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日曜日のアクセス数は日曜日にも関わらずいつもより少し多かった。なんでだろう。昨日のアクセス数も一つしか書かなかったのに多かった。タイトルにあざとく「東大寺学園」なんて入れたためかと思ったら、猫ギター先生が日記の中でリンクを入れてくださっていた。それでか、納得。猫ギター先生へつづき楽しみにしています。私の意見も書きたいと思っています。
January 31, 2006
中3の授業へ向け、風邪を引いた子で、マスクをしていない子につけさせるために使い切りのマスクを購入し、職員室へ行くとどうも背中あたりがうずく。教室へ行くと、幸い風邪の子はマスクをしていて、結局マスクは必要なかったのだが、うずきが大きくなる。生徒にくれぐれも健康管理を話をするのだが、どうもこちらの方がおかしい。私はイヤな予感がした。私は尿路結石のケがあるのだ。半年前、苦しんだあげく救急車で運ばれた。しかも塾からである。結局4ヶ月かかって排出したのだが、5ミリ×9ミリの大きいのが出た。そのとき医者に、今回が右ですが、左の腎臓にも石がありますよ、と言われていたのだ。どうやらそれが動いたらしい。授業時間残り7分くらいのところで、正直に生徒に言う。半端な痛みのときは足がしびれたときのように、笑いが出てしまう。また暗く言うと生徒が心配するのでおどけて伝えた。すると女子は心配そうな顔をしているが、男子は面白そうにしている。私が前回運ばれたときにおもしろおかしく語ったためだ。こういうのは、厄を俺が一手に引き受けているのだ、だからお前達は運がいい。みんな合格だ、なんてことまで言う。受験直前の生徒の精神ケアのために使えるものは何でも使えという感じだ。で、結局生徒が帰るのを待って(大騒ぎになるといけないので)、救急車を呼ぶ。簡単に言うが待っている間はかなり辛かった。人生で3回めの救急車だ。いずれも尿路結石だ。尿検査の結果、潜血が2+だ。やっぱり今回も尿路結石。で、今はズキズキと痛む感じ。尿路結石の痛みは、尿管に降りた石が腎臓から降りてくる尿を止めてしまうため、腎臓が腫れ上がることで生まれる。今は尿は流れているので、これは尿管が傷ついた痛みだ。尿管には三カ所細いところがあって、そこを通過するときに尿を止めるらしい。だから今回は第一関門突破という感じだ。だが、感覚でわかる。今回のはあまり大きくない。こんなことにまで詳しくなってしまった。まったく。まあ、こんなブログを書いているのだから、たいしたことはありません。皆さんご心配なく。家内がネットで調べたところ、夜遅い食事をするような人はなりやすいとか。皆さんもお気をつけください。
January 31, 2006
東大寺学園や西大和学園の高校入試までジャスト一週間だ。過度の夜型の勉強はもう慎まなければいけないし、問題慣れをしつつ、そう復習の勉強を進めていなければならない。ここからのアドバイスはとても重要だ。朝からずっとこの一週間のアドバイスについて考えていた。昨日京都の街を歩きながらも考えていた。体調管理には特に気をつけさせなければならない。先日インフルエンザで休んだ子のお母さんには電話で「ラッキーでしたね」と思わず言ってしまった。早いうちにかかっていれば、被害はないからだ。風邪ぎみの子は周りにうつしてはいけないと思うのか、マスクをして授業を受けている。皆気をつかっている。最近のマスクは立体裁断で何かキャシャーンみたいだけど。ただ、中3にかまけて1年や2年ほったらかしにしてもいけない。彼らにもしっかり目を配っておかなきゃいけない。彼らだって一所懸命なんだから。これは自戒…
January 30, 2006

午前中塾で仕事をして、あんまりいい天気だったので、洛南高校の下見がてら車で京都に行った。(こんなの完全な理由付けだ)タイミングがよくて渋滞にも引っかからなかった。国道24号線を北上する。木津川沿いの道は気持ちいい。京都ぶらぶらはBGMはいらない。雑踏の音までも楽しみたい。よってiPodは車に置いておく。JUJIYAで楽器を見る。ギブソンJ-45の限定品を試奏させてもらう。とてもいい音だ。新品のギブソンなんてダメと思っていたが、さすが限定品。レギュラー品とは全然別物の音だ。ちょっと欲しい。京都河原町は来るたびに潰れる店があって、新しくできている店がある。近年はこれが加速している感じだ。時代の変革期なんだと思う。梶井基次郎の「檸檬」に出てくる丸善ももうない。どうやらカラオケになるようだ。喫茶店でコーヒーを飲む。本当はイノダコーヒーで飲みたかったが、何となく違う店にいく。コーヒーを飲むとBGMが欲しくなる。ああっiPodは車の中か!慣れてないとこれだから困る。やはり携帯しておくべきだった。気取るんじゃなかった。帰ってから猫ギター先生のブログを読んだら、何と先生が京都に来ている!ニアミスだ。もしかしたらすれ違っているかもしれない。一度お会いしたかったな。ま、とにかくいい息抜きだった。明日からもがんばろーと。
January 29, 2006
アクセス数を気にしているわけではないのだが、昨日はいつもよりちょっとアクセス数が少なかった。よく考えてみれば当たり前だ。日記のタイトルが「狂気」だ。誰がこんなもん読むんだ、というタイトルだ。まして「中学生ママの日記」のテーマに投稿してしまっている。まあ、なんというか受験直前というのはこっちも狂気走っているのか、競馬でいう「入れ込み過ぎ」と言おうか、ちょっぴり恥ずかしい。でも一面そんな自分が好きだったりする。などということをまた臆面もなく言うところも恥ずかしい。そんな自分は…
January 29, 2006
夢を実現するのに一番大切なものは何かと問われたら、間違いなく私は「狂気」と答えるだろう。「努力」や「熱意」ではダメだ。弱い。脇目もふらず、勉強する。風呂に入る時間も、飯を食う時間も惜しんで勉強する。フラフラになってなお勉強する。休み時間であろうが、何であろうが勉強する。周りが何と言おうと勉強する。取り憑かれたように勉強する。あれだけ勉強してほしいと願った親がヒスを起こしてもうやめなさいと言い出しても勉強する。よく親は最後になって慌てなくてもいいように普段からコツコツと勉強しておきなさい、なんて言うことがあるが、これは間違いだと思う。少なくとも子どもに誤解を与える。普段からコツコツやるのはいい。でも直前は悠然としていてはダメだ。直前はいつもにも増して猛然と勉強しているべきなのだ。そうしているうちに「気」が練られていく。絶対にやってやるぜ、という思いを貯蓄する。「頑張れる」体質になっていくのだ。それでも100%合格するというのは無い。でもその確率を限りなく100に近づけるために最後の最後まで頑張って欲しいと思う。後、一週間とちょっとだぜ。したたかに睡眠時間を確保し、健康に留意しながら、ギリギリまで頑張れよ。そういうヤツには勉強の神様がついてくれる。お前達の合格を祈りながら最後の授業まで突進するぜ。
January 28, 2006
教師がお説教をするより、自分と同じくらいの成績で、自分と同じくらいサボリだったヤツが勉強をバリバリと始める方が、子どもにはショックだ。子どもは実は自分の位置づけをとても緻密にやっている。アイツには絶対勝てない。アイツよりは俺の方ができる。アイツと俺は同じくらい。アイツは俺よりちょっと成績はいいけど、俺の方が頭いい。テストが終わるたび、その判断に間違いはなかったかどうかを確認する。「な~な~お前何点やった?」あるとき、自分よりできなかったヤツが猛然と勉強を始める。最初の反応はこうだ。「おいおい、何真面目にやってんねん。」馬鹿にしながら、茶化す。でも、実は内心ドキドキだ。そいつの成績が上がらなかったら、ほっとする。「ほらみてみい。一緒やって。勉強したって一緒やって」自分のみっともなさに気づくことなく、頑張った者をけなす。友達はそれでも勉強を続ける。勉強はやってすぐ成果は出にくい。一回の定期テストではなかなか出にくいものだ。しかし続けていれば、その次のテストでは確実に結果が出る。このときだ。ショックを受けるのは。自分より勉強ができないと思っていたヤツが自分よりうんといい成績を取った。人によっては、まぐれだのなんだのとからかうヤツもいるかもしれない。でも内心では大きなショックだ。「こいつは俺よりアホやったのに、真面目に勉強して俺よりいい点数を取った。」点数がよかったことよりも、自分にはできなかった努力をやって結果を出した。自分がやったことのないことをやった。これは相当にショックが大きい。最初は認めたくない。まぐれだと思いたい。その次の結果なんて、そいつの成績が下がることを祈ったりもする。でも一度押し上げられた成績は下がらない。そいつは自発的に勉強を始めたのだ。しかも結果を出す気持ちよさも体験したのだ。下がるわけはない。ここで、よーし俺も、と一念発起する。これが「教室の教育力」だ。そのとき教室でオーラが一番強いものが、クラス全体に広がっていく。教室の中で3人ほど頑張るヤツが出てきたら、その頑張りを指導者はさりげなくクラス全体に分かるようにしなければならない。オーラが弱ければ、指導者がそれを増幅してやればいいのだ。上手に褒め、同調する者が増えるように持っていく。うまくやれば、頑張るヤツが増えてくる。その数がクラスの3分の1を超えたら、全体に広がるのはあっという間だ。そのクラスは飛躍的に成績を伸ばす。一番オーラの強いものが全体に広がっていくと言ったが、もしやる気のない者が一番強いオーラを出していたら、それが教室全体に広がる。指導者が気をつけなければいけないところだ。現在、中3の生徒はよく英単語の問題の出し合いをしている。最後の詰めなのだろう。トイレに行くときも単語集を離さない者もいる。本人以外は触らない方がいい単語集と化している。「おい、そしたらpoorの名詞形知ってるか?」「えっpoornessやろ?」「うわ、恥ずかしい。povertyやろ」「えっpoornessでもいいねやろ?」「お前、こういう状況で答えを期待されてんのはpovertyに決まってるやろ」「えっえっpoornessやったら×なん?」「そんなん知らんわ。でもここでpovertyが言えんかったお前の敗北や(笑)」「えっpoornessでもええねやろ」「(皆)…お前空気読めよ」私はいっさい口を挟まなかった。教室は相当に教育力を発揮していたからだ。
