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■「メガネ、メガネ」
老眼がわかったのは、年上の友だちの老眼鏡をかけてみたのが、きっかけだった。くっきりと、よく見えること。
そのとき、わたしは38歳。
幼いころから、目だけ(ほんとうに目だけ)よかったために縁のなかったメガネをかけられるのが、うれしかった。メガネは、期待したほど似合わなかったが、ずり落ちてきたメガネを、片手でくいっと持ち上げる仕草は、うふふ……と、思った。知的な女の気分で、「くいっ」とやる。
老眼は、ぐんぐんすすんだ。
最初は、メガネなしでも読むことも書くことも、それなりにできたのに、3年もたつと、それがむずかしくなる。これは、メガネというより、わたしの目なんだなあと、思わされる。
メガネ歴約10年。
この10年は、わたしにとって、そのままメガネ探し歴となる。
「メガネ、メガネ」と、メガネを探しまわる。全部で4つ持っているというのに。ときには、頭の上にメガネをのせながら、探している。
メガネなしでは、文字と、事の細部が見えなくなったことは、ある意味、わたしを育ててくれた。
ものを見るということは、視力でははかれないことを知る。
切実にメガネを探しながら、不便の値打ちを知る。
そして。
メガネをかけなければ、見えない汚れや曇りに向かって、
「見ぬもの清し!」と言い放つ、きょうも。
■ 手帖からの伝言
「珍紛漢紛」という名前の、手帖を持っている。
毎年、暮れになると、同じ小さな帖面を1冊もとめて、表紙に、このコトバを書きこむ、小さく。
「ちんぷんかんぷん」。
子どものころから、この境地にいることが多かった。そういうわけで、もっとも慕わしいコトバである。
初めて出合ったコトバ。いいなあと思う、本の一節。異国の料理の名前。知りあったひとの名前と住所。切符の買い方。読みたい本の題名。——を、書く。
何年か前の「珍紛漢紛」を、何気なく開いて、どきっとする。
「自分が与えるものを、受けとる」 ことになってるんじゃないか、この世は。
と書いてある。
■ 焼き茄子
夏から秋にかけて。
気がつくと、台所のこころは、茄子を追っている。
茄子は油、いろいろな香辛料、魚、肉、チーズのような存在とも相性がよく、どんな国の料理の舞台でも、すましていい役をもらっている。
が、やっぱり焼き茄子かなあ、と思う瞬間がある。 焼き上げて、熱いうちに、あちち、あちちと言いながら、少し跳ねながら、茄子の皮をむくときの気持ちは、筆にも舌にも尽しがたいものが、ね。
〈焼き茄子〉
熱いところを食べてもよし。冷やしてもよし。おろししょうがと、しょうゆで。
※わたしの好みは、酢じょうゆをかける、です。
※ 〈焼き茄子の味噌汁〉
この焼き茄子を、椀に置き、上から味噌汁を注ぎます。とき辛子を添えて。

この3つが、わたしのまわりで、
わたしと一緒にうろうろしてくれる老眼鏡です。
もうひとつ、100円ショップでもとめたメガネが、
コピー機のところに置いてあります。
いまのところ「老眼」だけで、
ほかの症状はでていないので、
市販の「老眼鏡」(の、度のきついもの。+2,5かな)で
間に合っています。