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「太陽の道」とも謳われた東西軸”北緯34度32分”の東端にして、《朝熊山》と《富士山》を結ぶ「夏至の日の出」の方位線の(共に古代より重要視された)二本の軸線の”交差点”である「神島」を懐かしく展望した後、知多半島の先端にある「豊丘IC」から高速に乗り、上の地図の中央下部に示した遠江国(とおとうみのくに)一之宮「事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)」(静岡県掛川市)に向かって車を走らせた。そこで上の画像は、上記の「事任八幡宮」の立派な大楠に護られて鎮座する当社本殿を撮影したものである。かつて日本全国を構成した六十六ヶ国には、各国に鎮座する”一之宮(※)”が六十六社あったとされる。AD2,000年の頃に”全国一之宮巡り”を達成したのではあるが、実は「遠江国」には二つの”一之宮”が鎮座しており、既に一方の一之宮「小國(おぐに)神社」には参拝していたので、もう一方の一之宮「事任八幡宮」のことを知ってはいたが参拝する機会が無かった。(※”一之宮”とは、各国の中で最も格式の高い神社のこと。)ところが今回の旅路の終盤にさしかかり、おそらく「久能山 東照宮」への参拝を決めたことによって…確か遠江国には、もう一つの”一之宮”があったはず…という潜在意識から、私の脳裏に社名の「事任」の二文字が「ことまち」という言葉の響きと共に浮かんできたのであった。早速当社を調べてみると、とても興味深いことが分かった。その主要部分を紐解くと・・・。・遠江国一之宮「事任八幡宮」の主祭神は、今でこそ「己等乃麻知比売命」(ことのまちひめのみこと/以降は「コトマチヒメ」)なのだが、実は平成11年に各所管の認証を経た後に「主祭神」として蘇ったということである。・「記・紀」に記載のない「コトマチヒメ」という神名の、「コト」は「言葉」にして「マチ」は「占術」を意味し、「”言の葉”を通して世の人々に加護を賜る女神」という意味合いになるようだ。・神系図において、「コトマチヒメ」の父親である「玉主命(たまぬしのみこと)」の別名の一つに「大刀辛雄命(たちからお)」とあり、岩戸神話で岩戸を開けた「タヂカラオ」のことだと記してあった。以上のことから、当社の主祭神「コトマチヒメ」は、「戸隠神社(奥社)」の主祭神「タヂカラオ」の娘であり、また「阿智神社」の主祭神「オモイカネ」の孫娘に当たると分かり、当社の「事任」という社名が何度も脳裏に浮かんできたことが腑に落ちるのであった。実は、当社の主祭神「コトマチヒメ」の神名を初めて知ったとき、その発音に触発されて思い出した神名があった。その神名とは、以下の関連記事にも詳しく書いたが、島根県の「隠岐の島」は「島前」の”西之島”に鎮座する古社「比奈麻治比売命神社」(ひなまちひめのみことじんじゃ)の主祭神「比奈麻治比売命(ヒナマチヒメ)」であった。この”二柱の女神”の神名に共通する「マチ」とは、やはり「占術」を意味する古語だと確認することができ、それを補強する根拠として、上の画像の神殿内において神額の下に映る二つの社紋のうち、「亀甲に卜象(ぼくしょう)」が挙げられよう。(一方の「左三つ巴」は八幡神が合祀された際に加えられたと考えられる。)この特異な紋章は、現代でも「宮中行事」で行われる”亀の甲羅を使った占い”の「亀卜(きぼく)」を意味する形象であり、”古式の占術”を伝承する社紋ということができよう。☆関連記事・・・「隠岐の島」の周遊記(5)「事任神社」への参拝を経て旅路の最後に訪れたのは、初めて参拝する国宝「久能山 東照宮」であった。当社への参拝は、「日本平」の山頂に車で登って駐車、その山頂からロープウェイに乗って下降し、約5分の所要時間で降りたところが出入口となっていた。そこで上の画像は、参道入口から階段を上り大きな「楼門」を経て鳥居をくぐった先で、段上にある「御社殿」の直前を守る「唐門」に付随して周りを取り囲む塀の全体像を撮影したものである。次に、「家康公」を「東照大権現」として祀る「御社殿」(権現造)を撮影したものが上の画像である。その極彩色にして絢爛豪華な装飾は、もちろん「日光東照宮」を思い出させるのだが、もし両宮を比較するとすれば、「久能山 東照宮」の方が”いぶし銀の輝き”というか、落ち着きを感じさせるものがあった。次に向かったのは、当社境内の最上段にある「家康公の神廟」であった。そこで上の画像は、その家康公の遺骸が埋葬された場所に立つ廟と、その解説版を撮影したものである。この廟は家康公の遺命により、生誕地である岡崎や豊臣家の拠点であった大阪を望む「西向き」に建てられており、それを図示した「黄色のマーカー」を含む地図が下で、この「黄色のマーカー」は当宮の御神域に建てられた神廟より「西向き」の東西軸を示している。ところで上の地図は、下の関連記事から抜粋したものだが、おそらく「天海僧正(明智光秀)」の構想した「家康公」を「東照大権現」として祀り、”江戸城”を中心とする江戸時代を安寧に運営し、安定維持していくための”呪術”を駆使した〔骨格〕に相当するものだと思う。(※その内容に関しては、下の関連記事に詳しい。)☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(1-D)そして末尾を飾る画像は、今回の旅路において自分に課した”最後のイベント”として、「日本平」の山頂から”《富士山》の方面”を撮影したものである。ここで”《富士山》の方面”としたのは、あいにく当日の《富士山》は三合目くらいまでしか見えなかったためだ。つまり、この下の画像の《富士山》は、三合目までは見えていた《富士山》の稜線を手がかりに、この撮影地から展望できる”晴れた日の《富士山》の写真”を参考にして、雪景色の美しい《富士山》を手書きで描いたものである。今、この見えないけれども厳然として存在する《富士山》を観ていると、上の画像の地図に描かれた”呪術”を駆使した〔骨格〕の根底には、おそらく今回の一連の動きから浮上してきた【《戸隠山》と《富士山》を貫く〔シリウス方位〕】があったのではないかと、そのように感じ始めた今日この頃である。(了)
2024年06月10日
これまで記してきたように当初の計画では、日本列島の「扇の要」たる《富士山》の山麓(「北口本宮冨士浅間神社」への参拝など)に行った後に、今年(令和6年)の年始に起きた”能登半島地震”により結果的に見出せた〈二本の扇〉のクロスポイントたる《戸隠山》の山麓(「戸隠神社(奥社)」への参拝など)を訪ねてから帰路に着く予定であった。ところが、今回の旅路の直前になって、なぜか遠江国一之宮「事任八幡宮」が気になるので調べてみると、当社の主祭神が「オモイカネ」や「タヂカラヲ」と深い関係にあることが分かったこと(後述)、加えて当日記でも言及したように徳川家初代「徳川家康」の側近であった「天海僧正」を「明智光秀」と同一人物とする説があり、その姓である「明智」が「阿智神社」の主祭神「オモイカネ(アチヒコ)」の「阿智」に繋がることを含め、この一連の旅路の最後に(まだ一度も参拝したことのなかった)家康の御廟である「久能山東照宮」に参拝させていただき、当社の背後にある「日本平」から《富士山》を遥拝して旅路を締め括ることにした。☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(1-D)その一連の旅路における最終日の動向を、これまで訪ねた場所等を含め地図上に示した画像が上である。さて、前々回の記事からの続きを書いておこう。その後「戸隠神社(奥社)」の参道入口にある”戸隠そば”の専門店で昼食を済ませた私は、「信濃町IC」から高速道路に乗った。途中のPAで何度も休憩しながら「岐阜羽島IC」まで安全運転を心がけ、午後7時頃に駅前でレンタカーを返した。そしてJR岐阜羽島駅から新幹線に乗りJR「豊橋」駅で下車、駅近くのホテルに宿泊した私は、翌朝の午前8時からレンタカーを借り、様々な経緯から知多半島の先端に向かって高速を走った。その知多半島の先端で下りる高速の「豊丘IC」を知った時、そういえば出発した「豊橋」から「豊川」そして「武豊」と、「豊」の付く地名が多いことに気づき、後で調べてみると愛知県内には7つの市町村(豊橋市・豊川市・豊田市・豊明市・豊山町・武豊町・豊根村)で「豊」の字が入る地名があることが判明したので地図上に示した。ちなみに、日本三大稲荷の「豊川稲荷」で有名な「豊川」が一番古い地名らしく、他は明治以降に付けられたということだ。これだけ「豊」の付く地名を意識させられたということは・・・もしかすると古代九州は東北域の「宇佐」の《御許山》を中心に、現在の広島県西部から山口県域まで広く治め活躍していた古代の「豊国」の勢力が、宇佐族の長にして海人族の「オモイカネ(初代ウサツヒコ)」を神輿に担ぎ、海上から入植した場所が三河湾の湾岸域だったのであり、その後に拠点とした場所が現在の阿智神社の鎮座する長野県の阿智村だったのではあるまいか・・・。※関連記事・・・「イチキシマヒメ」への思慕(2)※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)なぜ知多半島の先端に行くのか・・・その本来の意義が分かったのは、現地で上の画像の景色を見た時であった。この上の画像の右側に映る島が「神島(かみしま)」で、いわゆる『太陽の道』と称される東西軸”北緯34度32分”の東端に位置する島となる。目的は、この「神島」を改めて別角度から展望するためだったのだ!(ちなみに画像左側に見える島並は、三河湾を挟んで知多半島の東方にある渥美半島の先端部である。)実は、この「神島」に渡ったのは今から30年以上前になるのだが、毎年の元旦(夜明け前)に島内に鎮座する八代神社で斎行される「ゲーター祭(新年の日の出を迎える祭事)」において、重要な祭具として使用された直径約2mの〔白い輪〕(太さは約15㎝)を、たまたま参拝時に境内の片隅に見出せたことで、いたく感動したことを憶えている。さらに「神島」も絡むかたちで興味深いのは、地図の左下に示した《朝熊山》と右上の《富士山》を直線で結ぶと、その軸線上に「神島」があることから、この《朝熊山⇒神島⇒富士山》という〔三点一直線〕は「夏至の日の出を示す方位線」になるというところだ。ここで、かつて《朝熊山》の山頂に立ち、その当日は視認できなかった《富士山》方面を展望した際に、その手前の海に〔三点一直線〕の軸線上に浮かぶ「神島」を確認できたことを思い出すのであった。ちなみに、”伊勢”において「夏至の日の出」といえば、二見興玉神社の境内にある「夫婦岩」の間から日の出を迎えるのが習わしとされるが、実は夏至日の太陽は「夫婦岩」の位置から見ると、《富士山》の山頂部から少しズレて昇ってくるということだ。もし正しく《富士山》の山頂から昇る「夏至の日の出」を拝するには、標高555mの《朝熊山》の山頂からの御来光が望ましいとのことである。※関連記事・・・夏至の太陽祭祀(つづく)
2024年06月10日
この度の”戸隠山”山麓に鎮座する「戸隠神社(奥社)」への参拝は、”富士山”の山麓へ行くことが決まってから、二枚の扇のクロスポイントたる”戸隠山”と一方の扇の要たる”富士山”との関係性を探ろうと、両山の山頂を地図上で結ぶ直線を引いた際、(上の画像の地図に黄色の線で示した)”戸隠山”から”富士山”への方向が〈シリウス方位(※)〉だと認知できたことが一つのキッカケになっていた。(※)ここで〈シリウス方位〉とは、「冬至」を新年とした古代の聖地において、「冬至」の深夜12時に南面すると、夜空で最も明るい星「シリウス」が昇る”真南から20度ほど東に振れた方位”のことをいう。上の地図には(アバウトではあるが)、〔青色マーカー〕で”フォッサマグナ”の「糸魚川ー静岡構造線」を示したのだが、”戸隠山”と”富士山”を繋ぐ〈シリウス方位〉と青色の”フォッサマグナ”が示す方向性に関連性が見出せるだけでなく、過去の日記(以下の関連記事)で”富士山”を「シリウスA」の投影地とする捉え方とも重なってくるところが興味深い。☆関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(1)加えて、〔赤色マーカー〕で三河湾方面から諏訪湖へと続く「中央構造線」を描いたわけだが、その諏訪湖からは見えない構造線の行く先が「戸隠山」に向かっているところが面白い。というのは、この赤色の「中央構造線」が走る列島の西方へ、紀伊半島の伊勢から四国・九州と至るのだが、その中央構造線上の宮崎県高千穂に鎮座する「天岩戸神社」の語り部が伝える神話物語の後段に・・・その閉じていた〔岩戸〕を開けた「手力男(タヂカラオ)命」は、その剛力により〔岩戸〕を長野県の”戸隠山”へ投げ飛ばした・・・とあることだ。つまり、「中央構造線」の西方にある”高千穂”から投げ飛ばされた〔岩戸〕は、地図上に長野県の諏訪湖まで描いた赤色の「中央構造線」の、さらに見えない延長線上の”戸隠山”に到達したと読み取ることができ、さらにこの「天岩戸神社」の伝承する神話物語は、言わば日本列島を貫いている「中央構造線」と”フォッサマグナ”の「糸魚川ー静岡構造線」の、二つの構造線の関連性を類推できるところが興味深い。さて地図の左下に、長野県”「阿智村」の智里地区”を楕円で囲み、その地区と”戸隠山”を紫色の直線で結んでいるが、今の私には阿智村に鎮座する「思兼(オモイカネ)命」を祀る主要三社の御神域が天体の「ヒアデス星団」(おうし座の散開星団)に、そして「オモイカネ」の御子神「タヂカラオ」を主祭神として祀る「戸隠神社(奥社)」の御神域が「エルナト」(おうし座のβ星)に観えている。つまり、”おうし座”を象徴する〔牡牛の頭部〕(ヒアデス星団)から、”ぎょしゃ座”の左下の星(エルナト)に向かって伸びる一方の〔牡牛の角〕を直線で描いたものが、地図上で”阿智村”から”戸隠山”に引いた紫色の直線というわけである。ということは、まるで将棋の駒のような五角形状の配置をとる”ぎょしゃ座”が、おそらく「岩戸神話」における「岩戸」の本質であり、「オモイカネ」の考案による『岩戸開き』の筋書に従って、閉められた「岩戸」を開けるために手を伸ばした「タヂカラオ」の剛腕を象徴的に表した軸線こそ、地図上の〔紫色の直線〕になるというわけである。(つづく)
2024年06月08日
本日の〔令和6年6月6日〕という「666(ミロク)」の年月日に寄せて、計36本の軸線(素材は市販の太軸綿棒)で構成した「準正14面体」の撮影画像を掲載した。興味深いことに、この「ミロク」とも読める「36」という数は、「1」から「36」まで一つづつの数を足していくと(つまり…1+2+3+・・・+34+35+36…という具合に)、その合計数は「666」となる。そして上の画像のように、計36本の軸線構成による造形には明確な「中心」が存在しており、その中心から外側に向かう「膨張(愛)」するエネルギーと、反対に外側から中心に向かう「収縮(慈)」するエネルギーが、全体として究極の「均衡(バランス)」を具現化している【 調和(慈愛)】の形態ということができる。この【 慈愛(調和)】を象徴する、とても「魅力(ミロク≒666≒36)」的な立体造形は、最下段にリンクしたYouTube動画を参考にすれば、意外に簡単に自分の手で作ることができるので、興味のある方は以下の関連記事も参考にしつつチャレンジしてみてはいかがだろう。☆関連記事・・・666(ミロク)の考察☆関連記事・・・【真理探究】37年☆関連記事・・・6角形の数理※関連動画・・・「準正14面体」の作り方(YouTube…「たまのをチャンネル」より)
2024年06月06日
先の〔九頭龍社〕を経て、すぐ右上に続く階段を上った鳥居の先に、「戸隠神社」の〔奥社〕が鎮座する。その社殿は、まるで態勢を整えた剛腕な力士が、悠然と腰を降ろし構えているかのような佇まいであった。当社の由緒書を撮影。御祭神の「天手力雄命」の本質とは、「おうし座」の角の先にあるβ星「エルナト」であろう。〔奥社〕の右横を見遣ると、岩間を縫うように滴り落ちる白糸の水流を確認。実に清々しい景観である。その白糸の水を飲もうと近づこうとするのだが、張り巡らされた厳重な柵があり断念。フト上を見上げると、いつの間にか晴れ間が広がっており、「戸隠山」の山塊が見えたのには感動した。そこで上の二枚の画像は、古代より行場とされた修験者の好む険しい山塊を、段階的に拡大したものだ。そして社殿の左奥の岩壁が、にわかに光って見えたことから…そこが「天の岩戸」ではないか…と感じた。社殿の左側から岩壁を覗いてみると、その奥に岩窟が視認でき、ここが「岩戸」たる聖域だと感じた。その聖域たる岩窟を、さらに拡大したものが上。社殿背後の「岩戸」へと、まさに”天を照らす陽光”に導かれた。末尾の画像は、御神前を振り返り撮影した参拝早朝の「太陽」である。それは10分程の短い晴れ間だった。(つづく)
2024年05月30日
さて「戸隠神社(奥社)」への参拝当日の朝は、なぜか午前4時頃に目が覚めた。当初の計画では、宿での朝食を済ませたチェックアウト後の、午前9時頃からの参拝を考えていた。しかし、これはやはり早朝参拝だ!ということで、さっそく参拝にかかる所要時間を確認して身支度を整え、宿から車で約10分の参道入口にある駐車場へ停車した。(下の案内図の下方を参照)そして奥社参道口の鳥居前(冒頭画像)に立ったのは午前5時20分頃で、奇しくも参拝の”一番乗り”であった。上の画像は、戸隠神社の「奥社参拝」への”道しるべ”で、これを見ると片道が徒歩で約40分なので、ゆったりペースで往復にかかる所要時間は、約2時間は確保すべきだと自分に言い聞かせ歩き始めた。そこで今回の「奥社参拝」の過程で撮影した画像の数々は、それぞれ素晴らしい景観や被写体だったので、以下の画像からコメントを添えるかたちで紹介していくことにした。大鳥居から随神門に至る参道には、両脇を流れる細い水路があり、小ぶりの白い花が可憐に咲いていた。随神門の手前に来て、なかなかに威厳のある”阿吽の狛犬”が出迎えてくれたので、シャッターチャンス‼大鳥居から約20分の徒歩で到着した随神門の門前より、遠方に続く参道を見遣る。屋根に蔓延るシダ類が可愛いらしかった。そして、潜り抜けた随神門から前方に続く参道の雰囲気は一変し、朝霞にむせぶ杉林の幽玄な佇まいが広がっていた。自然な小川のせせらぎに、心身も癒されて一服。近くにはWCもあり”ひとやすみ”に最適の場所であった。これほど思いっきり触角を伸ばした野性味あふれる「カタツムリ」と出会ったのは初めてかも!(^^)!まずは「九頭龍社」の社殿に到着して参拝。この社殿の佇まいに、九頭龍が口を開けている姿を感得した。当社の由緒書を撮影。御祭神の「九頭龍大神」の本質とは、天体で一番大きな星座の「うみへび座」であろう。社殿の左横より「戸隠山」の山上に向かって遠望。よく見ると、ここかしこに大小の磐座が鎮座していた。そして末尾の画像は、当社の裏手にある”さざれ石”の大磐座を撮影したものだ。やはり奥社は「磐座祭祀」が基盤と観た。(つづく)
2024年05月29日
以前からの様々な経緯もあって、日本列島の”扇の要”たる《富士山》の山麓を訪ねた翌朝は、JR岐阜羽島駅でレンタカーを借り、戸隠神社の祭神「天思兼命(アメノオモイカネノミコト)」(以降は「オモイカネ」と表記)に想いを馳せつつ、戸隠神社(長野県長野市)に近い旅館に一泊し、翌朝に「戸隠神社(奥社)」へ参拝する予定であった。高速で”岐阜羽島IC”から”長野IC”に向かう道中の”園原IC”を降りてすぐに、その「オモイカネ」を祀る神社の”総本社”があることから、まずは長野県下伊那郡阿智村に鎮座する同神を祀る主要三社を巡拝することにした。そこで冒頭画像の地図は、阿智村の智里から駒場にかけて鎮座する三社(三社は共に”延喜式内社”)を図示したものである。(※今回の巡拝ルートは「阿智神社(奥宮)」⇒「阿智神社(前宮)」⇒「安布知神社」)ここで興味深いのは、上の地図に示した阿智神社の「奥宮」と「前宮」を結んだ軸線が形成する「冬至の日の出」の方位線である。この”冬至の方位線”は、かねてより研究者にも指摘されてきたが、今回改めて地図上に線を引く過程で分かったことは、その二社を結んだ方位線の両端から、ほぼ等距離となる前後二本の延長線(点線で図示)の先に、二つの山頂が見出せたことだ。紀元十世紀頃まで、この阿智村の智里地区は、五畿七道の「東山道」において美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)を往来する交通の要所であったとされ、古代より当地域を治めた「オモイカネ(アチヒコ)」を祖神とする阿智氏に重要視された地所だったということを、この「冬至の日の出方位」を基準にした鎮座地の精緻な選定から読み取ることができる。数ある日本神話の中でも著名な”天岩戸神話”の物語において、阿智神社の主祭神「オモイカネ」は、天照大神が「天岩戸」にお隠れになった時に、〔岩戸神楽〕を創案して「岩戸」を開くきっかけを作った神とされている。そして、その〔岩戸神楽〕の究極は、最終演目が「冬至の日の出(アマテラス)」を寿ぐ俳優(わざおぎ)であり、そこに「オモイカネ」を祀る阿智神社の〈奥宮〉と〈前宮〉とを結ぶ「冬至の日の出を示す方位線」が重なってくるというわけだ。つまり「冬至の日の出」を寿ぐ「オモイカネ」を祭司長とする祭祀が原点にあって、それが神話物語として”記紀”に綴られた内容が「天岩戸神話」と解釈できるというわけで、実に興味深いところである。※関連記事・・・列島「中央」への探訪(4)さて、上に並べた二枚の画像は、「阿智神社(奥宮)」の高台にある「冬至の日の出」の方向を指し示す磐座を撮影したものと、その磐座の解説版を撮影したものだ。そして下の画像は、当社の鳥居前に掲載された分かり易い解説版を撮影したものである。この阿智村に鎮座の「オモイカネ」を祀る「阿智神社」に参拝したのは今回で五回目となったわけだが、その足で長野市に鎮座する(阿智神社とも縁の深い)「戸隠神社」に参拝する流れをいただいたのは、今回が初めてであった。当日の宿泊施設は”朝食付き”の一泊予約のため、夕食は想定していなかったが、当宿が”戸隠そば”をメインとする食堂も兼ねていたことを思い出し、道中で夕食が注文できるかどうかを打診してみると、夕食の注文は宿に到着してからでも大丈夫だと言われ、宿に到着し注文した夕食を撮影した画像が上である。”戸隠そば”が主役の天ぷら定食に〈岩魚の刺身〉を付け、この時期にしか飲めない地酒が並んでおり、贅沢な一時を堪能することができた。食後は調子に乗って…”そば焼酎”を”そば湯”で割って部屋飲みをしたい…と、仲居さんに頼み実現したお膳を撮影した画像が下である。明日の「戸隠神社(奥社)」への参拝に向け、お陰様の英気を養うことができたのであった。(つづく)
