#61 奪門の変
12/10(木)よる8:00
#62 永遠なる航海へ
12/10(木)よる9:00
明成祖 朱棣
明
第3代皇帝
明太宗(成祖).jpg
明成祖
王朝
明
在位期間
1402年7月17日 - 1424年8月12日
都城
南京→北京
姓・諱
朱棣
諡号
体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝
啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝(嘉靖帝により改称)
廟号
太宗
成祖(嘉靖帝により改称)
生年
至正20年4月17日
(1360年5月2日)
没年
永楽22年7月18日
(1424年8月12日)
父
洪武帝
母
孝慈高皇后馬氏
后妃
仁孝文皇后徐氏
陵墓
長陵(明の十三陵)
年号
永楽:1403年 - 1424年
永楽帝(えいらくてい)は、明の第3代皇帝。姓は朱(しゅ)。諱は棣(てい)。廟号は太宗(たいそう)であったが、嘉靖帝の時に成祖と改称された。諡号は体天弘道高明広運聖武神功純仁至孝文皇帝、嘉靖帝の時に啓天弘道高明肇運聖武神功純仁至孝文皇帝と改称された。一般的に日本ではその在位中の元号から永楽帝と称される。
生涯[編集]
燕王時代[編集]
至正20年(1360年)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武帝)の四男として生まれた。極めて記憶力が高く、幼い頃は早朝から学者を招き、一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。洪武3年(1370年)、北平都指揮使に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時である。元を北方に駆逐したが、依然北元としてモンゴル高原に割拠していた時代、北方の要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに配置された朱棣はその戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。
洪武23年(1390年)、25年(1392年)、29年(1396年)と北伐を行い、ことごとく勝利した。太祖・洪武帝は「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。
『明史』によれば洪武25年(1392年)に皇太子であった長男の朱標が死去すると、洪武帝は朱棣に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止め、朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだと記録にある。これは第2代皇帝建文帝簒奪を隠蔽するための脚色とも考えられ盲信することはできないが、朱棣が有能な人物であったことを示唆する記録である。
洪武31年(1398年)、洪武帝の崩御にともない朱標の子で甥にあたる建文帝が即位。建文帝の側近である斉泰・黄子澄らは皇帝権力を確立するため、各地に封じられた皇族である諸王の取りつぶしを画策した。この時、当時燕王であった朱棣は2月に自ら南京に赴いた。建文帝の戸部侍郎卓敬はこの機を捉えて燕王を南昌へと配流すべきと上表したが、建文帝は「燕王は血肉を分けた至親である、謀反の心配などはない」と答えたと言う。
しかし3月、北平の官吏の一部が燕王と結託と言う報告が入り、斉泰らは内通者を逮捕。都督の宋忠に燕王の指揮下にある軍隊を率いさせて出動させると言う方法で北平の兵力を削減した。この頃から朱棣は仮病になったり狂人の振りをしていたとする。しかし、この仮病を密告するものがいたため斉泰らは燕王朱棣を逮捕するように指示した。一方朱棣の側もこの指示を知っていたとされる。
これに反発した朱棣は朝廷関係者と内通者を逆に捕縛し殺害。兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は自らの軍を靖難軍(君側の奸を討ち、国難を靖んずるの意味)と呼び、ここからこの反乱を靖難の変と称される。
靖難の変[編集]
詳細は「靖難の変」を参照
⇓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E9%9B%A3%E3%81%AE%E5%A4%89
靖難の変
7月に反旗を揚げた朱棣は通州・薊州に出撃し、同時に居庸関を占拠、北平の背後を安定させた。8月には南京からの討伐軍を雄県の会戦で撃破したが、この時は真定城を攻略できずに軍を返す。
南京の朝廷はこの敗北で黄子澄の進言を受け責任者の耿炳文を更迭。新たに李文忠の長男の李景隆に50万と号する兵を与えて北上させたが、朱棣はこの人事を聞いて「是自らこれを坑にするなり(あの無能者が指揮官なら自滅するだけだ)」と手を叩いて喜んだと伝わる。朱棣は11月、北平城下でこの50万の軍に大勝。李景隆は徳州に逃亡したが、黄子澄は建文帝にこの敗戦を伝えなかった。
