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不登校、ひきこもりの子のみならず、生徒には出来るだけ「自分で選ばせる」ようにしています。…まあ、たまにおせっかいで僕が正しいと思うものを押しつけてしまうこともありますが(反省)。自分が納得のいく選択が出来るよう援助するのが、カウンセラーのあり方かな、とも思います。特に思春期を迎え、自我が芽生えた子ども達は、自分で選んだものでなければ納得しません。自分で決めて自分で行動して自分で結果を得てみて…初めて納得するのです。ですから僕が内心「こっちの進路の方がこの子に合うんだけどなー」と思ってその進路先を薦めても、その子が自分で色々考えたり、行動したりして決めたのでない限りは、例えその子に合った進路先でも、途中で辞めてしまったりするのです。しかし中には、自分で自分のことをどう決めればいいか分からない、という子がいます。『私の方が正しい答えを知っている』と盲信している周りの大人に何ごとも先出しされ、自分で試行錯誤し、試しにやってみる機会を奪われ続けたせいかも知れませんし、周りの大人の顔色をうかがってからでないと、自分のとるべき態度を決められない環境で育ったがゆえかも知れません。または、見通しを持つということが難しい気質ゆえ何を選んだらどうなるか見当がつかず、どうすればいいか分からないからかもしれません。しかし選択を人任せにしていては、「自分」を持つことが出来ないままとなってしまいます。「自分がない」という感覚は、外界と自分とを区切る心の壁が薄くなることを意味します。人の中にいると、自分が根無し草のような、ぼんやりしている感じを味わったり、外界、つまり他人からの影響をまともに受けやすくなります。例えば人から悪い評価などをされた時などは、深く傷つき、いつまでもその影響から立ち直れなくなったりすることもあります。「他人に私のことなんて完全に分かるはずない!私は私!」という確固とした感覚がないので、外から来た思いや感じ、刺激に振り回され、振り払うことが難しいのです。以前関わったひきこもりの生徒で丸2日かけても「自己プロフィール欄」に一行も書けない子もいました。幼い頃より、他人の心を読むことばかりにエネルギーを使ってきて、自分の気持ちがどうなのかを考えることを後回しにし続けていたため、自分が何を感じているか、何を望んでいるか、何をしていると心地良いと感じるか、これからどうなりたいかなど、自分で自分のことが分からず、大勢の人の中に居ると混乱するようになっていたのです。そういった子達のために、自分を確たるものにする方法の一つが「自分で選んでみること」。自分で選ぶことが出来ない…自分が何を望んでいるのかわからない、と言う子には、「じゃあ、これとこれならどっちがいい?」と、聞いていくことから始めます。自分で決めることに慣れていない子にとって「好きなもの選んでいい」「何でも自由に決めていいよ」というのは、自由度が高過ぎ、漠然としていて決断が難しいこともあります。何かを選ぶ、決断するというのは、実はとてもエネルギーが要る作業です。心が弱っている時には、非常に負担となります。「じゃあ、中華とイタリアンと和食だったらどれが食べたい気分?」と、選択肢を少なくして具体的にしてあげると、選びやすくなります。それでも無理な場合は、さらに選択肢を狭めます。消去法でもOKです。その際は、その子自身の、身体の感覚に気付かせるよう、身体への問いかけを促すような質問の仕方をするようにします。自分のことを自分で決められないでいる子は、自分自身の感覚や気分に、鈍くなっています。身体の感覚に敏感になれば、自分の好き嫌いや、何を望んでいるかも自ずと明確になってきます。そして、自分の決めたことに対しては責任も生じます。「責任」というものが自分にのしかかると、自分の存在意義もより確かに感じられます。「どれでもない」「わからない」という選択肢も用意しておきましょう。与えられた選択肢の中から無理やり選ぶのではなく、「わからない」「決められない」という決断もある、ということを示します。「今はまだ分からないんだよねー」と、相手の「わからない」という判断も、立派な意見として尊重してあげること。「保留」もまた、大事な選択なのです。選んできた結果が自分の歴史、選ばれたものが、自分を表すもの。「自分で選ぶ」ことで、「自分」がどういった人間かが、実感として分かりやすくなります。「選択」こそが、「自分探し」なのです。11.07.05 Click Please!【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
