ではありました。***相手に合わせる人の顔色をうかがうみたいなことって、特別なことでもなく、気が付けば「これをやったら(言ったら)どう思われるだろう」と思ってしまう思考回路を持っている人は結構おおくいるのかもしれません。誰しも嫌われているより好かれたいと思いますし。(笑)「良く思われたい」ってどこから来るのかわからないけど極端な場合、「良く思われたい」が中心で生活している人もいるかもしれないですよね。そんな自分も最近、まあまあそういうこともあってちょっと疲れ切ってたかな?とは思います…。喜ばれると思って追いかけても、相手がどう思うかは別の話、なんですよね。こうすれば喜んでもらえる!をベースに行動するのも大事だとは思う、忘れないようにしたいとは思うけれどもしかしたらその反対側に「喜んでもらえる”私”を評価してもらえる(評価してほしい)」が潜んでないか?結構ココが重要な気もしています。自分で気づくのは難しいですが…。承認欲求、っていうのかな…?とにかく相手中心に世の中まわしそうになってだったら私がこう、都合をつけよう、自分が段取りしよう、下準備しようみたいに動いてしまうことで、誰がハッピーになる?相手?私?それによって仮に相手がハッピーにならなかったら?私にその責任がとれるのだろうか。なんかそれも…つかみどころがない、不確かな感じがするけれどそれに振り回されることがあるとしたら、それ自体、あまり幸せな感じがしない。まずは自分目線でどうなのか?も気にしていいのかもしれないし。たとえば贈り物一つでも、相手に喜んでもらえるかな?と選ぶのが一般的だとは思いますがそれを考え始めると永遠のループにはまる、なんてこともだって相手の「本当の気持ち」なんて、実際はわかりようがないのですから答えなんかわからない。でも自分が差し上げたい、という気持ちに重きを置くならば別に相手に何と思われてもいいや、って(もちろん失礼がない範囲はあると思うけれど)気持ちであげる、ということのほうがさっぱりする気もする。***あくまで決めるのは自分だし自分の都合や気持ちを大切にする不必要に裏を読もうとしないOKかNGかでそれ以上の理由を考えない自分主導、でいこう。
2023.03.05
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私の周りには、私に甘えてくる人がいるように感じる今日このごろです。甘えてくる、の中身はというと無理なことを言うとか不機嫌な態度を取るとか強いものの言い方をするとか上から物を言うとかそんなところです。そうされると人はどう思うのか?そしてどうするのか?なぜ自分に人が甘えてくるのかというとそれを許してくれるとか反撃しないとか反撃しても大したことは起こらないと踏んでいるからかもしれません。甘えられる側が「甘えてるのね、しょうがないな」と思うのか「甘えたことされて不愉快だな」と思うのか人それぞれかもしれないけれど人には自尊感情というのがありそこを傷つけられたと感じると甘えられる自分に酔ってばかりもいられなくなるのかな、とも思うのです。
2023.02.14
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また、ド短く切ってもらいました。しばらく伸ばしていたのに、やっぱり短くしたくなったのです。それでも未練が多少ある私の心理を見抜いてかギリギリの寸止め?美容師さん。日曜日に切ってもらい、だめなら火曜日はよていあいてますから〜なんて言っていてまんまと火曜日に切り直しお願いした次第です。急に短くなると慣れないけど一日経って少し慣れてきた。(笑)下手したらメンズより短いかな。美容師さんよりは短いです。なんか吹っ切れたなーという感想で。なんだか、無難な感じのヘアスタイルにしておいたほうが、世の中丸く収まりそうな気がしてフツーっぽいスタイルにしよかなとか思ってたんですけど…なんかまとまらないし落ち着かない。サバっと切ってもらってもろもろ吹っ切れた。(笑)背筋を伸ばして、キリッと生きる。←やることは何も変わらないどころかもう私は大丈夫。のオーラが出てしまいある一つのことは昨日、キリにしてきました。(悪いことではないです)潔い自分は、良い。笑笑いや、目立たないように生きればいいんですけど。昔…10代の頃、襟足刈り上げたらそれを見た父が「なにか不満でもあるのか」といったのでなんか不満でヤケクソで刈り上げたと思われたのかな?と別にそんなんじゃないけど刈り上げキライじゃないんですけどね。(笑)今回は刈り上げてません。(`・ω・´)職場の人も、えっ!?ってなってたな。(笑)でも切ってくれた美容師さんに言ってしまった。「本来の自分に戻ったみたい」まあ、なんでもいいんですよ。人に媚びて、様子伺いながら自分の評価上げようなんて保険のハシゴを一つ外しただけです。(しょうもない)耳周りすっきりして、メガネも快適だし短いのに濃いめのリップとかいいです。自己満足で上等。多分、誰も真似しないし!笑勝手にわが道をいく。
2023.02.10
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礼、とはなんでしょう。相手を敬う、とかそういう意味が含まれる気がするのですが。礼儀正しい、とは挨拶ができるとかお礼が言えるとかそういった態度を示す場合も多々あるように思います。が、なんとなく、見せかけの「礼」もあるように思えてしまいます。何か事につけ、お礼を述べたりお礼の品を渡したりお礼状を書いたり、というような「表し方」もあると思うのですが。なんというか、それをする人が何を思ってそれをするのか、というのがとても大事な気がしています。あらためて、お礼を述べるのはなぜか。相手に感謝の意を伝えるため?は一般的ではないかと思われます。が、それがもし「他人から礼儀正しい人と思われたいがために」行われているとしたら?なんとなく、意味が違ってくるような気もします。私の勝手な考えですが礼というのは、公益とか利他とか、そういうこととつながっているような気もするところです。先の「人に良く思われたい見せかけの礼」は、最終的に自分自身をよく見せよう、というポーズなんだとしたら、ただの利己かもしれない。ですが、相手に対して誠意を尽くしたい、伝えたい、というようなものなら相手へのリスペクトがなければ成しえないもので(見た目にわかりづらいなら、何が本当の礼なのか?というところですが)尊敬の気持ちを添えた「礼」というのはどこか自分とその相手を超えたところまで届く行為のなのかなという気がしています。自分の満足だけにとどまらない。相手への礼を尽くすことで、さらなる、よいことの広がりをも含むような何かがあるような気がしてならないのです。***利他を考えられる人。公益・共益のようなものを考えられる人。そして考えられない人との差は何でしょう。一見、周囲が気に入らないことだらけだったとしてもすべての人が幸せでいられますように、とそっと願うことができれば自分も幸せな生き方ができるのかもしれません。
