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絶対零度のテロル 天久鷹央の事件カルテ 天久鷹央「お前たちみたいに、安全圏から『おもちゃ』を爆発させて悦に入っているような、卑怯者と一緒にするな。こっちは患者を救うためなら、命を捨てる覚悟があるんだよ! 自分の身を挺し、ありとあらゆる手段を使ってトロッコを脱線させる。それが私の『トロッコ問題』の選択だ!」著者・編者知念実希人=著出版情報実業之日本社出版年月2024年4月発行9月中旬の熱帯夜、統括診断部の小鳥遊優 (たかなし ゆう) と研修医の鴻ノ池舞 (こうのいけ まい) が当直を務める天医会総合病院 (てんいかいそうごうびょういん) の救急外来に搬送されてきた身元不明の男性の死因は「凍死」だった。摩訶不思議な事案であったが、松本刑事は事件性がないと断言する。舞は「あなたたちよりずっと遺体を見て、人の死に立ち会ってきている私たち医師が『普通じゃない』と判断しているんですよ。その見解を無視して、『犯罪性がない』なんて決めつけていいんですか?」と反論するが、結局、司法解剖は行われず、あとで優は悔いることになる。翌朝、統括診断部長の天久鷹央 (あめく たかお) が「昨夜はあんなに暑かったのに凍死するなんて普通じゃない。解剖して何があったのかちゃんと調べるべきだ」と優を責める。そして、遺族から許可を取って行政解剖すると言い出す。遺体の外見などから天医会総合病院の受診歴があるにちがいないと、鷹央は電子カルテを検索し、彼が天王寺龍牙 (てんのうじりゅうが) であることが判明した。さっそく父親の正一を呼び出し、解剖して原因解明することをすすめるが、彼は「なにが起きたかが分かったところで、なにも意味がない」と弱々しくかぶりを振った。「犯人を罰したら、息子が生き返るんですか?」という正一の言葉に、鷹央は二の句を継ぐことができなかった。鷹央たちは天王寺龍牙の住居を突き止めるが、すでに便利屋が遺品を片付け清掃しているところだった。遺体は荼毘に付され、物証は全て失われた。鷹央は事件未解決のストレスで不機嫌だったが、そこに第二の凍死事件をもって桜井刑事が訪れる。第二の凍死体からは、大量の睡眠薬とアルコールが検出されたという。そして、天王寺龍牙の血縁者は父親の正一だけで、部屋の整理を指示していない。鷹央らは桜井刑事の先導で、死体が発見された久留米池 (くるめいけ) 公園に出向く。現場にはホームレスが住み着いており、怪物の咆哮のような低く呻る音が聞こえたという。去年のカッパ事件もあったことから、鷹央は「全ての不可能を消去して、最後に残ったものが、いかに奇妙なことであってもそれが真実となる」とシャーロック・ホームズの台詞を引用し、雪女犯人説を唱え始める。すると、低く呻る音が聞こえはじめ、鷹央はフラフラと歩き始め‥‥凍死の現場とその意外な殺害方法をが明らかになった。だが、犯人は、なぜこんな手間のかかる殺害方法を選んだのだろうか。舞がストーキングされている感じていたのは、警視庁公安部公安総務課の服部のせいだった。服部もまた、鷹央の助けを借りようとしていた。服部が追っている事件と天王寺龍牙の関係は‥‥一連の事件の関係が明らかになったとき、天医会総合病院で破滅のカウントダウンが始まる。鷹央先生の「筋トレしすぎて脳の筋肉にまで乳酸溜たまっているんじゃないか?」という発言に思わず笑ってしまった。一方で、天王寺正一が息子の死体の行政解剖を断るシーンは人情ドラマにありがちなのだが、これが終盤の重要な伏線になっている。主人公の目に映る状況が二転三転するのは、ミステリー小説の王道である。2つの遺体をめぐって警察の捜査線上の浮かび上がる組織は、現実にありそうであり、SNSで若いメンバーを集めているというのも、いかにも、である。SNSで活躍しておられる知念さんならではの設定だ。『天久鷹央の推理カルテ』テレビアニメ化が決まったとのこと。放映が楽しみだ。さて、本書のエピローグまで読んだ方は、ロバート・A・ハインラインの短編SF『輪廻の蛇』をどうぞ。2014年にSF映画『プリデスティネーション』(主演=イーサン・ホーク)になったが、こちらも面白い。また、鷹央先生の「医者を舐めるなよ」が印象に残った方は、西垣通・河島茂生=共著『AI倫理』をどうぞ。本書の後半に登場するキーワードに絡めて、AIに舐められない仕事をしたいものである?
2024.06.22
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生命と非生命のあいだ 非生命と生命はデジタル的に0か1かと割り切れるものではない。著者・編者小林憲正=著出版情報講談社出版年月2024年4月発行18世紀のヨーロッパでは生物は自然発生するかどうかが話題になっていた。フランス学士院は、この問題を決着させた者には賞金を与えると発表し、若手の細菌学者ルイ・パストゥールは白鳥の首フラスコを使って、生物が自然発生しないことを実証した。『種の起源』を出版したチャールズ・ダーウィンは、1871年に植物学者ジョセフ・ダルトン・フッカー宛ての手紙の中で、「もしさまざまな種類のアンモニアやリン酸塩が溶けた温かい小さな池に、光や熱や電気などが加えられたとしたら、タンパク質分子が化学的に合成され、より複雑なものへと変化したでしょう。今日ではそのような物質はすぐに食べ尽くされてしまうでしょうが、生命が誕生する前では、そうはならなかったでしょう」と記している。同じ年、熱力学第二法則で知られる英国の物理学者ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は、「生命の種が隕石によってもたらされた」という考えを述べた。1903年、スウェーデンの物理化学者スヴァンテ・アレニウスは、宇宙空間には生命の種(sperma)があまねく(pan)存在しており、それらが光の圧力によって移動して地球にたどり着き、地球生命のもとになったというパンスペルミア説を唱える。1924年にソ連のオパーリンは、コロイド液の中に生命のもととなるような沈殿やゲルが生じたであろうという仮説を発表し、1936年にコアセルベートという考えに発展させる。1953年に、米国の化学者スタンリー・ミラーは、メタン・アンモニア・水素の混合ガスに放電を続け、複数のアミノ酸を生成させることに成功した。その後、多くの研究者が実験を行い、アミノ酸は意外に簡単に合成できることが分かった。これを化学進化と呼ぶ。1953年は、DNAの二重螺旋構造が発見された年でもある。1970年代末、トーマス・ロバート・チェックとシドニー・アルトマンが独立して、酵素の働きをするRNA「リボザイム」を発見する。1986年にウォルター・ギルバートは、最初の生命はRNAから始まったとする RNAワールド仮説を提唱する。一方、1950年代から惑星探査が盛んになり、原始地球大気の主成分はメタンやアンモニアではなく、二酸化他酸素や窒素である可能性が高まり、化学進化のシナリオは再検討しなければならなくなった。ただ、地球外に様々な有機物が発見され、これが生命の材料になったのではないかという仮説が有力になる。1969年7月にアポロ宇宙船が月着陸に成功し、月の土(レゴリス)を含む21.6?のサンプルがNASAのクリーンルームに運び込まれ分析された。同じ年の2月、メキシコで隕石が降り注ぎ、約3トンがアエンデ隕石として回収された。また、9月にはオーストラリアで約200kgのマーチンソン隕石が回収された。12月には、日本の南極観測隊が9個の隕石を発見した。これらの隕石をクリーンルームに運び込み分析した結果、アミノ酸が検出され、さらに右手型と左手型の比率が地球のものとは異なることから、地球外由来のものと判定された。また少量ではあるが、核酸や糖も見つかった。2020年2月に日本の無人探査機「はやぶさ2」が小惑星リュウグウの試料を地球に送り届け、分析の結果、C型小惑星が炭素質コンドライト隕石の模天体であることが明らかになった。アミノ酸や核酸塩基の1つウラシルも検出された。また、2006年にアメリカの無人探査機スターダストがヴィルト第2彗星から持ち帰った塵を分析し、アミノ酸の1つグリシンが検出された。さらに、年間5000トンが地球に降り注いでいると見積もられている宇宙塵からも、多くの有機物が見つかっている。1954年にカナダで、大きさが数ミリ以下の微化石が大量に見つかった。その後の調査によって、約45.6億年前に地球が誕生してから2億年くらいで海が誕生し、生命が誕生する環境が整ったが、41億年前からの後期隕石重爆撃により海が消滅し、この重爆撃が終息する38億年前に生命が誕生したと考えられるようになった。最初の生命は陸上温泉で誕生し、、風などにより別の池などに広がり、そこから進化の舞台を海へと移していったとみられている。しかし、かりにアミノ酸や核酸を繋げることができたとしても、触媒(リボザイム)となるようなものが勝手にできる確率はかなり小さく、地球で生命が誕生したのは神によるものか、奇跡ということになってしまう。アメリカの宇宙物理学者フリーマン・ダイソンが提唱する「ゴミ袋ワールド」は、太陽系に大量にある雑多な有機物に注目し、これら多くの有機物から、微細なゴミ袋がたくさんできたと考える。ゴミ袋の中には、当たりもあれば外れもあり、当たりのゴミ袋は袋の中で化学反応がうまく進み自己を維持できる。こうして、選ばれたゴミ袋の中から、自己を複製できるようになったのではないかという。小林さんは、地球誕生当時は太陽も活動的で大量のフレアを発生しており、高エネルギー粒子を地球に浴びせたと考える。その結果、地球全体では年間数万トンものアミノ酸が発生し、それが繋がって、分子量1000以上の「がらくた分子」が発生した考える。実験室内では、こいうした「がらくた分子」からエステルのような小さな酵素が誕生することが確認された。ここで、左手型分子Lが生成されると、それ自身が触媒となってまたLを生成することで、地球上でアミノ酸の光学異性体(LとR)の偏りが発生することも説明できる。無人探査機による太陽系内探査が進むにつれ、惑星や衛星に有機物があることが分かってきた。土星の衛星タイタンには液体のメタンやアンモニアが存在し、水の代わりに溶媒として使う生物がいるかもしれない。また、木星の衛星のカリスト、土星の衛星のミマス、海王星の衛星のトリトン、さらに冥王星にも、地下海がある可能性が示唆されている。これらは水が液体で存在できる温度を保っている「ハビタブルゾーン」より外側にあるが、地下海を持つ天体として「オーシャンワールド」と呼んでいる。地球は45億6000万年前に誕生し、44億年前には海ができており、生命の誕生は約40億年前だった。最初の生命がどこで誕生したかは脇に置くとして、次の段階である初期進化は海だと考えられている。初期の生命は光合成生物ではなく、メタンなどの物質の持つエネルギーを用いる化学合成生物と、有機物を用いる従属栄養生物だった。27億年前にはシアノバクテリアという光合成生物が大繁殖し、大気中に酸素が増えていった。真核生物が現れたのは20億年前だ。エディアカラ紀には多細胞生物が一気に多様化し、5億7000万年前頃に「アヴァロンの爆発」と呼ばれる進化の爆発があった。小林さんは、生命と非生命とのあいだはスペクトラム(連続的)ではないかと考える。たとえば、リケッチアやクラミジアなど、タンパク質は合成できるが増殖は他の生物に寄生しないとできない寄生生物もいることを考えると、ウイルスは生物と無生物のあいだではかなり生物寄りではないかという。ウイルスは代謝はできないがタンパク質を利用することから、RNAワールドとは別の生命形態として進化したかもしれない。細胞膜や角膜などの膜、糖やタンパク質を代謝すること、自己複製ができることの3つは、地球上の生命の特徴となっている。生命が誕生したときにこれらの機能がすべて同時に発生したとは考えにくく、小林さんは、いろいろな特徴を部分的に持ったものが多様に存在したのではないかと考える。自己複製分子の生成はハードルが高いが、自己触媒反応分子の前生物的な生成はハードルが低く、確率的に地球上で発生した可能性が高い。米国の天文学者フランク・ドレイクは、1961年に、銀河系内の電波で交信可能な文明の数(N)を推定するための「ドレイクの方程式」を提案した。ドレイクの方程式のNを大きく左右するのは、文明の寿命であることは間違いない。小林さんは、「非生命と生命はデジタル的に0か1かと割り切れるものではない」と締めくくる。そして、さまざまな形態、さまざまなLの値をとりうる生命の可能性を考えれば、生命の誕生は決して地球で一度だけ起こった奇跡ではなく、宇宙進化の中での必然と考えられるという。地球誕生からわずか4~6億年で生命が誕生したのは、自己複製という複雑なメカニズムができる確率を考えると、紙の御業としか言いようがないとされてきた。神の御業を否定するなら、地球上の生命の源を宇宙に求めるしかない。だが、本書を読み進めていくと、生命は意外に簡単に誕生するものかもしれないこと、そして、宇宙から飛来した生命と混血した可能性すら思い描くことができる。また、進化は一方向に向かって進んでいるわけではないこと、系統樹の末端にある「種」が優れているわけではないことなど、これまでの生命や進化に対するものの見方を少し変えなければならないと感じる。本書を読むと、ウイルスが生命に分類されるのは自明なのだが、地球生命の源と考えられているRNAワールドとは別のルートで誕生した生命――もしかすると宇宙から来た生命かもしれない。生命の多様性を考えるとき、地球上だけではなく、太陽系、さらには銀河系に目を向ける必要がありそうだ――中世の錬金術とは異なる意味で、ミクロコスモスとマクロコスモスは結びついている。