March 10, 2013
学校で仕事をするようになってから、僕は『「頑張れ」と言われてしまう子は、もう既に頑張っている子だ』と、思うようになりました。 ある日、カウンセリングルームの外の庭で、授業中なのに、ずっと座っている生徒がいました。そこを通りすがりの先生に発見され、「こんな所でサボってないで、頑張って教室に入りなさい」と、言われ始めました。生徒を諭す先生のその発言の中に、「頑張れ」という言葉はわずか数分の間で、10回以上は出ていたでしょうか。でも、「頑張れ」と言われ続けていたその生徒は、実は朝の5時から起床して自分のお弁当を作り、明け方に酔っ払って帰って来る父親、姉の吐き散らかす汚物の掃除を1人でし、家の家事をほぼ全てしている子だったのです。そのことは本人から聞いていて、僕だけが知っていたのですが。傍からは授業をサボっているように見えてしまうので、「頑張れ」と言われてしまったのでしょう。本当はもうすでに、頑張っている子だったのに。その時から僕は、「『頑張れ』と言われてしまう子は、実はもうすでに頑張っている子なのではないか?」と、考えるようになりました。人は、自分の言動、行動に何の反応もしないような人を、相手にしようとはしないものですよね。例えばすぐに傷ついたり怒ったりする人をからかいやいじめの対象としたくなるのと同じように。それと同様、「頑張れ!」と言われて頑張ってしまう子に、人は「頑張れ」と、声をかけてしまうのでしょう。何を言っても応じない相手には、人は何も言わなくなるものです。「頑張れ」と言われてしまうのは、人の言うことに応じて、頑張ろうとする人です。頑張る人だと認められている人です。僕は、日本人って褒め方下手だな と、よく思います。「頑張れ」は定番ですが、頑張っている人に「頑張れ」と言うのは、相手が今頑張っていることを、認めていないような感じがしませんか?僕は「頑張れ」より、「よく頑張っているね」という言葉をよく使います。以前、毎朝学校に行こうとすると激しい頭痛と身体のしびれに見舞われる、という子に会いました。彼女はクラスではいじめられ、両親には忙しくて構ってもらえない子でした。その子は口を開けば自分の不幸話、愚痴ばかりだったので、多くの人は、その子の延々と続く不幸話にうんざりしてました。(聞いていたら確かに嫌な気持ちになりましたがね・・・)しかしそんな状況でも、学校に来て過ごそうと頑張っていたのは事実だったので、「よく頑張ってるね」と、会う度に言ってました。そうすると、その子の言動に、ほんの少しずつですが、嬉しかった話などが混じってくるようになりました。そうして、人に希望を与えるような詩を書いて持ってくるようになりました。頑張っている面を見つけ、そこを認めてあげると、頑張ろうとする力が強くなっていくようです。自分が頑張っていることが無駄ではない、ちゃんと認めてもらえることだと分かると頑張り甲斐も出るのでしょう、頑張り方も、より前向きなものへと変わって行くんですね。僕は、自分の不幸さや、いかに辛いかを訴えてくる人は、実はそんな辛い状況の中でも頑張っている自分がいることを、分かってもらいたいだけなのではないだろうかと、思うようになりました。そして、「この世に可哀相な人などいなくて、(誰もが自分の課題を抱えながら)頑張っている人がいるだけなんじゃないだろうか?」とも思うようになったのです。 2007.March Click Please!【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
November 22, 2012
