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「栗があるのは、うれしいです」 と絢(あや)ちゃんがぽつりと云う。
絢ちゃんは、夫のいとこの長女である。わたしたちからは「従姪(じゅうてつ)」にあたる。呼び方なんかはどうでもよいのだけれど、知ってみるとおもしろくもある。 絢ちゃんの家は、栗農家だ。お父さんの井上賢(まさる)さん(このひとが夫の母方のいとこ)も、お母さんの一恵さんも、絢ちゃんのお兄さんで長男の圭介さん(わたしたちの従甥:じゅうせい)も、現在、それぞれに栗の仕事とはべつの職業をもっているから兼業栗農家。もともとここは賢さんの奥さんの一恵さんのご先祖が代代守ってきた栗林であり、一恵さんのご両親の代までは栗仕事だけでじゅうぶんやってゆけたそうだ。一恵さんと結婚した賢さんを見込んで家督を譲ったご両親は、じつに見る目があるなあと思える。びっくりするくらい気持ちのいい家族だ。いまは、それぞれに職業をもちながら(絢さんは大学生)、栗を守っている。
一度、栗の季節に栗拾いをしてみたいと思っていた。それがかなった。埼玉県の中心部、東松山の丘陵地帯に、賢さん一家の家と栗林はある。
夫と、二女と三女と4人で勇んで出かけてきたのに、途中で雨に降られ、こういう天候のなかでも栗拾いはできるのだろうかと心配になる。傘をさして栗を拾う姿を想像するが、雨には、すこしの間でも休んでいてもらえないだろうか。ところが、到着するなり、雨が上がって雲間から日の光が射してきた。ありがたい。天気のことも心配だし、何より早く栗が見たくて、「一服してください」と云う一恵さんの好意を辞退して、早速栗林にむかう。わたしたちは、長袖長ズボン、長靴(気に入りの、日本野鳥の会の長靴だ)、帽子に軍手という出立ち。それではまだ足りない、「蚊がすごいんだ」と賢さんは云い、ひとりひとり蚊取り線香を携帯するようにと、蚊取り線香入れにひもを通したものを手渡してくれる。それを腰に巻く。
栗林のなかは薄暗く、地面には栗のいががたくさん落ちている。ああ、そうか、落ちたものを拾うんだな、とそこで気づく。すでに栗拾いの時期も終盤を迎えているので、空っぽの、つまりなかの実をとり出したいがが、木の根元に山となっている。実を拾ったあと、そうしていがを根元にあつめるのが仕事の作法のひとつらしい。
賢さんが、落ちているいがを足でこうして、と、手本を示してくれる。足でいがをはさんで踏み分けるようにすると、いがが割れてなかの栗が見える。栗の実を火ばさみ(わたしたちは、銘銘火ばさみを手にしている)で、取りだし、かごに入れてゆく。考えていたより栗のいがは頑丈で、手を使っての作業ができないというわけだった。「栗を拾っていて、背中にいがが落ちてきて、つき刺さっていたこともある」と賢さんは云う。
つい手で栗をとり出したくなるのを我慢して、火ばさみを握りしめる。
はじめは夢中で、開けるいがを片端から足で開いて、なかの実をとり出していたのが、だんだん、いい栗とそうでもないもの、まだ若いうちに落ちてしまって(前の週には台風もあったので)熟していないものの見分けがつくようになってきた。かすかにだが。いがに厚みがあって、足で踏み分けると、すっと割れるようなのがいい栗のようだ。うつむいて地面の上の栗のいがばかり追っているので、気がつくと、自分がどこにいるのかわからなくなっている。たのしくてたのしくて、仕方がない。もとより、同じことをくり返すような作業が好きなのだ。好きな上に、栗がかごに入り、それがだんだんふえてゆく。
正午を過ぎたので、栗を拾い拾い、賢さんの家へともどる。
一恵さんと、一恵さんのお母さんの栗ご飯、手打ちうどん、モロヘイヤのごま和え、春菊のおひたし、きのこの炊き合わせ、それにおはぎをごちそうになる。そういえばお彼岸だった。どれも、おいしい。わたしが自分の本のなかに、ときどき料理のはなしを書くのを知っている一恵さんは、「食べていただくのが、ちょっと怖かった」と云うけれど、それはわたしが食べたりつくったりが好きなだけでたいして腕が立つわけではないことを知らないからだ。腕はないが、このようなもてなしのこころはわかるつもり。
ご飯のあと、わたしたちが拾った栗を長男の圭介さんと、絢ちゃんが選別してくれる。圭介さんはこの春から大学の職員になっているが、就職のとき、履歴書に特技、栗の選別、と書いたそうだ。何のことだかわからない試験官に、栗の選別について一から語ったという。
庭先の、作業小屋の台の上に大判のタオルをひろげ、そこに栗をあける。タオルで栗を拭きながら、いいもの、B級(B級と云っても、栗ご飯などにはなる)、腐ったり虫食いで食べられないものの3つに分けてゆく。圭介さんの選別がいちばんきびしく、厳密であることから、頼りにされている。
眺めているわたしの目から、それがどうして食べられないもののほうにゆくのか、わからないというような具合だ。選別の作業を手伝っているとき、絢ちゃんのつぶやきを聞いたのだった。
「栗があるのは、うれしいです」というつぶやき。「栗があるのは、うれしいです。栗を食べてもらうことで、つながりがつくれるのが、いちばんうれしいかな」と。
昨日も、大学から帰ってから(絢ちゃんは片道2時間半かけて大学に通っている)、ひとりで、栗拾いをしたそうだ。こちらが聞いて驚くようなことを、こともなげにしてしまい、こともなげに語る。生きる力ということばが浮かぶ。しかも、自然な生きる力。
集落のなかをひとまわり散歩する。
黄金色に実って頭(こうべ)をたれている稲が、刈られる日を待っている。ごま、小豆、枝豆の畑。空には、うろこ雲がひろがっている。地平線のあたりまで。ふと足もとを見ると、茶色に赤い線の入った尺取り虫が1匹、となりでせっせと尺を計っている。
きょう、この尺取り虫と自分とのあいだが縮まったような気がした。

栗拾う。

栗の選別。
ひとつひとつ、です。
その日、栗を拾っていたら、
一恵さんが麦茶の入ったポットを持ってきてくれました。
それと、それぞれに紙コップを。
二女とわたしはこれを持ち帰って、
机に飾っています。
なんていいんでしょうと、思って。
夫の紙コップには、
「ほんとうはビールがいいと思うのですけれど」
と書いてあったとか。