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2025年2月11日の午前11時頃、縁あって大分県宇佐市安心院の「轟山(標高299m)」の8合目に鎮座する磐座群を訪ねた。そこで冒頭の画像は、「月」を寿ぐ縄文系”古代宇佐族”の祭祀場と思しき「大小四つの磐座」が威風堂々と並ぶ風情を、その祭祀場の中心と感じた場所から山上に向かって撮影したものである。上の画像の中央部に並ぶ一対の磐座は、なぜかその時の私には”桃の節句”の〈雛壇飾り〉の最上段に並ぶ「男雛(左側/向かって右側)」と「女雛(右側/向かって左側)」に観え、またこの”夫婦雛”を象る磐座の左右に並ぶ大きな磐座は、その「夫婦岩」に寄り添い門出を祝う「高砂の老夫婦」の象りに観えたのであった。次に上の画像は、冒頭画像の中央部に並ぶ”夫婦岩”を後方から撮影したもので、この方向から見ると左側の磐座が”男性性”を象徴する形態であり、右側の磐座が”女性性”を象徴する形態ということが良くわかり、この”ほのぼの”とする造形を施した古代人の心情を如実に読み取ることができる。そして上の画像は、上記の「夫婦岩」から左方にかけて鎮座する大岩(左端の尖った磐座)を撮影したものである。この風情を見た私は、「三日月」(右端に映る男雛の磐座)から「半月(上弦の月)」(左端に映る尖った磐座)に至る、「月」の形状の変化を感得したのであった。この磐座群を訪れた日は、折しも翌日の「満月(新暦2月12日/旧暦1月15日の旧小正月)」を控えた前日だったこともあり、この【「月」を寿ぐ祭祀場 】との遭遇は感慨一入であった。○関連記事・・・旧暦の小正月この末尾の画像は、上の画像の左端に映る「半月」と感得した磐座を、反対側から撮影したものだ。その高さは5mを越えており、おそらく東に面して意図的にカッティングされたこの磐座は、東方より昇る「月」や「太陽」を反射する《鏡岩》の役割を担っていたであろう。そういえば昨年の12月15日(旧暦11月15日)、約20年周期で最も天頂近くを巡る「北限の満月」を寿ぐ機会に恵まれたこともあり、その流れを汲んでこの「月」を寿ぐ”古代の祭祀場”へ導かれたのであろう。☆関連記事・・・令和6年12月15日「北限の満月」を寿ぐ
2025年02月18日
「令和七年」(西暦2025年)の”新春”を寿ぐ形代は、その年数の「七」と共振・共鳴し、海上の天空を回転しつつ飛翔する《 動態的な「立体七角形」 》(冒頭画像に映る造形)である。そして末尾画像に映る造形は、冒頭画像に映る造形を真上から撮影したもので、その上に「立体七角形」の中央部における絶妙な”開き加減”が分かるよう七つの「正三角形」を円環状に配置したものだ。造形表現としては、全体として”左回り”に回転しつつ開放へ誘う方向付けを施し、ここで〔宇佐神宮〕の神紋「左三つ巴」に擬えるとすれば、この形態は「左七つ巴」ともいえる動態的構造となっている。この「立体七角形」については、当日記では何度も取り上げてきたわけだが、(私なりの解釈としては)「安定的維持」を大前提とした「破壊的創造」の”しくみ”という意味合いとなる。さらに分かりやすく言えば、心身の「健康維持」のため健全な「新陳代謝」をうながす”きっかけ”という表現が妥当であろう。これまで締まり閉じていた「暗黒の世」から、今年より(左回転で)緩み開いていく『光明の世』へと、大きく飛躍し転換する「令和七年」にならんことを、共感される方々と共に期待しているところである。☆関連記事・・・新年「開けまして」おめでとう!
2025年01月01日
本日の冒頭画像は、近郊の大きな店舗に飾られていた”クリスマス・ツリー”を撮影したものである。さて、”クリスマス・イブ”の昨夕のことである。今回の奈良は「三輪山」周辺の散策で、”大和三山”の「天香久山(あめのかぐやま)」近辺を訪ねたことがキッカケとなり、日本神話を代表する”天の岩戸”の伝説において、この天香久山に植生の一本の立派な「真榊(まさかき)」を”根こそぎ”に抜き、これに様々な飾り付けをした姿が、なぜか冒頭画像のような”クリスマス・ツリー”に重なって観えてきたのであった。そして、その飾り付けの施された“根こそぎの真榊”(クリスマス・ツリー)の本質とは、末尾画像の〔冬のダイヤモンド〕を構成する星々を基盤とする『冬の星座』を示していると感じたのであった。その直感から類推すれば、冒頭画像に映る”クリスマス・ツリー”の、ひときわ輝く《トップ・スター》とは、全天において天頂の最も近くで輝く一等星の「カペラ」だと閃くのであった。そこで末尾画像の『冬の星座』を表した天体図を参考にしつつ、”クリスマス・ツリー”のような「聖なる樹木」として装飾された“根こそぎの真榊”に関する解説をしていきたいと思う。ここで、そもそも「真榊」とは何かを簡単に紐解くと、一般に神社の祭壇に神事の際に立てる祭具としての「榊 (さかき)」で、「三種の神器(勾玉・鏡・剣)」を掛けたものとされ、また日本神話の”天の岩戸”という代表的伝説において”「天香山」の「五百津真賢木(いほつまさかき)」”の故事が淵源とされている。上記のように、今回の”クリスマス・イブ”に直感したビジョンは、美しく装飾された一本の“根こそぎの真榊”(クリスマス・ツリー)であり、その本質は『冬の星座』だと洞察できたということであった。そこで、その装飾の基本となる「三種の神器」の配置を簡明に記すと、真榊の〈上の枝〉には「プレアデス(すばる)」を模した「勾玉」、〈中の枝〉には「アルデバラン」の輝きを表現した「八咫の鏡」、そして〈下の枝〉には「三ツ星」を一つに貫くような「御剣」をそれぞれ掛けて飾ったであろう。そして“榊の頂”は〔冬のダイヤモンド〕の筆頭たる「カペラ」、また“榊の根”は〔冬のダイヤモンド〕の末尾たる「シリウス」と見立てられ、画像では「緑色の太線」で双方を結ぶ真榊の「幹」を表現した。以上の見解は、これまで自分の中に蓄積した様々な経験なり記憶が走馬灯のように発露し、そのビジョンを適切に文章化できた充実感に浸っているのだが、参考かたがた関連する記事を以下にリンクしておく。※関連記事・・・南十字星と十字架※関連記事・・・「春の旅」の締め括り(中)※関連記事・・・「冬の星座」に隠された古代信仰※関連記事・・・3と7だ!それだけ覚えておけ!(2-C)
2024年12月25日
今年の「冬至」の翌日となる令和6年12月22日の早朝、当日より日照時間が長くなる《一陽来復》の「日の出」に間に合うよう、かねてより提唱してきた〔山口と九州を貫く『冬』の南北軸〕の山口県中央部の”南の起点”となる「岩屋山」(山口市秋穂)を目指して車を走らせた。道中の天候は曇りがちだったが、現地に近づくにつれて朝日の昇る方向が明るくなってきた。これは”いける!”ということで、「岩屋山」の中腹にある磐座群の「鏡岩」と名付けた磐座の前で「日の出」を待ち、いよいよお出ましの《一陽来福》の"朝日"を撮影したものが冒頭画像である。上に並ぶ二枚の画像と地図には、「青」・「黄」・「紫」の3本の線が引いてあるが、直下にリンクした関連記事から抜粋する形で、今回は「青の線」と「紫の線」の2本の線が示す月日や方位等について以下に解説しておこう。◎関連記事・・・「岩屋山」の磐座群と〔山口と九州を貫く南北軸〕(特別編)この起点となる「鏡岩」から見て、〔紫〕と〔青〕の軸線が示すそれぞれの山頂から昇る朝日は、暦の如く年間の決まった月日であり、この〔紫の線〕が示す山頂から朝日が昇る月日は毎年10月23日頃と2月20日頃で、〔青の線〕が示す山頂から朝日が昇る月日は「冬至」の12月21日頃である。つまり昇る朝日が顔を出す位置が、〔紫の線〕の示す山頂から〔青の線〕が示す山頂へ至り、そこから反転して〔紫の線〕が示す山頂に至るまでの一往復となる期間が、10月23日(冬の始まり)から12月21日の「冬至」を挟んで翌年2月20日(冬の終わり)までの《冬期の120日間》となるわけだ。おそらくこの「鏡岩」は、「冬の始まり」を示す10月23日頃と「冬の終わり(春の始まり)」を示す2月20日頃に最も朝日を反射して輝くよう設計され、また『冬』の期間の約120日間にわたって、対岸の海人族系の住民に向け朝日の反射光が輝き続けるよう、まるで”凹面鏡”のごとく加工されたことが考えられるというわけだ。実はこの「岩屋山」の山腹に、かつて「冬至」の”日の出”に絞り込んで観測する”岩組み”を見出していたことを、この日記を書いている最中に思い出したので、以下にリンクしておこう。令和6年12月22日の”朝日”を存分に浴びつつ、〔山口と九州を貫く『冬』の南北軸〕の軸線上にある「岩屋山」の一帯は、古代において特に『冬期』の”太陽の運行”を的確に観測するための、精密な”岩石の加工や配置”を施した装置として機能していたことを推考することでき、感慨無量の一時であった。◎関連記事・・・天地を繋ぐ『虹』の出現、その背景には・・・末尾画像は同日の午前8時頃「岩屋山(標高101m)」の山頂より《一陽来福》の"朝日"を撮影したものである。
2024年12月23日
前回の日記でも書いたが、先日の12月15日の「北限の満月」は別格だからでろう・・・あたかも必然的な導きを得たかのように大和国(奈良県)へ歴史探訪の運びとなった。そこで上の画像は、当日予定していた「三輪山」近辺の行脚を終えた後に、奈良県山添村にある「神野山(標高619m)」の裾野に広がる”月ケ瀬神野山自然公園”の高台より、当地の「月の出」時刻の午後4時20分を経た午後5時頃の「北限の満月」を撮影したものである。「月ケ瀬」という地名に相応しく、最も北側(真東から北に約33°振れた方位)から昇る”高い月”の麗しき風情を拝観することができ、ありがたき幸せを噛み締めたのであった。実は今回の行脚の初日(15日)は、「卑弥呼」の後を継いだ女王「トヨ(台与)」が豊国(大分県)から大和国(奈良県)に入り、大和国一之宮「大神神社」の神体山「三輪山(標高467m)」の近辺にて、結果的ではあるが〔月神〕を祭祀したとされる”二ヶ所の聖地”を訪ねることになったのであった。(※当記事の参考書籍等は「出雲口伝」を含む)そこで上に掲載した地図は、「三輪山」を中心とする大和地域であり、今回訪れた場所を代表して順に右上の「白石の神域」、次に左側で赤点の「檜原(ひばら)神社」、そして左下の「大神(おおみわ)神社」を示した。まず上の画像は、「白石の神域」にある《二重の円形を土台に白い小石で敷き詰められた祭祀場》を撮影したもので、古代より特別な祭祀空間として現代まで守られてきたようである。旅路より帰宅してから確認できたことだが、上の地図の「三輪山」を基点とする東西軸と、「三輪山」と「白石の神域」を結ぶ線が形成する角度を〔約33°〕と示したように、前回の日記に書いた約18.6年周期で「北限の満月」が昇る方位となっていた。この事実には私も心底驚いたのだが、おそらく〔月神〕を祀る祭主たる女王「トヨ」は、月の運行による18.6年周期を熟知しており、活躍していた三世紀頃の「三輪山」から見て「北限の満月」が昇る方位にある「白石の神域」の位置に、上の画像に映る《白石の祭祀場》を形成したのであろうと、後日になって如実に感じたところである。そして上の画像は、「檜原神社」とその由緒書を撮影したもので、由緒にあるように「豊鋤入姫」は当社にて「天照大御神」を祭祀していたと書かれているが、”出雲口伝”を参照すると当社で祀られたのは「月神」であったということである。加えて”出雲口伝”によると、女王「トヨ」は豊国の宇佐(現在の”御許山”を神体山とする「宇佐神宮」の鎮座する地域)より大和国に入って来たことから「豊来入姫(とよきいりひめ)」という名前であったが、日本神話では名前を「豊鋤入姫(とよすきいりひめ)」と意図的に変えられ、当人が誰だか分からないようにされたとのことである。(※また「宇佐」から来た女王「トヨ」は、「ウサメ(宇佐女)」とも呼ばれ、日本神話では「天鈿女(アメノウズメ)命」と記されたとのこと。)次に参拝したのは大和国一之宮「大神神社」であった。そこで上の画像は、「三輪山」を御神体として祀る当社の威風堂々とした拝殿を撮影したものである。先ほどの「檜原神社」からは”山の辺の道”を歩き、その道中にあって「三輪山」山頂への登山口となっている「狭井神社」に参拝すると、登山道の整備のため翌日に予定していた登拝は無理だと判明した。残念ではあったが、それはそれで計画の練り直しができたので、事前調査ができて良かったわけである。これまた後日になって確認できたことだが、上の画像に示したように「三輪山」を基点とする東西軸と、「大神神社」から「三輪山」を結ぶ直線が形成する角度が〔約30°〕で、この角度は「大神神社」から見て「三輪山」山頂から昇る朝日が「夏至」の方位を示していた。つまり「三輪山」山頂を要とする二本の方位線は、夏至の”日の出”〔約30°〕よりも約3°北方から昇る約18.6年に一度訪れる「北限の満月」の”月の出”〔約33°〕を明示しており、実に感慨深いものがあった。そして当日の15日に「三輪山」の麓で泊まったホテルは、最上階に天井の開いた展望露天風呂があり、ありがたいことに真夜中に天頂部を移動する「高い月」を、じっくりと湯浴みをしつつ拝することができた。加えて末尾の画像は翌16日の朝、ホテルの窓から西方に沈みゆく月(画像の右側中央)を撮影したものだ。ちなみに画像左側の秀麗な二並びの山は、「檜原神社」から西方に展望できる「二上山」である。この12月15~16日は、「北限の満月」の祭祀場であったであろう「白石の神域」を訪ねた後、「昇り来た満月」から「天頂に近く最も高い満月」、そして「沈み行く満月」を拝することができ、約18.6年に一度の「高い月」を存分に堪能することのできた贅沢な時空であった。そして本日の12月21日は「冬至」である。そこで今年の「冬至点」の時刻は〔午後6時21分〕ということだ。なので本日の「冬至」の太陽は、年間で最も弱い(日照時間の短い)太陽であり、明日12月22日の「日の出」(山口の”日の出時刻”⇒午前7時16分)が「一陽来復」の”新生の太陽”ということになる。明日の朝は、本来の”一年の始まり”となる陽光を浴び、自身の〈心の光〉を「弥栄」に輝かせよう‼※「冬至」については、12月25日の「クリスマス」までの期間を含め、これまで何度か取り上げてきたので、以下に過去記事のリンクを貼っておく。◎関連記事・・・「冬至」に向けて◎関連記事・・・「冬至」の調べ…走馬灯のように…◎関連記事・・・「宇佐」と「伊勢」における《冬至の日の出線》の再認識(上)◎関連記事・・・クリスマス・ツリー
2024年12月21日
今年2024年の最後の《満月》は、12月15日(旧暦11月15日)である。その東方から昇る《満月》を、解りやすいよう〔ステラナビゲーター〕を活用し、日時と場所(山口県)を設定・作図した画像が上である。(※山口県の”月の出”の時刻は16:40頃だが、上図では満月の下端が地平線に接する状態で作図している。観測地点から見て東北方面に山岳がある場合、”月の出”は自ずと遅くなる。/満月の時刻は18:03頃)そこで、なぜ今月の《満月》が特別なのかと言えば、月の公転軌道の約18.6年周期において、最も「高い月(※1)」の”極大期(※2)の満月”が昇る日が【 2024年12月15日(日曜日)】だからである。(※1)月の運行の”極大期”において、〔冬至〕に近い”満月”は〔夏至〕の日の出方位よりも約3°北から昇り、夏至の太陽より天頂に近く高いところを巡るので「高い月」と言う。(※2)地球から見た”月の軌道”は、太陽の運行と月の満ち欠けの規則性により、約18.6年周期で高低が変化する。その周期において”北限の満月”が最も高く昇る時期を「極大期」と言う。興味深いことに近年、この約18.6年周期という月の運行の”極大期”において、上記の最も「高い月」の《満月》が昇る精確な方位を、明確に意識して建造された”弥生時代の建物群”が確認されたとのことだ。それは、弥生遺跡として全国的に有名な「吉野ヶ里遺跡」の中心となる祭祀場だった「北内郭(※)」を基準に精細な観測データにより導き出されたもので、東洋大学の北條教授の学説(以下の関連動画や資料に詳しく解説)によると、同遺跡に建設されていた「北内郭」は、”月の運行”に合わせた「暦を知る装置」として設計されていたことが判明し、結果として【弥生時代における「月信仰」の重要性】が浮上したということである。(※)「北内郭」とは、吉野ヶ里環濠集落の祭祀儀礼の中心地であり、祭祀を中心に様々な儀礼が行われていた場所のこと。そこで下の画像は、今年の8月に久しぶりに訪れた当遺跡の「北内郭」の入口にあった解説板を撮影したものだ。上記の北條教授を中心とする研究グループは、天体観測や地文測量等の先端技術を駆使し、「北内郭」にあった”主祭殿”を中心とする六棟の建物が、すべて約18.6年周期という「月の運行」の”極大期”における《満月》の月の出を指標として建造されていることを確認できたことから、上記の内容が判明したそうだ。そこで上の画像は、「北内郭」の内部に林立する建物群を、ひときわ大きな「主祭殿」を中心に撮影したものだ。あの「卑弥呼」が活躍した時代と重なる三世紀前半(弥生時代後期)の、”吉野ヶ里遺跡”の最重要な施設となる「北内郭」において「主祭殿」を中心とする主要な建物群が「月の運行」を基盤に綿密に設計され建造されたか思うと、まさに感慨一入である。加えて「北内郭」に存在した建物群は、主に「月」の移動から”時”を計測し”暦”を作成する場所であったことを意味することから、この「北内郭」で行われた”祭祀”は主に【月信仰】だったと認識できるということだ。古代より「月」は”生命の根源”とされ、特に《満月》は生命力が満たされた状態と考えられてきた。その《満月》から降り注ぐ”生命力”の拝受を願う人々が、「月」への祭祀儀礼を行っていたのであろう。この吉野ヶ里遺跡の「北内郭」は、そうした「月」を祭祀する舞台だったと考えられる。ここで今回の記事を俯瞰してみると・・・古代日本人は「月」の運行を注視しており、特に約18.6年周期で訪れる”極大期”の「高い月(北限の満月)」の月の出を重要視してきた形跡を、日本を代表する弥生遺跡である吉野ヶ里遺跡の「北内郭」に見出すことができた。この「月の運行周期」の約18.6年は、「伊勢神宮」において20年に一度建て替えられてきた「式年遷宮」の基盤にあった周期と推測できるそうなので、その意味においても今年12月15日の《満月》は、全国の神社で『大祭』が斎行されるに相応しい特別な祭祀日といえるのではないだろうか・・・。もし以上の見解に共感される方は、個々人の心中に希望の光を灯しつつ、これからのより良い未来を展望すべく、この度の目出度い『北限の満月』を、共に寿ぎたいものである。折しも12月14日(土)・15日(日)は、佐賀県の「吉野ヶ里歴史公園」にて、第10回「考古天文学会議」が開催(詳細は末尾画像)されるので、興味のある方は参加されてみてはいかがであろう。末尾の案内に記載の「考古天文学会議」に登壇される北條教授によると、この度の吉野ヶ里遺跡の「北内郭」から見る12月15日の”北限の満月”は、16:57に月齢14.1の月の出(月の下端が山の稜線に接する状態)が、夏至の日の出より約3.2°北の方位(真東から北に約32°振れた方位)に観察できるとのことである。◎関連動画・・・卑弥呼が見た星空…高く昇る満月の謎に迫る☆関連資料・・・「吉野ヶ里遺跡と夏の天の川説の謎」…雑誌「歴史人」3月号より※関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路(7)
2024年12月12日
この度の「神在月」の出雲行脚において、最後に参拝したのは「月讀(つくよみ)神社」であった。そこで上の画像は、島根半島は最西端の「日御碕」にある当社の登山口を撮影したものだ。この「月讀神社」の存在を知ったのは、実はこの度の出雲行脚(二泊三日)の過程だったと思う。この連載の冒頭記事に書いたように、今回の旅路は出雲地域における「宇佐神宮」の祭祀に纏わる古代氏族「宇佐族(菟狭族)」の神跡を訪ねる意図もあったので、その最後を締め括るに相応しい聖地の参拝となった。この「月讀神社」への参拝ルートは、なかなかに分かりづらく往生したが、冒頭画像に映る当社への登山口を見出すだけでも、かなりの時間を要したことを憶えている。加えて当日は、午前中から雨模様ということもあり”雨ガッパ”を被っての登拝となった。そこで上の画像は、登山ルートの中腹にある当社の鳥居と共に、その先に続く登山道を撮影したものだ。そこから先が…さほどの距離ではないのだが…上に続く二枚の掲載画像のように、大ぶりのシダ類に阻まれ、しかも滑りやすい登山道が続くことから、ここでリタイアする人もいたのではないかと思われた。旅路に持参していた登山靴で登ったことも功を奏して、雨模様にもかかわらず意外にスムーズに登ることができたのは幸運であった。そこで、この山頂部に鎮座する「月讀神社」を撮影した画像が上である。登り始めたころは小雨が降っていたが、有り難いことに山頂部では上の画像のように陽光が射し込んできて・・・よく来たなぁ・・・と、出雲の大自然に歓迎された感じがしたのであった。そして上の画像は、社殿の右側にあった社名と祭神の記された木札を撮影したものだ。この木札に「末社」と記されているように、下の画像の右下にある「月讀神社」は「日御碕神社」の末社とされている。一般に「日御碕神社」いえば、〔アマテラス〕を祀る「日沈宮」と〔スサノヲ〕を祀る「神の宮」の両社を総称しての当社の社名なのであるが、これまで記述してきたように、その末社として〔ツクヨミ〕を祀る「月讀神社」が鎮座していることから、いわゆる日本神話で「三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノヲ)」とされる”三柱の神々”が揃って祀られた、かなり珍しい神社ということになるであろう。そもそも〔ツクヨミ〕という神名が象徴する宇佐族(菟狭族)は、月の動きを見て月日を数える「つきよみ(月読)」や「ひじり(日知・聖)」によって、天候や季節の移り変わりを見定める「天津暦(あまつこよみ)」を作ることが天職であった。満月の月面に見える模様を「ウサギ」に見立て、月を「ウサギ神」として崇拝し、それで「菟狭族」と称するようになったことから、「ウサ族(菟狭・宇佐)」の神とは「月神」となるわけである。この見晴らしの良い展望所にて、「宇佐神宮」の神主家につながる古代の宇佐族(菟狭族)が、精細な天体観測により「天津暦」を作っていたと推理し思いを馳せると、感慨無量の心境になるのであった。(了)
2024年12月11日