翌建文2年(1400年)1月、朱棣は蔚州と大同を攻撃。北平の西方を安定化させる。官軍も徐達の子の徐輝祖らの増援軍を派兵し、総勢60万、号して100万とする大軍を北上させ白溝河の戦いが起こる。この時は官軍の平安・瞿能らの勇戦により、前半では朱棣自身が乗馬を三度乗り換えるほどの命の危機もあったとされるが、結局後半に燕王軍が盛り返し、瞿能は敗死、李景隆は南方の斉南に逃亡、官軍の武器や食料はことごとく燕王軍の手に落ちた。
李景隆はさらに南方に逃れたが、山東参政の鉄鉉が斉南城を3カ月に渡って死守。結局攻め落とせなかった朱棣は軍を返したが、鉄鉉の追撃により軍を撃破され徳州・滄州を奪還された。
一度北平に戻った朱棣は兵を整えてから10月に再び軍を動かす。史書には「一昼夜に三百里を行く」と記された強行軍をもって滄州守備軍を攻撃。主将の徐凱を捕縛し、滄州を再度奪回した。さらに12月に東昌の会戦で盛庸の率いる政府軍と激突したが、このときは燕王軍の中核武将の一人であった張玉が戦死し、兵の損害は1万を超え、朱棣自身も一時は包囲され命の危機を感じるほどの敗戦であった。
翌建文3年(1401年)3月、損害を癒した朱棣は3度目の出兵。滹沱河で再び盛庸と交戦し今回は勝利する。翌月閏3月には藁城で平安・呉傑率いる官軍6万を打ち破ると言う大勝利を収めた。
4月、朱棣は大名(地名)に進出。このとき朝廷は斉泰と黄子澄を退けるという妥協を示した。このとき朱棣は盛庸らの召喚を要請したが、朝廷は軍を北上させて燕軍の解散を見届けると言う高圧的な返信を返し、5月には再び戦端が開かれた。この和平工作が決裂後、朱棣は徐州に軽騎兵を出撃させて官軍の兵糧船数万艘を焼き払った。7月には官軍の平安が北平城外まで迫ったが、これは攻略できずに引き上げた。この後両軍は散発的に交戦するが、戦況に大きな変化はない。
12月、朱棣の元に内通者からの連絡があり、朱棣は一気に南京を攻め落とすため全軍を挙げて北平を後にした。明けて建文4年(1402年)1月に再びコダ河で官軍を撃破、途中の城には目もくれずに南下した。このときの逸話として朱棣は孔子の生誕地曲阜と孟子の生誕地鄒県では「木一本たりとも盗むことを禁じる」と命じている。
3月、宿州で平安の軍と激突し勝利したが、4月には再度兵を整えた平安、南京政府軍の討伐司令官徐福と蒙城付近で激突。燕軍は陳文・王真と言った将軍を失い、朱棣軍は飢えを癒すため付近の畑から野菜を取るほど補給に悩まされたと記されている。このとき燕王軍では将軍たちが一時撤退を進言し、攻勢を続けると主張した朱棣に賛成したのは朱能のみであったが、朱能の発言が通り戦線を維持することで決着する。この後数日間は朱棣も「甲冑を着けたまま起居した」とされ、士気の向上に努めていた。
しばらく持久戦の様相を呈していたが、官軍に補給物資が届いたとの報を受け朱棣は再び攻勢に出た。この時、朱棣は次男の朱高煦に別働隊を指揮させ、この別働隊の働きにより勝利。官軍は戦死者1万人以上を残して徐福、平安らは霊璧へと撤退、補給物資は朱棣の手に落ちた。
続いて行われた霊璧の戦いにより官軍は壊滅的な打撃をこうむる。この時、徐福は「三発の砲声を合図として燕軍に総攻撃を仕掛ける」と通達していたが、偶然にも燕王軍から三発の砲弾が霊璧城に打ち込まれ、これを総攻撃の合図と誤解した南京政府軍が開かない城壁に殺到、城内が大混乱となり、その機に朱棣が城を攻め落としてしまうと言う、戦史上珍しいほどの幸運による戦勝例がおきた。この時官軍の平安も捕虜となり北平に護送されている。この敗戦を聞いた黄子澄は「大勢は決した」と胸をかきむしって悲しんだと言う。
5月、燕軍は太祖の祖先の墳墓がある泗州に到着。守将は一戦もせずに降伏し、朱棣は墓前に祭文を掲げて啼いたとする。その後朱棣は淮河のほとりで盛庸の率いる軍に勝利し、揚州では戦闘がないまま降伏した揚州城を制圧。ここで朱棣の従姉にあたる慶成郡主が朝廷からの和議の使者として朱棣の元を訪れたが、この和議を拒絶した。
6月、朱棣は長江を渡河。盛庸の指揮する官軍に抵抗を受けつつもこれを撃破し、対岸の鎮江は戦わずに降伏し、ここを占拠した。なお、この南京至近の鎮江が攻略されたことで、建文帝側近で儒学者であった方孝孺は責任者である李景隆を処刑することを求めたが、建文帝はこれを認めなかったと記されている。
同6月、朱棣は南京を攻撃。この時、南京の金川門を守備していた李景隆は戦わずに門を開いて降伏した。最後まで抵抗したのは徐輝祖のみであった。この金川門の降伏を聞いた建文帝は宮殿に火を放った。『明史』「恵帝紀」には「都城陥るや宮中より火起こる。帝終わるところを知らず」と記されている。
この後、方孝孺・斉泰・黄子澄・鉄鉉は刑死。特に方孝孺は朱棣が皇帝に即位する際に一旦は許され、即位の詔を記す事を懇願されていたが、筆を投げ捨て、泣き叫びながら朱棣を罵り、「死即死耳,詔不可草。(さあ殺せ!わしは詔勅など書かんぞ!)」と騒いだので、激怒した朱棣によって一族のみならず、使用人や門人にまでも処刑され、それらは「滅十族」と称された。鉄鉉は朱棣を罵倒し八つ裂きにされ、その妻も惨死させられた挙句、遺体は朱棣じきじきの命令により犬に食わせられたと言う。また卓敬も、朱棣の再三にわたる任用の勧誘を退け刑死した。最後まで抵抗した徐輝祖は、その姉が朱棣の妃(後の徐皇后)であることから命だけは許された。
独裁権の確立[編集]
