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「家族水入らず」というコトバがあるが、わたしの気持ちのなかには、それが、ない。ないことはないのかもしれないが、そういうことは言わずに暮らしたいと思って、言わずに暮らしてきた。
昨日も深夜、末の子が寝ぼけ眼で、わたしの枕元にやってきて、
「追いだされたから、泊めて」と言う。
どうやら、長女が、終電に乗りそこねた友だち2人を連れて帰ってきて、蒲団が足りなくなり、ひとりを末の子のベッドに寝かせたものらしい。やれやれである。
しかし、ほんとうは、こういう展開をわるくないな、と考えている。
あの家に行けば、寝床くらいはみつけられる、と思ってもらえるのが、うれしいのだ。
姉さんたちが勝手に泊まっていくのなんかは、もう慣れっこだが、もっと小さいひとが、親御さんの仕事の都合で、何日かつづけて泊まるようなときには、こちらもちょっと身構える。身構えるといっても、身構えていることを気取られないように身構えるという程度のことだが。
ふだん通り騒がしくしていれば、まあ寂しい思いをさせてしまう心配もなかろうが、こういうとき、わたしは自分とふたつの約束をしている。
ひとつめは、小さいお客さん(仮にハッパチャン)の名前をいちばん最初に呼ぶこと。
「ハッパチャーン、ごはんですよー」という具合。
この家に暮らしているひとを呼ぶのは、そのあとだ。
もうひとつは、ハッパチャンのお箸を用意すること。
「これ、ハッパチャンのお箸だから、おぼえてね」と、箸を紹介する。こうしておくと、ハッパチャンは、お膳立てを手伝ってくれるときにも、
「これが、ふんちゃん(わたしだ)ので、これが上のお姉さんので、これが、わたしの」という風に、みんなと同じ感覚で食卓につける。んじゃないかな。
ときどき、お泊まりの小さいひとが帰ってしまったあと、末の子どもと目を合わせ、「なんか、久しぶり」「うん、久しぶり」と言い合って、ぎゅっと抱きあうことがある。
だけどね……。
何もかもを、あとまわしにされたこの家の子どもが、ひがんだり、ふくれることは、一度もなかった。もっとも、わたしにしたところで、ほかのことで、子どもがしょんぼりしているときにはわかってやりたいと思うが、この種の文句には、耳を貸さないつもりでやってきた。
うちに「自分の箸」を持つひとがふえたので、紙で小袋をつくり、お名前を書いて、専用のひきだしにしまっている。
このひきだしをあけるたび、自分たちが、一緒に愉しくごはんを食べる仲間をもっていることがひと目でわかる。
ありがたいなあ、としみじみ思う。
「また、ごはん、食べにおいでね」

「ごはん、食べにおいでよ」の箸の一部です。

こういう、「袋貼り」みたいな内職が大好きです。
型紙と名前つけのシールを、箸と同じひきだしに
しまっています。
これさえあれば、同じ長さ、幅の袋がつくれるって
もんです。

箸のほかに、茶碗もそれぞれに用意できるといいんですが、
そこまでは、なかなかね……。
ときには、家の者たちが、ごはんを食べに来てくれたひとに
合わせ、みんなでそろいの茶碗を使うことがあります。
これが、その茶碗です。
(ふたも付いてます)。