文化祭、体育祭、遠足に定期テスト…2学期の諸々の行事が終った後、秋の後半から冬にかけて不登校生は冬眠準備に入ります。10月終わりに「外に出たい」と、ひきこもっていた子が外に出る気を出してくれたのも束の間、 この時期から冬眠モードに入り、ふたたび自分の世界にこもりやすくなります。様々な文化行事に使った気力・労力の疲れが、行事のなくなった今になって、押し寄せてきたためもあるでしょう、行事に参加していなくとも、不登校生は同級生の動きにアンテナを張っています。気にしていないようでも潜在的に気を使っていたかもしれません。 「不登校安定期」、(学校に行かないことを除いては全く普通に生活している時期)に入っていた生徒も、 ちょっと後退したかのようになるかもしれません。昼間起きてるようになったのに昼夜逆転生活に戻ったり、積極的に家事手伝いをしてくれてたのに、最近は家族と話す機会も減ってきたり…。登校していなかったとはいえ健康で穏やかでそこそこ活動的だった、という子がこの時期停滞・後退し出した場合は、季節的なものであることが多いのです。「せっかく最近調子がよくってもうすぐ登校かな!?と、思ってたのに!」 などと思っておられる保護者の方もおられるかもしれませんが、冬の寒空を見上げて元気が出る人なんていないでしょう?本来冬はあらゆるものの生命活動が内へとこもる時期。関心もエネルギーも、外ではなく内に向かうようになります。身体の変化としては冬の寒さや空気の乾燥に、免疫力も弱まり、新陳代謝も下がります。太陽の日照時間も短くなるので、心のバランスを整え、憂鬱な気分に陥るのを防いでくれるセロトニン(神経伝達物質)が作られる量も減ります。この時期調子が悪くなったり活動が少なくなったりするのは自然なこと。冬の間、植物が春の芽吹きに備え、栄養を蓄えて過ごすように人の心と身体も、冬の間に一年の疲れを癒し、春に向けてエネルギーを蓄えようとするのです。そのため活動量が減り、元気がなくなって、ゴロゴロ、ダラダラ、ぼーっとしてしまうことも多いかもしれませんが、決して怠けているのではなくて、エネルギーを蓄えているのです。この時期の、活動量低下は悪く受け取らない方がいいでしょう。エネルギーが外に向けられていないからといって、後退しているわけではありません。大きなチャレンジや決断を促すようなことが、向いている時期ではないだけです。 来春中学三年生になる不登校生の場合は、今ゆっくり英気を養っておいてもらった方がいいでしょう。1年生の時から不登校の子は3年生からは、少し雰囲気が変わり始めます。2年間たっぷり休んだ分、3年生時は、その子なりに進路のことで覚悟を決めているようです。保護者の方は、従来の不登校の子の主な進路先についてその手の情報に詳しい先生から聞いておいて、不安を少なくしておいた方がいいでしょう。僕は2年の学年度末辺りに、これまで関わってきた不登校生の主な進路先、どういう不登校生がいて、その子がどういう学校に行ったのか、その後どうなったかを 生徒とその保護者に前もって言っておきます。中学時不登校でも、楽しく高校生活をおくっている子がいること、受け入れてくれる高校があることを知らせておくだけでも、生徒の不安を減らすことが出来、安心して休養することが出来ます。逆に春が近づくと元気や活力が出てきます。 どの程度元気が出るかは、人それぞれですが、春が近づくと心の中でうごめきだします。春の訪れる気配に期待と不安と好奇心が膨らまない子の方が少ないのです。 そのためにも、冬眠期間中は栄養と休養をとること。地中に深く潜れば潜るほど春には芽吹きます。2007.November Click Please!【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
October 2, 2012