2024.06.05
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逃亡テレメトリー 弊機「人間はいつも幸運を祈りますが、運などクソです」著者・編者マーサ・ウェルズ=著出版情報東京創元社出版年月2022年4月発行逃亡テレメトリーかつて大量殺人を犯したとされた人型警備ユニット=殺人 (マーダー) ボットの〈弊機〉は、インダー上級警備局員とプリザベーション連合の指導者メンサーが見守る中、プリザベーション・ステーションのモールで検死を行っていた。〈弊機〉の警備コンサルタントとしての初仕事で、ステーション警備局よりも詳細な情報を引き出すことができたが、にもかかわらず、遺体の身元はわからなかった。〈弊機〉は、メンサー博士を付け狙うグレイクリス社の仕業ではないかと疑っていた。〈弊機〉がプリザベーションに滞在する条件として、非公開システムにアクセスしないこと、身元情報を隠さないということを約束させられていた。しかし〈弊機〉は本名を明かそうとしない。〈弊機〉の権利を護る弁護士ピン・リーが言うように「殺人 (マーダー) ボット」を名前にしたら大騒動になることから、「警備ユニット」で妥協することになった。〈弊機〉の当面の仕事は、メンサー博士に近づくグレイクリス社の暗殺者を警戒すること、プリザベーション連合から弊機を追い出そうとする警備局の野望をくじくこと、バーラドワジ博士が構成機体のドキュメンタリーを制作するための下調べに協力することだった。〈弊機〉は、滞在条件を守りつつ死体の身元を確かめようと行動に出る。そして、被害者が宇宙港に係留されている貨物船に乗ったことを突き止めた。〈弊機〉は、以前、研究調査隊で行動を共にしたラッティとグラシンを呼び出し、船内に入ってみると、床に血痕が広がっており、警備局を呼んだ。駆けつけたインダー上級警備局員やアイレン警備局特別捜査部員は、〈弊機〉の行動をいぶかしんで、尋問のように質問を続け、被害者がルトランという名前で、この船に次に積む予定の貨物を運んできた宇宙船がラロウ号であることがわかった。警備局員たちは〈弊機〉を伴いラロウ号に乗り込み、事情聴取を始める。そして、これら貨物船の意外な仕事が明るみに出る。〈弊機〉は警備局と協力し、囚われている難民の救出におもむく。港湾管理局に内通者がいる疑いが出てきたが、ルトランを殺害した真犯人は‥‥。事件が解決し、インダー上級警備局員は〈弊機〉に「おまえへの通貨カードの支払いを承認した。次にまた難事件が起きたら、あらためて契約してもらえるだろうな」と告げた。〈弊機〉は「よほどの難事件にかぎります」と応じる。メンサーと出会う前、統制モジュールをハッキングしていた〈弊機〉は、採掘場の警備を遂行していた。そこでは、人間が人間を殺すことがよく起きる。そんな現場で〈弊機〉は、事故で転落したセカイを救う。セカイは「ありがとう」と礼を言うが、〈弊機〉はバイザーごしに目があったような気がして、ぞっとして運用信頼性が3パーセント低下したのだった。ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地プリザベーション連合の指導者アイーダ・メンサーは、前任者のイフレイム議員と〈弊機〉の扱いを協議していた。プリザベーションは企業リムからの難民を受け入れてきた。〈弊機〉も同じように扱うことはできないだろうか――それがメンサーの願いだった。それでもイフレイムは言う。「あの警備ユニットを製造目的から切り離せるのか?」と。構成機体のドキュメンタリーを制作しようとしているバーラドワジは、「警備ユニットがきわめて危険になりえる事実は無視できませんよ。そこをきれいごとでごまかしたら、この議論はこっけいなものになる」と言った。アイーダはステーションにあるホテルのスイートで、コロニー惑星から帰還した調査隊の話を聞いた。バーラドワジはアイーダにマケバ中央病院のトラウマ治療科を受診するよう勧めるが、彼女は「その話はまた今度ね」と軽くさえぎち、シロップを取りにスイートから出てロビーへ向かった。途中、見知らぬ男が「メンサー博士ですね」と声をかけてきた。アイーダがパニックを起こすより早く、〈弊機〉が彼女と男の間に割って入り、「ステーション警備局が47秒後に到着します」と告げた。男は警備局員に連行された。〈弊機〉はアイーダに「必要なら抱きついてもかまいませんよ」と言うが、アイーダは〈弊機〉が頼られることを嫌っていることに思いを巡らし、逆に、「要望書をずいぶんたくさん送ってくれたけど、あのなかで本当にほしいものはある?」と聞いた。〈弊機〉は偵察用の小型ドローンが必要だが、「それは賄賂ですか?」と言ってきた。アイーダは苦笑した。本書には、長編『逃亡テレメトリー』と、〈弊機〉がメンサーと出会う前を描いた短編『義務』、メンサー視点で描かれた短編『ホーム――それは居住施設、有効範囲、生態的地位、あるいは陣地』の3本が収載されている。対人恐怖症で皮肉屋で、仕事の合間にダウンロードしたドラマを見て過ごす警備ユニット(アンドロイド)〈弊機〉は、今回、シャーロック・ホームズのような頭脳のキレを見せる。「弊機は頭の一部に人間の神経組織がはいっているせいで知能が低いのかもしれません」と皮肉と飛ばす。今回、利益至上主義で、労働者を奴隷のようにこき使う超格差社会の企業リムに対峙するブリザベーションが、難民を受け入れることで成長してきたということが明らかになる。前作『ネットワーク・エフェクト』もそうだったが、企業リムが会社社会であるなら、ブリザベーションは、私たちが自宅警備するコミュニティということを暗喩しているように感じる。予告通り、アップルTV+でドラマ『Murderbot』の放映がはじまった。2024年4月現在、英語版のみ。
2024.05.18
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黄金の人工太陽 シャロン「“自分より大きなもの”って大抵は、くだらない集団幻覚のたぐいか、でっかいペテンだって」著者・編者J・J・アダムズ=著出版情報東京創元社出版年月2022年6月発行時空の一時的困惑(チャーリー・ジェーン・アンダーズ)スパイシー・ミートボール号に乗ったシャロンとカンゴが、アース・セブンの依頼主から受けたのは、恒星ナクソスの周回軌道を回っている巨大な丸い肉のかたまり〈お広様 (ひろさま) 〉から超航行シンクロトリックスを手に入れるという依頼だった。〈お広様 (ひろさま) 〉が「われはすべてなり!」と吼えると、連結された何万という宇宙船の中でヘッドギアをした信者たちは「御身はすべてなり!」と応じる。シャロンとカンゴは盗み出したシンクロトリックスを使って局所的困惑を生み出し、〈お広様 (ひろさま) 〉の追っ手の宇宙船団を立ち往生させたものの――。そんなとき、地球政府上級行政官マンドレ・ルイスから、〈自由の宮〉に潜入し、スーパー兵器の設計図を手に入れてほしいとの依頼が来た。まんまと手に入れたスーパー兵器は、尊大な口調でホーレスと名乗った。シャロンは、〈自由の宮〉のヘイゼルビーム・スターンフォーク・パドルボロウ27世を退けると、カンゴらとともにスパイシー・ミートボール号に乗って脱出しようとするが、そこへ〈お広様 (ひろさま) 〉が現れ‥‥。禅と宇宙船修理技術(トバイアス・S・バッケル)銀河恒星船〈満腔 (まんこう) の誠意〉の外殻で暮らす〈私〉は、ひょんなことから、アナバシック艦〈ヘリオスプライム〉のアーマンドCEOを救出する。〈真形態〉を保ったままの保存主義者のアーマンドは死ぬことを極度に恐れ、ロボットとして逆らうことができない〈私〉に、セキュリティに捕らわれずにパース‐アナゲットへ脱出する手伝いするよう命じた。〈私〉はCEOの保有株を代価に、命令を実行するが‥‥。甲板員、ノヴァ・ブレード、大いに歌われた経典(ベッキー・チェンバーズ)田舎者のノヴァ・ブレードは、毎日のようにログに愚痴をこぼしているが、軍艦の甲板員から出世し、味方を助け、敵を倒し続けながら生き残り、ついに英雄に祭り上げられた‥‥。晴眼の時計職人(ヴィラル・カフタン)ウモスは、何十億年も昔に死に絶えたはずの創造者ワヒーアが宇宙船の網にひっかかっているのを見つけた。ウモスは惑星上で進化していく生物を観察していた。ウモスがアウリと名付けた生物は高度な知性を持つようになり、道具を使い、芸術を生みだしたが、争いが絶えなかった。あるときウモスは、彗星がこの惑星への衝突コースを進んでおり、このままにしておけばアウリが絶滅することを知った。ウモスは自分を犠牲にしてアウリを救うかどうかを悩む。無限の愛(ジョゼフ・アレン・ヒル)超光速で恒星間を疾走するアリアは、ビーブラックスから携帯カセットプレーヤーとカセットテープを受け取ると、ジェットバイクにまたがり、強力な武器〈シスター・レイ〉を担いで、〈溺れる王〉のあるところへ向かった。銀河の7割が、愛を唱えるザーザックに汚染されていた。銀河を救えるのはアリアしか残っていなかった。ついに、アリアは〈溺れる王〉の眼球にあるザーザックの尖塔にたどりつくが‥‥。見知らぬ神々(アダム=トロイ・カストロ&ジュディ・B・カストロ)全人類艦隊とその神々は、それよりも力の強い神々と同盟を組んだ侵略者ヴファームと戦闘状態にあったが、人類が絶滅するのは確実だった。人類側に属するヘンリク・フィズ艦長が指揮する宇宙艦は、ヴファームによって、それまで人類が到達したことのない宇宙空間に飛ばされ、エネルギーも酸素も尽きようとしていた。フィズは、山羊を使って、この空間に住む神を呼び出したところ、それはヴファームよりはるかに強い神ンロフスルだった。ンロフスルは人類を助ける代わりに、山羊と、「この艦に乗っている人間すべておよび宇宙に現存する人間すべての4分の3」を要求した。フィズは、その要求を呑むが‥‥。悠久の世界の七不思議(キャロリン・M・ヨークム)メイは超光速航行の研究に行き詰まっていた。そんなとき、すべての時間に存在する宇宙に巻き付く蛇のようなアクロンが現れた。アクロンは彼女をプライムと呼んだ。やがて、人間の意識をコンピューターのなかにおさめる装置が完成し、アクロンが予言したように人類は恒星間宇宙へ進出する。それから200年――エウロパの灯台に立っていたメイは、意識だけの存在プライムとなって、宇宙へ旅立つ。みずへび座ベータ星の空中庭園で、プライムは〈サンティアゴ〉と賭けをして、知性ある美しい森を救った。HD40307gの霊廟の人工知能であるナビアはアクロンと接触し、1万の人間たちを連れ去られてしまう。プライムは、おとめ座59番星にある人工知能のアルテミス女神の神殿に近づいた。アルテミスの精神と融合したプライムからアクロンが誕生した。アクロンは、ペガスス座51番星bで、地球のアナツバメの遠い子孫であるツバクロ族が進化していく様を見守り、そこで生命を終えた。プライムは、グリーゼ221をとりまく惑星をテラフォーミングして、大昔の地球そっくりにする。そしてアクロンを呼んで、HD40307gの霊廟から連れてきた1万人を入植させた。メイは大ピラミッドの山のむこうに夕日が沈むのをながめたあと、なじみのない配置の星々でいっぱいの空を見つめた。エウロパを旅立ってから40億年が過ぎていた。俺たちは宇宙地質学者、なのに(アラン・ディーン・フォスター)地質学者たちは、合成不能なレアアース鉱床は存在するものの採算がとれないと結論づけ、ティモス星系を去ろうとしていた。そんなとき、バナージーは惑星ティモスIXをめぐる軌道上に廃棄された宇宙船を発見した。クーパーらが宇宙船の中に入ってみると‥‥。黄金の人工太陽(カール・シュレイダー)表面の大半が氷でおおわれた惑星サジッタを照らす人工太陽エオスは、あるとき、宇宙背景放射の最新ニュースを知り、絶望し、光を閉ざしてしまった。ふたたびサジッタを照らし始めたエオスは、アバターをサジッタに降下させ、冷凍睡眠することで生き残っている人間を探し、放浪者カマキー・コノーと出会った。他に生き残っていたのは、世界の資源を自己満足のために浪費し、永久冬眠の刑に処された最大利用者 (マキシマイザー) たちだった。カマキーはマキシマイザーの復活は好ましいことではないとエオスに告げる。カマキーも宇宙背景放射の最新ニュースを知っており、その解釈をエオスに告げる。明日、太陽を見て(A・マーク・ラスタッド)幽鬼体メアは、最後の狼王 (ろうおう) を処刑した。その夜、センチュリーがメアを解放した。メアはセンチュリーとともに7つの太陽王と訪問し、話をして、最後に惑星識別番号Z1-479- X、通称リバースに到達するが‥‥。子どもたちを連れて過去を再訪し、レトロな移動遊園地へ行ってみよう!(ショーニン・マグワイア)ダイソン天体に住むノーラは、エンジンをスパナで叩いて直したことをドクに責められた。ダイソン天体にはバーチャル遊園地しかなかったが、一部の蒐集家が地球の骨董品を集めていた。そんな蒐集家の一人、ウィットマン教授に初期のVR (バーチャルリアリティ) RPGを届けに行こうとしたところ‥‥。竜が太陽から飛び出す時(アリエット・ド・ボダール)家族でステーションに住むランは、竜が飛び出してきて太陽が死んだというお伽噺を聞かされて育ったが、事実は‥‥。