2023.01.22
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お正月、普段会わない人に会うこともあるそんな季節ですね。ご多分に漏れず、身内への挨拶にいってきました。私自身は数年ぶりになったかもしれません。なんとなく、少しは人と会うハードルが世情的に下がっているようにも思います。お正月に限らないことですが人と関わっていて悩むことってありますか?多くの人が人間関係に悩むことがあるのではないかと思います。これは、私の気づきなのですが結局、人間関係は(も)「(自分の思うようになると)期待しない」「そういう人だと承知して付き合う」に尽きるのかもしれません。よくある、結婚によってできた家族に対して不満を感じる人も多いと思いますしそれを口にしている人もいる。その内容は結局「相手が自分の思うようでない」ことに対して不満がある、ということかもしれません。姑が嫁に不満なのも「こうしてくれたらいいのに」と考えることと、現実に乖離があるからでしょう。逆もしかり。あらためて私も…久しぶりにあった人との会話で何となく、相変わらずデリカシーがないなと感じることがありました。相変わらず、というところがポイントです。そこを、まあ安定のいつも通りだねとスルーできればよかったのですが腹を立ててしまった。それについて、周囲の家族が残念に思ったという展開でつまりこの人はいつもこうだからしょうがないとなぜ流せないの?という指摘を受けたわけです。だがしかし私は自分がなにか悪いことをしたのだろうか?に疑問をもちあるとしたならば、高齢世代の方が「思うような嫁になっていない」ということかもしれない。私があとから来た人間だとして(結婚)はじめからいる家族に従え、言う通りにしろ、が正しいなら一つでも「そうはいたしません」となったとたん、こっちが思う通りにやらないお前が悪い、がベースにあるのかもしれません。そしてこちらとしては人としてそんなに間違ったことをやっているつもりがなければ一般的には攻撃的な物言いをされた時点で何かな?と思うし疑問も残る。人間なので嫌な気分にもなる。自分の子からはそこをまともに相手にするべくステージに上がっちゃうからダメとの指摘をされ、私が何をしたというのかという気持ちも拭いきれなかったのですがつまりは私自身も、人に期待をしていることに気づいたのです。たとえ何がどうなっても他人は変えられない。そしてかれこれ80年以上生きている人がそう簡単に変わるわけもないのです。だけれど時として人は関わる相手が、こちらの都合のいいように動いてくれたらいいのに、と思うのです。そのほうが楽だし、快適だし、助かるし。「こちらの都合のいいように」というところがなかなかの曲者だと思うのですが私自身について言うと自覚せず、期待をしていたのかもしれません。しばらく会っていなかったから(?)そう思ってしまったのか、忘れていたのか?相手は私相手に、嫌味を言う不満を口にする私の家族を悪く言う私の行動を悪く言うみたいなことが、そもそもあるものだということを忘れてはいけないのです。そこにおかしな期待をしてこちらの思い通りの人に「なっているはず」と思うなら(なっている?なぜ?何を根拠に?なっているはずがない!)現実に対面して失望したりショックを受けることになる。なぜ幻想を抱くのか!?正常化バイアス、でしょうか。こうあってほしい、に現実を寄せようとするのは誰にでもあることなのかもしれません。だがしかし、そのとおりである保証など、ない。過去と他人は変えられない。その中で自分の立ち回り方を変えることしかできないのかもしれない。だからそもそも、期待をしてはいけないのです。相手がこうなってくれたら、と期待しない。せめてこうなら御の字くらいに思っていないといけないということをあらためて感じた正月。「期待しない」大事かも。
2023.01.02
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ここは私的な日記の記録みたいな場所だから日記みたいに記録しておくのも一つかなと思いPCを開いています。今月中旬に発熱し、いわゆる流行のやつに感染してしまったようです。しまったようです、というのも抗原検査を2回するも陰性となり結局症状から怪しいので仕事を休む段取りをし、自宅療養をしました。その間、発熱外来に連絡するも開始時刻に電話してもいっぱいだと言われ受診をあきらめてしまいました。同居の家族がたまたま用事があって連絡した医療法人さんで家族が検査をしてもらうことになり陽性。実質、同居家族はみなし陽性ということになるでしょうか。とにかく発症から7日間自宅療養10日までは注意をしながら過ごしました。受診ができないということは薬も処方してもらえないので自宅にあった薬や市販のものなどを使ってどうにかしのいだ感じです。とにかくこれまでは、熱があれば病院にかかる、が当たり前だったけれど感染症とともに生きる時代には発熱すると一般的な時間帯には診察してもらえないことは、普段かかっている内科の様子を見ていてわかっていました。ではいざ自分が、となったときのことを想像していなかったのですが思いのほか、門が狭かったです。感染しても特効薬もなく、症状がひどくなければ自宅で療養するしかないというような一般的な状況を受け容れつつ時間を過ごしました。