佐藤竹善のオフィシャルブログ『OKRAの軍艦巻き』

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さとうくんですよ

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このブログは所属事務所の管理下の元、複数人で運営しています。
(日記は本人のみによるものです)

コメント欄は廃止いたしました。
永らく御愛顧ありがとうございました。

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Copyright (C) 2007 Den Laboratory... All Rights Reserved
February 2, 2007
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カテゴリ: いわゆる日記


ここには日々、心にとまった言葉を書き留めていこうと思っています♪
尚、コメントの書き込みは失礼ながらご遠慮くださいませ



必ず別の角度からものをみつめ直せ。
おまえの眼(まなこ)は多くてもふたつしかない。(矢作)

詩人は未来を予見する幸運児だ。
詩人は樫の実のうちにまだ眠っている樫の木の森を見、まだ生まれていない世代の人間たちと話をする。 (ハイネ)

学校教育において、成績不振のほとんどは、能力のなさからきているのではない。
自分を悲観的に見る習慣からきている。(セリグマン/アメリカ心理学会元会長/博士の『心理学革命』はフロイト以来の革命と呼ばれる。)
やる気がないのではない。能力がないのではない。壁を乗り越えるための『楽観主義』を身につけていないだけなのだ。


そこに泉が湧く。 (矢作)

感傷的になると魂は混乱する (コクトー)

わたしは一つの罪を知っている。 その罪の黒さにくらべれば、ほかの罪なぞはすべて百合の花のように白くみえるほどだ。 忘恩というのがその名だ。 (グリルパルツァー)

まるで街燈に群がる薮蚊のように、忘恩の者は光から光へと渡り歩く。
そんな者たちは光弱まったと感じる、かつて自分を照らした光の元へは、様々な自己弁解をしながら近寄ろうとはしない。 しかし、そんな者たちは再び光増したものは天才的に嗅ぎ分け、ふたたび近寄る機会を窺う。 そこには立派な自己弁解があるから卑屈さは微塵もない。
そして、それが最大の卑屈さであることには永遠に気付くこともない。 (矢作)

何かを変えようと思ったら、まず自分自身を変えることです。
生きることは素晴らしい体験ですからエンジョイしていくべきです。
(アフリカ環境の母・マータイ博士)

去るものは笑顔で見送り、来るものは瞳逸らさず両手をかざし迎えさえすれば自分の立ち位置が少しもずれることはない。 (矢作)

負けいくさも次に勝てば埋め合わせがつく。失敗作も改良できる。


どんな素晴らしい芸術家も、挨拶をする、返事をする、笑顔で応えようとする・・・などの基本的なことをせずとも許される状況を謳歌するようになったなら、それはもはや単なる成り上がりフゼイに成り下がったに過ぎなくなる。 またそんな真っ最中ほど、もっとも多くの大衆から尊敬を集めるものだ。 権威の怖さは権威そのものではなく、それを盲信するかなりの人間とそれを受ける人の「成り下がる」人格のもろさにある。 (矢作)

「人間は、いじめられて苦しみに甘んじなければならぬという法律などないんだよ。
自尊心を持ちなさい。人から尊敬される人間になり、人を尊敬していきなさい。」
(ローザ・パークスの母   ローザ・パークス・・・アメリカ人権運動の母。彼女の白人優遇のバスボイコット運動がのちの公民権運動の源となる)

かくされた思いを持たなければならない。


***

人は意識しなければ惨めではない。
つぶれた家は、惨めでもなんでもない。惨めなのは人間だけである。

人間の偉大なのは、自分の惨めさを知っているという点において偉大なのである。
自分の惨めさを知るのは惨めなことである。
しかし、自分が惨めだと知るのは偉大なことである。