ダイヤモンドとワールドブレイカー(リンダ・ナガタ)太陽をかこんで軌道をめぐる多数の人工世界「九千世界」はマキナ・オーバーロードというAIが管理していた。ヴィオレッタ・ガミアオは、職業革命家などの思想ギャングを取り締まるハンターだったが、あるとき、娘のダイヤモンドが職業革命家にスカウトされてしまう。ダイヤモンドは手にした世界破壊弾 (ワールドブレイカー) を持って‥‥。カメレオンのグローブ(ユーン・ハ・リー)美術品を盗み出したリーアンは、生まれ故郷ケルの司法官に捕らえられしまった。判事はリーアンに、カヴァリオン大将が盗み出した3万光年を焼き尽くす兵器「焼夷核 (しょういかく) 」を盗み出すよう取り引きを持ちかける。リーアンは、嫌々ながらもリュッスとステルス宇宙船「フレアキャット」に乗り込み、カヴァリオンの宇宙船へ向かった‥‥。ポケットのなかの宇宙儀(カット・ハワード)僕の仕事は、オルゴールを奏でる機械仕掛けの宇宙儀を作ることだ。宇宙の守護者カリーナのまわりにはポケット宇宙が取り巻き、特有の音楽を奏でている。僕は持っていた白色矮星を、あらたに誕生したポケット宇宙に入れてみた。カリーナはそんなことをしてはいけないと言うが、僕の宇宙の歌に変化が見られた。一方、カリーナの宇宙は‥‥。目覚めるウロボロス(ジャック・キャンベル)人類が永遠の寿命をもって気の遠くなる時間が過ぎた。オスカーはただ一人、第二火星を彷徨っていた。なぜか蓄積記憶から古い記憶は消えており、周囲はエネルギー節約のため暗くなっていた。オスカーは黒い女たちがいる薄暗い小さなバーで、アイコにであった。アイコは、この宇宙に残っている人間はアイコとオスカーの2人だけだと告げる。2人がいるのは巨大なダイソン天体の中だった。そして、宇宙は特異性へ落ち込み終末を迎えているところだった。2人のとった行動は‥‥。迷宮航路(カメロン・ハーレイ)人口過密で荒廃した惑星から脱出した移民船団の乗り込んだ人類は、正体不明の異体 (いたい) に遭遇し、エンジンが推力を失い、動けなくなった。移民三世代目のカリーズは、姉のマラティと一緒に船団を脱出する計画を立てた。だが、寸前のところで異体に飲み込まれ、マラティ一人が船団を脱出することになった。残されたカリーズの体内から摘出されたものは。そして、二世代目の大人たちがマラティに語った真実は‥‥。霜の巨人(ダン・アブネット)ノックスAIを設計したドワイヤは、好戦的なウーシュン人との平和条約の締結阻止を目論むオリファントの依頼を受け、ふたたびノックスAIに潜入し、極超低温に保たれ最高強度のセキュリティを誇るノックスの地下金庫から平和条約の原本を盗み出そうとするが‥‥。はるかな未来を舞台にしたSF短編集――『スター・ウォーズ』や『エイリアン』など映画をノベライズしているベテラン作家のアラン・ディーン・フォスターから、2017年に『空のあらゆる鳥を』でネビュラ賞長編部門・ローカス賞ファンタジイ長編部門・クロフォード賞を受賞したチャーリー・ジェーン・アンダーズまで、18本の短編が収録されている。収録された多くの作品はファンタジー風味を醸し出す。偉大なSF作家アーサー・C・クラークの第三法則「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」が今日も通用している証左であろう。「解説」を書いているSF作家で翻訳家の堺三保 (さかい みつやす) さんは、エドモンド・ハミルトンの代表作でNHKアニメになった『キャプテン・フューチャー』のオープニング・ナレーション時は未来、所は宇宙、光すら歪む、果てしなき宇宙へ……」を引き合いに出し、本書が最新アップデート版スペース・オペラ集成とも言えるアンソロジーだと指摘する。そして、若手作家ほど、AI、クローン、宗教など、リアル社会で新しい倫理問題となっている話題を取り上げているように感じる。かつてのスペース・オペラがそうであったように、SFは時代を映す鏡である。
2024.05.14
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謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年 桓武天皇が建てた国家再建の目標は、醍醐天皇の段階でようやく完成したといえる。その象徴的な法律こそ、平安時代的な荘園制を支配体制の中に位置付けた延喜荘園整理令であり、当時の社会に適合した法律を選定した律令の施し行こう細則集である『延喜式』だった。著者・編者榎村寛之=著出版情報中央公論新社出版年月2023年12月発行著者は、斎宮歴史博物館学芸員で関西大学等非常勤講師の榎村寛之 (えむら ひろゆき) さん。日本古代史が専門だ。平安京に遷都したのは西暦794年、鎌倉幕府が開かれ平安時代が終わったとされるのが西暦1192年――その間、じつに399年間。奈良時代から江戸時代に至るまでのどの時代より長い。2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の時代設定は、主人公の紫式部を中心に、藤原道長や一条天皇、清少納言、安倍晴明らが活躍する西暦1000年前後。つまり、平安時代も半ばの話である。それ以前の200年間の時代はどうだったのだろうか――これが本書のテーマである。榎村さんによれば、奈良時代は律令制度の下、あらゆる事実が記録され、ある意味、「日本史上はじめて訪れたデジタル化社会」だという。ところが平安時代に入ると、社会は人間関係で動き、政治の動きも不透明で、律令はだんだん機能しなくなり、戸籍も空文化していく――と考えられてきたのだが、最近の研究によると、古代から中世に向けていろいろな試行錯誤が行われた時代だという。その結果として、紫式部や清少納言といった女性が活躍する場が整う。榎村さんは、9世紀末に国が編纂した歴史書がなくなることに注目する。『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史は、世界の始まりから887年までをカバーしているのだが、このあと、突然、歴史書が編纂されなくなる。歴史書の編纂というのは中国から伝わってきた文化だが、中国の場合、簒奪王朝がその正統性を主張するために歴史書(正史)の編纂に熱心だったのに比べ、10世紀にもなると、わが国に王朝交替が訪れることはないだろうから、正史編纂するよりも、先例重視へと考え方が変わっていったという。そして、奈良時代にあったような大きな内乱も少なくなる。財政基盤も変化する。公地公民制から、743年に墾田永年私財法が制定されたことで荘園が増加する。感染症や自然災害で耕作放棄された農地を、資本家である大貴族が地域有力者に再開発を委託するビジネスモデルだった。結果的に国庫収入が減るから、宮廷は7位以下の官位を無くすという大規模な人員削減を断行した。紫式部の父・藤原為時も官位を得られず相当苦労している。一方、大貴族は自分の娘を後宮に輿入れさせるために、多額の資金を宮廷に貢いだ。また、中央で官位を得られず地方に赴任した国主は、受領 (ずりょう) から得た収入を宮廷に差し出し、国主の地位を安堵してもらったり、死んで極楽浄土に行くことを夢見て寺社に寄進した。大寺院や仏教界も、9世紀初めに最澄や空海が最新の仏教を中国から輸入したことによって、国家の許認可から独立し、孝謙天皇が重祚した第48代天皇・称徳天皇は生涯独身で、皇子がいなかった。一方、聖武天皇の娘で伊勢斎宮を引退した井上内親王を娶った白壁王(天智天皇の嫡流)は、称徳天皇の信任を得るものの、凡庸な生活を送り、政変に巻き込まれることを巧みに回避していた。770年に称徳天皇が崩御すると、白壁王は62歳という高齢で第49代・光仁天皇として即位する。781年に光仁天皇が崩御すると、百済系渡来人氏族を母にもつために即位はあり得ないと考えられていた第一皇子の山部王が、第50代・桓武天皇として即位した。奈良時代の平城京における水上輸送の大動脈は、飛鳥川→大和川→難波津(大阪湾)であった。そして、もう1つのルートが、木津川→山崎津(巨椋池 (おぐらいけ) )→淀川→難波津(大阪湾)である。桓武天皇は、784年に山城盆地に遷都し長岡京を置いたが、これは、木津川・淀川水系を利用する目論見があった。さらに桓武天皇は、敦賀から琵琶湖・淀川を経て難波津(大阪湾)へ至るルートを確保しようと考えた。昭和初期の干拓により消滅した巨椋池を船だまりとして活用した。こうして飛鳥川・大和川ルートの重要性を低下させたことで、桓武政権は平城京を捨てて平安京へ遷都することが可能になった。桓武天皇は、聖武天皇が造営し、その直系が支配した平城京から離脱を、あの手この手と場当たり的に繰り出した。たとえば、天照大神の直系と位置づけられる伊勢斎宮の井上内親王を廃し、伊勢神宮を改革し、仏教から切り離して国家法で動く神社にした。長岡京へ遷都した際には、天皇を皇帝に近づけようという中国風の儀式を行った。これは、桓武天皇の地位が聖武天皇の血筋によるものではなく、天から与えられたものだということをアピールする方便であった。平城京も長岡京も、内裏は高台にあるものの、周辺は湿地帯で感染症が起こりやすい。そういうリスクを避け、港としての経済機能は維持しつつ、都を北に拡張する。平安京の選定はそのような意識で行われた。8世紀から9世紀にかけての高等文官試験では、現場の課題を解決するために秀才を確保するという性格を明確に持っており、政策提言を行うことになる。春澄善縄 (はるすみのよしただ) 、高根真象 (たかねのまきさ) 、勇山文継 (いさやまのふみつぐ) (のちの安野宿禰)といった秀才を輩出した。このなかに藤原氏はいない。だが、10世紀になると、こうした高等文官の役割が衰えてゆく。菅原道真の失脚が代表的な事件であるが、それ以外にも、藤原家の傍流だった藤原為時 (ふじわら ためとき) は文人の出身で、花山天皇の家庭教師だったが出世できず、その娘の紫式部を除き、一粟は繁栄しなかった。奈良時代、女性も男性とともに宮廷に仕えていた。後宮には12の司があり、内侍司 (ないしのつかさ) を束ねる尚侍 (しょうじ) と、蔵司 (くらのつかさ) のトップ尚蔵 (しょうぞう) はとくに重要なポストで、天皇の近くにいてその仕事をサポートスいる。女性天皇の時にも女官が担当しており、これは、天皇と一般人の仲介者としてジェンダーとしての女性が求められたのである。しかし9世紀になると、藤原冬嗣 (ふじわらのふゆつぐ) が下級官吏に過ぎなかった蔵人の長官である蔵人頭を新設し、権力を伸張し、藤原摂関家の基礎を築いてゆく。日本の宮廷におけるハレムとしての後宮は、桓武天皇・嵯峨天皇父子の時代に形成されたと考えられている。桓武天皇は20人以上の女性に子どもを産ませ、嵯峨天皇は18人の女性に子どもを産ませた。その後、女官の数が急速に減り、醍醐天皇の時代には17人いた妃のうち1人も女官がいなくなる。10世紀後半になると、清少納言、紫式部、和泉式部、赤染衛門、右大将道綱母などの女流歌人が活躍するが、女官と違って彼女たちの実名は記録されておらず、活躍の場も女御のサロンの中にとどまり、宮廷における女性の地位が低下していった。律令には「天皇」の規定はない。つまり、手の出しようがない存在なのだが、にもかかわらず、律令体制下で天皇が名実ともに最高権力者であった時期は短く、孝謙が再度天皇となった称徳天皇時代の実質6年間だけだ。そして、貴族層の合議による光仁即位、他戸廃太子を経て、桓武独裁政権が誕生する。それも一時のことで、嵯峨院政以降は、天皇の母が藤原氏になり、その父が外戚として天皇を守る護送船団体制となる。この体制では、もし皇族の女御がいてもそれを飛び越えて摂関家出身の女御が皇太后になるため、女性天皇が誕生する可能性が極めて低くなった。また、古代には天皇が内親王と結婚するのは当たり前だったが、この頃になると内親王は天皇と結婚することができず、その代わりに伊勢と賀茂の斎王という仕事が回ってきた。この頃、天皇の子供が氏と朝臣のカバネをもらって臣下になり、源氏や平氏に枝分かれしていく。そして、9世紀後半には、大伴氏、物部氏、紀氏などの古代貴族が太政官から姿を消し、藤原氏と源氏ばかりが残る。藤原基経が死去すると、宇多天皇自身が護送船団の長となり、有能な官人を太政官に取り立てる。その象徴が菅原道真だった。だが、その突出した存在を恐れた藤原氏摂関家・源氏が共謀して道真を左遷する。こうして、藤原長者が護送船団を率いる体制へ移行し、さらに一条天皇の時代になると護送船団を解体し、、藤原兼家と、その子孫の道隆、道長、頼通が、その娘である皇后を媒介に天皇と数少ない皇子女を包み込むような新たな摂関政治が始まる。一方、地方では、延喜の荘園整理を受けて国司と土着貴族との対立と癒着から生まれたひずみが天慶の乱(平将門・藤原純友の乱)として噴出した。そして、将門を討ったのは、同様な立場にあった平貞盛や藤原秀郷であり、彼らは後の時代の武士に近い地域支配を作りをはじめる。9世後半の宮廷サロンでは紫式部や清少納言が活躍しているように感じるが、当時は社交界のような場がなく、宮廷で仕事をしていない彼女たちが男性に会う機会は少なかった。そこで、同じような立場の女性たちがネットワークを作り、相互に生活の糧を得ていたと考えられる。榎村さんによれば、『源氏物語』にせよ『枕草子』にせよ、そのスタートは女御のサロンで回覧されていた、いわば「同人誌」が流出したもので、文学的価値が定着したのは鎌倉初期、藤原定家が『源氏物語』を再評価した頃のことだという。