1402年、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した(永楽帝)。1403年には北京を首都と定めている。実際に移ったのは1421年であり、この時これを改名して北京順天府とするとともに、1406年から改築を進めてきた紫禁城を完成させ、ここに移った。
この後、永楽帝は建文帝を「革除」(存在を歴史から抹殺)しようと試みた。まず建文の元号を廃止、この年(建文4年)を洪武35年とし、翌年を永楽元年とした。そして皇帝直属の錦衣衛に建文帝に関する言動を監視させた。
また東廠と呼ばれる宦官の組織を作り、諜報活動を実施させている。洪武帝が行った恐怖政治を永楽帝は自らの簒奪を隠蔽するために実施している。これにより、永楽帝の時代に明の皇帝独裁体制が固まり、以後政治を壟断する寵臣は出現するが、新皇帝が即位すると没落し処断されるのが常になった。
文化的には勅撰書である『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』『歴代名臣奏議』などを編纂させ、文淵閣に保存させた。これには儒学者が自らの簒奪や建文帝について議論するのを事前に封じる意図があったと言われる。
対外政策[編集]
紫禁城
外征を控え、元末の混乱以来の民力の休養を国是とし、農本主義による政策を実施した洪武帝に対し、世界帝国を目指した永楽帝は積極的な外征を行い、対外進出を中心にした政策を実施した。永楽帝の治世の最たる象徴は積極的な対外政策にあった。領土拡大においては軍略家の本領を発揮して漢人皇帝としては唯一モンゴル方面への親征を行い、5度にわたる出征でタタール部・オイラト部を威圧した。また南方では陳朝滅亡後のベトナムに出兵し胡朝を滅ぼし、交趾布政司による直接支配を実現、東北方面でも女真族の勢力圏、黒竜江河口まで領土を拡大して奴児干郡司を設置、西方でもティムール帝国と国境を接しティムール没後の帝国と国交をもち、チベットの間接統治も実現した。さらに李氏朝鮮・琉球王国や日本からの朝貢を受け冊封し朝貢貿易を許可(日本は所謂勘合貿易)、また宦官鄭和をして7度にわたり大艦隊を南海方面に派遣し(1405年 - 1433年)、東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させ、明朝の威信をアジア中に及ぼした。
モンゴル族のタタール部とオイラト部は、たびたび明との国境を越えて侵入した。これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、最初は武将の丘福に10万の兵を与えて征討に向かわせたが、この丘福が惨敗すると永楽8年(1410年)に、51歳という年齢でありながら皇帝としては異例の北方親征を敢行、後に滅胡山(胡は古代中国における異民族の蔑称)と名づけるケルレン河畔での大勝を皮切りに5度にわたって行いモンゴル族を駆逐し[1]、「五度沙漠に出で三たび慮庭をたがやす(五出三犂)」と称えられている。
建文2年(1400年)、安南を支配していた陳氏(陳朝)が胡季犛に簒奪され(胡朝)、胡氏がさらに南方の占城(チャンパ王国)を攻撃した。占城の巴的吏が明に援軍を求めてきたため、ベトナム地方の安南に永楽4年(1406年)に遠征し(明胡戦争(英語版)、明・大虞戦争)、直轄領とした(第四次北属期、1407年 - 1427年)。直接の動機とされた「安南国王の孫」を名乗る陳添平の永楽帝による突然の安南王擁立と、それを安南に送り返して胡氏に殺害されるという事件の経緯の不可解さから、明側による謀略説も存在する(山本達郎『安南史研究Ⅰ』他)。この時の明は21万に及ぶ兵を動員したが、総司令官朱能の病没という、敗北によらない手痛い損失が生じた。その後指揮官となった張輔は「安南は本来中国の土地」とする上表を提出し、これを受けた永楽帝による布政使、都指揮使などの地方官が任命された。ただしこの後の永楽6年(1408年)に大規模な反乱が生じ、現地明軍だけでは対応できなくなった結果、再び張輔が討伐軍を指揮する事態となっている。この鎮圧後も散発的に反乱は続発し、永楽12年(1414年)には張輔が現在のラオス付近まで軍を進めている。
チベットを従属させ、カルマパの活仏であるデシンシェクパを招き、洪武帝と馬皇后の追善供養を執り行わせる一方、西域の情報を得るという行動をした。このデシンシェクパの情報による西域方面統治政策は、その後の明朝の基本となる。このほかにシベリアにも出兵し、苦夷(樺太)まで一時は領地とし、奴児干都司を置いたとされる。この記録は『勅修奴児干永寧寺碑記』という石碑に記されているが、『明史』には記されていない。
永楽帝は世界が明の権威を認めることを欲し、宦官鄭和に命じ大船団を南海に派遣した。大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した(7度目は孫の宣徳帝の代に行われた)。この船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に中小諸国が交易にやって来るようになった。元の旧領回復を目指すティムール朝とも敵対したが、永楽3年(1405年)のティムール死後は和睦して友好関係を築き、永楽12年(1414年)または永楽13年(1415年)には鄭和がホルムズを訪れている。