January 27, 2006
猫ギター先生の今日のブログセンター試験の「敗者」へは彼の優しさを表している。挫折をし、傷ついてきた人だけが持つ優しさに溢れている。私だって挫折もしたし、傷ついて生きてきたけど、あんな文章は書けない。子どもを教える者として敗北感すら感じるくらいだ。「チンコ・ボインもみもみ」なんてブログを書きながら、こんな文章を書くのだ。もひとつ言ったら「ちんぽっぽ」なんて何だ。ちきしょう。尊敬するぜ。
January 26, 2006
きっちりしている子の方が勉強に向いているということに異論はないと思う。しかしながら灘や東大寺にトップレベルで合格するような、それこそメチャクチャに勉強ができるヤツというのはどこかいいかげんさを持っている。きっちりしすぎている子は開き直ることができないが、ある程度いいかげんさを残した子は開き直ることができる。受験勉強のような長丁場ではこういう考え方ができる子の方が乗り切りやすい。これだけやったんだから落ちてもしょうがねえよ、というような開き直りができるからスランプにもなりにくい。また、小さなことに囚われすぎない。故に大局的な視野でモノを見やすいのかもしれない。受験勉強後半、男子が猛スパートをかけ、できる女子に追いつくことがよくある。逆に女子がラストスパートでもたつくことがあるのは、男子の方が精神構造が単純なのが理由の一つだと私は思っているが、男子のいいかげんさが良い方にでているのだと思う。私立高校の入試まで2週間を切った。今年はラストスパートでうまく帳尻を合わせて伸びてきた子が多い。大したものだ。もちろん男子だけではない。女子も男らしく?伸びてきた。ここから入試まで、指導者が与えた言葉は結構大きな影響を持つ。何を伝えるかしっかりと練って、彼らに魔法をかけてやりたい。
January 26, 2006
塾や学校の先生ならご存知であろうが、いまどきの中学生の筆箱には平均30本くらいのペンや鉛筆、シャーペンが入っている。すぐ必要なものを取り出せるように、という指示つきであるが、私は持ってくるペンの本数を限定するような指示は出していない。故に彼らの筆箱はパンパンだ。お母さん方、筆箱がパンパンなのはお宅のお子さんだけではない。皆パンパンなのだ。私が中学生のころは全く違った。カバンはぺちゃんこなのがお洒落だったし、筆箱なんてペンケースに数本なのがお洒落ということになっていた。よく見ると、今の若者は携帯電話にもストラップがジャラジャラついていることが多い。ファッションもシンプルというより、過度なデコレートがなされているようでもある。これって一体どういう現象だろう。ただ単に流行りの問題なのだろうか。もしかして世代の特性なのか。その特性を動かす核には何があるのだろうか。もしかして今の子どもの特性に合った勉強法というのもありそうな気がする。今の子がこらえ性がないなどというのもよく言われることだが、そういう環境的な問題ではなく、もっとこう核の部分で今の子と昔の子の違いみたいなものがあって、そこにフィットした勉強法なんていうものが見つけられないだろうか。この辺をもう少し掘り下げてみよう。
January 25, 2006
ある事情で人から40GBのiPodを頂いた。私は車で移動をする人なので、MP3プレーヤーとは縁遠かった。(ちなみにカーオーディオには凝っている。BOSEのシステムを入れている。)だからこれまでMP3プレーヤーを手にすることはなかったのだが、こいつは素晴らしい。いくら曲を入れてもいっぱいにならない。なんせ10000曲入るというのだ。色々と遊んでみたが、こいつは語学の勉強にはうってつけだ。もちろんウォークマンでもできるのだが、いちいちカセットやMDを入れ替えることなく、音楽から語学の勉強にスイッチできるのは大きい。語学においては、細切れの時間を使いながら勉強するというのは大切だ。始めるときの敷居は低ければ低いほどよい。今まで、生徒に、親戚のおっちゃんが酔っぱらって「何でも好きなもん買うたろ」と言ったら、即答で「電子辞書買って!」と言えと言ってたのだが、もし電子辞書を手に入れていたら、「iPodと言え!」と言うようにしよう。今、ビートルズの「ロッキーラクーン」を聴いているが、リバプール訛りのポールの英語が非常に鮮明だ。発音のマスターはイヤホンに限る。センター試験のリスニングもICプレーヤーでイヤホンで聴く時代だ。イヤホンから聴くのに慣れておかなければならないし。私はいったい今頃になって何を言っているのだろうorz…
January 24, 2006
斉藤孝の「教育欲を取り戻せ!」(NHK出版)を読んでいる。「教育欲」を性欲や食欲、睡眠欲と同じく、人間の止めがたい欲求の一つとして想定しようではないかという提案がなされている。なるほど「教育欲」というのはある。人にモノを教えるのが好きという人はいる。私がそうだ。私は斉藤の言う「教育欲」がかなり強い人間だと思う。いいかげんな私が、こと「教える」ことには、他のことに比にならぬほど執念を燃やせるのはそのせいかもしれない。性欲が強い人が、それを周りに制御無く発散してはいけないように、教育欲も制御無く発散してはいけない。「説教下手の説教好き」なんて言われるが、「教育欲」をコントロールすることが大切だ、なんてことが書いてある。曰く、「教育欲が強いと支配欲につながる場合がある」と。これはよく分かる。何せ、そういうことがあってはいけないと思い、近年少し生徒との距離をセーブしていたくらいだから。でも、それは正しくないなと思い、最近は修正している。もちろん、斉藤孝が正しくないという意味ではなく、私の姿勢が正しくなかったという意味である。自然体でないというのはどこか不自然なんだと思う。かといって欲望のままに行動してもいけない。学び続けて高度な自分になっていき、その高度な自分が自然体になるようにするのが大切なんだろうと思う。まあ、少しずつだけれど、螺旋状に成長しているような気はする。
January 24, 2006
>僕は塾業界を、日本中で一番あたたかい業界にしたいと思っている。僕はこの言葉に共鳴した。読んでからずっと共鳴し続けている。これはみかみ先生のこの日記の一文だ。誰でも思いそうなことだが、それを最初に口にするのはみかみ先生が凡人ではない証拠だ。みかみ先生は本気でそう思っているのであり、僕も本気でそう思う。個人の想いがネットではこうして結ばれていく。素晴らしいことだ。凄い時代だ。皆気づいているのだろうか。共鳴したことを僕は僕で言わないと共鳴は広がらないので、僕は僕で表明しておきたい。ささやかな灯火が広がりますように・・・
January 23, 2006
拡散型の集中力がない子は、例えばこういう傾向がある。●教室で授業中、モノをよく落とす●教室を出て行くときに自分のカバンを机に引っ掛けて気づかない●消しゴムをかけているときに紙を破く要は一つのことだけしか見えていないのでこういうことが頻繁におこる。昔風に言えば「隙だらけ」なのだ。確かに一つのことしか見えず、そのことに異常なまでの集中力を発揮するタイプで勉強ができる子もいよう。だが、現代社会の中でうまく生きていくには拡散型の集中はできた方がよいのはいうまでもない。「背筋を伸ばして歩きなさい」「どたどた歩きなさんな。みっともない」「廊下は静かに歩きなさい」「椅子を入れなさい」「いただきますってちゃんと言いなさい」「お礼をちゃんと言いなさい」「部屋はきれいにしなさい」「洗面所は使ったらちゃんときれいにしておきなさい」「雑巾は固く絞って拭きなさい」「ほうきは丸く掃いたら駄目」「障子は音を立てないように閉めなさい」昔、生活の中で厳しく言われ、私たちが辟易していたあの言葉は皆、子どもの能力の伸ばす大切な言葉たちだった。絶えず何かに気を配る術を身につける基本だったのだ。だから昔の人は何かこうびしっとしていたのだ。うるさいこと言うなよな、と言いながら、だらしなく育った私の世代は自分がきちんとしていないので、生活の場では、子どもにもきちんとさせることができない。教育の場で何かこの部分の欠落を補う訓練が必要だ。だから授業中、肘をつくなとか、先生が話をしているときは先生の方を見るように、というようなことはうるさく言っている。このあたりの話には異論もあろう。無理やり先生の顔を見させるのは…という意見もあるだろうと予測する。私とてつまらない授業をしているつもりはない。「それでは終わります」と言ったら、生徒が「えっもう終わり?」と時計を見ることはよくある。クラス中が大爆笑ということもたびたびだ。それでも身の振る舞いをきちんとさせることは子どもを伸ばすことだと信じて言い続けている。先生は口うるさいけど、授業は値打ちがあるし、いい先生だから塾へは行くよ、なんて言ってくれていたら最高なのだけれど。
January 22, 2006
