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借りた。「SWEET-for emotional memories」というCDを。すべてが、すべて懐かしい。でも、全部が10年くらい前の曲になるんだなぁ。そりゃそうだ。僕だって高校生だったんだから。このアルバムに収録されている曲の多くはドラマの主題歌だった。「夏子の酒」というドラマがあった。キャスティングされてた、ハナ肇さんが撮影中に亡くなられて、ドタバタと完成してしまったドラマだ。でも、このドラマはとっても面白かったように記憶している。すがすがしくって、嫌味がないのに、ちゃんと励まされた。和久井映見さんが主演で、副主演が萩原聖人さんだった。このドラマで二人は出会って結婚したのだ。現在では離婚してるけども。歳月はあまりにも早く流れる。なにしろ、このころの和久井映見はとってもキュートだった。時代に逆行した雰囲気だってけど、どんどんと綺麗になっていくオーラがあった。「夏子の酒」はその和久井映見さんの頂点といっていいだろう。これ以後の彼女はちょっと迷走しているように思える。時代の波にあわせて眉毛をカットするようなメイクパターンがちっとも似合わなかった。「妹よ」あたりから、徐々に傾斜して「ピュア」では?だった。ただ、これは僕の見方である。世間的には彼女の女優のキャリアとしての演技力は「ピュア」で最高点に達しているんだろう。きっと。そして、「夏子の酒」の主題歌が「風と雲と私」だった。(やっと、本題だ、歌詞はこちら)歌い手は熊谷幸子さん。いわゆるスマッシュヒットといわれる「風と雲と私」は彼女にとっても最大のヒット作になる。スマッシュヒット。なんだか、中途半端な用語だ。当時というのは、ともかくCDがケタ違いに売れていた時代だった。実際に「SWEET-for emotional memories」に収録されている多くの曲は100万枚を余裕で突破している。そして、申し訳ないけど熊谷幸子さんはヒットと言う点では中途半端といわざるえない。というか、王道ポップな楽曲のよさに比べて、知名度がすごく低い。残念である。売れる要素を持ちながら、売れない歌手というのは、いる。でも、その多くはどこかで、自分たちの力にブレーキをかけているように見える。あんまり、例えたくないけど、わかりやすく例えてみると…SOPHIAとか、L-Rとかである。そりゃ、L-Rは200万枚を超える「KNOCKIN' ON YOUR DOOR」(「Last Roll~11 years of L⇔R」収録)があるから、ヒットがない歌手ではない。でも、彼らの実力と、かっこよさからしたら、もっとすごいモンスターバンドになっていたってよかったのだ。それこそ、スピッツや、ミスチルとならぶような。でも、L-Rはそうはならなかった。と、いうか、しなかった。彼らのバンドの後期には、ボーカルの黒沢健一さんはあらゆるインタビューで「アマチュアの時代のほうが自由で、よかった」といった趣旨の発言をしている。きっと、L-Rの本質はクリエイターというよりも、音楽の研究者であり、探求者である。マニアックで、高度で、凝った演奏に彼らは入り込んでいきたかったのだろう。本人たちがそうだったら、やっぱり、モンスターバンドになるのは難しいのだろう。と、いうことで、カラオケで僕が歌うと、みんな、彼らを一発屋呼ばわりする。無念である。ところが、熊谷幸子さんにはそんな、テライや、職人的なこだわりはない。むしろ、王道ポップを自認したかのような曲である。よく、彼女はユーミンと比べられるが、彼女の声のほうがソフィスティケスイートされ、心地よい。少なくとも、僕は好きだ。「君と約束した場所」「嵐のカーニバル」「おはよう、ファニーガール」などなど。特に僕は「嵐のカーニバル」はめちゃくちゃ好きだ。なかなか、CDとか音が見つからないけど、どっかでダウンロードできないだろうか。タイアップもちゃんとついている。今でもこの「風と雲と私」なんかを聞くと、どうして彼女がポーンって売れなかったのか、疑問なのだ。時代に乗り遅れていたわけでもない。やりすぎたわけでもない。どうして、今のaikoのような場所に熊谷幸子さんは向かうことができなかったのだろう。あえて言えば、むしろ癖がなさすぎたのだろうか。でも、本当にわからない。わからない、わからないと考えながら、きっと、僕はまた、彼女の曲を聴くのだろう。いい曲だということだけは、わかりながら。※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり』まで
2007年05月18日