次に向かったのは、特異な三重環濠を持つ弥生時代の集落遺跡とされる国指定史跡「田和山(たわやま)遺跡」(松江市乃白町)であった。そこで上の画像は、その遺跡のある丘陵の最上部から見てほぼ真東に存在し、ほどよく雪を被って美しく映える伯耆富士「大山」である。これまで当遺跡には何度も訪れたことがあり、この東方に鎮座する四季折々の「大山」を観てきたが、今回の旅路で展望した「大山」の姿が一番素晴らしかった。ちなみに「大山」の左側に映る二並びの山は、〔出雲風土記〕の伝える”神名火山”の一つで「茶臼山」だ。上の画像は「田和山遺跡」の解説板を撮影したものだ。遺跡全体の地図や画像入りなので分かりやすい。画像の遺跡地図にある三重環濠に囲まれた中央部に丘陵の最上部があり、その「山頂部ゾーン」(二つ下の画像に解説版)にある「9本柱遺構」を中心に、東南方面から「宍道湖」方面に向けて撮影した画像が下である。冒頭で出雲地域にある”神名火山”の一山を紹介したが、「出雲風土記」には画像の前方に広がる「宍道湖」の周囲を守るかのように四つの”神名火山”(神の宿る山)として、東の「茶臼山」・正面の「朝日山」・西の「仏経山」・西北の「大舟山」が記されており、ここ「田和山」の山上部からはその全てを望むことができる。この史跡「田和山遺跡」の丘陵地は、おそらく弥生時代において出雲王国の重要な祭祀場と位置付けられ、この山頂部には祭祀を斎行する神殿が存在したのであり、その痕跡が「9本柱」の遺構として残ったと思われる。ここで”出雲口伝”を参考にすれば、弥生時代に起きた大きな闘争を経た後、〔東出雲王家〕の「富家」の差配により出雲王国の〔霊時(祭りの庭)〕を、宍道湖の東南にあって見晴らしの良い田和山の丘陵地に遷したということである。この「9本柱遺構」の真ん中にある柱(切断部)の真上に、「伯耆大山」がくるよう撮影した画像が上である。この言わば古代の「田和山神殿」は、東方に見える秀麗な「大山」を強く意識して建造されたことが、良くわかる画像ということができよう。この「9本柱遺構」が示す”9本柱”の型は山陰地方に多くあり、この型の9本柱に壁と屋根と床が付いて社殿に発展したものが、「大社造」(※1)の”本殿形式”(縦横3列9本の柱が田の字型に配され、本殿の中心に〔心の御柱〕がある形式)と類推できることから、「出雲大社」における”本殿形式”の大元ではないかと研究者の間で考えられているようだ。(※1)「大社造」とは出雲大社の”本殿”を原型とする古い社殿の建築様式。さてここで興味深いのは、この田和山に存在した古代出雲神殿(9本柱遺構)の向かう方位である。実はこの「9本柱遺構」に関しては、かつて測量士による正確な調査が行われており、上の画像に映る9本柱の向かう方位が”真南から20度ほど東に振れた角度”になることが分かっている。つまり、この”田和山神殿”の遺構(9つの柱穴)が示す方位は「シリウス方位」になっており、しかもその方位線を先に延ばすと”スサノオの伝説”でも聞こえた奥出雲の「 船通山(標高 1,142m)」を通るのである。この「船通山」は、田和山の山上からは見えないのだが、古代より「伯耆国」と「出雲国」の国境にある重要な御山ということからも、この”古代神殿”が田和山に建造された背景に大きく「シリウス方位」があり、本来は天体観測や地文測量を行う起点となる建造物として、意図的かつ緻密な計画の元に創建された可能性があることを指摘しておきたい。☆関連記事・・・「シリウス信仰」の痕跡今回の出雲行脚におけるシリーズ(1)でも、神社や山に関連する配置から「シリウス方位」を確認した経緯を書いたが、ここ「田和山遺跡」でも確認できたことは”大きな成果”だと感じたところである。☆関連記事・・・「神在月」に出雲行脚(1)さて「田和山遺跡」を後にして次に向かったのは、出雲国二ノ宮「佐太神社」(松江市鹿島町)であった。(下に続く2枚の画像)この「佐太神社」に参拝した日時は、令和6年11月25日の午後2時頃で、奇しくも当日は「神等去出神事」(※)が午後8時から斎行されるという当社における「神在祭」の最後となる祭典だったこともあり、上下の画像のように本殿が三殿からなる拝殿には近づけないよう結界が張られ、上の画像では左側手前(下の画像では右側手前)に映る”賽銭入れの施設”を兼ねた仮設の社務所が建てられていた。(※)「神等去出(からさで)神事」とは当社では「神送り」ともいい、夜になると斎主が神籬(ひもろぎ)を捧げ、大勢の神官がこれに従って当社裏手の北西方位にある「神ノ目(かんのめ)山」に登って神送りをする儀式。かつては秋鹿の”神名火山”である「朝日山」(佐太神社の神体山)まで送ったといわれている。「佐太神社」は上の由来書きにあるように、主祭神の「佐太大神」をはじめ多くの神々が祀られている。その祭祀された神々の中でも当社は、八百万の神々の母神である「伊弉冉(イザナミ)尊」の大元の社とされ、その背後の山に「伊弉冉尊」の陵墓を祀っていると伝えられてきた。また中世の頃に、古来より「伊弉冉尊」の陵墓とされた「比婆山」の神陵を遷しお祀りしたとも伝わる。 そこで下の画像は、当社境内の西端にある「母儀人基社(はぎのひともとしゃ)」への特別な結界を張られた入口を撮影したものだ。この「母儀人基社」は、前方左奥の階段を登った高台に鎮座する上述した「伊弉冉尊」の陵墓(磐境)を祀る社である。あいにく当日は参拝を許されなかったが、これまで何度か当社の陵墓を訪れたことがある。その佇まいは深遠にして、おそらく当社社殿を創建する以前にあった古代祭祀の御神座ではないかと思われる。参拝の帰りに当社駐車場内にある茶屋にて、以前から食べてみたかった「佐太神社」の周辺に伝わる「ぜんざい」を味わうことができた。この「ぜんざい」は、砂糖が日本に伝来する前から伝わる起源の味とされる。当社の「神在祭」にお供えされてきた小豆と餅を、神様がお帰りになる「神等去出」の日の朝、煮てからもう一度お供えしたものを「神在餅=ぜんざい」と言い、「神在(じんざい)」が「ぜんざい」の語源になったと伝わる。古来の「ぜんざい」は薬膳の一種とされ、小豆と餅のみの素材のほのかな甘みを味わったそうで、私もその体に染み入る素朴でふくよかな味わいを、「神等去出神事」が斎行される祭日の夕刻に堪能することができ感慨一入であった。(つづく)
2024年12月08日
今回の出雲行脚では、旧暦十月は「神在月」の期間中ということもあり、「出雲大社」をはじめ著名な神社を巡ったのだが、この連載記事では参拝した各社の中で、印象に残る神社等を取り上げることにした。そこで次に参拝した神社は、前回の出雲行脚で初めて参拝した雲南市三刀屋町に鎮座する「三屋(みとや)神社」であった。◎関連記事・・・「出雲大社」の創建にまつわる伝承より(上)そこで上の画像は、「三屋神社」へ参拝する鳥居より上方の随神門を展望したものである。次に上の画像は、「三屋神社」の拝殿を正面から撮影したものだ。上掲のリンク記事と重複するところもあるが、”出雲口伝”に基づき詳しく解説すると、「西出雲王朝」を司る”神門臣家”の第八代〔大名持〕の「八千矛王」(※1)は、「徐福」(※2)の忠実な部下であった「天穂日(アメノホヒ)命」(出雲大社の初代宮司)とその息子である「武夷鳥(タケヒナトリ)」の策略によって殺害されたため、まず「八千矛王」を祀る神社が”神門臣家”により、上記の「三屋神社」が建立されたとのことである。(※1)《八千矛(やちほこ)王》は、”記紀神話”においては「大国主命」と記される。(※2)「徐福(じょふく)」とは、今から約2200年前に中国を統一した「秦の始皇帝」の命を受け、”不老不死の霊薬”を求めて3,000人の童男童女と多くの技術者を従え、五穀の種を持って日本に渡来した方士(学者)。実は始皇帝に滅ぼされた斉の国の皇太子であったが、始皇帝にその頭脳を見込まれ仕えていたとされる。そして西暦716(霊亀2)年に創建された「杵築大社(現在の出雲大社)」は、「八千矛王」の遺体が「杵築大社」の北方の「竜山」に埋葬されていたため、その御山を拝礼できる場所に当社を建てるように”神門臣家”が建設地を指示し、「三屋神社」から「八千矛王」の御神霊が遷座されたとのことだ。以上の経緯があったがゆえに、「三屋神社」は「出雲大社」の”元宮”ということになるわけである。いずれにしても、あの「出雲大社」の創建が奈良時代の始めだったということに、驚かれた方も多いのではないかと思う。そして、当社に参拝し拝殿の上方を見上げると、上の画像のように「玉を手に持つ龍」の立派な彫刻が目に入った。この木彫りの龍が手に持つ”金色の宝珠”を見ていると・・・そういえば自身の軸線構成により立体を造形する制作活動を俯瞰すると、この《 龍が持つに相応しい”玉” 》を模索し作り続けてきた・・・との感慨が沸々と湧いてくるのであった。そこで上の画像に映る造形は、基本立体のなかで最も”球”に近い「準正32面体」(サッカーボールの形状)の軸線構成である。図らずも今回の旅路では、この造形を車中に乗せての行脚であった。◎関連記事・・・「準正32面体」の本質的構造そして懐かしく思い出されたのは、もう10年以上前のことではあるが、かつて「出雲大社」での正式参拝の折、この言わば『龍王の宝玉』を自身の手に持ち、本殿の御垣内に参列したことであった。(つづく)
2024年12月06日
次に向かったのは、前回の出雲行脚で初めて参拝した「朝山神社」であった。そこで上の画像は、当社拝殿の神額が掲げてある扉を撮影したものだ。そして下の画像は、その扉の下方に掲載された当社の「祭典日時」が書かれた内容である。この祭典日時の冒頭に、「神迎祭」として”令和6年11月1日(旧10月1日)より”と書いてある。下の関連記事(後半)にも記したが、古代より出雲地域で毎年斎行されてきた「神在祭」の初日から「神送祭」までの10日間の祭祀は、「出雲大社」に先立ち「朝山神社」が担当してきたことが分かる。※関連記事・・・「出雲大社」の創建にまつわる伝承より(下)上の画像は当社拝殿と、その右側手前の「朝山十九社」(摂社)の並びを撮影したものだ。そして上の画像は「朝山十九社」を正面から撮影したもので、当社の扉に張られた祭典の解説を映した画像が下である。以上の祭典次第で分かるように、古代より現代まで旧暦10月の1ヶ月間、出雲国で毎年斎行されてきた「神在祭」において、当社が祭典の冒頭を担う重要な祭祀場だったことが認識できる。さて今回の「朝山神社」への参拝は、初回の参拝後に当社の神紋(冒頭画像に映る神額に描かれた”百合〔ゆり〕”の紋章)に「ベシカパイシス」を感得したことを契機に、列島中央部への歴史探訪が実現したことの”御礼参り”という意味合いもあった。加えて、当社主祭神の「眞玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと)」と前回の日記で記述した「実巽神社」の主祭神「八上姫命」と、この二柱の女神を「異名同神」(神名は異なるが同じ神ということ)とする濃厚な説があることを知り、「神在月」の期間に再参拝の動機になったというわけである。次に参拝したのは先の「朝山神社」から近く、車で約15分のところに鎮座する「市森(いちもり)神社」(出雲市稗原町)であった。そこで上の画像は、当社入口の鳥居を撮影したものである。そして最上段に鎮座する本殿に向かう長い階段と随神門を撮影した画像が上だ。上の画像は「市森神社」の大きくて立派な拝殿を撮影したものである。この八十畳敷もの広さを有する拝殿は、出雲地域でも珍しいものとされている。下の画像に映る由来書にあるように、この「市森神社」の主祭神は「阿陀加夜怒志多岐吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)」であり、父神は出雲大社の「大国主命」、そして母神は朝山神社の「眞玉著玉之邑日女命」とある。そこで興味深いことは、当社の主祭神「阿陀加夜怒志多岐吉比売命」を、同じ主祭神として祀る「阿陀萱神社」(鳥取県米子市)の伝承や”宇佐口伝”等を参照すれば、「阿陀加夜怒志多岐吉比売命」=「木股神」=「下照姫命」の「異名同神」であり、前回の日記で取り上げた「御井神社」の主祭神に観えてくるところである。以上のことは、あくまでも”説”ではあるのだが、極めて濃厚な「異名同神」説と言っておきたい。「大国主命(第八代の大名持 八千矛王)」の最初の妻神であった「八上姫(眞玉著玉之邑日女命)」は、おそらく出雲国では肩身の狭い「菟狭族(宇佐族)」であったがゆえに、子神の「木股神(阿陀加夜怒志多岐吉比売命)」と共に、歴史的に隠蔽された母子神だったということができよう。(つづく)
2024年12月04日
今年の秋冬の季節は、なかなか紅葉を愛でる機会が無かったが、その時は本日の12月1日に訪れた。場所は「紅葉寺」として知られる山口市鋳銭司の「両足寺」。境内に植生する”ヤマモミジ”が、とても綺麗だった。画像ではあるが、晩秋に映える紅葉の美しい景観を堪能していただけたらと思う。
2024年12月01日
”出雲”では「神在月」(※)の期間内となる11月後半、またもや島根県の出雲地域を行脚する機会を得た。(※)「神在月(かみありづき)」とは”旧暦10月”のことで、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まる月とされる。出雲以外の土地では神様が留守になるので「神無月(かんなづき)」と言うが、出雲では「神在月」と呼んでいる。令和6年(今年)の「神在月」の期間は、新暦11月1日から11月30日まで。出雲地域を訪れたのは、今年(2024年)に入って4回目となり、今回は特に「宇佐神宮」の祭祀にまつわる古代氏族「宇佐族(菟狭族)」の、出雲地域における神跡を訪ねる旅路となった。山口から高速に乗り約4時間の運転を経て、山陰自動車道〔斐川 IC〕で降り最初に訪れたのは、冒頭画像に映る「御井(みい)神社」(出雲市斐川町)であった。そこで宇佐神宮の宮司家に伝わる『宇佐口伝』を参照すると、当社は「大国主」が「八上姫(菟狭族の姫)」を最初の妻として娶り、この地で産まれた御子「下照姫(シタテルヒメ)」を「木股神」として祀ったとある。なお、有名な「因幡の白兎」の神話物語に繋がる上記夫妻の婚姻等については、下の記事に詳しい。※関連記事・・・山陰地方の「白兎」伝説と現地探訪(下)次に上に並ぶ画像の二枚は、上は拝殿に向かって遠方より撮影、下は拝殿入口の神額を中心にして撮影したものだ。当社の解説版(冒頭画像から二枚目)にも書いてあるが、上の画像は社名の由来でもある「三つの井戸」(三井⇒御井)について書かれた境内の看板を撮影したものである。ここで注目して欲しいのは、上の看板の左側地図の下方に示された当社の境外摂社「実巽(じっそん)神社」だ。当社は「御井神社」の主祭神「木股神」の母神である「八上姫」を主祭神として祀っている。実は前回の出雲行脚にて「御井神社」を参拝した際は、時間の配分もあって「実巽神社」の参拝までは許されなかった。ということで、上掲画像の看板に映る簡易地図では実際の地所が分かりづらい当社を、遠方から撮影した画像が上である。上の画像は、境外摂社「実巽神社」を撮影した画像である。今でこそ社殿は簡易な造りだが、「木股神」の母神「八上姫」を祀る社ということで連綿と祭祀が斎行されてきた歴史を踏まえ、ここを鎮座地に選定した背景があったのではないかとい直感から周囲を見渡し、印象に残る風景を撮影した画像が下である。上の画像では、上方の山並みに目立つ”尖った山”が特に印象的だったので、直ぐに胸元から方位磁石を出し調べてみると、やはり予想通りの「シリウス方位」(真南から東へ約20度の方位)であった。※「シリウス方位」にまつわる関連記事 ⇒ 「冬至」に向けてこの「シリウス方位」とは、「宇佐神宮」の祭祀において古代より重要視された方位、つまり宇佐神宮本殿から当宮神体山の「御許山」に向かう方位(南南東の方位)であり、ここ出雲地域においては菟狭族(宇佐族)の「八上姫」を祀る「実巽神社」と上記の”尖った山”が形成する方位と、場所の違った二本の「シリウス方位」がまるで重なるかのように俯瞰できたのであった。加えて、当記事を書く直前になって確認できたことだが、地図上で本社の「御井神社」と摂社の「実巽神社」を直線で引いた方位線が、驚いたことに「シリウス方位」を示していたのであった。ということは「御井神社」と「実巽神社」と”尖った山”が、〔三点一直線〕で結ばれていることになるので、おそらく本社と摂社の両社は創建当初より、「冬至」の真夜中に「シリウス」が昇る方位の真下にある”尖った山”を照準にした天体観測や地文測量を行った上で、意図的に配祀されたということになろう。※関連記事・・・シリウス信仰の復活へ※関連記事・・・冬至の調べ…走馬灯のように…そして末尾の画像は、上の画像に映る摂社「実巽神社」の階段を降りた前方の場所から、”尖った山”を含む南方の山並みを撮影したものである。これも後から分かったことだが、この南方に大きく映る山岳は「仏経山」(標高366m)であり、「出雲国風土記」によると”出雲国”を代表する「神名火山(かんなびやま)」の一つとされ、その意味合いは「神様が隠れこもる山」ということだ。この「仏経山」の山頂は「実巽神社」から見てほぼ真南に当たるので、古くは夜分において南方にある「仏経山」のなだらかな稜線を、まるでなぞるように移動する「南十字星」を、古代人は信仰の対象としていたのでは・・・と想像をたくましくすることができる。もしかすると出雲地域の古代人は、例えば年間でも大きな節目となる月日の真夜中に「仏経山」の山頂に”南中”する「南十字星」を拝し、巫女を中心とした特別な祭祀を斎行していたのではあるまいか・・・。日本神話における大地母神「イザナミ」の本質は、”八百万の神々”を”天空に輝く星々”とする観点から「南十字星」と比定でき、そのように説く数冊の書籍も既に出版されている。また「仏経山」の東方には「冬至」の真夜中に出現する「シリウス」を指標する”尖った山”も存在することから、この「木股神」の母神を祀る「実巽神社」の鎮座地は選び抜かれた聖地ということができよう。(つづく)
2024年11月29日
本日の2024年11月11日(月)の未明、「剣(つるぎ)」が自分の目の前で甦る(復元する)という”夢”を見た。その印象的だった”夢”を、以下に掻い摘んで記しておく。◎そこは最先端の機器を扱う研究室のような場所だった。その先端機器を最大限に駆使し、なぜか動物の「犬」の記憶を辿って、何かを丁寧に復元する現場に私は遭遇した。◎それは、今から復元しようとする『剣』を、かつてこの実物を見たことのある「犬」の脳裏に残る記憶から抽出し、それを具現化する作業のように思われた。◎そして、その先端機器により短時間で見事に甦った『剣』を見ていると、その『剣』の”持ち手”の上部に刻まれた二行の古代文字が、なぜか私には読めるのだった。◎そこには神代文字で「オホモノヌシ(大物主)」と「クシミカタマ(櫛甕玉)」と刻まれていたのであった。以上が今朝見た”夢”の粗筋だが、その”夢”から醒めて直ぐに思い出したのが、冒頭画像に映る「銅剣」のレプリカであった。(福岡県糸島市の「三雲南小路王墓」から出土した「有柄銅剣」の複製)この画像は、今年の秋に「伊都国歴史博物館」(福岡県糸島市)を見学した際に撮影したもので、改めて「銅剣」(複製)を見てみると、今回の”夢”で見た『剣』のイメージと瓜二つであった。そこで思い出したのは、当博物館を見学した折に当館の解説員から聞いた話である。これは一つの説として受け止めて欲しいのだが、その内容とは・・・「熱田神宮」(愛知県名古屋市)の御神体で、〔三種の神器〕の一つとされる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の実物を観察した人の話では、この展示された「有柄銅剣」と寸法や特徴が同じであった・・・ということである。これは私としても聞き捨てならない内容で、それは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも称された「草薙剣」の本質とは、かつては日本の国土から見えていた天体の「南十字星」のことであり、また私が今世に生まれ育ち現在も住んでいる山口市小郡の「小郡(おごおり)」の地名の由来が、”南天の夜空”に輝いていた「南十字星」だったからでもある。※関連記事・・・「二本(日本)」の御剣から※関連記事・・・展示会場のある「小郡(おごおり)」についてそして後に、その”夢”で見た『剣』の”持ち手”の上部に刻まれた「オホモノヌシ(大物主)」と「クシミカタマ(櫛甕玉)」を調べてみると、大和国一之宮「大神神社」(奈良県桜井市)の主祭神に「大物主大神」とあり、その別名に「倭大物主櫛甕玉命」とあったことから、当社の主祭神を刻んだ『剣』と認識できたのであった。加えて少し複雑な解説になるのだが、いわゆる「出雲口伝」に基づけば、当社の主祭神「大物主大神」とは、古代出雲国(東出雲王家)における第八代〔スクナヒコ(副王の役職名)〕の「八重波津身(ヤエハツミ)」であり、記紀における名称は「事代主(コトシロヌシ)命」となっている。つまり”夢”で見た『剣』に刻まれた神名たる「 オホモノヌシ クシミカタマ( 大物主 櫛甕玉 )」とは、大和国一之宮「大神神社」の主祭神「大物主大神(事代主命)」のことであり、その神名を『剣』に刻み「三種の神器」の「草薙剣」(本質は「南十字星」)として甦ることとなり、この期に及んで”夢”ではあるが私の眼前に顕現したと解釈できよう。興味深いことに、上記の代表的な神名で「オホモノヌシ(大物主)」を〔数霊(かずたま)〕で計算すると「121」となり、「11」×「11」=「121」=「オホモノヌシ」ということからも、まさしく本日の11月11日という”ゾロ目”の月日に相応しく、また本日を狙いすましたかのような”夢見”であった。最後に付け加えると、今朝の”夢”に登場した『剣』を記憶する「犬」とは、おそらく〈大犬座〉の一等星で「ドッグ・スター」とも呼ばれる「シリウス」を暗示していることから、今回の”夢”で見た『剣』は夜空で一番輝く星「シリウス」の”介添え”(後ろ盾)により甦ることになったと感じている。
2024年11月11日
まず上の画像は、「冬の始まり」を告げる10月23日(二十四節気では「霜降」の頃)の夕暮れを撮影。茜色に染まる夕焼けが、抜群の美しさを放っていた。次に11月6日の午後、米国のトランプ氏が次期大統領に当選確実だと感じた時、たまたま空を見上げた際にクッキリと出ていた「二重の虹」。これはすなわち”吉兆”である。そして「立冬」(11月7日)の神々しい朝日。朝刊の一面トップには〔 米大統領 トランプ氏 〕とあった。ここで”縄文”由来の暦(以下に関連記事)にならうとすれば、本年の「冬期」は〈10月23日頃〉を「冬の始まり」とし、その”要”となる日は〈12月21日(土)〉の『冬至』、そして〈2月19日頃〉を「冬の終わり」とする約120日間となる。※関連記事・・・”光の道”のその先に・・・(3)おそらく今年(2024年)の「冬期」は、”噂”に事欠かない来年(2025年)の動向にも深く繋がる、【 地球規模 】の”一大転期”となるであろう。さて下の画像に映る造形は、『光』を象徴する「立体七角形」を基盤とし、動態的には”左回転による昇華(浄化)”をイメージした作品だ。〔安定的維持〕を前提とした《破壊的創造》により、本来の輝きを取り戻すための“地球の大掃除”が、いよいよ実働体制に入ったと感じる今日この頃である。※関連記事・・・いよいよ【岩戸開き】の”時”きたり!!※関連記事・・・新年 「明けまして」 おめでとう!