斎宮の整備は、672年に天武天皇が壬申の乱に勝利したことが、天照大神の加護によると強調するために行われたと考えられている。そのために伊勢に派遣された[大来 (おおく) (大伯)皇女:wikipdia:大来皇女]は、歴史上最も有名な斎王とされる。伊勢には斎宮として、都の宮殿を意識したレイアウトの立派な「院」が用意された。しかし、斎宮は8世紀後半の称徳天皇の時代に一旦廃絶し、8世紀後期の光仁天皇の時代に再び斎王が置かれるようになった。長岡京遷都のとき、賀茂が重視されるようになり、嵯峨天皇の時代に伊勢神宮と同様に内親王が斎 (いつき) (賀茂斎院)として仕えるようになった。さらに、藤原氏の神社である春日神社にも斎女が置かれるようになった。『古今和歌集』の選者としても有名な紀貫之だが、じつは前半生はよく分かっていない。身分が低く、記録に残っていないのだ。紀氏は名門ではあるものの、藤原氏のように「家」になることができず、衰退していく古代氏族だった。榎村さんは、貫之が記した『古今和歌集』の真名序を取り上げ、、9世紀の和歌は、社会のエリート階層から脱落した武官や下級官人といった元有力氏族のディレッタント(趣味人)の遊びにすぎなくなっていたと指摘する。とはいえ、歌合に始まる歌壇が形成され、下級貴族が上流貴族と交流する機会を得ることできるようになり、『源氏物語』『枕草子』などの女流文学が花開く準備は整った。もともと平仮名は男女の区別なく使われていたが、宮中に文人は男性の比率が高まり漢文の使用率が高まる。けれども、日本語の曖昧さを表現するには、表音文字である平仮名に軍配が上がる。榎村さんは「あはれ」を例に挙げ、現代語の「尊い」や「エモい」に近い使われ方をしているようだが、漢字で表現するのは極めて難しいと指摘する。そんななか、榎村さんはは、政治的能力で一時期の宮廷を席巻した女性が藤原定子だと指摘する。藤原定子は、藤原兼家の長男・道隆と、最も有能な宮廷女官である高階成忠の娘・貴子の間に産まれた娘である。一条天皇の中宮となった定子のサロンには清少納言が加わり、榎村さんによれば、身分は高くないが軽視すべからざる有能な女房、という意味で「少納言」と呼ばれた可能性が高いという。だからこそ彼女は「定子の分身」として漢学の才能を道長や行成に「ひけらかす」必要があった。中宮定子が没すると、藤原兼家の五男・道長の娘、藤原彰子が中宮となり、そのサロンには、理想化された仮想宮廷物語『源氏物語』の紫式部、実録歴史物語『栄華物語』の赤染衛門、規範にとらわれない天才歌人の和泉式部が結集する。この時代、東寺・西寺の造営を最後に国家事業としての院・僧侶・経典の作成が姿を消していき、延暦寺・嘉祥寺・貞観寺などの天皇の私事が増えていく。最澄の天台宗や空海の真言宗は、それ以前の南都六宗と異なり戒壇 (かいだん) を持っており、自分の力で僧侶を養成できるようになった。唐が衰退し、中国へ渡航する学生が減り、日本独自の仏教へ変化していく。紀貫之たちが始めた「日本語で考えること」は、清少納言・紫式部・赤染衛門たち後宮サロンの人々によって独り立ちし、いわゆる「国風文化」が花開くことになる。歴史の授業では瞬間風速的に触れた西暦1000年前後の時代――「藤原道長」「摂関政治」というキーワードだけ覚えた方も多いのではないだろうか。社会人になってホームページを作っていたところ、紫式部と藤原道長が生きていた時代が被っており、同じ頃、宮中に清少納言がいたことが分かると、この時代に興味が湧いてきた。このあたりの話は「西暦1000年 - 藤原彰子が中宮に」として記事にした。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌が残る道長だが、御堂関白と呼ばれながらも、関白の職に就いたことがない。にもかかわらず、なぜ摂関政治の中枢に居座ることができたのか。そもそも摂関政治とはどういう経緯で誕生したのか。紫式部や清少納言の本名が伝わっていないのはなぜか――本書は、こうした疑問に、説得力のある仮説を提示してくれる。さらに、聖武天皇から桓武天皇を経て醍醐天皇に至る歴史に、国家財政、文学、宗教の視点からスポットを当てている。伊勢神宮や春日大社の斎宮や斎女、紀貫之、小野小町、在原業平、平将門、菅原道真、最澄、空海といった歴史上の人物が、教科書とは違った観点から1本の歴史絵巻として浮かび上がってくる――だから歴史は面白い。
2024.05.04
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多元宇宙(マルチバース)論集中講義 ゼロってことにしたかった真空のエネルギーが、ゼロではないことがはっきりしたことで、かつては完全スルーに近かった「真空のエネルギーが違う値を取るいろんな種類の宇宙があって、その中でたまたまものすごく小さい値を取ったのが『我々の宇宙』である」というワインバーグのマルチバース論が改めて引っ張り出されることになりました。著者・編者野村泰紀=著出版情報扶桑社出版年月2024年3月発行著者は、カリフォルニア大学バークレー校教授で、量子重力理論やマルチバース宇宙論を専門に研究している物理学者の野村泰紀 (のむら やすのり) さん。数式など一切使わずに、多元宇宙(マルチバース)理論を平易に解説してくれる。野村さんが最後に記しているように、「マルチバース宇宙論のような壮大な話は、逆説的ではありますが、そのちっぽけな生活をちょっとでも知的に豊かにする」ものだと思う。我々が「宇宙」と呼んでいる領域は、どこでも同じ法則に従って動いているように見える領域のことだ。ところが、1987年にアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグは、「宇宙があまりにも我々にとってよくできすぎている」という謎を解くために、「我々が知っている宇宙以外にもいろいろな種類の宇宙が存在する」と仮定することで解き明かせると主張した。ここからマルチバース(多元宇宙)理論がはじまる。マルチバースは、我々の宇宙とは異なる時代(ビッグバン以前?)にあるかもしれない、我々から折り畳まれて見える別次元にあるかもしれない、はたまた量子力学的に同時に存在するかもしれない。一般相対性理論と量子力学を統合できる可能性がある超弦理論では、我々の宇宙とは違う別の宇宙の「解」が山ほど出てくる。それら別の宇宙では、素粒子の種類や質量、真空のエネルギー密度といったものが我々の宇宙とは違っているということが導かれる。我々の宇宙では人間だけが特別な存在ではないというコペルニクス原理のもと、科学は発展してきた。ところが、科学が発展すればするほど、我々の宇宙の物理法則は人間にとって都合よくできていることが分かってきた。もし神様が宇宙を創ったのではないとするなら、宇宙というものが無数にあって、その中からたまたま「特定の値」を得た奇跡の宇宙に我々が住んでいると考えるしかない。20世紀後半、真空のエネルギーが観測できるようになると、観測地が理論値より120桁も小さいことが明らかになった。その辻褄合わせをする様々な仮説が提唱された。その中で、1979年に電弱統一理論の研究でノーベル物理学賞を受賞していたワインバーグは、たまたま「我々の宇宙」は真空のエネルギーとして120桁小さい値を取っているにすぎない、と考えた。だが、彼の論文のタイトルに「人間原理」という言葉が入っていたこともあり、科学界はその考えにすぐに同意できたわけではなかった。そして、1998年に宇宙の加速的膨張が発見された。この加速膨張させているのが真空のエネルギーと考えられ、我々の宇宙では、物質のエネルギー密度と真空のエネルギー密度の日が3対7と見積もられた。ところが、これが新たな謎を呼ぶ。両者の比は3対7――桁が違うわけではないから、宇宙論的スケールで見たら、ほとんど同じ値と考えても差し支えない。しかも、物質のエネルギー密度は宇宙の年齢とともに低下するのに、真空のエネルギー密度は変わらない。我々人類は、なぜそれほど都合がいいタイミングで登場したのかという新たな謎が生まれた。ここでワインバーグが提供したマルチバース理論、すなわち、いろんな種類の宇宙があって、その中でたまたま真空のエネルギーがものすごく小さいのが「我々の宇宙」だという主張はおそらく正しいだろう、と考えられるようになった。さらに超弦理論がマルチバース理論を後押しする。超弦理論は10次元の時空間を予想するが、われわれが知覚できる4次元を除いた残りの6次元はコンパクト化されていると考える。コンパクト化された6次元の空間がどのくらいあるかと言うと、十分に安定した形になるものに限定しても10の500乗通り以上あると見積もられている。ワインバーグの理論を使うのに必要だった10の120乗種類よりはるかに多くの種類の違う宇宙が存在する可能性がある。現代のビッグバン理論は、この宇宙をかなり精密に記述することができる。だが、ビッグバン直後の様子や、ビッグバン以前のことは分からない。アラン・グースはインフレーション宇宙論を唱え、その後に改良されたスローロールインフレーション理論によると、量子力学的な揺らぎが原因で、宇宙の中には違う種類の宇宙がボコボコと、まるで泡のように生まれる。これがマルチバースだ。そして、このインフレーションを引き起こした場のポテンシャルエネルギーが熱エネルギーに転換され、インフレーションが止まるとともにビッグバンが起きたという。われわれは光の速度より速く進むことができないため、他の泡宇宙に行くことはできないが、精密な観測で親宇宙からのシグナルを受け取ることは原理的にはできる。こうした新しい理論は、ビッグバン理論では説明がつかなかった「地平線問題」「宇宙が平坦すぎる問題」「宇宙構造の小さな揺らぎ」について一定の回答を与えてくれる。たとえば、初期宇宙にあった10万分の1程度の密度の量子的な揺らぎをコンピューターでシミュレーションすると、そこにダークマターがあるならば、現在の宇宙の姿になるまでをほぼ完璧に再現することができる。野村さんは、「マルチバース理論は少なくとも現時点では、観測されている宇宙の加速膨張を理解する事実上唯一の理論であることは間違いありません」という。マルチバース理論が証明されても、ビッグバン宇宙論やインフレーション理論が無くなるわけではない。ただし、マルチバース理論は宇宙の曲率が負であることを予想しているので、もし観測により曲率が正ということがわかったら、この理論は棄却される。野村さんは哲学者カール・ポパーを引用し、「原理的に反証可能性のあるものだけをサイエンスと呼ぶ」と定義する。第6講でエンターテイメントの中でマルチバースが取り上げられている例として、映画『スパイダーマン:ノーウェイ・ホーム』『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、そして、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が紹介されている。野村さんは、「そういう作品を入り口にして、マルチバースという言葉を知ったり、理論物理学や量子力学に興味を持つ人が世の中に増えてくれたら、それを生業とする人間としては単純にうれしい」と好意的で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にはそういう解釈があったのかと感心するとともに、残りの2作品も見てみたくなった。また、タイムトラベルについて「過去に戻るタイムマシンというのは、自分と周りの時間の経ち方の向きを反対向きにしなければならない」という指摘をする。これは盲点だった。これは物理学的に不可能であるし、そう言われてみれば、過去に戻っているのではなく別の宇宙(マルチバース)へ移動しているということになる。野村さんが「あとがき」に記しているように、「自分が今まで知らなかったことを知るのは楽しいし、そうやって知的好奇心が満たされることは、僕ら人間にとって大きな喜び」であることには同感だ。私も、日々あくせくと稼がなければならない身の上であるが、その稼ぐ額には物理学的が限界がある。ならば、金銭に頼らない知的好奇心を満たすことで生活の豊かさを感じたいと願う者である。
2024.04.26