先生が「~をしなさい」と指示を出したときに「えっ?」と言ってしまうのが癖になっている子はかなり問題がある。思っているより深刻な問題を孕む。なぜ「えっ?」と言ってしまうのか。それはしょっちゅう人の話に瞬時にフォーカスできていなくて困っている上に、「えっ?」と聞き返すだけで周りの人(特に親)からもう一度同じことを言ってもらっているからである。普通は「すみません。聞いていませんでした。もう一回言ってください。」と言わなければならないところを、「えっ?」の一言でお手軽に相手に言ってもらおうとするから、教師に聞こえよがしの声で言うのである。「もう一度言ってください」と言うのは大変だが、「えっ?」は楽である。楽だから直らないのである。だから指導者はその子の力を伸ばすためには、「えっ?」と言ってはいけません、と指導をするところから始めなければいけないのである。言われた方は当然何でそんなことを言われるのかわからないので、その後も「えっ?」を連発する。優しい言葉では直らないので、かなり厳しく言わなければならない。「聞いてなかったら、もう一度言ってくださいと言うのが筋だろ?『えっ?』っていうだけで相手に再度言ってもらおうとするのは間違いだ。」と何度も言わないと直らない。一ヶ月ほどすると直ってくる。当然聞く姿勢は違ってくる。聞かないと困ることになるからだ。もっとも最初の方は隣の子に確かめたりしている。私はそれをからかう。聞いてないのはみっともないことだと認識させるためである。何か違うことをしながらでも瞬時に教師の指示にフォーカスできたら、当然授業の吸収もよくなる。学力がつく第一歩だ。もちろん、皆が問題を解いている真っ最中にいきなり指示を出しては聞き漏らす子も出てくる。これは指導する側の問題だ。「はい、鉛筆置いて。さあ、それじゃあテキストの24ページを開けなさい。」この場合、「さあそれじゃあ」の言葉の間に生徒はこちらから指示が出るはずだと認識してフォーカスができる。この間がとても大切なのである。つづく
January 22, 2006
禅の修業からヒントを得たことであるが、集中には2種類ある。一点に物事をフォーカスする「集中」と、様々なことに気を配る「集中」だ。これを「フォーカス(遮断)型集中」と「拡散型集中」とでも言ってみる。通常、集中と言えば、前者をイメージされることが多いが、実はそれだけでは能力開発はできないように思う。「拡散型集中」は気を配ることだ。武道を例に取るとわかりやすいかもしれない。例えば柔道。相手に勝ちたいと思う。技を仕掛けようと狙う。自分が投げることだけを考えていたのでは隙ができてしまう。相手もまた自分を投げようとしているから、防御のことも考えなければならない。いきなり大技がくるのか、足技か。相手の動きやクセの中から相手の考えを読まなければならない。多くのところから情報を集める作業を瞬時に行っているといえる。無意識の中でも多くの情報をキャッチし、吸収できなければならない。子どもはこれが弱い。入塾したての子たちの授業で、何かの指示を出す。「教科書の24ページを開きなさい。」すると必ずこういう子がでてくる。「えっ?」指示が聞けてないのだ。脳が先生の指示が聞けてないのだ。脳の中で「遮断」が起きている。自分の考えていることや、自分のしていることにだけフォーカスしているのである。恐らく、「…きなさい」くらいのところからしか聞けていないのだ。だから「えっ」と思わず言ってしまう。このような子は一斉授業の中で力をつけていくのは難しい。情報収集に漏れが出てくるからだ。じゃあ子どもを伸ばすには「個別」で、なんて言うのは短絡だ。マラソンが苦手な子は電車で移動しましょうというくらいナンセンスだ。「移動する」ことはできても「能力開発」はなされない。私が個別を嫌うのはこんなところに原因がある。私は子どものこの「えっ」が非常に気になる。これを言う子はある時期から伸び悩む。絶対に直してやらないといけない。色々な方法があるだろうが、私の方法を次回に示そうと思う。(今日、奈良は寒いけど、とてもいい天気だ。試験日和だ。よかった。)
January 22, 2006
プリントの配布が下手くそな先生がいる。机の上にプリントを置いて、一枚ずつ数えて配る人、片腕で抱えこんで、指サックをして枚数を読む人なんてどうみたって不器用だ。私はさっとプリントを揃えて、指先で3枚と4枚で読むことができる。手元は見ない。つまり盲牌がきれるのである。そのため生徒から視線を外さず、話をしながら、プリントを配布することができる。これは訓練してできるようにした。ちなみにリソグラフから出てきた印刷物は5秒以内に印刷前の紙のようにきれいにそろえることができる。小さなことだが、こんなのも塾講師の腕の一つだと思って結構悦に入ってる。私はプリント配布のときの沈黙というか、間の悪さが嫌いなのである。(センター試験実施日に本当に小さなことですみません。)
January 21, 2006
数年前のことだ。塾にいたずら電話がよくかかるようになった。ある先生を呼び出し、その先生が電話に出ると、ふざけた口調でからかうようなことをいうのである。呼び出す先生は毎回違っていて、数人の先生宛にかかってくる。どうやら中学生、しかも私が主任をしている学年であるらしい。週に何度もかかってくるので、私は腹が立つのを通り越して、「よーし、絶対にホシをあげてやる」と心に誓った。「俺に挑戦してくるとは100年早いわ!」てなもんである。まず表を作り、電話が掛かってきた曜日と時間帯をまとめた。この辺からもうホームズ気取りである。こういうことをすると色々わかってくるものだ。まず、やってるヤツは部活動をしている子ではない。電話をかけてくる時間帯が一定で、部活をしている子はかけられない時間なのである。意外に単純である。簡単にアシがつくことをやってしまっているのだ。まさかばれることはないと思っているのだろう。在籍している生徒の中から部活動をしていない子をリストアップすると、そんなにはいるものではない。そしてこの手のいたずらをしそうなヤツを考えると、ほぼ定まってしまうのだ。学年集会を開き、このようないたずらをするヤツがいることを生徒に伝え、もうこれ以上やらないというなら、武士の情けでやったヤツは探さない。ただし、これ以上続けたら必ず見つけ出すぞ、と厳しく言っておいた。すると授業終了後、なんと大胆不敵にもこのイタ電がかかってきたのである。職員室には緊張感が走り、スタッフは皆、腹を立てていたが、私はふっふっふと含み笑いをしていた。彼ら(複数だ。電話の向こうに他の仲間の気配がしたという)は墓穴を掘ってしまったからである。集会をやった日は全クラスの授業があったわけではない。2クラスしか授業はなかった。にも関わらず、授業終了後にかかってきたということはクラスが絞り込めたことになる。塾がなかったクラスの生徒とすれば、わざわざ外に出かけ、公衆電話をかけたことになる。仲間と落ち合ってそこまでやることはないだろうし、タイミングがよすぎるのである。(公衆電話であることはコインが落ちるときのブーッという音をスタッフが聞いていることから分かる。)声で男子であることは知れるし、親に迎えにきてもらっている生徒は除外できる。仲間と一緒に帰り、部活動をしていない、今日塾へ来た生徒、これがこのいたずらをやったヤツである(犯人と書くと語弊がありそうなので書かない。上で「ホシ」なんて言っているが。)さて、翌々日、彼らが塾へ再び来た日に、私はクラスへ入っていってこう言った。「あの日、授業が終わってから、また電話がかかってきた。武士の情けでやったヤツは探さないと言ったにも関わらず、再びやったということは先生たちに対する挑戦だと受け取る。しかも俺はやったヤツを見つけた。」この間、クラスの生徒の表情をじっと観察していた。すると「見つけた」と言った瞬間に一人の生徒の目が、私が目星をつけた生徒の方をニヤリと見たのである。やはり、である。これは私の最後の確認だったのである。さて最後の仕上げに、この話を聞きながら、これもまたちょっとニヤニヤしていた女子を呼び出して訊いた。「おまえさあ、やったヤツ分かってるだろ。」というと笑いながら即答で、「うん、田中君。」と言った。男は男をかばうものだが、残酷なことに女子は男子をかばったりしない。実にあっけらかんとしたものである。この手のいたずらは絶対一人でこそこそやらない。やったことを絶対に周りに言って回っているはずだとふんでいたのだ。後の話は省略するが、彼らがこっぴどく叱られたのは言うまでもない。こういうことを見つけられないと、教師の権威は少しずつ下がる。それが全体に広がると生徒たちのためにならない。ある保護者が子どもから、途中この話を聞いて、「アホな子らやなあ。見つけ出されるのも時間の問題やな。kamiesu先生相手に。」と仰ったそうだ。これも信頼である。犯人探しまでして、なんとひどい先生だと思われるかもしれない。だが、中学生なんてこれくらいのことをするものである。(といってもこの仕事をして初めてのことだったが)教師に挑戦してくるのである。それを軽くひねってやるのも我々の仕事なのだろうと思う。ましてや、これくらいのことが解決できねば「いじめ」なんていう問題はとても解決できまい。これも教師の必要不可欠な力量と言えよう。とかなんとか言いながら、ちょっぴり楽しんでいたということも最後に白状おくが。《生徒の名前はもちろん仮名。》
January 20, 2006