2024年11月09日
以下の記述は、今月一日(2024年10月1日)の未明に見た”夢日記”(明晰夢)である。・・・”九つの眼”を持つ白龍が、私に挨拶に来た。その龍の長い顔には、斑点のような鋭い目が美しい文様の如く、うねるような配置で並んでいた。そこで白龍は私に…何度も何度も交配を重ねることで、結果として”九つの眼”になる…ということ等を、分かりやすく教えてくれた。その私へ教示する際の白龍は、私が不安や恐怖心を抱かないように適切な配慮があったと感じられ、またその素性が私に理解しやすいように、懇切丁寧だが淡々とした解説であった。・・・以上が、”明晰夢”の内容から、特に印象に残った部分を掻い摘んで記したものだ。夢から醒めた直後、その美しい輝きを放つ”絹”のような地肌の白龍は、私には「九頭龍」との強い印象があった。さて冒頭の夢日記には”九つの眼”を持つ白龍と書いたが、その夢の中で観た白龍の〔大きな頭部の長い顔に”九つの眼”が並ぶイメージ〕を、自分なりの発想で作図した画像が上だ。そこで上の図象の原型となったものが、(冒頭画像に映る白壁の上方に並ぶ)かつて自身の展示会(下の関連記事)で公開した「うみへび座」(当星座を構成する主要な〈九つの星〉を〈九つの形〉に見立てた)と題した作品である。(※ちなみに、冒頭画像に映る白壁の下方に展示した赤色を基調とする作品群は、「南十字星」を模っている。)※関連記事・・・展示会の様子(4)さて、そもそも「九頭龍」の本来の名称は「九頭一尾の龍」とされ、この長い名称がつづまり通称の「九頭龍」になったということだ。実は面白いことに、その経緯を知った頃に見た「夢」があった。それは今から十年以上前の「夢」なのだが、「五」を中心とする”九マスの方陣”(以下に示した左側の《五中数理》)が出てきて、「九頭一尾」の「九頭」が(五行説に対応する方位では)「南」の位置付けとなる「九」の氣場に龍の”頭”が置かれ、一方の「一尾」は「北」の方位となる「一」の氣場に龍の“尾”が置かれたビジョンが観え、とても印象的だったことを憶えている。次に冒頭の夢日記に書いた〔”九つの眼”を持つ白龍〕についてだが、上の画像の白龍の頭部に観えた”九つの眼”のイメージ図を参考にすれば、その左右の眼の合計が「18」になるからであろう・・・その「覚醒夢」が覚めた直後の私には、上に示した右側の《六中数理》の、タテ・ヨコ・ナナメの三数計が「18」となる”九マスの方陣”が観えたのであった。興味深いことに、この《六中数理》には、いわゆる「弥勒(ミロク)下生」を象徴する暗号を読み取ることができる。つまり、斜めに並ぶ二つの計「18」となる三数が、一方は〔369〕で「弥勒(ミロク)」を暗示し、もう一方の〔567〕は「(弥勒下生は)56億7千万年後」と読み取れるというわけだ。以上の暗号の解読等については、”九マスの方陣”の立体的解釈を含め、以下の関連記事に詳しい。※関連記事・・・『6』の仕組みところで、かねてより私の中では・・・「九頭龍」の本質とは「うみへび座」を構成する主要な「九つの星」・・・との認識が、以下の参考書籍の影響もあって定着しており、これまで広い会場で個展を開く際には、天空の星々を自作の造形群に見立て、例えば冒頭画像や以下の関連記事に掲載した画像のように、南側の壁面には「うみへび座」と「南十字星」を模った造形の数々を展示し、その解説を試みてきた。※関連記事・・・個展の模様(6)※参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼 』(上下巻) 榊 晶一郎 著作・星雲社(2004年/初版)今月の10月1日の未明に、私なりに「九頭龍」と感得した「白龍」の出現は、上の記述内容もさることながら、今年の5~6月にかけて結果的に二回(以下に双方の連載記事の筆頭をリンク)に分けたかたちで「列島中央部への旅路」に出かけ、一回目の旅路にて長野市は戸隠奥社の「九頭龍神社」への参拝、そして二回目の旅路にて福井市は「九頭龍川」の河口域(末尾画像)を散策したことも関連していたのではないかと感じたのであった。※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして・・・(1)※関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路(1)
2024年10月07日
当日記で何度か取り上げてきた「ベシカパイシス」とは、”すべての始まりをあらわす形”とされ、上の画像の図形では、半径が同じ2つの円周が双方の円の中心を通って交差し、その中央部に形成される”黄色”を囲む形状のことだ。そこで、冒頭画像に映る「ベシカパイシス」は”2次元の平面図形”なのだが、私の中で「ベシカパイシス」とは、なぜか”3次元の立体構造”として表現すべきとの『夢』を通じた直感(以下の関連記事)があり、それを具現化した作品が上の画像に映る造形である。(※「ベシカパイシス」の立体的表現…第一種)☆関連記事・・・ベシカパイシス・・・上の画像に映る造形は、上の関連記事に掲載の冒頭に映る造形と全く同じものなのだが、映した角度により全く違う造形に観えてくるところが、(一場面に限定される平面図形と比べた場合に)立体造形の醍醐味であり奥深さと言うことができよう。ちなみに、「ベシカパイシス」を形成する二つの円の基本単位である”一つの円”に対応する”3次元の立体”とは、制作当時の私なりの解釈で「準正14面体」の軸線構成とした。つまり以上の解説を前提として、円形(球体)と見立てた”青色”の「準正14面体」と”赤色”の「準正14面体」が和合した部分に形成される形状が、立体的な「ベシカパイシス」ということである。(※上の画像に映る造形の接合部が、少し黄ばんで映っているのは、上の関連記事を公開した日付が2007年7月22日であり、その年月日に制作し17年を経た今も健在だった作品を撮影したからだ。)そして上の画像に映る造形は、以下の関連記事でも書いたが、かつて「準正14面体」の”縮小版”を制作していたことから、その「小さい準正14面体」の二つを結合して「立体的ベシカパイシス」を制作し撮影したもので、今回の記事で初めて公開する作品である。(※「ベシカパイシス」の立体的表現…第二種)☆関連記事・・・フラワー・オブ・ライフ(立体)の”縮小版”を制作(下)この上の画像に映る「第二種の立体的ベシカパイシス」を自分の手の平に置いた時、改めて「フラワー・オブ・ライフ」につながる大元の構成単位であり、生命感あふれる「立体的フラワー・オブ・ライフ」を生成する《根源》なるものを垣間見たのであった。次に上の画像に映る造形は、「ベシカパイシス」を構成する基本単位の「円」を「準正32面体」と見立て、青と赤の二つの「準正32面体」の軸線構成を、互いの中心核を共有する形で結合した構造体であり、中央部に形成される黄色の軸線構成が「ベシカパイシス」の位置付けとなる。(「ベシカパイシス」の立体的表現…第三種)☆関連記事・・・「ベシカパイシス」の立体的表現(Vol.2)以上で簡単ではあるが、三種類の「ベシカパイシス」の立体的表現を解説したことになるが、この「ベシカパイシス」について検索を重ねた際に、特に目を引き印象的だった画像が下である。この上の画像は、前回の日記でも紹介した「ベシカパイシス」について分かりやすく解説されたサイトから引用した”人間の『受精卵』”を撮影したもので、それはまさに「ベシカパイシス」を含む二つの球体が結合した形態であった。そこで以下の文章は、そのサイトから抜粋したものだ。・・・私たち人間も、幾何学的な道筋を通った末の産物です。その象徴たるものが受精卵。何億という精子の中から、卵子に辿り着いたたった一つが卵子の中へ入っていきます。そこで精子の尾が外れ、精子の頭の部分が卵核とちょうど同じ大きさの球体になると、次第にその二つが融合して、ご覧の通り「ベシカパイシス」を形成しました。その融合し合った二つの細胞は、その時点であらゆるすべての宇宙の叡智を内包しているのです。ここから発展していく有名な「フラワー・オブ・ライフ」も、たくさんの「ベシカパイシス」の集合体に他なりません。・・・さて末尾画像の地図に描いた図形は、今年7月の連載記事「ふたたび”列島中央部”への旅路」に出かける直前に描くことになった陰陽二つの円と「ベシカパイシス」である。この大きな時代の転換期に、日本列島の中央部に秘められてきた【 弥勒(ミロク)の世 】を暗示する「ベシカパイシス」が、ふたたび浮上し律動する時を迎えたと感じる今日この頃である。
2024年10月02日
・・・お待たせしました⁉・・・冒頭画像に映る造形が(私独自の解釈による)【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の完成形である。これまで自身が制作した作品群の中で、おそらく最も緻密で精細な造形表現(軸線構成による複合立体)であり、全体の構成に必要とした綿棒の総数は、計552本であった。次に上の画像に映る造形は、冒頭画像に映る”縮小版”の構成単位である「小さい準正14面体」を、冒頭画像と末尾画像に映る各造形と”同じ角度”から撮影したものである。本日の日記に掲載した、これら大・中・小からなる三つの「準正14面体」の軸線構成を見比べることで、互いに”相似”の関係にあることが類推できるであろう。さて実は、今回の造形(冒頭画像)を制作するにあたり、その過程で興味深いことに気づくことができたのであった。そもそも”神聖幾何学”と謳われる「フラワー・オブ・ライフ」(上の画像の平面図形)の一般的な解説には、その構成要素としての図形(当日記で何度か取り上げた)「ベシカパイシス」が見出せることが記されている。※関連記事・・・ベシカパイシス・・・そこで、その制作過程で気づいた興味深いこととは、冒頭画像に映る【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の構成単位たる「小さい準正14面体」を構成する要素が、下の画像に映る「8芒星」(正8角形を基盤とする図形)であり、この「8芒星」と以下の記事にて冒頭画像の地図に描いた”大きな円”が、同じく〈正8角形〉を基盤にしていたというその《類似性》であった。☆参考記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路(1)思い返せば、今回の「出雲(山陰地方)の旅路」について記した連載で、最後の記事に書いた「ベシカパイシス」がキッカケとなり、上の記事の冒頭画像の映る地図に「正8角形(8芒星)」を内包する”一つの大きな円(伊吹山を中心とする)”を描いたことから、まるで導かれるようにして”もう一つの大きな円(御嶽山を中心とする)”を描くことになったのであった。そして、その二つの円により形成される地図上の「ベシカパイシス」を頼りに、上のリンク記事を筆頭とする計10篇の連載となった『ふたたび”列島中央部”への旅路』がスタートしたのであった。かなりマニアックになってしまったが、(自身の覚書ということで)ついでに書き加えておくが、それは「小さい準正14面体」の構成法についてだ。その構成法とは、この上の画像に映る「8芒星」を二つ作ったうえで、その言わば「陰の8芒星」と「陽の8芒星」の双方を立体的に立ち上げ、全体として”陰陽和合の球体”を想定しつつ組み合わせ構築していくことが、おそらくこの「小さい準正14面体」を制作する上で最も簡単な方法ということである。(※上記の構成法の解説では、理解も実践も難しいとは思うが、制作の”ヒント”にはなるであろう。)それでは最後に、末尾画像に映る【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”通常版”】に関する所感を書いた三篇の記事と、今回の連載でリンクした主要な記事や動画を、ご参考かたがた以下に挙げておく。※関連記事・・・「バランス」の究極(1)・(2)・(3)◎関連記事・・・《 立体工作のご案内 》…「綿棒」で立体を作ってみよう!☆関連動画・・・【綿棒工作】…『スケルトン立体』を作って楽しもう!(No.1)◎関連記事・・・「究極の構造」(あの「フラワー・オブ・ライフ」の原型かもね)☆関連動画・・・【綿棒工作】…No.8〔フラワーオブライフ〕
2024年09月22日
前回の日記で告知した作品展が始りました。そこで冒頭画像は、展示会場の全体を撮影したものです。画像の中央奥に小さく映る”金色の造形”が、私の出展した作品です。今月23日の午後4時まで開催していますので、皆さまのご来場をお待ちしています。☆ 第2回【 防長創作会 大作品展 】日時:~9月23日(祭日)10時~17時(最終日 16時)会場:山口市 彩香亭 2F 会議室 《 入場無料 》住所:山口市天花1丁目2-7
2024年09月21日
このたび上の画像に映る自作の立体作品(一点)を、山口市内で開催の展示会に出展する機会を得たので、その日時や会場等を以下に紹介させていただきます。第2回【 防長創作会 大作品展 】日時:2024年9月20日(金)~23日(月・祭日) 10時~17時(最終日 16時)会場:山口市 彩香亭 2F 会議室 《 入場無料 》住所:山口市天花1丁目2-7作品の題名『 地球維新 』 作者 山本裕一 (作品の寸法・36×36×36cm)☆〔 作品の解説 〕…この造形は「綿棒」を素材として構成した立体作品です。表面的には”サッカーボール”の形状であり、基本立体の中で最も「球」に近い軸線構成です。その内部構造に関しては自身の〔手探り〕による摸索を繰り返し、総計1,110本で全体を構成することができました。昨今の未曽有と思われる地球規模の転換期において、幕末から明治維新を担った防長先賢のご威光を浴び、《新たな維新》を担うに相応しい光り輝く作品になったと自負しています。※《 追 伸 》…展示会場から車で約10分の所に鎮座する周防国三ノ宮「仁壁(にかべ)神社」(山口市三の宮2丁目6-22)には、奉納された自作の造形「 高天原 (たかあまはら) ≒ 宇宙 」が、下の画像のように本殿に向かう拝殿の天井から吊り下げられており、参拝者はいつでも見ることができます。※関連記事・・・天空に輝く「星々」と神社に祀られた「神々」との関係性、そして・・・
2024年09月18日
冒頭画像に映る2つの造形は、前回日記の末尾画像の左側に映る「小さい準正14面体」(以下は「小・準正14」と表記)と同じものを、それぞれ別の角度で配置し並べて撮影したものである。つまり上記の末尾画像(左側の造形)と合わせれば、一つの「小・準正14」を3つの角度から映した画像が揃うわけだが、その意図したところは当初…その3つの角度から見た造形画像を参考に、「縮小版・フラワーオブライフ」の構成単位となる「小・準正14」を類推し、興味のある人は実際に作ってみてはいかがだろう…ということであった。が、しかし、前回日記でも述べたように、この「小・準正14」の制作は、例えば綿棒一本の”通し”(交差の仕方)を間違えても(私なりの解釈では)形を成さないので、”至難の業”だと”いうことを予め伝えておく。(※チャレンジ精神の旺盛な方は、”立体パズル”の感覚で取り組んでみては如何だろう。)さて、いよいよ本題の【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の制作に入るわけだが、冒頭画像に映る「小・準正14」(構成単位)を計13個つくり、法則性に基づいた配置によりバランスよく組み上げた作品を撮影したものが、この上下2枚の画像である。分かりやすいように、上の画像は冒頭画像に映る2つの造形の右側を、ほぼ同じ角度から撮影したものであり、また下の画像は冒頭画像に映る左側の造形を、ほぼ同じ角度から撮影したものである。加えて以下のYouTube動画にて、計13個の「準正14面体」(標準サイズ)で組み上げた造形を、4分30秒頃から回転させながら撮影しており、その造形がゆっくりと回転していく過程には、上下の画像に映る角度から見た造形を見出すことができるので、この場面の動画と解説を参考にすると理解しやすいであろう。☆関連動画・・・【綿棒工作】…No.8〔フラワーオブライフ〕ただし、この構成段階では私の理想とする【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の完成形には至っていないので、その全体構成が完了した造形を撮影した画像は、次回の日記で公開しよう。(つづく)◎関連記事・・・《 立体工作のご案内 》…「綿棒」で立体を作ってみよう!☆関連動画・・・【綿棒工作】…『スケルトン立体』を作って楽しもう!(No.1)
2024年09月17日
約20年前の2004年10月中旬頃、知人が企画したエジプト旅行に参加した際に、”オシレイオン宮殿”の石柱に刻まれた「フラワー・オブ・ライフ」という幾何図形(冒頭画像)の現物を実際に見たことがあった。翌2005年の3月頃、この”二次元の平面図形”は”三次元の立体構造”に変換できる可能性を、別の知人から指摘されたことで、その2~3日後に制作した造形(近年の複製)を撮影した画像が上である。そして、2005年7月7日付の当日記(以下の記事)にて、その経緯と制作した造形の重要性を簡明に記している。◎関連記事・・・「究極の構造」(あの「フラワー・オブ・ライフ」の原型かもね)さらには、当日記と同じ「たまのを」というペンネームのYouTube「たまのをチャンネル」にて、以下の関連動画のように、その”立体版”たる「フラワー・オブ・ライフ」の簡単な制作方法を詳しく披露した。☆関連動画・・・【綿棒工作】…No.8〔フラワーオブライフ〕さて、上にリンクしたYouTube動画をご覧になると分かりやすいのだが、「フラワー・オブ・ライフ(立体)」の構成単位は(私なりの発想では)「準正14面体」(計36本の軸線構成/上の画像の右側)であり、その構成単位の”縮小版”(上の画像の左側)が手元にあったことを確認した私は、この”縮小版”「準正14面体」を基本単位とする《”縮小版”「フラワー・オブ・ライフ」》を制作しようと思ったのであった。(つづく)〔 追 伸 〕…近年、徐々に「綿棒工作」を楽しむ人が増えてきたようで嬉しく思う。しかし、その制作過程の問題点として浮上してくるのが、素材である「綿棒」の先端(綿部)をつないで構成する「接合部」の”付着”についてであろう。私なりの見立てでは、「綿棒工作」に取り組む方々の中には、綿棒の「接合部」に最初から「木工ボンド(速乾)」等を染み込ませて乾燥を待つようだが、この方法では時間の経過とともに「接合部」に”ズレ”が生じてしまい、結果として美しさに欠ける作品になってしまうであろう。例えば、上の画像の左側(準正14面体の縮小版)を制作しようとした場合、速乾の「木工ボンド」のみでは「接合部」の接着は極めて困難となり、形を成さなくなることを指摘しておきたい。そこでご参考かたがた、以下にリンクした動画と記事では、「接合部」の”ズレ”を解消できる《仮止めの接着剤》=『ペーパーセメント(別称…ペーパーボンド)』の紹介とその使用方法を公開している。☆関連動画・・・【綿棒工作】…『スケルトン立体』を作って楽しもう!(No.1)◎関連記事・・・《 立体工作のご案内 》…「綿棒」で立体を作ってみよう!
2024年09月15日
今年の7月後半から8月初旬にかけ、『ふたたび”列島中央部”への旅路』と題して計10編の記事を書いたが、その旅路では地図上に描いた「ベシカパイシス」が進路図の基盤になっていた。(下の関連記事)※関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路(1)ここで再確認となるが、この「ベシカパイシス」とは …同じ大きさの二つの円が、それぞれの中心を通って交わる際に、その中央部に形成される図形のこと…である。かつて自分の見た「夢」に触発され、この「ベシカパイシス」を立体的に表現したことがあり(下の関連記事)、その際に使用した造形は「準正14面体」の軸線構成であった。そこで、何故この「準正14面体」を利用したのかといえば、この立体構造は造形の”中心”が表現でき、その”中心”が平面図形の「円」の”中心”に見立てられると思ったからであった。※関連記事・・・ベシカパイシス・・・さて前置きが長くなったが、本日掲載した三枚の画像に映る造形は、上記の「準正14面体」と同じく、”中心”を表現できる「準正32面体」の軸線構成を”球”に見立て、その二つの立体構造が「ベシカパイシス」の如く”中心”を共有するかたちで結合した作品である。この”中心”のある「準正32面体」を基盤にした「ベシカパイシス」の立体的表現によって、この二つの構造体の相互関係が”より精細”に分かるということが言えよう。※ちなみに本日の画像に映る”中心”のある「準正32面体」は、前回日記の冒頭画像に映るサッカーボール型の「準正32面体」ではなく、外枠の面構成が〔正三角形…20〕と〔正五角形…12〕の計〔32〕の面数から成る多面体の軸線構成である。(つまり基本立体において「準正32面体」は二種類あるということ)
2024年09月07日
本日の冒頭画像は、前回日記の画像に映る造形「準正32面体」(縮小版)からの流れを汲み、言わば本来の「準正32面体」の内部を含む〔等辺構成〕による複合立体を撮影したものである。この基本立体の中で最も《球》に近いとされる「準正32面体」は、「サッカーボール」の形状として浸透しており、近年の化学分野では”炭素60個”がサッカーボール型(球状)につながった『フラーレン(バッキーボール)』という炭素分子の新素材として注目を集めている。上記の「サッカーボール」や「フラーレン」については、形状の一番外側の枠組みの「準正32面体」が基本の対象となるわけだが、この立体について私の場合は・・・その内部構成におけるどんな仕組みが、全体の構造を安定化させているのだろう・・・というところに注目し、何度も模索を繰り返し具現化を試みてきた。そして、特に《同じ長さ(等辺)の「軸線(綿棒)」による全体の構成》に拘り抜いたことが功を奏し、組み合わせた綿棒の総本数【1110】により、「準正32面体」の全体構造を整合性のあるかたちで表現することができた。その造形表現に辿り着くまでの試行錯誤の経緯等は、以下の関連記事に詳しい。◎関連記事・・・バッキーボール?!◎関連記事・・・再確認の「サッカーボール」◎関連記事・・・サッカーボール(1)~(6)そして、下の画像に映る造形は、前回日記の画像に映る「準正32面体」(縮小版)の別バージョンで、〔中心(金色)〕のある造形表現(銀色の複合立体)となっている。この造形に付随する「赤」と「青」の軸線等については、以下の関連記事に詳しい。◎関連記事・・・「新作の造形」の披露と「テンセグリティ」
2024年09月04日
『夢』日記・・・23個が揃って初めて音が鳴る。そこには、様々な組み合わせのパーツがあった。それらは、ひとつひとつ違った形状をしていたが、22個では全体としての形を成さず音も鳴らない。が、もう一つ加わった23個で全てが揃い音が鳴る。それを何度も何度も確認し腑に落ちるまで体得した。以上が8月中旬に見た『夢』の内容だが、この"夢見"に連関するかのように制作することになった同型(※)の二つの造形を「月を象徴する銀色」と「日を象徴する金色」の”陰陽”に色付けし、「太陰太陽暦(旧暦)」の重要性を改めて訴えるべく、〔月日の順序〕を示した『明』の字形に配置して撮影したものが冒頭画像である。(※)正12面体の内部構成を秘めた「フラーレン」構造(準正32面体の軸線構成)。また、この構成表現においては、「正12面体」を基盤に展開した複合立体といえる。そこで、私の中で”形”の「正12面体」は、”数”の《46》と認識する場合があるので、実はこの”夢見”の後に以下の関連記事を思い出したのであった。これは私自身への課題でもあるのだが、おそらく以下の関連記事を合わせ読み熟成することで、次なる新たな展開なり展望が観えてくることを期待したいところである。◎関連記事… シリウスNo.23→〔46〕⇒【十】◎関連記事… 原子番号【 46 】◎関連記事…「ミナカヌシ」◎関連記事…「天之御中主神」の本質は、”ぎょしゃ座”の「カペラ」なり!
