PYG(ピッグ)は、1970年代初頭に、グループ・サウンズの「ザ・タイガース」[注釈 1]「ザ・テンプターズ」[注釈 2]「ザ・スパイダース」のメンバーが集結した、日本のスーパーグループ。沢田研二、萩原健一のツインボーカルを擁したロックサウンドを特徴としていたが、メンバーのソロ活動、俳優活動などが重なり、自然消滅となった。
メンバー
沢田研二(ボーカル)
萩原健一(ボーカル)
大野克夫(オルガン)
井上堯之(ギター)
岸部修三(ベース)
大口広司(ドラムス)
原田裕臣(ドラムス)
グループ名は「豚のように蔑まれても生きてゆく」に由来する。渡辺プロダクション所属だったアラン・メリルのアイディアによって、本来のpigを「PYG」として命名した。
来歴 編集
1970年12月、グループ・サウンズブームの時期(1966-69年)に最高の人気を誇っていたザ・タイガースの解散が発表された。つづいて、タイガースと人気を二分したザ・テンプターズの解散公演が東京・大手町のサンケイ・ビル内の小ホールで行われた。また、同じくブームの火付け役ともいえるザ・スパイダース[注釈 3]も、同月、解散を発表した。
その直後の1971年1月11日、東京・四谷の料亭に元テンプターズの萩原と大口広司、元スパイダースの井上堯之と大野克夫、それにタイガースの岸部修三(岸部一徳)と沢田研二が集結。沢田を除く5人は1970年末から、その頃既に台頭していたニュー・ロック(日本では、アート・ロックやサイケデリック・ロックに影響を受けたロックをまとめて「ニュー・ロック」と呼んでいた)のバンドを結成する計画を話し合ってきていた。
一方1969年秋頃から、タイガースが所属していた渡辺プロダクションは、沢田を将来的にソロ・シンガー/タレントとして活動させることを目論み、バンド内であからさまに沢田を優遇し、他のメンバーを「バック・バンド」として冷遇したが、当の沢田はソロになることを頑なに拒否し、タイガースの解散にも最後まで反対した。沢田はあくまでバンドとしての活動に執着したが、この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく。
そんな沢田を、岸部が前述の「ニュー・ロック・バンド構想」に誘う。沢田も「サリー(岸部)がいてくれるなら」と加入を決意。渡辺プロも、沢田をプロダクションに残すことが最重要事項だったため、新バンドを渡辺プロに所属させるという条件でこれを認め、新バンドやメンバーのマネージメントを行う子会社「渡辺企画」[注釈 4]を設立する。
1971年1月24日、日本武道館においてタイガースは解散コンサートを開き、GSの雄であった彼らの解散によって“グループ・サウンズ”の歴史も幕を下ろした。各々のグループを解消した6人はリハーサルを開始。バンド名をPYGとし2月1日にデビュー。井上堯之をリーダーに据え、本格的なロック・バンドを目指した。
1971年3月に京都大学西部講堂で行われたロック・フェスティバル「第1回 MOJO WEST」でのデビュー・ステージ・アクトでは、聴衆から猛烈な罵声を浴び会場は大混乱(内田裕也が聴衆を説得し、収拾した)。4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールを浴びせられ、ステージに物が投げられるなどの騒ぎとなる[2]。このような、まさに暗中模索ともいえる船出の中、4月10日にファースト・シングル『花・太陽・雨』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、8月10日にファースト・アルバム『PYG!』を発売[3]。アルバムは、オリコンアルバムチャートで10位となった。日本のロックはモップス、頭脳警察からPYGを経て、カルメンマキ&OZ、クリエーション、紫、コンディション・グリーンら引き継がれていった。[要出典]
1971年9月、ドラムスが大口広司から「ミッキーカーチス&サムライ」のメンバーだった原田祐臣へ交替。萩原も活動の舞台をテレビや映画に移すようになり、テンプターズ時代からのファンは徐々に姿を消し始め、1972年には客席のほとんどが沢田のファンで占められるようになった。
1971年11月1日、「萩原健一+PYG」のクレジットでサード・シングル『もどらない日々』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之、ファースト・アルバムからのシングルカット)の発売日に、沢田も初のソロ・シングル『君をのせて』(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、演奏はケニー・ウッド・オーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE II IN LONDON』を発売する。
1972年萩原主演のテレビドラマ『太陽にほえろ!』がヒットし、萩原の俳優としての評価が徐々に高まると、萩原が参加できるときはPYGとして、参加できないときには「沢田研二と井上堯之バンド」(または井上堯之グループ)として活動するようになってゆく。また、のちに井上堯之バンドの代表曲と言えるほど有名になった『太陽にほえろ!メインテーマ』や同ドラマのサウンドトラックも、レコーディング時は「PYG」としてレコーディングされ、マスターテープのラベルやトラックシートには「PYG」と明記されている。
沢田研二のセカンド・シングル『許されない愛』(1972年3月11日発売、作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGの存在感も希薄になっていく。結局、1972年11月21日発売のラスト・シングル『初めての涙』(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を最後にPYGは自然消滅の形で終焉を迎えた。
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