大阪や奈良に『神座』というラーメン屋がある。神殿風の店作りで国道沿いに店舗を多数構えるチェーン店だ。昼どきはいつも大行列ができている。先週の日曜日に志望校対策授業というのがあって、授業をいつもとちがう校舎で行ったのだが、どうも熱っぽいので早引けをさせてもらった。寒気がしてきたが、幸い食欲はあったので、この『神座』でラーメンを食べて、体を暖め、薬を飲んで寝ようと考えた。いい考えだ。車を停め、店に入ると、いきなり店員が笑顔で、ご注文は何になさいますかといきなり言う。こちらが戸惑っていると、笑顔で「当店は先にご注文をお聞きしております。」とのこと。続いてこちらが一人なのを見てだろう。「お一人さまカウンターへどうぞ。」と誘導される。店はすいていたのだけれど。席について店を見回すと、店員が厨房の人を含めて、皆インターコムをつけている。近代化されたシステムだ。ラーメンが来た。5年ぶりくらいに食べる『神座』のラーメンだ。『神座』のラーメンはあっさりとした出汁に白菜と豚肉が入っている。奈良には白菜ラーメンで有名な『彩華』という店がある。『神座』のラーメンは『彩華』のあっさり風だ。食べてみると、出汁は旨いが、白菜の炒めと煮込みが足りない。私はがっかりした。白菜を入れる意味を考えてほしい。白菜という野菜は熱を入れて甘くするべきものではないのだろうか。全然甘くないのである。店はそう聞くと、シャキシャキ感を大切にしています、とでも言うのだろうが、甘みを引き出してこそのシャキシャキ感であろう。だから旨いのであり、そこが腕の見せ所のはずだ。ふとテーブル席を見ると、ニラと唐辛子をごま油で和えた薬味が置いてある。私の席にはない。少し離れたカウンターの上にもあるが、私の席の回りにはない。「ちっ」と思いながら、ラーメンを食べ、食べ終わったころに店の女の子が私の回りのカウンターにニラの薬味を置いていった。中身の補充か何かで下げていたのだろう。食べ終えかけた私に何の悪びれる様子もない。何かこうリズムの悪い店だ。不満がいっぱい残った。特に入店したときだ。こちらは店に入る。席につき、さあ何食べよ、と考える。ラーメン店の湯気の中で考える。これがラーメン店のリズムであろう。それが入店するなり、何になさいますか、だ。調子が崩れる。店はガラガラなのに、同じことをするのである。満員のときにお客様を待たせてはいけないという発想で店はお金をかけ、客をできるだけ待たせないシステムを作った。お金もかけた。店員全員がインターコムをつけている気合いの入りようだ。お客を大切にしたいという理念はあるのだろうが、全体的に何かおかしい。トップの思いがスタッフ一人ひとりに伝わっていないか、マニュアルが一人ひとりのスタッフの力を鈍らせてしまったんだろうと思う。気がつけば効率しか考えなくなっている。店の名前『神座』は『神の鎮座まします場』という意味だ。おそらく「神」とは「お客」と思い、この名前をつけたんだろうと思う。高き理念がそこにはあったのだろう。でも、それをスタッフ全員が共有することはあれだけの店舗を構えると難しい。それでも何とかして、という思いでマニュアルを作った。けれども、それがよけいに一人ひとりの力を鈍らせてしまう。怖いなと思う。自分たちの仕事を見たときも、このようなことがないようにするのは至難の業だと思う。ラーメンの神様はきっと「へいいらっしゃい!」と言う威勢のいい声と湯気、旨いスープと麺のハーモニーがあれば、降臨するはずだ。少々汚くても、親父が一人でやっていてもそんなことはどうでもいい。大きな店など必要ない。ラーメン一杯が私をとてもブルーにしてしまった。まあ熱もあったのだけれど…
January 19, 2006
ただいまライブドアで書いていたときの初期の日記をこちらに移しています。あれ、これ読んだことあるぞという方々、ご了承ください。
January 19, 2006
「努力」とか「辛抱」って言葉が流行らなくなって久しい。昔は土産物屋に行けば「努力」と書かれたペナント売られていたものだが。今はまるで見かけない。これらの言葉が流行らなくなった原因の一つは、間違いなく、あの「バブル景気」だだ。あのバブルで、多くの大人はショックを受け、傷つき、価値観を変容させてしまった。今日2000万円で買ったマンションが翌日には3500万円で売れたなんていう話がゴロゴロしていたのである。その時代を過ごした人間でなければとてもじゃないが信じられないお話である。多くの大人はこの『バブル景気』を目の当たりにして「真面目に働くなんてバカらしい。上手くやらなきゃ損!」と思ってしまった。狂ってしまったのだ。私も当時、社会人1年目といった実力も経済力もない時期で、「チキショー、この景気が10年後だったらな、俺ももっと上手いことやれたのに」なんて思っていた。(もっとも今では幸いなことだったなと思っているが。)だから当時の日本人を批判することはできない。大人が受けたこのショックは少なからず「子どもの教育」にも影を落としている。今、生徒に「若いうちの苦労は買ってでもしなさい」と親や大人に言われたことのある人?と尋ねると、手を挙げるのは100人に1人もいない。しかし、「もっと要領よく勉強しなさい」と言われたことのある人は?と聞くとものの見事に全員の手が挙がるのだ。「努力」や「地道な継続」を怠った人の考える「要領」なんていうのものは、所詮「手抜き」にしかなっていないとことが多い。ましてや子どもの考えることであるから、ますますそれは「手抜き」か「雑な作業」にしかならない。「努力」の大切さを懇々と諭し続けた上で「要領」ということを言わないと、子どもは薄っぺらな勉強しかできなくなるのである。私が大学生のころ、『週刊少年ジャンプ』という漫画雑誌が爆発的に売れていた。どれくらい売れていたかというと、なんと週刊誌にも関わらず、毎号500万部以上発行されていたのである。恐ろしい数字である。その少年ジャンプの名物編集者にして、後に編集長も務められた人物が言うには、少年ジャンプの漫画には「売れる方程式」なるものがあったそうだ。「努力」「友情」「勝利」というものを漫画の中にテーマとして放り込めば必ず売れたという。そういえば『ドラゴンボール』も『スラムダンク』もそうだ。きっちりそれらのテーマをおさえている。さらに彼が言うには、ある頃からこの方程式が通用しなくなり、それらをテーマにした漫画が人気が出ず、売れなくなり、発行部数を落としてしまったのだそうだ。このお話、少しばかり怖いなと思ってしまう。「努力」「友情」「勝利」を描いた漫画が子どもの支持を得られなくなるのである。私はこのようなエピソードにも子どもの「努力」への関心、あるいは価値観の変化を感じてしまう。世間では流行らなくなった言葉であるが、ぜひともお子様には「努力」「辛抱」の大切さを語ってあげてもらいたい。子どもは同じことを何回も言われるのを嫌うが、「繰り返して言われたこと」でないと重要だと認識しにくいのである。親も教師も「努力」をしなければならない。
January 19, 2006
勉強を進めるときには計画を立てて進める習慣をつけさせておきたいので、計画ノートというものを作らせている。昨日、たった1問の単語テストを正解させられなかった例の女の子の計画ノートを見た。単語テストの問題の部分を切り抜いて、×をつけてあるをノートに貼り付けてあった。そして、私のその日のブログをプリントアウトして、マーカーを入れ、貼り付け、その横に自分のその日思ったこと、反省すべき点を書き連ねてあった。私は思わず「執念のノート(臥薪嘗胆編)」と心の中でネーミングをしてしまった。この子の勉強に対するモチベーションは一級品だ。誰よりも勉強ができるようになりたいと毎日毎日考えている。親には毎日そんなに勉強するなと言われながら勉強している。春からこの子を担当してきたが、この子は一つずつ自分の課題を克服している。途中いっぱい涙を流してきた。泣きながらずっと勉強してきた。精神的にもタフになったし、思考力もついてきたと思う。全塾でトップレベルの学力を持つが、それでもこの子よりも点数を取る子がいる。先日のこの子もそうだ。まだ勝てないのだ。相手も一流の努力をしているのだ。その度に悔しがり、時にはまた涙を流す。この子はそういう自分をあまり好きではないようだ。こんな子は学校なんかでは陰口を叩かれることもあろう。でも私はこの子を100%肯定している。そんなに思い詰めるななんて絶対に言わない。バランスが多少悪くったっていい。他人に変だって言われてもいい。いっぱい苦しんで、悩んで、努力をしているうちに色んなことに気づいて立派な大人になれるとこの子に昨日も話した。なぜなら「人は苦しみの中からしか学べない」のだから。この子にはこの子の学び方がある。自信を持って堂々とこれからも「執念のノート(臥薪嘗胆編)」に想いを連ね、泣きながら勉強してほしいと思っている。
January 19, 2006
烏(からす)なぜ啼(な)くの烏は山に可愛(かわ)い七つの 子があるからよ可愛(かわ)い 可愛(かわ)いと 烏は啼くの可愛い 可愛いと 啼くんだよ山の古巣(ふるす)へ いって見て御覧(ごらん)丸い眼をした いい子だよこれは1921年に発表された野口雨情作詞の『七つの子』の歌詞である。そしてこれは1963年に発表された『こんにちは赤ちゃん』永六輔作詞である。こんにちは 赤ちやん あなたの笑顔こんにちは赤ちやん あなたの泣き声そのちいさな 手つぶらな瞳はじめましてわたしがママよこんにちは 赤ちやん あなたの生命(いのち) こんにちは 赤ちやん あなたの未来にこの幸福が パパの希望(のぞみ)よはじめましてわたしが ママよふたりだけの 愛のしるしすこやかに美しく 育くそだてといのるこんにちは 赤ちやん お願いがあるのこんにちは 赤ちやん 時々はパパと ホラ ふたりだけの 静かな夜をつくってほしいの おやすみなざいおねがい 赤ちやんおやすみ赤ちやん わたしがママよヒット曲というのは、時代の空気を映し出す。多くの人の共感を得たゆえのヒット曲である。ただ可愛い可愛いと無償の愛を注いでいた「親」が、40年の時を経て、なんと生まれたての子どもに親が「要求」を始めるという時代になった。にもかかわらず、この歌に私たちは不快感を感じない。「現代」という時代のフィルターごしにしか私たちはものを見ることができない。私たちの「真実」はフィルター越しの「真実」でしかないのである。さらに40年の時が経った「現代」はそんな親に育てられた子が親になっている。野口雨情は、今の私たちを見て何を感じるだろうか。
January 18, 2006