2024年09月02日
さて次に向かったのは、今回の旅路で”道しるべ”となった「ベシカパイシス」(冒頭地図にある同じ直径の二つの円〈赤と青〉が重なり合った図形)において、その交点となる二つの地点(南方の「本宮山」と北方の「安宅関」)の一つである(地図では上方左側の)『安宅関』(あたかのせき/石川県小松市安宅町)であった。そこで上の画像は、海を見下ろす松林の砂丘に立つ”県の史跡”で「安宅関址」と書かれた石碑である。そして、この石碑を中心とした海浜の一帯が、「日本の歴史公園100選」にも選ばれた「安宅公園」となっている。小松市を流れる梯川の河口に位置し、日本海に面する海岸域の「安宅」は、当地を含む〔加賀〕や〔能登〕の地域と共に、古代より海を介して出雲や朝鮮半島・中国東北部と深く関わってきた。奈良時代以降に〔古代北陸道〕が整備されると「安宅」に”駅家”(うまや)が置かれ、平安時代には「安宅湊」として加賀国府の外港としての役割を担う日本海交通の要地の一つとなり、さかのぼれば縄文~弥生時代より連綿と続いてきた《陸と海の”交通の要”》だったということである。さらに江戸時代の中頃から明治にかけては〈北前船〉の寄港地としても繁栄し、風情ある街並みに「安宅」の歴史文化を色濃く残している。ちなみに、この「安宅(あたか)」という単語は「身を置くのに安全で心配のない所」との意味合いとされ、その地名の発音が「あた」や「あづみ」とも読めることから、”古代海人族”を代表する氏族の「阿多(あた)氏」や「安曇(あづみ)氏」につながる。以上のことから、ここ小松市の「安宅」とは・・・古代海人族が「身を置くのに安全で心配のない所」として拠点にしてきた《陸と海の”交通の要”》・・・という解釈が成り立つであろう。また、これまでの歴史解釈を含む類推からも、ここ「安宅関」は冒頭で解説した「ベシカパイシス」における、”北方の拠点”として相応しい場所と感じた次第である。上の画像は、公園内に掲げてあった『安宅関』の案内絵図を撮影したものだ。そもそも、この『安宅関』という「安宅(あたか)」という当地の地名に「関」が付いたのは、昔この地に”関所”が設けられた(下段で解説)ことにより通称となった模様で、日本を代表する〔古典芸能〕である〔能〕の演目「安宅」や〔歌舞伎〕の演目「勧進帳」の舞台としても、その名は知られてきた。次に上の画像は、「歌舞伎の十八番 勧進帳」の名場面を再現したとされる「富樫(右側)」「弁慶(中央)」「義経(左側)」が並ぶ三つの銅像を撮影したもので、現在の公園内におけるメインシンボルとなっていた。そこでご参考かたがた、〔歌舞伎〕の演目「勧進帳」の粗筋を下に書いておこう。… 兄の「頼朝」に追われた「義経」が『安宅関』を通る際、関守「富樫」の厳しい尋問にあい、その危機を乗り切るため「弁慶」は、偽の巻物を広げて即興で「勧進帳」を読み上げたが、さらに嫌疑をかけられると、主君である「義経」を打ち据える。その姿に感動した「富樫」が関所の通行を許可したという物語である。…ちなみに「安宅公園」の園内には、例えば”箱根の関所跡”の様な建物はない。実のところ『安宅関』とは、”箱根の関所”のような恒常的な関所ではなく、「義経」を捕まえるためだけに臨時に設けられたということだ。公園内の上の画像に映る銅像の近くには、《「安宅の関」こまつ勧進帳の里》という日本海を一望できるレストハウスがあり、地元の食材を使った食事やショッピングを楽しむことができる。また隣接する施設として《勧進帳ものがたり館》があり、勧進帳にまつわる資料や遊んで学ぶ体験コーナーがあり、大画面シアターでは歌舞伎「勧進帳」のダイジェスト映像を見ることができる。さてここで、改めて今回の旅路の”道しるべ”となった「ベシカパイシス」(上の地図の図形)に関して、今一歩踏み込んだ解説を試みておこう。今回の連載記事(1)では・・・この「ベシカパイシス」の図形に、直角に交差する二本の直線(黄色)を描いてみて、まず興味をひかれたのは「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ直線が、「”夏至の日の出”と”冬至の日の入”を示す約30度の軸線」を示していたことであった。・・・などと書いていた。上の文章を要約すると、上の地図に描いた「伊吹山」から「御嶽山」へ向かう直線が、「”夏至の日の出”を示す約30度の軸線」であり、つまり夏至の日の出時刻に「伊吹山」の山頂に立てば、「御嶽山」の山頂から”夏至日の御来光”を展望できるというわけだ。そして古代の「弥勒(ミロク)信仰」が盛んな時代に、”弥勒の山”とも称された「伊吹山」の山頂には、今でも「日本武尊像」とともに「弥勒像」が祀られ、古文献ではこの山が古くから〔弥勒三会の暁〕を待つ霊場であったことを書き残している。加えて『御嶽山縁起』には、「されば、蔵王権現と申すは現世にて弥勒菩薩なり、今生にて権現なり。」と、修験道および御嶽信仰の主祭神である「蔵王権現」とは「弥勒菩薩」でもあると記されている。以上のことから、「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ”夏至線”で結ばれた両山は、共に「ミロク(弥勒)」を象徴する二つの霊山とも言えるのだが、「伊吹山」山頂を”夏至の日の出”の展望地点とした場合には、「御嶽山」山頂より昇る朝日が、鬼門(東北)より昇る”夏至の太陽”を指標する「弥勒の山」と見立てられよう。ここで興味深いのは、この「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ”夏至線”を強く意識して活躍された御方こそ、当連載の(6)で取り上げた修験僧の「円空」だったのではないかということである。まさしく二つの霊山を結ぶ”夏至線”の〔中心地〕に生まれ育ち、厳しい修行を経て得度した「円空」は、岐阜県関市の「弥勒寺」を再興するために全国を行脚し、「伊吹山」に身を投じて”弥勒下生”を希ったと伝えられていることから、自ずと”弥勒下生”の方位に存在する「御嶽山」のことも強く意識していたことが考えられるというわけだ。しかし、まさかこの最後の項で「円空」にまつわる足跡を、改めて取り上げることになろうとは思わなかった。これもやはり、今回の旅路の”道しるべ”となった図形「ベシカパイシス」との響き合いにより、必然的な〔締め括り〕の指図をいただいたということであろう。思い返せば・・・今回の”列島中央部”への旅路とは、日本列島に地上天国たる”ミロク(弥勒)の世”が到来する転換期(今年の夏至の頃)において、その大いなる”ひびき”を体感すべく縁の深い聖地を巡ってきたのであろう・・・と、当日記を書いてきた只今に感じたところである。(了)※「伊吹山」登拝の関連記事・・・「秋」の旅日記(29)※「御嶽山」登拝の関連記事・・・「秋」の旅日記(15)…木曽の御嶽山(二)末尾画像は、旅路の最後に訪れた『東尋坊』(福井県三国町)で、日本海に沈む夕日を撮影したもの。
2024年08月09日
能登半島の付け根にあった「桜町縄文遺跡」を経て次に向かったのは、能登半島は東北端にある山伏山(標高172m)の山頂部に鎮座する「須須神社 奥宮」(石川県珠洲市狼煙町)であった。半島の東北端へ向かう車道は、まず途中までは敷設された高速道路を走った。道中では地震の影響により各所で工事をしていたが、何とか終点まで走り抜けることができた。また、高速を降りて珠洲市内を走っていると、数多くの家の屋根に青いビニールシートが被せられ、半壊状態など痛々しい住居の多さに驚き、年初に起きた〔能登半島地震〕から約半年が経過した当日(6月27日)でも、震災の生々しい現実を突き付けられたのであった。目的地の「須須神社 奥宮」へ近づけば近づくほどに、年始の震災により今まさに瓦解しつつある家屋を散見するようになり、その厳しい現実を目の当たりにしつつ潜り抜けるようにして当社の入口に到着したのは、午後4時頃であった。そこで上の画像は、「式内 須須神社 奥宮」と記された立派な石標と共に、当社への上り階段を撮影したものである。この新調された階段等は、昨年5月に同地域で起きた地震の後に修復されたものと思われる。階段を上り最初の鳥居を潜ってしばらく歩くと、上の画像のような壊れたままの石造の鳥居が現れた。目の前に現れた惨状に少したじろぎつつも、美しき陽光に誘われるようにして先を急いだ。標高172mの低山とはいえ、社殿の鎮座する山頂までの約20分は、なかなか険しい道程であった。そうして辿り着いた「須須神社 奥宮」の、傾きかけた”拝殿”を撮影した画像が上である。そして上の画像は、当社”拝殿”の斜め右側から、参拝当時の現状がわかるよう撮影したものである。次に上の画像は、”拝殿”の左側から上がらせていただき、正面の上座方面に向けて撮影したものだ。”拝殿”の裏に鎮座する”本殿”へ向かって祈念する〔祭祀の場〕は、このように・・・・・・であった。そして先ほどの”拝殿”の裏手にあって、少し高台に鎮座する「須須神社 奥宮」の”本殿”を撮影した画像が上である。当社”奥宮(本殿)”の主祭神は「美保須須見(ミホススミ)命」。以下は、当社の〈由緒〉である。……崇神天皇の御代の創建と伝え、古来より鈴ヶ嶽奧神社と号し、また、鈴奧大明神と称えられ山伏山(標高172メートル)の頂上に鎮座し、海上からの景観は山容優美にして、鈴を逆さにしたような神奈美の霊山で、北海航行の目標、漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期には海上警戒の設備を置き、峰火が一度あがると郡家、国府そして京の都へ伝達されたと云われている。明治12年現在の社号に改称。平安時代の昔から修験者の往来をみるようになって、かつての嶽山、珠洲ヶ嶽が山伏山と呼ばれるに至ったのである。……思い返せば、六月中旬の〈出雲行脚〉にて参拝した「美保神社」では、”出雲国風土記”における当社主祭神の「御穂須々美(ミホススミ)命」への”思い”で一色となっていた。おそらく、その”思い”が高じたかたちで、同じ祭神名の「ミホススミ」を祀る「須須神社 奥宮」への初めての参拝が実現したのであろう。※関連記事・・・「出雲大社」の創建にまつわる伝承より(下)上の画像は、当社”本殿”の震災で壊れた門扉に近づいて撮影したものである。その門扉の”鍵”(画像中央部)が外れ、”扉が開いたまま”にしてある風情を見て、思わず浮かんだ想いがあった。語弊があるとは思いつつ、それを言葉に託すとすれば・・・この期に及んで『封印』が解けた・・・ということである。この『封印』に関する所見は、ここでは書かないことにしたので、その”内容”については読者の感性に委ねることにしたい。”本殿”の背後には山頂があり、その山頂より”本殿”の背面を撮影したものが上の画像である。ちなみに”拝殿”は、”本殿”の右側前方に並んで見える配置となっている。目の前にある”本殿”の黒い屋根瓦が新しく見えるのは、昨年五月の震災後に葺き替えたからであろう。今回の「須須神社 奥宮」への初参拝が、例えばこの”本殿”を撮影した上の画像のように、燦燦と輝く陽光に照らされ導かれたかたちで実現したことは、この記事を書きつつ今更のように実感するところだ。そこで下の末尾画像に映る自作の造形《立体七角形》は、今年正月の〔能登半島地震〕が発生する直前の、当日の朝に公開した《 渦巻く【 光 】 》を示唆する作品である。※関連記事・・・新年 「開けまして」 おめでとう!この立体の中央部が”少し開いた形状”となっている《立体七角形》は、『安定的維持』を大前提とした「創造的破壊」あるいは「破壊的創造」の構造性を秘めた《開放系》の端緒となる造形である。(つづく)
2024年08月07日
列島各地に存在する”磐座群”の要たる『金山巨石群』を経て次に向かったのは、能登半島の付け根にあって縄文時代の多くの遺物が発見された「桜町遺跡」(富山県小矢部市桜町)であった。(冒頭地図の下方中央部)この「桜町遺跡」を訪れたのは今回で二度目となる。初回が2000年だったので、およそ四半世紀ぶりの再訪となるが、その初回訪問の際に仮設展示場で見た主要文化財や、それらの解説を聞いた時の感動が忘れられず、再び訪れることにした次第。そして訪れたのは、富山県小谷部市内の「桜町遺跡」の近くで「小谷部ふるさと歴史館」の館内にある”桜町遺跡出土品展示室”であった。そこで上の画像は、展示室の冒頭に掲げてあった当遺跡の解説文である。そこで上の画像の数々は、当遺跡で出土した縄文土器の数々を撮影したものである。その土器類一つ一つの洗練された素敵な意匠に心身は躍動し、また癒された一時でもあった。上の画像に映る解説にあるように、当遺跡の出土品のなかで特徴的なのは、大量に出土した木製品の中でも”建築部材”である。そこで以下に掲載した二枚の画像は、当遺跡で出土した”建築部材”の数例だ。実は、自身が初回の訪問時に最も驚いたのが、「桜町遺跡」で出土した多量の建築部材の中に、今から約4000年前となる縄文時代の「高床建物」の”建築部材”が数多く発見されたことである。それによって、弥生時代のものを最古としていた定説よりも約2,000年も古い縄文時代に、すでに「高床建物」があったことが証明されたということだ。上の画像は、上記の多量に出土した「高床建物」の建築部材を参考にした見取り図(二例)を撮影したものだ。そこで下のリンク記事に掲載の冒頭画像は、「桜町遺跡」から出土した木柱等を参考に復元した今から約4000年前の縄文時代(縄文中期末頃)の「高床建物(通柱式)」を撮影(2000年6月/小谷部市)したものである。※関連記事・・・縄文の高床式建物こんな立派な「高床建物」が縄文時代に建造されていたなんて…まさに”常識がくつがえる”とは、このことを言うのであろう。さて、当遺跡への再訪で強く興味を引かれたのは、大量に出土した木製品のなかでも『Y字材』と呼ばれる用途不明とされた大型加工材であった。そこで上の画像は、その『Y字材』の解説を撮影したものだ。そして上に並べた二枚の画像は、出土した二本の『Y字材』を別々に撮影したものだ。また上の解説にあるように、その二本の『Y字材』が出土した状況を当時の発掘現場で撮影したものが下の画像である。実はこの『Y字材』の現物を、当館の展示室で初めて間近に見た私は・・・「これは〈木股神〉の”木股”につながるはずだ・・・という直感があった。つまり〈木股神〉の神名である”木股”が、私には『Y字材』の形状である”木の股”(二股の木)に観えたのである。・・・ということで、ここからは用途不明とされた縄文中期の木製品である『Y字材』と、日本古来の〈木股神〉にまつわる風習等を関連づけるかたちで、この『Y字材』の用途の解明に迫ってみたい。ここで上記の〈木股神(きのまたのかみ)〉とは、下にリンクした関連記事の下段に記した「御井神社」の由緒に《八上姫は出産のために掘った井戸の水を産湯に使い、産まれた御子を”木の俣”に預けて帰郷した》とあるように、その御子は当社の主祭神として〈木股神〉と名付けられたということであった。また”二股の木”を〔神の依り代〕となる「神木」と解し、八上姫が産んだ御子を”木の股”に挟んだことを、「神の降臨」を迎える実際の儀礼に基づいた行為と捉える説がある。加えて、”幹が分かれて二股になった樹木”を豊穣や多産・生育の神木として神聖視する風習が、日本の「子安信仰」に見いだされることも指摘されており、〈木俣神〉をそうした”豊穣の樹木神”と捉える説もある。※関連記事・・・山陰地方の「白兎」伝説と現地探訪(下)ところで『古事記』では、〈木俣神〉・〈御井神〉という二つの神名は、”異名同神”とされている。そこで〈木俣神〉という”樹木の神”が、なぜ〈御井神〉という”井泉の神”としての別名を持つのかについては、太古より湧泉が多く山の端の森林の中にあったことや、樹木が地下水を吸い上げて成長することの関連性に由来する等の説があるとのことだ。上に掲げた画像は、上のリンク記事にも掲載した出雲市に鎮座する「御井神社」の近くにある「三つの井戸」の内の一つを撮影したものだ。日本古来の風習であった〈木俣神〉の依り代たる”聖なる樹木”と〈御井神〉の依り代たる”聖なる井泉”の、その見事に和合した佇まいを、この画像に垣間見る思いである。・・・と、ここまで記述してきて、おそらく「御井神社」に現存する”三つの井戸”に触発されたのか、自身の脳裏に浮かんできたのは豊前国一之宮「宇佐神宮」の境内に存在する「御霊水」であった。その「御霊水」の湧く神域を撮影したものが上の画像では左側、そして右側の画像は鳥居の内側で撮影した蓋付きの”三つの井戸”である。さらに下の画像は、もう十回は足を運んでいる「宇佐神宮」の神体山である「御許山」の九合目に、おそらく太古より存在する「御霊水」の佇まいを撮影したものだ。そこで下の画像の左側は山頂部の「御霊水」の湧く神域、そして右側の画像は三つの鉢状の窪みから湧く霊水(三鉢の香水)の風情を撮影したものだ。ここまで記すことで、なぜ「宇佐神宮」の御神紋が「左三つ巴」なのかが、判然としてきたのであった。そして、この上下の画像や上掲の「御井神社」の井戸を撮影した画像を見ていると、不思議なことに用途不明とされてきた”二本の『Y字材』”の用途が分かった気がしてきたのであった。それを、この上下に掲載した画像から私なりに洞察すると、おそらく井戸(御井)の出入口に建てられた”鳥居”や”門戸”の役割を担うものだったということになる。つまり『Y字材』の二本を”鳥居”のように立て、二股に開いた上部に残る二つの抉られた窪みは、二本の『Y字材』を繋ぐ屋根のような木製品を支えるものだったのではあるまいか・・・。そこで思い出したのは、当館内の展示室で説明員から聞いた話であった。それは、『Y字材』と共に多くの建築部材が出土した場所の近くには、今でも”良質の井泉”がこんこんと湧いており、地元の人も重宝しているとのことである。(つづく)
2024年08月06日
実は今回の旅路において、出かける直前になって”再訪”を決定した場所があった。それは岐阜県下呂市に太古から存在する『金山巨石群』である。上の地図に示したように、「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ軸線上にあって、”巨大な岩塊で構成された磐座群”のことだ。冒頭で当巨石群へは”再訪”と書いたが、おそらく今回で5~6回目の再訪になるであろう。そこで上の画像は、『金山巨石群』の中でも”メインシンボル”とも言える「岩屋岩蔭遺跡巨石群」を撮影したものである。この巨石群の洗練された〔岩組み〕を目の前にして、今回もその存在感に圧倒されてしまうのであった。この『金山巨石群』は”三つの巨石群”で構成されており、そのうちの二つは山の谷間に位置している。その谷間には”方位線”があり、それを示した地図(※)が上である。(※)この地図は書名『金山巨石群の「縄文」太陽観測ガイド』小林由来 徳田紫穂・共著より転載。その”方位線”とは、例えばこの地図上に示された「岩屋岩蔭遺跡巨石群」の観測地点から、東北東に約30度の〔夏至の日の出方向(冬至の日の入方向)〕の方位を示す軸線ということだ。ここで興味深いのは、連載している今回の旅路の冒頭記事(下の関連記事)から抜粋すると、・・・この「ベシカパイシス」の図形に、交差する基本の直線を描いてみて、まず興味をひかれたのは「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ直線が、「”夏至の日の出”と”冬至の日の入”を示す約30度の軸線」を示していたことであった。・・・と記しており、加えて『金山巨石群』の〔夏至の日の出方向〕が示す”方位線”の先に「御嶽山」があることを予め知っていたことから、”この二つの方位線は完全に重なり合っている”というところである。☆関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路…(1)さて、三つの巨石群が示された上掲地図に、山の谷間に位置するもう一つの「線刻石のある巨石群」があるのだが、その”メイン”となる巨石群を撮影した画像が上である。そして下の画像は、この「線刻石のある巨石群」の手前にある歩道に掲げられた解説版を撮影したものだ。今回の旅路で、この『金山巨石群』に到着したのは、今年(2024年)の夏至(6月21日)を過ぎた6月26日(金)の午前11時30分頃であった。つまり、当日の太陽が南中する時刻(この巨石群のある岐阜県では午前11時50分頃)に間に合うように、当地を訪れたというわけである。そこで上の画像は、「線刻石のある巨石群」のなかの”線刻”が刻まれた巨大な「線刻石」を、画像右下に見える洞窟状の穴(奥底の地面へ降りることができる)を含めて撮影したものだ。次に上の画像は、夏至の頃に南中した太陽の光が、上方に意図的に配置された岩組みの隙間を通って小さなスポット光となり、この岩組みの奥底となる地面に置いた”自作の立体造形”(画像の中央部)を透過して、(かなり遠目ではあるが)薄っすらと輝いている場面を撮影したものである。そして下の画像は、地面に置いた”造形”の向こうに掲げられた解説版を拡大したものだ。この解説版には、毎年の夏至の頃に岩組みの奥底に降り注ぐ陽光が、日時の経過に応じて変容する形状や観測するためのポイントを、端的に分かりやすく示してある。そして、この上下に並べた二枚の画像は、〈上の画像〉が夏至の頃のスポット状の光が”造形”(画像の中央部)を照射した姿を撮影したもので、〈下の画像〉は夏至の頃の南中の太陽が照射した光を浴びる”自作の造形”(立体七角形…計84本の”綿棒”で構成したスケルトン立体)である。この「立体七角形」は、私の中では『光』を象徴する造形であり、このたびの”夏至”という年間で最も強く神聖な陽光と響き合う機会が得られたのは、ありがたく嬉しい感動のひとときであった。ところで、今回の『金山巨石群』への再訪を決めた直後に、とても興味深い資料(下にリンクした参考資料)を入手したのであった。かなり《重要な内容》と感じたので、以下に掻い摘んで解説しておきたい。◎約18.6年周期となる「月」の運行の”極大期”において、冬至の頃の『満月』は、夏至の「太陽」よりも”北”から昇り、(夏至の太陽よりも)高いところを巡ることから、古代より人々は畏敬の念をもって「月の運行の極大期における満月」(北限の満月)を眺め、信仰の拠り所にしてきた可能性がある。◎〔縄文遺跡〕として有名な青森県の「三内丸山遺跡」や〔弥生遺跡〕として有名な佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の祭祀遺構を調査すると、《夏至の日の出方位より2~3°ほど北に振れた方位線》を持つことが確認されている。◎上記の調査結果は、日本の古代遺跡を代表する二ヶ所の祭祀遺構が「北限の満月」の〔月の出〕に”方位線”を合わせて建造されたことを証明しており、縄文時代(前期中頃)から弥生時代に住んでいた人々にとって、「太陽」よりも「月」に対する強い信仰があったことを物語っている。◎次の「月」の運行の極大期は、2024年の年末から2025年の上半期にかけてだが、その間に東方に出現する満月(北限の満月)は、夏至の太陽が出現する方位よりも少し北に振れた角度から昇ることから、「月」と「太陽」の関係性をうかがう上で絶好の観測機会と言うことができよう。※参考資料・・・『吉野ヶ里遺跡と北限の満月』北條芳隆 著(東海大学)※参考資料・・・「吉野ヶ里遺跡と夏の天の川説の謎」(月刊「歴史人」より)上の参考資料を熟読することで・・・《 時代は今、”歴史的転換点”を迎えた!》・・・と判るであろう。