それでも発熱とかのどの痛みとか咳とか、割とつらい症状もあるためそして、後遺症がどうとかいう情報もあるためいったい自分たちはどうなっていくのか、不安な症状を誰に相談できるのかとにかく…不安な気持ちになってしまいました。ただでさえ、ほかの人との接触をしてはいけないと細心の注意を払わなくてはいけない。日ごろの社会生活(職場や学校)からは隔離しないといけない。それは法的に決められているようなことだからもちろん守る。だけれど、休んでいる間のこととか自分の体調のこととか。本音をいうととにかく、不安しかなかったのです。我が家で一番最初に症状が出た家族も、抗原検査で陰性2回ということでそれにのっとり行動する、と言い出した時には反対したり。ちょっと尋常じゃない空気感だったかもしれません。私はSNSなどを見ることで、こういったときの抗原検査が陰性であってもPCR検査をすると陽性になるという人がとにかくたくさんいるらしいことを情報として得ていました。けれど、医療用の検査なのだからそれに従って何が悪い?という話になってしまうと…いや、信ぴょう性が薄いらしいから。といっても、ではなぜ検査として出回っているのかとか法的に問題はないとか、そういう話になると平行線になってしまう。とにかく私自身は、病院で検査もできそうにないけれど症状から明らかに疑われるものとして行動するべきだと淡々と職場に相談をし、指示を仰いで自宅で療養しました。なんというか。この時の体験も本当に…検査結果を信じて何が悪い?といわれたら悪くはないのだろうけど外の世界ではその結果はまったくあてにならないと言われていることを見るといったいそのままでいいのか?とも思うし内容はなんであっても誰かと意見がちがって相容れなくなる悲しさってあるのですがこと、このような感染がどうの、ということになってくると適当でいいやってことにはできないのではないかと本当に強く思ってしまって会話が通じない間はなかなかつらかったです。極論をいうともろもろ腹をくくらなくてはいけないのではないかというところまで追い詰められた感はあります。とにかく本当に、その立場になってみないとわからない気持ちだと思うのですがとりあえず、一般的な療養期間を過ぎると大体の症状は落ち着いて日常生活に戻ることができて少し安堵しています。自分は2年少し前に仕事を始めてから、ほぼ1度も予定していたシフトを休んだことがありませんでした。が、今回ばかりは休まない選択肢はありませんでした。当たり前のことですが。1週間ほど空けましたが、それも貴重な経験になったように思います。誰かの手を借りなくてはいけないことなんて普通にあることだという準備が必要です。実際、数か月前に一緒に働く人が辞められて自分が勤務しない日にほかの部署のスタッフに業務をやってもらうにはどうするか試行錯誤していて、一つのやり方を試してみていたのですがそのおかげで、自分が不在の間も誰かしらが業務を回してくれて滞りなく業務が遂行されていてありがたかったです。自分にとって業務に出られない(業務だけじゃなく外出などもですが)日々はあれこれ考えさせられる時でした。孤独だったし、不安だったし、ちょっと…そういう意味で精神的にもきつかったですね。それでも仕事に復帰してからは、どこか心持が変わったというか誰にでもリスクがあって、抗いきれないときもあるのだな、と思うと他の人に対する気持ちも少し変わったかもしれません。感染症のもとになるものが憎いし、こっちに来てほしくないしもしかしたら面前にいる人がウイルスを持っているのかもしれない?その辺に浮遊しているのかもしれない?いつ、感染するかわからない、という不安と隣り合わせの毎日で感染した人に対しては漠然と怖いという感情を持ってしまう自分もいましたがこれがいざ、自分の身に起これば立場が逆転してしまうのです。どこか高見で「私は感染していない人」の立ち位置で世の中を見て人を見ていたのですね。あっち側の人とこっち側の人、みたいな。それももしかしたらやむを得ないかもしれないです。だって怖いですから。防御しないといけない、ということに躍起になって(もちろん大事なのですが)手洗い、うがい、汚い手で目をこすったりしないとか私の場合は接客の仕事でもあるので仕事から帰ったら即刻洋服を着がえて風呂に入ったりしていました。本当にピリピリしていたし、怖かった。もちろんこれからも気を付けないといけないことには変わりないのですが感染したということがショックでもあり受け容れたくないみたいな気持ちにも一瞬なったと思います。でもだからといって見て見ぬふりをするわけにもいかない。だって、当初から「自分が感染しているかもしれないというつもりで生活しよう」と言われていたわけですしパブリックな場所ではとにかく「風邪症状のある人は立ち入り禁止」なわけですから自分にそういうことが少しでもあれば疑って行動しないといけない。もうそれしかない、わけなのですが。もともとクソ真面目で、つい正義感発動しちゃうような自分です。会話が通じないときに、私の性格や考え方や頭がおかしいのか?と心底…悲しい気もちになりました。今でもその答えはわかりませんが社会生活をしていくうえで自分の考えも全くの間違いではなかったのではないかと少し冷静に思えたりもして。貴重な体験をしたと思うのでその記録みたいな日記です。
2022.12.31