2024年05月28日
上の画像の地図は、以下の関連記事の冒頭画像でも示したが、《富士山》を「扇の要」とする言わば”陽”の扇型と、【日本の重心】を「扇の要」とする言わば”陰”の扇型と、〈本州〉を基盤に見出せた日本列島における陰陽二種類の扇型の”和合”を想定した場合、その”陰陽和合”の中心核として見出せた長野県の《戸隠山》を中心に図示したものである。※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)先月の4月頃から、妙に《戸隠山》が気になりだし、様々な経緯から上の関連記事をあげることになった。そして、これも必然であろう・・・5月初旬に《富士山》の麓に行く機会を得たことから、《戸隠山》の麓に行く流れをいただいたのであった。おそらくその背景には、《戸隠山》と《富士山》を直線で結んだ”シリウス方位”(上の地図を参照すると、《戸隠山》から《富士山》を見遣る方向で、真南から東へ約20度の傾きがある方位)を見出せたことが、深く関係していたと感じている。(この”シリウス方位”については、当連載にて後述)ということで、5月の後半に《富士山》の北麓に鎮座する「北口本宮冨士浅間神社」、その翌々日の早朝には《戸隠山》の南麓に鎮座する「戸隠神社(奥社)」へと、奇しくも上記の”シリウス方位”を体感すべく、両社への参拝を許されたのであった。そこで下の画像は、今回の旅路で富士五湖の河口湖畔から見た秀麗な「富士山」である。山頂部に少し雲がかかってはいたが、当日では一番の御姿であった。そういえば、かつて一度だけではあるが「富士山」に登ったことがあった。その思い出の過去記事や「富士山」にまつわる関連記事を、以下に掲載しておこう。(つづく)※過去記事・・・富士登山ベストショット※過去記事・・・富士登山の総括※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(上)※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(中)※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(下)
2024年05月27日
さて冒頭画像の地図に示したオレンジ色の軸線は、これまでの連載で綴ってきた紀元前三世紀頃の「イチキシマヒメ(初代ウサツヒメ・セオリツヒメ)」が移住したと思われる主な三つの御山を中心とする拠点を、「御許山 ⇒連載の(2)」ー「大土山 ⇒連載の(3)」ー「弥山 ⇒連載の(1)」と時系列で示したものである。そこで、その”三つの御山”を直線で結んだものが”三点一直線”になるわけだが・・・では何故、この西南から東北へと精度の高い〔斜め45度の方位線〕が、”三つの御山”の山頂部にある〔磐座〕を意図的に一直線で結んだかのように形成されるのだろうか・・・という素朴な疑問が、この連載を書く過程において常に心中に渦巻いていた。すると不思議なことに・・・《「大土山」は今から約5,000年前の”高天原”だった‼》・・・という、私的に信頼できる有力情報が入ってきたのであった。これに触発され、「御許山」の山頂にある”三柱石”は、精密な天体観測と地文測量により紀元前2,250年頃(今から約4,274年前)に設営された可能性を指摘する書籍(以下に紹介)を思い出したのであった。◎参考書籍・・・書名『 縄文の星と祭り 』 堀田総八郎 著・中央アート出版社 (初版1997年)さらに加えて、「弥山」を山頂とする「宮島(厳島)」は、紀元前3,000年頃(今から約5,000年前)の天体「シリウス」が地上へ投影された聖地だったと説く書籍(以下に紹介)を思い出したのである。◎参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社 (初版2004年)ここまでくると、私の心中には…古代の離れた地域の人々が相互に情報を交換するイメージ…が浮かんできて・・・今から約5,000前には既にあったであろう各地域の、主要な祭祀場の要とされた山上の「磐座」を基点とする”古代縄文の〈光通信〉ネットワーク”(※)が観えてくるのであった。(※)岩面を磨いた”鏡岩”により太陽光や月光を反射させて、例えばその反射光を”モールス信号”のように利用し、離れた土地に住む人々と情報交換ができるようにした光通信網のこと。それは例えば、これまで取り上げてきた”大分県東部から広島県西部にかけての地域”は、歴史を遡るとさらに広い範囲の”東九州から西中国にかけての地域”を「豊国(とよのくに)」と呼んだとする「宇佐家(菟狭族)」の伝承があることから、もしかすると今回取り上げた〔西南の「御許山」から東北の「大土山」までの”磐座”を結ぶ方位線〕は、豊前国と安芸国の両国を結んでいた”屋台骨となる軸線”であり、さらにはもっと古く範囲の広い”縄文期の「豊国」”を安寧に治めるための、とても重要な〔中心軸〕ではなかったか・・・。縄文系譜の「磐座」の存在する各地域の拠点(上記の”三つの御山”)を結ぶ「軸線」を、おそらくは”なぞる”ようにして移動・移住していったのが、往時の「イチキシマヒメ」の御一行であり、そして「イチキシマヒメ」の終焉の地となった聖地が、三つの磐座を結ぶ方位線上の宮島の「弥山」であったと伝承されている。(連載終了)〔 追 伸 〕冒頭地図に”「空海」にまつわる東西軸”ということで、「空海」が名付けた宮島の「弥山」を貫く東西軸を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(下)また、同様に”山口と九州を貫く南北軸”ということで、「御許山」を南北に貫く軸線を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「弥生」から『縄文』への意識転換(上)…山口と九州を貫く南北軸…
2024年05月16日
さて、またもや場面は変わり、冒頭の画像は広島県安芸高田市向原町の「大土山(おおづつやま)」の山上にある「天岩座(あまのいわくら)」(前面の鳥居奥に座する大磐座)を撮影したものである。そして下の画像は、冒頭画像に映る御神体たる大磐座に近づき、その正面から全体を撮影したものだ。実はこの度の「弥山」への登山の前日に、おそらく今回で五回目となる「大土山」の大磐座を訪ねていた。山上とはいえ、なだらかな丘陵地に息づくこの磐座は、高さが約4mで周囲は約30mもあり、古代祭祀場としての佇まいを含めて、その威風堂々とした貫禄には訪れるたびに圧倒され、また大いに癒されている。興味深いことに、この「天岩座」という磐座を中心とする「大土山」の周辺には、この連載で取り上げてきた「イチキシマヒメ」や「安芸の宮島」と結びつく伝承があることだ。その伝承を知ることになったのは、この「天岩座」を初めて訪れた際、たまたま当地の管理団体に所属する御方との出会いがあり、意気投合して会話も弾んだからであろう、以下に紹介する二冊の本を進呈される運びとなったのであった。※書籍「 真説 日本の始まり 」栗原 基 著作・講談社/初版1969年※冊子「大土山 天の岩座 顕彰趣意書」奉賛会発行(1982年)この書籍には、画像に映る「天岩座」をはじめとして、当地を含む「安芸国(広島県西部)」の隠された歴史等が著されており、特に印象に残ったのは「イチキシマヒメ」の行方であった。(以下に関連事項を当書籍より抜粋・校正して掲載)◎宇佐国で「神武天皇」(以降は「神武」と表記)に嫁いだ「イチキシマヒメ(ウサツヒメ)」は、”神武東征”に随伴し、安芸国の「多家神社」(埃宮)にて、「神武」との間に「御諸別命」を授かった。◎「イチキシマヒメ」の御子が二歳の頃、その御子が「大土山」で行方不明になったので、「イチキシマヒメ」はその行方を求めてさすらううちに、「宮島」の地に落ち着くことになった。◎それから間もなく「イチキシマヒメ」は病気で亡くなり「宮島」に葬られたが、その一年後に「神武」も亡くなったので、「イチキシマヒメ」と同じく「宮島」の「弥山」山上の磐座に葬られたという。※ある伝承には・・・九州から「神武」が攻めてきた。「神武」は即位するまでに、各地で6人が亡くなったが、7人目の「神武」は強かった。・・・とあったので、ここで「神武」という名称については、瀬戸内を含め各地を転戦した東征軍の、陣頭指揮を執る頭領が継承する”襲名”と認識してよさそうである。次に上の画像は、先に紹介した奉賛会の冊子に掲載された写真を転載したものである。「天岩座」の御前での祈願中に撮影されたものであろう。以下、この写真に関する記述を載せておく。・・・ 祝詞奏上中に御神体を顕わし給い 岩座を守護し給うことを御教え給う。・・・ 吾霊視を許され、しばしの間絶句せり。・・・ 岩座を取り巻き給う御神体は 胴廻り四斗樽大にして 体長約90~100mと覚ゆ。・・・ 御龍眼および宝珠が光り輝き写真に現れり。・・・ 御神名 難蛇龍王大神 と尊称し奉る金龍様なり。・・・ 7月15日より7日間の特別祈願第三日目の 朝の祈願中に顕現し給いたり。 ( 昭和57年7月18日 午前11時30分 撮影 ) ※おそらく神主の頭上にある二つの斑点が「龍眼」であり、その左横の小さい斑点が「宝珠」であろう。以上”「イチキシマヒメ」への思慕”と題し、「弥山」(1)→「御許山」(2)→「大土山」(3)という順序で、それぞれの山上にある「磐座」を繋ぐかのように、紀元前三世紀頃に活躍したと思われる「イチキシマヒメ(ウサツヒメ・セオリツヒメ)」の行方を辿ってきた。もうお気付きの方もいると思うのだが、実は「御許山」ー「弥山」ー「大土山」と、西南から東北へと45度の方位線が形成されることから、次回はその”三点一直線”の方位線を基盤に、連関する他の要素も加味しつつ、この連載内容の全体像を論じてみよう。(つづく)
2024年05月13日
さて場面は変わって、大分県宇佐市に鎮座する豊前国一之宮「宇佐神宮」の境内にある遥拝所から、当宮の奥宮(大元神社)が鎮座する「御許山(おもとさん/標高647m)」を展望し撮影したものが上の画像だ。ちなみに、遠方の台形状に見える山容の、向かって左側のピークが「御許山」で、右側のピークが「雲ヶ岳(標高654m)」である。この日記では何度も謳ってきた『山口と九州を貫く南北軸』の軸線上に、この宇佐神宮の神体山である「御許山」が乗り、また山口市は南方の湾岸域から当山を展望することができ、私自身もこれまで十回は登った経験があることから、特別に馴染み深い御山と言える。☆関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編/くくり)古代において、この「御許山」を中心とする「宇佐」の国域を、初代「宇佐津彦(ウサツヒコ)」と初代「宇佐津姫(ウサツヒメ)」が治めていた時期があり、その初代「ウサツヒコ」の別名を「思兼(オモイカネ)命」や「月読(ツクヨミ)命」、そして初代「ウサツヒメ」の別名を「イチキシマヒメ」とする、宇佐氏の伝承があった。重複することになるが、その「宇佐神宮」の大宮司家であった「宇佐氏」の伝承を以下に記しておこう。○古代の宇佐族(兎狭族)は「月読命」を祖神とし、その「月読命」とは、宇佐氏の始祖「タカミムスビ」から八世孫(男系の直系子孫)の「オモイカネ命(思兼命)…記紀神話に登場する”智慧の神”」であり、宇佐氏に”月神の信仰”を持ち込んだ初代「宇佐津彦命」である。○古代ウサ国の首長は、天津暦や天太占を天職としていた”男性シャーマン”をもってする男系族長であり、代々「ウサツヒコノミコト(菟狭津彦命)」を襲名し天職を世襲して、祖神の宇佐大神と族長とは神人一体であり、祖神の象徴である「月」にウサギがいるという太古からの口伝によって、ウサギ(兎)すなわちウサ(菟狭)を氏族の称号として現代に至るまで名乗ってきた。さて上の画像に映る社殿は、当宮の神体山である「御許山」の九合目に鎮座する「大元神社」の、拝殿の全体像を撮影したものだ。ここで「イチキシマヒメ」について宇佐家伝承を参考にすると、この「イチキシマヒメ」は宇佐家の始祖である初代「ウサツヒコ」(≒「オモイカネ」≒「ツクヨミ」)に嫁いで初代「ウサツヒメ」となり、宇佐嶋を根拠地とし「御許山」にて神々を祀り祭事を斎行したとのことである。以上のことから、この「宇佐神宮」を代表する宮司家の宇佐家とは、紀元前三世紀頃に興った家であり、初代「ウサツヒコ」と共に「ウサツヒメ(イチキシマヒメ)」は”宇佐家の始祖”とされている。そこで、紀元前三世紀頃の歴史が描かれた古史古伝や各種伝承等を比較検討の上、その後の「イチキシマヒメ(ウサツヒメ)」の数奇な運命を洞察した資料を参考に、分かりづらい煩雑な枝葉を剪定して太い根幹につながる歴史物語を以下、できるだけ簡略化して披露しておきたい。◎「イチキシマヒメ」が初代「ウサツヒコ」に嫁いだ後、在来勢力の”宇佐族”と新興勢力の”物部族”の武力衝突が起きた。そこで初代「ウサツヒコ」は、勢力の強い”物部族”と和睦し自ら帰順(服従)の意を表すため、”物部族”の長である「ニギハヤヒ」(物部の祖)に、妻の「ウサツヒメ(イチキシマヒメ)」を娶らせた。◎つまり「イチキシマヒメ」は、それまで嫁いでいた宇佐の族長「ウサツヒコ」の元を離れ、物部の族長「ニギハヤヒ」に嫁いだことになるのだが、これは当時の風習で友好関係を保つ最高の歓待、忠節を誓う儀礼であった。◎宇佐の族長「ウサツヒコ」の妻だった「イチキシマヒメ」は、物部の族長「ニギハヤヒ(饒速日)」に嫁ぎ、「セオリツヒメ(瀬織津姫)」を名乗ることになったと思われる。つまり「イチキシマヒメ」は、「ウサツヒコ」に嫁いで初代「ウサツヒメ」、次に「ニギハヤヒ」に嫁いで「セオリツヒメ」と呼ばれた。◎この物部の族長「ニギハヤヒ」とは、日本列島の弥生革命を担った大量の中国系渡来人の頭領「徐福(じょふく)」(※)のことであり、出雲では「スサノオ」、丹後では「ホアカリ」という名で呼ばれた。◎そして、この初代物部の「ニギハヤヒ」こそ、記紀の神話物語において後に即位する初代天皇の「神武天皇」であり、紀元前三世紀の宇佐国(大分県北部)において「ニギハヤヒ」と「イチキシマヒメ」が婚姻(政略結婚)を結んだ後に、日本神話では「神武東征」という名目で安芸国(広島県西部)へ東征軍と共に出立したという筋書きになる。(※)「徐福」…紀元前三世紀頃(約2200年前)、「徐福」は”秦の始皇帝”の命で、東方海上の三神山にあるという〔不老不死の仙薬〕を探すために、約三千人の童男童女を引き連れて船出。何日もかけた大航海の末に辿り着いたのが、日本海側の出雲・有明海の佐賀・太平洋側の熊野など日本各地の湾岸域とされている。この「徐福」に関する伝説は列島の各地で伝えられ、数多くの伝承資料が残っており、悠久の時と遼遠の海を越えた歴史ロマンを感じることができる。 拝殿の背後となる「御許山」の山頂には、三つの大きな磐座(三柱石)が並んでいると伝わるが、その磐座群の存在する山頂部は踏み込んではならない「禁足地」とされている。そこで上の画像は、当社の拝殿に上がらせていただき、神額に「奥宮」と記された石鳥居の上方に存在するはずの、ここからは見えない磐座群を遥拝したものだ。実はかつて、”安芸の宮島”の「弥山」を登拝してすぐに、ここ「御許山」に登ったことがあった。その際に不思議な夢(明晰夢)に導かれるようにして登った経緯があり、その記事を書いた日記が以下である。※関連記事・・・台風を追い風に「宇佐神宮」への参拝(つづく)
2024年05月12日
五月のゴーデンウィークが明けた頃、広島県廿日市市の「安芸の宮島」にある「弥山(みせん)」に登る機会を得た。そこで冒頭画像は、その「宮島」の全体像を、高速の”宮島SA(下り)”から撮影したものだ。この島が形成する山並みで、中央部の最も高い山が「弥山(標高535m)」である。この「弥山」に登るのは五回目となるのだが、特に今回は先日の「平家の落人伝説と奄美大島」の連載記事で取り上げた「平家一門」の信仰の礎が、宮島に鎮座する安芸国一之宮「厳島神社(※)」にあったことと深く関係していたように思う。それと同時に、今回の「弥山」への登山で感じたのは、厳島神社の社名「厳島(いつくしま)」が”宗像三女神”の一柱である「市杵島姫(イチキシマヒメ)命」(以降は「イチキシマヒメ」と表記)という神名を語源とした史実を拠りどころとして、紀元前三世紀頃に「宮島(厳島)」を含む各地域で活躍していた「イチキシマヒメ」への思慕であった。…ということで、古史古伝や各種口伝等を参考にしつつ、安芸国(広島県西部)を中心とした「イチキシマヒメ」の行方を追ってみようと思った次第である。(※ちなみに当社の主祭神は、今でこそ”宗像三女神”の三柱となっているが、かつては「市杵島姫命」を単独一柱とする主祭神であった。)次に上の画像は、「弥山」の山上にある展望台から、山頂部の南方に犇めく磐座群を撮影したものである。実はこの山頂に至るまでの道中には、とてつもなく大きな石組みが、それぞれ明確な意味があるかの如く”ここかしこ”に存在していることから、これらの磐座群はおそらく、天体観測や地文測量を目的とした古代人によって、それぞれ意図的に加工され絶妙に配置されたのであろうと私には思えるのであった。そして紀元前三世紀頃に、この宮島にて晩年を過ごし最期を迎えたとされる「イチキシマヒメ」については、その墳墓が未だ島内に確認されてはいないが、この山上の磐座に葬ったという伝承が残されている。登山とはいえ毎回ロープウェイを利用し、山頂まで約30分の徒歩ということで、普通の登山と比べれば足取りは軽い。弥山の山上に累々と鎮座する磐座群をじっくりと堪能し、最終便で無事に下山することができた。たまたま御神前は干潮の時間帯だったので乾いた砂浜を歩き、”世界遺産”となった「厳島神社」の〈メインシンボル〉である「鳥居」を撮影したものが上の画像である。夕日に映えた美しき鳥居の姿は、在りし日の気品あふれる「イチキシマヒメ」の御姿と重なるのであった。(つづく)
2024年05月12日
今年の「節分」から「立春」にかけて〔日本列島”岩戸開き”の様相〕と題し、以下にリンクした二編の関連記事を書いた。その後も連関する”気づき”なり展開があったので、(後日談)を書くことにした次第である。まず冒頭画像で取り上げた地図は、以下の関連記事(下)の冒頭画像の地図に、”ある調整”を加えたものだ。その”調整”とは、地図上の〔青の舞扇〕は「禄剛崎(ろっこうざき)」(能登半島の東北端)を便宜上の「日本の重心」として線を引いたわけだが(この件は以下の関連記事(上)でも少し解説を加えた)、その後になって〔国土地理院〕が認定した《正確な日本の重心点(富山県沖の日本海の海底)》を”扇の要”とする〔青の舞扇〕を描いてみたということである。そこで自身の脳裏に閃いたビジョンは、その本来の「日本の重心」を”扇の要”とする〔青の舞扇〕と、「富士山」を”扇の要”とする〔赤の舞扇〕との、言わば〈陰陽の関係〉が形成する【統合の中心】が見出せるはずだという着想であった。※関連記事⇒令和6年2月3日の日記…日本列島”岩戸開き”の様相(上)※関連記事⇒令和6年2月4日の日記…日本列島”岩戸開き”の様相(下)そんな着想から【統合の中心】として見出せた場所が、あの日本神話の”岩戸伝説”で有名な【 戸隠山 (とがくしやま)】だったことに気づいたとき、当日記のタイトルを〔日本列島”岩戸開き”の様相〕と決めた私自身が驚嘆したと同時に、腑に落ちたことでもあった。この信濃国(長野県長野市)にある【 戸隠山 (標高 1904m)】の麓には「戸隠神社」が鎮座しており、当社の主祭神は「天八意思兼命(あめのやごころ おもいかねのみこと)」(以降は「思兼命」と表記)である。以下の関連記事では、”八百万の神々”とは”天空に輝く星々”を意味するとの観点から、「天の岩戸神話」における智慧の神「思兼命」の姿を、天体「おうし座」にある一等星「アルデバラン」を含む「ヒアデス星団」と見立て、神話世界の”岩戸閉め”から”岩戸開き”への展開を〔冬の星座〕を舞台として解説している。☆関連記事・・・星神「アメノオモイカネ」に想いを馳せて・・・☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(2-C)上の関連記事における「思兼命」を”天空の星”に見立てた解説も奥が深いのだが、ここでさらに興味深い伝承として、豊前国一宮の「宇佐神宮」(大分県宇佐市に鎮座する全国八幡社の総本宮)の祭祀を斎行する大宮司家「宇佐氏」の初代「宇佐津彦(ウサツヒコ)」が「思兼命」とされていることを取り上げておこう。◎関連記事・・・「三種の御紋」の統合体!!!◎関連記事・・・〔三部神道〕と「三層構造」の関係性より詳しくは上の関連記事に書いてあるのだが、ここで重要なことは、今年の元旦に起きた「能登半島地震」という現象を深読みすると、これまで閉じていた「岩戸」が開いたことを暗示しており、その「手力男命」の剛力により岩戸が飛ばされて落ちた場所が【戸隠山】であったということ・・・。その【戸隠山】を神体山として祭祀する麓の「戸隠神社」の主祭神が「思兼命」であったことの意味するところは大きいのではないかと思うのである。今、その意味の大きさを私なりに感じるのは、ごく最近の情報によると、”日本神話に登場する智慧の神「思兼命」”は”エジプト神話に登場する智慧の神「トート神」”と、”同じ神”だとする認識が共有されつつあることだ。さらにその「トート神(思兼命)」は、エジプトの三大ピラミッドの建設に関わった”アトランティス人”であり、もっとさかのぼれば「アンドロメダ銀河」から太古の地球に飛来した思慮深い”鳥型宇宙人”という情報さえあり、まさにこれまで”岩戸閉め”により隠されてきた情報が、この度の「地震」という”岩戸開き”により、もの凄い勢いで開示される運びになったと、そのように感じる今日この頃である。☆関連記事・・・新年「開けまして」おめでとう!