せっかくカウンセラーの所へ訪れたのに自分にとって何のプラスにもならなかった、という思いをした不登校生徒の保護者の方も多いことだろうと思います。そういったときは他をあたる事も一つの手でしょうが、どこへ行ってももひとつピンと来ない、同じような対応をされるだけ、というのなら、それはその保護者の方が、助言を受け入れる準備がまだ出来ていない、ということなのかもしれません。子どもが不登校になると、どの保護者も、あの手この手で子どもを学校に行かせようと、嘆きパニクり子を責め自分を責め泣き落とし脅しつけ奮闘します。家族間でどうしても緊張状態を迎えずにはいられないのです。保護者が「何が何でも学校に行かせたい」「私が頑張って何とかしたい」というのが本音の時はたとえ実績あるすぐれたカウンセラーが的確な助言をしようとも心にピンと来ないことでしょう。カウンセラーは子どもの立場に立った意見を言うことが多いので、どうしても保護者に「学校に行けとうるさく言わないで下さい」「そっと見守りましょう」などの助言をしがちです。保護者が「学校に行かさなければ」という焦りの気持ちでいっぱいの時は、そのような甘ったるい助言(というより無理な助言)は心が受け付けず、聞き流されてしまっていることでしょう。「散々あちらこちらの相談機関を回り、 色々なアドバイスを聞いたけれど 何の役にも立たない! 自分なりにあれこれ色々家でやってみる、 でもどうにもならない、もうどうすればいいんだ!ヘトヘトだ! …はあ~…」そしてすっかり疲れ果て、もう努力する気にもなれない頃に、良いカウンセラーに出会えたりします。しかし実はそのカウンセラーも、かつてあちこち相談に行って回った時に出会った、イマイチ納得がいかないカウンセラー達と、同じようなことを言っています。でも今度は、何だかちょうど良いカウンセラーに出会えた気がするのです。自分に相応しいカウンセラーに出会うまでに、保護者の方は一苦労しなければならないのかもしれません。カウンセリングショッピングや占い師、霊媒師巡りをした人は大勢いるはずですし、僕は保護者がそうやってあちこち走り回る期間も必要なのかなと思っています。 思いつくあらゆる努力をしてみて成果を上げられないという、心底疲労し自信を失うという経験をしないと、「不登校」というものを理解できないからかもしれません。なぜなら保護者が味合わされるその「色々頑張ってやってみても無駄だった」「自分にはもう何も出来ない」という徒労感と疲労感こそ、不登校の子どもが味わっている感覚でもあるのですから。親と子はつながっていますので、子どもの味わっている疲労感や徒労感を親もまた何らかの形で味わされるのは当然といえば当然のことかもしれません。そうして保護者の方が子どもと同じ心身状態に陥ったとき、カウンセラーの言う不登校対処のアドバイスが子どもにではなく、実は今の自分の心にちょうど合った必要な言葉として心にストンと落ちてきます。そうして(本当は「タイミングが合った」だけなのですが)とても自分に合った助言者に、出会った気がするのです。2008.MayClick Please!【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
October 1, 2012
不登校回復の道のりの中で(少なくとも僕のケースにおいて)一番障害となるのは昼間家でゴロゴロすることを「甘え」だの「怠け」だの「不摂生な生活をしているのがいけない」などの偏見によって回復に必要なエネルギー補充の時間の邪魔をされてしまうことです。この点について理解を得るのが難しいこともあって、どれだけ僕が「不登校の子が昼間寝て過ごすのは自然なことですから」「心身の疲労回復には睡眠が一番いいんです」「ゴロゴロ、ぼーっとする時間は、今まで頑張ってた分、必要なんです」と、不登校の子にとってゴロゴロ・ぼーっと過ごすことが正常かつ自然で、回復の道を進んでいる証拠なのだと説明しても、「昼間っから家に居るのは許せない」「周りの子がちゃんと学校に行っているのに甘えている」「働かない、学校にも行かないことは、人として認められない」「不摂生な生活態度だから何事も上手く行かないのだ」など、親御さん自身の人生観、生活観、それまでの自分の育児に対する自負などが子どものこの「ゴロゴロ、ボーッと過ごす時間」の邪魔をします。以前僕が面談を続けていた不登校生のお母様に「昼夜逆転もゴロゴロ、ボーっと過ごすことも、 回復に必要なので存分にさせてあげて欲しい」とお願いしましたが、「私は子どもの頃から、 多忙な親に代わって家でも働いてきた。 それなのにこの子は怠けていて…どうしても怠けを認められない」と言われ子どもの態度を怠けととるその見方を断固変えられなかった方がいました。