家曜日~うちようび~

家曜日~うちようび~

2019.08.25
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​​子供が、ゲーム買ってくれってよ。​​

小三の長女が、11月の誕生日プレゼントに、 「任天堂スイッチ」 ちゅうゲーム機を買ってくれってよ。

友達、みんな、持ってんだってよ。


あーあ、時は来たり。うちも。漏れなく。


さあて、どうしたもんかねえ。


いかに立ち振る舞おうかねえ、親としてえ、父としてえ。


あのお、今回の日記、あれこれ思案中の事柄につき、
結論がどこに着地するのか、我ながら見当がつかねーのよね。
んが、まあ、それはそれで、なんだか面白そーなので、
ふわっふわと右往左往する内容を書き進めますので、よろしくどーぞ。



【思案①】

ゲーム機は一家に一台から、一人一台の時代なり。買っておやりよ、ゲームぐらい。

いやね、買うのは簡単なんだけれども。
なんだけれども、買うからには、親としてそれなりに管理せにゃならんでしょう。
先ず、家庭内でのルールの立案、並びにそれを守れなかった場合のペナルティの立案、これが面倒っちー。
んで、そのルールを実施するのは、もっと面倒っちー。更にそれを継続するのは、もっともっと面倒ちー。

よし、せっかくだから、大きい字で書いとこ。

​​​ 面倒っちー。

ははは。


【思案②】

んじゃ、言っちゃえばいーじゃん!「買ってやんねー!」って言っちゃえばいーじゃん!

うーーーん、それもどーかと思うのよねえ。
僕も妻も、子供の頃、欲しかったからねえ、ファミコン。
今から36年前、僕がちょうど長女の年齢の時に、任天堂からファミコンが発売された。
瞬く間にブームになり、友達のほとんどがファミコンを持つようになっても、うちにファミコンは無かった。
​貧乏だったからな。​
しゃーねーから、自分のお年玉でファミコンのカセットだけ買ってさ、

少しでも友達のご機嫌を損ねたりすると、Bコンのマイク大音量で、

​「Qちゃんだけ、ミロをあげない!」​
などと怒鳴られ、つれない扱いを受けたりして。とほほ。

小六の正月休みに、ベロンベロンに酔っぱらった父が何を思ったか、
「おい!坊主!ファミコン買うぞ!来い!」 なんつって、酔いにまかせて突然買ってくれた。
んが、あれだけ欲しかったファミコンだったが、実際に所有してみると、一年ぐらいで僕は飽きた。
ある時 「あれ?工場勤めのレーン作業って、こーゆーこと?」 と思い、不毛になったのだ。意味分らんでしょ?ははは。
まあ、単純に自分には向いていなかったのでしょう。

妻も、ファミコンのない家で育った。
妻と弟が何度お願いしても、義父は 「ゲームなんぞ買わん!」 の一点張りで聞き入れてくれなかったとのこと。
妻は、せめてその理由を知りたかったと、今でも時々首をひねりながら愚痴ります。
お金がない、教育に悪い、目が悪くなる、自分の好きな野球が観れなくなる、など何でもいいから、
「ダメなものはダメ!」 じゃなく、何故ダメなのか?その理由を説明して欲しかったと。
結局妻は、僕と違って、ファミコン買ってもらえず終いで、幼少期を終えた。

子供は変わらんね、昭和も、平成も、令和も。

言ってるこたぁ、かつての自分らぁと、一緒。

チョンマゲとか、ウホウホの時代に、ゲーム機があっても、きっと同じだったろうね。



【思案③】

ぶっちゃけ、ゲームは、子供の教育にホントに悪いんか?

「ゲームは子供の教育に悪い」 という説は、読んだり、聞いたり、調べたりすれば、いくらでも存在しますし、
それらを踏まえて、自分のなかで理論を構築しようとすれば、
「ゲームが、いかに我が子に悪影響をあたえるか」 という、それなりの理論は、ちゃちゃっと出来ちゃうんですね。
ただ、思案という脳内会議においては、
その理論が揺ぎ無きものであるという立証の為、あえてその理論を覆すような反対意見を真っ向からぶつけてみるじゃないっすか。
そうするとね、笑っちゃうぐらい簡単に覆っちゃうのよねえ。あはははは。

「ゲームは子供の教育に悪い」 なんて、なんとも言い切れないのよねえ。



【思案④】

んじゃ、逆に、ゲームは、子供の教育にいいんか?