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ネットワーク・エフェクト 弊機「あなたの統制モジュールを無効化できます」著者・編者マーサ・ウェルズ=著出版情報東京創元社出版年月2021年10月発行かつて大量殺人を犯したとされた人型警備ユニット=殺人 (マーダー) ボットの“弊機”は、アラダ博士やティアゴ博士がいる海洋研究施設を警備していたが、突然、襲撃を受け被弾する。“弊機”は、かつて、グレイクリス社に囚われていたプリザベーション連合評議会議長メンサー博士を救出し、その縁で、彼女の警護を続けていた。メンサーは“弊機”に、調査隊に同行している娘のアメナの警護をするよう依頼したのだった。だが、調査隊のメンバーは、全員が“弊機”を信頼しているわけでは無かった。“弊機”たちは何とか敵を撃退し、軌道上の母船にドッキングすると、ワームホールを抜けてブリザベーションへ向かった。ブリザベーション宙域に入ると、正体不明の宇宙船の襲撃を受け、アメナと“弊機”は囚われてしまう。正体不明の宇宙船には、エレトラという女性とラスという男性が囚われていた。アメナと“弊機”は2人と協力し、正体不明の宇宙船からの脱出を試みる。“弊機”は正体不明の宇宙船に見覚えがあった。それは、かつて、“弊機”の逃亡を手助けしてくれた不愉快千万な調査船 (アスホール・リサーチ・トランスポート) 「ART」(ペリヘリオン号)だった。だが、正体不明の強化人間はARTを消去したと主張する。はたしてARTは消えてしまったのか‥‥。そして、埋め込まれたインプラントによってラスは死んでしまい、エレトラも重傷を負った。“弊機”とアメナはエンジンルームに入った。そこで見たものは‥‥。想定よりはるかに早い時間でワームホールから出てみると、脱出ポッドで母船へ逃げたはずのティアゴ、オバース、ラッティと合流する。“弊機”の活躍で復活したARTは、放棄されたコロニーの調査に向かったはずだった。そこでARTの記憶は途切れており、目覚めてみると乗組員がいなくなっていたという。ARTが到達した星系には、40年近く前にアダマンタイン社が開発に失敗して放棄されたコロニー惑星があった。バリッシュ‐エストランザ社がコロニー惑星をサルベージしようとして宇宙船を送り込んだが、何かの事故かトラブルに巻き込まれたらしい。エレトラはその生き残りだった。ARTは、漂流しているバリッシュ‐エストランザ社の補給線を発見し、“弊機”とアメナが乗り込み、レオニード管理者にエレトラを引き渡し、代わりに情報を得ようと交渉する。補給船を離れたARTから、“弊機”、オバース、ラッティの3人が、謎の解明とARTの乗組員を探すため、コロニー惑星の宇宙港へ降下する。その前に、“弊機”はARTの重武装を活用するために、自らのコピーをARTにインストールすることを提案するが、ARTに拒絶される。コロニー惑星で、“弊機”はアイリスという女性を含む5人のART乗組員を救助する。だが、“弊機”は敵の攻撃を受けて機能を停止し、捕らわれてしまう。ARTは“弊機”を救出するため、そのコピーである「マーダー・ボット2.0」を敵のネットワークに侵入させる。アダマンタイン社が開発に失敗した敵の存在が明らかになる。だが、“弊機”は、いまもにも敵制御システムに乗っ取られそうな状況である。そんなとき、“弊機”の参照空間に入り込んだ“2.0”が「シャットダウンして、ユニットを破壊してください。さあ、早く」と言った。だが、そんなことをすれば“2.0”は消滅してしまう。“2.0”は言う。「わかっています。なんのためのキルウェアだと思っているんですか。ばかですね。やってください」。“弊機”はミキのことを思い出していた――。すべてが終わり、ブリザベーションからメンサーが乗った武装船が救援に駆けつけた。ARTは“弊機”に一緒に仕事をしないかと持ちかける。“弊機”は、とりあえずARTのインデックスをキーワード検索して、『時間防衛隊オリオン』よりさらにリアリティのない作品をみつけると、ARTは第1話を流しはじめたのだった――。対人恐怖症で皮肉屋で、仕事の合間にダウンロードしたドラマを見て過ごす警備ユニット(アンドロイド)“弊機”の一人称で話が進むマーダーボット・シリーズ初の長編である――誰かに束縛されることを嫌い、善良なハッカーではあるけれど、相手から寄られるのは苦手で、けっして本名を明かさない。そのくせ、最初に救助したメンサー博士に対して「大切なのは弊機ではなく、あなたです」と言い放つ。まるで自宅警備員のような“弊機”が可笑しい――『灰羽連盟』の原作者・安倍吉俊がカバーイラストを担当しているのも秀逸だ。前作で登場した調査船ARTに加え、今回は警備ユニット3号が暴走仲間に加わる。各々に個性があって面白い。また、“弊機”のスピード感のあるアクションシーンが増し増しで、実写化したら面白い映画になると思う。そして、表紙に描かれている可愛い少女アメナ(メンサーの娘)を中心に、総出で“弊機”の救出に向かい、大団円を迎える。“弊機”は、統制モジュールの束縛から解放された警備ユニット3号にこう言う。「変化は怖いものです。選択も怖い。しかし、行動を誤ると自分を殺すものが頭のなかにはいっているのは、もっと怖いです」――さて、貴方は行動を誤ると自分を殺すような束縛を受けていないだろうか。そういった束縛から解放されたとき、何をしていいのか分からなくなっていやしないか。そんなときは、“弊機”のように籠もって好きなコンテンツを視聴しよう?堺三保 (さかい みつやす) さんの「解説」にあるとおり、マーダーボット・シリーズは、「遠未来のアンドロイドの話を描いているようで、この物語は現代人とそれを取り巻く環境のメタファー」なのである。
2024.03.21
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神秘のセラピスト 羽村佐智「確率なんてどうでもいいんです。治るか治らないか、2つに1つなの。これまで医者の勧めどおりに治療を受けてきた。そうすれば、完治する可能性が高いって言われて。でも、あの子はいまも治っていない」著者・編者知念実希人=著出版情報実業之日本社出版年月2024年2月発行■雑踏の腐敗天医会総合病院 (てんいかいそうごうびょういん) の統括診断部外来診察室を訪れた宮城椿 (みやぎ つばき) は、弟の辰馬 (たつま) が外に出ると体が腐ってしまうと怯えていると訴えた。担当の小鳥遊優 (たかなし ゆう) は、紹介元の総合病院の検査データに目をとおるが、とくに異常は見当たらない。辰馬は、自宅に戻れば腐りはじめていた部分も元に戻ると言い、精神科の受診は拒否しているという。「面白い!」と、統括診断部長の天久鷹央 (あめく たかお) が診察に割り込んでくる。週末に鷹央は優をともない、辰馬を往診する。辰馬が渋谷駅に行ったときだけ体が腐るというので、4人で渋谷駅へ向かった。鷹央は途中で脱落してしまうが、3人がスクランブル交差点を半分ほど渡ったところで、優は、辰馬が指先から耳まで変色していくのを目にした。人混みが苦手な鷹央はハチ公像の近くでうずくまっていたが、すでに辰馬の異変を解明する仮説を立てていた。ただ、確定診断をくだすために、ちょっとした検査が必要だという。寒空の下、鷹央は優に辰馬の採血をするように指示する。すると‥‥。なぜスクランブル交差点を渡るときに限って症状が出たのか、鷹央が説明する。■永遠に美しく統括診断部外来診察室を訪れた島崎美奈子 (しまざき みなこ) は、「母に恋人ができたんです」と小鳥遊優 (たかなし ゆう) に訴えた。その恋人というのが、「気」を使った若返り治療をやっている鍼灸師だという。72歳の南原松子 (なんばら まつこ) の写真を見ると、1年前の写真とは別人だった。顔のしわは目立たず、皮膚には張りと光沢が見られる。美奈子と姉妹に見えるほどだ。「おお、これはすごいな」、と統括診断部長の天久鷹央 (あめく たかお) が診察に割り込んでくる。美奈子によれば、母はその鍼灸院を何人かに紹介し、「特別な治療」を受けた3人は一見して分かるぐらい若返っているという。鷹央と優は週末に南原松子を訪ねた。鍼灸師は神尾秋源 (かみお しゅうげん) といい、1回の治療で3万円。最初の1ヶ月は30~40万円で、そのあとは月に6万円という価格設定。鷹央と優は神尾秋源の治療を見学することになった。松子は優の心の中を見透かしたかのように、「胡散臭いでしょ、この人」と言う。鷹央は神尾秋源の治療を受けたいと申し出るが、彼は「だってお嬢ちゃん、中学生だろ? まだ十分若いから、若返る必要なんてないよ」と応じたものだから、鷹央は殺気すらはらんだ目で抗議しようとしたところ、優は彼女を小脇にに抱えて退散する。2週間後、鷹央は優に車を出せと命じる。神尾秋源の犯罪を暴きに行くと言い出した。神尾鍼灸院に着くと、家宅捜索令状を持った田無署の刑事、成瀬隆哉 (なるせ りゅうや) と数人の男が待っていた。「素人のくせに俺の治療にけちをつけようって言うのか」と反論する神尾秋源に対し、鷹央は「私は素人じゃないぞ。医者だからな」と薄い胸を張る。逮捕された神尾秋源は自らの罪を認めたが、南原松子のケースだけは違っていた。果たして事実は‥‥。■正邪の刻印小児科部長の熊川 (くまかわ) は、「患児は羽村里奈 (はむら りな) ちゃん、9歳、3年前に息切れでうちの救急部を受診、重度の貧血を認めたので入院して検査したところ、急性リンパ性白血病と診断された」と言う。治療法は骨髄移植しかない。幸い、ドナーが見つかった。ところが、医療不信に陥っている母親の羽村佐智 (はむら さち) は、「神様のお告げ」があったとして移植を拒否する。「神様のお告げ」をした預言者の奇蹟を検証すべく、天久鷹央 (あめく たかお) 、小鳥遊優 (たかなし ゆう) 、そしてコールドリーディングを得意とする詐欺師の杠阿麻音 (ゆずりは あまね) は田無保谷 (たなしほうや) カトリック教会へ向かった。預言者の名前は天草炎命 (あまくさ えんめい) といった。だが、炎命を観察する優にはホームレスにしか見えなかった。セーラー服を着て変装した28歳の鷹央は「たしかキリスト教では、赦しを与えられるのは神と、その独り子であるイエス・キリストだけだったはずだ。どんな権限で、その男は罪を赦しているんだ?」と森下則夫 (もりした のりお) 神父に詰め寄る。だが、集まった信者の怒りが鷹央に向けられ、優は鷹央を連れて逃げ出した。2人は天医会総合病院 (てんいかいそうごうびょういん) の屋上にある“家”に帰るが、炎命に浸水する元暴力団員の田山に襲われる。なんとか田山を撃退するが、鷹央は数ヶ月前に白血病で命を落とした三木 (みき) 健太のことを思い出し弱気になっていた。優に病室へ連れて行かれた鷹央は、里奈と話をした。そして、張りのある声で「あの詐欺師の化けの皮を?いで、里奈の命を助けるぞ!」と言った。鷹央は、彼女に憧れる研修医の鴻ノ池舞 (こうのいけ まい) と杠阿麻音を呼び寄せ、何かを準備していた。そして、バチカンからの奇蹟調査官コスタ神父と通訳のルッソが到着し、鷹央は「それじゃあ、いっちょ“神狩り”としゃれこむか」と言って不敵な笑みを浮かべた――炎命の正体とは、そして里奈は助かるのか。鷹央は言う。「私は科学者だから、どんなものでも疑ってかかる。その上で検証を重ね、最後まで残ったものが真実だ」。■詐欺師と小鳥遊優外来を終えた小鳥遊優 (たかなし ゆう) は、商社マンの諏訪野良太 (すわの りょうた) が主催する合コンに参加した。優は湊川瑠璃子 (みなとがわ るりこ) に一目惚れ。ところが、女性陣の中にコールドリーディングを得意とする詐欺師の杠阿麻音 (ゆずりは あまね) が混ざっていた。阿麻音は優に、鷹央への伝言を託す。「縁があったらまた会いましょ。できれば次は敵として」。(感想)■雑踏の腐敗トリックのネタは、聞いたことがないけれど実在する病名――医師でもある作者の知念さんのネタ帳は、ドラえもんの四次元ポケットか?本編の初版は2017年3月――コロナ禍前のことで、2013年6月のDJポリス出動よろしく、舞台となる渋谷のスクランブル交差点は大勢の人が集まっていた。私は東京生まれ東京育ちで、一時期は道玄坂に勤務していたのだが、ハロウィンの夜のスクランブル交差点の混雑は常軌を逸していた。沖縄出身の知念さんはどう見たのだろう。最後に、鷹央は椿が間もなく結婚することにも気付いており、傷心の優に向かって鷹央は「そう、腐るなって」と声を掛け、リフレインのように締めくくられる。■永遠に美しく神尾秋源という名前からして胡散臭い。犯罪者であることは最初から分かっているのだが、その謎解きをしてみせるのが「天久鷹央」シリーズの醍醐味。さて、最後に鷹央の姉であり、病院事務長の天久真鶴 (あめく まづる) が登場し、「いや、姉ちゃん。違うんだ。あの……、ちょっと……。おい小鳥、助け……」と恐怖で引きつった鷹央の白衣の袖を掴んで引きずっていく。『スレイヤーズ』の「郷里の姉ちゃん」を思い出し、そうか、鷹央はリナ・インバースだったのか?■正邪の刻印熊川や鷹央は医師として、骨髄移植のリスクとベネフィットを何度も佐智に説明したようだ。そして、未成年の移植手術には親の同意が必要だ。しかし彼女は「確率なんてどうでもいいんです。治るか治らないか、2つに1つなの」と言って移植を拒否する。こういったシーンは、現実の医療現場でも頻繁に起きているのではないだろうか。リスクは統計的確率で語るもの。しかし、患者(の家族)が求めているのは「治るか/治らないか」の二択――両者の間の溝は深い。優が統計を持ちだして鷹央を励ますシーンがある。鷹央は「統計的にか。なんか科学的に聞こえるが、実際はなんの根拠もない話だな。お前らしいよ」と茶化すが、この言葉に励まされたことは確かだ。知念さんは、この両者の溝を埋めるのが「会話すること」と言いたいように感じた。科学は正しい、そして信仰もまた正しい。両者の結論が相反するときのために、われわれに人間には会話をする能力が与えられているのではないだろうか。
2024.03.06