アメリカで、今から40年ほど前に、今の日本と同じように子どもが「キレる」「荒れる」ことが問題になった。当時は米ソ冷戦の真っ只中であり、このままアメリカの子どもがこんなに荒れた状態だと将来ソ連という国に飲み込まれてしまうという危機感は大きく、国家を上げてこの原因を解明しようと、莫大な予算を注ぎ込んだ。学者、医者、教師などあらゆるブレインが全力を尽くした結果、その原因が解明されれた。その答えは、「甘味料の過剰摂取」というものであった。甘味料が脳のコントロールを司るカルシウムを破壊し、脳が慢性コントロール不能になっているということが判明したのである。お菓子などで過剰摂取はなかなかできるものではなく、過剰摂取のほとんどはドリンクのがぶ飲みからなされる。ドリンク一缶で角砂糖7個分の甘味料が入っているという。過剰摂取された角砂糖一個で牛乳7本分のカルシウムが破壊されるというから、一缶で牛乳約50本のカルシウムが破壊されてしまう。(ここで誤解のないように重ねて言うと、通常摂取分での甘味料は問題ではなく、過剰摂取分がカルシウムを破壊するということだ。)この甘味料の過剰摂取で荒れたり、キレたりする子の治療は食事療法で一切の甘味料をカットしなければならない。教師の経験則で昔から言われてきた言葉に、「お手伝いをする子とお茶を飲んで育った子は勉強がよくできる」というのがある。「寝ること」や「食べること」に干渉することはとても大切なことである。躾けの三原則は昨日、「あいさつをする」「返事をする」「履物をそろえる」の3つだとお話ししたが、これは哲学者にして教育学者であった森信三先生が必ず講演等でお話をされていた有名な大原則である。森先生はこの3つがしっかりできていて人間が曲がることは無いんだと力説されている。親御さんはまずご家庭で、この3つについてご指導されるのがよいと思う。森信三先生の本はぜひご一読されることをお薦めする。素晴らしい本である。さて、干渉について書き記してきたが、過干渉とはこの原則以外のことまで何やかやと干渉することに他ならない。何が干渉の基本かということが分からないと、どのようなことにまでも口うるさくなってしまうものだ。ほんの少しの学びが日々の子育てをスムーズにするのである。
January 18, 2006
干渉と過干渉の違いというのも難しい。しかしここに線引きができていると親は子育てに自信が持てる。干渉というのは「教え、躾けること」である。何を「教え、躾けること」かというと、教える…「寝ること」「食べること」「話すこと」の3つ躾ける…「あいさつをする」「返事をする」「履物をそろえる」の3つであると私は考えている。もっとも「躾け」の3つは私の考えではない。森信三先生の著書を読むと何度もこの話が出てくる。向山洋一先生や野口芳宏先生の著書にも出てくる。「躾け」の王道であろう。近年、子どもが「荒れる」とか「キレる」ようになったという話を聞く。その原因をテレビで教育評論家みたいな方がコメントしているのを見かけるが、ほとんどが根拠のあまり無い、思いつきレベルのことを話している場合が多い。曰く「子どもとの対話が減った」、曰く「今の日本の社会の云々…」こういうのはほとんどが的外れだ。これらも小さな原因であろうが根本的な原因ではない。人間は寝る時間と起きる時間が不規則になれば自律神経が乱れ、心が不安定になる。実はこういうことが根本的な原因であったりする。先日ごうまじまじ先生が「夕寝」が子どもが乱れていく原因だとブログに書いておられた。素晴らしい洞察だと思う。「夕寝」の原因はまさに夜更かしである。自律神経の乱れの根源である。受験生の中には、受験前に気持ちが不安定になる子も出てくる。夜中に勉強しているときに、急に泣き叫んで、問題集を壁に投げつけたりなどして、「もういやー!」なんて言い出して、親がびっくりして電話をしてこられる。お母さまは「少しゆっくりさせてあげないといけないのでしょうか?」「私たちが追い詰めすぎたのでしょうか?」などと大変心配されるが、こういう場合、ほとんどは自律神経の乱れが原因で、その乱れは「眠る時間」が不規則なことから生まれる。「睡眠時間」は、充分に取るにこしたことはないが、就寝、起床の時間が規則正しければ、少々の睡眠不足はそんなにダメージを与えることはない。問題は次のようなケースだ。ある日は根を詰めて朝の4時まで勉強して、ほとんど寝ずに学校へ行った。帰ってくると眠たいのですぐにとりあえず寝てしまった。午後8時ごろ起きてきてご飯を食べ、10時ごろから勉強を始め、寝付けないので朝まで…こういうことが続くと、とたんに心が不安定になる。お母さまに「睡眠が不規則ではありませんか?」とお尋ねすると、間違いなく「ええ、実は…」ということになる。こちらの言うことがズバズバあてはまるので、よく当たる占い師のような目で見られてしまう。「お母さん、勉強は本人がしていないと不安というのでしたら、させてあげてください。ただし就寝時間と起床時間は絶対に決めてください。それで数日したらケロッとされますよ。」このようにアドバイスすると、今までの私の経験では、本人はすっと落ち着く。長い受験勉強を乗り越える強い心は正しい生活を作り上げることから始まる。先人のいう「生活の乱れは心の乱れ」というのは本当だ。このようなことは、「勉強しなさい」という以上に、親として行うべき大切な「干渉」なのだ。つづく
January 18, 2006
最近のお母さんというのは「あなた、ちょっと過保護じゃない?」と言われることを極端に怖がっておられるように思う。「保護」と「過保護」の線引きが難しいため、どのお母さんもおっかなびっくり子どもに接しているようにも見える。「保護」と「過保護」の違いを知っておけば、子育てに自信が持ちやすい。「保護」というのは、簡単にいうと、「守り、与えること」である。守るべきものは子どもの「尊厳」と「生命」だ。与えるべきものは「衣・食・住」「子どもにとって必要なもの」「子どもが欲しいと言ったもの」である。守るものに関しては異論はないであろう。与えるべきものはどうだろうか。「衣・食・住」と「子どもにとって必要なもの」はよいとして、問題は「子どもが欲しいと言ったもの」だ。実は子どもの欲しいと言ったものを一切与えないというのは正しい「保護」を行っているとはいえない。子どもが欲しいと言ったものを与えるのは大切なのだ。親の価値観で子どもに与えるものをすべてコントロールするのは正しくない。ちなみに「子どもが欲しいと言ったもの」とは「物質的なもの」だけではなく、「精神的なもの(愛情)」も含む。では、「過保護」とは何か。「過保護」とは「子どもが欲しいと言ったものや愛情」を、言った分だけ全部与えてしまうことである。つまり子どもが欲しいと言ったものを与えるのは大切だけど、それを全部与えたら「過保護」になってしまうというわけだ。母親が家事に忙しくしているときに、小さな子どもが「遊んで~」とニコニコやって来る。お母さまが「今、ご用事をしているからひとりで遊んでてね。」と言うと、子どもが泣いてしまった。このようなときに皆さんならどう思われるだろうか。真面目な母親だと、「ああ、子どもにかまってあげられない」と自己嫌悪に陥るかもしれない。だが、このようなときに全部愛情を与えてしまうと、それは「過保護」なのだ。時には我慢をさせる、辛抱をさせることは子どもをしっかり成長させるためには大切なことなのである。だから母親はこのようなときに自己嫌悪する必要はない。ただ、どこまで与え、どこから与えないか。これはとても難しいところなのだが、その線引きがその家の「家庭の方針」ということになる。この線引きが各家庭できちんと決められているということが大切なのだ。(別ブログから転載)
January 18, 2006
『難しい時期の子どもとうまくつき合う方法』『子どもを動かす簡単な工夫~こんなにうまく子どもに伝わる~』『中学校(小学校)で伸びるために今やっておきたいこと』こんな演題で全国あらゆるところで話がしたい。これが私のやりたいことだ。動機は2つ。1.「母親」の応援団になりたい。(ライフワークにすると決めたから)2.「話す」ということにおいて誰にも負けたくないから私は実は文を書くより、話すことの方が得意だ。プレゼンテーションの腕も、保護者会での話でも、一般の方を対象にした教育講演会でも、それなり以上のものができると思っている。全国のお母さんに、楽しく話を聴いてもらって、気持ちが楽になったり、ちょっとした工夫で子どもとうまくつき合うノウハウを伝えるということをずっとやれたらと考えていた。私の話の力量は全国の猛者と比べてどれくらいなのだろうか。それが知りたい。話すことに関しては私は誰にも負けたくないのだ。(授業も負けたくないけれど)ブログを始めて以来、全国のすごい先生に出会うことができた。ショックを受けた。修業の仕直しだと思った。そのネットワークの中で私は修業をもっともっとしたい。そして自分の実力を知りたい。これを春から何とか形にできないだろうか、と今思っている。夢はどんどん口にした方がいい。だからとりあえず全世界に発信しておこう。序章~完~(そんな大げさな)
January 17, 2006