2024年05月06日
かねてより「奄美大島」に魅力を感じてはいたのだが、さらに”強く”魅かれるようになったのは、”天体の地上投影”という観点から、以下の文献を参考にしつつ、”おうし座の一等星「アルデバラン」”の投影地が地上の「奄美大島」だと、昨年の今頃になって自分なりに比定して後からであった。(冒頭画像の地図参照)※参考文献・・・書名『星空の卑弥呼』(上巻/下巻)榊 晶一郎 著作・星雲社(初版2004年)☆関連記事(A) → 2023年4月25日の日記…「九州本島~琉球諸島」における”天体の地上投影”(上)☆関連記事(B) → 2023年4月25日の日記…「九州本島~沖縄諸島」における”天体の地上投影”(下)次の画像は、上の関連記事(B) で掲載した画像で、おうし座「アルデバラン」の投影地を山口市の「岩屋山」と比定しているが、「アルデバラン」の近郊に広がる「ヒアデス星団」(おうし座の顔の位置にあたる)の広い範囲を想定するとすれば、現在の山口市を流れる椹野川の流域(古くは”吉敷郡”という郡域)を投影地と比定することができよう。いずれにしても、今回が初めてとなった「奄美大島」への渡航には、言わば「拡大バージョン」の九州本島から西南諸島を含む〔アルデバラン領域〕の投影地たる「奄美大島(奄美群島)」と、「縮小バージョン」の山口県域から北部九州を含む〔アルデバラン領域〕の投影地たる「岩屋山(山口市域)」の、おそらくその大小を超えて相互に共通する関係性を見出せるはずだという、私なりの”思い入れ”があったのである。そして「奄美大島」に訪れたことで結果的に浮かび上がってきたのが、「安徳天皇」と護衛の「平家重臣(資盛・有盛・行盛の三卿)」の濃厚な歴史伝承であった。そのことと天体の「アルデバラン」との関係性を、現段階で見出せるものがあるとすれば、「平家」を象徴する軍旗である「赤旗」と「アルデバラン」の和名「赤星」に共通する「赤」ということができよう。一般の歴史において「安徳天皇」といえば、山口県下関の「壇ノ浦」で「二位の尼(平時子)」に抱かれ「三種の神器」と共に入水、これによって源平合戦は終焉したとするわけだが、これまでも述べてきたように、壇ノ浦では平家方が「安徳天皇」の”身代わり”を立て、合戦の終焉を演じた可能性を指摘した。以下の関連記事は、私自身の父方の先祖にまつわる地域(山口県下関市豊浦町宇賀湯玉)の歴史や伝承を私なりにまとめたものだが、その記事の後半に「湯玉」の地域には「安徳天皇の弟の墓」があると記した。そこで上の画像は、この「湯玉」を含む「宇賀」の地区を紹介する”宇賀地区探訪マップ”(下関市役所 発行)の、その部分を掲載したものである。この探訪マップは「奄美大島」から帰った後に入手したものだが、その上部左側の解説が「安徳天皇の弟の墓」についてであり、その場所は「12.」の位置付けとなっている。実はこの度の「奄美大島」における、平家ゆかりの神社参拝が契機となり、かねてより訪れておきたかった「安徳天皇の弟の墓」に参詣したいという思いが湧き上がり、それが実現したのは三月の後半であった。そして不思議なご縁で、この「安徳天皇の弟の墓」を代々守られてきた家系の御方との出会いがあり、上の探訪マップでは決して辿り着けないであろう墓地への道程を詳しく教えていただき、何度か迷いながらも何とか現地へ辿り着けたのであった。これもやはり先祖のお導きであろう・・・。※関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(上)これまでの様々な不思議な経緯と有り難きお導きをいただくかたちで、ようやく辿り着けた墓地にてお参りした後、「安徳天皇弟宮霊」と刻まれた墓石を撮影したものが上の左側の画像で、墓石の風化が懸念され新たに建てられた石碑を撮影したものが上の右側の画像である。この右側の石碑側面には、「平等院担然義嶮居士」(びょうどういんたんぜんぎけんこじ)とあるのだが、このお墓を証明する物証として数百年前から代々受け継がれている位牌に記された戒名が刻まれているということである。また写真には挙げていないが、「安徳天皇弟宮」のお墓の右隣にあるお墓には、”平軍大侍”の墓という伝承があることから、かなり格式の高い武士が護衛していたことが推測されるとのことだ。さて、先述した天皇の”身代わり”説についてであるが、実はこの連載を書いている過程に、「安徳天皇」の”身代わり”となったのは”弟”の「守貞親王」だったとする説を入手した。ちなみに、この異母兄弟の弟となる「守貞親王」は、「安徳天皇」とは一歳しか年が違わず、顔もよく似ていたとのことである。・・・もしかすると「壇ノ浦」で入水したとされる”身代わり”の「守貞親王」は、源氏の追っ手を逃れて落ち延び(あるいは暗黙の了解で助命され)、良港であった宇賀湯玉の奥座敷を安住の地として、重臣の護衛のもとで延命され、終焉の地とされたのかもしれない・・・。この連載記事で先述したように、「安徳天皇」にまつわる伝説が残る場所は全国に200ヶ所以上あるとされ、そのうち「安徳天皇」の御陵墓とされる場所が全国に17ヶ所も伝わっており、しかもこのうち5ヶ所は宮内庁によって正式に「安徳天皇御陵墓参考地」に指定されているということである。(※山口県内では下関市豊田町に「安徳天皇西市御陵墓〈参考地〉」がある。)ちなみに〈参考地〉ではなく、宮内庁により「安徳天皇」の正式な御陵として1889年に決定されたのは、「赤間神宮」(下関市阿弥陀寺町)の境内に存在する「安徳天皇 阿弥陀寺陵」(あんとくてんのう あみだじのみささぎ)である。ところで、実はこの数か月以内に山口県内において、「安徳天皇」や「平家重臣」にゆかりの深いと思われる「平家の末裔」の方々にお会いする機会があった。その方々の中で代表的なお二方を挙げるとすれば、一方の人は長崎県は対馬ご出身の名家の女性で、上記の「安徳天皇御陵墓参考地」に指定されている「佐須陵墓参考地」(対馬市磯原町)を先祖代々守ってきた家系の方で、もう一方の人はご先祖が”平家落人伝説”で有名な徳島県の祖谷(いや)の出身と言われる男性で、自己紹介の際にも「平家の末裔」を名乗られるプロの音楽家であった。このお二方はともに豊かな感性をお持ちの方々で、この現今における歴史的な転換期にお会いできたことを嬉しく、また心強く感じているところである。加えてご参考かたがた、”平家伝説”にまつわる過去の記事を以下にリンクしておく。※関連記事・・・壇ノ浦の因縁※関連記事・・・終りの始まりそして今、山口県人(長州人)の端くれの立場として思うのは、”明治維新”の1868年以降は〔イギリスの財閥系〕が主導し、”第二次世界大戦”の日本降伏(1945年8月)以降は〔アメリカの財閥系〕が主導した、いわば主体性欠如の国「日本」であった。そこで思うのは、今後の日本民族は一人一人が”内側(魂)”から目覚めて行動していく、そのような一大転機を迎えた時流だと感じている。最後に以下の画像は、先祖の地である「宇賀湯玉」の「安徳天皇弟宮」のお墓を参詣する過程において、同地域の「鯖釣山」の海岸域で見出せた《大磐座》を撮影したものだ。今の私には、これからの新しい時代を指し示す「道しるべ」に思えてならない今日この頃である。※関連記事・・・岸壁に屹立する《大磐座》の輝き
2024年04月29日
さて加計呂麻島の生間港から、時間通りに海上タクシーへ乗船でき、無事に奄美大島の古仁屋港へ到着。その古仁屋港の売店で加計呂麻産の塩や黒糖などの各種珍品を購入後、懸案でもあった「御嶽(オダキ/標高196m)」の山頂部に鎮座する「今井大権現神社」(龍郷町安木屋場)を目指し、いわば島の南端から北端に向かって車を走らせた。(その走行距離は約65Kmであった。)そこで冒頭画像は、この連載の(上)でも同様の画像を掲載したが、奄美空港に着陸する前の上空の機内から西方に見えた「御嶽」(画像中央の遠方にある半島に突き出た山岳)を、意識的に撮影したものである。この今井大権現神社の鎮座する「安木屋場(あんきゃば)」は、「安徳天皇」(以降は「安徳帝」と表記)にまつわる伝説が、色濃く残る地域とされている。まずは以下、この地域の伝承を抜粋して記しておこう。・〈今井大権現〉のみなもとは、壇ノ浦の合戦に破れて〔喜界島〕へ落ちのびた平家の遺臣と「安徳帝」にさかのぼる。三位中将「平資盛」を征夷大将軍とする一族郎党三百余人が、まず〔喜界島〕に上陸した。続いて「資盛」の後を追ってきた「有盛」、「行盛」の二将が合流し、壇ノ浦の合戦から17年後の1202年、すぐ近くの〔奄美大島〕を平定した。・〔奄美大島〕の北部で現在の笠利町あたりは、源氏の追手が九州より来襲するとのことから”魔西”と呼ばれるようになった。そのため、この地の守備をまかされた「平有盛」は、現在の〈今井大権現〉の辺りに”船見の砦(とりで)”を築き、源氏の来襲にそなえたという。・そして「安徳帝」の件については、通常の伝説によれば「三種の神器」とともに壇ノ浦の海底に身を投じたことになっている。しかし、安木屋場の「ユタ(西南諸島の霊能力者)」が語る伝説は、全く異なっている。「安徳帝」は平家の落人とともに奄美に辿り着き、龍郷の貴人〈龍家〉の姫とされる「安久里加那(あくりかな)」を妃(きさき)とした。二人が住むことになった龍郷の一角は、〈安ら木屋の場所〉という意味から「安木屋場(あんきゃば)」と呼ばれるようになった。その「安徳帝」と「安久里加那」との間に産まれた一子は「今井権太夫」と名乗り、若大将として逞しく育てられた後、今井大権現のある山頂部に館を築いて〔奄美大島〕の守備に一生を捧げた。・その後の「安徳帝」は、平家再興の旗頭として〔硫黄島〕へ上陸した直後に永眠。「三種の神器」のうち「八咫鏡」が、父の「安徳帝」から子の「権太夫」に継承された。しかし「権太夫」は父の死を悲しみ、「八咫鏡」を今井崎に埋めたという。「安徳帝」の落胤でもある「今井権太夫」は死して〈大権現〉と崇められ、平家が信仰した〈厳島弁財天〉も、奄美各地に根付くことになった。当日の午後7時に予定された”ある会合”(※)への参加を前提とし、視界のきく”夕暮れ”までの限られた時間内に、果たして参拝できるかどうか正直のところ不安だったのだが、これは…やはり試されている…と感じつつ、山上の「今井大権現神社」への参拝を決行することにした。そこで上の画像は、山頂部に鎮座する当社へ続く石段の、その入口を撮影したものである。この鳥居から神社の本殿まで、全部で159段からなる段差が高く歩幅も広い石段が続くことは、実は事前情報として予め承知していた。が…しかし、イザその急勾配の参道に踏み込んでみると、その”ゆらぎ”が大きくランダムな石段に足腰は翻弄されてしまうのだが、何故かしばらくすると”ランナーズハイ”の状況に入ったのであろう・・・次第に足の運びも慣れスイスイと難なく登っていけたのには、自分でも驚いたことを憶えている。(※上記の”ある会合”の内容等ついては、諸事象があり今回の連載記事では割愛することにした。)そして以下に並べた画像の数々は、当社への参拝過程を簡単な解説付きで掲載したものである。まず上の画像は、あと少しで山上の当社に到着する参道の、急勾配に配置された石段を撮影したものだ。この二枚については、上の画像は辿り着いた「今井大権現神社」の社殿を正面から撮影したもので、続く下の画像は下方の神額には紺地金文字の「今井大権現」、そして上方の波風板には”日月紋”と思われる紋章や二つの”菊花紋”、そして数々の”雲紋”を確認することができる。そこで上記の各種紋章に加え、当社の年に一度の大祭日が「旧暦9月9日」ということから推察すると、この月日は「重陽の節句」であり「菊の節句」とも称されることから、陽の極数である「9」を二つ重ねて自乗した9×9=〈81〉が、当社と奥深い関係(冒頭に記述した伝承)にあると思われる〔安徳帝〕を特定する天皇の代数〈81〉と、また歴代の〔天皇〕を象徴する「菊花紋章」とも絶妙に重なってくるのであった。この奄美大島の当地に来臨された〔 第81代 安徳天皇 〕は、正に「締めククリ(〆九九理)」の御役として、第81代の《スメラミコト》として光り輝かれ、それまでの”公家社会”から”武家社会”への大転換という大役を担われた天皇陛下ではなかったかと、恐れ多くも今はそのように感じるところである。上の画像の二枚は、当社の神前から参道を降りていく際に撮影したものである。159段の石段とはいえ、なかなかの険しさを漂わせていることを、この画像から汲み取っていただけるであろう。当社入口の鳥居付近に駐車していた車に乗り、少し降ったところにある広場に停車、振り返って「御嶽(オダキ/標高196m)」の山頂方面を撮影した画像が上である。そして下の画像は、同じ広場から西方に沈みゆく雲間に陽光を放つ夕日を、奄美の高原地帯や海原の大自然とともに撮影したものである。この度はじめて訪問した奄美大島は、2泊3日と滞在した時間こそ短かったのではあるが、今まで感じたことのない大自然の営みに心身を委ねることができ、有り難き幸せを噛み締めることのできた時空であった。実は奄美大島から帰宅してからも、”ただならぬ余韻”が続くことになり、つづく「後日談」では、地元の山口県で新たに入手した「安徳帝」にまつわる歴史物語を展開する予定である。乞うご期待!(最下段の画像は、奄美空港から近い「あやまる岬」より、東方に輝く”美ら海”を撮影したものである。)
2024年04月26日
そういえば本日の4月25日は、いわゆる1185年に「源平の戦い」が終焉したとされる月日(旧暦では3月24日)である。そこで冒頭画像は、加計呂麻島と奄美大島を結ぶ船中から、大島海峡の”紺碧の海”を撮影したものだ。今まで見たことのないこの美しき海底には、思わず平家物語で謳われる”竜宮城”を彷彿とさせるものがあった。実は今から約40年前、「安徳天皇」への個人的な思慕により、沖縄の聖なる島の「久高島」へ渡ったことがあった。その経緯はやはり、”安徳天皇は生きていた”とする「平家の落人伝説」で、参考にした書籍はもう手元にはないが、その”あらすじ”を憶えている範囲で以下に記しておく。・下関の壇ノ浦で入水し崩御したとされる安徳天皇は、実は合戦の前に”身代わり”が立てられており、本物の安徳天皇は家来に守られ鹿児島の硫黄島に移り住み、同島に永住した。・天皇の晩年において、娘に琉球王族との婚儀が成立し、「三種の神器」の”勾玉”を娘に渡した。婚儀のため沖縄に赴いた娘は、その直前に破談となったため、落胆して久高島で入水する前に、”勾玉”を島内のある場所に埋めた。・それが昭和の時代となり、神眼の開いた人の手によって掘り出され、ご託宣により昭和天皇のお后である香淳皇后のお手元に届けられた。いずれにしても、以上の記述内容がキッカケとなり、沖縄の聖なる島「久高島」に渡ったのであった。・・・もしかすると…その皇位継承の”勾玉”には〔おおいなるもの〕が宿っていたのかもしれない・・・さて前回からの続きとなるが、加計呂麻島の「生間港」より峠越えを含む約15分の徒歩で、平資盛(すけもり)を祀る「大屯(おおちょん)神社」に辿り着いた。そこで上の画像は、入口にある鳥居から当社の佇まいを撮影したものである。次に上に掲げた2枚の画像は、撮影した当社の本殿と由来書きを上下に並べたものだ。そして下の画像は、上の由来書きに記された資盛の墓碑(中央の石碑)を撮影したものである。この上の画像に映る看板は、当社の出入口に掲げてあった”紙の仮面をかぶって踊るユニークな芝居”とされる「諸鈍シバヤ」(国の重要無形民俗文化財)の解説である。奄美大島を統治した資盛を統領とする平家三卿の、往時は最大の拠点であった加計呂麻島の”諸鈍”にて、おそらくいかにして在来の島民たちと和合していくかということも含め編み出された村芝居・・・その伝統芸能が約800年も続いてきたことは、平家三卿による平和な治世を現代に伝えているといえるだろう。少し時間があったので、海岸べり近くの「諸鈍長浜公園」を歩いていると、その場所が松竹映画”寅さんシリーズ”第48作の『 男はつらいよ 寅次郎紅の花 』のロケ地だったことを、たまたま現地を通りがかったことで初めて知ったのであった。山田洋次監督が寅さんと加計呂麻島に寄せた思いを綴った記念碑を、海沿いのデイゴ並木と共に撮影したものが上の画像で、その記念碑の文章が読めるよう拡大したものが下の画像だ。そして最後は、加計呂麻島は諸鈍長浜の、抜群に美しい空と海である。(つづく)
2024年04月25日
先月の三月初旬、初めて「奄美大島」に渡る機会を得た。そこで冒頭画像は、福岡空港から奄美空港に向け渡航する際、飛行機の窓越しから撮影した”雲海”である。久しぶりに搭乗した機中で、期せずして遭遇した一面の雲海に、感慨一入だったことを憶えている。さて、本日のタイトル冒頭に「平家の落人伝説」と書いた。実はこの度の奄美訪問については”別の目的”があったのだが、自ら名乗ることは無いにしても「平家の末裔」を自覚する私としては、今回の旅路で奄美群島に色濃く残る「平家の落人伝説」を如実に体感したことから、後日談を含めて当タイトルで綴ることにした次第である。ここで「平家の落人伝説」とは、源平合戦で敗れた平家の将兵が落ち延びて土着した、あるいは追討軍と戦って悲運の最期を遂げたといった内容だ。(※しかし驚くことなかれ…その平家落人伝説が今に残る地所は、全国に200以上あるとされる。)一般に学校で習う歴史教科書によると、第81代「安徳天皇」は1185年の「壇ノ浦の戦い」(山口県下関市)で崩御されたことになっているのだが、興味深いことに”奄美大島の伝承”によると、「安徳天皇」は平家の船団に擁されて南海の「硫黄島」(薩南諸島の北部に位置する島)に生き延びたとされている。その後、「喜界島」(奄美群島の東北部に位置し、奄美大島の東方沖の約20㎞にある島)に集結した軍団は、三年間にわたり「奄美大島」の様子をうかがった後、「壇ノ浦の戦い」から約17年後の1202年、平 資盛(すけもり)・有盛(ありもり)・行盛(ゆきもり)の三卿は「奄美大島」を三方から一挙に攻め、完全に平定したとのことである。その後、三卿は奄美大島を三分して統治し、資盛は「加計呂麻(カケロマ)島」(奄美大島から大島海峡を隔ててすぐの、南隣にある島)の諸鈍に居城を構えて全軍を総管し、有盛は浦上に居城を構えて北部を警備し、行盛は戸口に居城を構えて東南を警備した。その居城のあった三つの地域には、資盛を祀った「大屯(オーチョン)神社」・「有盛神社」・「行盛神社」がそれぞれ鎮座し、現在も各地域の村人達により祭られている。そこで上の画像は、奄美空港に近い上空の機内から西側方面を撮影したもので、左側から画像中央に向かう半島の先端に見える山の「御嶽(オダキ/標高194m)」が、伝承によれば古代より奄美大島における「ユタ」(奄美群島や沖縄諸島を含む西南諸島における民間の霊能力者のこと)の聖地であり、「安徳天皇」にまつわる”平家伝説”が色濃く残る聖地でもある。(※当山に伝承される”平家伝説”は後段にて解説。)今回の旅路では、奄美空港に到着後にレンタカーを借り、最初に向かったのは「加計呂麻島」であった。冒頭の記述では、「加計呂麻島」に平資盛を祀る大屯神社が鎮座すると記した。当社が島内の何処に鎮座するかについては事前に確認していたのではあるが、当日は加計呂麻島に渡る船が大島西南の「古仁屋港」から出航する直前に到着し、急いで切符を購入したものの、同島に二つある…どちらの港…に到着するかを確認せずに乗船したのであった。(※反芻すると、ここまで行き当たりバッタリの旅程は、今までの経験では有り得ない所業であった。)そして図らずも到着した港は、加計呂麻島の東南部にある「生間港」だったのだが、あろうことか当港への着岸直後に、少し離れた切符発券所の窓口で訪ねた際、もう一方の港へ向かう陸上の交通手段が無いことや、そもそも別の目的で渡海した奄美大島における”ある会合”の集合時間(午後7時)に間に合わせるには、帰りの船で約90分後のチャーター便を利用すれば大丈夫だと解り、結果としてこの「生間港」から限定された時間内に行ける場所は、平資盛を祀った「大屯(オーチョン)神社」しかないことを思い知らされたのであった。・・・これはやはり、完全に導かれている・・・と観念した私は、切符販売の窓口で聞いた「ここから当社まで歩いて約10~15分」との文言を頼りに、小雨の舞い散る道中をテクテクと歩くのであった。(つづく)
2024年04月24日
今月の中旬より北九州の門司港にある喫茶店にて以下の会期で開催されるグループ展へ参加します 私(山本裕一)の展示作品は 三種類の星型形状(五芒星・六芒星・七芒星)を連続的に構成した『 龍 風 』と題する立体造形(一点)です 〔 ※ なお当作品は 4月29日(祝)までの展示となります 〕 ご縁のある皆さんのご来場をお待ちしていますーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 門司港モンパルナス exhibition◎会期 2024年4月15日(月)~5月2日(木) 11:00~17:00(定休/水曜日)☆参加アーティスト・・・計14名◎会場 ティールーム セ ン ガ ク福岡県北九州市門司区東港町2-23(出光美術館裏)
2024年04月13日
ごく最近、とある海岸べりの道路を車で走っていると、岸壁に雄々しくそそり立つ「立柱石(大磐座)」を遠方に視認できたことから、危険を顧みずに近づいて撮影した〈ベストショット〉が冒頭画像である。日中ではあるが、まるで蝋燭に火を灯したかのような景観との遭遇は、実に美しく感動的であった。次に上の画像は、遠方から見た半島の先端に屹立する大磐座(画像の中央部)である。そして以下に続く画像は、この「大磐座(立柱石)」に向かって、近づいていく過程に撮影したものだ。そこで、この大磐座に関する私なりの〔見立て〕は…古代の船舶による航海の安全を確保するため、当地の古代海人族により”海上の道しるべ”として、意図的に加工された標識だったのでは…ということである。標高十mを優に超えた貫禄あふれる磐座に遭遇したのは久しぶりであり、有り難く嬉しい一時であった。
2024年04月01日
つい先日の2月18日、地元の会合で出会った御方の采配により、本当に久しぶりとなる”綿棒工作”の講習会が実現した。(冒頭と末尾の画像)掲載画像のように、小学生の子供から大人まで14名の方々が集われ、共に充実した時間(約2時間)を過ごすことができ、私自身も楽しいひとときに英気を養うことができた。※関連記事・・・立体工作のご案内(綿棒で立体をつくってみよう!)※関連動画・・・〔綿棒工作〕…スケルトン立体をつくって楽しもう!(準備編)ところで、「新暦」では2月24日にして「旧暦」では1月15日となる”満月”を迎えた本日は、実は日本古来の〔正月〕であり、現行暦での呼称では〔旧小正月〕の日取りだ。日本古来の年始とされる本日の〔正月〕に、この記事を掲載できたことを嬉しく思う。※関連記事・・・旧暦の小正月
2024年02月24日