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今日の勤務は、従業員の人数が少ないこともあって出勤前から不安が募っていましたが、何とか無事に終えた(と思う)ので安堵しています。出店の予約などを業務の中で承っていて今日は初めての方が2組。おそるおそる、こちらを訪ねてくださったときのご案内から初日まで。今日はどうだったでしょうか。それぞれの営業ですから、もちろん、出店手続きのお手伝いをするだけではありますが。私の仕事は、単調なような業務が多いです。倉庫にいて、倉庫に届くものを表に出していくような部分もあるのですがこれは嫌になる人がいるかもしれない。でも、自分はそこそこ苦にならず、回していこうとしています。よく、職場の中でも業務によってヒエラルキーがあったりしますけどご多分に漏れず、私もほかの従業員の態度から感じることもあります。なぜそんな発想ができるのか、訳が分かりませんが。笑自分は自分で課せられた業務に向き合ってやっていくだけです。ほかの人の業務に口をはさむ暇などなし。(笑)***今日は出勤前に「今日は私と上司の2人しかいないから、私が休むとやばいよ」と話すと中学生が「へえ!それは役に立っているってことだね」などというので。ほう!そうか!と。とかく、専業主婦歴長かったりすると誰かのためにほぼ時間を使っていたりするのに、誰からも感謝されず給与もないわけで、役に立っているなんて誰かが言ってくれなければ自覚もできないようなキーワードだったかもしれない。家の中のやるべき仕事もそうだけれど誰かがやらないといけない「業務」が職場にはあってそれを任されているということは役に立っているのかもしれません。そういう場を与えられてありがたや。と思いながら今日は出勤しました。***また、もやもやがぶり返してきたので整理しておこうと思うことがあります。11月の終わりころに、ちょっとした失敗をして(これは業務や職場は無関係)かなり落ち込んだ件がありました。自分の気の利かなさで、少しばかり?ある人を不快にさせてしまった出来事だったのですがとてもショックで、後悔がとまらなかったのです。自分はダメだと思いすぎて、そういう思考の上で、職場などでも誰かに対して批判的になるなんて視点を持てなくなってしまいました。(少なくとも数日は)人は失敗をするし(そんなつもりはなくても)誰かを不快にもさせる(わざとじゃなくても)そんなことがあるわけで、自分の非を棚に上げることができなかったのです。それまで周囲に対して不満が爆発していた私ですがなんのなんの、あなた自分でやっていることはなんなんですかとなると爆発の火も鎮火せざるをえないような感じではありました。誰かの非を咎める。みたいなことって、自分のことを棚に上げないとできないですよね。自分はなんなんだと。何かそう、突き付けられたような数日でした。おごった気持ちにブレーキがかかるような数日だったのですが一件を思い出すのはしんどいけれどあのときに思ったちょっと謙虚なような感情を忘れちゃいけないなと。自分に必要な失敗だったかもしれません。失敗で他人には寛容になれるのです。
2022.12.03
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これまで関わってきた人との関係の中で私に対して「攻撃的」な人、という人はいてわりと身近なところから当たりがきつい人が複数いたように思います。当然、そういう人に対しては「苦手意識」が生まれます。なぜ自分がそんな目に遭わないといけないのか、そんな扱いを受けるようなことを自分はやっているのだろうかとずいぶん悩んだこともあります。(進行形?かな)悩んだところでわかるはずもないことだとは思いますが。私の勝手な考えだけれど、誰かを攻撃する人は「脅威を感じているから」ではないでしょうか。「脅威」とは、「おびやかされること」。人は何によっておびやかされるのか。それは人によって違うのかもしれませんがおそらく誰かに出会い、この相手は攻撃しておかないといけないという「脅威」を感じた相手には攻撃をしかけるのかもしれません。(逆に脅威を感じなければ、攻撃をしかける必要はないのかもしれませんから)つまり、私に対して攻撃的だったり威圧的だったりする人というのはイコール私に対して何らかの「脅威」を感じている。ということになるのかもしれないという仮定を思いついたのです。私が近くにいることでおびやかされる「何か」がある。だから、「おびやかしてこないように」しておく(=攻撃する)ことが必要になるのかもしれません。***私が記憶している「私を攻撃してくる人」はいろんなポイントで私に脅威を感じていたのかもしれない。その人や内容については触れないので一般論を勝手に述べるみたいになってしまうけれど。経歴をくらべられるのではないか今の生活を比較されたり非難されるのではないか業務について指摘、非難されるのではないかそういうことを通して、自分に対して「不利益」になるかもしれないきっかけを作る相手だとしたら攻撃しておかないといけない。たたいておこう。と意識してもしなくても、おのずとブロックしたくなるものかもしれない。これまで自分が攻撃されたような格好になった対象の人はみんな何かしらそういう「脅威」によって、私とのかかわり方が決まっていったのかもしれない。その理由なと、説明することは当然できないし、しないからこちらとしては「はてな?」「理不尽」みたいな印象しかないのだけれど。逆に、脅威を感じなくなれば攻撃する必要がなくなるのだとしたら。攻撃された(と感じた)私は、単純にたたかれたり無視されたりしたことに対して自分に自信を失い、悲しくなってしまっていました。それでも性分的に理不尽なことにそのまま折れることをしたくないのでなぜそういう目に遭うのか追いかけてしまうし、突っ込んだりもする。(反撃か?)徹底的に応戦してしまうこともありますが。だからといって、関係性が変わるわけでもなく、離れて行って接点がなくなる、みたいな結果になることが多かったかも。どうしたらよかったのか、はわからないけれど応戦しなければよかったのかな。相手は自分に脅威を感じるからそうなっているんだよ、これ以上おびやかさないように最低限、やるべきことをやってそっとしておこう。ということができれば、何か変わっただろうか。過ぎたことについてはもうなすすべがないけれどもし進行形のことがあるのだとしたら自分の心にそうつぶやいてなにかされようとしても、最低限の気持ちだとか何かをしっかりつたえて時を待つ、のも必要なのかなとか。応戦するつもりなどなく当たり前に業務をおこなったり暮らしたりしているだけで相手に脅威を与えているとしたらそれだけで攻撃してこられるとしたらそれはどうしたらいいのかな。必要以上に自己卑下することもなく自分の能力を低く見積もる必要もなくステップアップをしてそれを祝福してくれないような人だらけの場所からはそっと離れることが もしかしたら幸せなのかな。自分に焦点を当てる。 どこにだって居場所はあるような気がしてきた。今のココに執着する必要は必ずしもない。今、この瞬間に変わらないものなど何もないのだから。諸行無常。