当時倭寇問題などで対立していた日本とも和解し、永楽2年(1404年)に足利義満は永楽帝の即位に祝賀の使節を送り、貿易を求めた(義満自身は建文帝の代から修交を行っている)。永楽帝は当時猛威を振るっていた倭寇の取締りを求めると同時に、「日本国王」に冊封して朝貢貿易も許した。義満はこれに応え倭寇を厳しく取り締まり、対明貿易で巨額の利益を得た。日本側と明側で勘合と呼ばれる割符を使っていたため、日本では一般的にこれを勘合貿易と呼ぶ。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」の諡を送っている。日本人で外国から諡号を贈られたのは義満が最初で最後である。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が永楽9年(1411年)に明の使者を追い返すまで続いていた。
永楽22年(1424年)、第5回モンゴル遠征の帰途に陣没した。享年65。
人物評など[編集]
永楽帝の像明の最大版図を築き、鄭和の大航海などの事業を起こすなど、気宇壮大な人であった。洪武帝とともに明の基礎を固めたのは永楽帝であると言える。しかし、宦官を重要な地位につけてはならぬという洪武帝の遺訓に反し宦官を重用した。これは、皇位簒奪という負い目もあって官人との間に信頼関係を築けず、また靖難の変の際に建文帝の朝廷で待遇の悪かった宦官を利用したことによる。永楽帝の治世に限って宦官の起用は成功であったろうが、後代における宦官による壟断の原因となった。
靖難の変では兵力・物量で圧倒的に不利な状況にあるにもかかわらずに勝利し、65歳という高齢を押した最期の出陣も含めて皇帝の地位にありながら自ら5回もモンゴルに親征するなどという異例の行為を見せているが、これらは永楽帝が類稀な軍略家であったことを示している。
即位直後における建文帝一派の粛清は、父の洪武帝と同等の粛清とされ、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり、芋づる式の意)」と後世に悪名高く評された。
『明史』「成祖本紀」には「若くして兵学を修め、勇武の才略は太祖洪武帝にも匹敵した」と軍事の才能を褒め、「即位後自ら倹約を行い自然災害が発生したら人民をただちに救済し、人物を良く見抜いて適材を適所に配した」と行政面での見識を賞賛しつつ、「甥にあたる建文帝を倒して帝位を奪ったことは隠すことができない」と靖難の変を汚点の一つとして記している。
宗室[編集]
父母[編集]
仁孝文皇后徐氏
永楽帝
各種表記
繁体字:
永樂帝
簡体字:
永乐帝
拼音:
Yǒnglè dì
和名表記:
えいらくてい
発音転記:
ヨンラ ディ
ラテン字:
Yung3-le4 ti4
英語名:
Yongle Emperor
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父 洪武帝
母 孝慈高皇后馬氏(一説によると碽妃)
后妃[編集]
仁孝文皇后徐氏 - 中山王徐達の長女。
昭献貴妃王氏 - 蘇州人。1420年薨。
恭献賢妃権氏 - 朝鮮人。兄は権永均。1410年薨。
忠敬昭順賢妃喩氏
恭順栄穆麗妃陳氏 - 陳懋の次女。
康靖荘和恵妃崔氏
康穆懿恭恵妃呉氏
端静恭恵淑妃楊氏
恭和栄順賢妃王氏
昭粛靖恵賢妃王氏
昭恵恭懿順妃王氏
恵穆昭敬順妃銭氏
康恵荘淑麗妃韓氏 - 朝鮮人。仁粋大妃の叔母で、韓確の姉。1424年殉死。
安順恵妃龍氏
昭順徳妃劉氏
康懿順妃李氏
恵穆順妃郭氏
昭懿貴妃張氏 - 張玉の娘。
順妃任氏 - 朝鮮人。1421年自殺。
妃黄氏 - 朝鮮人。1421年刑死。
昭儀李氏 - 朝鮮人。1421年刑死。
婕妤呂氏 - 朝鮮人。1413年炮烙で刑死。
恭栄美人王氏
景恵美人盧氏
荘恵美人(姓氏不詳)
永楽帝が崩御した時、妃嬪と宮女と共に30人くらいが殉死を命じられた。
男子[編集]
洪熙帝 朱高熾 - 母は徐皇后
漢王 朱高煦 - 母は徐皇后
趙簡王 朱高燧 - 母は徐皇后
朱高爔 - 夭折。母は康穆懿恭恵妃呉氏
女子[編集]
永安公主 朱玉英[2] - 母は徐皇后。袁容に降嫁した。
永平公主 - 母は徐皇后
安成公主 - 母は徐皇后
咸寧公主 朱智明[3] - 母は徐皇后
常寧公主
生母の問題について[編集]
永楽帝の母親について、実際は高麗貢女の碽妃だったとする説がある。永楽帝は生母の身分が卑しいことに劣等感を持ち、靖難の変の頃から洪武帝の皇后であった馬氏が母親であると僭称した、とするものである。
モンゴル側の史料である『アルタン・トブチ』や『蒙古源流』においては、永楽帝の生母は大元ウルスの順帝トゴン・テムルの妃でコンギラト部出身の女性であり、洪武帝が後にその女性を娶った際に彼女はトゴン・テムルの子を妊娠中であり、従って永楽帝はトゴン・テムルの子であると記されているが、中国側でも同様の俗説が広まっている。また、その俗説において永楽帝の父親とされるトゴン・テムルもコシラの実子ではないと言われており、民間では南宋最後の皇帝恭帝の遺児であるという俗説があり、その俗説との関連性を指摘する研究者も存在する。