2024年07月31日
今回の旅路を計画する当初の段階で私なりに一番驚いたのは、冒頭画像の地図上に描いた「ベシカパイシス」(同じ直径の青と赤の二つの円が重なり合った図形)の「真ん中」を見出すべく二本の対角線(黄色)を引き、”その中心部は何処だろう…”と相当する交点部分の地図を拡大していったときであった。そこで私の目に飛び込んできた建造物が、上の地図に描いた「ベシカパイシス」の中央部に示した《日本まん真ん中センター》であり、それこそ今回の旅路のために描いた”列島中央部”の「真ん中」に、まさしく「真ん中」を象徴する施設を確認したことで、心底驚いたというわけである。そこで上の画像は、岐阜県郡上市美並町にある公共施設《日本まん真ん中センター》の、その出入口にあった”そのまんま”の名称が記された石造の看板を撮影したものだ。次に上の画像は、当施設の全景を撮影したものだ。それにしても、大きな施設をつくったのもである。そのシンボルとなるモニュメントは、世界最大級となる「日時計」であり、斜辺部分は北緯34.5度で持ち上がり、中心となる垂直部分の高さは37.3mとのことである。ちなみに”高さ”の37.3mは、地名の「美並(ミナミ≒373)」から採用したそうだ。この施設は1995年の国勢調査で、日本の「人口重心」(解説は上の画像に詳しい)が郡上市の前身にあたる美並村にあったことを記念して建設されたもので、1997年4月に開館したとのことだ。興味深いことに日本の「人口重心」は、東京への人口集中の影響で、年々「東南東」の方向へ移動しているそうである。思い返せば、前回の”列島中央部”への旅路は、今年(2024年)の元旦に起きた「能登半島地震」が契機となり、その背後に「日本の重心」が関係すると直感したことから始まった経緯がある。(以下の関連記事)※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)ということは、〔日本の国土の重心〕から〔日本の人口の重心〕へと、つまり結果的には〔日本の重心〕たる〔国土(地)〕と〔国民(人)〕の二つの要素が絡んでいたことになる。そうなれば上記のように、「能登半島地震」が発生した”元旦”という〔天〕の時を端緒として動いてきたことから、”三才思想”における〔天・地・人〕の三要素が絶妙に和合したかたちで、今回の旅路が実現したということになるのかもしれない・・・。そして上に並べた二枚の画像は、世界最大級の「日時計」に連関する垂直軸の先端が「人口重心」の”真ん中”とした「美並」を貫く、当施設における”シンボルモニュメント”の内部空間を撮影したものである。そこで画像の「上方」は施設の1階より、「下方」は2階より撮影したものだが、この画像に映る内部空間のデザインは、なかなかの見栄えに加え”強い説得力”を感じて、しばし魅入っていたことを思い出す。さて、ここ「美並」の地域は、江戸時代の初期に活躍した仏僧であり、その”円空仏”で有名な彫刻家でもあった「円空(えんくう/1632年~1695年)」が全国行脚の拠点としたことから、当施設内には「円空研究センター」が併設されている。そこで上の画像は、当施設の敷地に設置された「日本一巨大円空彫」(不動明王像)を撮影したもので、「夢と希望」を託し500名以上の有志がノミを入れた、像高8.5m・像巾2.0mの巨大円空像である。そして下の画像は、上の画像に映る「円空像」の横に掲げてあった、「円空」にゆかりの地所を散策する案内板を撮影したものだ。その独特の雰囲気を醸す”円空彫”に癒されつつ天空を見遣ると、そこには大きな太陽が満面の笑みを浮かべていた。(つづく)
2024年07月30日
さて次に向かったのは、前回の”列島中央部”の旅路において、「久能山東照宮」へ初参拝した際の記事(以下の関連記事)でも取り上げた、南光坊天海こと「明智光秀」にゆかりの《明智城跡》(岐阜県可児市瀬田)であった。その「明智光秀」が30年ほどを過ごしたとされる”明智荘”(可児市)にある《明智城跡》は、興味深いことに冒頭地図の図形「ベシカパイシス」の〈安宅関〉と〈本宮山〉を結ぶ軸線上に存在した。※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして(6)この上の画像右の「明智城大手口」と書かれた石標近くの駐車場に車を停め、いざ入城!である。明智氏の家紋である「桔梗」にちなみ、上の画像のように大手口から続く上り坂の名称は「桔梗坂」とされていた。有り難いことに、ちょうど桔梗の花が満開の時期に「明智城跡」に訪れることができ感慨無量であった。しばらく歩いていくと、大手口跡に復元された「大手門」があった。まさにここを潜ると、城内である。上の画像に映る案内図のように、城内一帯を周遊できるよう登城路が分かりやすく整備されていた。上に並べた二枚の画像は、〈上方〉が明智城の本丸跡に設置された「明智城跡碑」、そして明智城にまつわる歴史が記された解説版を撮影したものが〈下方〉である。そして、上掲画像の石碑と同じ「明智城本丸跡」に、2020年6月に建立された「明智光秀像」を撮影した画像が上である。また下の画像は、この像の解説版を撮影したものである。近年では、あらゆる角度から『〔明智光秀=南光坊天海〕説』や『〔虚構の「本能寺の変」〕説』などが唱えられるようになり、「明智光秀」の威光が燦然と輝き始めたことを実感するところである。下の末尾画像は、城内の高地にある展望台より、かつて光秀が見たであろう”明智荘”の景色である。現在「明智」という地名はないが、かつては現在の可児市北東部から御嵩町西部にかけて”明智荘”という荘園が存在していたとのことだ。また江戸時代の地誌である『美濃国旧記』には、初代土岐頼兼から光秀に至るまで、代々「土岐明智氏」が住んでいたとされている。この景色を見て私なりに印象に残ったのは、右側の遠方に見える山岳が”木曽の「御嶽山」”だということである。冒頭の地図を見れば分かるように、《明智城跡》から見て「御嶽山」の方位は『東北(鬼門)』だ。この展望台に立ち・・・おそらく「明智城」は、『東北』の方位に視認できる「御嶽山」を『鬼門』を護る御山として選定し築城されたのであろう・・・と実感したところである。
2024年07月29日
時間はもう午後5時を過ぎていたと思うが、次に向かったのは三河国一之宮「砥鹿(とが)神社」の神体山である「本宮山 (ほんぐうさん/標高789m)」の山頂であった。冒頭地図では、「ベシカパイシス」(同じ直径の赤と青の二つの円が重なり合った図形)の南端が、私の見立てでは「本宮山」に相当することから、是が非でも当日中に山頂に立ちたかったのである。有り難いことに、現在は無料開放されている”本宮山スカイライン”を利用したことで、ほぼ山頂まで車で登ることができた。そこで上の画像は、「本宮山」の山頂より開かれた南側を展望したものである。撮影時の展望は少し霞んではいたが、手前には豊川や豊橋を含む平野部が広がり、さらに前方に見える三河湾の遠方には、これまで「日出の石門」を端緒に各地を行脚してきた”渥美半島”を確認できる。上掲画像の「本宮山」から南側の展望は、上の地図を参照することで、より分かり易くなると思う。この「本宮山」は、昔から”三河富士”と謳われてきたことからも、まさしく「三河国」(愛知県の中・東部)に存在する山々の中心を担ってきた御山と言えよう。上に並べた二枚の画像は、「上方の画像」は当山山頂に置かれた”石積み”を撮影したものと、その”石積み”の裏手にある”一等三角点”の石標を撮影したものが「下方の画像」である。さて上の画像は、「本宮山」の山頂にほど近い「砥鹿神社 奥宮」の専用駐車場から、歩いて奥宮に向かう道沿いに掲げてあった当社の奥宮を紹介した看板を撮影したものである。そして歩くこと約10分で、正式な「砥鹿神社 奥宮」の出入口となる鳥居前に到着。そこで上の画像は、歴史ある”修験道”の名残りを漂わせる、威風堂々とした佇まいを撮影したものである。次に上に並べた二枚の画像は、三河国一之宮「砥鹿神社 奥宮」の本宮を撮影したものが”上方の画像”、そして”下方の画像”は当宮の由緒を撮影したものである。由緒によると、祭神は「大国主命」とあるので、当社は島根県は出雲国の《出雲大社の主祭神》が祀られていることと、”渥美半島”の付け根に鎮座する「菟頭神社」と「菟足神社」の眷属たる「兎」に思いを馳せると、おのずと神話物語『因幡の白兎』において「大国主命」と「白兎」が出会う場面(下の画像は出雲大社の境内で撮影した青銅の御神像)が浮かんでくるのであった。そうか・・・もしかすると〈三河国〉は古代より、『因幡の白兎』という神話物語に深い縁のある”国柄”だったのかもしれない・・・などと、次第に”本質”に近づいていく気配を感じ始めていた。また、最近の日記で『因幡の白兎』に纏わる連載記事(以下の関連記事は連載の筆頭)を書いたのだが・・・これもやはり密接に繋がっているはず・・・と、如実に感じたところである。※関連記事・・・山陰地方の「白兎」伝説と現地探訪(上)次第に夕暮れとなり、「本宮山」の麓に鎮座する「砥鹿神社」に参拝したのは、午後七時頃であった。そこで上の画像は、”夏越大祓”の設営が整った当社本殿を、少し遠方から撮影したものである。次に上の画像は、「大国主命」を主祭神として祀る当社本殿を、正面から撮影したものである。この「本宮山」の麓に鎮座する当社の由緒には…砥鹿神社は一千三百年前から鎮まる神を祀る奥宮と、里にて祀る里宮とで、二所一体の崇敬を集める神社。また三河国内の筆頭神社一之宮です。…と記してあった。やはり砥鹿神社は、奥宮が「本宮」だということである。上の画像は当社本殿に掲げてあった「神額」を撮影したものだ。格調が高く、実に美しい。そして末尾の画像に映る御紋は、古代日本の”占い”に起源を持つ『亀甲に卜象(ぼくしょう)』という当社の神紋である。・・・などと、ここまで記事を書いた段階で、この当社の社名である「砥鹿」は「とが」と読むのだが、その「とが」の「と」には「兎」の漢字も充てられるはずだという思いが湧いてきたのであった・・・。さらには、下の関連記事の内容を思い出し・・・おそらく「大国主」の”本質”とは天体の「オリオン座」であり、その地上投影地として〈三河国〉では「本宮山」と「砥鹿神社」、そして「白兎」の”本質”とは天体の「ウサギ座」であり、その地上投影地として〈三河国〉では「菟頭神社」と「菟足神社」を、それぞれ見立てることができる・・・などと、私の想像の翼は力強く羽ばたくのであった。※関連記事・・・『旧正月』を寿いで(下)…「宇佐」と「山口」を結ぶ”深き縁”加えて・・・〈三河国〉は”渥美半島”の先端部にあって、「富士山」と「朝熊山」を”三点一直線”で結ぶ「日出の石門」とは、天体の「シリウス」の地上投影地と見立てることができるという直観も得られた。ここまで濃厚に文章化し視覚化できたことから、冒頭地図に描いた「ベシカパイシス」が形成する南端を「本宮山」と見立てたことで、古代より当山を中心とする〈三河国〉に秘匿されてきた”機密の一端”が、いよいよ開示される時期を迎えたと解釈できよう。今回の記事内容は、なかなかに”深すぎる考察”となったが、それなりの妥当性があると感じている。
2024年07月26日
さて、冒頭画像の地図を参照していただくと分かりやすいのだが、前回の日記で取り上げた「渥美半島」先端部の「日出の石門」を経て次に向かったのは、太平洋側の”遠州灘(えんしゅうなだ)”に添う一本道を東方へ車を走らせ、「菟頭(うがしら)神社」(豊橋市高塚町)という珍しい社名の神社であった。当社は渥美半島のつけ根、荒い波の”遠州灘”が形成する崖の内陸側に鎮座していることもあり、参拝の前に社殿から近い海岸より太平洋の大海原を展望した画像が上である。ちなみにこの”遠州灘”は、静岡県の御前崎(おまえざき)から愛知県の伊良湖(いらご)岬に至る約110Kmの太平洋の海域のことをいう。なお、この海域の名称に”灘”が入るように、”遠州灘”の一帯は波が荒いため、全域で遊泳禁止となっているということだ。まずは第一鳥居より少し下り坂の参道を歩き、菟頭神社の第二鳥居前から、後に上り階段となる参道を撮影したものが上だ。この参道を歩くことで、鎮座地が”遠州灘”に特有の崖地だということが良くわかる。 上の画像は、当社の由緒を撮影したものだ。社名の「菟頭」の「菟」の字は、この由緒の字体のように、正確には「草冠(真ん中分かれ)」+「免(上部は「刀」)」と書くようである。当社の社名「菟頭」は、現在では「うがしら」という発音だが、寛永十年(1633)の棟札には「菟頭大明神」の名前が見え、寛文十一年(1671)の文書には「戸とうの宮様」、明治二年には「トトフの大明神」と書かれているので、かつては「ととう」と読んでいたようだ。そして当社の本殿を撮影した画像が上である。東海地方に良く見られる、まるで寺院のような重厚な瓦屋根を持った本殿ということで、おそらく私も初めて見た神社の建築様式である。「菟頭」という社名の印象も強いからであろう…この本殿の形態が醸し出す雰囲気が、今の私には『兎の頭』に観えてしまうのであった。海沿いの神社にふさわしく向拝の虹梁上には、波の上で追いかけっこをする二羽の兎の像が彫ってあった。その「波兎」の浮彫を撮影した画像が上である。上掲画像の由緒に記してあるように、当社の御祭神は「月読命」(ツクヨミ)とあるので、この祭神に社名にある「菟」や上の画像の「波兎」とくれば、自ずと豊国(現・大分県の県域)に鎮座する宇佐神宮の初代宮司たる”兎狭(ウサ)族”の初代族長「ウサツヒコ(別名 月読命)」を思い出すのであった。そういえば、「日出の石門」から「菟頭神社」を経由して、これまた「兎」に纏わる下記の「菟足神社」へ参拝する過程に、冒頭の地図に示したように「豊島」や「豊栄」の地名を確認した。そこで上の画像は、下の関連記事に掲載した冒頭地図だが、市町村名で「豊」の付く地名を七つ挙げている。そして今回の旅路において「渥美半島」に、さらに「豊」の付く二つの町名を見出せたことを含めて、やはり愛知県の知多半島や渥美半島を含む三河湾岸域に、古代より「豊国」(豊前国+豊後国)の”兎狭(宇佐=ウサ)族”を中心とする勢力の、段階的な入植があったと推考することができよう。※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして(6)さて次に参拝したのは、豊川市小坂井に鎮座する「菟足神社」であった。そこで上の画像は、当社の鳥居前から社殿方面を撮影したものだ。社名は「うたり」と読み、創建は七世紀後半と伝わる古社である。(延喜式内社)上の画像は当社の由緒を撮影したものだ。御祭神は「菟上足尼命」とあり、この祭神名が「菟足」に縮められて社名となり、「菟」の字の連想から末尾画像に映る「兎」の神紋になっていったのかもしれない。当社には、上の解説版に記してあるように、『徐福伝説(秦の始皇帝の命を受け大船団で来日。不老長寿の薬を求めて日本各地を巡り伝承を残す)』や『生贄神事(現在は”雀”を使うが、かつては”猪”、そして”人身御供”もあったと伝わる)』があったとされ、興味を引かれるところである。当社への参拝は六月末だったことから、御神前には”夏越の大祓”ということで、こしらえたばかりの「茅の輪くぐり」の設営があったので、今年初めての儀式体験をさせていただいた。そして末尾の画像は、『丸に兎』という「菟足神社」の神紋を撮影したものである。(つづく)
2024年07月25日
前回の”列島中央部”への旅路においては、愛知県域では「知多半島」の先端部まで行くことに時間を割いた。それゆえ時間の都合もあり予定していた「渥美半島」への周遊は果たせずにいた。ところが今回、この地域への旅路がふたたび実現する運びとなり、まず最初に訪れたのは冒頭地図下方の「渥美半島」の先端部にある「日出の石門(ひいのせきもん)」(愛知県田原市日出町)という”太平洋の荒波の浸食によって真ん中が洞穴となった石門”であった。そこで上の画像は、海岸に突き出た「日出の石門」の全体像を、高台から撮影したものだ。その石門の洞穴は、中央部に見える抉れた黒いところである。高台から下りの階段を降りて、石門の”メインシンボル”である洞穴を、海岸の砂浜から真正面に撮影した画像が上だ。そして下の画像は、海岸の展望広場にあった解説版を撮影したものである。実はこの「日出の石門」は、前回の旅路(以下の関連記事)を計画した際に、年始に起きた〔能登半島地震〕の最大震度の震源地を「北端」として”南北軸”を引いたことにより、その「南端」の地域が「渥美半島」に相当することから見出せた場所であった。※関連記事・・・「富士山」から「戸隠」へ…そして(6)その石門の洞穴に近づいて撮影した画像が上の二枚の画像で、”上方の画像”が至近距離で映した画像、そして洞穴を潜る途中で映したものが”下方の画像”である。それから「日出の石門」を潜り抜けた、その向こう海側の展望を撮影した画像が上である。その洞穴を潜り抜け砂地に降りると、すぐ右側には上の画像のように、とても見栄えの良い岩礁があった。実はこの岩礁にも洞穴があり、渥美半島の先端(伊良湖岬)付近の”恋路ヶ浜”などの海岸から見ることができ、「沖の石門」と命名されているそうだ。そして、自分が洞穴を潜り抜けた岩礁は「岸の石門」と命名されているとのことで、つまり「日出の石門」には、「岸の石門」と「沖の石門」という二種類の岩礁があるということである。ここからは”洞穴”は見えないが、別の角度から展望した「沖の石門」の、まるで”兜”を連想するかのような貫禄あふれる姿を撮影した画像が上である。・・・もしかすると、古代海人族が利用する船舶の、航海の安全を担う指標(目印)として、意図的に成形された岩礁かもしれない・・・などと、いつもの妄想が膨らむのであった。上方に掲載した画像の解説版に、〈「日出の石門」は緻密で硬いチャートの堆積岩でできている〉と書いてあるのだが、その層状に堆積したチャートが、うねるように褶曲した岩塊を撮影した画像が上である。このエネルギッシュな岩塊に触発され、心身共に大きな躍動感を覚え、そこには時空を超えて岩場と戯れる自分がいたのであった。さて次の画像は、「岸の石門」を左側に見て”左右に屹立する岩塊”の間の前方の海上に「神島」(画像中央の遠方に映る島影)を展望したものである。実はこの記事を書いている過程に・・・上の画像の”左右に屹立する岩塊”の佇まいこそ、本来の”日出の石門”だったのではないか・・・という着想が生まれたのであった。そこで上の画像は、ひとつ上の画像をさらに拡大したものだ。同じく画像の中央にあって海上に浮かぶ島が「神島」なのだが、その右側の遠方にかすかに見える山並のピークが、冒頭画像の地図の左下に示した「朝熊山(標高555m)」である。前回の”列島中央部”の旅路にて〈連載(6)〉となる以下の関連記事では、上の画像に映る「神島」について書いており、そこから引用すると・・・この《朝熊山⇒神島⇒富士山》という〔三点一直線〕は「夏至の日の出を示す方位線」になる・・・という件があった。※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして(6)しかし、この記事を書くために、「日出の石門」で撮影した数々の写真を見比べて分かってきたことは、上記の・・・《朝熊山⇒神島⇒富士山》という〔三点一直線〕・・・は微妙にズレており、より正確な軸線としては《朝熊山 ⇔〈日出の石門〉⇔ 富士山》の〔三点一直線〕が、「夏至の日の出(冬至の日の入)を示す方位線」を謳うに相応しいということであった。そして上記のことが分かった時点で、私の脳裏に浮かぶ”心象風景”があった。そこで観えた景色とは・・・…おそらく縄文時代までさかのぼる太古から、「富士山」の山頂から昇る”夏至の日の出”の重要な祭祀場および観測地点として「朝熊山」の山頂があった。…その〔夏至の日の出前の夜明けの晩〕に、上掲画像の”左右に屹立する岩塊”の大きく開いた”石門”の岩場で〈篝火〉(かがりび)を焚き、「朝熊山」の山頂からは見えない「富士山」の山頂を指標する目印とした。…それに加えて「神島」でも〔夏至の日の出前の夜明けの晩〕の時間帯に〈篝火〉を焚くことにより、「日出の石門」の〈篝火〉と呼応させることで、より精確な「富士山」の山頂から昇る”夏至の日の出”の方向(方位)を特定することができた。・・・などと、かなりリアルな心象風景が、臨場感を持って観えてきたのであった。おそらく東海地方に生活した古代人にとって、”夏至の日の出”の祭祀場および観測地点であった「朝熊山」の山頂にて、年間では最大の祭祀日であったであろう「夏至」に、「富士山」の山頂から昇る「日の出」の方向を精確に把握することが重要であった・・・。その”夏至の日の出”を正確に観測し祭祀するための古代の卓越した儀式こそ、上記の〔夏至の日の出前の夜明けの晩〕に”日出の石門”(左右に屹立する岩塊)の岩間に多くの古代人が集い、皆で協力して〈篝火を焚く〉という素朴だが洗練された儀式だったのではあるまいか・・・。(つづく)〔 追 伸 〕末尾画像の地図は、前回の日記で掲載した地図と同じく「ベシカパイシス」を基盤とする図形である。既に気づいていたことではあるが、青色の円の円周上の右上に「戸隠山」を確認できたことで、前回の”列島中央部”への旅路の連載タイトル『富士山から戸隠山へ…そして』との一連の関係性が私なりに見出せた。