前回の日記の最後に、地図上で《日本の重心》たる「禄剛崎(ろっこうさき)」を見ていると、この岬を「扇の要」とする「舞扇」のイメージが浮かんできたと書いた。その”岩戸”が開いた如くに全開した「舞扇」を地図上に描いたものが、上の地図の”青色の線”で画いた扇状の図形の言わば〔青の舞扇〕である。この舞扇の図形を描くに至った経緯を紐解くと、今回の地震が《日本の重心》に関係すると直感した私が、震源地に近い「禄剛崎」を地図上で俯瞰して観ていた時・・・この”岬”を「扇の要」と見立てた場合に、開いた扇の二本の「親骨」の端は、それぞれ何処に向かうのだろう・・・という思いが浮上したのであった。そういえば、私がこれまでに「舞扇」をイメージして日本地図に大きく描いた例は、(冒頭地図にあるように)「富士山」を”扇の要”とし、一方の端を山口県にある「本州最西端」の「毘沙ノ鼻(びしゃのはな)」、もう一方の端を青森県にある「本州最北端」の「大間崎(おおまさき)」とする”赤色の線”で描いた言わば〔赤の舞扇〕であった。ということで冒頭の話に戻るが、「禄剛崎」を”扇の要”として、上記の〔赤の舞扇〕とは反転した(逆向きの)舞扇を描こうとした時、なぜか〔国土地理院〕が認定する”東西南北”の「本州最先端」の中で残る(私もまだ訪れたことのない)「本州最東端」と「本州最南端」に向けて軸線を引いてみようという思いが湧くのであった。早速、”開いた扇”の一方の端を岩手県にある「本州最東端」の「魹ケ崎(とどがさき)」、もう一方の端を和歌山県にある「本州最南端」の「潮岬(しおのみさき)」として、”要”とした「禄剛崎」から上記の二つの端へ向けて直線を引き、また”要”を中心にこの二つの端をつなぐ円弧を描いた図形が、冒頭地図に描いた〔青の舞扇〕ということだ。そこで、実際にこの図形を描く過程で気づいたのだが、”扇の要”の「禄剛崎」から「本州最東端」までの距離と、同じく「禄剛崎」から「本州最南端」までの距離が、上の地図では”ほぼ等しい距離”だったことから、私的にはイメージ通りの理想的な「舞扇」の形状が描けたという実感があった。そして、もしかすると震源地に近い「扇の要」たる《日本の重心》より、上記の二つの端に向かう言わば”二本の親骨”が、この度の「能登半島地震」という言わば”破壊的創造”の天変地異を経たことで構造的に安定したがゆえに、〔青の舞扇〕として浮かび上がってきたのではあるまいか・・・。つまり、地図上の「赤の舞扇」を支える”二本の親骨”と「青の舞扇」を支える”二本の親骨”の、陰陽合わせた”四本の親骨”が、日本列島の”親島”といえる「本州」の、四方(東西南北)の端を交互にしっかりと支え合うことになり、国民生活の「安寧」を約束する「国土の構造的安定」につながったと感じた次第である。ここで思い返せば、私なりの「真理探究」の道程は、”軸線構成の立体幾何における構造安定化の摸索”と共にあったといっても過言ではない。つまり、軸線(綿棒)の両端をつないで構成する立体は、ほとんどの場合に不安定な構造となるので、これをいかにして崩れないように構造的に安定させるかということが、軸線構成による立体幾何のテーマであり醍醐味でもあるということだ。参考かたがた上に掲載した画像は、全部で18種類ある基本立体(正多面体の5種類と準正多面体の13種類)を、全て同じ長さの軸線(綿棒)だけを用いて、小さい立体から一つづつ〔内部構造を含む全体の構造安定化を実現する〕ということを目標に掲げ、自分なりの探究を初めて16年後の1998年に、基本立体の全ての構造の安定化を具現化した際、これらを一堂に並べて撮影したものである。さて上の画像は、冒頭画像に描いた《日本の重心》たる「禄剛崎」を要とする〔青の舞扇〕と《日本の主峰》たる「富士山」を要とする〔赤の舞扇〕の二つの骨格に、それこそ〈舞姫〉が手に持つ「舞扇」のごとく、双方の色合いに”扇面”を染めたものである。実はこの二つの「舞扇」を地図上に見出せたと同時に、さらに一回り大きな三つ目の「舞扇」が観えてきて、これを地図上に描いたものが上の画像の”緑の線”で示した扇状の図形だ。この言わば〔緑の舞扇〕は、〔赤の舞扇〕を基盤としてさらに角度が広がり、同じ”要”の「富士山」から九州の西南方面に伸ばした”緑色の線”が「親骨」となるわけだが、この伸長した”緑色の線”を拡大し分かりやすくしたものが、冒頭地図の「富士山」と「野間岬(のまみさき)」(鹿児島県南さつま市)を結ぶ軸線である。この「富士山」と「野間岬」を結ぶ”軸線”について知ったのは以下に紹介する書籍だが、著者は『古事記』の神話物語を深読みすることで見出せた「聖軸」(”夏至の日の出”と”冬至の日の入”を示す方位線)と説いている。※参考書籍・・・書名『朝日の直刺す国、夕日の日照る国』・池田 潤 著作(郁朋社 2003年初版)この「富士山」と「野間岬」を結ぶ”聖なる軸線”に強い感銘を受けた私は、この軸線上にある歴史的にも有名な「富士山」・「朝熊山」・「室戸岬」・「足摺岬」・「野間岬」に何度か訪れたことがあり、自身の歴史を洞察する感性を養う上で血と肉となっている。そこで改めて、上の地図に描いた〔緑の舞扇〕を見てみよう。実は今の私にとってこの〔緑の舞扇〕は、”陰の〔青の舞扇〕”と”陽の〔赤の舞扇〕”の、その”陰”と”陽”の舞扇が和合した”統合の象徴”として浮上し、心中に見出せたのではないか感じている。加えて、これらの”陰”と”陽”の舞扇の範囲は”本州”に限定されたかたちであったが、この〔緑の舞扇〕は”四国”や”九州”さらに”北海道”までの、つまり”日本列島”の主な島々を網羅するところが素晴らしい。また、当日記で多用した「舞扇」とは、そもそも〈日本舞踊〉で使用される主に女性の嗜む道具である。ここで想像の翼を広げれば、これまで記してきた私の心中に現れ”日本列島”に浮上してきた、順に赤・青・緑と三種類の「舞扇」を利用することで、それこそ律動する日本の国土において『日本民族のよみがえり』をいざなう新たな”日舞の演目”を創作することもできるであろう。古歌に『日の本は岩戸神楽の昔より 女ならでは世の明けぬ国』とあるように、やはりこの激動の転換期を乗り越え推進していく先導役は”日本の目覚めた女性たち”であろうと、改めて感じ始めた【立春】である。
2024年02月04日
令和6年1月1日 午後4時10分頃、石川県能登半島の北部を震源とするM7.6(震度7)の地震が起きた。この度の地震により被災された皆様へのお見舞い、ならびに被災地の速やかな復興を祈念申し上げる。実は今回の「能登半島地震」が発生した当日は、”本州最西端”の「毘沙ノ鼻(びしゃのはな/山口県下関市)」の近辺を車で周遊していた。そして夕刻を迎えたことから、夕食の買い出しで寄った”道の駅”で放映されていたテレビ報道により、当地震の発生を知ったのであった。そこで冒頭の画像は、当地震の発生時刻の直前(午後4時01分頃)に、上記の”本州最西端”の近辺となる響灘(ひびきなだ)の海岸より、印象的だった西方の夕刻の空を撮影したものだ。(左側の海に浮かぶ島は「蓋井島(ふたおいじま)」)その後、本日に至るまでの約1ヶ月にわたって、今回の地震に関する”心象風景”の様相が広がり、ようやくこの期に及んで自身の内面が治まりをみせたので、心中に浮かぶ記憶の断片として記述することにした。さて上の画像は、今回の「能登半島地震」の発生を契機に浮かんだ図形を、日本列島の中部地方の地図上に、参考情報も加えて描いたものである。実は、この度の「震度7」の地震が起きた震源地を確認した際に思い出したことがあった。それは震源地にほど近い「禄剛崎(ろっこうさき)」という能登半島の先端(上の地図では上方中央部)に位置する”岬”であった。かつて訪れたことのあるこの「禄剛崎」の一帯は景観に優れ、能登半島国定公園の代表的な景勝地とされており、今回改めて”禄剛埼灯台”が存在する岬(高台の公園広場)をネット検索して目に入ったのが、以前現地で見た覚えのある「日本列島ここが中心」の石碑(下の画像)であった。上の地図でも「(日本の重心)禄剛崎」と示したが、調べてみると〔国土地理院〕が認定した正確な日本の重心点は富山県沖の日本海になるため、最も近い陸地となる当地に碑が建てられたということである。いずれにしても現在の心境としては、”宇宙レベル”で《日本の重心》にかけられていた重厚な「封印」が今回の地震により解消され、その背景には「太陽系」が「天の川銀河」の”フォトンベルト”と呼ばれる強い光の領域に入り、その中心を担う恒星「太陽」の発出した強烈な”太陽フレアー”(昨年末に連続的に観測された)の、惑星「地球」に及ぼす影響が引き金になったのではないかと感じている。さて冒頭で今回の「能登半島地震」の発生を”本州最西端”の「毘沙ノ鼻」の近辺で知ったことを記したが、私のなかでは”本州最西端”とくれば「舞扇」を閉じた”親骨”の先端を意味しており、その「扇の要」は「富士山」を意味し、その舞扇の開閉にともなう配置を日本列島の地図上(末尾画像)に描いた経緯は以下の関連記事に詳しい。※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(上)そして「富士山」とくれば、2019年5月に富士山の5合目まで車で周遊した後、当時”南海トラフ”で発生する可能性のある地震に関する啓示を受けていた知人の案内で、伊豆半島は最南端の「石廊崎(いろうざき)」(上の地図では右側下方)へと車を走らせたことを思い出す。この石廊崎にて「大難を小難に転じる祈願」をする際に持参した造形が、以下の関連記事の冒頭に掲載した「立体七角形」であった。そして今年の元旦(早朝)に掲載した画像の造形も、同様に『光』を象徴する「立体七角形」だったことは、自身としてもはや偶然を超えた必然性を感じるところである。※関連記事・・・「富士山」から伊豆半島へ(8)さてここで、上の地図に描いた青色の線の図形に注目していただきたい。この図形は以下に紹介する書籍を参考にしたわけだが、アフリカの〔ドゴン族〕が伝承してきたとされる”おおいぬ座”の一等星「シリウス」を含む4つの星々を、中部地方の4つの地点に投影したものである。◎参考書籍・・・書名『シリウス星と謎の古代空間』・伊東宏之 著(文芸社 2004年初版)上記の書籍を参考にすると、主星「シリウスA」の投影地は「富士山」、その「シリウスA」の伴星(※)である「シリウスB」の投影地は「朝熊山」、「シリウスA」のもう一つの伴星「シリウスC」の投影地は「白山」、さらに「シリウスC」を巡る衛星「ニャントロ」の投影地は、能登国一之宮「氣多大社」(石川県羽咋市)となっている。(※”伴星”とは、”主星”の周囲を巡る”惑星”のこと)☆関連記事・・・「宇佐」と「伊勢」における《冬至の日の出線》の再認識(下)上の関連記事のように、シリウスABCの3つの星については、これまで何度か取り上げてきたが、残る衛星「ニャントロ」とその投影地を取り上げたのは今回が初めてである。それは今回の地震が「能登国」という現在の石川県北部(能登半島)の旧国域で起きた地震であり、一之宮「氣多大社」は古代より能登国を鎮護する最も社格の高い神社であることから記述した次第である。加えて、このアフリカの〔ドゴン族〕が伝承する詳細な”シリウス情報”は、「シリウスC」を巡る衛星「ニャントロ」から、回転する船に乗って地球に降りてきた「ノンモ」という水陸両棲の生物により〔ドゴン族〕へ伝えられたということだ。さらに地図上の「禄剛崎(日本の重心)」を眺めていると、興味深いことにこの岬を〈扇の要〉とする”舞扇”のイメージが、下の画像の「富士山」を〈扇の要〉とする”舞扇”とは反転した(逆向きの)形状として、私の心中に浮上してくるのであった。(つづく)
2024年02月03日
年初の冒頭画像に映る新作『立体七角形』は、その造形の中央部が”開いて”いるところが特徴である。そして末尾の画像は、同じ造形を横から撮影したもので、まるで扇を開いたような目出度い雰囲気だ。2024年(令和6年)は、これまで様々な意味で閉塞状態にあった世の中が、次第に”開放”(情報開示)の度合いが増して、より明るい展望が見出せる時代になることが予想される。※関連記事・・・いよいよ【岩戸開き】の”時”来たり!ひとり一人の心中に潜んでいる、この『立体七角形』の中央部から、《希望の光》が自ずと湧き出てくることを祈念し、通常の文言「明けまして」を「開けまして」に変えて、新年のご挨拶とさせていただく。新年 開けまして おめでとう
2024年01月01日
冒頭画像は、地元の山口市三の宮に鎮座する「仁壁神社(にかべじんじゃ)」にて、2001年2月初旬の”節分・立春大祭”より披露された自作の大玉『高天原(たかあまはら=宇宙)』を撮影したものだ。約2000本の綿棒で組み上げた立体作品で、当社拝殿の天井から吊るされ20年以上経過しているが、この年末も健全に風に揺らいでいた。この仁壁神社は、現在の山口市域でもある「旧 吉敷郡(よしきぐん)」(市内を流れる椹野川流域)の総鎮守であり、山口県東部の旧国名「周防国(すおうのくに)」の”三の宮”である。※関連記事・・・「初詣」に想う※関連記事・・・天空に輝く「星々」と神社に祀られた「神々」との関係性、そして・・・
2023年12月30日
本日 12月22日の《冬至》は、日本神話に綴られた物語の”天の岩戸開き”を象徴する形代として、新作の『立体七角形』(冒頭画像と末尾画像に映る造形)を公開した。この”天の岩戸開き”という神話物語におけるクライマックスは…「天照大神」が岩戸の中にお隠れになっていたために世の中が暗くなっていたのだが、”時”を見計らって用意周到に準備された大きな祭りが執り行われ、いよいよ岩戸が開いて「天照大神」は無事にお出ましになり、世の中が再び明るさを取り戻した…という筋書きだが、その物語の背景には、《冬至》の”日の出”が関係しているという説がある。つまり、「天照大神」という神名は〈太陽〉を意味しており、《冬至》とは日照時間が年間で一番短い日なので、〈太陽〉の力が一番弱っている。しかし、その《冬至》から再び日照時間が長くなることから、例えば”岩戸神楽”で有名な宮崎県の「高千穂」では、今でこそ短縮された祭事が披露されているが、本来は《冬至》前日の”日の入”から祭事が始まり、それから夜間も延々と祭事は続いて斎行され、最後は《冬至》当日の”日の出”に合わせた演目の「天照大神」の”お出ましの舞”で締め括ったというのが古式の祭事だったということである。そして冒頭画像に映る『立体七角形』は、造形の中央部が”開いて”いるところが特徴である。興味深いことに、例えば「三角形」より順に「四角形」から「五角形」へと、それぞれ立体的な角形表現を試みていくと、立体的な「六角形」までは”閉じて”いる(イメージとしては、”折り紙”を切って作った同じ大きさ六枚の正三角形を用意し、それらが円環状に隙間なく並ぶフラットな正六角形を基盤に、それを立体的に表現した造形)のだが、それが「正七角形」の立体的表現からは、造形の「中央部」が(平面図形においても)開かざるを得ない段階となるので、この『立体七角形』の”中央部の開き”を、上記の神話物語における”岩戸開き”に擬えたというわけだ。(※ちなみに平面図形の「正七角形」は、”コンパスと定規”では描けない図形とされている。しかし、「正七角形」を同じ長さの軸線(綿棒)を用い、これを立体的に構成するための”ある法則性”に基づいて組み上げていくと、意外と簡単に具現化することができることから、私的には”二次元の平面図形”と”三次元の立体図形”を比べると、そこにはたった”一次元”の違いではあるけれども《雲泥の差》とも言うべき「次元の壁」を感じるところである。)面白いことに、自身が様々な「七角形」の立体的表現に取り組む過程で、最先端の撮影機器で瞬間的な『光』の振舞いを写したところ、様々な「七芒星」(七角形状の複雑な軌跡)を描くと確認されたことを知り得たためか・・・なぜか『光』という漢字が、私には「七角形状」に観えたのであった。・・・もしかすると、『光』という漢字を最初に描いた人は、それこそ『光』が(冒頭画像に映る)『立体七角形』の形状に視えたのではないか・・・という類推から、これまで閉じられていた”岩戸”が次第に開いていく…つまり閉ざされた”岩戸”の奥から、冬至日の”一陽来復”の『太陽』が”日の出”とともに輝きはじめたビジョンを、私はこの『立体七角形』の形態に垣間見たというわけである。ご参考かたがた、本日《冬至(2023年12月22日)》の「北半球」における”冬至点の瞬間”は〔12時28分〕である。加えて、同日の山口県「山口市」の”日の出”時刻は〔7時17分〕、”日の入”時刻は〔17時09分〕、そして”南中”の時刻は〔12時13分〕となっている。特に今年の《冬至》は、大きな転換の起点になる気配を感じている。一人一人の閉ざされし”心の扉”(岩戸)が、本日を以って自ずと開き、新たな時代へ向かう”希望の「光」”が溢れ出るよう祈念申し上げる。
2023年12月22日
実は、前回記事で紹介の「竹田キリシタン研究所・資料館」に展示されていた、とても気になる文化財があった。そこで、その『INRI石碑 』と称される”キリシタン墓碑”(複製)を撮影した画像が上である。下の画像の解説にあるように、この石碑に刻まれた「INRI」とは、「ユダヤの王ナザレのイエス」という意味で、全国的に見ても類例のない”キリシタン遺物”ということだ。この文化財とその解説を初めて見たとき、記憶の片隅にあった…「INRI」とは「稲荷」のこと…という情報が浮上してきたが、それは”都市伝説”の類だろうということで、それほど気に留めていなかった。しかし、今回の当館への再訪で、改めてこの石碑の前に立ち解説を読んでいると、なぜか…これはやはり、真実ではないか…という思いが湧いてきて、また別の詳しい解説文に目を通したことで、「INRI=稲荷」が〔確信〕となるのであった。そこで以下に、その〔確信〕に至った解説文を転載しておく。・3世紀頃から日本に帰化した朝鮮の秦氏一族が、日本に「景教(ネストリウス派キリスト教)」という名の中国版キリスト教を持ち込んだとする説がある。彼らの目的の一つは、その「景教」を広めるために日本各地に「稲荷神社」を造営することだったという。・その総本山が大分県の「宇佐神宮」と京都の「伏見稲荷」だが、竹田の城下町に40ヶ所以上の稲荷があることもまた、これに関係しているのかもしれない。・また面白いことに、日本に秦氏一族がやってきた頃、日本語では「N」の発音が現在と違って「Na」であったことが記録されている。すなわち当時の日本人は、「INRI」を「INARI」と発音していたことになる。・そのようなこともあって、江戸初期にキリスト教が禁教になってからは、「INRI」を信仰の対象とすることができなくなったため、竹田ではキリシタンが「INARI」として信仰したのではないかという仮説が浮上する。・これに関係するように、竹田市で最も大きい稲荷である「扇森稲荷神社」は、1617年に江戸幕府が禁教令(キリスト教禁止令)を発令した直後に建造されていることも興味深い。以上が、詳しい解説文からの転載(加筆あり)である。ということで、この度の「竹田」を巡り歩いた締め括りのご挨拶ということで、竹田市で最も大きい稲荷(INRI)の「扇森稲荷神社」を参拝し、当社を撮影した画像が上である。さて、ここ「竹田」の市域には、古代にあった”幻の王朝”と伝わる「ウガヤフキアエズ王朝」の《最後の王都》があったと記された『ウエツフミ』という古文献があることをご存知だろうか。そこで以下に紹介するサイトでは、鎌倉幕府の創設者「源頼朝」の庶子にして豊後大友氏の初代当主である「大友能直(おおともよしなお)」が1223年に編纂したとされる『ウエツフミ』という古文献の内容を研究対象とし、「ウガヤフキアエズ王朝」の実在論を展開されているので、当文献に関する基本情報を含む詳細はこのサイトを参考にしていただければと思う。(※当サイトは以下の関連記事の中でも紹介)◎紹介サイト⇒ ウガヤフキアエズ王朝実在論(ウエツフミの研究)ここで紀元前の歴史、とりわけ今から約1万年前までの歴史を考察する上で留意しておきたいことに、今から約7,300年前(紀元前約5,300年前)、南九州の屋久島や種子島の少し西側の海域で発生した《鬼界カルデラの大噴火》という大規模な天変地異がある。この巨大な天変地異によって、南九州はもちろん九州全域に居住していた縄文人たちは九州島から離散する事態となり、再び人間が住めるような状態になるまで、かなり長いスパン(約4,000年)で無人島状態になってしまった模様である。例えば、鹿児島県国分市の「上野原(縄文遺跡)」で、約1万年前から定住生活をしていた縄文の人々は、上記の天変地異の後に青森の「三内丸山(縄文遺跡)」へ移住したことが、近年のDNA鑑定で証明されたとのことだ。以上のことを踏まえると、特に九州域においては紀元前約1,000年前の”弥生時代の始まり”の頃の地層より、朝鮮半島やアジア大陸等から九州に渡来してきた「大陸系弥生人」が、九州の各地に定住して残した”弥生式土器”等の文化財が、なぜ多く出土するのかという歴史的な流れが読み取れる。そのような背景も認識した上で、上記の『ウエツフミ』の記述を読み解くと、現在の大分県域において「ウガヤフキアエズ王朝」の”最初の王都”が成立したのは、紀元前660年頃だったということである。この古文献『ウエツフミ』によると、この王朝は”第74代”まで約800年も継続し、その《最後の王都》が存在した場所が、現在の竹田市内にあったということである。そして、その竹田市域にあった〔フタノボリノ大宮〕を宮殿とする「ウガヤフキアエズ王朝」の《最後の王都》は、およそ”3万人”もの住民が生活していた大都市であったが、紀元2世紀頃の「皇統第12代 景行天皇」の治世に、天皇率いる軍勢により壊滅した歴史が、この『ウエツフミ』には詳しく記述されており、地元の虐げられた子孫は現代になっても惨状を生々しく語り継いでいるとのことだ。この古代に(特に九州の各地域で)起きた殺戮闘争の大事件を、「古事記」や「日本書紀」では《土蜘蛛(※)征伐》と記している。繰り返しとなるが、ここ「竹田」において残酷無慈悲に征伐された《土蜘蛛》とは、「ウガヤフキアエズ王朝」の王都に居住していた約3万人もの住民だったのである。(※)この《土蜘蛛(つちぐも)》とは、一般に上古の日本において大和王権・大王(天皇)に恭順しなかった土着の先住民を示す名称(蔑称)とされている。しかし本来は、竪穴式住居の茅葺(かやぶき)屋根の上から土を被せた「土屋根式住居」と呼ばれるものに住んでいた人たちのことである。それゆえに昆虫の蜘蛛に擬えて「土蜘蛛」のようだと呼ばれたというわけだ。この住居は暖房効果が高まることから、列島の北方から移住してきた縄文人であろうと考えられている。かつて、上にリンクした紹介サイトの『ウエツフミ』の解読内容を頼りに、竹田市に残る「ウガヤフキアエズ王朝」の痕跡を訪ねたことがあった。その時の関連記事は、以下のリンクである。※関連記事・・・ウガヤ朝の故里を訪ねて(1)※関連記事・・・ウガヤ朝の故里を訪ねて(2)そして、「ウガヤフキアエズ王朝」の心の拠りどころであり御神体の山であった「祖母山(そぼさん)」…大分県(豊後大野市・竹田市)と宮崎県(西臼杵郡高千穂町)にまたがる標高1,756mの山で宮崎県の最高峰…に登った時の関連記事が、以下のリンクである。※関連記事・・・「祖母山」へ登る(上)※関連記事・・・「祖母山」へ登る(下)これまで記してきたように、取り上げてきた”クロスポイント”の「竹田」は、「近世」と「古代」と大きく二度にわたって《深い闇》で覆われてきた土地柄であったとは、この記事を書いていて率直に感じたところである。しかし時代は今、その歴史の「闇」に真実の「光」が照射し、自ずと《統合》していく時期を迎えている。現在の私の心中には、なぜか「竹田」をクロスポイントとして、「山口と九州を貫く(冬の)南北軸」(東経131度24分)と「九州を貫く東西軸」(北緯33度)が、地図上で交差したイメージとして浮上し、同時にそれが南天に輝く星座の「南十字星(サザンクロス)」と一体化して観えている。そして、今年の「冬至」(12月22日)において”一陽来復”の蘇った「太陽」が南中した瞬間に、昼間では見えないけれども輝いている「南十字星」と見事に重なり合った姿が、先取りのかたちで観えている。これこそ、『十字架(南十字星)』の中心(クロスポイント)に光り輝く、よみがえった『イエス(冬至の太陽)』の真実の御姿といえよう。今年の「冬至日」が、皆さまにとって素晴らしき”祝福の日”となることを祈念申し上げる。