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桐野夏生さんの「OUT」を読み終わった。上下二冊あったので、時間かかるかなあとおもったら、あっちゅーまだった。桐野夏生さんについては女性離れした硬い文章って評価されている。間違いじゃないとおもうけど、一方で女性の憎しみとかがリアルだった。怖くなったほど。さて、これからネタバレもありつつ、感想を話すけど、まだ、正直熟成していない。なにしろ、12月13日に読み終わったばかりなので…何より面白かった。次のページが楽しみだけど、終わるのがもったいないのは、久し振りである。なにより、女性四人や、佐竹の描写が的確で優れている。ぺージから、すぐに動き出しそうな感じである。雅子さんもかっこいいし。何人かが殺されてしまうけど、あんまり、かわいそうって思えないのがいいよね。こんなやつ、死んでしまってもという人間が死んでいる。読者も共感しやすりよね。一方で、殺してしまった弥生さんにも逃げ得にならない展開もある。周到に人物を書いているよね。どこに文句をつけたらいいのかなって、感じである。あえて、構成に文句をつけるなら、3点。ネタバレあるから、読もうとしている人は勘弁してね。1・警察はいつから、追跡しなくなったのか。作品の関係上、佐竹が追うものとして登場する展開はよいのだけど、ちょっとなおざりかな。2・弥生の子供の証言をどうして、警察と佐竹が把握しているのか。本文では弥生と子供の間でしか語られていないわりには、重要な証言になってしまっている。むしろ、重要にするのであれば雅子さんの子供の伸樹が警察のいる前で喋っていた、電話じゃないか。3・佐竹が「怪物」になってからのほうが、怖くない。ちょっと、なぜかまでは練りきれていないのですけど…感覚なのかな。こんなのは文句じゃなくって、愚痴ですね。重箱を針でひっくりかえそうとする、無謀なことです。「OUT」という作品の重箱はそんな針ではひっくりかえらない、骨の太いものです。…さてさて…あと、僕が気になったのは、ラストの廃工場でのシーン。丁寧には書けてる。ページも割いている。視点も佐竹と、雅子のどちらからでもみている。でも、どこか、凄く急いで書いてしまったような印象を受ける。このラストでは小説の流れが変わっているからだろう。ミステリーから、かなり奇妙な恋愛小説になってるんですよね。恋愛っていうか「狂った悦楽の妄想を共有する二人が体でもまぐわる話」なんですが。荒く言えばエンターテイメントから純文学にポーンととんじゃっている。廃工場のシーンも、それまでのハードボイルドミステリーの硬い文章でいっているので、ちょっとうわすべりになっているように思う。そこまでの、ミステリー仕立てでは、外面や状況をクールに描くことによって、登場人物や状況の切迫感が活き活きしていた。このシーンでも、状況を描くように雅子や佐竹の内面を描いている。そこが、ふと、疑問なのだ。ここはクールな内面じゃないだろう。もっと、どろどろしているんじゃないかって。だからクールに、客観的に、説明的に描くことで、滑っている印象があるのかもしれない。え、そこで終わっちゃうの。毀れた心を共有していただけで、すんじゃうの?もっと、内面を複雑にネッとっり書いてもいいんじゃないのって、僕は思ってしまうそして、外面をもっと肉々しく書いてもいいんじゃないかな。僕だったら、間違いなく、もっとねっとりとする。このシーンだけ、文体を変えるつもりで書く。外面描写もきっぱりと、固有名詞で終わらせるんじゃなくって、粘る。しつこく、練りまわす。そうしないと、内面の切迫感がむしろ出てこないんじゃないかって、思うのだ。例えば、佐竹が雅子を解体のときはこんな風に切ったのかなって指で体をなぞる場面がある。それは、そのシーンで終わってる。僕なら終わらせない。雅子が解体を想い起こし、自分が解体されるシーンを想像し、それが目の前の佐竹だったら、不思議と共感が沸いてきたとか、ベタですけど、性的に潤いはじめたとかの描写を入れる。そうすることで、平凡な主婦が死体解体を請け負ったのはこの世界を脱出したいからという夢の果てがものすごく、鮮やかになってくると思うのだ。このラストは動機を証明する必要はなく、どこまで来てしまったのかを読者にみせつけるべきだと思う。まあ、僕だったらこのシーンまではもってこれないって、声もありますが(苦笑)でも、直したらまた、別の欠点が出てくるだろうしね。作者が流れの変化を無理にさせないで、そのまま、勢いとパワーで押し切ろうとするのも、わかる。僕が早く読み終えたということは、試みは成功しているということでもあるし。と、いうか、このシーンはどうかいても、すっごく難しいと思う。結局、読者に理解させるのじゃなくって、共感するか、しないかっていう好みの問題のような二者択一を迫ってますから。正解がないから小説って難しいんだろうね。だから、面白いのだけどね。んじゃ。※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり(映画、音楽、文学、本)』まで