今から5年前のことになるが、ある幼稚園から講演の話をいただいた。そこは非常に教育熱心で英語教育や、文字指導にも力を入れている園だった。あれこれ考えたあげく、演題は「小学生で伸びる子」というものにした。今ならもっと人が集まりそうな演題をつけるだろうが、そのころはまだ誠実なだけの塾講師だった。それでも、県で有数の進学塾の講師がどんなことを話すのだろうと興味を持っていただいたのか、たくさんの方が集まってくださった。会場に着くとお金持ちのご家庭が多いのか、駐車場にはベンツやBMWだらけだった。有閑マダムみたいな人ばかりだったらどうしようとちょっぴり思った。話し始めると、話しにくいことしきりだ。お母さんの中には下の子を抱いて聴いている人がたくさんいて、一人が泣き出すと皆連鎖で泣き出したからだ。幼児教育を語ろうとする人間が、赤ん坊が泣いて顔をしかめるようでは、修業が足りぬし、信頼もされない。母親はいつも泣く子に対して周囲に気を遣っている。私は笑顔で話を続けた。不思議なことに話が進むにつれ、鳴き声は気にならなくなってくる。私は話に集中できた。何より聴いてくださるお母さん方が熱心なのである。聴き手がよいと話し手もノるものだ。用意してきた話を、懸命に真面目に、面白く、おかしく話した。私は現代において「母親」というのは不当に貶められていると思っている。「母」は偉大なるものなのに、誰にも評価もされず、褒められもせず、子育てがうまくいかないとおまえのせいだと責められる。マスコミも「専業主婦」を軽く見ている。「くたばれ専業主婦!」なんていう本が出版された。私に言わせればこんな本、発禁処分にすべき本だ。「くたばれワーキングマザー!」なんて出版したら、社会から叩かれ、出版差し止めになるのは間違いない。田嶋陽子なんかが、絶対に許さないだろう。でも、母親や専業主婦はサイレントマジョリティーだ。誰も援護してくれないし、主張もしない。だから軽く見られる。政治もだ。配偶者控除の廃止なんて、政治が「子育てだけしてるなんてダメでしょ」と言っているようなモノだ。時代の空気に流されて、弱い(政治的圧力をかけられないという意味で)ところから税金をふんだくろうとする。そして、「母」が尊敬されない時代の流れが加速する。私はそんな「母親」にエールを送りたかった。子育てのコツや家庭学習の進め方のうまいやり方も伝えたかったが、何より「母親というのはこの世で何より尊い存在なのですよ」と分かってもらいたかったし、誇りを取り戻してほしかった。忙しい子育ての中、乳飲み子を抱いて、よりよい子育てをするために講演会に参加し、70分抱いた子を揺らしながら話を聴いてくださる「母親」に、最大の敬意と尊敬の念を込めてお話をした。有閑マダムなんてとんでもなかった。講演の後、お母様方に囲まれた。泣きながらお礼を言ってくださるお母様もいた。今でも、塾で「あのとき、幼稚園で先生のお話を聴きました。この塾に子どもを入れたのはあのときのお話を聴いたからです。」と仰っていただくこともある。そう、5年経てばもう塾へ通う年齢になっているのだ。私は、子どもの学力を伸ばすことをライフワークにしたいとずっと思っていたが、講演会後、その子どもを育む「母親」の応援団にもなろうと決心した。実は当時、私には子どもがいなかった。独身の頃、親に「先生は子どもがまだいらっしゃらないからお分かりにならないんですよ」と言われたことがある。結婚しても、9年間子どもができなかったが、別に子どもがいなくてもいいと思っていたので、子どもがいない分、趣味にでもお金を使えるし、そういう生活もいいねと思っていた。が、このとき、保護者に言われた言葉が引っかかっていた。子どもがいないことで自分の言葉が説得力を持たないということがあってはいけないと思い、教育全般かなりの勉強をした。高級外車が買える分くらいは本を買ったと思う。しかし、なんとこの講演会の後、数ヶ月で家内がぽろっと妊娠してしまう。これは「お前はお母さんの応援団をしなさい」という神様のメッセージかもしれない。で、タイトルの「私のやりたいこと」とは何か。長くなったので、「つづく」とさせていただきたい。すみません。
January 17, 2006
もう10年以上前の生徒のことだ。とにかく英語ができる女の子だった。高校へ行ってすぐに英検の2級を取ってしまったので、中学生の英語の実力としては相当に高いと言っていいと思う。しかも小学生のときから英語をやっていたというようなことはない。中学生になってはじめてABCから学習した子である。だから英語が好きになり、そして相当に勉強をした子だということは言えるだろう。ただしこの子、数学がちょっと苦手だった。英語の勉強に少し酔って、数学にかける時間が短かったということはあるだろう。中3の夏くらいからは一所懸命頑張っていたと思うが、克服はなかなかできないでいた。この子が受験した学校(私学)は数学の入試がやたら難しいことで有名だったN高校だった。当時この学校は難関校への階段を昇る最中だったので、入試問題も試行錯誤をしていたためか、不自然なくらいの難問がそろえられることがあった。当然その子はこの学校の入試問題に苦しんでいた。さて入試本番当日、この子は数学の試験時間に試験管に手を挙げて質問をした。「すみません。問題用紙にはさみを入れていいですか。」立体の問題で解けない問題があったのだ。展開図を作り、それにはさみを入れようとしたのだ。試験監督はその場でやってもよいと返答したという。この子のこの姿勢にはご批判もあろう。それはルール違反とは言わないまでも、邪道であるからだ。しかしながら、絶対に合格したいという、この子の姿勢は素晴らしいものだと当時感嘆したものだ。どうしても合格したい。でも数学で足を引っ張るかもしれない。この問題難しい。うーん、あっ、でもこの問題、自分で展開図を作ってみれば解けるかもしれない。そう思ったとしても、回りが問題をカリカリ解く中で、試験監督にはさみを使っていいかどうか質問する度胸が普通の子にはないだろう。この子の執念は15歳の女の子としては飛び切りだと思う。それは率直に敬意を払ってしまった。この子はこの学校を合格した。試験はルール内で点数を取った者の勝ちだ。試験管がやってよいと言えばそれはルール内である。普段の勉強から邪道に走ることはよくないが、試験当日ここまでの執念を練り上げられる子、枠に留まらず、自由に発想出来る子を育てたいと思ったものだ。今回のこの単語テスト、このときのエピソードが私の潜在意識の中にあったのだと思う。「臨機応変に自由な発想で物事に当たりなさい」なんて口で言ってもできるようになるわけはない。そういう場を、つまりそういうことができないと困る試練を与えることはとても大切なことだと思う。
January 16, 2006
300語の単語リストから、たった1問出題されただけの単語テスト。制限時間は15秒。リストにはB as well as Aと記載されていたのに、テストではA as well as Bと出題された。クラスでも一番勉強を頑張っている女の子が正解を書くことができなかった。15秒というのは非常に短い。私の「制限時間は15秒。用意、始め!」の声でテストは始まった。開始までテスト用紙は伏せられている。前置きとして、集中しないとやられるぞお、と生徒に伝えていた。この時点で生徒達は「このテスト何かある」と思っているはずである。伏せられたテスト用紙は透けていて、どう見たってあまり何も書かれていないことがわかる。テストが始まると、ほとんどの女子は名前から書き出した。一方男子は半分が問題の答えから書き始めた。これは男子に軍配が上がる。15秒と聞いて、もし答えを書ききれなかったらまずいと判断したのだ。これは正しい。名前が書けてなくて0点ということは無いが、答えがかけないと0点になる恐れがある。女子はこれに比べ、対応力が弱い。きれいな手順を踏みたがる。女子の弱点であろう。実は答えが書けなかったのは女子に多かったのである。そして、このテスト、答えを考える余裕はない。間髪置かず書かないと間に合わない。「えーと」が入るともうダメなのだ。勉強量が少なかった者はアウトである。それからこのテスト、書き間違えたらほぼお終いである。ほぼ、と言ったが書き間違えて何とかする方法はたった一つ。消しゴムで消してはいけないということである。鉛筆で線を入れ、書き直すしかない。そして仕掛けられていたワナが一つ。プリントとテストではAとBが逆になっている。迂闊に書いたら間違うのである。そして間違えた場合、時間を考えると消しゴムは使えない、ということを判断しなければならない。昨日の女の子は一瞬ここで書き間違え、消しゴムを使ってしまったのである。この子の課題は、自分の勉強量に頼り過ぎ、臨機応変な対応力に欠けることである。悪く言えば、勉強した知識に胡座をかいてしまいやすいということだ。とても厳しい言い方だが、この子を担当したときから感じていたことである。随分とよくなっていたが、こういう極限の状態ではときに顔を出してしまう。本人は辛かったと思うが、私はこういうことはお説教では直らないと思っている。この子は高い学力を持ちたいと誰よりも思っている子だ。だから泣かせてもいいと思っている。それくらい勉強へのモチベーションが高い子だ。名誉のために言っておくと、この子はクラスでも1,2を争う学力の高さを持っている。それをさらに鍛えようと思っているのだ。これを書いていて、もう十数年前の教え子のことを思い出した。つづく…
January 15, 2006
勉強ができる子、頭の回転のいい子の中には地道な勉強を嫌う者も少なくない。ましてや中学受験をしていない子の中には、みっちり積み上げる作業というものをしたことがないという子もいる。よほどの天才でもない限り、それだけでは灘や東大寺には通らない。地道で緻密な勉強を苦にしないように仕込まなければならない。つまり「努力」を苦にしない子にしておかなければならないのだ。300個の単語中からテストをし、「満点」を取らなければならないというのは勉強できる子には苦痛だ。ましてや300の単語の中にはもう既に知っている単語もあるのだ9割取るのは簡単だが、満点はしんどい。頭の中で「別に満点取らんでもいいやん。」と思ってしまうのである。一旦そう思ってしまうと、その「考え」に自らが呪縛される。そう思ったが最後、その子は絶対に満点を取る勉強はしない。全体にアバウトな勉強になりがちだ。この「呪縛」を解くというのが最近のテーマだ。言ってしまえば、満点はとれなくても、「呪縛」さえ解ければいいというくらいだ。私はかなりこの単語テストに関しては「満点」ということを繰り返し言ったし、「呪縛」の話も何度もした。雑そうだった男子の中に急に緻密に勉強をするものが現れた。私の言うことがピンときたのだろう。99点と100点の間の膨大な差について悟ったのだ。99点と100点の差は1%の努力の差ではない。姿勢から哲学、美学、すべて違うのだ。このテストが1点差でも、半年経てば凄い差になるのだ。99点でも、できなかった問題1問だけが出題されたら0点なのである。なんと残酷なことか。このような現実の厳しさも悟ったことだろう。さてこのテスト、クラスでもとても学力の高い、勉強量がとても多い女の子が正解を書くことができなかった。もしかしたらそんなことになるかもしれないなと少し予感していたのだが、本当にそうなってしまった。テストの後、私の話を聴きながらその子は少し涙ぐんでいた。このテスト、この子が一番学ぶことが多かったと断言できる。なぜこの子、正解できなかったのか。「呪縛」とは別の原因だ。つづく…