2023年12月19日
本日の冒頭画像は、大分県の佐伯市内にあるホテルから撮影したもので、前方の海中に浮かぶ島は「大入島(おおにゅうじま)」である。実は前回の日記に書いた”磐座群”を散策した後に、ようやく検索で探し当てたホテルだったわけだが、朝起きて部屋のカーテンを開けると、眼前にこの景観が広がっていたというわけだ。私の中で「大入島」とくれば、九州を横断する北緯33度(東西軸)の東端にある島で、神武伝説など歴史的にも深い伝承があることから、かつて同島に渡ったことがあった。(以下のリンクはその関連記事)※関連記事・・・九州王朝の東の起点へ(1)※関連記事・・・九州王朝の東の起点へ(2)そして、前日の”磐座群”は「山口と九州を貫く南北軸」(東経131度24分)の南北の軸線上に存在しており、当日(2023年11月12日)の朝に「大入島」を目の前にしたことから・・・これは”お導き”だな・・・と感じ、「九州を貫く東西軸」(北緯33度)の東の起点から、この緯度・経度のクロスポイントの地域となる「竹田」(大分県竹田市)へ向かうことにした次第。現在の「竹田市」において、当地域を代表する文化財と言えば…国指定史跡「岡城跡」…であろう。ということで上の画像は、当史跡の入口を撮影したもので、画像の上方に見える石組みは、岡城の玄関たる”大手門跡”の石垣である。そして「岡城」とくれば「荒城の月」(滝廉太郎・作曲)の舞台として有名だが、実は当地のキリシタン時代における隠された歴史が深く絡んでいて、例えばこの大手門に向かう坂道の端(案内石標の後ろ)に延々と続くカマボコ状に加工された石垣(通称”カマボコ石”)は、、スペインの城塞都市「クエンカ」(世界遺産)の大聖堂に向かう坂道の石垣と、見分けがつかないほど酷似しているとのことだ。興味深いことに、その”カマボコ石”を構成する石の中には、いわゆる「十字架」をアレンジした彫物やイエズス会の紋章である” IHS ”を彫ったものまであるので、キリシタンとの関連性を指摘する声が後を絶たないとのことである。そして上の画像は、かつて岡城の”大手門”を支えていた左右の石垣を、城内から撮影したものである。当日は霧にむせぶなか、海抜325mの高台に存在する”岡城跡”は、幽玄な佇まいを醸し出していた。源平の時代から約800年の歴史を誇る岡城跡は断崖絶壁の台地にあって、城郭があった当時を描いた下の画像の絵図にあるように、城内は東西に約600mと長く敷地面積は約100万㎡という広大さであった。そして城内にあって「岡城」に関し詳しく記された立て看板を撮影した画像が上だ。この解説文の中で私的に印象に残ったのは、この岡城を「難攻不落の城」と言わしめた城主の「志賀親次(ちかつぐ)」という人物であった。そこで以下、秀吉の朝鮮出兵により親次が失脚して以降の生涯を、簡明に記しておきたいと思う。親次はキリシタン大名・大友宗麟の孫にして、洗礼名”ドン・パウロ”というキリシタンであり、豊臣秀吉から厚く絶賛されるほどの戦績を誇る城主だったが、主君であった大友氏の改易により親次も所領を失った。その後の親次は、日田(大分県日田市)の代官を務めた後、福島正則・小早川秀秋・細川忠興に仕え、最後は長州藩(現在の山口県)の藩主・毛利輝元に(おそらく軍師として)召し抱えられ95歳で死去、墓は山口県宇部市小野に現存する。(※私も御縁を感じて親次の墓や子孫の居住地を訪ねたことがある。)この志賀氏最後の岡城主・志賀親次の生涯を初めて知ったのは、かつて竹田市を訪れた際、市内にある「竹田キリシタン研究所・資料館」を訪ねたときであった。親次の墓のある宇部市”小野”は、山口市”小郡”と隣接していることから、親次は上記の南北軸と東西軸が交差する中央の「竹田」で大活躍した後、数奇な運命に翻弄されつつも「山口と九州を貫く南北軸」の軸線に沿うかのように北方に向かい、晩年は長州(山口)にて余生を過ごし、そこが終焉の地になった経緯を俯瞰すると、私的にはとても感慨深いものがあった。今回で二度目の訪問となる「日田キリシタン研究所・資料館」の展示物のなかで、特に印象に残ったのは上掲画像に映る「マリア像」であった。それは今思うに、この「マリア像」がとりわけ印象的だったのは、車で移動の際にCDで何度も聞いていた、知人であるAikaさんの歌唱する”カッチーニ”の「アヴェ・マリア」の導きだったと思われる。※以下にAikaさんが歌う「アヴェ・マリア」のYouTube動画をリンク。素晴らしい歌声なので是非。◎AIKA「魔法の声」*アヴェ・マリア*そして、資料館で紹介されていた「キリシタン洞窟礼拝堂」にも足を運び、撮影した画像が以下である。末尾画像の解説文に…伝説では礼拝堂の祭壇には金色のマリア像が置かれていた…と記されているのだが、この洞窟礼拝堂を訪れ現地を散策していた頃には、私の心中には上掲画像の「マリア像」とも相まって、「聖母マリア」の本質たる”おおいぬ座”の一等星「シリウス」が輝き始めていたのであった・・・。
2023年12月18日
先月11月11日の朝、目覚めてすぐに「現地に行ってみよう!」と決めた場所があった。その場所とは、11月の初旬に「山口と九州を貫く南北軸」の軸線上に見出せた「畑倉山(標高846m/宮崎県日向市)」の山頂に近い尾根に存在する”磐座群”のことである。急遽の出立となり、準備を整え車で家を出たのは午前9時を過ぎていた。山口から高速に乗って中国~九州~東九州自動車道を(途中で食事や休み時間を取りながら)乗り継ぎ、〈日向IC〉で下りてからは当山の山頂付近まで続く(離合の難しい狭く荒れた)車道をひたすら走り、現地に到着したのは午後4時頃であった。そして、もし周囲の森林が無ければ展望が抜群と思われる丘陵地に存在する”磐座群”の、おそらくはその入口方面から撮影した画像が冒頭である。そこには一つ一つの岩の角を丸く整え、高さを切り揃えたかのような磐座が累々と連なっていた。次に上の画像は、冒頭画像の右側から磐座群に分け入り、林立する磐座の中央部から北方の斜面に立つ”石柱”を中心に撮影したものだ。事前の検索では、この”石柱は”「北極星」を指標しているという研究家の推考があり、私的にも現地では、この”石柱”が磐座群全体のメイン・シンボルだと感じた。そこで以降(上を含む)4枚の画像は、この中心軸たる”石柱”を取り巻く磐座群に焦点を当てている。この二つ上の画像の”石柱”に近づき、別の角度から撮影した画像が上である。左側の台形状に加工された大岩の上部には、画像でも分かるように明瞭な”切れ込み”が見受けられ、おそらく天体観測用の〔照準〕の類ではないかと思われた。そして、その北天を指し示す”石柱”の右側から真下に回り込み、天空に向かって屹立する〔御柱〕を撮影した画像が上である。実はもう少し離れて、その周囲の磐座も画像に撮り込みたかったのだが、急峻な崖地に設置されているため、この至近距離での撮影が限界であった。その高さは5mを越えていたと思うが、これほどまでに立派で迫力のある”石柱”を見たのは初めてであった。そこで更なる注目ポイントとしては、この”石柱”の先端部に「ペトログリフ(岩刻文字)」が刻まれているところであろう。実に興味深い・・・。次に上の画像は、二枚上の画像(冒頭から三枚目)の左側下方から、一番奥に見える”石柱”を含む三つの磐座を撮影したものだ。この画像を一見すれば分かるように、奥の”石柱”と手前の台形の磐座(先端部に陽光を浴びた二つの岩)は、同じ方向を指し示していることが明確である。さらに真ん中の磐座は、北方へ水平方向に突出し、これまた明確な方向を指し示していた。この画像を見ていると、天体観測や地文測量を職掌とする古代人(宇宙人⁉)が主軸となり、石工技術を駆使する職人達の協力を得て岩石を精細に加工し、例えばこの三つの岩がそれぞれこの角度になるよう意図的かつ正確に配置したのではないかと、私的には現在そのように感じるところである。そして上の画像は、冒頭画像に映る”磐座群”を、反対側の後方から帰り際の午後4時30分頃に撮影したものである。画像でも分かるように、当地に到着したのが夕暮れ間近だったので、この”磐座群”での滞在時間は約30分。短い時間ではあったが、とても充実した磐座散策を堪能することができた。一時は山頂に近づく道中にて、前方の舗装が壊れており車では前進できない事態となり、半ば諦めかけた心境になったのだが、事前に地図上で”磐座群”の位置を詳しく調べていたこともあり、気を取り直して当地を特定できたのは幸運だった。そして車を広い場所で反転して停車、そこから徒歩約20分で”磐座群”に辿り着けたのであった。初めての場所を訪れる際は《事前調査》がいかに大切かを、改めて感じさせられた今回の旅路であった。さて、この”磐座群”から近い展望抜群の丘陵地から、北方の一角を撮影した画像が上である。もし”磐座群”を取り巻く周囲の森林が無ければ、上の画像と同様の展望が広がっていることを考えると、太古よりこの”磐座群”は周辺地域と広範囲で響き合う、いわば〔磐座ネットワーク〕の拠点の一つとして形成されてきたことが窺えよう。ちなみに過去に、この畑倉山の磐座群から、東北方面に直線距離で約8㎞の場所にある「石神山(標高 330m)」の磐座群を探訪した際の記事は以下のリンク。☆関連記事・・・石神山の磐座を体感!加えて、同じく畑倉山の磐座群から、ほぼ真西に直線距離で約6㎞の場所にある「尾鈴山(標高 1,405m)」に登り、尾根筋のピークに堂々と鎮座する磐座群を訪れた際の記事は以下のリンクだ。(※末尾の画像は、上の画像の撮影地から見て西方にある「尾鈴山」を中心に撮影したもの。)☆関連記事・・・日向の「尾鈴山」に登る(一)☆関連記事・・・日向の「尾鈴山」に登る(二)最後に、私が今まで「九州」で散策してきた”磐座群”のなかでも抜群の存在感にあふれ、初めて訪れる方でも現地で分かり易く解説されており、また当地に至る交通の便も良い所在地を一つ挙げるとすれば、佐賀県佐賀市大和町にある「巨石パーク」である。(※以下のリンクは探訪した際の関連記事)ちなみに、この「巨石パーク」の標高200~350mの地点に点在する17基もの巨石群(10m以上の大きさ)は、その麓に鎮座する 肥前国一宮「與止日女神社(よどひめじんじゃ)」の御神体とされている。◎関連記事・・・佐賀の巨石パーク(1)◎関連記事・・・佐賀の巨石パーク(2)◎関連記事・・・佐賀の巨石パーク(3)◎関連記事・・・佐賀の巨石パーク(4)◎関連記事・・・佐賀の巨石パーク(5)この度の大きな地球規模の転換期にあって、日本列島の全域に散在する”磐座群”の形成する〔磐座ネットワーク〕なるものが再び活性化し、この国土に生活する人民と共振・共鳴し、息づく時を迎えたと感じる今日この頃である。
2023年12月16日
昨日(2023年12月2日)の夕刻、久しぶりに「岩屋山(標高約101m)」(山口市秋穂二島)の丘陵地にある「磐座(いわくら)」を訪ねた。その標高約50mの丘陵地には、(私なりの見立てでは)古代人の石工技術により加工された岩々が意図的に配置されており、天体の”おうし座”の一等星「アルデバラン」を含む〔ヒアデス星団〕を構成する星々が、地上に”磐座群”として投影された風情を感じる。その〔ヒアデス星団〕が投影されたと思しき磐座群から少し離れた場所にあって、〈冬の星座〉の筆頭を飾る”ぎょしゃ座”を模したと感じる磐座の「カペラ」(当星座の一等星)の位置(左上の最上部)に、自作の【玉】(金色の構造)を置いて撮影した画像が冒頭である。おそらくこの磐座は、”ぎょしゃ座”が〔横〕に傾いた姿(下に掲載した”星座の模擬画像”を参照)で東北方面より昇る形状を、古代人が巧みに象ったと思われる。上の画像は、当地の緯度・経度にて、今年の「冬の始まり」の月日である10月23日の〈午後9時〉の模擬天体画像で、例えば今から2000年前の〈午後7時〉のシュミレーションは、当地では”ぎょしゃ座”が同様の位置に、このような形状で輝いていたことになる。その”ぎょしゃ座”を象ったと思われる磐座の、左側の最上部に置いた金色の【玉】を、少し斜め上から撮影した画像が上である。この画像を見ると分かるように、岩上には”星”を象徴したような円形に掘られた形跡が、確実に3つから4つは確認することができる。これは「ペトログリフ」(岩刻文字)の一種と言えそうだ。これも私の見立てでは、”ぎょしゃ座”の「カペラ」の周囲に輝く主要な3つの星々を、「円形」で表現したのではないかと推理している。次に、この磐座を右側から巡り、少し斜めの角度から映した画像が上だ。このように、裏側はまるで凹面鏡の如くカッティングされたかのようであり、“冬の始まり”(10月23日頃)の朝日を集光・反射させて、前方の海を挟んだ対岸域の周辺住民に衆知する仕組みになっていたと考えられる。※関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編)※関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編/くくり)※関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編/締めくくり)そして上の画像は、この磐座の反対側を正面から撮影したものだ。画像の方向から見ると、磐座の右上に置いた【玉】の位置により、この一つの岩の表裏が明確に分かると思う。以上のことから、古代よりこの磐座は《冬》の季節において、「夜」は〈冬の星座〉の筆頭を飾る一等星「カペラ」をいただく「ぎょしゃ座」を模した岩としての側面と共に、「昼」は”冬の始まり”を告げる毎年10月23日頃の朝日を反射する鏡岩の役割を担ってきた岩でもあった。当日記では、何度も取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」を『冬の南北軸』と称してきたが、今回の記事を書く過程において、上にリンクした関連記事を改めて読んでみると、まさしくこの磐座は上記のように《冬期》の天体動向が陰陽に抱き合わされ精確に造形された磐座だと再認識することができた。最後に、今回の”道しるべ”となった金色の【玉】の構造(下の画像に大きく映る造形)について、簡単に解説しておこう。この夕陽と共に映る立体造形は、全体としては「フラーレン構造」となっており、サッカーボールでお馴染みの形状にして、基本立体の中では最も「球」に近い構造性を備えている。球状である地球を含む天体と、それに纏わる磐座を語るには、ふさわしい”究極の造形”であった。
2023年12月04日
本日の11月11日、「11」という数が並ぶゾロ目の月日を祝して、金色と銀色に染めた2つの「10角形」の立体造形を並べて映した画像を掲載した。その私的印象は、”金龍”と”銀龍”が共に双方の手に持つ『玉』である。日本の紋章学では、「10角形」の全部で「10」ある頂角の数と、その図形の中心を「1」として数に入れることから、この一つの「立体10角形」を数では「11」を表わす形状と解釈する。・・・ということから「月日」の色合いを、「月」を”銀色”に「日」を”金色”に染め分けて、11月11日のゾロ目の数の並びに、「陰陽」を代表する配色を施したというわけだ。2023年11月11日(土)の本日が、皆様にとって素晴らしい一日となることを祈念申し上げる。
2023年11月11日
そして次に向かったのは、〔舟木石神座〕から車で約20分の〔伊勢ノ森〕であった。もう午後4時を過ぎていたと思うが…何とか日暮れには間に合うだろう…ということでハンドルを握った。この〔伊勢ノ森〕は、地図上に末尾画像の図形を描き終える寸前の、その最後の最後になってようやく見い出せた場所なのだが、《千ヶ峰トライアングル》を構成する三山の”要”は、やはり〔伊勢ノ森〕という淡路島の北方に位置する「常隆寺山」の山頂が相応しいと感じた次第である。その〔伊勢ノ森〕に向かう道中の車道は細く曲がりくねっていて、ナビがあるにもかかわらず何度か道を間違えつつも、なんとか標高515mの山頂近くに鎮座する栗村山「常隆寺」の駐車場に到着した。その駐車場の近くに、当寺の縁起が書かれた立て看板があったので、これを撮影した画像が上である。実はこの寺に向かう道中で、道に迷いながら「早良(さわら)親王の墓」という道標を目にしたのが気になってはいたのだが、この縁起を読んでいると・・・なぜ「桓武天皇」は短期間で”長岡京”から”平安京”へ逃げるように遷都したのか・・・その理由なり背景が判然としてくるのであった。上の画像は、当寺の「鐘楼門」を撮影したもので、その奥に映る建物が栗村山「常隆寺」の本堂である。その本堂の左横を通り抜けたところに鳥居と石段があり、その右横に「奥の院 伊勢ノ森」と記された道標があった。(上の画像)この山頂への道のりは、この石段を上がって緩やかな坂道を登っていけば、およそ5分で到着する。現地を訪ねて改めて確認したのは、当寺境内の”奥之院”として神祠のある山頂部が「伊勢ノ森」ということであった。上の画像のように、山頂には立派な石鳥居と神祠があり、ちょうど参拝する神祠の方向に、沈む夕陽が輝いていたことが印象に残っている。この「伊勢ノ森」の緯度は北緯34度30分28秒で、いわゆる「太陽の道」からは少し外れているのだが、この山頂の神祠は『天照大神』を祀るという伝承があり、また奈良の「大和三山」とほぼ同緯度にあることから、古代より重要な祭祀場だった可能性を指摘する歴史研究家もいるということだ。また、この山頂の〔伊勢の森〕が特別なのは、ここから周囲を眺めれば、播磨や大阪湾岸、小豆島や四国、そして紀州の山々を展望できるところであろう。そこで、この全方位に広がる景観を拡大解釈すれば、ここ「淡路島」をはじめとして「四国」・「隠岐」・「九州」・「壱岐」・「対馬」・「佐渡」・「本州」と、〔古事記〕に記載のある『大八洲国』(おおやしまくに)という日本の島々が、「淡路島」の中心たる〔伊勢の森〕の周囲を取り囲んでいるように感じられる場所ということになろう。おそらく”日本神話”において、特に「淡路島」が”国生みの島”とされたのは、上記の『大八洲国』の地勢が雄弁に物語っており、この全国を展望できる〔伊勢の森〕を中心とした「淡路島」こそ、『大八洲国』を代表する要の島であり、「淡路島」を端緒に日本の島々が生まれたとする深い思い入れが神話物語に綴られたということであろう。それに加えて、この北淡路で最も標高の高い「伊勢ノ森」(標高515m)が、末尾画像の地図に描いた図形のほぼ中心に位置することも、日本神話における”国生み”の世界観と相通じるところがあると感じられ、我が意を得たりの心境となるのであった。時代は今、未曽有の大きな転換期を迎えている。あらゆる物事の抜本的な”建て替え・立て直し”が喫緊の課題とされる中にあって、今回の連載内容が何らかの「手懸り」になることを期待したいところである。
2023年10月24日
さて、今回の旅路では《千ヶ峰トライアングル》に「エフライム章」の図形を統合した地図を参考にしたわけだが、その地図に描いた図形の”中心部”に見出せた二つの聖地(舟木石神座・伊勢ノ森)を探訪することができたので、まずは淡路島北部の山間に鎮座する「石上神社」の境内にある〔舟木石神座〕を紹介しよう。上の画像は、その石上神社の神前から磐座群の中心となる大岩を撮影したものだ。この佇まいを見れば、この大岩を中心とする磐座群が御神体であり、これを祀る拝殿があるという風情である。実は今から10年以上前に、この磐座群を訪れたことがあるのだが、おそらく当時の解説版には”女人禁制”という文言は無かったはず・・・。しかし、この文章を読むと、その理由が今まで知り得なかった内容なので勉強になった。そういえばかつて、解説版にあるように北緯34度32分の「太陽の道」と謳われた東西の緯度線上にある各地を巡ったことがある。東から西へ記すと「神島」→「伊勢斎宮」→「室生寺」→「長谷寺」→「三輪山」→「大鳥神社」→「伊勢久留麻神社」→「石上神社」と。いやいや~~~実に懐かしい・・・。上の画像は、社殿の背後にある大岩の、その裏手に回って撮影したものだ。画像の右側が大岩で、その左側に映る岩が(私の見立てでは)とても興味深い配置になっていた。つまり…大岩(右側)の背後の断面と、平行移動したような間隔を空けて左側の岩の断面を据えようと、その岩(左側)の下に平板な岩を据え、高さを含めた全体のバランスを整えた…と読み取れるのだ。この平行の隙間からは、おそらく東方から昇る太陽の光が様々な角度で透過するので、その観測のための意図的な配置ではなかったか・・・とうかがえた次第である。そして上の画像は、手前にある横に三つの岩を並べた岩組(あるいは一つの岩に三つの縦筋を施した?)と、少し遠方の女性性を象徴する岩組との関係性を撮影したものだ。もしかすると”岩戸”を連想させる遠方の岩組の隙間から、四季折々に東方から昇る朝日が透過し、例えば大地を走る光線を観測するなどして、”二至二分”などの季節の節目を確認するための装置が、前方の横三段の岩組ではなかったか・・・などと、私の妄想の翼は広がるのであった。この〔舟木石上座〕の磐座群は標高約150mの丘陵地にあり、上の画像のように巨石群を含む大小さまざまな岩が、山頂部を取り囲むように整然と犇めいており、”磐座好き”にはたまらない聖地と言えよう。つづく