2006年12月14日
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「芥川龍之介短篇集」を買った。なお、全部はまだ読んでいない。でも、村上春樹が書いている序の「芥川龍之介-ある知的エリートの滅び」は読んだ。芥川龍之介についてはblogで書いたことがある。こちら。もちろん、村上春樹の序文には及ばない。比べるのもおこがましい。さて、その村上春樹の序文で鋭い指摘はいくつもある。フィッツジェラルドに比べるのは無理があるように思うけど。特に芥川龍之介を「開き直れなかった」作家としているのが、さすがだ。日本と西洋や、モダニズムとリアリズムの間で。なお、僕は村上春樹という作家は日本文学で本当の意味で開き直った作家だと思う。つまり言えば、芥川龍之介は早すぎたのかもしれない。事実、序文では村上春樹「現代には「ポストモダニズム」というけっこう便利な概念が存在する」と書いている。登場した頃の村上春樹は「ポストモダニズム」という概念を利用して、西洋と土着がごちゃまぜになった日本の都市文化をキレイに書いている。その生活感なきキレイさが日本の都市のアクチュアルな現実だということを、逆説的だけど、初期の村上春樹は表現しているのだ。さて、話を芥川龍之介の序文に戻す。村上春樹がこの文章で優れているのは、芥川龍之介の上手さの限界を書き手として捕らえていることだろう。ある程度読書好きであれば、芥川龍之介の上手さというのはわかる。ちょっと、読んだだけでも。上手すぎるというのもわかる。克服には、僕は長編を書けばよかったのではないかと思っていた。でも、村上春樹さんの芥川限界はそんな浅い理解ではない。希代のテクニシャンであり、フォルマリストであった芥川の限界と滅びと、だからこそ持つ傑出さまで書いている。きっと、実作家である村上春樹さんは、読み手である僕には及びもつかない部分で芥川に共感しているのだろう。だから、彼は芥川を悲観していない。芥川の世界を一種の到達点として認めている。特に余人が切り進めないスタイリッシュさまで「歯車」という作品に於いて。さて。学生の頃はものすごく文学評論を僕は読んだ。でも、曲がりなりに人生が過ごし、読書も進むと評論家が書く文学評論に飽きてきた。評論家の文章は確かに計算されている。彼らの言うように小説が書ければ、整っているかもしれない。だけど、それは凄い作品になりうるのかって、思うのだ。その点、作家が、作家について評論する文章というのは、凄みが違うのだ。たとえ、ごつごつとしていても(たとえば村上春樹が芥川をフィッツジェラルドと比べるように)五臓六腑を押さえつける力がある。もしかして、単純にそれは文章の問題ではないのかもしれない。僕がそんな風に生きる方向をシフトさせてきたからかもしれない。凄く、少しずつなんだけど。さて、この序文の最初で村上春樹が日本の「国民的作家」を十人選ぼうとしている。これは、なかなか、興味深い。芥川の短篇集なのだから芥川龍之介は選ぶのは勿論だ。夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、そして後に太宰治と三島由起夫を続けている。そして、こう書いている。「これで、九人。あとの一人はなかなか思いつけない」とこの序文を読んだ後、僕もしばらく考えた。…やっぱり、思い浮かべられない。二葉亭四迷?確かに先駆者だけど、作品として残っているのか。堀辰雄?フランス文学をそのまま使ってる。幸田露伴?時の洗礼をくぐり抜けた作品とは言えない。中上健次?評価を定めるのが極めて難しい。武者小路実篤?いささか、軽すぎる。横光利一?代表作の到達点が高くない。大江健三郎?微妙だ。作品の力が初期のほうが輝きがありすぎるように思う。時代を引き受けようとしているのは認めるが。永井荷風?そもそも、代表作って何だ。村上春樹?まだまだ、現役だからアガリをさせちゃまずい。うーん。やっぱり、思い浮かばない。みなさん。思い浮かびます?と、言う前のこの本の短篇を全部読むこととしよう、かな?※敬称は略させて頂きました。※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎村上春樹さん』まで
2007年09月09日
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