January 14, 2006
中2のクラスで英単語のテストを行った。先日から「心の呪縛」を解き放ち、もっとすごい自分になるための作戦を実行中である。(この欄参照)ただ単に一単語のテストではなく、このテストをきちんと勉強することで、一段上の自分に変身することを目的としている。だから多くの連中が真面目に、そして必死で頑張っていたように思う。ボロボロになったプリントをいつも眺めている者、ノートに写して勉強している者、単語カードを作成してブツブツ言う者など、教室はいい光景だった。私がテストで出題したのはたった1問。A as well as B だ。実はプリントでは B as well as A と書かれていたのだ。制限時間は15秒。答えを書き損ねた者は7名。できなかったのは事前配布プリントの通り、「Aと同様にBも」と書いた者と、それに途中で気がつき、消しゴムで消したが、時間切れという者だ。あと若干の覚え損ねだ。私が教えたかったことは色々ある。入試というのは3年間勉強してきたことが、たった50分や60分で試される理不尽なものだということを分かってもらいたかった。それがたった1問の出題の理由だ。けっこう真面目に勉強していても、知らないことが出たら不合格だ。勉強してなくても、やったところばかり出たら、受かることだってあるのだ。だから絶対確実に何が出ようと解けるようにしようと真面目に勉強することが大切なのだ。大体でいいだろうという気持ちは命取りなのだ。明日に続く…(今日はもう眠いです)
January 13, 2006
今日教え子に髪を洗ってもらった。久しぶりに行った馴染みの店に教え子の卒業生が就職していたのだ。まだ少しぎこちないシャンプー。そしてマッサージ。ABCから教えた子が成長し、社会の厳しさを知り、懸命に働いている。そんな姿を目の当たりにすることは少ない。だから何というか…身が引き締まったな。
January 12, 2006
誤解を恐れずに言えば、今回の京進のような事件が起こる可能性を一番をはらんでいるのは、過度の拡大を推し進める大手の学習塾ではないだろうか。私は近畿にいるから分かるが、京進はあっという間に教室数を増やした。(個別指導教室を含む)私の塾のすぐ近くに連続して、雨後の竹の子のように京進の個別指導の教室ができた。これで、人材を吟味し、管理するシステムができるのだろうか、とずっと思っていたぐらいだ。もちろん全ての拡大を図る大手が京進のようだと言うつもりはない。きちんとしている塾もあるだろう。ただ、塾選びをするときに「一年で何教室増えたか」というくらいは確認しておいた方がよいのではないだろうか。給料が他塾の1.5倍というのなら人材はかなり集まるだろうが、同じ給料、あるいは給料が安いのに拡大が進むのなら、かなり危なくないだろうか。ちなみに大手塾で教室が増えないというのもかなり危ない状態だとも言える(経営上の話である)。要はバランスである。同じ業界の人間が以上のことを言うのはかなり爆弾発言ではあるかもしれない。加えて私は大手塾の講師である。今回のような事件が頻繁に起こることなどはない。当然である。しかし、細かな指導レベルでも、「質」の差はこのような部分に生まれやすいということは言えるだろう。
January 12, 2006
猫ギター先生にまったく同感だ。ふざけるなと言いたい。以下は1月12日の毎日新聞の記事である。学習塾の業界団体である全国学習塾協会(本部・東京都豊島区)は、塾講師向けの検定試験制度を07年度に創設し、講師の倫理や行動規範についても評価基準に盛り込むことを決めた。京都府宇治市の学習塾で昨年12月、児童がアルバイト講師に殺害された事件を教訓に、講師選考に人格面の評価も取り入れ、資質向上をはかる。政府も制度構築を支援し業界全体に受験を奨励する考えだ。 検定制度は、全塾協が厚生労働省の外郭団体の補助を受け05年春から準備を進めていた。当初は教科指導の技術向上が目的だったが、事件を受け、法令順守の意識など講師の資質が備わっているかチェックするよう大幅に見直すことにした。 試験は全国の主要都市で全塾協が年数回実施。まず全塾協が策定した講師の「倫理綱領」や「行動規定」などをもとに半日の研修を行い、その後で研修の理解度や、学力、関係法令の知識を測る筆記試験を行う。 さらに、受験者から自分の授業をビデオ撮影した映像の提出を求め、言葉遣いや、服装、態度などをベテラン講師らが採点。試験結果に反映させることも検討する。資格は1年で失効するようにして、定期的な研修と適性チェックを促す。 全塾協は、加盟業者に講師を受験させるよう働きかけると同時に、非加盟の学習塾にも試験を開放する。塾業界を所管する経済産業省も受験を奨励する方針で、保護者の認知度も高め、業界全体の標準にしたい考えだ。 全塾協は、学習塾経営に関する情報交換や、認知度向上を目的に88年に設立された社団法人。事件の起きた京進など、大手学習塾を含む約700業者が加盟している。簡単にいうと塾の団体が「よい人格」を持った講師を判定し、認定しますよ、ということなのだ。許せないのはこれを言っている「塾の団体(社団法人)」に京進が加盟していて、この事件後も京進は除名もされず、処分も受けていないのである。殺人犯を出し、塾業界に対して多大な社会の不信感を生んだ塾が加盟している団体が「認定」をやりますとは一体どういう神経なのだろう。「内部で殺人犯を出した団体認定塾講師」になりたがるヤツはいるのだろうか。
January 12, 2006
個人的なことであるが、さあ、もう後へは引き返せないというところに来てしまった。ここ10日ほど、ブログの文章にキレがないのも、忙しかったのと、このことが原因だったんだろう。とにかく子どもを伸ばす最良の教育がしたい。それができる環境づくりがしたい。私が望むのはそれだけだ。
January 11, 2006
忙しくなると必ず京都の街を歩きたくなる。三者懇談をしているとき、移動で車を運転しているとき、授業をしているとき、河原町の風景が脳裏をよぎる。いや、もちろん集中していないわけではない。しっかりと授業をしているのだが、意識のどこかに京都の風景や、いつも歩く道の風景が映像になって出てくるのだ。京都は私の心の港なのだろうか。で、結局暇ができても行かないことが多いのだけれど。イノダコーヒーであの独特のコーヒーを飲んで、新京極を歩き、車で宝ヶ池へ行き、ぼーっとして北白川の天下一品本店でラーメンを食って、東大路通りの終点近くの蛸虎で蛸珍味を食べたいのだ。京都京都京都…いかん。忙しさが極致に達しているようだ。
January 10, 2006
中2のとても勉強ができる女の子、灘や東大寺を狙うクラスの中でも飛び切りできる子だ。ふだんはどちらかというとおっとりしている。ポーっとしているというと本人は怒るであろうが、ぱっと見はとてもかわいらしい穏やかな女の子である。実はこの子が頑固者だというのはうすうす感じていたのだが、この間、すごいものを見てしまった。クラスで音読をしていた。私は英語学習の基本は音読だと思っているので、私のクラスは音読にかける時間が結構多い。しかもやたらと速く読む。ネイティブ並みのスピードで読む。最近は生徒もやっとこさついてこれるようになった。私が模範で読んだセンテンスを生徒だけでリピートする。生徒だけでリピートするのと、生徒と一緒に先生が読むのではちょっと勝手が違う。生徒だけで読ませて、一定のスピードが出せるというのはクラス全体の力がある証拠である。さて、そんな中、この女の子が何をしていたか。私は私が読んでいるときは当然、テキストに目を落としている。それがたまたまフレーズが頭に入っていたのでセンテンスの後半、テキストから視線を外して生徒たちを見た。するとこの子、私が読んでいる間、唇だけ動かして、一人私の模範音読についてきていたのである。私が読み終えると今度は皆と一緒に声を出して音読している。今日び、こんなスポ根漫画のような地道なトレーニングをしている子がいるなんて私は信じられなかった。一時間の間に人の二倍の訓練をしていることになる。山田太郎が電車の中で吊り革を持たずに爪先立ちで立っているかのような地味なこの自己研鑽に感動してしまった。それから毎時間それとなく確認しているが、必ずこの子はそうしているのだ。この子の外見とこのスポ根トレーニングがマッチしなくて、とても変な気分だが、すごいなあと思ってしまう。べらぼうに勉強できるのもうなずける。どうしたらこんな子が育つんだろう。
January 9, 2006
受験直前だ。中3の宿題や課題を減らしている。自分のやりたいことをしっかりやるほうが点数が上がるからだ。自分の弱いところをしっかり見つめ、最後まであきらめずに努力し続けるよう懇々と話す。くりかえしくりかえし諭す。つい気弱になる生徒も出てくるからだ。ラストスパートの弱い子は不合格になりやすい。安易に何とかなるさと思っているか、若干諦めが混じっているかのどちらかなのだろう。受験は勝負であり、戦いなので、気を抜くとやられる。気力を振り絞ったヤツが勝つのだ。ここまでに模試で獲った偏差値はもう関係ない。ターゲットを絞って戦い抜いた者が強い。皆頑張れ!