これも思案③と同じ。

理論の構築は簡単。

んが、反対意見で、これまた簡単に覆る。とほほ。



【思案⑤】

ほな、どないせーっちゅーの?

ゲームを買い与えるせよ、与えないにせよ、その根拠は、とどのつまり 「親のエゴ」。
なんつって、僕、堂々と言い切っちゃおうかなと。
「あなたのためよん」 という、親の大いなるエゴ。思い上がり。
それ以上でも以下でもないし、結局のところ、これでいいんじゃないっすかね。

なんか真面目に考えれば考えるほど、もっともらしい説が白々しく思えてくるんすよねえ。

だから、ひるがえって、妻のお父さんの立ち振舞い、あれはあれで正しかったのではないかと思うのです。

「ゲームなんぞ買わん! おまえのためだ! よそはそよ! うちはうち! 」

現在、ゲームを与えない方針のご家庭も、要するに、こんだけのことを、柔らかーいオブラートに包んで、
あれこれと、長々と、ごもっともな言い訳をしながら、子供ねじ伏せているだけではないのだろうか?

うーん、エゴという言葉はキツいな、 「ポリシー」 とでも言い換えようかな。



【思案⑥】

「与えない」を与えるということ。

まあ、何だかんだ言って、ゲームについては、うちは買い与えるだろううな、多分・・・。

でもね、僕は思うんすけどね、これだけ子供に至れり尽くせりの時代ですからね、
あえて我が子に、親の揺ぎ無きポリシーをもって、 「与えない」 ことのひとつやふたつあっても、然るべきかなと。

自分の過去を振り返っても、当たり前のように 「与えられる」 環境にいた時よりも、
「与えられない」 環境の中で、深く物事を考えさせられることが、たくさんあった。

今も昔も、致し方なく 「与えられない」 子供たちがいる。

父がいない、母がいない、兄弟がいない、お金がない、学校がない、家がない、健康な体がない、平和がない。

親のポリシーで、 「与えられない」 子供たちがいる。

ゲーム禁止、スマホ禁止、ペット禁止、バイト禁止、食べたい物が食べられない、観たいテレビが観れない、好きな友達と遊べない。

これら 「与えられない」 ことってのは、良きにつけ悪きにつけ、

簡単に 「与えられた」 ことの何倍も、いや、何百倍もの効力をもって子供の人格を形成すると、僕は思う。

お小遣いをもらえる、おやつをもらえる、いい服が着れる、いつも美味しいご飯をつくってもらえる、
グローブを買ってもらえる、ピアノを買ってもらえる、趣味や夢に打ち込める、
自分の部屋がある、自分の学習机がある、毎月外食へ行ける、毎年ディズニーランドに行ける、
学習塾に行ける、大学に行ける、仕送りをくれる、車をくれる、土地をくれる、家まで建ててくれる。

だから、何だ。

そんな多くの 「与えられた」 経験より、

でも、クレヨンしんちゃんは、観せてもらえなかった・・・。

という、ちっぽけな 「与えられなかった」 が、時に、子供の人格形成の核となったりする。

そうじゃない? かつて子供だった、親たちよ。




だから、子供に 「与えない」 を与える時は、親はそれなりの覚悟がいる。

中途半端な知識や学習、気まぐれな趣味や嗜好で、子供を振り回し、喜々としてはならない。

人はそれを、ポシリーとは言わない。

人はそれを、 「あらら、お子が、お可哀想に」 と言う。


ちゅうことを、重々踏まえ、重ねて申しやすが、

これだけ子供に至れり尽くせりのこの時代、

あえて我が子に、親の揺ぎ無きポリシーをもって、

「与えない」 ことのひとつやふたつあっても、然るべきかなと。


・・・まあ、考えては、いるっす。


与えるべきか、「与えない」を与えるべきか、

ここが思案のしどころよ。




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最終更新日  2020.02.05 19:26:49
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