***

読み方が早すぎても、おそすぎても、何も理解できない。

***

ふたつの「行き過ぎ」がある。
理性を締め出してしまうことと、理性だけしか認めないこと。

***

真実を感じるのは、こころであって、理性ではない。
真実とはそういうものなのだ。 理性にではなく、こころに感じられる真実。
こころには、理性の知らない独自の正しい感覚がある。
(パスカル)

人は自分以上のものであることはできないから、日々、自分以下のものにならないように努めるべきだ。 そして、日々、今の自分以上のものを目指さなければならない。 それが唯一の自分以下のものにならない方法でもある。
(矢作)

「こちらから登っていくのだ、向こうをこちらまで下げるという方法では到底駄目です。
いい批評はみな尊敬の念から生まれている。 これは批評の歴史が証明している。
人を軽蔑する批評は易しいし、評家はそれで決して偉くはならぬ。 発達もない、創造もないのです。 仕事の動機のうちに愛とか信とか呼ぶべきものがないと、どうも仕事はうまくいかなかったように思える。 侮蔑の行く道は袋小路です。」
(小林秀雄・・・歴史的批評家)
決して愚劣なエセ批評家にはなるまい。

音楽家にとっての原体験にある音楽は、大人にとっての小学生の算数の教科書とは違うのである。
それは常に算数の教科書であり、高校のときに出会った小説であり、哲学書であり、晩年に出会う古書であり新書であるべきだ。
多くが原点を忘れまいとしても、深い親愛を持ちながらも、口ずさむ喜びを離れ原点からかけ離れていく。 (矢作)

詩、文学、音楽、絵画、思想・・・わかりやすいものが、また逆にわかりにくいものが優れたものだと決めつけないことだ。 どちらにも優れたもの、化けの皮に覆われたものがある。
そして最も大切なことは自分がわかったことが優れたものだと決めつけないことだ。自信と謙虚とはそれほど人間の理解力を決定づける。 (矢作)

実は優れた結果を残してきたものが最も無理解の道を選びやすい。
自己への謙虚が「自信」という自信の無さを埋め合わせる格好の蓑に覆われ曇ってしまうからだ。
謙虚さを失った自信は悪臭を放つゴミ以上に立ちが悪い。そして、そんな彼らは常に小奇麗な装いと笑みの薄い瞳で、時に余裕に満ちた聖人のように立ち振る舞う。(矢作)

「こだわり」を持つことはとても大切なことだ。 しかしながら、常にしっかりと奥底の不変性をつかまなければ、それはただの知ったかぶりの頑迷さの域を出ない。
そのためには、こだわるものとこだわらないもの両者の背景をできるだけ知ろうとすることだ。
それをせずに「こだわり」を追求すると最後には自分の知識と真理の矛盾に追いつめられることになる。 大概は、追いつめられていることにすら気づかないでいるが。 
例えば歌の中に英語が使われることを毛嫌いする人間が多いが、そうした人は普段も外来語を一切使わないことだ。 詰まるところ定着性の度合いの個人的許容範囲を相手に押し付けているだけである。(矢作)

「売れる酒ではなく、売りたい酒を扱っていこうと心に決めました」
(尾瀬あきら作 「蔵人」より)

人は大概、自分の思い方で人の思い方を予測する。
嫉妬深い人には人の行動も嫉妬からのように見え、負け惜しみの強い人には人の発言も負け惜しみからのように見え、頑迷さから抜け出せない人は反論の言葉も頑固さからでしかなく見える。
そして、そういった人間たちほど言葉のやりとりを諦めるのが早い。
なぜなら、相手の姿勢をやりとりの前に決めつけている人には、相手も決めつけているように見えてしまっているからだ。 それらは、差異を讃えることから始まるべき人間関係において、自分と同じ価値観の人にしか心が賛同しない人のほとんどの土台ではないだろうか。 相手に先入観を持たない人はとても無邪気だ。 言葉のやりとりひとつひとつが無邪気である。 (矢作)