寺田隆信によると、生母について「馬皇后説」の他「達妃説」「碽妃説」「元の順帝の妃説」など、俗説も含めると5説前後に分けられるとする。ただし寺田自身は「今日となっては調査する材料もない」として諸説を紹介するにとどめている。
洪熙帝(こうきてい)は、明朝の第4代皇帝。諱は高熾(こうし)。廟号は仁宗。日本ではその在位中の元号から一般的に洪熙帝と称される。
生涯[編集]
燕王時代の永楽帝の嫡長子として生まれ、父の即位後に皇太子となる。幼少より病弱であり、また成人すると極端な肥満体型となり、自ら歩くことも困難だったと伝えられる。また、弟である漢王朱高煦も自らが父の後継者になることを望んでいた。永楽帝は病弱なことを理由に朱高熾の廃太子も検討したが、朱高熾の息子である朱瞻基(後の宣徳帝)が英明であったことにより、廃立は実施されなかった。永楽帝は在位中にたびたび親征を行ったため、京城を留守にすることが多く、朱高熾は監国として永楽帝の代理を務めた。しかし、皇太子に仕える近臣が漢王の一派によって讒言され、後に名臣「三楊」の一人として知られる楊士奇なども投獄された。
永楽22年(1424年)、永楽帝の崩御にともない朱高熾が皇帝に即位する。洪熙帝は、まず永楽帝に諫言して投獄された元戸部尚書夏原吉らを釈放し、次に靖難の変の際に建文帝の臣下であり、永楽帝即位後に奴隷や官妓とされた家族たちを赦免し、没収されていた彼らの財産を返還した。また、恣意的な法律の適用を防止するために宮刑を禁止している。
永楽帝の度重なる外征によって国庫が圧迫される状況を、監国として批判的な立場で見ていた洪熙帝は、即位後は一切の外征を行わず、また北京を都城としていることが北方民族の動向に影響を受けやすいと考え、南京還都を計画している(洪武帝による建国期への回帰思想もあったとされる)。しかし、この遷都(還都)計画は洪熙帝の崩御により実現しなかった。
洪熙帝の治世はわずか1年であるが、その治世は恤民を主眼にした仁政であったと記録されている。永楽年間も監国として長期間にわたって内政実務を担当し、過度な膨張政策と恐怖政治を緩和し、民力の休養と国富の増大に努めた。『明史』には、洪熙帝が長寿であったならばその治世は文景の治(前漢の文帝・景帝の時代、国全体が平和で安定していた時代とされる)同様のものになっただろうと記述されている。後世の史家は、この仁宗洪熙帝と宣宗宣徳帝の治世を仁宣の治と総称し、明の最盛期であったと評価している。
宗室[編集]
后妃[編集]
誠孝恭粛明徳弘仁順天啓聖昭皇后張氏
貴妃郭氏 - 郭英の孫娘。殉葬。
賢妃李氏
順妃譚氏 - 殉葬。
順妃張氏 - 皇子時代の側室。皇妃を追号された。
麗妃王氏 - 淑妃王氏の姉妹[1]。殉葬。
麗妃李氏 - 皇子時代の側室。皇妃を追号された。
恵妃趙氏
充妃黄金娣[2] - 殉葬。
淑妃王氏 - 殉葬。
敬妃張氏 - 張玉の孫娘。
洪熙帝が崩御した時、5人の妃嬪が殉死した(殉死させた)。
男子[編集]
1.宣徳帝 朱瞻基 - 母は誠孝皇后張氏
2.鄭靖王 朱瞻埈 - 母は賢妃李氏
3.越靖王 朱瞻墉 - 母は誠孝皇后張氏
4.蘄献王 朱瞻垠 - 母は賢妃李氏
5.襄憲王 朱瞻墡 - 母は誠孝皇后張氏
6.荊憲王 朱瞻堈 - 母は順妃張氏
7.淮靖王 朱瞻墺 - 母は賢妃李氏
8.滕懐王 朱瞻塏 - 母は貴妃郭氏
9.梁荘王 朱瞻垍 - 母は貴妃郭氏
10.衛恭王 朱瞻埏 - 母は貴妃郭氏
女子[編集]
嘉興公主 - 母は誠孝皇后張氏
慶都公主 朱円通 - 母は恵妃趙氏[3]。焦敬に降嫁した。
清河公主
徳安公主 - 夭折。諡は悼簡。
延平公主
徳慶公主
真定公主 - 母は賢妃李氏
宣徳帝(せんとくてい)は、明朝の第5代皇帝。諱は瞻基(せんき)。廟号は宣宗。しかし、日本ではその在位中の元号から一般的に宣徳帝と称される。
生涯[編集]
朱高熾(後の洪熙帝)の長男(第一子)として生まれる。父の朱高熾は病弱であったため、祖父の永楽帝は廃太子を検討したこともあったが、朱瞻基が英明であったため廃太子を行わなかったと史書に記載されている。また永楽帝の親征にも随行して、祖父に対して助言を行っていた。
洪熙元年(1425年)、洪熙帝が在位わずか1年で崩御、朱瞻基が皇帝に即位することとなった(宣徳帝)。しかし即位に反対する叔父の漢王朱高煦による反乱が発生した。朱高煦は戦場では永楽帝譲りの才覚を発揮した人物で、一時は立太子を検討されたこともあったが、暴虐無礼であることを理由に見送られていた。
即位直後の青年皇帝に対する叔父の反乱は、建文帝を燕王朱棣(永楽帝)が簒奪した靖難の変を思い起こさせるものであった。燕王軍として靖難の変に参加し、漢王に封じられた朱高煦は、今度は自らが武力で皇帝の位を奪おうとしたのである。しかし、迅速で有効な対応ができなかった建文帝と異なり、宣徳帝は反乱に果断に対処し、臣下の親征上奏にも即座に応え、この反乱を鎮圧した。捕らえられた朱高煦は監禁されたが、後に宣徳帝と謁見した際、宣徳帝を蹴倒すという事件を起こしている。激怒した宣徳帝は朱高煦を巨大な銅壷の中に閉じ込め、周囲に炭火を積み上げて焼き殺した。宣徳帝の果断な行動は、祖父や曾祖父譲りの残虐性に裏打ちされていたと考えられている。