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新・宇宙戦争 実際のハイブリッド戦争においては、当初、サイバー空間や宇宙空間での不法行為や攻撃から始まり、サイバー攻撃や非物理的な攻撃によって、運用中の人工衛星が複数、同時に停止し、電力、交通、金融などの社会システムが誤作動を起こすと見られます。さらにはSNS上で膨大なデマやうそが流れる中で、大規模停電が長期化し、公共交通機関が大幅に乱れ、金融システムに支障をきたすなど、市民の生活の混乱が長引くことによって、国内の混乱や治安の悪化が生じる可能性があります。著者・編者長島純=著出版情報PHP研究所出版年月2024年1月発行著者は、航空教育集団司令部幕僚長、航空自衛隊幹部学校校長を歴任後、退官した自衛官で、最終階級は空将という長島純さん。宇宙は、科学技術のフロンティアとして、また経済成長の推進基盤として大きな期待をかけられている。そこはまた、安全保障上の駆け引きの場ともなってきた。人類は二度の世界大戦を経て、犠牲者のいない戦争を志向するようになった。それは、物理的な攻撃(陸海空の軍事力)とサイバー攻撃、欺瞞、妨害行為、偽情報の流布などの非物理的攻撃を組み合わせたハイブリッド戦争である。実際、ロシアは2022年2月の軍事侵攻前後、新たなハイブリッド攻撃をウクライナに仕掛けた。一方のウクライナ軍は、宇宙システムを利用した砲撃支援システム「GIS Arta」を戦場に投入し、GPSやドローンからのデジタルデータ情報の処理および伝達速度を速めて、ロシア軍に対する反撃の時間を大幅に縮めることにも成功した。2019年に、中国は国防白書で「智能化戦争(Intelligentized Warfare)」を、米陸軍は「SF:2030-2050年の戦争の未来像」をそれぞれ公表し、AIを利用した戦争について語っている。中国は、1956年に毛沢東国家主席が掲げたスローガン「両弾一星」の下、国家プロジェクトとして核兵器を運搬する手段として宇宙開発に着手した。中国が高い技術力を必要とする宇宙の軍事利用を加速できる背景には、国家規模で推進する「軍民融合(MCF)」戦略の存在がある。2007年1月11日、中国は地上から中距離弾道ミサイルを発射し、運用終了した気象衛星を破壊するというDA-ASAT(Direct-Ascent Anti-Satellite;直接上昇型ミサイルによる衛星攻撃)を行い、大量のスペースデブリを撒き散らした。この他、宇宙空間に配置され別の衛星などを攻撃するために設計された攻撃兵器「共軌道ASAT」や、高出力マイクロ波(HPM)兵器」が実用化されている。米国の戦略的抑止は、核戦力による機動力と敵の兵器がいつ発射されたのかを知る探知能力から成り立っている。だが、極超音速兵器の登場によって、この能力が否定されるようになると、核による先制攻撃を引き起こしかねない。NATO加盟国の中で2018年に、米国が初めて「国家宇宙戦略」を立案し、宇宙が戦闘領域に変化したことを認めた。2019年9月に、フランスに宇宙司令部が置かれた。日本は、2022年12月16日に新たな国家安全保障戦略、国家防衛戦略及び防衛力整備計画の3つの文書の閣議決定を行い、岸田総理は新たに強化すべき能力として、宇宙・サイバー・電磁波などの新たな領域(新領域)への対応能力、経空脅威に対する反撃能力、中国の脅威を意識した南西地域の防衛能力に言及した。2015年にパリで開催されたCOP21では「パリ協定」が採択され、これまで聖域だった軍隊の温室効果ガスにもメスが入った。これを受けフランス軍では、熱帯夜砂漠と言った過酷な環境でも兵士が任務を全うできるよう、兵士の心身を強化改造する技術の研究を進めている。長島さんは SFプロトタイピングの条件として+自然科学の制約と技術の進歩に基づくこと+人間が主体的役割を果たすこと+人間の願望が含まれていることの3つを挙げ、この手法を使って未来の戦争をシミュレーションしてみせる。超大国テュポン国から分離独立しようとするベンヌ国との間での戦いの様子が時系列を追って描かれる。戦いは2027年にはじまり、テュポン国はベンヌ国併合に成功したものの、2049年に至っても終息をみていない。最後に、著者の長島さんと、多摩大学客員教授で地政学の研究家である奥山真治さんとの対話が収録されている。2人は、戦争は人間同士の根源的な戦いであり、その形態が変わっても、人勝ちを流して命を奪われるという事実は変わらないだろうという想定のもと、無人機を操縦する兵士への心理的負担や人間の脳と兵器が直接繋がるBMI(Brain Machine Interface)を考え、新しい戦争では民間への被害が大きくなる可能性について言及する。また、爆撃機から伝染ビラを撒くかつての宣伝戦より、ネットから攻撃の相手を特定して効果的かつ集中的に情報を流して行動変容させる認知戦のおそろしさを説く。本書は『新・宇宙戦争』と題されているが、宇宙における戦略・戦術が中心というわけではなく、宇宙空間やサイバー空間で展開する未来の戦争形態について論じている。SFファンとしては、最終章の SFプロトタイピングによる仮想のストーリーが興味深かった。2027年にはじまったテュポン国の戦争が、22年を経過しても終息せず、戦場はサイバー空間から宇宙空間へ拡散し、地球環境も悪化する――。ここで思い出すのはジェームズ・P・ホーガンのSF『巨人たちの星』――地球人より進んだ科学文明をもつ宇宙人ガニメアン/テューリアンが作ったAIシステム「ゾラック」「ヴィザー」がサイバー空間に偽情報を流し、惑星間戦争を攪乱するというストーリーだ。まさに「新・宇宙戦争」である。このSFでは、敵を殲滅することができたので戦争は終結するのだが、現実の戦争で敵国を〈殲滅〉することはできないだろう。戦争は外交の手段だと言われることが多いが、それは戦争が始まるまでの話で、いざ戦争が始まってしまうと、感情が戦局を支配する――結局、敵対する宗教/民族/文化がある限り、戦争状態は継続する。お互いに大量の血を流し、戦争を継続する意志が挫けた時点で、いったんは戦争状態が停止する。だが、サイバー空間や宇宙空間で、AIの力を借りて〈それほど血を流さない戦争〉を続けていると、かえって戦争状態は長引くのではないだろうか。長島さんと奥山さんの対談の後半に、新しい戦争では民間への被害が甚大になるという指摘も不気味である。ウクライナ戦争やイスラエルのガザ攻撃の経過を見ていると、こうした予想が現実のものになるのではないかと不安でならない。第一次・第二次世界大戦という総力戦を経験した人類は、戦争に莫大なコスト(死傷者を含め)がかかることに恐怖を感じている。サイバー空間を使った戦争は低コストかもしれないが、それが長引けば、トータルコストは総力戦と大して変わらないものになってしまうのではないだろうか。
2024.03.02
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幼女戦記 第14巻 -Dum spiro、spero- (下) ゼートゥーア大将「すまないな、中佐。貴官には、随分と無理を頼んでいるが……戦後も含めてこき使うことになるだろう。多大な労を頼むことになる」著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2023年9月発行統一暦1928年1月14日、連邦の戦略攻勢「黎明」を前にして帝国の東部方面軍司令部はパニックに陥っていた。通信部門の当直責任者であるクレーマー大佐のもとに、参謀本部の[エーリッヒ・フォン・レルゲンエーリッヒ・フォン・レルゲン大佐名義で想像もしない類いの命令が飛び込んできた。しかも、ハンス・フォン・ゼートゥーア大将の名前が併記されており、それはゼートゥーアが持っている使い捨て暗号で復号できてしまった。クレーマー大佐は、その命令書をハーゼンクレファー中将に送付した。ハーゼンクレファーはゼートゥーアが残した金庫を解錠すると、たしかに封緘された「防衛計画第四号」なるものが実在した。それでも信じられない東部方面司令部は、若手少佐がサラマンダー戦闘団の駐屯地へとモーターバイクで乗り込み確認しようとするが、応対したマテウス・ヨハン・ヴァイス少佐は「津波に対する唯一賢明なアプローチはご存じかな? 避難だ。安全なところへ、直ちに遅滞なく。後退あるのみ」と断固たる口調で説明する。ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は全線から魔導師をかき集め、航空魔導師団を編成。無茶を承知で連邦の兵站を攻撃する。一方、ターニャのメモを携えて将校伝令として参謀本部へ急行したヴォーレン・グランツ中尉は、帝都防空司令部に誰何を受けるも、[アーデルハイト・フォン・シューゲル技師の助力で何とかゼートゥーアのもとに辿り着く。ゼートゥーアは、東部方面へ発令しようとしていた命令を全て取消し、ターニャの独断専行を追認する。そして、畏るべきゼートゥーアは帝国全土から魔導師をかき集め、ターニャに連邦の後方攪乱を命じたのだった。1月20日、3個師団の魔導師たちが片道切符の輸送機に乗り込み、第二方面軍司令部、バルク大橋、連邦の鉄道の結節点であるノルク駅の3カ所のチョークポイントに空挺降下した。集められた魔導師達の練度は低く、途中で脱落する者も出て、師団の管制はターニャの手に余った。そんなとき、「ライン・コントロールより、全航空魔導部隊へ。懐かしい顔にも、新顔にも、ごきげんよう! 連邦軍第二方面軍司令部の篤志により、ライン・コントロールが同窓会の開幕をお伝えします」との通信が。かつてライン戦線でターニャ達を支えた古参の管制官が支援を買って出たのである。ターニャたちは、「次がないやけっぱちの明るさ」「次を捨てた、ある種の職業人の爽快さ」をもって作戦に当たる。一方で、飲酒飛行制限の限定的な解除を法務担当士官に書面にしたためさせるターニャは、ホモ・エコノミクスとしての矜持を崩さない。この一部始終を観測していた連合王国のジョンおじさんは、「帝国軍魔導師、恐るべし」と感じとり、試作段階にあった対魔導近接信管を組み込んだ榴弾砲を連邦に使わせたが、ターニャに察知され、すべてを廃棄し撤収せざるを得なかった。帝国軍は生き残った。ゼートゥーア大将は皇帝陛下に随行し東部戦線に降り立つと、ターニャの前で、すっと頭を下げ、「よくぞ、あそこで独断専行してくれた。よくぞ、越権してくれた。そして、よくぞ、軍を救ってくれた」と礼を述べた。そして、ゼートゥーアは言う。「すまないな、中佐。貴官には、随分と無理を頼んでいるが……戦後も含めてこき使うことになるだろう。多大な労を頼むことになる」と。一方、イルドア王国のアライアンス軍のガスマン大将もまた、戦争の終わらせ方を考えていた。ホモ・エコノミクスであり、どんな緊急事態においてもコンプライアンスを遵守するターニャは、しかして、独断専行で東部方面軍を戦略的撤退させることに成功する。前巻で「常にプランBを実行に移す余力がなかった」と書いたが、ターニャやゼートゥーアの頭の中には確かにプランBは存在しており、かろうじてメモが残っていたことをターニャは利用する。加えて、使い捨て暗号という、現代でも使われる究極の認証方式を使って、ターニャは自軍に命令を信じさせることに成功し、かつ、巧妙に軍規違反を回避する。列強はゼートゥーアが詐欺師だという認識で一致しているが、じつは、ラインの悪魔というコードネームしか知られていないターニャの方が、よほど詐欺師である。そして、現代ビジネスにおいて、暗号や認証といったセキュリティ技術を巧みに使うことで、より巧妙な詐欺行為ができる可能性を、本書は臭わせている。
2024.02.23
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幼女戦記 第13巻 -Dum spiro、spero- (上) 核兵器は強力だが、原爆一発だけで世界を征服できるはずもない。原爆を活用できる軍事力があればこそ、世界は核攻撃システムへ恐怖するのだ。著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2023年8月発行統一暦1928年1月15日、参謀本部のハンス・フォン・ゼートゥーア大将は、世界を相手に勝てると確信し、気分爽快であった。一方、東部の最前線の塹壕にいるターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は「戦争なんて、大嫌いだ」と心の叫びを上げていた。1月1日、宮中の新年行司に参列したゼートゥーア大将とコンラート参事官は、表情にこそ出さないものの、周囲から見られていることを意識し、心に余裕がある振りをして回っていた。ゼートゥーア大将は傍にあったナプキン紙に「黎明は近い。されど、払暁あり」と書いてコンラート参事官に渡した。このメモが、後世の歴史研究家たちを驚かせることになるとは知るよしもない。新年行司から帰還したゼートゥーア大将、ターニャに「私ある限り、帝国はまず負けんよ。共産主義者に、イデオロギーを超越する現実があることを、また、教えてやる」と語る。ところが、エーリッヒ・フォン・レルゲン大佐とマクシミリアン・ヨハン・フォン・ウーガ大佐は口を揃えてゼートゥーア閣下が怖くなくなったと語る。ターニャはその真意を測りかねていたが、2人の大佐の口ぶりから、帝国は、組織の失敗をゼートゥーア大将という有能な管理職によって一時的にカバーできてしまい、常にB案が軽んじられてきたことに気付く。これまでターニャが参戦した回転ドア、鉄槌、アンドロメダ作戦のいずれにおいても、プランBの用意が手薄だった。一方、連邦のモスコーにある最高司令部では、誰の敵意も買わない物腰と手堅い手腕で宿将となったクトゥズ大将が、帝国への反攻作戦「黎明」として2案を提示した。