2022.11.30
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身近に、自分が苦手とする人がいるときの話。近年わりと自分もご多分にもれずそういうことがあるように思いますが誰でもそうかな。他人であったり家族であったり、対象はいろいろかもしれない。苦手とする人またはある人にまつわり過去になにか気になることがあって苦手だなあと思ったりその人のすることや存在自体がいちいち気になったりすることってないですか。気になりだすと、暴走するといいますか。(笑)アレルギー?に近いような、顔を合わせるのが苦痛に思ったり。どんどんきつくなるわけですが。***少し話はずれるかもしれませんが最近、職場の人の家族が体調不良になったため、職場の人も休まざるをえなくなったようでした。その職場の人は日ごろから忙しい人で1週間も休んだらいろいろ業務が滞るだろうななどと勝手におもっていたりしましたが声をかけるとしたら「(ご家族が)早く良くなるといいですね」という一言。ご本人が体調不良だとしたら、ご本人に対しても同じ言葉をかけたいはずです。ところで、先の「苦手に思う人」がもし体調不良だったら、私は「回復しなければいいのに」と思うだろうか。体調不良になって「ざまあみろ」と思うだろうか。(これまた酷い言葉!)答えはノー、かも。今の自分はたとえ、苦手と思う人が相手でも「早く良くなったらいいな」と思うし、その逆を望むようなことはない、とは思う。仕事が忙しかったり、仕事ができる人、優秀な人「だから」「早く回復したらいいのに」と思うわけじゃないなあと。その人に対してどういう感情があるからその人がひどい目に遭えばいいとは思わないなあ、だからどういう人であろうとその人の幸せを願うとしたら誰かを憎んだり嫌ったりするのもなんかいいことはないような気がして。ちょっとまとまらないけれど。過去にされたこととか、今されていることとかそのことに対して、ノーと言うのは大事なことだけれどなんというかもしかしたらこだわっているのは自分自身なのかな、と思うこともある。という覚書みたいな日記でした。
2022.11.30
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いつもお世話になっている美容室ですが化粧室をお借りするといつも、すっきりきれいでこうしてきれいに(清潔に)保っているコツなどあるんだろうか?などと毎回思うのです。なにをもってきれい、と定義するのか?そこからかもしれないけれどゴミや汚れがないのは当たり前で使った人が清潔、を感じられるということ。やはり美容室というと、自分の体の一部を切ってもらったり触られるわけで、そうすると場の清潔感って大事だなと感じる。不衛生な場でそういうことをされたくないし、なんとなく不安を感じてしまいがちだけれど化粧室が清潔だというのは結構、大事な要素かもしれないですね。居心地のよさ、みたいなものを幾たびに感じるお店。気が付く人がいる、ということだろうか。
2022.10.30
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子どもが成人したあとというのは、またそれで親同士の会話で子どもの近況を報告したりすることがあるでしょう。どこかで行き会ったときとか、年賀状だとか。義務教育までは〇年生になりました、くらいのことがだんだん、〇〇部で活躍していますとか△△大学に入りましたとかいろんなパターンになっていきます。どうも、「立派な」進路というのがあるのか?それが、有名大学への進学だったりそうそうに結婚して自立しているということとか医者になりました、みたいなことも。誰がどう思う、というようなことなのかわかりませんが世間一般に「おお、りっぱにやっていますね」と言われるようなことを望む親が多いのかもしれない。何をもって立派なのか?(生きてるだけで立派だと思うけれど?)世間一般に人がうらやみそうな 子の人生でももしかしたら親がこうなってほしい、を先に察して実現したっていうことはないんだろうか?などとふと思ってしまったのでした。
2022.09.23
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一か月ほど前に、我が家の家族が一人暮らしをするということで引っ越しをしました。わけあって実家にいた人が 別のところに居を構えて暮らすということについて何が円満なのか 幸せなのかみたいなことが気にならなくもないわけですが。今回は、何となく会話のやり取りから親の立場から子の立場へ「自立すべき」という意思が伝わることとなりその結果、出ていくみたいなことになってそれでよかったのかどうか みたいなことを数日前にグツグツと思ってしまっていた自分がいたのですが今日、ふとした瞬間に、こういうグツグツは傲慢だなと思ったのです。親元にいれば もしかしたらバランスのとれた食事をすることができて多少は健康的な日々を送ることができるのかもしれないのに金銭的な自由度も低い人が一人暮らしになれば健康を損ねるのではないか というような心配からくる「後悔」は傲慢だなとかつて自分が相手に自立を求めたのは何だったのか当時それを相手の幸せに必要なことだと思ったからそういう意思を自分が持ち、伝え方の是非はあるとは思うけれどそれが自分の本音だったわけだしそれに応える形で生活を決めた人がいるのならそれを尊重するべきだと今日はふと思ったのです。ひとつ前の投稿「心配」と同列な気もしている「後悔」 これも実はとても傲慢で自己憐憫に浸った感情ではないかなと気づいた次第でそれはなぜかというと自分の中でぐるぐると考えるそういった思考のなかに欠如しているものがあってそれは「相手本人の気持ち」ではないかと。「こうしてほしいと思っているはず」と決めつけることとか「あのときこうしておけばよかった」と出来もしない(出来もしなかったし今後もきっと出来もしないであろう)ことに浸ることの意味のなさ。