2023年10月24日
前回の日記では、二種類の〔ユダヤの紋章〕に関して・・・「ダビデ章」の”ズレ”を直して、”正しく”組み替えたものが「エフライム章」・・・という文章を引用した。それでは、なぜ「ダビデ章」が”ズレ”ていて「エフライム章」が”正しい”のか、それを今回は”動態的な立体幾何”に基づく独自の見識で、その解釈を試みてみることにしたい。まず冒頭画像の図形は、前回の日記でも取り上げた「エフライム章」である。実はかねてより私には、この図形は、同じ大きさの二つの正四面体をバランスよく組み合わせた形状(星型8面体)を、”ある角度”から見た形象に観えていた。そこで、”綿棒工作”により拡大解釈して制作(具体的には二本の綿棒を繋いで一辺の長さとする構成の仕方)した「星型8面体」を、上記の”ある角度”から撮影した画像が下である。この上と下の図形を見比べてもらえば分かるように、三角形に多少の歪みがあるとしても、双方の図形が”瓜二つ”の形象に見えることは一目瞭然であろう。実はこの「星型8面体」は、全体的な形態としては「正6面体(サイコロ型)」の形状であり、さらに別の角度から見ると、下の画像のように”6芒星”の「ダビデ章」にも見えるので、この一つの立体構造(星型8面体)には、「エフライム章」と「ダビデ章」と、二種類の〔ユダヤの紋章〕を見出すことができる。それでは、なぜ「エフライム章」が”正しい”形象で、「ダビデ章」が”ズレ”ている形象なのかといえば、それはこの二種類の紋章を孕む「星型8面体」の、〔動的回転〕を前提とした”【軸】の立て方”による区別なのではないかと、今の私は考えている。この上の画像と下の画像は、上記の「星型8面体」(全体的には”正6面体”の構造)に、”回転”を前提とする垂直の【軸】を立てた作品を撮影したものだ。特に下の画像では、構造の中心を【回転軸】が貫く「星型8面体」の全体像を、明確に把握することができるであろう。この上下の画像に映る「星型8面体」という構造は、ここに”中心軸”(回転軸)が立つことで、おそらくこの構造を全体として有効に活用できる、つまり全部で8つある頂点をすべて自由に活かせることから、「エフライム章」の形象こそが”正しい”ということになるのであろう。ところが「ダビデ章」は、”6芒星”の上下の頂点を貫いて【軸】とする、つまり立体的には「星型8面体」の8つの頂点のうち2つの頂点を利用して【軸】とするために、構造としては残りの6つの頂点しか活かせないことから、このような「ダビデ章」の”軸立て”では、〔平面〕でも〔立体〕でも大きく”ズレ”が生じることから、それゆえに別の表現では「外道」ということになるのであろう。以上が”動態的な立体幾何”に基づき洞察を試みた、「エフライム章」と「ダビデ章」の区別に関する私なりの解釈である。そして、いよいよ次回の日記では、末尾画像の地図に描いた《千ヶ峰トライアングル》と「エフライム章」が統合した図形の、その”真ん中”に見出せた二つの聖地(舟木石神座・伊勢ノ森)を紹介しよう。つづく
2023年10月23日
実はこの度の旅路では、久しぶりの嬉しい再会もあったのだが、今回の連載記事は”動態的な立体幾何”に基づく独自の見識を背景に、結果として《千ヶ峰トライアングル》(冒頭画像の地図に描いた三角形)をとらえ直すこととなる、濃厚な現地探訪の解説に焦点を絞りたいと思う。さて、今回の歴史探訪の旅路に出かける前に、実はこの《千ヶ峰トライアングル》に重なるかたちで脳裏に浮かんだ図形があった。(上の画像に映る形象)この図形は書籍『淡路の神秘とエル・エロヘ・イスラエル』(武智時三郎 著)に掲載のものを転載したわけだが、当書籍によれば淡路島(千ヶ峰トライアングルの中央部にある島)の随所で発見された”古代ユダヤ”の遺跡の、その石室の表面の扉に当たるところにこの図形が彫刻されていたとのことである。興味深いことに当書籍では、この図形を「エフライム章」と称し、いわゆる”六芒星”(イスラエルの国旗にも描かれている)でお馴染みの「ダビデ章」との区別なり対比が記されていた。以下は、当書籍からの抜粋と校正である。・・・万物の造化主といえば、日本思想では〔天之御中主(◎)〕と〔高御産霊(△)〕と〔神産霊(▽)〕の三神を指すのであるが、この二つの三角形を〔天神〕に組み合わせたものが「ダビデ章」なのだが、実はこの「ダビデ章」の”ズレ”を直して、正しく〔天・地・人〕に組み替えたものが「エフライム章」(上の図形)である。・・・(※「エフライム章」とは、いわゆる”失われた十支族”の族長とされる「エフライム族」を象徴する紋章のこと。)また別角度の「エフライム」に関する情報を記せば・・・日本神話は「エフライム族」の伝える神話が基となっており、「ニニギ」から「ウガヤフキアエズ」そして「神武天皇」に至る系図は、「ヤコブ」から「エフライム」そして「ヨシュア」に至る系図と酷似しているとのことである。さて、ここで紹介しておきたい絵地図(上の画像)がある。これは《千ヶ峰トライアングル》の三角形を基盤とした”六芒星”(ダビデ章)で描かれたもので、およそ《千ヶ峰トライアングル》の紹介となれば、この絵地図が紹介され流布している。そこで冒頭にも書いたように、今回の旅路を計画するにあたり「エフライム章」が脳裏に浮かんできたことから、《千ヶ峰トライアングル》を基盤にし地図上に「エフライム章」を描いたものが下の画像である。すると、この地図に描いた図形(エフライム章)の中央部にある淡路島の北部に、北緯34度32分の「太陽の道」とも称される緯度線上にある【舟木石神座】。そして上向きの三角形と下向きの三角形を組んだ際に形成される二つのクロスポイントを横線で結び、《千ヶ峰トライアングル》の頂点の「千ヶ峰」と、反転した三角形の頂点を縦線で結んだ交点に、北淡地区にある【伊勢ノ森】(常隆寺山の山頂部の名称で標高515m)が見出せたのには、心底驚き鳥肌が立つのであった。つづく
2023年10月23日
次に向かったのは、「千ヶ峰」の東麓にある”磐座群”であった。事前調査では、その磐座群はとても分かりづらい山深い場所にあるため・・・果たして日没までに辿り着けるだろうか・・・ということで懸命に散策していると、まるで導かれるかのように冒頭画像に映る大磐座に到着することができたのであった。私の見立てによると、この大磐座には前面に大きな断裁が意図的に施されており、その断面が示す方向を方位磁石で確認するなどして推理すると・・・縄文時代の磐座祭祀の形跡を残す遺跡であり、縄文期特有の毎年10月20日頃とされていた“冬の始まり”を、当地域に生活する人々に告げる”鏡岩”の役割を担っていた・・・ということになろう。つまり縄文期において、年間で最も重要な祭祀日だったと思われる10月20日頃、沈む夕陽がこの”鏡岩”たる大磐座の断面に当たり、その限定された時空の特別な反射光が、周辺住民に”冬の始まり”を告げるという仕組みである。ということで、最初に訪れたこの大磐座には、古代人の「太陽」への信仰が感じられた。※関連記事・・・「光の道」のその先に・・・(3)※関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(3)次に見いだせた磐座(上の画像)は、冒頭画像の磐座から北方に約50mのところにあり、見た目ですぐに”三日月”を模した成形とわかるもので、おそらくこの磐座を現地で見ると、だれもが「月」を想起することだろう。ということで、この磐座は古代人の「月」への信仰が感じられたというわけである。この「太陽」と「月」をそれぞれ模ったと思われる二種類の磐座を現地で体感したことで満足した私は、来た道を戻りかけたのだが、その道なりに発見した磐座が、上の画像に映る”スタイル抜群”の岩塊である。この一枚の画像では分かりづらいのだが、画像に映る岩の前面は、完璧なまでに鋭くカッティングされており、おそらく意図的に残された最上部の尖りは、綿密な天体観測の指標になっていたことがうかがえた。上記の自分なりの感得から、この磐座に関しては「星」を感じるのであった。以上のように、言わば「太陽」・「月」・「星」と、おそらくは古代より大切に守られてきた三種類の”磐座巡り”を経て、ふと向かいの山並みに目を遣ると、午前中に登った「千ヶ峰」の山頂部が確認できたのであった。(下の画像)感動を胸に方位磁石で山頂の方位を調べると「真東」と分かり、見てきた磐座群がここに設置された大前提として、この「千ヶ峰」の山頂を拝める場所であることが条件だったと判然とし、感無量の心境に浸るのであった。つづく
2023年10月22日
とあるキッカケから、この十年来の念願だった「千ヶ峰(せんがみね)」登山への想いに火が付き、2023年10月16日の午前中に登頂が実現した。この「千ヶ峰」は、兵庫県多可郡多可町と神崎郡神河町の境界線上にある標高1,005.2 m の山で、中国山地の最東端に位置する北播磨最高峰の山である。そこで冒頭画像は、山頂へ向かう3つの登山コースの内、”市原コース”の登山口に向かう道中で遭遇した素敵な景色だ。朝日の光が道端に林立する杉林を透過し、実に幻想的で清々しい風情を醸し出していた。そこで、なぜ当山への登頂が念願だったかといえば、末尾画像の地図に示したように、《千ヶ峰トライアングル》が示す三山のうち、これまで奈良県吉野郡十津川村にある「玉置山(たまきさん/標高1,076.4m)」と四国は徳島県中央部の最高峰「剣山(つるぎさん/標高1,955m)」は登ったことがあり、上記の「千ヶ峰」だけ(かつて登拝の機会はあったのだが)登っていなかったので、ようやく今回の旅路で約十年の想い入れを果たすべく登頂を達成したというわけだ。ここで《千ヶ峰トライアングル》とは、「千ヶ峰」を頂点として「玉置山」と「剣山」を結ぶ三角形(トライアングル)が、ほぼ等距離の160㎞で見事な”三角形”を形成していることから、現在の地球人類がもたらした危機的状況を脱皮的に革新し、世界をより良い方向に導く”氣場”を象徴した名称とのことである。※参考資料・・・書名『 日本は神の国 』・発行〔千ヶ峰トライアングルの会〕平成9年9月登山口に向かう車道をどんどん登っていき、車は標高約750mにある”市原登山口”(上の画像)へ到着。下調べによると、ここからは山頂までの標高差が約250mで、多少の登り下りはあるにせよ尾根道を辿りながトレッキング感覚で登ることができるコースということであった。身支度を整えて登山口から登り始めたのは午前9時頃だったと思う。もちろん、ウキウキ気分である!(^^)!道中に尾根道の高台に立ち、ふと目を横に遣ると「千ヶ峰」の美しき山容(上の画像)を望むことができた。・・・やはり《千ヶ峰トライアングル》の頂点を司るにふさわしい貫禄である。・・・しばらく歩いていると、さらさらと枯葉の擦れ合う音がして、目の前に現れたのは可愛いヘビの幼体であった。これは山神が遣わした眷属のご挨拶ということで、”吉兆”を感じた次第である。そして尾根道のカーブを登り詰めたところで、右上に見えた「千ヶ峰」の山頂部から、なだらかに南方に伸びるスロープを撮影したものが上の画像だ。やはり惚れ惚れしてしまう抜群のスタイルである。九合目あたりから登りがきつくなったが、その勾配の急な坂道に一輪の”リンドウ”が可憐に花を咲かせていたのが印象に残った。この凛とした綺麗な青紫を見ただけで、これまでの疲れなどは一瞬で吹き飛んでしまうのであった。いよいよ念願であった「千ヶ峰」の山頂に到着!!! そこで秋草の”ススキ”たなびく山頂標識を撮影した画像が上である。達成感に浸りながら立つ山頂は、周囲を360度見渡せる大パノラマの絶景であった。上の画像のように、山頂部にはモフモフの愛らしい芝類の自生する場所があり、一見して思わず笑顔が溢れ癒されるのであった。この上の画像は、北を背にして南方を撮影したもので、おそらくはこの画像の範囲に、向かって左側(東南方面)の約160㎞遠方に「玉置山」、そして向かって右側(西南方面)の同じく約160㎞遠方に「剣山」が存在すると思われる。ここ山頂において、下の地図に描いた《千ヶ峰トライアングル》と、その世界観に浸るのであった。(つづく)
2023年10月21日
・・・ とうとうたらりたらりら たらりあがりららりとう ・・・いよいよ、解放された【 十 (自由)】の時代を象徴する形代が完成した。本日、令和五年十月十日の午前十時十分に公開できたことを嬉しく思う。なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな
2023年10月10日
本日の2023年9月29日(旧暦8月15日)は、”中秋の名月”の日取りである。(18時58分~21時頃が見頃)その今年の《十五夜の満月》をイメージして制作した新作の造形が、本日掲載した画像に映る…題『十五夜の月光』…で、本日の未明に完成した。(菱形12面体と菱形30面体を基盤とする複合立体)今年の「中秋の名月(十五夜)」は満月。「中秋の名月」と満月の日付がずれることは度々起こるそうで、次に中秋の名月と満月の日付が一致するのは7年も先になるとのことだ。今宵の月は、この新作の造形と共に愛でるとしよう・・・。
2023年09月29日
前回の日記では、久しぶりに制作した「菱形30面体」(軸線構成)を撮影した画像とその解説を披露した。そして数日を経たある時、この全体の構造を見透かすことのできる「菱形30面体」を眺めていると、”フト”その内部に「菱形12面体」の配置が浮かんできて、その2種類の【 菱形多面体 】の相互関係が見出せたので、すぐに双方を統合して制作する運びとなり、完成した複合立体を撮影した画像が冒頭である。この2つの【 菱形多面体 】が分かりやすく視認できるよう、画像に映る複合立体の”外部”となる「菱形30面体」の外枠を形成する軸線(60本)を”赤色”に、またその”内部”となる「菱形12面体」の外枠を形成する軸線(24本)を”青色”に塗り分けている。そこで冒頭画像に映る複合立体については、末尾画像の最下段にある絵図の”奥”にあるはずの《 正4面体 》を、実は敢えて具現化しないで公開することにした。というのは・・・もし関心のある方は、直下の画像に映る6本の軸線を6色に塗り分けて組んだ《 正4面体 》を3つの角度から撮影した3枚を素材に、自身の想像力を駆使した《 正4面体 》を複合立体の”真ん中”にイメージングして、言わば”三位一体”からなる複合立体を各自の心中に落とし込んでみてはいかがであろう・・・という目論見である。ちなみにこの《 正4面体 》は、数ある立体のなかで最も単純にして明快な形状だが、まさに”コレに始まり、コレに終わる”と言えるカタチの『大元』であり、宇宙の根源的情報を孕んでいる重要な立体である。それゆえに、”真ん中”にある《 正4面体 》が本格的に律動することで、その外側にある「菱形12面体」から「菱形30面体」へと連動して響き合い、全体として共振・活性する道理になっているというわけだ。※《 正4面体 》に係わる関連記事・・・『6』の仕組み思い返せば、本日の冒頭画像で公開した”【 菱形多面体 】の複合立体”は、先月の8月7日の日記や8月19日の日記に掲載した画像に映る造形の、その規格が絶妙に改変した構成により完成に至った”普遍的構造”となっている。この期に及んで、予定調和的に当作品を構築することができ、加えて2023年の〔秋分の日〕に公開できた歓びを噛み締めている。
2023年09月23日
思い返せば2003年の冬、今から約9500年前(縄文早期)の定住跡が発見されたという鹿児島県国分市の高台にある「上野原縄文遺跡」(鹿児島県上野原縄文の森)を初めて訪れた時があった。当時まだ建設されたばかりの、当遺跡から出土した文化財を陳列した展示場において、とりわけ私の目を引いたのは、南九州の縄文土器の主流とされる、表面を貝殻で描いた”貝紋土器”であった。展示場での解説では、土器の口は「丸型・四角型・レモン型」の3種類が基本とされており、そのなかでも特に「レモン型」の貝紋土器に目が釘付けとなったのであった。その土器開口部の”菱形”に丸みを持たせたようにも思える形状の「レモン型」に触発され、結果として《 菱形30面体 》(掲載画像の3枚)の構成表現に結実したのだと、今はそのように感じている。※関連記事・・・遺跡巡りの果てにたどり着いた「美しき構造」について実は今から約20年前の当遺跡を訪問する直前は、この《 菱形30面体 》の内部構造を含む全体の構成を、同じ長さの軸線(素材は綿棒)だけで構成するにはどうすればよいかという命題を自分に掲げ、まさに”手探り”の摸索段階であった。それが当時において、上記の上野原遺跡を締め括りとする列島各地の「縄文の遺跡巡り」を終え、言わばその歴史を遡る長い旅路から帰宅してすぐに、懸案であった《 菱形30面体 》の”等辺”による軸線構成が完成したことから、上記の関連記事が約18年綴ってきた当日記を始める初発となったのであった。ところで今回、久しぶりに制作(2023年8月25日)した掲載画像に映る《 菱形30面体 》の軸線構成は、例えば内部の構成において”綿棒”の軸を交差する際に自ずと生じる”ズレ”を、最小限にするための徹底した工夫を凝らしており、これまでの構成技法と比べて本質的かつ普遍的な造形表現となった。冒頭でも触れたが、掲載画像の3枚は同じ《 菱形30面体 》を3つの角度から撮影したものだ。一見すると、それぞれ違う作品を撮影した画像と思われがちだが、紛れもなく同一作品を映したものである。この一番外側の枠組構成が「菱形(黄金比)」の計30面により覆われた《 菱形30面体 》の”大きな特徴”は、その内部の軸線構成に同じ規格の「菱形」が連続的に犇(ひし)めきあっているところであり、その連続する菱形が明快に確認できるよう撮影した画像が、「上・中・下」の「中」の画像である。ちなみに、この《 菱形30面体 》の別称に『 6次元立方体 』がある。それはつまり…6次元空間の立方体を3次元空間に射影したもの…という学術的解釈になるのだが、要するに3次元の立方体(サイコロ型の形状)に、さらに3次元の方向性を加えて、言わば架空の6次元空間からなる立方体を類推した構造が《 菱形30面体 》ということになろう。ここでは最後に、画像の『 6次元立方体 』を通して「3次元立方体」との関連性を類推する”認識の次元転換”に馴染むことで、いわゆる『 6次元 』の観点を自分なりに体得できる可能性を指摘しておきたい。※関連記事・・・次元の投影※関連記事・・・軸線構成による新作「菱形30面体」の披露
2023年08月27日
前回の日記を書いた後、その「三層構造」から成る”統合体”(本日の末尾画像)を構成する三種類の”立体”と”平面”の互換性を俯瞰していると、かつて当日記でも何度か取り上げた〔三部神道〕(さんぶしんとう・日本の史書であり神道の神典とされる『先代旧事本紀』より…※以下に関連記事)との関連性が私なりに読み取れたことから、現時点での”覚書”ということで今回の日記を綴ることにした。※関連記事・・・〔三部神道〕とは・・・そこで下に掲載する「立体構造」と「平面図形」を関連付けた三つの画像は、前回日記の下方に掲載した「三種の御紋」の立体的解釈による「三層構造」を、「表…第三層」・「裏…第二層」・「奥…第一層」と三つに分割したものだ。つまり、「三種の御紋」の「三層構造(統合体)」を三分割して掲載することで、上記の〔三部神道〕…「宗源」・「斎元」・「霊宗」の”三部”からなる神道の、それぞれの相互関係が汲み取りやすいと考えた次第である。さて、その〔三部神道〕に関しては、上の関連記事を参照していただくとして、ここからは”統合体”(末尾の画像)が示す「三層構造」からなる各階層と、”三部”からなる〔三部神道〕との関係性について、簡単に分かり易く解説していこう。まず「表…第三層」の【 菊花紋(伊勢神宮の御神紋)≒ 菱形30面体 】は、「宗源道(そうけんとう)」に纏わる図象と洞察した。ここで〔三部神道〕の短い解説文を引用すれば・・・この「宗源道」は〈 天児屋命(アメノコヤネノミコト)〉を元祖とし、「宗源」とは「理極」ということで、開天ノ間「天神七代」の旨を説くを「宗源」とする。・・・となる。次に「裏…第二層」の【 亀甲紋(出雲大社の御神紋)≒ 菱形12面体 】は、「斎元道(さいけんとう)」に纏わる図象と洞察した。ここで同様に〔三部神道〕の短い解説文を引用すれば・・・この「斎元道」は〈 天太玉命(アメノフトタマノミコト)〉を元祖とし、「斎元」とは「事極」ということで、盛天ノ時「地神五代」の道を説くを「斎元」とする。・・・となる。そして「奥…第一層」の【 三巴紋(宇佐神宮の御神紋)≒ 正4面体 】は、「霊宗道(れいそうとう)」に纏わる図象と洞察した。ここで同様に〔三部神道〕の短い解説文を引用すれば・・・この「霊宗道」は〈 天思兼命(アメノオモイカネノミコト)〉を元祖とし、「霊宗」とは「合道、心法ノ極」ということで、喪天ノ世「人皇万代ノ理」を教うるを「霊宗」とする。・・・となる。ところで、実は今回の記事を書くことになった一番大きな動機は、”統合体”の「三層構造」における「奥…第一層」の【 三巴紋(宇佐神宮の御神紋)≒ 正4面体 】を俯瞰していた時に、「宇佐神宮」の大宮司家であった「宇佐氏」の伝える文献に、元々は「 月読(ツクヨミ)命 ≒ 思兼(オモイカネ)命」を当宮の祖神として祀っていたという伝承を思い出したことであった。そこで改めて調べてみると・・・古代の宇佐族(兎狭族)は「月読命」を祖神とし、その「月読命」とは宇佐氏の始祖「タカミムスビ」から八世孫(男系の直系子孫)の「オモイカネ命(思兼命)…記紀神話に登場する”智慧の神”」であり、宇佐氏に”月神の信仰”を持ち込んだ初代「宇佐津彦命」である・・・とあった。ということは、大宮司家「宇佐氏」の伝承する「宇佐神宮」に祀られていた元々の祭神は、《「月読命」≒「思兼命」≒ 初代「宇佐津彦命」》となるわけである。上記の伝承内容の信憑性はともかくとして、この文章を読んだ時に、記紀神話で活躍する神々のなかでも、なぜ私が「オモイカネ命」に特別な思い入れを抱いてきたのかが、判然としてくるのであった。※関連記事・・・大分「宇佐」の歴史探訪(4)※関連記事・・・星神「オモイカネ」へ想いを馳せて・・・※関連記事・・・列島「中央」への探訪(4)さて、ここで再び〔三部神道〕の短い解説文の”つづき”を引用すれば・・・その次第をいえば、「宗源」・「斎元」・「霊宗」といえども、実は「霊宗」をもって本としている。つまり、この「霊宗」の道を修めなければ、「宗源」と「斎元」は共に自分のものにすることはできないということである。以上のように、〔三部神道〕の解説のなかでも「霊宗」の重要性が力説されているわけだが、そのことと前回日記で述べた”統合体”の最奥部に存在する基本立体の根元「正4面体」が〔宇佐神宮〕の御神紋「三巴紋」を象徴する想定とが、絶妙に重なる気配があり個人的には感慨無量の心境である。以上のように、簡単に解説してきた〔三部神道〕ではあるが、そのなかの「宗源道」とは〈天児屋命〉を祖とし藤原氏にもつながる”中臣(なかとみ)氏”の「中臣神道」、また「斎元道」とは〈天太玉命〉を祖とする”忌部(いんべ)氏”の「斎部神道」と、この二つの流派については自ずと見当が付いていた。しかし、なぜか「霊宗道」の流派が判然とせず、一時は冒頭の関連記事に記したように「伯家神道」を想定していたが、この期に及んで歴史的に封印され隠蔽されていた「霊宗道」とは〈天思兼命(阿智彦)〉を祖とする"阿智(あち)氏"の「阿智神道」と浮かび上がり、その淵源を宇佐神宮の宮司家「宇佐氏」の祖神「 月読命(思兼命)」にまで辿ることができたことは望外の歓びである。前述の宇佐氏の伝承には・・・月をウサギ神として崇拝し、そのツクヨミ(月読)の天職をもって、兎狭(ウサ)族と称するようになった。したがって、兎狭族の神はウサ神、すなわち月神である。・・・とあり、また古代において「陰暦」を使用した時代には、”月の干満”を見て月日を決めたことから、月神は「月読の神」と呼ばれたということである。※関連記事・・・『旧暦』のすすめ