ターニャが率いるサラマンダー戦闘団は、東部前線へ戻ったが、そこに連邦軍の姿はなく、副官のヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ中尉とともに威力偵察に出るが、練度の低い魔導師に会敵しただけだった。とはいえ、サラマンダー戦闘団も要員不足に加え、整備も不十分な状態だった。そんななか、連邦から魔導反応を垂れ流す機械化部隊が接近しているとの報告がもたらされた。これこそ、クトゥズ大将が練りに練った革命的な拠点攻略戦術であった。1月9日、レルゲン大佐はターニャに、皇帝陛下の末娘で、たいへん真面目に軍務をこなす第二十三親衛近衛連隊の連隊長あるアレクサンドラ皇女殿下(大佐)が東部戦線を視察に来ると告げる。ターニャは視察を断る理由として東部戦線が危険である証拠をつかもうと部下を偵察に飛ばすが、何もない。そこで、1月13日に自らがヴォーレン・グランツ中尉をペアに指名し長距離偵察に出たところ、連邦が大規模な補給路を築いていることを発見。急いでサラマンダー戦闘団駐屯地へ帰還するが、時すでに遅し。連邦の戦略攻勢「黎明」がはじまった。東部方面軍のヨハン・フォン・ラウドン大将は生死不明。司令部はパニック状態に陥った。ターニャは頭の中であらゆるケースを検討した結果、可及的速やかに戦略的撤退しなければ帝国軍は全滅すると判断。しかし東部方面軍への命令権が無いターニャは、記憶を辿って軍規違反にならないことを確認したうえで、ゼートゥーア大将が東部戦線にいたときに残していた暗号を流用し、独断専行で東部方面軍に撤退命令を発する。ターニャは笑う。「我々で。帝国を救うぞ。絶望するにはまだ早い。息がある限り。希望もある!」3年半ぶりの新刊――。帝国軍は、その攻勢作戦において、常にプランBを実行に移す余力がなかった。現代ビジネスマンであるターニャにとって、これはあり得ないことであろう。新規事業計画でプランBを用意しない企業は、まず間違いなくブラックであるのだから。一方、連邦で粛正もされこともなく無難に宿将を務めているクトゥズ大将は、黎明作戦に対してハイリスク・ハイリターンのA案とローリスク・ローリターンのB案の2案を提案する。共産主義者が皮肉にも、合理的・組織的な解答を出していくるのが13巻・14巻のバックボーンとなっており、当然、ターニャたち帝国軍は今までにない危機に見舞われる。
2024.02.22
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怪談の科学 日本の幽霊についてはいろいろ論じられているが、その特徴を一つだけあげるとすれば、それはなみ外れて執念深いことである。(226ページ)著者・編者中村 希明=著出版情報講談社出版年月1979年7月発行精神科医の中村希明さんが、人間がおかれた心理状態や精神疾患の観点から、収集した多くの怪談話を科学的に解き明かす。40年以上前に出版されたものだが、昨今のネットに流れる陰謀論が怪談に似ていると感じ、そうした投稿の背景を知るヒントにならないかと、本書を再読してみた。第1章では、「この手の幽霊は案外ハイカラで、新しい乗物を好む」(10ページ)として、タクシーの客席やジェット機の操縦席にも幽霊が現れるという。そういえば、『呼び覚まされる霊性の震災学』では、東日本大震災後の石巻や気仙沼の多くのタクシードライバーが幽霊を乗車させたという記録がある。また、海外の話になるが、妖精グレムリンは航空機や宇宙ロケットにまで現れたという。中村さんによれば、これらの幽霊の正体は、運転手が疲労やストレスのピークに達したときに起きる高速道路催眠現象 (ハイウェイ・ヒプノーシス) だという。人間は一人ぼっちになったときに、孤立性幻覚を見ることがあるという。これも、睡眠不足や飢え、極度の疲労などの肉体条件や遭難の不安などによって、いろいろな変化がみられる。また、同じメカニズムで、仲間も信じられないという精神的孤立感に立たせることで、洗脳ができるという。一過性脳虚血発作が起きると、一時的に見当識を失うことがある。中村さんは、大人の「神隠し」は一過性脳虚血発作が原因ではないかと推測する。側頭葉てんかんでも同じことが起きる。第2章では、飢えや雪山といった極限状態における幻覚を開設する。まず、チャップリンの『黄金狂時代』で靴を食べるシーンを取り上げ、「飢えという条件で起こる幻覚を見事に描いてみせた」(66ページ)と紹介する。中村さんは、白虎隊が天守閣陥落を誤認して自決したのは、「はっきりしたリーダーがいなかったこと、彼らが心理的に集団感染を起こしやすい思春期の少年たちばかりで構成されていたこと」(74ページ)が背景にあると推測する。t凍死の幻覚として、ラフカディオ・ハーン『雪女』、アンデルセン童話『マッチ売りの少女』を挙げる。一般に、脳温が34℃以下または40℃以上になると幻覚が起きるという(96ページ)。第3章では、幽霊はなぜ丑満刻に出るか考察する。人間は入眠時に幻覚を見ることがある。とくに、身体的な過労、病気などの臭和感などに、入眠前の精神的不安、緊張などの心理的なファクターが加わってくると、不安、恐怖に満ちた入眠時幻覚が出現するという(110ページ)。ラフカディオ・ハーンの『食人鬼』がその代表的作品だ。また、正常者でも長時間眠らせないでおくと、大部分の人に一過性の幻覚を生じさせることができる(114ページ)。アルコールやベラドンナ、阿片、LSDも幻覚を見せる。ベルリオーズの『幻想変響曲』は、失恋して多量のの阿片を飲んだ青年作曲家が致死量に達せず奇怪な夢を見るという内容だ(126ページ)。中村さんが、現代の青少年たちが薬物を使って幻覚の世界に逃げ込む背景として、社会生活を維持するために、本能や欲望を、規律や戒律、道徳などによって抑制することを学ばなければならないはずなのに、逆に規則でがんじがらめにされ、本能が爆発する場を求めるためではないかという(132ページ)。昔は「祭り」が本能の発散の場となっていた。中村さんは、精神疾患的な幻覚を扱った作品として、モーパッサン『オルラ』、芥川龍之介『二つの手紙』、ゲーテ『[詩と真実:ASIN:4003240693/]』、ドストエフスキー『二重人格』などを挙げる。中村さんは、旅の途中で山姥のような化け物に襲われ逃げる話は、半分は当時の治安の悪さを反映したものであり、残りの半分は旅人の被害妄想と入眠時幻覚の産物だろうという(152ページ)。第4章では、精神変調時の幻覚を取り上げる。中村さんは、精神変調を来すのは、アルコールなどの薬物や高熱などの(1)外因精神病、精神病になりやすい体質などの(2)内因性精神病、なにか大きな精神的ショックによって発病したような(3)心因性精神病の3つがあるという(163ページ)。『四谷階段』『番町皿屋敷』は、良心の呵責から精神異常を来した主人公の体験する幻覚であり、本人だけに見えて健康な周囲の人には見えないものだ。池田弥三郎や柳田国男は、お岩やお菊のように幽霊は特定人物を目指して出現するもの、妖怪は特定の場所に出現するものと区別している。第5章では、怪談の論理を考える。『マッチ売りの少女』を読めば分かるとおり、幻覚は欲求のうちでもっとも切実なものから現れる。第二に、管理社会化が進み競争が厳しくなり、人間疎外の環境が進むとき、人は手軽にもたらされるドラッグの幻覚に一時退行して、魂の渇きを満たそうとする。そして第三は良心との葛藤である。中村さんは、「幻覚はまさに、極限状況における、環境とその人のパーソナリティーとの全反応」(209ページ)と指摘する。イギリス人は幽霊ぱなしが大好きだ。理性を重んじて空想を排する古典主義の伝統の根づいたフランスでは、怪奇文学はあまり発達しなかった。ドイツの幽霊は北方系で、デンマークやスラプの幽霊に近く、陰気くさい。ロシアでは土俗の臭いのする怪談が多い。ストラピンスキーは、創作のあい間にみた異様な異教の儀式の幻想にもとづいて『春の祭典』を書き、ムソルグスキーは、旧暦7月の真夜中に開かれる魔女の宴会の伝説にもとづいて『はげ山の一夜』を作曲した(215ページ)。総じて西洋の幽霊は、頭が良く、妖怪的な要素が強い。一方、日本の幽霊は、なみ外れて執念深い(226ページ)。中村さんによれば、日本の幽霊が執念深いのは、現世の淡白さと表裏の関係にあるのではないかと推測する。人間は、幽霊をすっかり追放できたのだろうか――中村さんは、UFOや超能力、オカルトブームをみると、幽霊は姿を変えただけで、人類の心の奥底にある未知なるものに対する好奇心、畏敬の念は、あまり変わっていないという(235ページ)。人は、神を否定しながら新しい神を求め、自然科学を信じながら、自然科学の及ばぬ未知な領域、超能力の世界を求めるのである。つまりあまりにも強大になりすぎた人類のおごりが、未知なる、より強力な存在への畏敬を起こすのである。現代の幽霊こそ、こういう現代科学に対するアンチテーゼとして、存在しているのである(236ページ)。中村さんは、仲間も信じられないという精神的孤立感に立たせることで洗脳ができるというが、これこそ、現代のネット社会に流れる陰謀論ではないだろうか。リアル社会での交友関係を遮断され、エコーチェンバーによって五感が閉ざされ孤立させられ、下手をすると、怪しげな健康食品やアロマによって幻覚を見せられる環境が整う。中村さんによれば、日頃、負い目を感じることが幻覚として出やすいというから、自責の念が強い人を洗脳するには打って付けだ。陰謀論によって強い自責の念を他責に置き換えることで、自分が救われたように感じる。だがしかし、問題はなにも解決していない。そして、一度、陰謀論に取り憑かれた人は、科学に耳を傾けようとしない。ネットの陰謀論も幽霊と同じで、現代科学に対するアンチテーゼだと感じた次第。
2023.12.16
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真空のからくり 実に奇妙な話ではありますが、現在までのところ量子力学に違反する物理現象が一つも観測されていないことが、「真空のエネルギー」の存在を強固に下支えしています。(47ページ)著者・編者山田 克哉=著出版情報講談社出版年月2013年10月発行同じブルーバックスで『光と電気のからくり』『量子力学のからくり』『時空のからくり』『E=mc2のからくり』『重力のからくり』を著した山田克哉さんの著書。アメリカで教鞭をふるい、アメリカ物理学会会員でもある。『重力のからくり』の後に読んだのだが、こちらの内容の方が専門的と感じた。とくに第6章が難解で、必要な数式は、例によって山田さんの絶妙な解説で理解したつもりなのだが、量子力学の不思議な性質(概念?)を理解するには未だ時間がかかりそうだ。少なくとも、ヒッグス場の誕生の瞬間とその役割はわかってきた。第1章では、何も無い真空に無限のエネルギーがあることを紹介する。量子力学により、粒子の完全静止は不可能であることが明らかになった(11ページ)。アインシュタインとオットシュテルンは1913年、金属箱の温度が絶対ゼロ度になっても、箱の中には振動数 \( v \) で振動している電磁波が残っていることを明らかにし、そのエネルギー(ゼロ点エネルギー)は \( \frac{hv}{2} \)であるとした(36ページ)。そして、1997年、アメリカのスティーブ・ラモローがカシミール効果を計測し、真空にエネルギーがあることを実証した。一方、アインシュタインは、光を波ではなく粒子として扱うことによって光電効果を見事に説明し、その功績で1921年のノーベル物理学賞を受賞した(40ページ)。ここで、光子1個のもつエネルギーは \( E = hv \) だが、ゼロ点エネルギーはその半分だ。光子はそれ以上分割できないはず。これはどういうことだろうか?第2章から3章にかけて、何も無い真空からエネルギーを叩き出せることを紹介する。ド・ブローイは、電磁波が質量のない光子という粒子として振る舞うなら、質量のある電子も波として振る舞うことを示し、両社の関係を \( 波動性 \approx \frac{プランク定数 h}{粒子性} \) という式で表した。ここで登場するプランク定数 \( h \) は(6.62607015 \times 10^{-34}m^2 kg/s \) という極めて小さい定数なのだが、なぜこれほど小さな値でなければならないのかは分かっていない。だが、これほど小さいがゆえに、原子が形作られ、また、目に見える大きさの物体は波として振る舞うことがないという結果をもたらした。ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクは1925年に量子力学を築き上げ、翌1926年にオーストリアのエルヴィン・シュレーディンガーが波動力学を提唱するが、やがて両者は同じ理論であることが分かり、そこから不確定原理が導き出された。不確定性原理によれば、量子は位置と運動量を同時に確定させることはできず、エネルギーと時間間隔を同時に確定することもできないという不思議な結論が導き出される。つまり、不確定性原理が許す範囲内でエネルギー保存則は破られる(65ページ)。ここに真空のエネルギーの秘密が隠されている。そして、その不確実さを示す式にもプランクの定数\( h \)が登場する。真空から粒子を叩き出すための実験装置を「コライダー(衝突型粒子加速装置)」と呼ぶ。コライダーを使って陽子と陽電子を光速に近い速度にまで加速し衝突させると、そこに瞬間的に静止した1個の仮想光子が現れ、真空を揺さぶり、消えてゆく。