それから一年後にその不登校の生徒に会った時、髪の毛が白髪だらけになっていたのを見て、「ああ、守ってあげられなかったなぁ」と、自分の力不足を嘆いたことを覚えています。お母様が自分の価値観に固執したため、そうでないものを受け入れられなかったようです。子どもは子どもなりに一生懸命考えて生きているのに、自分の理解できないものを認めようせず、社会の物差しだけで何でも見ようとするその頑なさが、子どもに生き辛さを与えてしまっていたのではないかとその時思いましたが…。ゴロゴロ、ボーっとしているからといって子どもは決して怠けているわけではありませんし、むしろこの「ゴロゴロ、ボーッと過ごす時間」を過小評価したために、不登校状態に陥ってしまったのではないかと僕は思っているくらいです。不登校は、きっかけは対人トラブルなどですが、不登校になる前段階に、新しい学校や人間関係に馴染もうとしていたり、ハードなクラブ活動について行こうとしていたり、自分の能力を超えた学習課題を必死にこなしていたり、自分の資質に合わない教育スタイルを親のために続けていたり…など周りの基準に自分を合わせ、使い込み過ぎていた時期があります。その時は、自分のことを省みる余裕がなかったことでしょう。不登校になって、最初の激動期を終えると出てくるこの「ゴロゴロ・ボーっ」は不登校生たちが、その目的に向かって頑張っていた時期に、本来ならするはずだったであろう行動の集大成です。当時、身体も心も疲労回復を望んでいたはずですが、「何とか馴染むため頑張らねば」「こんなダラダラしている暇はない、無駄に時間を過ごさず勉強しなければ」、など時間や労力や気力を目の前の目標達成のために使い、自分のための無為に過ごす時間、無駄なことをする時間を持つことを後回しにしていたことでしょう。人生の挫折やらストレスやら、嫌な出来事のクッションとなるのは、この「無駄な時間・無為に過ごす時間」です。ストレスフルな出来事が起こったとき、人は、この「無為な時間を過ごしていた時」にいったん避難するのです。そうして疲労を回復し、体勢を立て直した後、元の道に戻ろうとします。しかしそれらを「無駄」「非効率的」「目標到達に関係のないもの」として生活から締め出し、目的追求のための時間や行動ばかりを重視すると、避難の場所も、大事な生きる力を養う時間をも失ってしまうことになります。(これは不登校生のみならず、サラリーマンの鬱などでも同様です)不登校生のこの「ゴロゴロ・ボーっ」と過ごすありようを見ると、無為に過ごす時間、無駄なことをする時間を本能的に取り戻そうとしているように思えます。もちろんそうするのは、回復と、そしてその後の新たな成長のためのエネルギー充電です。(大人の鬱と違うのは、 休養だけではなく、成長のための助走の働きも実はしていることです。)子どものしていることが一見無駄に見えても無駄なことこそが、生きる力を育んでいたりするものです。子どもの行動全てが、実は自立に向かって成長しようとする行動であることは、僕は確信しています。「無駄な時間こそ、生きる力を養う」のです。2012.06.12【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
July 31, 2012
ある先生から相談が来ました。俗に「五月雨生徒」と呼ばれる、学校に来たり来なかったりする生徒についてです。その先生は毎朝その子の自宅に迎えに行って何とかその子を登校しやすいものにしようと誘ってくれたり励ましてくれたり、頑張ってくれています。元気に一緒に登校できる日もあれば気分が優れず、ぐずって登校できない日もあります。その先生は、その生徒のそういった行動が理解できず、僕にこう質問してきました。「この子はひょっとして 甘えているだけなのでしょうか?」僕は先生がその子を「甘えている」と見てとっていることに違和感を覚えました。先生に構われるのを期待して悪ふざけやちょっかいをかけてくる生徒が、教員に「甘えている」というのはよく分かります。放任主義の親に育てられた子や育児放棄の子などに、よくある反応です。しかしその五月雨登校の生徒は、体調が悪くなったりしながらも何とか学校に行こうとしてくれている、頑張ってくれている子なのです。