2023年08月19日
冒頭の画像は、1990年に制作した”軸線構成”による複合立体を、その後になって色付け等を工夫し撮影したものだ。これまで約40年の制作活動において、この『みすまるのたま(御統玉)』と名付けた立体作品に関しては、特別に深い思い入れがあった。それは以下の関連記事に書いたように、この大きく”三層構造”から成る複合立体では表層の「表…第三層」となる「菱形30面体」(上の画像では”暖色系”)が、〔伊勢神宮〕の御神紋である「菊花紋(十六葉八重表菊)」に、そして「裏…第二層」となる「菱形12面体」(上の画像では”寒色系”)が、〔出雲大社〕の御神紋である「亀甲紋(二重亀甲剣花菱)」に、それぞれ私の脳裏に強く焼き付いたからである。※関連記事・・・みすまるのたま(御統玉)そして極め付きは、2011年の秋頃に「隠岐の島(島前の中ノ島)」に存在する「第82代 後鳥羽天皇の御火葬塚」を訪れた際に感受した内容(以下の関連記事)であった。※関連記事・・・「隠岐の島」周遊の思い出(6)さて、前回の《「宇佐」と「伊勢」における《冬至の日の出線》の再認識》の日記シリーズでは、「宇佐神宮」と「伊勢神宮」の二社を中心に取り上げたわけだが、もしここで日本を代表する神社の”主要三社”を挙げるとすれば、自ずと前記の二社に加えて冒頭でも書いた「出雲大社」が挙げられよう。実は次に記すことは、数年前から自身の心中には確たるものがあったわけだが、つまり冒頭画像に映る『みすまるのたま(御統玉)』の最奥部たる「奥…第一層」には、基本立体の根元である「正4面体」が存在し、これが〔宇佐神宮〕の御神紋である「三巴紋(左三巴紋)」を象徴しているということだ。そして「宇佐神宮」・「出雲大社」・「伊勢神宮」と、日本を代表する主要三社の「三種類の御神紋」が、それぞれ”立体の御紋”として見事に統合した複合立体を、本日の日記で改めて公開する運びとなった次第。この「三種の御紋」の”統合体”が、いよいよ根元から律動共振し、燦然と輝く季節を迎えたと視ている。
2023年08月07日
さて、この連載の最終章(下)は、まずは冒頭画像の白地図に示した「二本の南北軸」から解説していくことにしよう。既に当連載の(上)と(中)を読んだ方にはお分かりのように、左側の「赤線」で示した南北軸は、「山口⇔《宇佐》を貫く【冬】の南北軸」を上下に伸長させた《山口と九州を貫く【冬】の南北軸》となっており、右側の「青線」で示した南北軸は「白山⇔《伊勢》を貫く【夏】の南北軸」を、同じく伸長させた軸線となっている。いわゆる「四季」において、「冬」は「陰」にして「夏」は「陽」なので、この「陰」と「陽」の二本の南北軸が示された地図を俯瞰して見ることで、『陰陽統合』の全体像を把握する”てがかり”になるのではないかと考えている。そこで今回は、地図上の「赤の南北軸」に接触する将棋の駒のような形状の「五角形(赤)」と、「青の南北軸」に接触する「三角形(青)」に関して、それぞれ”天体の地上投影”という観点から解説を試みていくことにした。ではまず「五角形(赤)」についてだが、これは当日記でも何度か取り上げてきたが、天体の「ぎょしゃ座」が「九州」に投影された姿を示している。つまり「五角形」の5つの頂点に配した①~⑤の番号が「ぎょしゃ座」を構成する主要な5つの星と、それぞれの投影地を示しているというわけだ。(※以下に記載)①天体「カペラ」⇔地所「宇佐神宮」・②天体「メンカリナン」⇔地所「宗像大社」・③天体「マハシム」⇔地所「赤崎岳」・④天体「エルナト」⇔地所「野間岬」・⑤天体「ハッサレー」⇔地所「鵜戸神宮」かつて以下の紹介書籍を参考に、上記の「ぎょしゃ座」を構成する主要な5つの星々が、それぞれ地上投影された聖地とされる地所を訪れたことがあった。(※その際の聖地散策は以下の関連記事に詳しい)※紹介書籍・・・書名『星空の卑弥呼』上下巻・榊 昌一朗 著(星雲社2004年初版)☆関連記事・・・「九州」における天体の地上投影より・・・結果として、九州全域を「ぎょしゃ座」の投影地とする世界観を体得した感覚となり、特にこの連載の(1)でも取り上げた〔御許山〕を神体山とする「宇佐神宮」の御神域が、「ぎょしゃ座」の一等星「カペラ」の投影地だと私的に感得することができた。また近年には、「宇佐神宮」の境内にあった神宮寺「弥勒寺」の本尊「弥勒如来像」が暗示していたかの如く、”兜率天”に上生して悟りの境地に達した「弥勒如来」の本質を「カペラ」と認識、さらにごく最近では、”古事記神話”において天地初発の神とされた「天之御中主神」の本質を、天頂の最も近くで輝く一等星「カペラ」と認識するに至ったのであった。☆関連記事・・・【真理探究】37年☆関連記事・・・「天之御中主神」の本質は”ぎょしゃ座”の「カペラ」なり!では次に、冒頭地図の右側に示した「青の南北軸」に接触する「三角形(青)」に関してである。この「三角形(青)」について下記の紹介書籍を参考にすると、「おおいぬ座」の一等星「シリウス」は、実は連星となっていてABCの区別ができ、著者の洞察によると「シリウスA」の投影地が「富士山(地図のⒶ)」、「シリウスB」の投影地が「朝熊山(地図のⒷ)」、そして「シリウスC」の投影地が「白山(地図のⒸ)」ということであった。著者の洞察が深すぎるためか、書籍購入の当初から受け入れ難かったのではあるが、最近になってアフリカの”ドゴン族”が伝える「シリウスB」の伝承を再確認する機会があり、がぜん注目することになった次第。そこで以下、その”ドゴン族”が伝承する「シリウスB」について、簡単に記しておこう。・・・ドゴン族は「シリウスB」を「ポ・トロ」と呼び、全天で最も重要な星として崇めていた。彼らは「シリウスA」を焦点にして”50年周期”で楕円軌道を描いてまわるこの「シリウスB」を、宇宙の中心に置いている。この星が宇宙におけるあらゆる創造の出発点だという。 「ポ・トロ」は天空の中でいちばん小さい星だが、いちばん重い星でもあるという。「サガラ」という地球上のすべての生物が集まっても持ち上げられない重い物質でできており、「地上のすべての鉄に匹敵する」重さの物質だという。・・・ちなみに「シリウスB」は「シリウスA」の伴星であり、その伴星の天文学的な性質が確認され、最初の「白色矮星」とされたのは1925年のことであり、1立方センチあたり1トンという非常に重い金属製の物質でできていることも判明したということである。※紹介書籍・・・書名『シリウス星と謎の古代空間』・伊東宏之 著(文芸社2004年初版)☆関連記事・・・シリウスと日本・・・そして、この期に及んで・・・そうえいば「朝熊山(地図のⒷ)」が「シリウスB」の投影地だった・・・と脳裏に浮上し、上記内容を今回の記事に載せることにした次第である。いずれにしても冒頭地図に示したように、「ぎょしゃ座」の”五つ星”が投影した九州の「五角形(赤)」と、「シリウス」のABCが投影した近畿~中部地方にかけての「三角形(青)」の、その二つの形のそれぞれの一辺が、私的に見出せた「赤の南北軸」と「青の南北軸」に、それぞれ見事に重なっていたことについては、図形等を地図上に描く過程で私自身が驚いたことでもあった。そして冒頭地図に描いた図形を制作後、改めて地図を眺めていると・・・”ぎょしゃ座”の「カペラ(ニギハヤヒ)」が「御許山(宇佐神宮)」に投影され、”おおいぬ座”の「シリウスB(セオリツヒメ)」が「朝熊山(伊勢神宮)」に投影されていたとは・・・などという思いが湧いてきて、それと同時に自身の心中に浮かんできたビジョンが、一等星「カペラ」を筆頭とし一等星「シリウス」を尻尾とする「冬の星座を構成する星々」(冬のダイヤモンド)であった。☆関連記事・・・「冬の星座」に隠された古代信仰それでは次に、地図上の「富士山=Ⓐ」から「野間岬=④」を結ぶ軸線に注目してみよう。これは前回日記において、このⒶと④を結ぶ軸線上にあるⒷの「朝熊山」の山頂にて、富士山の山頂から昇る”夏至の御来光”を拝めると記したが、その軸線を「朝熊山=④」から反対方向(真西から約30度南に寄せた方向)に「野間岬=④」まで延長したものである。上記の軸線は、下の紹介書籍を参考に示したわけだが、ここで重要な視点は、この軸線が「古事記」の〔天孫降臨〕の神話物語を象徴する軸線だということである。つまりこの軸線には、富士山頂から昇る”夏至の太陽”が「ニニギノミコト」を象徴し、その”夏至の朝日の光芒”は、観測地点の「朝熊山」から紀伊半島を経て、四国の「室戸岬」や「足摺岬」を経由し、最終到達点にして後に妻となった「コノハナサクヤヒメ」の出生地とされる「野間岬」(古事記では”笠沙の岬”)まで届くという意味合いがあり、この神話物語を構想した”天体観測”や”地文測量”にも明るい編纂者の深い意図が読み取れるというわけだ。そして「夏至の朝日」たる「ニニギノミコト」と結婚した「コノハナサクヤヒメ」は、「夏至の朝日」を迎える「富士山」という御山そのものと認識され、当山の麓に「木花之佐久夜毘売」を主祭神とする駿河国一宮「富士山本宮 浅間神社」が鎮座しているわけだが、その富士山の山頂から昇る「夏至の朝日」を展望できる打ってつけの場所が、伊勢の「朝熊山」の山頂だったということである。※紹介書籍・・・書名『古事記のコード』池田 潤 著作・戎光祥出版(2011年初版)さて上の画像は、日本列島の白地図に描いた図形を含む全体を掲載したものだ。(※冒頭地図の全体像)Ⓐの「富士山」を要に、”本州最西端”の「毘沙ノ鼻(山口県下関市)」から”本州最北端”の「大間崎(青森県下北郡)までを、扇が開いた形状に円弧を描いた図形が確認できると思う。また「富士山=Ⓐ」から真東となる島根県の出雲方面に向かって東西軸を引いてあるが、この「富士山と出雲を結ぶ東西軸」を扇状の円弧図形(上記)に加えて”ワンセット”となっている。つまり今、実際に手元に「扇子」があったとして、閉じた扇子の要が「富士山」で先端は”本州最西端”の「毘沙ノ鼻」、そして音を立てて一本の骨を捲った位置(東西軸)の先端が、陸上ではおよそ「出雲大社」(島根県出雲市)に当たり、扇子を全開した先端が”本州最北端”の「大間崎」に当たるというわけだ。☆関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(上)上のリンク記事の「観えてきた扇」とは、”平成18年度 文化庁芸術祭 参加公演”となった『 媼(おうな)~日の出扇に寿ぎて~』に係る「演舞(日本舞踊)」のための取材旅行に、私も運転手の一人として同行し、列島各地の要所を巡る過程で自身の脳裏に浮上した「富士山」を”扇の要”とする《扇の型》であった。そして最後に残った軸線が、日本列島の西南部となる「国東(くにさき)」から東北は北海道の北方領土となる「国後(くなしり)」までを結んだ「緑の艮坤線」である。実は他にも描きたい線なり図形があったのだが、なぜか締め括りはこの「緑の艮坤線」になった。この”緑の軸線”を引いてから分かってきたのは、この「緑の艮坤線」が上記の「富士山」を”扇の要”とする《 扇(女性原理)》を、常に守護し日本全体を警備している《 笏(男性原理)》に思えてきたから不思議である。☆関連記事・・・「国東」と「国後」を結ぶ《艮坤線》さあ今一度、この日本地図の全体像を眺めてみよう。今の私には、一年間の太陽運行を”日本神話”を踏まえ二分して観た場合、冬至から夏至までの半年の期間を「アマテラス」という神名が象徴し、そして夏至から冬至までの半年の期間を「スサノヲ」という神名が象徴しているように感じる。それは例えば、神話物語において「アマテラス」が活躍する「天の岩戸開き」の場面では、「冬至」の日の出を暗示する舞台設定であるし、「スサノヲ」はよく”暴風雨”に擬えられるが、「夏至」を過ぎた頃から台風シーズンに入るので、「陰」と「陽」が織り成す一年間の太陽運行を、臨場感あふれる物語として編纂されたのではないかと考えている。いよいよ最後に『陰陽統合』の、皆で『統合』へ向かう”道しるべ”を示すことになるわけだが、それはやはり当日記で何度も唱えてきた【旧暦】、すなわち【太陰太陽暦】を基盤とする”生活を取り戻す”ということだ。この【太陰太陽暦(旧暦)】とは、まさに「月(陰)の暦」と「太陽(陽)の暦」を、ものの見事に分け隔てなく『統合』した暦であり、江戸時代には世界最高峰の【旧暦】が日本で誕生しているのである。☆関連記事・・・『旧暦』の復活する時代へここで”生活を取り戻す”とは、維新後に西欧化の大波に呑まれるかたちで明治5年の太陽暦を採用した以前の、江戸時代の末まで日本列島の津々浦々まで浸透していた【旧暦】を、ふたたび社会生活の基盤に据え直し、個人や家族はもちろん地域社会の活性化に役立てていくということである。当然この【旧暦(太陰太陽暦)】の活用は、日本社会はもちろんのこと、世界人類への社会貢献にも役立つことになるのではないかと考えている。ここで『陰陽統合』への”道しるべ”として、再度『旧暦のすすめ』を訴えて、この連載を締めることにした。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
2023年06月19日
さて前回は、「宇佐」を中心にした《冬至線》の再認識にまつわる論を展開したが、今回は「伊勢」における《冬至線》の再認識に関して述べようと思う。そこで上の地図は、中央部の下方にある《伊勢》の〔朝熊山(あさまやま・標高 555m)〕を南の起点とする「夏の南北軸」を基軸とし、左側上方の「斎宮跡」から〔朝熊山〕を結ぶ《冬至線》(赤の線)を”主軸”に描いたものである。また”主軸”に添える”副軸”として、〔朝熊山〕から右側上方の伊勢湾に浮かぶ〔神島〕とを結ぶ《夏至線》(緑の線)を加えた。ここで上記の「夏の南北軸」とは、冒頭地図に示したように「白山⇔《伊勢》を貫く【夏】の南北軸」であり、この南北軸を【夏】としたのは、前回の日記で解説したように「全国一宮巡り」を経て、《伊勢》の〔朝熊山〕と加賀の「白山」を貫く南北軸に、四季では【夏】を感じたからであった。この〔朝熊山(標高 555m)〕は、「伊勢神宮」の外宮と内宮、すなわち内外両宮の神体山として有名だが、古代においては(前回の日記に書いた〔御許山〕と「宇佐」の関係と同様に)この〔朝熊山〕を中心として「伊勢」の地域全体が治められていた時期があったと認識している。ところで、今回の記事で大きく取り上げる国史跡「斎宮跡(さいくうあと)」とは、古代から中世にかけて設置された「斎宮(斎王の居住した宮殿と、役所・斎宮寮)」の施設を中心とする約140ヘクタールもの広大な遺跡のことである。この「斎宮」は「いつきのみや」とも呼ばれ、「斎王」は天皇に代わって「伊勢神宮」に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されていたということだ。つまり「斎宮」から約15kmも離れた「伊勢神宮」の”祭主(伊勢神宮の神職の長)”を務めていたのは歴代の「斎王」であった。そこで私は、この”祭主”が務める「斎宮」と「伊勢神宮」の関係と、前回日記で取り上げた”宮司”が兼任する「薦神社」と「宇佐神宮」の関係との類似性を見出したのであった。ちなみに現在の「伊勢神宮」の”祭主”は、第126代天皇 徳仁(なるひと)の妹である黒田清子さんが務めている。さて、地図上に示した「斎宮跡」の場所は、おそらく既に弥生時代の中期には、冬至の早朝に〔朝熊山〕の山頂から昇る朝日を拝むための聖地なり施設があったと思われ、むしろそうであるが故に、後の時代になって上記の「斎宮」という権威関係の祭祀が当地に設けられたと考えられるのだ。ここで興味深いのは、前回日記で取り上げた「薦神社」と〔御許山(標高 647m)〕を結ぶ約20kmの直線距離と、今回の「斎宮跡」と〔朝熊山(標高 555m)〕を結ぶ約18kmの直線距離についてである。おそらく弥生時代における「冬至の祭祀」においても、冬至の朝日が昇る時間が重要であり、治めている地域の中心となる御山の山頂から”冬至日の太陽が昇る瞬間”が、最も重要視されていたと思われる。そこで双方の直線距離について、どこに興味を覚えたかと言えば、上記のように〔御許山〕と〔朝熊山〕の標高差が約100mあることから、例えば「冬至の朝日」が双方の山の山頂から昇る時間を”同じ時刻”に設定していたとすれば、それが故に双方の直線距離が2km(〔御許山〕の標高に比べて低い〔朝熊山〕の方が距離が少し短い)くらいは違ってくるのではないかいう推測が成り立つところである。加えて、農業を基盤にその地域に生活する多くの住民の心を一つにまとめるためにも、往時の祭祀を担当した氏族の精細な”天体観測”や”地文測量”の技術によって、観測地点である聖地からそれなりに距離の離れた遠方にあって、かつ地域住民の心の拠りどころに成り得るような秀麗な山が選定されたことが推測できる。さあここで今一度、冒頭地図を眺めてみよう。地図上の中央南部にある〔朝熊山〕を起点に、右側上方の伊勢湾に浮かぶ「神島」に向かって引いた《夏至線》(緑の線)が確認できると思う。かつて〔朝熊山〕に登拝したことがあるのだが、その山頂から「神島」方面を展望した景色は素晴らしく、その《夏至線》をさらに延長した遠方に、現地では視認できなかった【富士山】が存在していると思うと、それだけで心が躍ったことを憶えている。下にリンクした関連記事にも書いているが、この〔朝熊山〕の山頂で迎える「夏至」の御来光は、まさしく【富士山】の山頂から狙いを定めたかのように昇ってくる朝日を拝むことができるということだ。☆関連記事・・・夏至の太陽祭祀そこで地図上には北緯34度32分の「東西軸」を引いてあるが、かつて『太陽の道』と呼ばれたこの緯度線上に、太陽崇拝および山岳信仰と何らかの繋がりのある古代祭祀遺跡が並んでいることに興味を覚えて、 この同じ緯度線上に並ぶ「神島」と「斎宮跡」を訪れたことがあった。今となっては良い思い出である。そして、この「太陽の道」たる東西軸を西方に辿っていくと、大和国の中央政庁であった”藤原京”の鬼門を護る大和国一宮「大神神社」の神体山である「三輪山(標高467m)」に到達する。実は、この「三輪山」の麓にあった”藤原京”を取り囲むように、大和三山(やまとさんざん)といわれる「耳成山(みみなしやま)」・「天香久山(あめのかぐやま)」・「畝傍山(うねびやま)」・の三山が存在している。そこで今回の「夏の南北軸」と前回の「冬の南北軸」に纏わる図形を同様の「型」として観た場合に、前回日記の末尾で取り上げた東西軸の西方に「宝満山」があるとしたが、その「宝満山」の麓にあった”大宰府”を取り囲むように、「大城山(おおぎやま)」・「宮地岳(みやじだけ)」・「天拝山(てんぱいさん)」の三山があり、双方の南北軸の類似性を補強し際立たせるものとなっている。以上のように、前回と今回の記事で取り上げてきた「宇佐の御許山」と「伊勢の朝熊山」という二つの地域の神体山は、双方の観測地点となる二つの聖地を含めて、(大げさに聞こえるかもしれないが)古代より日本を代表する御山の双璧ということが言えるのではないかと考えている。上記の捉え方を裏付けるものとして、皇室が先祖に対して祭祀を行う二つの神社として『二所宗廟(にしょそうびょう)』があるのだが、現在その”第一宗廟”は「伊勢神宮」(神体山は朝熊山)であり、”第二宗廟”は「宇佐神宮」(神体山は御許山)となっている。ところが、皇位継承の存続が危ぶまれた「道鏡事件(AD769年)」という非常事態において、皇祖神の判断の神託を得る必要が生じた際に、なぜか「伊勢神宮」の神意は問われずに「宇佐神宮」に神託が求められ、結局この事件は「伊勢神宮」は無視されて「宇佐神宮」の神託が皇位継承を決定したのであった。この史実が意味するところは、天皇家と朝廷が皇祖神を祭る真の宗廟は「宇佐神宮」と考えていたということであり、上記のように「伊勢神宮」と「宇佐神宮」は『二所宗廟』とされるが、実際には「伊勢神宮」よりも「宇佐神宮」のほうが、古来より重視されてきたことがうかがえるというわけだ。実は、この度の記事『「宇佐」と「伊勢」における《冬至の日の出線》の再認識』を書いた最初の動機は、陰と陽の「和合」または、一見では相反するかのように思える二者の「統合」がテーマであった。次回のシリーズ(下)の最終章では、日本列島の全体が入った白地図に、ここまで綴ってきた二つの南北軸を含めて、これまで描いてきた様々な「線」を書き込んだ図形をもって、これからの『陰陽統合』の世界を摸索し展望できればと考えている。つづく
2023年06月18日