勘違いやすれ違いの思いやりが素晴らしいのは、自分のやり方しか知らない若者の特権だ。しかしながら経験や年齢を重ねても、愛情や友情、思いやりに対してはいつまでも果敢であるべきだ。
価値観の多様性を知ることと諦めに弁解することは、似て完全に非だ。 (矢作)

本当の仲間の意味とは、自分の内外でなにがあろうと相手の内外になにがあろうと仲間である意識には変化がないということだ。 相手が素敵な間だけしか感じられないそれは仲間意識とは呼べない。 類に埋没して安心を確保するか、真に愛することも愛されることもないまま、自分を満たしてくれる人を渡り歩くだけである。(矢作)

浅はかな価値観による近視眼的勝利は、勝ち得た瞬間に当人の輝きを急速に奪う。
ゴールの先にある安穏と優越意識が、生きる喜びを喜びの顔をしながら奪うことを始める。(矢作)

不釣り合いな、必要以上の威風は人には鎧にしか映らない。(矢作) 

心は無限である。 ところが、いとも簡単に有限になり得る。100%活かしきった心はその何倍も智慧を発揮するが、たとえば90%が嫉妬で支配された心は10%で智慧を生み出さねばならない。 それは、まるでパン一切れで3日間走り続けるに等しい。 極めて不合理だ。 (矢作)

充分会得させることを、恐れたり恥じたりするべきでない。 大切なのは反復である。
(チャーチル)

形式、体制、既得物に固執する人間ほど、それらの日々のメンテナンスには非常に疎い。
それでいて意見はするが主導的案の無さに恥じることがない。
(矢作)

世の無情さに嘆いてはいけない。 世間はもともと、あなたが情を求めるものにはそれほど最初から優しかったわけではない。 それでいて、あなたが無頓着なものには実はとても深い情愛で応えていたりするのだ。 結局のところ、見返りを求める期待は、世間の「情」というもの自体への大らかな躍動を見えにくくする。 実に「世間の風は冷たい」とか「世間も捨てたものではない」とは言い得て妙である。 その摂理を知ってさえいれば、似た者同士で井の中に群れることで自分を守るレベルからも脱却できるはずである。(矢作)

何割か知った時点で全てを知った気になる人間があまりに多い。
また、ある分野をある程度極めた人間が他の分野の真理まで知った気になることも多い。
長い歴史の中で、哲学、思想、宗教を分裂させ悲劇を生み出したのは、根本がそこに由来することが多いのではないか。
「無知の知」という言葉は、単なる謙虚さを知的に表しただけの表現ではないはずだ。 (矢作)

自分の在る環境がスタイリッシュなものばかりでほとんど固められていたなら非常に危険だ。
選民思考の始まりである。 (矢作)

優秀な人物が陥るのは、感動を得たもの、人を尊敬し、また尊敬する対象に近づこうとしているうちに他の興味がないものを見下すようになることだ。 いまだ初歩的な段階で感動を味わっている人間をほほ笑ましさや見守っている心情を持った気になりながら、実は見下していることに気づかない人間が多い。 自分がどんなに素晴らしい尊敬できる対象の素晴らしさを知っているからといって、自分はその当の本人ではないのだ。 つまり、自分が見下しているものたちと修練者という意味で立場は同じなのだということに気づかない分、行為者(技術者)としては優れていても、芸術観、しいては人間観においては劣っているのである。 それを脱却したいならば(大概はプライドが許さないであろうが)どんなものも同じ目線の高さで見、人が敬うものをまずは良心的に見つめることから始め、そこになにかしらの間違いを感じたなら自分の既成概念を厳しく監督しながらコミュニケーションをとるか、またはそこで初めて「見守る」という段階に踏み出していいはずである。(矢作)

相手の本来の良さを見極めることと、自分の趣味趣向の琴線を混同してはいけない。
(矢作)

青春は成熟を目指し、成熟は青春を目指す。 (矢作)
















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Last updated  April 10, 2007 12:44:45 AM


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