January 9, 2006
ああ、今日自分の出演したテレビの日だったのに、すっかり忘れてた。見損ねた。見ていただいた方、どうだったでしょうか。
January 8, 2006
小4の冬期講習生の三者懇談を行っている。ひたすら行っている。私は講習生の三者懇談のとき、まとめテストなんかの答案を観察する。穴の空くほど観察をする。答案は生徒の様子を教えてくれる。昔は知らない生徒の答案を見ながら、そのクラスの担当者にこの子はこうだろうと性格診断をしていた。当たったり、外れたりしていたけど、やっているうちになんとなく、コツがつかめてくるようになる。これが三者懇談のときに非常に役に立つ。正確な指摘をすると、信頼度が増し、勉強のアドバイスを真剣に聞いてもらえるのだ。今日、懇談した女の子、答案を見つめてハッとした。「お母さん、学校の担任の先生はとても指導力のある方ですね。」「ええ!ほんとに凄い先生で娘も大好きなんです。百人一首なんかも熱心で…」「もしかして、担任の先生はTOSSの方ですか?」「ええ!そうなんです!先生どうしてお分かりですか?」お母さんは目を丸くされておられた。TOSSというのは向山洋一先生が主催する「教育技術法則化運動」のことである。この子の答案はこの団体で教師修行する先生の指導が明らかに入ったものだったのである。まず、筆算が正確である。位取りがきれいで、しっかりと書かれている。なお、線はすべて定規で引かれている。なんと分数の線も定規だ。これをナンセンスという方もあろう。でもこれを速く正確にできるように訓練すれば、確実に作業能力が向上し、自分のきれいな筆算にうっとりできる。字の汚い子は自分の文字にうっとりできない。勉強のモチベーションも上がりにくい。この子の答案は非常に力強かった。得点も高い。できるようになる、という事実の前にはいかなる批判も意味をなさない。若い連中に見せるためにコピーをさせてもらった。こんな答案を見ると絶対負けたくないと思ってしまう。…思ってしまうのだが、同時に尊敬してしまう。ろくでもない学校の先生がいる一方で、こんなすごい先生もおられるのだ。こんな担任の先生に当たった生徒は幸せである。
January 6, 2006
誰だって自分の子どもを先生に可愛がってもらいたい。大切にしてもらいたい。学校や塾の先生に自分の子どもを大切にしてもらう方法がある。これを読んだお母さんはぜひ実施してもらいたい。これをやったら一発だ、というすごい方法だ。しかも簡単。お金もかからない。先生につけとどけをするなんていうのは全然ダメである。こんなのは数ヶ月したらあんまり覚えていないものなのだ。必殺の方法、それは「先生に手紙を書くこと」だ。学校から子どもが帰ってきて、「あのね、今日先生がね…」と嬉しそうに言うことがあったら、封筒に短い手紙を一筆、「今日、息子が、先生に字を褒められたといってとても嬉しそうにしておりました。細やかに見てくださりありがとうございました。」これだけの短い手紙でOKである。便せんに書き、封筒に入れ、子どもに持たせる。これだけの手紙で先生は確実に子どものことを細やかに見てくれるようになり、お母さんに一目置くようになる。先生というのは親から手紙をもらうとちょっとドキッとする。クレームの手紙だったらどうしようと心の隅で思ってしまうのだ。どきどきして開けると、そこには短いながら感謝の言葉が綴られている。ほっとすると同時に、とてもありがたい気持ちになるのだ。そして忘れない。いつまでも覚えているものである。何年も前のことでもけっこうはっきり記憶に残っているものなのである。先生がヘマをして、苦情を言わねばならないときもあるかもしれない。親がめったに苦情を言わないのは「うるさい親」と思われたらどうしようということを考えてしまうからだろうと思う。通常、先生の側からすると苦情を言われたからうるさい親とは思わないのだが、親の方はそう懸念してしまうものだ。しかし、このような手紙を一度書いておくと、教師はうるさい親なんて思わない。逆にあんな手紙を書いてくださるお母さんにご迷惑をかけたとひたすら反省する。いいことばっかりである。騙されたと思ってぜひ一度お試しあれ。
January 5, 2006
東大寺学園入試まであと一ヶ月となった。最後の詰めの作業に入らなければならない。傾向は例年と同じか?当日の問題は難しいのか易しいのか?あらゆることを考慮に入れ、戦い方を教えなければならない。当日の問題が難しかった場合の戦い方と易しかったときの戦い方は違う。気持ちの持ち方が違ってくるのだ。ベストを尽くせばよい。一点でも多く取れるように、というアドバイスは聞こえはいいが、何か漠然としていて気持ちがフォーカスしにくい。だから、傾向が違うときはこう、易しかったときはこう、難しかったときはこう、とアドバイスをするのだ。そうすると、当日、当てが外れても気持ちがぶれない。私のアドバイスを思い出し、気持ちを切り替えることができる。今日は易しい問題をやらせて、確実に点数を取らせる練習をした。難しい問題を行うときとはクラス内の順位が結構違ってくる。明日の課題は激ムズの問題でしごく。プレッシャーに弱いヤツが自滅をする。自分の特性を知っておくことは戦いにおいて重要なことだ。自分の力にちょっと酔っている講師は傾向対策に時間をかけ過ぎる。調子に乗ってその学校の傾向をしゃべりまくる。これは危険だ。生徒は傾向から外れた問題を自分の視界から消してしまう。当日傾向が変わった問題が出るとフリーズしてしまう。ボクシングでいうと、ビデオで研究した対戦相手がいつもと違う戦法で向かってきたのに面食らい、秒殺されてしまうようなイメージだ。こんなのはトレーナーの責任である。受かるヤツを確実に合格させ、ちょっとキツイヤツも何とか合格させる。それを目指して最後まであらゆる手を使って鍛えよう。
January 4, 2006
大学を卒業する年の教え子(卒業生)が今日は家に遊びに来てくれた。男1人、女4人。みんな立派に成長してくれている。いろんな話がでるのだが、「あのころ」の自分たちが受けた授業について話題が出る。「しごかれる」というのは大切なことだと皆が口を揃えて言う。楽しかったと言ってくれる。きらきらと輝いている彼らの大切な人生の一瞬を共にでき、さらに懐かしさで尋ねてくれる。こんな幸せなことがあるだろうか。幸せを幸せと自覚して…明日からまた頑張ろう。
January 3, 2006
今日は家内姉さん宅で宴会。お年玉を甥っ子、姪っ子に渡す。少しずつみんな成長している。息子とひと月違いで生まれた女の子が息子に好き好き光線。カタギのような時間の過ごし方だ。いろんな塾の先生のブログを読んでいると正月も授業をしている先生がおられる。休みは嫌いではないが、授業をしたくなる。生徒に会いたくなる。それが正しいことかどうかは分からないが。
January 2, 2006
元旦の午前零時半から、大神神社で神役奉仕を行った。平成十八年元旦大神神社繞道祭御神火まつりに参加させていただいたのだ。本格的である。半纏を羽織り、鉢巻をしめ、厄年の男性がの松明を挙げ、三輪山山麓十八社、大神神社の摂社、末社を巡るのだ。御神火は大きな松明が3つ、これは男が二人ないし、三人でないと担げない。残りの70名ほどは一人ひとり小さな松明を持ってその周りを走る。御神火は元日の零時から大神神社の宮司が神事に則って、禁足地に入り、木をこすり、切り出される。一つ問題だったのは歩きながら巡るのではなく、走って廻るという点だ。全行程は間違いなく、6キロ以上あったろう。全行程で2時間だ。いやもうキツイなんてもんではなかった。日ごろの運動不足が崇り、息は絶え絶え、足はガクガクである。この苦しさこそが厄払いだと思い、何とか乗り切った次第である。そう、これは厄払いの儀式でもある。私は今年本厄だ。運の悪い奴に教わる生徒も可哀相である。運のよい私でいなければならぬ。それ故の今回の参加である。走りながら、神様に今年の誓願を立て、我が教え子の受験の順調であることを祈願した。自分のスイッチをONにする作業だ。こんなことを言うとかっこよいのだが、実際はとてもかっこ悪かった。最後、松明を持って、大神神社に戻る。御神火まつりのクライマックスだ。しかし最後の最後はしんどい。しかも参道を走る。要は見物人が山ほどいるのである。そんな中を息も絶え絶え、足はガクガクである。その中には私の教え子もいそうである。かっこ悪いったらありゃしない。それにしても苦しかった。そこまで体力がないはずはないのに。最後の方は「あ~、これは神さまからのメッセージだなあ」と思うことにした。今年も自分の限界までもがかなければならないのだ。そうしてこそ道は開けるのだと、そう思うことにした。生徒諸君はみっともない自分をこれほどポジティブに昇華していく師の姿を見習ってもらいたいものである。まつりがすべて終了し、その後の直会で権宮司様がおっしゃった言葉が印象的であった。今年のテーマは「魂」だ。これでいこう。本年もよろしくお願いいたします。
January 1, 2006
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