2024年07月24日
ここで前回の日記で最後の方に書いた…かつて日本地図の近畿地区に描いていた一つの円…とは、冒頭画像の地図にある円となる。実はこの円は、以下の書籍を参考に描いたものだが、著者の解説によると「古事記」の記述内容から見出せた図形ということであった。※参考書籍…書名『実在した幻の三角形』大谷幸市 著/卑弥呼の金印発掘研究会 発行(初版1987年)この「伊吹山」を〈中心〉とする円は、〈中心〉と大和の「三輪山」との距離、また〈中心〉と伊勢の「朝熊山」との距離を同じくし、その距離を半径とする円である。そして、その「三輪山」と「朝熊山」を結ぶ直線距離は、「伊吹山」を中心として描く”正八角形”の一辺を形成するという関係になっている。そして、この冒頭画像の円を見ているうちに、その円周の右上に木曽の「御嶽山」を見出せたことから、前回記事二つの円で構成される「ベシカパイシス」に触発されたかたちで、この「御嶽山」を中心とする同じ半径の円を描いてみたいという衝動に駆られ描いた図形が下の画像の地図である。この「ベシカパイシス」の図形に、交差する基本の直線を描いてみて、まず興味をひかれたのは「伊吹山」と「御嶽山」を結ぶ直線が、「”夏至の日の出”と”冬至の日の入”を示す約30度の軸線」を示していたことであった。ということで、この下の地図に描いた「ベシカパイシス」を基盤とする図形を眺めていると、その後に実現する旅路を予見させる暗号が、地図上の”ここかしこ”に観えてきたというわけである。(つづく)
2024年07月23日
冒頭画像は、このシリーズ(中)で掲載した「八雲山」山頂からの展望画像を少し拡大したもので、”島根半島”の東部より日本海に突き出た先端方面(美保関)を撮影したものである。今回の旅路では、その島根半島の東端にある美保関港の港湾近郊に鎮座する「美保神社」(松江市美保関町)に参拝する機会があった。その参拝時に当社を撮影した画像が下である。そして、出雲地域全体の地図から見た「美保神社」の鎮座する場所は、末尾に掲載した地図の右上となっている。当社は何度か参拝しているのだが、今回の”久しぶりの参拝”は快晴にも恵まれ、清々しい一時であった。さて「美保神社」の祭神は、「美保津姫命(ミホツヒメ)」と「事代主神(コトシロヌシ)」の二柱となっている。ところが、”出雲国風土記”や”出雲口伝”等を参照すると、当社の祭神(上記)に関しては、その複雑な歴史的背景を考えさせられてしまうのであった。以上のことを含めた様々な経緯があり、当社を参拝する境内において、私の心中には「御穂須須美命(ミホススミ)」が浮かんでいた。それはおそらく、今年の元旦に起きた「能登半島地震」の震源地域に、この「ミホススミ」を主祭神として祀る「須須神社 奥宮」が鎮座しており、今回の地震の影響で倒壊に近い社殿の惨状を画像で見たからであろうと、今はそのように感じることもできる。実は「美保神社」の参拝から約二週間後に、上記の能登半島は最東北端にある”山伏山”の山頂に鎮座する「須須神社 奥宮」(石川県珠洲市狼煙町)を参拝することになるのだが、もちろんこのことは「美保神社」への参拝時には全く考えていなかった。ちなみに、古代出雲の歴史に詳しい”出雲国風土記”は、上記の「ミホススミ」を当社の祭神としており、当地の地名「美保」は祭神名に由来すると書かれている。この「ミホススミ」は、一般的には「大国主」と「沼川姫(ヌナカワヒメ)」との間に生まれた”御子”となっているのだが、”出雲口伝”では〔東出雲王国〕の第八代 少名彦(副王)の「八重波津身(ヤエハツミ)=事代主(コトシロヌシ)」と越国の「ヌナカワヒメ」との間に生まれた”御子”ということである。実は「事代主(コトシロヌシ)」を祀る「美保神社」は、全国に約3,400社ある「恵比須(エビス)」を祭神として祀る神社の〔総本宮〕とされている。そこで、なぜ「事代主」が「恵比須」なのかといえば・・・一般に「恵比須・大黒」と言われるが、そもそもは出雲大社の「大国主」の神名にある「大国」が「だいこく」と読めることから、”七福神”の一人である〈大黒〉と呼ばれるようになり、それに対して釣り好きだった「事代主」は、”七福神”の一人で…蝦(エビ)で鯛(タイ)を釣る…〈恵比須〉と呼ばれるようになったということである。さらに”出雲口伝”によれば、古代の出雲王国において”ある時期”に、〔西出雲王国〕の第八代 大名持(オオナモチ/主王)である「大国主(オオクニヌシ)」と、〔東出雲王国〕の第八代 少名彦(スクナヒコ/副王)の「事代主(コトシロヌシ)」の、東と西の出雲王国全体を治めていた(上記の)「二人の王」が、古代出雲の風習では”有り得ない謀略”により同時期に暗殺される事件が起きたという伝承がある。これによって、副王「コトシロヌシ」の別の后である「活玉依姫(イクタマヨリヒメ)」とその子供達は、島根の出雲国から故郷の摂津国三島(大阪府高槻市)に帰り、そこで成長した息子の「奇日方(クシヒカタ)」が大和に新王国を造ることを決意。そうして大和盆地の南部に移住して”国造り”を始め、大和の「三輪山」を神体山とする「大神(おおみわ)神社」の初代祭祀者となった子供の「蹈韛五十鈴媛(タタライスズヒメ)」は、当社に父親の「コトシロヌシ」を「大物主(おおものぬし)大神」として祀ったのであった。故に”出雲口伝”によると、大和国一之宮「大神神社」の主祭神「大物主大神」とは、〔東出雲王国〕第八代 少名彦(副王)の「事代主(コトシロヌシ)」になるのである。ところで、この「美保神社」の”大社造の左右二殿連棟”という特殊な形式の本殿は、「美保造」または「比翼大社造」といわれ、〔国の重要文化財〕に指定されている。確かに「大社造」ではあるのだが、他に類を見ない社殿の「造(つくり)」である。一般に社殿の屋根に乗る「千木」については、「縦削ぎ」の方に”男神”を祀り、「横削ぎ」の方に”女神”を祀るとされているが、本来は”出雲系の社”が「縦削ぎ」であり、”渡来系物部族の社”が「横削ぎ」であったとのことだ。伝承によると、「美保神社」に「縦削ぎ」と「横削ぎ」の社が併存しているのは、先住出雲族と渡来系の九州・物部族が、永い恩讐の果てにその確執を乗り越えて、”仲良く泰平を築こう”との思いを込めて、出雲王族の子孫が建立したからだということである。特に今回の参拝においては、「美保神社」の境外末社で「タケミナカタ」を祀る「客社」や、「ミホススミ」と縁の深い「幸魂神社」を参拝することができたのは有意義であった。さて上の画像は、鳥居の神額に書かれた社名が読み取りにくいのだが、鳥居前から随神門を経て神殿の方向へ真っすぐに向かう「朝山神社」(出雲市朝山町)の参道を撮影したものである。次に上の画像は、参道を構成する一区画の内側に計八枚の石畳を敷き詰め、このパターンを連続的に並べ参道を形成する造形に心を惹かれて撮影したものである。古代出雲族は「八」を吉数としたことから、これを一人一人の参拝者が有り難く踏み締めて歩くための参道として具現化したであろう”設計者の心情”が読み取れて、そこはかとない感動を覚えたのであった。上の画像に映る由緒にあるように、祭神の神名は「眞玉著玉之邑日女命」(マタマツクタマノムラヒメ)とある。私としては今回の初参拝で、はじめて知った神名であったが、かつて自分が”綿棒で立体を作る行為”を「玉造(たまつくり)」と表現したり、ペンネームを「matama」としたことがあったので、私的には絶妙な”馴染み”を感じる神名であった。また、加えて当祭神は、「神魂命」(カミムスヒノミコト)の娘神とされ、大己貴命(オオムナチノミコト)の妻ということである。当社に参拝することになった動機は、出雲の「神在月」といえば旧暦十月の”一ヶ月の祭事期間”を意味し、「出雲大社」では毎年の旧暦十月十一日から一週間の祭事が始まるわけだが、普通に考えても”あってしかるべき”と思われる「神在月」の初日である十月一日からの祭事について、これに関する情報が何故か得られなかったことや、この件について調べてみる機会を逸してきたこともあった。それが今回の出雲行脚の過程で、この「朝山神社」の『神在祭』における祭事が、旧暦十月一日から始まることを知る運びとなり、出雲地域に移住して間もない知人を誘い、当社への初めての参拝となった。そこで以下、「朝山神社」での祭事を含む『神在祭』の日程等について、知り得たことを記しておこう。・・・全国の神社から出雲に集った”八百万の神々”は、まず十月一日から十日まで「朝山神社」に滞在され、ついで十一日から十七日までは「出雲大社」に滞在され、それから十八日から二十五日までは「佐太神社」に滞在され、最終日の二十六日に「万九千(まんくせん)神社」において諸神事を終了し、最後の「神等去出(カラサデ)祭」を斎行した夕刻に、それぞれ全国各地の神社へ向ってお立ちになる。・・・この『神在祭』における旧暦十月一日から十日までの祭事は、現在でも「朝山神社」において厳然と斎行されているとのことである。(上の画像は「朝山神社」の拝殿を撮影したもの)次に上の画像は、当社拝殿の出入口にある扉の上方を撮影したもので、そこに映っている”神額”の右側や扉の両脇に確認できる当社の”神紋”は、「百合の葉紋」ということである。とても珍しい御紋ということだが、確かにこの御紋を見るのは私も初めてであり、まるで脳裏に焼き付くかのように印象に残った。当社神殿の左横から少し上り坂の道を進むと、展望所へ誘う看板があったので登ってみると、その高台に素晴らしい展望が待ち受けていた。そこで上に並べた二枚の画像は、〈上方の画像〉が展望所から撮影した”島根半島の西部から画像中央に向かって日本海に突き出た半島の西端(日御碕)”の画像で、その素敵な景観を解説した絵図を撮影したものが〈下方の画像〉である。この景色を見ていると、当日記の冒頭に掲載した画像の、「八雲山」山頂から撮影した”島根半島の東部方面から日本海に突き出た半島の東端(地蔵埼)”の画像と重なってきて、神妙な心地になるのであった。当社の参拝を終えて、同行した出雲の知人を車に乗せて走っていると、知人から…「ベシカパイシス」ってご存知ですか?…との問い掛けがあり、私もすぐに当社の”神紋”がキッカケだと分かったので、…一般に〔二つの円〕を接合した”平面図形”として描かれたものが多いけれど、かつて〔二つの立体〕を組み合わせた”立体構造”として作ったことがありますよ。…と答えて、知人のご自宅に到着後に”以下の関連記事”を知人のSNSに電送し、早速ご自宅の玄関先にあるテーブルで「綿棒工作」が始まるのであった。そんな経緯で、私なりの発想による”スケルトン立体”の「ベシカパイシス」を、現地で制作・披露する運びとなったことに、ある種の必然性を感じていたのであった。※関連記事・・・ベシカパイシス・・・そして自宅に帰り・・・今回の出雲行脚の”締め括り”は、最後に参拝した「朝山神社」の神紋「百合の葉」とも共振する「ベシカパイシス」だったな・・・と振り返りつつ、かつて日本地図の近畿地区に描いていた一つの円を見ていると、どうしても「ベシカパイシス」の如く、もう一つの円を描きたくなったので、その二つの円で「ベシカパイシス」を描いた地図を眺めていると、それから約二週間後に実現する旅路を予見させる暗号が、地図上の”ここかしこ”に観えてくるのであった。(了)
2024年07月20日
さて、今回の”出雲行脚”(令和6年6月中旬)において久しぶりに参拝したのは、雲南市大東町に鎮座する「須我(すが)神社」であった。この地で詠まれ日本最初の和歌とされる『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』があるのだが、この歌の中に登場する「出雲」こそ、「出雲」という地名の起源とされている。上の画像は、鳥居の近くにあった由緒を撮影したもので、上記の和歌が詠まれた経緯などに詳しい。この由緒にあるように、御祭神は「スサノオ」と「イナダヒメ」の夫婦神と、その「御子神」となっているのだが、”出雲口伝”や研究者のサイトを調べていくと、「スサノオ」とは〈古代出雲王朝〉の“初代の王”である「菅之八耳(スガノヤツミミ)」のことであり、また初代王の后は「稲田姫(イナダヒメ)」であって、上記の「スサノオ」の妻と同じ神名であると、ようやくこの期に及んで知ることとなった。ところが、いわゆる”記紀神話”においても、上記の初代出雲国王「菅之八耳」という王名に似た「稲田宮主 須賀之八耳神」という神名があり、「イナダヒメ」と結婚した「スサノオ」が出雲国の須賀に宮を作った際、その宮の首に任じられた「アシナヅチ」(イナダヒメの父)に、この名が授けられたなどの諸説があるので留意すべきところではある。ここで、さらに「スサノオ=菅之八耳 説」を補強するとすれば、由緒にある「御子神」の「清之湯山主三名狭漏彦八島野命」(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)とは、つまり西出雲王国の第二代”大名持”で神門臣家(家祖)の「八島士之身」(やしましの/八嶋篠)と、東出雲王国の第三代”大名持”で富家(家祖)の「兄八島士之身」(やしましゅ/八嶋手)の兄弟と認識できるので、やはり「スサノオ」とは”出雲王国”の初代王たる「菅之八耳(スガノヤツミミ)」ということになろう。以上のことから・・・当社の名称である「須我(スガ)」とは、初代王の神名にある「菅(スガ)」を意味していたのだ・・・と、この文章を書いている過程で、自分なりに腑に落ちたのであった。既に”出雲口伝”を読み馴染んでいる方は、「スサノオ」とくれば…出雲における「徐福」の和名…(※)という捉え方(スサノオ=徐福 説)が定着していると思うのだが、現時点で「スサノオ」に想いを馳せると、すでに「徐福」の印象は霞んでしまっていて、今や「菅之八耳(スガノヤツミミ)」の御姿が深く大きく浮かんでくる。(※)ここで「スサノオ=徐福 説」について興味のある方は、各自で検索し確認して欲しい。さて、この「スサノオ」たる「菅之八耳」を祭神として祀る「須我神社」の神体山は、上の画像の掲示板に書いてあるように「八雲山(やくもやま)」(標高426m)であり、日本初の和歌の冒頭にある「八雲立つ」の「八雲」にちなむ山名となっている。これまで十回以上、この「八雲山」の山頂に立ったことがあるのだが、いつも当山の八合目辺りまで続く細い車道を利用しており、上の画像の掲示板は山上の駐車場に近い登山口に掲げられたものだ。八合目の登山口から少し歩くと、上の画像に映る最初で最後の分岐点を示す標識が現れる。ここから緩やかな山道を登っていけば約20分で、なだらかな丘のような山頂に到着する。そして上の画像は、「八雲山」の山頂から東北方面を撮影したもので、汽水湖の中海から弓ヶ浜を経て、日本海に突き出た島根半島の東部方面が映っている。なだらかな丘陵地ともいえる山頂部は、上の画像のように展望の良い場所で、よく晴れた日には東方に伯耆富士と謳われる「大山(標高 1,729m)」や、西南方面には「三瓶山(標高 1,126m)」を展望することができる。(以下の関連記事は”晴れた日”に「八雲山」山頂から撮影した展望画像を掲載している。)※関連記事・・・令和元年【秋】出雲行脚の巻(一)実は、この「八雲山」を神体山とする「須我神社」の祭神「スサノオ」を、上記の「菅之八耳(スガノヤツミミ)」と確認あるいは感得したのは、図らずも昨日〔7月17日〕の夕刻であった。…そういえば〔7月17日〕は何かあったな…と思い、ハタと気づいたのは・・・京都の「祇園祭」でも最高の見せ場とされる「山鉾巡行」が斎行される月日だということであった。この”日本三大祭”のひとつ「祇園祭」(開催期間…7月1日~同月31日)は、京都市右京区に鎮座する「八坂神社」(主祭神「スサノオ」)を中心に斎行される年間でも最大の祭事なのだが、その当社の主祭神こそ「スサノオ」たる「菅之八耳(スガノヤツミミ)」だったということになる。・・・これは”おそらく”というより、”完全に導かれている”・・・と、素直に感じた次第である。山頂部にて「ひとり」でまどろむこと約一時間、解放された心身で天頂方面を見ていると、それまで覆っていた雲が次第に薄れ、ついには上の画像のように天空が開き青空が見えてきたのには感動した。その天頂の”晴れ間”に感動して思い出したのは、今回の旅路でも類似の造形を持参していた『中心部の開いた立体七角形』である。つまり頭上を見上げた際、徐々に雲間が開いて青空が広がっていく光景が、私には『立体七角形』の中心部の開き加減に連動するかのように観えたのである。それと同時に、かつて京都市南区にある世界遺産「東寺」の境内で見かけた”寺紋”の「八雲の紋」(下の関連記事の冒頭画像に掲載した御紋で、境内に鎮座する出雲系神社の神紋を由来とする。)が、それこそ日本最初の和歌「八雲立つ 出雲…」を象徴する、「出雲」に座す「八雲山」の山頂で浮かぶのであった。☆関連記事・・・「八雲の紋」…京都 東寺と出雲を結ぶ謎そして下の画像は、”天体の地上投影”という観点から、出雲地域に投影された「おうし座」を構成する主要な星々が描かれた地図である。この地図を見ていると、古代より神社等の建造物が各投影地に建立され、現在まで大切に維持されてきたことがうかがえよう。その意味で、「スサノオ」の別称でもある「牛頭天王」の「牛頭」とは「おうし座」と深く連関し、この地図に投影された「おうし座」とは、「スサノオ」を本質的に象徴している図象ということができよう。ちなみに今回の記事で取り上げた「八雲山」は、「須我神社」と「熊野神社」を結ぶ線の中間に位置し、(今の私的感覚では)「おうし座」の一等星「アルデバラン」の投影された聖地であり、また”古代出雲王朝”の「はじまり」を担い、過去から現在そして未来に向かって燦然と輝く聖地だと感じている。(つづく)【 追 伸 (1)】上記のように、「スサノオ」の本質を「おうし座」として記したが、いつも参考にさせていただいている下記の書籍を参照すると、日本神話の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の段において・・・「スサノオ」は老夫婦(アシナヅチ=翁〔おきな〕/テナヅチ=媼〔おうな〕)に頼んで少女をもらい受け、彼女(クシナダヒメ)を”爪型の櫛”に変えて頭髪に挿した。そして酒樽を用意させて大蛇の現れるのを待った・・・とあるのだが、この件(くだり)における上記の”神々”と連関する”星座”との関係性を示すとすれば、下の画像の天体図になるようだ。つまり「スサノオ」とは「おうし座」にして、「クシナダヒメ」とは”爪型の櫛”の形状たる「ぎょしゃ座」であり、その後の”夫婦和合”の関係を彷彿とさせているのである。そして下の天体図にあるように、クシナダヒメの父親である「アシナヅチ」は、”足”が長いように見える「ふたご座」に見立てられ、クシナダヒメの母親である「テナヅチ」は、”手”が長いように見える「ペルセウス座」に見立てられることから、言わば四季折々の印象的な”天体図”を基盤に、この「八岐大蛇」を含む「日本神話」の様々な場面を、それが分かる人には伝わるように物語っているということになろう。※参考書籍・・・書名『星空の卑弥呼』(上・下巻)・榊 晶一郎 著・星雲社 (初版2004年)【 追 伸 (2)】下の画像は、「出雲大社」の境内図なのだが、「御本殿」の後ろに「素鵞(そが)社」と「八雲山」が確認できると思う。この境内に鎮座する「素鵞社」の祭神は「スサノオ」であり、背後の「八雲山」が当社の神体山という”信仰の構図”は、先に取り上げた雲南市大東町にある神体山「八雲山」の麓に鎮座する「須我(すが)神社」という”信仰の構図”と、社名の発音に多少の違いがあるにせよ、同じ構図とみて間違い無いであろう。ここで私的見解を述べるとすれば、元々は雲南市の”信仰の構図”があって、それが「出雲大社」創建の際に、その地所(境内地)を”東出雲王家”の「富家」が担当したという伝承があることから、その”信仰の構図”の縮小版が「出雲大社」の境内地に遷祀されたのではないかと考えている。ちなみに、創建された「出雲大社」を含む建造物の築造は、”西出雲王家”の「神門臣家」が担当したとの伝承があるので、当家は境内に鎮座する主要社殿の「鍵」を管理する立場にあったということであろう。そこで、もし出雲大社の境内社である「素鵞社」の祭神「スサノオ」が、初代出雲国王の「菅八耳(スガノヤツミミ)」ということであれば、出雲大社の祭祀の中心である「御本殿」にて、西出雲王家の第八代 大名持の「八千矛(大国主)」が祀られた経緯なり筋道が、より明確になるのではないかと感じている。
2024年07月18日