かつて「全国一宮巡り」ということで、列島各地の旧国域に神道祭祀の中心として鎮座する「一宮(いちのみや)」を巡拝していた時期があった。そもそもこの「一宮」とは、日本全国に六十六ヶ国あったとされる各国域のなかで、最も格式の高い神社のことだ。例えば現在の山口県域の東部は、明治以前の旧国名を「周防(すおう)国」と称し、その周防国一宮は「玉祖(たまのおや)神社」であり、山口県防府市に現在も鎮座している。既に2000年頃には「一宮巡り」の全国行脚を達成していたが、その達成に至る最終局面において、自身の脳裏に浮かび上がってきたビジョンがあった。そのビジョンとは、天空に輝く四季折々の星々が、それぞれの季節に対応するかのように列島各地に見出せた”南北軸”を基軸とし、全国では六十六ヶ国からなる一宮として地上投影されたと観る「春・夏・秋・冬の南北軸(基本は4本の南北軸)」であった。当日記では特に、私の故郷であり現住所のある山口県域が「冬の南北軸」に深く関係することから、《山口と九州を貫く【冬】の南北軸》などと称して、折りに触れて取り上げてきた。☆関連記事・・・由布岳(豊後富士)を展望しつつ・・・さて当記事のタイトルに、「宇佐」と「伊勢」の二つの地名を挙げたが、「宇佐」とは大分県宇佐市に鎮座する「宇佐神宮」を中心とする地域、そして「伊勢」とは三重県伊勢市に鎮座する「伊勢神宮」を中心とする地域を指している。そこで今回、《冬至の日の出線》に関連付けて上記の二つの地名を挙げたのは、双方の地域に共通すると思われる”古代の太陽信仰に基づく祭祀線”が観えてきたからであった。初回となる本日の記事では、「宇佐」における《冬至の日の出線》について、冒頭画像の地図の解説から始めていこう。まず冒頭地図に描いた主要な軸線についてだが、中央部の南方にある《宇佐》の〔御許山〕を貫く「冬の南北軸」を”基軸””として、左側上方の「薦(こも)神社」から〔御許山〕を結ぶ《冬至の日の出線》(赤の線)を”主軸”に描いたものである。また”主軸”に添える”副軸”として、〔御許山〕から右側上方の〔両子山〕方面を結ぶ《夏至の日の出線》(緑の線)を加えた。(※以降《冬至の日の出線》は《冬至線》、《夏至の日の出線》は《夏至線》と記述することとする。)この〔御許山〕(標高 647m)は、「宇佐神宮(豊前国一宮・全国八幡社の総本宮)」の神体山として有名だが、古代においてはこの〔御許山〕を中心として「宇佐」の地域全体が治められていた時期があったようである。☆関連記事・・・台風を追い風に「宇佐神宮」への参拝今回の記事で大きく取り上げる「薦(こも)神社」(大分県中津市)は「宇佐神宮」の”祖宮(元宮)”とされ、元々は当社から直線距離で約20Kmも離れた〔御許山〕を神体山と崇める神社であった。(※神社の南方にある「八面山」が神体山とされたのは中世以降。)この「薦神社(大貞八幡宮)」の神紋は「左一つ巴」。一般に八幡系神社の神紋といえば、総本宮の「宇佐神宮」を筆頭に「左三つ巴」が主流だが、これに対して「薦神社」の神紋が「左一つ巴」であることも、当社が「宇佐神宮」の”元宮”と伝承されてきた根拠になっている。この神社の境内には「三角(みすみ)池」という大きな池がある。実は「御澄池」とも称されるこの池そのものが「薦神社」の御神体とされているのである。加えて、かつて「薦池」とも称されたこの池に自生する「薦(こも)」(イネ科の多年草「マコモ」の古名)で作った『薦枕(こもまくら)』が、知る人ぞ知る「宇佐神宮」の御神体である。ちなみにこの『薦枕』は、現在でも古式にのっとり”六年毎”に新しく作られ、八幡神と関わりの深い「八社(田笛社・鷹居社・郡瀬社・泉社・乙咩社・大根川社・妻垣社・小山田社)」を巡った後、「宇佐神宮」の本殿に御神体として納められている。また上記の御神体の件に加えて、古くはこの池を祀る「薦神社」の宮司が宇佐姓で、「宇佐神宮」の宇佐大宮司に代々就任(※古文献に薦神社の初代宮司は宇佐神宮の大宮司を兼任したとある)していたことからも、「薦神社」の御神体である「三角池」は、「宇佐神宮」や神体山の〔御許山〕と深い関係にあったことがうかがえる。以上の解説を含めて、改めて冒頭地図を眺めてみよう。「薦神社」から〔御許山〕を結ぶ《冬至線(真東から約30度南に寄った線)》は約20㎞もの距離があるが、現在でも「薦神社」からは〔御許山〕の山頂を含む秀麗な山容を遠望できるとのことだ。また当社境内には、”国の重要文化財”に指定された立派な「神門」があるのだが、かつて当社を参拝した折に現地で方位磁石を出して見たところ、この「神門」の向かう方角が(門前の参道を含めて)真東から約30度南の《冬至線》と確認できたことは、まさしく「薦神社」と〔御許山〕との関係性を如実に体感できた貴重な経験であった。では”いつ頃”から、《冬至線》の先にある〔御許山〕の山頂から昇り来る「冬至の日の出」を、当日早朝の「薦神社」において祭祀していたかということになるわけだが、私的に様々な関連情報を集約すれば、いわゆる”弥生時代”の中期頃ではないかと考えている。その理由として、”弥生時代”の冒頭については、秦の「始皇帝」の命を受けて中国大陸から大挙渡来した「徐福」の勢力が担ったと考えられ、古代中国における祭祀に詳しい「封禅書」や「郊祀志」等には、年始を祝う重要な「冬至の祭祀」に関する記載に「天は円丘で祀り、地は方沢で祀る」とあり、後半の「地は方沢で祀る」の「方沢」とは「四角い池」の意味合いなので、「薦神社」の御神体である「三角池」が、そのまま「四角い形状の池」と見立てられるので、妥当性があると感じられたからである。ここで興味深いのは、宇佐̪祠官家のなかでは珍しく、「五十猛神」の後裔と称する系譜を残す氏族に「辛島氏」があり、”古代出雲伝承”によると「五十猛(いそたけ)」とは、中国から渡来した秦の「徐福」と出雲国の大国主・八千矛王の姫君「高照姫」との間に生まれた長子の名前であったということ。さらに調べていくと、「五十猛」の後裔と称する辛島氏は、飛鳥時代から奈良時代にかけて「宇佐神宮」に仕える女禰宜を輩出したが、元来は「薦神社」で神官・巫女として勤めていたとされ、後に八幡神の託宣を受けた「辛島勝乙目(からしまのすぐりおとめ)」は、「大神比義(おおがのひぎ)」とともに「宇佐神宮」の前身となる「鷹居社」を建立したとあった。ここに至って、日本における弥生時代の”あけぼの”を担った渡来系である「徐福」の系譜となる辛島氏は、上記の古代中国の祭祀等に精通していたことが考えられ、《宇佐》の地域では古代より「薦神社」に奉仕する祭祀担当の氏族であり、「辛島勝乙目」の活躍した時代には「宇佐神宮」の創建に深く関与した歴史が浮上したのであった。(※ちなみに、注目すべき辛島氏の伝承としては、現在の「宇佐神宮」の”二之御殿”の地下には石棺が存在し、その被葬者は「辛島勝乙目」だということが、大正時代までは神宮参拝者に配布される由来書に、明確に書かれていたとのことである。)ここで今一度、冒頭地図を眺めていただきたい。地図上の中央南部にある〔御許山〕を起点に、右側上方の「両子山(標高 720m)」に向かう《夏至線》(緑の線)が確認できると思う。☆関連記事・・・「国東」と「国後」を結ぶ《艮坤線》この緑の《夏至線》は、かなりアバウトに引いたわけだが、それは〔御許山〕の山頂より「夏至の日の出」を観測するとして、国東半島では一番標高の高い「両子山」の辺りから、朝日の光芒が輝き始めることから、”およそ”の方向性が線として引ければ良しとしたわけである。また地図上には、「薦神社」を通る「北緯33度34分の東西軸」があるわけだが、そのほぼ同緯度の線上で「両子山」に近い場所に「屋山(標高 543m)」を示した。この「屋山」は一度登拝を許されたが、修験の山らしく険しかっただけに展望が素晴らしく、また山頂部のここかしこに巨石への加工の痕跡や磐座群の意図的配置を見いだせたことを憶えている。当山の山中にある「長安寺」は、かつて六郷満山の中山本寺であった古刹で、”国の重要文化財”に指定された「銅板法華経」等を収蔵している。☆関連記事・・・「八九十」の登山(1)そして、この東西軸を西方に伸ばせば、九州全域の中央政庁であった”大宰府”の鬼門を護る「竈門(かまど)神社」の神体山である「宝満山(標高 830m)」に到達する。以上、まずは・・・「宇佐」における《冬至の日の出線》の再認識・・・として(1)を書いた。そして次回の「伊勢」における…(2)でも、今回の冒頭地図のような図形を掲載するわけだが、実はその「宇佐」のバージョンも「伊勢」のバージョンも地図上に描いた図形のパターンが、不思議なくらいに同じ形状になっている。それはおそらく古代において同系統の氏族が、双方(「宇佐」と「伊勢」)の国土経営における先駆けとなったからであろう。つづく
2023年06月17日
本日6月3日より山口県防府市にて、県主催の『美術展』が開催されており(詳しくは末尾に記載)、展示会場の〔工芸の部〕において私の出品した作品…題名「 多次元構造 」…が披露されている。そこで冒頭の画像は、初日の午前中に当会場を訪れ、並べられた〔工芸作品〕の一部を撮影したもので(私の作品は右から4番目)、下の画像は出品した自作の造形を大きく撮影したものである。以下の文章は、当美術展の目録にある「出品者からの一言」という名目で掲載された私の一言。☆〔工芸の部〕No.8 題名「 多次元構造 」 氏名 山本裕一(山口市)すべて同じ長さの「軸線(綿棒)」を繋ぎ合わせて作った複合立体です。造形の最奥部にある”中心軸(金色)”より、外部に向かって段階的な着色を施すことで、多次元からなる階層構造が把握できるように構成しました。出展作品の写真撮影を含めて、私がこの工芸部門に滞在した時間は短かったのだが、その間に個人的には”とても嬉しい出来事”があった。それは小学校1年生くらいの女の子が、私の背後から「この形が作ってみたいな~♪」と言いながら、私の作品に手を伸ばして近づき、”頬ずり”をするような仕草をしたことである。そして〔工芸の部〕を一周して戻ってきた時にも、人差し指で示しつつ可愛い声で「私はこの作品が一番好き!」と、その女の子は私のすぐ側でキッパリと言い切るのであった。あまりにも嬉しかったので、「この作品は、おじさんが作ったんだよ~」などと、もう少しで私はその女の子に言ってしまいそうになったのであった。※…というか、言ってしまえば良かったのにねぇ~(笑)残念ながら私の作品は入賞とはならなかったのだが、この女の子から《大賞》を貰ったような感覚になり…今日この時間に来て良かった‼…と、それこそ”ルンルン気分”で展示会場を後にしたのであった。以下の次第で明後日まで開催されている『美術展』では、大きな会場に〔日本画・洋画・彫刻・工芸・書・写真〕の各部門別に、合計約150点の作品が展示されている。県内に住所を有する60歳以上のアマチュア・アーティストが制作した作品群だが、展示ホールには人生の荒波を乗り越えてきた”いぶし銀”の輝きを放つ作品の数々が躍動していた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーねんりんピック山口2023(山口県健康福祉祭)~創る楽しみ 観るよろこび~ 美 術 展日 時:令和5年6月3日(土)~6月5日(月) 4日(日)午前9時から午後5時まで 5日(月)午前9時から午後3時まで場 所:防府市地域交流センター(アスピラート) 2F展示ホール 〔※JR防府駅のすぐ近く〕主 催:山口県 / 後 援:防府市 【 入 場 無 料 】
2023年06月03日
本日より6月に入ったこともあり、「ミロク(369・567・666)」につながる”『6』の仕組み ”について論じてみることにした。実は以下の関連記事のように、「数と形の関係性」から、これまで「6」という数については、まつわる形状と関連付けた論を展開してきたわけだが、今回の記事内容はその集大成になろうかと思う。まずは冒頭画像に映る右側の、「6」を中心とする”11マス”の魔法陣を見ていただこう。あまり見慣れない数の配置だと思うが、これを分かり易く解説すると、〔九星気学〕等でお馴染みの「5」を中心とする”9マス”(魔法陣)に置かれた9つの数に、それぞれ「1」を足した数の置き方になっており、タテ・ヨコ・ナナメに並ぶ3つの数の合計が全て「18」になる配置となっている。加えて既存の”9マスの魔法陣”の上下に、私なりの発想で2マスを付け加え、それぞれ黄色で囲って「1」(上)と「11」(下)にしたわけだが、この”「1」+「6」+「11」”(3数の合計=18)の数の並びは、左側の赤色と青色の軸線で構成された「立体構造」を垂直に貫く”黄色の軸線”に配置した「1(上・天)」・「6(中央・構造の中心)」・「11(下・地)」を示している。そこで上でも少し記したが、次に冒頭画像の左側に映る「立体構造」と〔⑥を中心とする①から⑪まで〕の「数理展開」との関係性について簡単に解説していこう。この左側の造形は、6本の”青色”の軸線(二本の綿棒を重ねて一本の軸線ととらえる)で構成した「正4面体」と、6本の”赤色”の軸線で構成した同じ大きさの「正4面体」を、バランスよく重ね合わせて統合した形状(学術的な名称は「星形8面体」)の中心に、この構造の全体を支える”黄色”の「軸」(イメージとしては”不動の回転軸”)を立てた造形表現となっている。この内部を含む構造の全体が見通せる《スケルトン立体》へ配置する”①から⑪までの数理展開”に関しては、この造形の中心⑥を透過する対角線(全部で5本)を想定した場合に、各対角線の中心とその両端に並ぶ3つの数の合計が、全て「18」となる配置になっているというわけだ。ここでダジャレでもないが、私の”十八番(おはこ)”である「立体工芸」という”一番得意な”分野において、”『6』の仕組み”に纏わるかたちで立体的に「18」を語ることができたことは感慨無量であり、また私なりの”真理探究”の道を歩むなかで、こだわりの数であった「37」の18倍が、「6」のゾロ目の「666」と「ミロク」を象徴する数になるところも、実に魅力的である!(^^)!※関連記事・・・666(ミロク)の考察※関連記事・・・ミロク=18※関連記事・・・バランスの究極※関連記事・・・6角形の数理さてここからは、「6」という”数”の重要性について、基本立体では最小の”形”である「正4面体」との関連から、より本質的な紐解きをしてみよう。同じ長さの軸線を用いて立体構造を制作するという私なりの構成法からすれば、この「6」という軸線数で構成できる立体は「正4面体」に限定される。ちなみに冒頭画像に映る造形は、”青色6本”で構成した「正4面体」と”赤色6本”で構成した「正4面体」を、ほどよく和合させた形状を基盤としている。そもそも軸線構成による基本立体については、例えば「正8面体」は「12」の構成本数であり、また「正20面体」は「30」の構成本数であり、それぞれ「6」の倍数となっている。他にも数ある基本立体の”外側の枠組”を構成する軸線の総数が全て「6」の倍数ということは、注目に値する事実だと言えよう。さらに興味深いことは、私の独特な”構成法”により制作した【内部構成を含む全体の構造を同じ長さの軸線で構成した基本立体の数々】(末尾画像に映る18種類の基本立体)についても、全ての立体が「6」の倍数になっていたことである。(ちなみに画像に映る「正4面体」は右上にある一番小さい形)以上のことから《数の「6」と形の「正4面体」の関係性》は、上記の「立体構造」はもとより、それが目に見える見えないにかかわらず、”物事の仕組み”の根幹を司る〔普遍的原理〕ではないかと考えている。ここまで”『6』の仕組み”の重要性を説いても、その本意が届かないのであれば、「6でなければ、ロクでなし」と言われても仕方がないのかもしれない!(^^)!
2023年06月01日
冒頭画像に映る自作の造形は、互いに相補い合う関係にある《菱形30面体》(下の画像では右側の赤色の立体)と《準正32面体》(下の画像では左側の青色の立体)を、整合性を踏まえて【統合】した軸線構成による立体作品である。(作品の名称『 慈愛 』・2003年 制作)さらに作品の解説を試みるとすれば、下の画像右の…内から外に”膨張”するイメージ…の《菱形30面体(赤色の〔愛〕のカタチ)》と、画像左の…外から内に”収縮”するイメージ…の《準正32面体(青色の〔慈悲〕のカタチ)》が、あたかも心臓の鼓動のように膨張と収縮を繰り返しながら安定的に維持され、全体として”均衡”(バランス)した【統合】の雰囲気を醸し出し、また〔愛〕と〔慈悲〕の調和した『 慈愛 』の精神性を宿しているように観える。ちなみに、下の画像に映る2つの造形について簡単に解説すると、まず右側(赤色)の《菱形30面体》は「6次元立方体」とも称される軸線構成で、30面からなる外枠の”菱形”から内部に向かって犇めく同型の”菱形”まで、すべて『黄金比』の菱形で構成されているところが特徴だ。そして左側(青色)にある《準正32面体》は、外側の枠組みが「正3角形(20面)」と「正4角形(12面)」の計32面からなる軸線構成で、内部構造の中央に”中心核”を備えているところが特徴だ。この双方の作品は共に、同時期(2000年頃)に”手探り”で具現化できたことが印象的で、おそらくそれも一つの動機となり、2つのカタチが見事に【統合】した”『慈愛』のカタチ”として結実したのであった。
2023年05月28日
昨日の令和5年(2023年)5月25日・午後3時15分頃・・・「天之御中主神」という神名が意味するところの本質は、”ぎょしゃ座”の一等星「カペラ」のことである・・・と再認識する機会が訪れた。ここで”再認識”と記したのは、かねてよりこの「神」と「星」との関係性について、先達の研究等を参考に自分なりに考究してきた経緯があり、ここで改めて”より深く”認識するようになったということだ。この「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とは、『古事記』の神話に登場する神々の中で、天地開闢の最初に出現した神のことである。(当神は”別天津神”にして”造化三神”の一柱)そこで冒頭画像では、初冬の宵に東方より昇る「ぎょしゃ座」を撮影した天体写真を掲載した。日本では「五つ星」や「五角星」などと呼ばれていた当星座の、その”五つの星々”をそれぞれ示せるように①~⑤の番号を付けた。その番号①の示す星が”ぎょしゃ座”の一等星「カペラ」で、全天で6番目に明るい星とされ、その距離は42光年と太陽系に比較的近い星であり、真冬の午後8時頃には天頂近くに輝く星でもある。さて、この・・・「カペラ」を「天之御中主神」と観る・・・という今回の”再認識”に関しては、上記の”別天津神(ことあまつかみ)”が以下のように当神を含む「五柱の神々」より構成されることから、この「五柱の神々」が”ぎょしゃ座”を構成する「五つの星々」と洞察できたことで、(くり返しとなるが)以前より深い認識に至ったというわけである。そこで「古事記神話」の天地開闢において、最初に出現した「五柱の神々」からなる”別天津神(ことあまつかみ)”と、「五つの星々」からなる”ぎょしゃ座”の、現時点における対応関係を示しておこう。「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」・・・①⇒ α星「カペラ」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」・・・②⇒ β星「メンカリナン」「神産巣日神(かみむすひのかみ)」・・・③⇒ ι星「ハッサレー」「宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」・・・④⇒ θ星「マハシム」「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」・・・⑤⇒ γ星「エルナト」(※)(※)このγ星「エルナト」は、”ぎょしゃ座”と”おうし座”との境界線上に位置しているため、現在は”おうし座”のβ星とされているが、かつては”ぎょしゃ座”のγ星ともされていた。このうち「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」は、”造化三神(ぞうかさんしん)”と呼ばれる。・・・と、以上が「五柱の神々」と「五つの星々」との対応関係である。つまり現時点の私的考察では、日本神話の冒頭に登場する神々の順序に準えて、冬期において東方の夜空に順次出現する”ぎょしゃ座”の星々を対応させてみたということである。また上記の”神々と星々との関係性”から考察していくと、『古事記』の神話において「五柱の神々」の”別天津神”に続く、「国之常立神(くにのとこたちのかみ)」から「伊邪那美神(いざなみのかみ)」までの”神世七代(かみよななよ)”の「十二柱の神々」も、末尾画像の「冬の星座」における目星の星々との対応関係が類推できるのであった。そこで現在の私見ではあるが、例えば「十二柱の神々」による構成の”神世七代”の最後で、始原の神たる「天之御中主神(≒カペラ)」から数えて十七番目の神となる「伊邪那美神」に対応する星とは、「冬の星座」の最後に昇り《夜の太陽》とも称される”おおいぬ座”の一等星「シリウス」であろう。☆関連記事・・・出雲大社の祭神考☆関連記事・・・『出雲国風土記』の奥の院
2023年05月26日
思い返せば1982年5月17日から始まった自分なりの「真理探究」の道程は、ブログタイトルに付随する「歴史探訪」の行程も含め、お陰様で本日の2023年同月同日をもって42年目の初日を迎えた。☆関連記事・・・【真理探究】37年その「真理探究」の基本は、「数と形の関係性」によって物事の『本質』を洞察し全体把握を心がける手法というわけだが、これまでの探究過程においてその最も大きな布石になったのが、1984年頃に模索し始めた”同じ長さの軸線構成”による『正12面体』に関して、丸10年を経た1994年に念願であった具現化を達成し、その構成法を確立できたことであった。(冒頭画像の複合立体…構成素材の軸線は「綿棒」)☆関連記事・・・「正12面体」における新たな内部の相互関係について☆関連記事・・・「正12面体」の宇宙論一般に『正12面体』といえば、例えば学校の美術室に置いてあったような、”大理石”を「正5角形」の面でカッティングしたもの、すなわち中身が詰まって重たい立体を想定しがちだ。しかし、私が立体を造形する制作スタイルは、”同じ長さの軸線(綿棒)”だけを用いて内部構造を含む全体を構成する方法なので、完成した立体作品については「多面体」というより「多線体」という表現が妥当である。いずれにせよ、上記のように『正12面体』を”等辺の軸線”だけで制作する構成法の確立が自信となって、それ以外の多面体群についても一つ一つ制作に取り組んでいくこととなり、「正多面体」が5種類と「準正多面体」が13種類からなる基本立体の制作を総て達成した1998年、その全部で18種類からなる立体群を渦状に並べて撮影した写真が下の画像である。(ちなみに『正12面体』は小さい方から数えて7番目)※関連記事・・・18種類の立体構成(5種類の正多面体+13種類の準正多面体)そして末尾の画像に映る造形は、昨年(2022年)の「冬至」の頃に完成した、一辺の長さが綿棒の二本分からなる”大きな『正12面体』”の軸線構成である。この”大きな『正12面体』”の構成内容を紐解くとすれば、冒頭画像に映る『正12面体』を全部で20個用意したとするイメージで、20個ある各立体の一つの頂角が”大きな『正12面体』”の中心を共有するかたちで統合したものとなる。下の画像では分かりづらいのだが、この造形の中央には”中心核”があり、その中心となる核から計30本の軸線が、あらゆる方向へ放射状に発出しているかのように見えるところが大きな特徴である。この”大きな『正12面体』”は、まるで”真理探究「41年」”を寿ぐかのように結晶化した作品と言えよう。※関連記事・・・「冬至」に寄せて
2023年05月17日
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