この漢王の反乱以降、宣徳帝は皇族たちへの監視体制を強化し、丞相も廃止して、皇帝の独裁体制を確立した。そのために宣徳帝は内閣大学士、中でも楊栄・楊士奇・楊溥の(三楊と称される)3人を重用している。また宦官の政治介入を未然に防止するために洪武帝が禁じた宦官の学問を許し、宦官を対象とした学問所である内書堂を設立した。さらに、皇帝の秘書である太監の権限を強化している。
独裁体制を確立した宣徳帝は内政に努め、また経営が困難となっていた不毛の満州地区を放棄、また大越からの撤兵を決定した。その一方で鄭和による南方航海を再開している。これは版図の単純な縮小を意味するものではなく、永楽年間に膨張した領土を取捨選択して、国内の行政制度を整備することを目的とした政策と考えられている。
宣徳10年(1435年)に崩御。病弱であった父帝より10歳以上も早く世を去った。宣徳帝の治世は洪熙帝と並んで永楽帝以後の休養期にあたっており、仁宣の治と呼ばれている。これが明の全盛期であったという評価が、後世の史家たちの一般的な意見である。それを裏付けるように、磁器の品質に於いても、万暦期より宣徳期の物の評価が高い。
宣徳帝は芸術方面にも才能を発揮し、特に文人画に優れた作品を残している。しかし、絵を描く際には傍らに画家を控えさせており、自身が満足しない部分を即座に修正させていたとも伝えられる。
宣徳帝は安定した治世を創出したとして高く評価される一方、中央集権体制の確立のために宦官権力を強化させたことは、次代の正統帝の時代に朝政を混乱させる原因となり、その禍根は明末にまで影響することとなった。
宗室[編集]
后妃[編集]
恭譲章皇后胡善祥
孝恭章皇后孫氏
賢妃 / 孝翼皇后呉氏 - 景泰帝の母
殉葬妃10人:端静貴妃何氏、純静賢妃趙氏、貞順恵妃呉氏、荘静淑妃焦氏、荘順敬妃曹氏、貞恵順妃徐氏、恭定麗妃袁氏、貞静恭妃諸氏、恭順充妃李氏、粛僖成妃何氏
国嬪郭愛
男子[編集]
英宗 朱祁鎮 - 母は孝恭章皇后
景泰帝 朱祁鈺 - 母は賢妃呉氏
女子[編集]
順徳公主 - 母は恭譲章皇后。石璟に降嫁した。
永清公主 - 早世。母は恭譲章皇后。
常徳公主 - 母は孝恭章皇后。薛桓に降嫁した。
英宗(えいそう)は、明朝の第6代、第8代皇帝。明の皇帝は一世一元の制があるため、日本では元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝、天順帝と呼ぶ場合もある。土木の変でモンゴルの捕虜となった。中国統一王朝の皇帝の中で唯一、野戦で捕虜となった皇帝である。
生涯[編集]
皇帝即位[編集]
第5代皇帝の宣宗宣徳帝の長男として生まれる。宣徳3年(1428年)に皇太子に冊立された。
宣徳10年(1435年)、父帝の崩御により9歳で皇帝に即位する。治世初期は太皇太后(祖父の洪熙帝の皇后)張氏や、父の宣徳帝の遺臣であり一般に三楊と称される楊士奇らの有能な官僚の輔政による安定した朝政であったが、成人した頃には彼らが死去したり隠退したりしたため、自らの家庭教師であった宦官の王振の専横を許すことになった。王振は蓄財を目的に自宮(自ら去勢)して宦官となった人物であり、政治に対する理念に乏しく、権勢と蓄財に邁進する性格であった。この王振の専横により朝政は弛緩し、国内では社会不安が高まって思任発や鄧茂七らの反乱が勃発し、明国内の混乱に乗じ北方のオイラトはしばしば長城を越えて明へ侵入した。
土木の変[編集]
「土木の変」を参照
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E3%81%AE%E5%A4%89
この時期のオイラトは、エセンが出現したことで強大な政治勢力に成長していた。エセンは朝貢貿易による利益確保と、それを利用した政治体制の強化を目指し、明との交易交渉に臨むが、交渉が決裂したことでエセンは明領に侵入した。
正統14年(1449年)、王振はエセン征伐のため正統帝に親征を要請、朝廷内の反対を押し切り、行軍の規模を誇示するために、閣僚などの文官も含めた50万の軍勢による北方攻撃に着手した。明軍が大同まで至ると、明軍の敗北の報告を受けた王振は、オイラト勢力の軍事力を恐れて撤退を決意する。北京までの帰路、輜重部隊を待つために土木堡で野営した。そこをエセン率いる軍勢が攻撃、明軍は壊滅的な被害を受け、正統帝はオイラトの捕虜となった(土木の変)。しかし、エセン側としては貿易交渉の延長線上の戦闘であったため、捕虜となった正統帝は厚遇され、2人は友人付き合いをするほどまでに親密な間柄となったという。
皇帝捕虜の知らせを受けた朝廷では、南京への遷都も検討されていたが、于謙の反対で北京に留まり、皇弟の朱祁鈺が即位した(景泰帝)。于謙は石亨らと協力して、兵力を北京とその周辺地域に集中して軍備を強化し、また責任所在を明確にするため王振派を粛清して士気を高め、オイラトの攻撃から北京を防衛した。景泰元年(1450年)に両者間で講和が成立し、正統帝も明朝に送還されて太上皇となった。
奪門の変[編集]
「奪門の変」を参照
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%AA%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