これも依存だし後悔に浸っている間は、ああでもないこうでもないとどっちつかずでいつか自分が誰からか肯定されて、オールOKの評価をもらえそうな後悔している姿勢がさも 謙虚で美しいかのような錯覚を持っているのだろうと思うのですが 果たして本当にそうだろうか。決めたことや行動したことに責任を持っていない。それが後悔なんだと思うのです。仮に自分の言動が軽率だったとして、他人に対して申し訳ないと本当に思うのであれば それに相応しい行動を起こせばいいだけであって中途半端な「後悔」などではなく申し訳ないと本気で思うわけでもなくでもどこか誰かに責められているような後ろ暗い感覚もあるから「後悔」みたいな言葉を引っ張り出して 何とか許してもらおうとしているのか傲慢な感じがしてしまった。人と人との関わりあいに 正しいという答えなんかなくてぶつかった瞬間があるのならそれがリアルであり誤解だの勢いだの言っても その出来事がまぎれもない事実だったわけでそのことをきちんと自分で引き受けているのか ということ。自分の感情を表現すると 押し付けるとか言われてマイナスな評価をされがちだけど人の本音なんて 隠してもいつか伝わるもので黙っていても態度なり 何かしらで伝わるから 隠すことなんてできないだろうただ誠実に「こう思っている」を率直に表したときに相手が受け取れなかったりすることは 当たり前にあることで双方が必ず同意しないといけないとか 分かり合えなければいけない なんてことは不可能なことがほとんどではないだろうか人はみんな 違う人間なのだからほんの少しの接点で 苦楽を分かち合う時間があったとしても毎日の生活の中で 多くを共感し同意しながら暮らすなんてことは奇跡に近いことなのかもしれないしだからたまに会ったときに 最低限 相手を傷つけたりしないような態度が取れれば200点なのかもしれない。だから「あのとき私がこうしていれば(相手を不快にしなかった)」みたいな言い訳くさい「後悔」みたいなことって 本当にいちいち思うだけで不毛だしそれをぐるぐる自分の中でリピートして「自分はだめだった」みたいなことを自分の脳みそに上書きするなんて 本当にしょうもない、何も生まないどころか害悪しかないのかもしれない、と気づいたのでした。
2022.09.09
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「心配する」というワードは、基本的にはマイナスな意味には取られないことが多いのかもしれない。誰かの何かに思いを寄せ、「大丈夫かな」と「心配する」というとそれはなんだか立派な行為に思えてくる。それが、仮に立派な、思いやりにあふれる、素敵な行為だ。という前提があるとするならなおのことだと思うけれど人は「心配する行為」に依存するのではないだろうか。家族の何かを心配する、とする。我が子の何かを心配する、なんてことは親ならよくあることかもしれない。だが心配された人の感情に焦点をあてると必ずしもうれしいことではなかったりするようだ。「心配」は「不安」と隣り合わせな感情でもある気がする。「不安」だから「心配」するのだとしたら心配は不安に裏打ちされており、心配される人は心配する人の不安により心配をされている、ということになる。相手に不安を持たせているのでは?という感情が一瞬、沸き起こる。ではなぜ相手が不安になるのか?自分が相手を不安にさせる要素を持っているからか?だから不安になった相手は自分を心配するのだろう。そういうロジックが成り立つ なら心配されるということは、自分が誰かに不安を与えているということになり必ずしもそれ自体、喜ばしいと思えないことかもしれない。ところで心配する側はどうだろう。心配は、人を思う思いやりの心、みたいな意味だと思っている人も多いだろう。優しいから心配してあげる。いつも気にかけている優しい人の権化か。心配しているという行為が相手に対する優しさと同義と思っているなら心配している間、その本人は優しい人でいられるのかもしれない。心配するだけで、優しい人になれるんだとしたら。そんな手っ取り早いことってあるだろうか。心配するということは感情なら自然に湧いてくるから抑えることはできないだろうけどそれを表現するとなると 意味が違ってくるのかもしれない。心配を人に伝えるということは「私は心配してあげている優しい人」アピールになりともすると心配された側は先ほどのロジックにより「人を不安にさせている張本人」になるわけで心配されたからと何かが1ミリでも変わるのかと言われたらそんなことはない。のだとしたら。心配する行為というのは 困っている人を気にかける優しい人になったような気になる、陶酔みたいなのに近いものかもしれないし心配しているということを伝えるのは 場合によってはあなたが私を不安にさせている みたいなメッセージにもなりかねないのかもしれない。軽い気持ちで発する「心配」は発する人が不安から逃れるための、逃げ場みたいなものなのかもしれない。
2022.09.09
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ほんの少し、視野を広く(時間軸で長く?)みることができたのだろうか。人とのかかわりでもやもやすること。業務上にかかわる様々なものごとと、それに関わる自分にも関わる もろもろ… 「あの人さえこうなら(もっとよくなるのに)」というような考え方が不毛なのはわかっているつもりです。他人を変えるなんて不可能なのだから。他人が自分の都合よく変わるわけなどないのだから。***昨日も、他人に焦点をあててその人との関わりの中で 自分にもたらされる「不利益」みたいなことを思い浮かべて憂鬱になったり 気が重くなったりしたのでした。そのループにはまると なかなか抜け出せなくなり「他人は変えられない」ことはわかっているはずなのに「なぜあの人は 〇〇なことをするのか納得いかない」みたいなことが頭の中をぐるぐると回って それにとらわれてつまりマインドワンダリング?