冒頭の画像は、「出雲大社」の境内にある”拝殿”の右横から、当社の主祭神「大国主大神」が鎮座する”御本殿”(画像中央部に映る屋根の部分)を撮影したものである。そして上の画像は、聖域のため一般の参拝では入れない敷地内の左側から、”御本殿”の全体像を撮影したものだ。この”御本殿”の高さは約24mで、〔大社造〕と呼ばれ日本最古とされる神社の建築様式を今に伝えている。ところが2000年には境内より、古代”御本殿”の御柱(三本の大木を束ねた直径3mの巨大柱)が発掘され、中世には”御本殿”の高さが約48mあったとする社伝が、事実だった可能性が出てきたのであった。次に上の画像の左側は、出雲大社に隣接する「古代出雲歴史博物館」に常設の、社伝に基づき約48mの高さがあったとする”御本殿”の縮小モデルを撮影したものである。そして上の画像の右側は、左側の高層神殿(御本殿)を建造する背景にあったと思われる「天体の星座図」(”おうし座”と”ぎょしゃ座”が合体した図)を示したものだ。☆関連記事・・・「天之御中主神」の本質は、”ぎょしゃ座”の「カペラ」なり!☆関連記事・・・「出雲国風土記」の奥の院上の左右二枚の画像を見比べたり、上にリンクした二編の関連記事を読むことで、”御本殿”に鎮座する主祭神「大国主大神」と御客座五神「天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿阿斯訶備比古遅神・天之常立神」の〔六柱の神々〕の、それぞれの”神名の意味”や”鎮座の配置”が示唆するところの《本質》が、おぼろげながらも観えてくるのではないかと思う。出雲大社”御本殿”の背後に回り、真後ろから撮影した画像が上である。今の私には、この「大社造」という〔将棋の駒〕のような五角形状の建築様式が、古くは和名で「五角星」とも呼ばれ、冬期に”天地を貫く御柱”の天頂に輝く”ぎょしゃ座”に観えている。そこで、これまで当日記にて何度も唱えてきた文言ではあるが、以下に改めて謳わせていただこう。・・・〔日本神話〕の物語る『八百万の神々』の”本質”とは、『天空に輝く星々』のことである。・・・さて、いよいよ「出雲大社」の創建について、”出雲口伝”を参考にした文章を綴っていこう。そこで、この上と下の二枚の画像は、現・出雲大社の”元宮”と伝承される「三屋(みとや)神社」の御神前にある鳥居(上)と、拝殿の社名が書かれた「神額」(下)を中心に撮影したものである。”出雲口伝”の富家伝承によると、「東出雲王朝」と「西出雲王朝」という二つの王朝制だった”古代出雲王国”において、「西出雲王朝」の”神門臣家(かんどのおみけ)”の王であった第八代「大名持(オオナモチ/役職名)」の《大国主(八千矛〔ヤチホコ〕)》を祀る「三屋神社」(雲南市三刀屋町)が、神門臣家により既に建立されていたということだ。ということは、西暦716(霊亀2)年に創建された「杵築大社(現在の出雲大社)」は、「三屋神社」から《大国主》の御神霊が遷座された神社であり、つまり「三屋神社」は「出雲大社」の”元宮”ということである。そして「三屋神社」の神紋は〔龍鱗枠に剣花菱〕(上の画像の神額の下方にある緑色の御紋)であるが、この神紋は「出雲大社」の神紋〔亀甲に剣花菱〕と同じで、”出雲口伝”によると正確には〔亀甲紋〕ではなく〔龍鱗紋〕であり、出雲において古代より信奉された「龍蛇神」を象徴しているということだ。次に上下二枚の画像は、かつて「西出雲王朝」の王家である”神門臣家”の宮殿があったと伝わる「智伊(ちい)神社」の鳥居前と社殿を撮影したものである。伝承によると、この「智伊神社」には「出雲大社」の”鍵”が蔵置されており、それは「出雲大社」を創建した神門臣家が当社の所有者であったため、大社社殿の鍵を管理していたことを意味するそうである。これまで「東出雲王朝」の王家である”富家(向家)”の宮殿が神社になったと伝わる「神魂(かもす)神社」(松江市大庭町)や、同じく富家ゆかりの出雲国一之宮「熊野神社」(松江市八雲町)には何度も参拝してきたのだが、なかなか「西出雲王朝」の”神門臣家”の宮殿やゆかりの聖地等を訪ねる機会が無かった。それが今回の出雲行脚によって、「西出雲王朝」の王家にまつわる「智伊神社」や上記の「三屋神社」を参拝することができ、”感慨ひとしお”であった。(つづく)
2024年07月16日
さて次に訪ねたのは、『因幡の白兎』に登場する「八上姫」を祭神として祀る式内社「賣沼(めぬま)神社」(鳥取市河原町)であった。(末尾の地図参照)そこで冒頭画像は当社の鳥居前、そして上の画像は由来書をそれぞれ撮影したものである。”出雲口伝”を参照すると、八上姫は因幡国の八上郡(現・八頭郡)売沼から八千矛(大国主)の元に嫁入りし、その実家跡には姫を祀る「賣沼神社」が建てられたとあった。そして因幡国の弥生時代後期は、朝鮮半島やオホーツク海から渡来人が多く上陸し、各地で鉄製品を活用した農業技術により、原野を開拓し水運の交易で財を成し、八上姫の実家はその後も続いた豪族として大きな勢力になったということだ。ところで上の画像に映る鉱物は、鳥取県八頭郡若桜(わかさ)町で採れた「ヒスイ(翡翠)」を撮影したものである。かつて鳥取の知人から頂いたもので、「若桜ヒスイ」の愛称で知られる。(産出地は末尾画像の地図参照)「ヒスイ」といえば、新潟県の姫川(糸魚川)産の”濃い緑色”の「ヒスイ」が有名であり、全国に最も流布している希少石だが、この「若桜ヒスイ」は上の画像のように”薄く淡い緑色”が持ち味といえよう。※関連記事・・・列島中央の「縄文ヒスイ紀行」(九)では何故ここで「若桜ヒスイ」を取り上げたかといえば、八上郡を治めていた豪族の姫であった因幡国の「八上姫」と出雲国の「大国主」との婚姻の背景に、この「若桜ヒスイ」という希少石があったのではないかと感じたからであった。また「大国主」といえば、高志国(こしのくに/現在の福井県から新潟県)の「奴奈川姫(ヌナカワヒメ)」との婚姻の背景に、これまでの学術的な歴史研究からも、上記の「姫川産のヒスイ」があった可能性が指摘されており、その関係性は自ずと類推できるというわけである。この上・下の画像は、当社社殿のすぐ南側を流れる「曳田川」を、細く浅い川筋の上流方面(上の画像)から、おそらく古代において社殿の真横に中型の船が横付けできるよう川幅を広く整備し、まるで川の流れを屈折させたかのような流域(下の画像)を連続して撮影したものである。今の私の心中には・・・手前の川岸に見える岩場に寄せられた数隻の小舟に、新鮮な農産物や海産物を含む数々の交易品が載せられており、この場所で手際よく取引する古代人の和やかで意気揚々とした姿・・・が浮かんでいる。この地は今回の歴史探訪において、最も心身が癒された場所であった。次に、このシリーズ(1)に書いたように、”宇佐口伝”によると「大国主」は、「菟狭族」の姫「八上姫(ヤガミヒメ)」を最初の妻として娶り、一子「下照姫(シタテルヒメ)」を授かったとあるが、その「下照姫」を「木股神」として祀る「御井神社」(出雲市斐川町)に参拝した。(末尾の地図参照)上の二枚の画像は、当社の社殿と由緒を撮影したものだ。ここで特筆すべきことは、別の由来書に「日本最古の井戸として、宮中にも御分霊して祀られている。」と記されているところであろう。この御井神社の近くには、由緒に書かれた”三つの井戸”が現在も湧いているとのことで、私は全ての井戸を見て回り、そのなかの「生井」という井戸を撮影したものが上の画像だ。由緒によると母親の八上姫は、これらの井戸に湧く霊泉で湯浴みされ、御子の木股神(下照姫)を産湯なされたとのことである。このシリーズの最後に掲載した画像は、当社の境内にある「撫でうさぎ」という石像を撮影したものだ。思い返せば今回のシリーズにおける行脚では、行く先々で様々な表情の可愛い「白兎」が、私の動向を見守り導いてくれたように感じている。(了)
2024年07月12日
山陰地方の「白兎」伝説を訪ね歴史の現場を散策する過程に、鳥取県内にある二つの”国史跡”を見学する運びとなり、前回の日記では「妻木晩田遺跡」を訪ねた際の記事を書いた。そして今回の記事は、もう一つの国史跡「青谷上寺地遺跡」を訪ねた際のものである。当遺跡を訪ねるのは今回で二度目となるのだが、同遺跡で出土した数々の”重要文化財”を展示する施設を含む公園(上掲画像の「青谷かみじち史跡公園」)が開園(2024年3月)したとのことで見学に訪れた。上の画像にある記述内容は、当展示施設の開館を記念して開催中の企画展「青谷弥生人ーその実像を探る」の趣旨を述べたものだ。弥生時代にこの地域で繰り広げられた闘争については、それなりに私も知っていたつもりだったが、当企画展の展示内容を拝見し、想像以上の激戦地だったことを思い知らされるのであった。また、遺跡から出土した人骨のDNA分析や複顔など、様々な情報を網羅して浮かび上がる「青谷弥生人」の再現には、目を見張るものがあったことを憶えている。そして何といっても、この展示施設を訪れた私が一番驚嘆し感動したのは、上の画像の案内板にあるように、「重要文化財展示室」に陳列された当遺跡発掘の、予想を越えた”美しい出土品”の数々であった。そこで以下、展示されていた出土品のなかで、私的に抜粋した”魅了された文化財”の八点を紹介しよう。《 絵画土器 》(県指定保護文化財)土器/弥生時代中期(紀元前2~前1世紀頃)※解説…大型の壺の頸部に船と船を漕ぐ人物。建物2棟の他、木に吊るされた物体、動物らしき絵が描かれています。◎この画像は上に解説された様々な絵画のなかで、”建物2棟”が描かれた側面を撮影したもの(上下2枚)で、長い階段のある方の建物は、約96mの高層本殿であったとされる古代の出雲大社を彷彿とさせる。《 玉 》(重要文化財)・・・勾玉:ヒスイ製、管玉:ガラス製、小玉:ガラス製、算盤玉:水晶製/弥生時代後期~古墳時代前期前葉(紀元1世紀~3世紀頃)《 銅剣形骨角器 》(重要文化財)・・・骨角器(クジラの骨製)/弥生時代前期後葉~中期前葉※解説…青銅器の剣を模倣したもの。実用の武器ではなく、祭祀用とみられる。《 盾(たて)》(重要文化財)・・・木器(モミ製)/弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)《 器台 》・・・土器/弥生時代中期後葉(紀元前1世紀頃)※解説…壺を乗せるための大型の台《 匙(さじ)》(重要文化財)・・・木器/弥生時代中期~後期(紀元前4世紀~紀元2世紀頃)《 鑿(のみ)》(重要文化財)・・・鉄器(柄はシカの角製)/弥生時代後期~古墳時代前期前葉(紀元1~3世紀頃)《 高坏(たかつき) 》(重要文化財)・・・木器(ヤマグワ製)/弥生時代後期~古墳時代前期前葉(紀元1~3世紀頃)※解説…花びら状の彫刻があり、”花弁高坏”と呼ばれる。木の葉のような飾り耳がつく。(外面赤彩)◎素晴らしい形状なので、出土品(上)と復元品(下)を撮影した2枚の画像を並べて掲載した。
2024年07月09日
冒頭の画像は、日本最大級の弥生集落を体感できる国指定史跡「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」の史跡内にある丘陵地から展望したもので、前方には豊かな平野と穏やかな美保湾が広がり 弓ヶ浜から島根半島を望むことができる。(末尾画像の地図参照)この遺跡を訪れたのは3度目になるのだが、この素晴らしい展望を体感できたのは今回が初めてであった。冒頭画像を撮影した〔洞ノ原丘陵地〕には、復元された”土屋根の竪穴住居”があり、その復元住居と解説版を撮影した画像が上の2枚である。興味深いことに、この同じ〔洞ノ原丘陵地〕には、上記の復元住居から約50mの至近距離に、山陰地域に特有の「四隅突出型墳丘墓」が発見されており、その墳丘墓と解説版を撮影した画像が上の2枚である。以上のように、同じ丘陵地で発見された”弥生時代後期初頭(約1800年前)の住居跡”と”弥生時代後期後葉(約2000年前)の墳丘墓”を、それぞれ撮影した画像を並べたわけであるが、結果的に弥生時代の《死生観》を垣間見ることとなり、当遺跡の再訪は感慨深いものになった。※関連サイト・・・鳥取県立むきばんだ史跡公園
2024年07月08日
一般に「白兎」といえば、〔記紀〕に記載の物語「因幡の白兎」が有名だが、先月(2024年6月)の山陰地方(鳥取県~島根県)の行脚における事前調査で、「伯耆の白兎」という新たな「白兎」にまつわる伝説を知り訪れたのが、冒頭画像に映る「中山神社」(鳥取県大山町)であった。※上記の「因幡(いなば)」や「伯耆(ほうき)」とは、現在の鳥取県の県域にあった旧国名で、江戸時代までは因幡国(鳥取県の東部)と伯耆国(鳥取県の中部・西部)に分かれていた。そこで上の画像は、入口に掲げられた看板を撮影したものだが、「因幡の白兎」の伝説と内容が符合するところもあり、隠岐島から視認可能な”伯耆大山”の北方(日本海側)が当社の鎮座地というところから、この「伯耆の白兎」の伝説には信憑性があると感じられた。冒頭画像のように、”中山神社”と彫られた石標の横には可愛い「白兎」の石像があり、思わず笑みがこぼれるのであった。次に上の画像は、冒頭でも触れた「因幡の白兎」の伝説ゆかりの神社の中でも、一番著名な「白兎神社」(鳥取市白兎)の鳥居前にある「大国主命と白兎」の微笑ましいモニュメントを撮影したものである。そこで一般に流布している「因幡の白兎」の物語については、次のリンク記事⇒《「因幡の白兎」のあらすじ》を参考にしていただくとして、ここでは当日記の過去記事⇒”宇佐と出雲を結ぶ深き縁”に書いた内容から、出雲口伝の富家や宇佐神宮の宮司家に伝承されてきた「因幡の白兎」の伝説にまつわる深い内容を、以下に転載し加筆することにした。※ここでは宇佐神宮の宮司家である宇佐家の伝承「因幡の白兎」を以下に紹介しておこう。◎その昔、因幡国は豪族の出雲族が統治しており、その統治下に「菟狭(ウサ)族」と「和邇(ワニ)族」がいた。古代より隠岐島に居住していた「菟狭族」は、漁労・採取の時代から農耕時代への移行期に、農耕生活をするための耕地を求めて隠岐島から本土(因幡国)に渡ろうとした。◎その際、「菟狭族」は「和邇族」との土地に関する取引に失敗し、「菟狭族」は全財産を没収されて丸裸にされ、困っているところを「出雲国」の「大国主(オオクニヌシ)」に助けられた後、「大国主」から因幡国の”八上”(現在の八頭)の地が提供され、「菟狭族」はその新しい土地に移住し開拓した。◎もちろん「大国主」は、「菟狭族」の姫「八上姫(ヤガミヒメ)」を娶り、一子「下照姫(シタテルヒメ)」を授かった。その後の「菟狭族」は”八上”を拠点にして、山陽から北九州にまで勢力を広げ、大いに繁栄した。どうやら上記の伝承を骨子として、「因幡の白兎」という神話物語が編まれたということになるようだ。さらに興味深いことに、当日記でも何度か引用している出雲族の盛衰に詳しい下記の書籍等を参考にすると、「大国主」につながる「出雲族」がシベリア経由で日本列島に渡来し、(上記の宇佐口伝や記紀の「因幡の白兎」の内容とは真逆となるのだが…)その「出雲族」が入植するまで出雲地域に居住していた「菟狭族」を追いやって、日本最初の王国である”出雲王国”を形成したとのことだ。そして”因果は巡る”というけれども、時を経てAD3世紀頃の”第二次 物部東征”における物部・豊国連合軍の猛攻撃により、700年以上にわたり”出雲王国”を治めてきた「出雲王家」は滅んだということである。※参考書籍・・・『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著・大元出版 2019 初版加えて出雲口伝によると、”第二次 物部東征”の連合軍は山陰海岸を通って東へ進み、”菟上王”の率いる豊国軍の一部が占領軍として因幡国の伏野に残り、「月神」の信仰を広めようとして宇佐社を建立し「白兎神」が主神として祀られた。それが後に「因幡の白兎」の神話が作られ、「白兎神社」の名前になったということである。そして上の画像は、「白兎神社」の鳥居前にあって「因幡の白兎」の物語の舞台となった白兎海岸に浮かぶ「おきのしま」を撮影したものである。・・・天気の良い日には、ある観測地点からこの小島を指標に展望することで、おそらく遠方の海上に浮かぶ「隠岐島」が確実に見えたであろう・・・などと、明確に有り得る予測が立ったことは嬉しかった。次に向かったのは、鳥取市八頭町の川沿いに鎮座する「白兎神社」(上の画像)であった。広々とした耕作地帯である”八頭”の地域には数社の「白兎神社」が鎮座しており、その元宮とされる当社に参拝した。上の画像に映る由来書に詳しいが、神話物語「因幡の白兎」の〔ふるさと〕こそ、”八頭郡”の中でもこの地域(旧郡家町)だと学術的に考究されていた。小さな社ではあったが、この「白兎神社」の参道が示す方向は、やはり西方の「大国主」を象徴する「伯耆大山」だろうと思いつつ車を走らせていると、まるで本日の「白兎」伝説にまつわる各地の探訪を労うかのように、心癒される素敵な光が舞い降りてきたのであった。(末尾の画像)
2024年07月07日
「太陽の道」とも謳われた東西軸”北緯34度32分”の東端にして、《朝熊山》と《富士山》を結ぶ「夏至の日の出」の方位線の(共に古代より重要視された)二本の軸線の”交差点”である「神島」を懐かしく展望した後、知多半島の先端にある「豊丘IC」から高速に乗り、上の地図の中央下部に示した遠江国(とおとうみのくに)一之宮「事任八幡宮(ことのまま はちまんぐう)」(静岡県掛川市)に向かって車を走らせた。そこで上の画像は、上記の「事任八幡宮」の立派な大楠に護られて鎮座する当社本殿を撮影したものである。かつて日本全国を構成した六十六ヶ国には、各国に鎮座する”一之宮(※)”が六十六社あったとされる。AD2,000年の頃に”全国一之宮巡り”を達成したのではあるが、実は「遠江国」には二つの”一之宮”が鎮座しており、既に一方の一之宮「小國(おぐに)神社」には参拝していたので、もう一方の一之宮「事任八幡宮」のことを知ってはいたが参拝する機会が無かった。(※”一之宮”とは、各国の中で最も格式の高い神社のこと。)ところが今回の旅路の終盤にさしかかり、おそらく「久能山 東照宮」への参拝を決めたことによって…確か遠江国には、もう一つの”一之宮”があったはず…という潜在意識から、私の脳裏に社名の「事任」の二文字が「ことまち」という言葉の響きと共に浮かんできたのであった。早速当社を調べてみると、とても興味深いことが分かった。その主要部分を紐解くと・・・。・遠江国一之宮「事任八幡宮」の主祭神は、今でこそ「己等乃麻知比売命」(ことのまちひめのみこと/以降は「コトマチヒメ」)なのだが、実は平成11年に各所管の認証を経た後に「主祭神」として蘇ったということである。・「記・紀」に記載のない「コトマチヒメ」という神名の、「コト」は「言葉」にして「マチ」は「占術」を意味し、「”言の葉”を通して世の人々に加護を賜る女神」という意味合いになるようだ。・神系図において、「コトマチヒメ」の父親である「玉主命(たまぬしのみこと)」の別名の一つに「大刀辛雄命(たちからお)」とあり、岩戸神話で岩戸を開けた「タヂカラオ」のことだと記してあった。以上のことから、当社の主祭神「コトマチヒメ」は、「戸隠神社(奥社)」の主祭神「タヂカラオ」の娘であり、また「阿智神社」の主祭神「オモイカネ」の孫娘に当たると分かり、当社の「事任」という社名が何度も脳裏に浮かんできたことが腑に落ちるのであった。実は、当社の主祭神「コトマチヒメ」の神名を初めて知ったとき、その発音に触発されて思い出した神名があった。その神名とは、以下の関連記事にも詳しく書いたが、島根県の「隠岐の島」は「島前」の”西之島”に鎮座する古社「比奈麻治比売命神社」(ひなまちひめのみことじんじゃ)の主祭神「比奈麻治比売命(ヒナマチヒメ)」であった。この”二柱の女神”の神名に共通する「マチ」とは、やはり「占術」を意味する古語だと確認することができ、それを補強する根拠として、上の画像の神殿内において神額の下に映る二つの社紋のうち、「亀甲に卜象(ぼくしょう)」が挙げられよう。(一方の「左三つ巴」は八幡神が合祀された際に加えられたと考えられる。)この特異な紋章は、現代でも「宮中行事」で行われる”亀の甲羅を使った占い”の「亀卜(きぼく)」を意味する形象であり、”古式の占術”を伝承する社紋ということができよう。☆関連記事・・・「隠岐の島」の周遊記(5)「事任神社」への参拝を経て旅路の最後に訪れたのは、初めて参拝する国宝「久能山 東照宮」であった。当社への参拝は、「日本平」の山頂に車で登って駐車、その山頂からロープウェイに乗って下降し、約5分の所要時間で降りたところが出入口となっていた。そこで上の画像は、参道入口から階段を上り大きな「楼門」を経て鳥居をくぐった先で、段上にある「御社殿」の直前を守る「唐門」に付随して周りを取り囲む塀の全体像を撮影したものである。次に、「家康公」を「東照大権現」として祀る「御社殿」(権現造)を撮影したものが上の画像である。その極彩色にして絢爛豪華な装飾は、もちろん「日光東照宮」を思い出させるのだが、もし両宮を比較するとすれば、「久能山 東照宮」の方が”いぶし銀の輝き”というか、落ち着きを感じさせるものがあった。次に向かったのは、当社境内の最上段にある「家康公の神廟」であった。そこで上の画像は、その家康公の遺骸が埋葬された場所に立つ廟と、その解説版を撮影したものである。この廟は家康公の遺命により、生誕地である岡崎や豊臣家の拠点であった大阪を望む「西向き」に建てられており、それを図示した「黄色のマーカー」を含む地図が下で、この「黄色のマーカー」は当宮の御神域に建てられた神廟より「西向き」の東西軸を示している。ところで上の地図は、下の関連記事から抜粋したものだが、おそらく「天海僧正(明智光秀)」の構想した「家康公」を「東照大権現」として祀り、”江戸城”を中心とする江戸時代を安寧に運営し、安定維持していくための”呪術”を駆使した〔骨格〕に相当するものだと思う。(※その内容に関しては、下の関連記事に詳しい。)☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(1-D)そして末尾を飾る画像は、今回の旅路において自分に課した”最後のイベント”として、「日本平」の山頂から”《富士山》の方面”を撮影したものである。ここで”《富士山》の方面”としたのは、あいにく当日の《富士山》は三合目くらいまでしか見えなかったためだ。つまり、この下の画像の《富士山》は、三合目までは見えていた《富士山》の稜線を手がかりに、この撮影地から展望できる”晴れた日の《富士山》の写真”を参考にして、雪景色の美しい《富士山》を手書きで描いたものである。今、この見えないけれども厳然として存在する《富士山》を観ていると、上の画像の地図に描かれた”呪術”を駆使した〔骨格〕の根底には、おそらく今回の一連の動きから浮上してきた【《戸隠山》と《富士山》を貫く〔シリウス方位〕】があったのではないかと、そのように感じ始めた今日この頃である。(了)
2024年06月10日