上皇となった正統帝は政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深(成化帝)を立太子することを約束しながら、後にそれを反故にしたことで不満を高めた。景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に崩御して正統帝は復辟した(天順帝)。
復辟後[編集]
奪門の変を成功させた石亨と曹吉祥の一派はその後、その功を笠に着て専横を尽くしたため「曹石」と呼ばれて恐れられた。このためさすがの天順帝も彼らを排除しようと決意する。まず、天順3年(1459年)に石亨を親族の罪に連座させる形で失脚させ、翌年に獄死させた。曹吉祥の甥の曹欽が天順5年(1461年)にクーデターを起こすが失敗、曹欽は自殺し、曹吉祥も死罪にされた。
天順8年(1464年)、38歳で崩御した。跡を子の朱見深(成化帝)が継いだ。
人物[編集]
伝統的に暗愚であるという評価がされている。奪門の変では、弟の景泰帝側にも立太子の件での対応などの問題があったが、変後の于謙に対する報復的な処刑や、一連の政変の発端となった土木の変への正統帝の対応は、非難されても仕方のないところである。
建文帝の遺児で、永楽帝に50年以上監禁されていた朱文圭の釈放や、崩御時の殉葬の禁止など、評価すべき点もある。
于謙を処刑したことを最後まで悔いていたという。後に成化帝の代に于謙の名誉は回復された。
宗室[編集]
后妃[編集]
正室:銭皇后(孝荘睿皇后)
側室:周貴妃(孝粛皇后)
宸妃万氏、恵妃王氏、淑妃高氏、徳妃魏氏、順妃樊氏、安妃楊氏、賢妃王氏、敬妃劉氏、麗妃劉氏、昭妃武氏、和妃宮氏、恭妃劉氏、賢妃李氏、荘妃趙氏、成妃張氏、充妃余氏、麗妃陳氏、貞妃王氏
男子[編集]
成化帝 朱見深 - 母は孝粛皇后。
徳荘王 朱見潾 - 母は宸妃万氏。
朱見湜 - 夭折。母は宸妃万氏。
許悼王 朱見淳 - 母は恵妃王氏。
秀懐王 朱見澍 - 母は淑妃高氏。
崇簡王 朱見沢 - 母は貴妃周氏。
吉簡王 朱見浚 - 母は宸妃万氏。
忻穆王 朱見治 - 母は宸妃万氏。
徽荘王 朱見沛 - 母は徳妃魏氏。
女子[編集]
皇女[1] - 夭折。
重慶公主 - 母は孝粛皇后。
嘉善公主 - 母は恵妃王氏。
淳安公主 - 母は宸妃万氏。
崇徳公主 - 母は安妃楊氏。
広徳公主 朱延祥[2] - 母は宸妃万氏。
宜興公主 - 母は徳妃魏氏。
隆慶公主 - 母は淑妃高氏。
嘉祥公主 - 母は麗妃劉氏。
皇女[1] - 夭折。母は順妃樊氏。
皇女[1] - 夭折。母は徳妃魏氏。
景泰帝(けいたいてい)は、明朝の第7代皇帝。諱は祁鈺(きぎょく)(鈺は金偏+玉)。諡号は符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝(しばしば景帝と略される)。廟号は代宗。日本では治世中の元号から一般的に景泰帝と称されている。
生涯[編集]
宣宗宣徳帝の次子として生まれる。兄・正統帝(英宗)の即位後、郕王に封じられる。土木の変で正統帝がオイラトに囚われると、北方の脅威を感じた群臣により南京遷都論が出されたが、兵部侍郎(軍事次官)の于謙が、南遷後に滅亡した南宋を例示し南遷論を排除すると共に、北京にて皇太后孫氏の命により祁鈺が、まず監国に、次いで皇帝に即位した。
景泰帝は土木の変における最大の責任者である王振一族を粛清、財産を没収した。そして新たに于謙を登用し、オイラトによる包囲から北京を防衛している。オイラトのエセンも今回の北京攻撃は明朝に対し朝貢貿易の優遇を求めた結果であり、包囲の長期化による経済的負担を考慮して明朝との講和が成立した。講和により正統帝も送還されたが、景泰帝は正統帝を軟禁し太上皇(上皇)の尊号を与えつつ政治権力を剥奪すると共に、正統帝の息子である朱見深を立太子するなどの懐柔策を提示している。
土木の変以降の景泰帝は于謙を中心に、北防体制を建て直しを行っている。また一度は朱見深を立太子した景泰帝であったが、自らの嫡子への皇統継承を画策し、景泰3年(1452年)に息子の朱見済を立太子した。この廃立を巡り反対派の朝臣を宥和するため金を下賜したことより、後に「臣下に賄賂を贈る皇帝」と嘲笑の対象とされた。
このようにして立太子された朱見済であるが、翌年に薨去している。また景泰帝自身も景泰8年(1457年)に病臥し、朝臣より後継者の決定を促す奏上がなされるが、朱見済に嫡子のいなかった景泰帝は後継者指名を行わずにいた。この状況に、正統帝に近い石亨、徐有貞、曹吉祥らは正統帝の復辟を画策し、正統帝を軟禁されている宮殿から脱出させ、病床の景泰帝は抵抗することなく正統帝(天順帝)が重祚した(奪門の変)。帝位を追われた景泰帝は間もなく崩御したが、暗殺されたとする説もある。享年30。
崩御後は歴代皇帝の陵墓群が位置する天寿山(いわゆる明の十三陵がある地区)ではなく、頤和園西部の玉泉山の北方、金山の貴族陵墓地に埋葬された。天順帝は殉葬の習慣に反対していたが、景泰帝に対する憎しみから、最後の殉葬として唐氏(景泰帝の寵妃)を殉死させた。景泰帝の死後すぐには悪い意味の諡号・戻王が贈られた。
成化帝(朱見深)の代になって恭仁康定景皇帝という簡易な諡号が贈られた。他の明朝皇帝同様に長い諡となった符天建道恭仁康定隆文布武顕徳崇孝景皇帝の号、および廟号の代宗は、南明によって弘光元年(1645年)に贈られている(清ではこの改諡を認めず、恭仁康定景皇帝の諡号を用い続けた)。