みたいになっている自分がいてそれは 今朝まで続いていたように思うのですがふと、朝の瞬間にそれが解けたような気がしたなんの拍子かわからないけれど…***人間関係が気になってしまう Aさんとのこと。BさんとのことAさんのこういうところがいやだし、また嫌なこと言われたらどうしようBさんにはもっとこういうこともやってほしいのに やってくれないのは不満そんなことをぐるぐる考えていた前日の思考が ガラッとかわったような今朝になって仕事上の関係で まあまあ近いところにいる人たちとのかかわりだったり距離感もあるのだろうけれどアラが目に付いたり 気に入らないところがクローズアップされる。(実際そんなのは お互い様なはずなんですけれど (笑))私はいったい 何を目指しているのか「ほかに代わりはいる」というキーワードから、すっとそれが自分に該当すると気づく。そう、自分の代わりになる人なんて 他にいるのだ。※業務に限って言うと私が辞めることがあっても ここは続いていくはずだしほかの誰が業務を引き継いでいくのだ。(それは地球上に生まれた生き物みんなにいえるようなことと同じこと)今いる「ココ」は 通過点でしかないのだそのごく一部の部分に たまたま自分がいるにすぎないのだ永遠などない 諸行無常 それもまた過ぎ去る自分が「一所」にこだわり さも永遠にそこに居続けられるような勘違いが今の場所への不満を生み出すのかもしれない身近にいるあの人は なぜ私に対して〇〇しないのか。××でないのか狭いところに執着してしまう それは私がずっと永遠にここにいて もしかしたら 影響力を及ぼし続けたり珍重されたりしつづけるという大きな考え違いなのだいまここにいるのは ほんの少しのあいだ 居させてもらっているのだ関わっている人は 袖すりあうも 多生の縁なのかとにかく稀有な縁あって 接点をもらっているだけなのかもしれないし奇跡 かもしれないそして いつ どの瞬間に 会えなくなってしまうかもしれないのだろう永遠に 会い続けられる保証など どこにもないのだから次の瞬間から もう 二度と会えなくなるかもしれないそうおもったら その口から文句や 相手に対する誹りが出るだろうか必要なことは言うけれどねでも 争ったり 相手が自分の意のままでないということについて不満を述べて 攻撃するようなことを するのだろうか したいのだろうかそのくらい 我慢ならないということだろうかいや その瞬間の積み重ねが ひとすじの線になって歩く軌跡になるのだとしたら その瞬間を扱う気持ちが変わるのかもしれないいやな目に遭ったかもしれない 過去だけど「他人と 過去は変えられない」 から変えようと思うことが不毛だからそんな些末なこと どうでもいいんじゃない?本題はここからたとえば職場なら 私はここで 何がしたいのかということだAさん Bさんを 思い通りに動かしたいのかもしそうだとしたらそれはなぜか自分の力を 指し示したいだけなのではないだろうかお客様がこられる場所で そんなことは実に どうでもよくてそういうもめごと自体が 何のためにもならなくて 不毛で解決にもつながらなくて 消耗するだけでだったら 自分が目指してるものを 遠くに見てみてそしたら そこへ行くのに 行くために必要なことが見えてくるはずでその未来に 完了を設定するなら 今何をするのかが 少しは見えてくるのかもしれないそう思ったら今自分がすることって 他人に焦点を当ててあらさがしをすることじゃないその人たちの力を借りて 自分の目標に近づけるにはどうするのが最適解なのかを考えたら細かなことへの執着など どうでもいいことのように思えてきたただ単純に面白くないとか 不愉快とか人間だからあるし そういう感情をぞんざいに扱っていいということではない けれどそんなことは誰にでもある という前提でそのうえで 自分は何かを目指すのか 目指しているのか 目指したいのかそれは何で 大切にしたいことが何で何は捨てられないのか 何のためなら 何を手放せるのかそこにちょっと焦点を当てたら案外、身近なもめごとなんて どうでもいいことになっていくのかもしれない***自分の見栄とか プライドとか いいところを見せたいとか 評価されたいとかそういう 報酬系にちかいところもものが 喉から手が出るほどほしい自分ですがもう少し 遠くを見てみたらそういうのがちょっと あほらしくなったというか遠くの到達点を見ようとしている 自分がいたのでみんな通過点なんだその一つの通過点 私と少しでも接点あった人が何を思って 何を心に残すだろうかっこいい私を残してほしいとかじゃなくて自分はどうありたいんだろうなんかすこし 正直な自分でいることが誰かにとっても誠実なのかもしれないとそれが一番だいじなのかな みたいなことを思って書き散らしました
2022.08.29
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今日、ブログのアクセス数が200,000アップしました!ごらんくださっている方、ありがとうございます☆スタートしたのが2005年のようです←17年かかって200,000アクセスが多いのか少ないのかわかりませんが、これからも思いついたときにふと記録していきたいと思います。***今日は、お盆ということもあってお墓参りに行きました。その帰りに、城址公園へ。冷たいお菓子とお抹茶をおいしくいただきました。畳をかえたばかりなのか、お部屋はいい匂いがして部屋からお庭を眺めることができていい空間でした。実はここの公園に植わっている椿の木は、夫の祖父が育てたもので時期になると花を見せてくれます。夕方には、今週になってから予約を入れて(変更して)もらった美容室に行きました。明日からお店がお盆休みなので、ということもあってカラーリングしてもらいました。こちらのお店のヘッドスパにはいつも癒されています。今日はほかのお客様と予約が重なったということで、ヘッドスパのマッサージシャンプーは担当の方とは違うスタッフにやってもらうことになったのですが…おそらくアシスタント?のスタッフの方ですがその方も一生懸命やってくださって感謝しているけれど私はやっぱりいつものスタイリストさんにお願いしたかったです。(わかっていたならオーダーを決めるときに教えてほしかったなあ…。)というのはワガママなのかなー?(ちょっと愚痴っちゃいました)明日からまた勤務です。やっぱり、人に見られる場所に立っているので多少は見た目を構いたいなあと…今は思っていますけれどね。