これまで記してきたように当初の計画では、日本列島の「扇の要」たる《富士山》の山麓(「北口本宮冨士浅間神社」への参拝など)に行った後に、今年(令和6年)の年始に起きた”能登半島地震”により結果的に見出せた〈二本の扇〉のクロスポイントたる《戸隠山》の山麓(「戸隠神社(奥社)」への参拝など)を訪ねてから帰路に着く予定であった。ところが、今回の旅路の直前になって、なぜか遠江国一之宮「事任八幡宮」が気になるので調べてみると、当社の主祭神が「オモイカネ」や「タヂカラヲ」と深い関係にあることが分かったこと(後述)、加えて当日記でも言及したように徳川家初代「徳川家康」の側近であった「天海僧正」を「明智光秀」と同一人物とする説があり、その姓である「明智」が「阿智神社」の主祭神「オモイカネ(アチヒコ)」の「阿智」に繋がることを含め、この一連の旅路の最後に(まだ一度も参拝したことのなかった)家康の御廟である「久能山東照宮」に参拝させていただき、当社の背後にある「日本平」から《富士山》を遥拝して旅路を締め括ることにした。☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(1-D)その一連の旅路における最終日の動向を、これまで訪ねた場所等を含め地図上に示した画像が上である。さて、前々回の記事からの続きを書いておこう。その後「戸隠神社(奥社)」の参道入口にある”戸隠そば”の専門店で昼食を済ませた私は、「信濃町IC」から高速道路に乗った。途中のPAで何度も休憩しながら「岐阜羽島IC」まで安全運転を心がけ、午後7時頃に駅前でレンタカーを返した。そしてJR岐阜羽島駅から新幹線に乗りJR「豊橋」駅で下車、駅近くのホテルに宿泊した私は、翌朝の午前8時からレンタカーを借り、様々な経緯から知多半島の先端に向かって高速を走った。その知多半島の先端で下りる高速の「豊丘IC」を知った時、そういえば出発した「豊橋」から「豊川」そして「武豊」と、「豊」の付く地名が多いことに気づき、後で調べてみると愛知県内には7つの市町村(豊橋市・豊川市・豊田市・豊明市・豊山町・武豊町・豊根村)で「豊」の字が入る地名があることが判明したので地図上に示した。ちなみに、日本三大稲荷の「豊川稲荷」で有名な「豊川」が一番古い地名らしく、他は明治以降に付けられたということだ。これだけ「豊」の付く地名を意識させられたということは・・・もしかすると古代九州は東北域の「宇佐」の《御許山》を中心に、現在の広島県西部から山口県域まで広く治め活躍していた古代の「豊国」の勢力が、宇佐族の長にして海人族の「オモイカネ(初代ウサツヒコ)」を神輿に担ぎ、海上から入植した場所が三河湾の湾岸域だったのであり、その後に拠点とした場所が現在の阿智神社の鎮座する長野県の阿智村だったのではあるまいか・・・。※関連記事・・・「イチキシマヒメ」への思慕(2)※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)なぜ知多半島の先端に行くのか・・・その本来の意義が分かったのは、現地で上の画像の景色を見た時であった。この上の画像の右側に映る島が「神島(かみしま)」で、いわゆる『太陽の道』と称される東西軸”北緯34度32分”の東端に位置する島となる。目的は、この「神島」を改めて別角度から展望するためだったのだ!(ちなみに画像左側に見える島並は、三河湾を挟んで知多半島の東方にある渥美半島の先端部である。)実は、この「神島」に渡ったのは今から30年以上前になるのだが、毎年の元旦(夜明け前)に島内に鎮座する八代神社で斎行される「ゲーター祭(新年の日の出を迎える祭事)」において、重要な祭具として使用された直径約2mの〔白い輪〕(太さは約15㎝)を、たまたま参拝時に境内の片隅に見出せたことで、いたく感動したことを憶えている。さらに「神島」も絡むかたちで興味深いのは、地図の左下に示した《朝熊山》と右上の《富士山》を直線で結ぶと、その軸線上に「神島」があることから、この《朝熊山⇒神島⇒富士山》という〔三点一直線〕は「夏至の日の出を示す方位線」になるというところだ。ここで、かつて《朝熊山》の山頂に立ち、その当日は視認できなかった《富士山》方面を展望した際に、その手前の海に〔三点一直線〕の軸線上に浮かぶ「神島」を確認できたことを思い出すのであった。ちなみに、”伊勢”において「夏至の日の出」といえば、二見興玉神社の境内にある「夫婦岩」の間から日の出を迎えるのが習わしとされるが、実は夏至日の太陽は「夫婦岩」の位置から見ると、《富士山》の山頂部から少しズレて昇ってくるということだ。もし正しく《富士山》の山頂から昇る「夏至の日の出」を拝するには、標高555mの《朝熊山》の山頂からの御来光が望ましいとのことである。※関連記事・・・夏至の太陽祭祀(つづく)
2024年06月10日
この度の”戸隠山”山麓に鎮座する「戸隠神社(奥社)」への参拝は、”富士山”の山麓へ行くことが決まってから、二枚の扇のクロスポイントたる”戸隠山”と一方の扇の要たる”富士山”との関係性を探ろうと、両山の山頂を地図上で結ぶ直線を引いた際、(上の画像の地図に黄色の線で示した)”戸隠山”から”富士山”への方向が〈シリウス方位(※)〉だと認知できたことが一つのキッカケになっていた。(※)ここで〈シリウス方位〉とは、「冬至」を新年とした古代の聖地において、「冬至」の深夜12時に南面すると、夜空で最も明るい星「シリウス」が昇る”真南から20度ほど東に振れた方位”のことをいう。上の地図には(アバウトではあるが)、〔青色マーカー〕で”フォッサマグナ”の「糸魚川ー静岡構造線」を示したのだが、”戸隠山”と”富士山”を繋ぐ〈シリウス方位〉と青色の”フォッサマグナ”が示す方向性に関連性が見出せるだけでなく、過去の日記(以下の関連記事)で”富士山”を「シリウスA」の投影地とする捉え方とも重なってくるところが興味深い。☆関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(1)加えて、〔赤色マーカー〕で三河湾方面から諏訪湖へと続く「中央構造線」を描いたわけだが、その諏訪湖からは見えない構造線の行く先が「戸隠山」に向かっているところが面白い。というのは、この赤色の「中央構造線」が走る列島の西方へ、紀伊半島の伊勢から四国・九州と至るのだが、その中央構造線上の宮崎県高千穂に鎮座する「天岩戸神社」の語り部が伝える神話物語の後段に・・・その閉じていた〔岩戸〕を開けた「手力男(タヂカラオ)命」は、その剛力により〔岩戸〕を長野県の”戸隠山”へ投げ飛ばした・・・とあることだ。つまり、「中央構造線」の西方にある”高千穂”から投げ飛ばされた〔岩戸〕は、地図上に長野県の諏訪湖まで描いた赤色の「中央構造線」の、さらに見えない延長線上の”戸隠山”に到達したと読み取ることができ、さらにこの「天岩戸神社」の伝承する神話物語は、言わば日本列島を貫いている「中央構造線」と”フォッサマグナ”の「糸魚川ー静岡構造線」の、二つの構造線の関連性を類推できるところが興味深い。さて地図の左下に、長野県”「阿智村」の智里地区”を楕円で囲み、その地区と”戸隠山”を紫色の直線で結んでいるが、今の私には阿智村に鎮座する「思兼(オモイカネ)命」を祀る主要三社の御神域が天体の「ヒアデス星団」(おうし座の散開星団)に、そして「オモイカネ」の御子神「タヂカラオ」を主祭神として祀る「戸隠神社(奥社)」の御神域が「エルナト」(おうし座のβ星)に観えている。つまり、”おうし座”を象徴する〔牡牛の頭部〕(ヒアデス星団)から、”ぎょしゃ座”の左下の星(エルナト)に向かって伸びる一方の〔牡牛の角〕を直線で描いたものが、地図上で”阿智村”から”戸隠山”に引いた紫色の直線というわけである。ということは、まるで将棋の駒のような五角形状の配置をとる”ぎょしゃ座”が、おそらく「岩戸神話」における「岩戸」の本質であり、「オモイカネ」の考案による『岩戸開き』の筋書に従って、閉められた「岩戸」を開けるために手を伸ばした「タヂカラオ」の剛腕を象徴的に表した軸線こそ、地図上の〔紫色の直線〕になるというわけである。(つづく)
2024年06月08日
本日の〔令和6年6月6日〕という「666(ミロク)」の年月日に寄せて、計36本の軸線(素材は市販の太軸綿棒)で構成した「準正14面体」の撮影画像を掲載した。興味深いことに、この「ミロク」とも読める「36」という数は、「1」から「36」まで一つづつの数を足していくと(つまり…1+2+3+・・・+34+35+36…という具合に)、その合計数は「666」となる。そして上の画像のように、計36本の軸線構成による造形には明確な「中心」が存在しており、その中心から外側に向かう「膨張(愛)」するエネルギーと、反対に外側から中心に向かう「収縮(慈)」するエネルギーが、全体として究極の「均衡(バランス)」を具現化している【 調和(慈愛)】の形態ということができる。この【 慈愛(調和)】を象徴する、とても「魅力(ミロク≒666≒36)」的な立体造形は、最下段にリンクしたYouTube動画を参考にすれば、意外に簡単に自分の手で作ることができるので、興味のある方は以下の関連記事も参考にしつつチャレンジしてみてはいかがだろう。☆関連記事・・・666(ミロク)の考察☆関連記事・・・【真理探究】37年☆関連記事・・・6角形の数理※関連動画・・・「準正14面体」の作り方(YouTube…「たまのをチャンネル」より)
2024年06月06日
先の〔九頭龍社〕を経て、すぐ右上に続く階段を上った鳥居の先に、「戸隠神社」の〔奥社〕が鎮座する。その社殿は、まるで態勢を整えた剛腕な力士が、悠然と腰を降ろし構えているかのような佇まいであった。当社の由緒書を撮影。御祭神の「天手力雄命」の本質とは、「おうし座」の角の先にあるβ星「エルナト」であろう。〔奥社〕の右横を見遣ると、岩間を縫うように滴り落ちる白糸の水流を確認。実に清々しい景観である。その白糸の水を飲もうと近づこうとするのだが、張り巡らされた厳重な柵があり断念。フト上を見上げると、いつの間にか晴れ間が広がっており、「戸隠山」の山塊が見えたのには感動した。そこで上の二枚の画像は、古代より行場とされた修験者の好む険しい山塊を、段階的に拡大したものだ。そして社殿の左奥の岩壁が、にわかに光って見えたことから…そこが「天の岩戸」ではないか…と感じた。社殿の左側から岩壁を覗いてみると、その奥に岩窟が視認でき、ここが「岩戸」たる聖域だと感じた。その聖域たる岩窟を、さらに拡大したものが上。社殿背後の「岩戸」へと、まさに”天を照らす陽光”に導かれた。末尾の画像は、御神前を振り返り撮影した参拝早朝の「太陽」である。それは10分程の短い晴れ間だった。(つづく)
2024年05月30日
さて「戸隠神社(奥社)」への参拝当日の朝は、なぜか午前4時頃に目が覚めた。当初の計画では、宿での朝食を済ませたチェックアウト後の、午前9時頃からの参拝を考えていた。しかし、これはやはり早朝参拝だ!ということで、さっそく参拝にかかる所要時間を確認して身支度を整え、宿から車で約10分の参道入口にある駐車場へ停車した。(下の案内図の下方を参照)そして奥社参道口の鳥居前(冒頭画像)に立ったのは午前5時20分頃で、奇しくも参拝の”一番乗り”であった。上の画像は、戸隠神社の「奥社参拝」への”道しるべ”で、これを見ると片道が徒歩で約40分なので、ゆったりペースで往復にかかる所要時間は、約2時間は確保すべきだと自分に言い聞かせ歩き始めた。そこで今回の「奥社参拝」の過程で撮影した画像の数々は、それぞれ素晴らしい景観や被写体だったので、以下の画像からコメントを添えるかたちで紹介していくことにした。大鳥居から随神門に至る参道には、両脇を流れる細い水路があり、小ぶりの白い花が可憐に咲いていた。随神門の手前に来て、なかなかに威厳のある”阿吽の狛犬”が出迎えてくれたので、シャッターチャンス‼大鳥居から約20分の徒歩で到着した随神門の門前より、遠方に続く参道を見遣る。屋根に蔓延るシダ類が可愛いらしかった。そして、潜り抜けた随神門から前方に続く参道の雰囲気は一変し、朝霞にむせぶ杉林の幽玄な佇まいが広がっていた。自然な小川のせせらぎに、心身も癒されて一服。近くにはWCもあり”ひとやすみ”に最適の場所であった。これほど思いっきり触角を伸ばした野性味あふれる「カタツムリ」と出会ったのは初めてかも!(^^)!まずは「九頭龍社」の社殿に到着して参拝。この社殿の佇まいに、九頭龍が口を開けている姿を感得した。当社の由緒書を撮影。御祭神の「九頭龍大神」の本質とは、天体で一番大きな星座の「うみへび座」であろう。社殿の左横より「戸隠山」の山上に向かって遠望。よく見ると、ここかしこに大小の磐座が鎮座していた。そして末尾の画像は、当社の裏手にある”さざれ石”の大磐座を撮影したものだ。やはり奥社は「磐座祭祀」が基盤と観た。(つづく)
2024年05月29日
以前からの様々な経緯もあって、日本列島の”扇の要”たる《富士山》の山麓を訪ねた翌朝は、JR岐阜羽島駅でレンタカーを借り、戸隠神社の祭神「天思兼命(アメノオモイカネノミコト)」(以降は「オモイカネ」と表記)に想いを馳せつつ、戸隠神社(長野県長野市)に近い旅館に一泊し、翌朝に「戸隠神社(奥社)」へ参拝する予定であった。高速で”岐阜羽島IC”から”長野IC”に向かう道中の”園原IC”を降りてすぐに、その「オモイカネ」を祀る神社の”総本社”があることから、まずは長野県下伊那郡阿智村に鎮座する同神を祀る主要三社を巡拝することにした。そこで冒頭画像の地図は、阿智村の智里から駒場にかけて鎮座する三社(三社は共に”延喜式内社”)を図示したものである。(※今回の巡拝ルートは「阿智神社(奥宮)」⇒「阿智神社(前宮)」⇒「安布知神社」)ここで興味深いのは、上の地図に示した阿智神社の「奥宮」と「前宮」を結んだ軸線が形成する「冬至の日の出」の方位線である。この”冬至の方位線”は、かねてより研究者にも指摘されてきたが、今回改めて地図上に線を引く過程で分かったことは、その二社を結んだ方位線の両端から、ほぼ等距離となる前後二本の延長線(点線で図示)の先に、二つの山頂が見出せたことだ。紀元十世紀頃まで、この阿智村の智里地区は、五畿七道の「東山道」において美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)を往来する交通の要所であったとされ、古代より当地域を治めた「オモイカネ(アチヒコ)」を祖神とする阿智氏に重要視された地所だったということを、この「冬至の日の出方位」を基準にした鎮座地の精緻な選定から読み取ることができる。数ある日本神話の中でも著名な”天岩戸神話”の物語において、阿智神社の主祭神「オモイカネ」は、天照大神が「天岩戸」にお隠れになった時に、〔岩戸神楽〕を創案して「岩戸」を開くきっかけを作った神とされている。そして、その〔岩戸神楽〕の究極は、最終演目が「冬至の日の出(アマテラス)」を寿ぐ俳優(わざおぎ)であり、そこに「オモイカネ」を祀る阿智神社の〈奥宮〉と〈前宮〉とを結ぶ「冬至の日の出を示す方位線」が重なってくるというわけだ。つまり「冬至の日の出」を寿ぐ「オモイカネ」を祭司長とする祭祀が原点にあって、それが神話物語として”記紀”に綴られた内容が「天岩戸神話」と解釈できるというわけで、実に興味深いところである。※関連記事・・・列島「中央」への探訪(4)さて、上に並べた二枚の画像は、「阿智神社(奥宮)」の高台にある「冬至の日の出」の方向を指し示す磐座を撮影したものと、その磐座の解説版を撮影したものだ。そして下の画像は、当社の鳥居前に掲載された分かり易い解説版を撮影したものである。この阿智村に鎮座の「オモイカネ」を祀る「阿智神社」に参拝したのは今回で五回目となったわけだが、その足で長野市に鎮座する(阿智神社とも縁の深い)「戸隠神社」に参拝する流れをいただいたのは、今回が初めてであった。当日の宿泊施設は”朝食付き”の一泊予約のため、夕食は想定していなかったが、当宿が”戸隠そば”をメインとする食堂も兼ねていたことを思い出し、道中で夕食が注文できるかどうかを打診してみると、夕食の注文は宿に到着してからでも大丈夫だと言われ、宿に到着し注文した夕食を撮影した画像が上である。”戸隠そば”が主役の天ぷら定食に〈岩魚の刺身〉を付け、この時期にしか飲めない地酒が並んでおり、贅沢な一時を堪能することができた。食後は調子に乗って…”そば焼酎”を”そば湯”で割って部屋飲みをしたい…と、仲居さんに頼み実現したお膳を撮影した画像が下である。明日の「戸隠神社(奥社)」への参拝に向け、お陰様の英気を養うことができたのであった。(つづく)
2024年05月28日
上の画像の地図は、以下の関連記事の冒頭画像でも示したが、《富士山》を「扇の要」とする言わば”陽”の扇型と、【日本の重心】を「扇の要」とする言わば”陰”の扇型と、〈本州〉を基盤に見出せた日本列島における陰陽二種類の扇型の”和合”を想定した場合、その”陰陽和合”の中心核として見出せた長野県の《戸隠山》を中心に図示したものである。※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)先月の4月頃から、妙に《戸隠山》が気になりだし、様々な経緯から上の関連記事をあげることになった。そして、これも必然であろう・・・5月初旬に《富士山》の麓に行く機会を得たことから、《戸隠山》の麓に行く流れをいただいたのであった。おそらくその背景には、《戸隠山》と《富士山》を直線で結んだ”シリウス方位”(上の地図を参照すると、《戸隠山》から《富士山》を見遣る方向で、真南から東へ約20度の傾きがある方位)を見出せたことが、深く関係していたと感じている。(この”シリウス方位”については、当連載にて後述)ということで、5月の後半に《富士山》の北麓に鎮座する「北口本宮冨士浅間神社」、その翌々日の早朝には《戸隠山》の南麓に鎮座する「戸隠神社(奥社)」へと、奇しくも上記の”シリウス方位”を体感すべく、両社への参拝を許されたのであった。そこで下の画像は、今回の旅路で富士五湖の河口湖畔から見た秀麗な「富士山」である。山頂部に少し雲がかかってはいたが、当日では一番の御姿であった。そういえば、かつて一度だけではあるが「富士山」に登ったことがあった。その思い出の過去記事や「富士山」にまつわる関連記事を、以下に掲載しておこう。(つづく)※過去記事・・・富士登山ベストショット※過去記事・・・富士登山の総括※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(上)※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(中)※関連記事・・・観えてきた「扇(奥義)」(下)
2024年05月27日
さて冒頭画像の地図に示したオレンジ色の軸線は、これまでの連載で綴ってきた紀元前三世紀頃の「イチキシマヒメ(初代ウサツヒメ・セオリツヒメ)」が移住したと思われる主な三つの御山を中心とする拠点を、「御許山 ⇒連載の(2)」ー「大土山 ⇒連載の(3)」ー「弥山 ⇒連載の(1)」と時系列で示したものである。そこで、その”三つの御山”を直線で結んだものが”三点一直線”になるわけだが・・・では何故、この西南から東北へと精度の高い〔斜め45度の方位線〕が、”三つの御山”の山頂部にある〔磐座〕を意図的に一直線で結んだかのように形成されるのだろうか・・・という素朴な疑問が、この連載を書く過程において常に心中に渦巻いていた。すると不思議なことに・・・《「大土山」は今から約5,000年前の”高天原”だった‼》・・・という、私的に信頼できる有力情報が入ってきたのであった。これに触発され、「御許山」の山頂にある”三柱石”は、精密な天体観測と地文測量により紀元前2,250年頃(今から約4,274年前)に設営された可能性を指摘する書籍(以下に紹介)を思い出したのであった。◎参考書籍・・・書名『 縄文の星と祭り 』 堀田総八郎 著・中央アート出版社 (初版1997年)さらに加えて、「弥山」を山頂とする「宮島(厳島)」は、紀元前3,000年頃(今から約5,000年前)の天体「シリウス」が地上へ投影された聖地だったと説く書籍(以下に紹介)を思い出したのである。◎参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著・星雲社 (初版2004年)ここまでくると、私の心中には…古代の離れた地域の人々が相互に情報を交換するイメージ…が浮かんできて・・・今から約5,000前には既にあったであろう各地域の、主要な祭祀場の要とされた山上の「磐座」を基点とする”古代縄文の〈光通信〉ネットワーク”(※)が観えてくるのであった。(※)岩面を磨いた”鏡岩”により太陽光や月光を反射させて、例えばその反射光を”モールス信号”のように利用し、離れた土地に住む人々と情報交換ができるようにした光通信網のこと。それは例えば、これまで取り上げてきた”大分県東部から広島県西部にかけての地域”は、歴史を遡るとさらに広い範囲の”東九州から西中国にかけての地域”を「豊国(とよのくに)」と呼んだとする「宇佐家(菟狭族)」の伝承があることから、もしかすると今回取り上げた〔西南の「御許山」から東北の「大土山」までの”磐座”を結ぶ方位線〕は、豊前国と安芸国の両国を結んでいた”屋台骨となる軸線”であり、さらにはもっと古く範囲の広い”縄文期の「豊国」”を安寧に治めるための、とても重要な〔中心軸〕ではなかったか・・・。縄文系譜の「磐座」の存在する各地域の拠点(上記の”三つの御山”)を結ぶ「軸線」を、おそらくは”なぞる”ようにして移動・移住していったのが、往時の「イチキシマヒメ」の御一行であり、そして「イチキシマヒメ」の終焉の地となった聖地が、三つの磐座を結ぶ方位線上の宮島の「弥山」であったと伝承されている。(連載終了)〔 追 伸 〕冒頭地図に”「空海」にまつわる東西軸”ということで、「空海」が名付けた宮島の「弥山」を貫く東西軸を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(下)また、同様に”山口と九州を貫く南北軸”ということで、「御許山」を南北に貫く軸線を描いたが、この軸線に関する記事は以下である。◎関連記事・・・「弥生」から『縄文』への意識転換(上)…山口と九州を貫く南北軸…
2024年05月16日
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