宗室[編集]
后妃[編集]
孝淵景皇后汪氏(廃后)
粛孝皇后杭氏
皇貴妃唐氏(殉葬)
李惜児
男子[編集]
懐献太子 朱見済 - 母は粛孝皇后杭氏。夭折。
女子[編集]
固安公主(正統帝の復辟により郡主に降格) - 母は皇后汪氏。王憲に降嫁した。
公主(正統帝の復辟により郡主に降格) - 母は皇后汪氏。在家修行。

脚注[編集]
1.^ 外史によると、初め漢王朱高煦(宣徳帝の叔父)の側女であった。
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湯 唯(タン・ウェイ、Tang Wei、1979年10月7日 - )は香港の女優、中国浙江省楽清市出身の女優で、歌手でもある。身長172㎝。
略歴[編集]
2000年に中央戯劇学院監督科に入学、2004年に同校を卒業。同年ミスワールド北京大会で5位。
何本かのテレビドラマや舞台などに出演した後、アン・リー監督の映画『ラスト、コーション』(2007年公開)のオーディションで約1万人の中から主演に選ばれ、政府高官の命を狙う女スパイ役で出演、過激な性描写(アメリカではNC-17に指定、中国やシンガポールでは性愛シーンが大幅にカットされた)に挑んだことで大きな話題となり、一躍注目の存在となった。台湾版アカデミー賞である第44回台湾金馬賞(金馬奨)で最優秀新人賞を獲得。
2008年3月、湯唯が出演するテレビCMなどが国家放送映画テレビ総局の指示で放映禁止になったと噂された[1]。理由は明確にされていないが、『ラスト、コーション』で演じたヒロインが戦時中日本の協力者と見なされた漢奸を愛するようになる役柄であることや前述の性描写の件もあり、漢奸を美化し「愛国烈士」を侮辱する象徴として中国国内のネット[要曖昧さ回避]上では批判されていた。
同年香港行政府が定める「優秀人材入境計画」により香港の市民権を獲得[2]。2011年公開の中国映画『建党伟业』で毛沢東の初恋の相手・陶毅を演じたが、出演シーンを全てカットされた。しかし同年には中華圏向けマックスファクターのSK-IIのCMに起用されるとともに[3]ピーター・チャン監督の香港中国合作映画『捜査官X』においてドニー・イェンの妻アユー役で出演している。
その後の2013年にはラブコメディ『北京ロマンinシアトル』が中国大陸で5億元を超えるヒット。続く主演作品として2014年に公開されたアン・ホイ監督の『黄金時代』が第34回香港電影金像奨で作品賞を受賞。タン・ウェイ自身も2015年度の香港電影導演會年度頒獎禮[4]や第2回英國倫敦國際華語電影節[5]において主演女優賞を獲得している。
2015年にはクリス・ヘムズワースの恋人役として出演したマイケル・マン監督の『ブラックハット』でハリウッドに進出。また私生活では、『レイトオータム』の撮影を通じて出会った韓国のキム・テヨン監督と2014年7月12日スウェーデン・フォーレ島のベルイマン・ハウスで結婚式を挙げ[6]、2016年には第一子女児を出産した。
出演作品[編集]
映画[編集]
ラスト、コーション 色,戒 Lust Caution (2007) 第64回ヴェネツィア国際映画祭グランプリほか7部門受賞
月滿軒尼詩 Crossing Hennessy (2010) ※日本未公開
レイトオータム 晩秋 Late Autumn (2010)
スピード・エンジェルス 極速天使 Speed Angels (2011)
捜査官X 武侠 Dragon (2011)
北京ロマンinシアトル 北京遇上西雅圖 Finding Mr. Right (2013)2013年東京沖縄中国映画週間で上映
黄金時代 黃金時代 The Golden Era (2014) 2014年第27回東京国際映画祭で上映
ブラックハット Blackhat (2015)
モンスター・ハント 捉妖記 Monster Hunt (2015)
命中注定 Office(2015) ※日本未公開
三城記 三城記 A Tale of Three Cities (2015)
香港、華麗なるオフィス・ライフ 華麗上班族 Office (2015)
本がつなげる恋物語 北京遇上西雅圖之不二情書 Book of love(2016)
ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ 地球最后的夜晩 Long Day's Journey Into Night(2018)
TVドラマ[編集]
中國女足(1998)
警花燕子(2004)
紅旗渠的児女們(2004)
兄弟如手足(2005)
後海前街(2005)
情牽那拉提(2005)
生于六十年代(2006)
女人不哭(2007)
大明皇妃 -Empress of the Ming- 大明風華(2019)
【BS日テレ】12月8日 (金)スタート… 2023.12.08
ウィリアム・フォン& ジン・ティエン主演… 2023.11.19
WOWOW『 ドラマ 星漢燦爛(せいかんさんら… 2023.05.30
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