2022.08.14
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「勉強しなさい」は、親が子どもに言いがちなキーワードですね。夏休みなど遊んでばかりいるように見えるわが子を見てこのままで大丈夫なんだろうか?と思うようなそして親の側の多くが経験していそうなことといえば「勉強しなさいといってするようなら誰も苦労しない」というようなことではないでしょうか。確かに…なぜ、勉強しなさい、と言ったところで勉強しないのか?何となくわかったような気がするので今日は書いておこうかと思いました。***そうきっと子どもは親を試しているのでしょう。勉強しなさい、と言われてすんなり その通りにしてしまったら親は安心して、もうそのキーワードを使わなくなるのかもしれません。(もしくはもっと高い要求を出してくる?(笑))つまりやりなさいと言ったことを「やらない」間はずっと 親はやらない自分に関心を持ち 監視(?)し続けるでしょう。もし自分のことをずっと見てほしいという欲求が子どもの中に顕在的にか潜在的にかわかりませんが あったと仮定するなら勉強しなさい、と言われて それをやってしまったら親は安心してしまってこちらを向いてくれなくなるかもしれない。そのため子どもは、親の言う「勉強しなさい」には対応してはいけないと学習するのではないでしょうか。***もしかしたらこれは学生時代に限らないことなのかもしれませんがなんというのか他人を操縦する術とでもいうのかいうことを聞いてしまったら終わりみたいな感覚がある人も居そうな気がしてならないです。親が子に期待することなら 勉強以外のことも当てはまるのかもしれない。ポイントは「こうなってほしい」と思うこと。親側が、とにかく執着する事柄。それが、コントロールの道具になりうる。その「道具」をつかえばもしかしたら 自分の欲求をかなえるべく親を利用できるかもしれないのだから。親が何を望んでいるのか。それを知られたら、コントロールゲームに利用される可能性があると思っていたほうがいいのかもしれません。
2022.08.12
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続けていたり関わっていた「何か」を辞めるきっかけ。よくありがちな「人間関係」。嫌いな人がいる。苦手な人がいる。ありがちな気がします。合わない何かがあるのかもしれない。人それぞれ、そんなことはよくある。理屈なんかなくて。なんとなく、とか。生理的に、とか。人との関わりの中で当たり前にある気がします。ただ、その人と人との距離感が保てるなら「がまんできなくはない」というかすべてを受け容れるなんてことはできないだろうし(そもそも、すべてを受け容れる必要なんてないのかもしれない)だったら、共存するためにどうするか?を考えるのでしょう。だけれどどうにも、その距離感が保てなくなりそうなとき。または瞬間でも接触したくないくらい、嫌悪感や苦痛が増したときなどはどちらかがその場を離れる。ということになるのかもしれません。***ある人と一緒に何かをやっていて、とても嫌な思いをした。それがきっかけで、もうこの場に来るのは嫌だ、と決めた人がいるとして。Aさんとまた会いたくないから。というのが、原因の一つであるかもしれないけれど、もしかしたら原因はそれだけではないかもしれない。ずっと前から、なんかその場やその場で何かすることのなかに気に入らないことがあった。不満があった。としてそれでも、さっさとそこを去るほどの理由がなかったのかもしれない。ほかの人がからんでいたりすると、辞めづらい、みたいなこともあるかも。で、ふっと決定的に嫌な出来事が起こったら。ああ、もう辞めるわ。ってなるのかもしれない。嫌な出来事に居合わせた「あの人のせい」だよね?と辞める本人もその周囲の人も思うかもしれないけれど、本当にそうだろうか?***別に、人が一人、腹をくくって何かを決める、ということについて周囲がとやかく言う必要はないのかもしれない。あの人のあれがなければ。続けられたのかもしれない、けれど。それを押してもやりたい動機がなかっただけ、なのかもしれない。そもそも、嫌だったんだよね。とか。…本人にしかわからないのだろうけど。***過去に、私が関わった団体でおそらく私の運営方法がまずくて辞めたんだろうな、という人がいました。確かにこれは不信を持たれてもやむを得ないだろうというようなこともあり。けれどそれは、その人を貶めようと思ったわけでもなんでもなくその会合にもっと出てきてほしい、出るきっかけを持ってほしいと周囲の役員と話し合って決めたことではありました。ちょっとした行き違いがありました。そのやり方がそもそも、当人には嫌なものに映ってしまったんだと思います。いくらこちらが「良かれと思って」といったところで当人にとっては「それはこっちの問題。余計なお世話」なのかもしれないわけで。そこで「周りがこんなに気を使ってるのに」みたいなことを思ったり言ったりしたところで余計なお世話、不快で迷惑でしかない。ということなんてこの世の中、ごまんとあるのでしょう。そのとき私は、たとえ悪気はなくても不快な思いをさせたのが申し訳なかった、と思い謝るしかできなかったし、会うこともなくなった今でもとても後味悪い、悲しさもありますがそれも、私の至らなさのせいだけれど…ただ、気持ちを伝えるしかできなかったけれど。去るのも去る人が決めたこと。そしてそこに居続けるのがいい、ととかく思いがちだけれどそれが幸せかどうかは、当の本人が決めることでありそのきっかけがよかったか悪かったかなんて周囲が思いをはせたところでどうしようもない。個人の問題になってしまうのではないかとも思うのです。
2022.05.25
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