なのでなぜ先生がその子を「甘えている」と見立てたのか僕には分かりませんでした。そうして僕が思い至ったのが、「甘えている」と大人が子どもを見なしている時は、そう言っている本人が、実は甘えたがっている時なのではないかと。どの人にも、自分の経験や見聞などから作り上げた独自のものの見方、感じ方、判断基準があるように、子どもにももちろんあります。大人と比べると未熟かもしれませんが、子どもには子ども独自のものの見方、感じ方、判断基準があります。 しかし、自分の理解できる範囲から外れているものを理解しようとすることは、外国語を学ぶことと同じで、とても労力が要ります。子どもがどういうつもりでいるのかを理解しようと思ったら、大人は子どもの目線までしゃがみこまないといけません。子どもの行動の意味が分からない…、どう解釈すればいいかわからない。相手を理解しようと努力することに疲れたとき、もうこれ以上相手のために頭も身体も使いたくないとき、子どもが「甘えている」ということにして、子どものせいにしてしまいたくなるのでは。「甘えている」という言葉は、まるで子どもの未熟さに問題があるかのように人に思わせられる、世間一般にも通用しやすいとても都合のいい言葉です。(言った者勝ちなところがあります。)本来出来るはずなのにわざとやっていない、子どもは実力を出し惜しみしているのだから、大人がそれに歩み寄る必要はない…というニュアンスもあります。相手を理解しよう、歩み寄ろうと努力することに、「もう疲れた」「休みたい」「楽したい」…、その気持ちを子どもに映し出し、まるで子ども自身がそう感じているかのように受け取り、そうして自分を納得させ、子どもが甘えていることにしてしまう…。とりわけ教職員は、職業上自分に厳しく、「甘えたい」気持ちを強く押し込めている人が多いもの。甘えたい気持ちを強く押し込めている人ほど、相手の態度に「甘え」を映し出しやすくなります。(そして自分が「甘える」ことを許さないでいる人ほど、 相手の甘えへの怒りも強く感じてしまいます。)その先生が五月雨登校の生徒を「甘えている」と見なしているのは実はその先生が本当は甘えたい、つまり、大人である自分が生徒に歩み寄るのに疲れた、生徒の方こそが自分の方に歩み寄ってきて欲しいと内心願っているのではないか?と。そう思い至った僕はその先生に対して日頃頑張ってくれていることを労ったり、褒めたり、評価したりすることを忘れていたことを思い出しました。先生が毎日その子を迎えに朝早くから頑張っているのに、教員として当たり前のこととして誰からも労ったり褒められたりもせずにされているのは、その五月雨登校の生徒が一生懸命学校に行こうと頑張っているのにその(見えない)努力を労ったり褒められたりもせずにされていることと実は同じであると。僕は子どもを「甘えている」と言っている先生に対しては、実はその先生に、人に甘えたい、癒されたい、評価されたい、労わってもらいたい気持ちがあるのではないか。そしてその気持ちを強く押さえ込んでいるのではないか、と考えるようにしています。どうしてもスクールカウンセラーは生徒の方に気が向きがちなのですが、「ご立派ですねぇ~。誰でも出来ることではないですよ。 その努力はちゃんと、あの子の成長の糧になっていっていますよ、本当ですよ。」 など、いつも生徒のことで骨を折ってくれている先生にも、ねぎらいいたわりの声をかけるように。そうすることで、先生の生徒への見方もより自然体なものへと変わります。甘えたい気持ちは誰でも持っているもの。大人の方にも適度に甘えたり楽したり癒されたりしておいてもらわないと、子どもの理解出来ない言動に出遭う度に、抑圧している気持ちを投影し、「あの子は甘ったれている」と、子どもに不当な評価を下し、子どもを辛い状況に追いやってしまうことになりかねません。僕は子どもの態度に対し、大人が見てとってしまう気持ちは、実はその大人の心の叫びかもしれないと、大人には内緒で、勘ぐるようにしています。2007.October Click Please!【にほんブログ村】 【人気ブログランキング】
July 26, 2012
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