その後、カシミール効果やラム・シフトの観測を通して、真空のエネルギーが実在することが明らかにされた。第4章では、力が真空を伝わる仕組みとしてのゲージ場を説明する。自然の力には、力の強さの順に、1)強い力、2)電磁力、3)弱い力、4)重力の4つが存在(120ページ)するが、いずれの粒子間の相互作用もゲージ粒子の交換によって発生する。そしてゲージ粒子は質量が仮想粒子で、相互作用する2つの素粒子から瞬時に創生または吸収・消滅する様子が、あたかも交換されるように見える(133ページ)。このゲージ粒子が真空を攪乱する張本人(147ページ)であり、現実の現象を起こしているため、仮想だからといって無視することができない。たとえば、精密測定によって実測された電子磁石の強さは、完全無欠と考えられていたディラック方程式の結果より0.1%大きい。これが、周囲の真空が電子に影響与えているためで、仮想粒子は観測ができないから、計算によって求めるしかない。第5章では、弱い力と質量の起源をめぐる謎を解き明かしていく。ゲージ粒子が質量をもつと対称性が破れてしまう(178ページ)。この世のすべての素粒子は、フェルミ粒子かボース粒子のいずれかに属しており、スピン角運動量が整数かどうかで区別される。ゲージ粒子は全てスピン1のボース粒子。陽子や中性子、電子やクォークなど、原子の構成要素となっている素粒子はことごとくフェルミ粒子だ(189ページ)。世に存在する物質がすべてフェルミ粒子だけからでき上がっているのは、パウリの排他律によるものだ。原子を構成するフェルミ粒子が同一の物理状態をとれないために、原子は決して潰れることがない。一方、ボース粒子にはパウリの排他律は適用されず、同じ種類のボース粒子がたくさん集まると、それらすべてのボース粒子が同時にまったく同じ物理状態(同じエネルギー、同じスピン、同じ位置など)になることが許される(191ページ)。現在の素粒子理論である「標準模型」では、下図のように6種類のクォークと6種類のレプトンを扱う(200ページ)。なぜ現在の宇宙に反粒子がないのかというと、粒子とその反粒子を比べた場合、弱い相互作用の生じ方に違いがあることが予測されている(203ページ)。弱い力を媒介するWボゾン(仮想粒子)の質量は、クォークやレプトンの質量よりもはるかに大きく(つまり、エネルギーが大きい)、不確定原理に従って存在できる時間間隔は極端に小さく、弱い力の到達距離は原子核の直径の1000分の1程度にとどまる。そして、弱い相互作用は、理由は分からないが、「左巻き」のフェルミ粒子だけを選り好みする(209ページ)。第6章では、質量を生みだしたヒッグス粒子について解説する。誕生直後の宇宙は完全対称性を保っており、4つの力は1つだったと考えられている。ところが、真空の相転移が起き、その完全対称性が自発的に破れた。このときヒッグス場が誕生し、弱い力を運ぶ3つのゲージ粒子は質量を獲得する。これを「ヒッグス機構」という(254ページ)。なお、真空の相転移によって発生したのはヒッグス場のみで、他の3つの場はこれと直接関係しない(251ページ)。真空に相転移が起こったあとも光子だけは質量を得ないままで、光子が媒介する電弱相互作用は電磁相互作用と弱い相互作用に分かれてしまう(258ページ)。しかし、実測された素粒子の質量とヒッグス場の導入によって理論的に得られた質量との一致を見たのは、弱い力を運ぶ3種のゲージ粒子だけで、他の粒子の質量は未だ説明されていない(271ページ)。そもそも、現在の宇宙はエネルギーが最も低い状態なのか。将来、再び真空の相転移が起こる可能性はないのか――宇宙には、まだまだ分からないことが多い。今後、真空の相転移が起きるかどうかは誰にも分からないのだが、もし起きたら世界が破壊されるという話はSFネタになっている。たとえばアニメ『宇宙戦艦ヤマト』における波動エネルギーが、それだ。本書ではコライダー(衝突型粒子加速装置)がその引き金となる噂に触れ、世界の各地で「コライダー建設反対運動」が起こっていることを紹介している。超伝導におけるマイスナー効果は、何度か実験を見たのだが、光子が質量を得た結果起きる量子力学現象ということが分かったのは収穫だった。2019年にキログラムの定義が、実体(原器)から物理定数に変更になった。質量については、まだまだ分からないことが多いようだ。真空は何も無い空間ではなく、分からないことだらけの空間である。
2023.12.10
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宇宙になぜ、生命があるのか まったく生物が存在しない状態から、物理法則にもとづく非生物的な化学反応によって、どうやって100塩基ほどの遺伝情報を持つ最初の生命が誕生したのか?(167ページ)著者・編者戸谷友則=著出版情報講談社出版年月2023年7月発行著者は、宇宙物理学者の戸谷友則さん。冒頭で「原始生命体の誕生は、宇宙や太陽、地球の誕生に並び、我々人類の存在を理解するうえでの大問題」としながらも、「生命の起源というテーマで研究したり、本を書いたりというのは結構勇気のいることなのである」と漏らす。「ビッグバンによる宇宙の始まりのほうが、生命の始まりよりもはるかに詳しくわかっていると断言できる」(8ページ)からだ。まず最初に、生命とは何だろうか――NASAによる定義「生命とは、ダーウィン進化する自立した化学的システムである」(31ページ)がよく受け入れられている。戸谷さんは、化学進化説を提唱したオパーリンによる定義「自己複製と突然変異を起こすすべてのシステムは生きている」(34ページ)が本質的かつ一般性が高いという。第2章では、化学反応システムとしての生命について考える。さまざまなアミノ酸の中で、地球上の生物が使っているのはわずか20種類で、光学異性体のL型のみだ。この20種類のアミノ酸から無数のタンパク質が合成されるわけだが、それを司っている核酸には4種類の塩基――DNAはアデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、チミン(T)の4種、RNAはTに代わりにウラシル(U)――があり、この4種類から3つを取り出した組み合わせで1つのアミノ酸を指定する(コドン)。組み合わせは4×4×4=64通りあるから、20種類を指定するのは余裕だ。ヒトのDNAの長さは約30億塩基対あり、コンピュータに換算すれば60億ビット=約0.75ギガバイトと、意外に少ない。DNA→RNA→タンパク質という合成システムはすべての地球生命に共通しており、「セントラルドグマ」と呼ばれている(81ページ)。DNAの複製の際に材料となるヌクレオチドにはエネルギー源として高エネルギーリン酸結合が含まされており、このうち塩基AのものがATP(アデノシン三リン酸)という生物共通のエネルギー通貨だ。ヌクレオチドを結合するときにリン酸結合のエネルギーが使われ、そして2つのリン酸が連なったリン酸基は周囲に捨てられる。こうして、生命は局所的にエントロピーを低下させ、秩序と組織を維持している。タンパク質の合成でも同様で、ATPを使って合成されたアミノアシルtRNAのエネルギーを使ってアミノ酸からタンパク質を合成する。第3章では、多様な地球生命とその進化史について考える。地球上の生物は、細菌、古細菌、真核生物という3つのドメインに分類できるという。全生物種のなかで最大のゲノムを持つのはポリカオス・ドゥビウムというアメーバの一種で、そのゲノムサイズは7000億塩基対、ヒトの200倍もある(95ページ)。ゲノムが大きい者が進化した生物とは限らない。逆にゲノムサイズが小さいものは原始的な生物なのだろう。だが、ウイルスは他の細胞に寄生して増殖するため、ウイルスが単独で発生したとは考えにくい。ウイルスより小さいものとして200塩基ほどのウイロイドがある。触媒としての活性を持つRNAであるリボザイムは、100塩基ほどだ。このあたりが生命的な活動性を発揮するために必要な最小限のゲノムサイズといえそうだ(98ページ)。地球が誕生して1億年ほど経ったころ、火星ほどの大きさの別の原始惑星が地球に激突し、月が生まれたとされる。さすがに、これより前に生命が誕生したと考えるのは難しい(102ページ)。最初に誕生した生物は単細胞の原核生物であったろうが、他の生物は存在しないから、独立栄養生物であったことになる。光合成生物の誕生にはしばらく時間がかかったと考えられており、最初の生物は周囲の物質を化学反応させてエネルギーを得る化学合成細菌のようなものであった可能性が高い(105ページ)。27億年前にシアノバクテリアが誕生し酸素を発生させる。まず、鉄イオンと反応して2億年をかけて酸化鉄の鉱床を生みだした。それが終わると、いよいよ大気中に酸素が放出されてゆく。真核生物が登場し、有性生殖が始まる。地球上の生物は、海水中の全炭素の1.4%、また大気中の全炭素にほぼ匹敵する量の炭素をその体内に貯蔵しているという。地球表層に存在する炭素原子の相当な割合が、生物として存在していることになる(111ページ)。第4章では、宇宙における太陽と地球の誕生について考える。ビッグバンから太陽系誕生までの流れは、宇宙物理学者の十八番であろう。戸谷さんは、生命を宇宙に現出させる上で恒星が果たした決定的な役割は重元素の合成だという(130ページ)。すでに5000個を超える太陽系外惑星が見つかっており、ハビタブルゾーンにある地球程度の質量の惑星も見つかり始めている。そうした系外惑星に生命が発生するだろうか。生命は、エントロピーを減少させているように見えるが、実際には体外からエネルギーを取り込んで成長、進化する。したがって、生命の発生には何らかのエネルギー源が必要だ。たとえば地球の場合、海底にある熱水噴出孔が原始生命誕生の場所として考えられる。熱水噴出孔からは10万トンの有機化合物が生み出されたというが、一方、惑星間塵によって20万トン、さらには彗星によって1億トンもの有機化合物が地球にたらされたとも考えられている(158ページ)。生命は地球外で発生し、彗星に乗ってやってきたのだろうか。第5章から第6章では、原始生命誕生のシナリオと発生確率を計算する。最初に自己複製能力を獲得したのはDNAではなくRNAと考えられる(RNAワールド)。前述の通り、触媒としての活性を持つRNAであるリボザイムは100塩基ほどの長さだ。戸谷さんは、まったく生物が存在しない状態から、物理法則にもとづく非生物的な化学反応によって、100塩基ほどの遺伝情報を持つ最初の生命が誕生する確率を計算し、論文発表した(Emergence of life in an inflationary universe https://www.nature.com/articles/s41598-020-58060-0)。その論文によれば、10^180個の恒星が必要となるという。ところが、半径138億光年の観測可能な宇宙にある星の数は10^22個しかない。第7章ではインフレーション宇宙に触れ、インフレーション宇宙全体は〈観測可能な宇宙〉の外側に10^26倍の大きさで広がっていることから、10^22×10^78=10^100個の恒星が含まれると考えられる(212ページ)。インフレーションの倍率は現代物理学では特定できないから、さらに2倍、3倍という可能性もある。すると、10^180個の恒星が必要という前提は、あっさりクリアできる。戸谷さんは、これは一つの仮説にすぎないと断りつつも、「生命の起源は科学の範囲で理解可能であり、一見、確率が非常に低いからといって、神や超科学的なものを持ち出す必要はない」(220ページ)と指摘する。では、地球外生命は見つかるだろうか。これが第8章のテーマだ。戸谷さんは「残念ながら、地球外生命が見つかる可能性はきわめて低い」(224ページ)という。SETI(Search for Extra Terrestrial Intelligence;地球外知的生命体探索計画)のために考案されたドレイクの式にしても、(1)原始生命が誕生する確率、(2)知的生命体にまで進化する確率、(3)文明の継続時間――の3つのパラメータの不確実性が大きすぎて、地球外文明からの信号を受信できるかについては、確かなことは何もいえないという結論となる(236ページ)。ドレイクの式N = R_* f_p n_e f_l f_i f_c LN:銀河系に存在する地球外文明の数R_*:銀河系での恒星の生成率f_p:その恒星が惑星系を持つ確率n_e:惑星系のなかで生命が存在可能な惑星の平均数f_l:その中で生命が実際に発生する割合f_i:その生命が知的生命体まで進化する割合f_c:その知的生命体が星間通信を行う割合L:その文明が星間通信を継続できる時間20世紀前半に活躍した物理学者エンリコ・フェルミは、「銀河系に数多くの恒星があり、それらに文明が発達しうるなら、なぜ高度に進化した知的生命体が地球までやって来ていないのか?」というパラドックスを提起している。戸谷さんは、、そもそも原始的な生命すら誕生する確率はきわめて低く、銀河系どころか観測可能な宇宙の中で生命は地球だけ、という可能性が十分にあるという立場だ(237ページ)。だが、地球生命の起源を地球外の宇宙に求めるパンスペルミア説の立場にたてば、たった一度だけ発生した生命が、銀河中に播種した可能性はある。戸谷さんは、「科学でも、その他のどの分野でも、革命やイノベーションを引き起こす原動力は常に、悲観主義ではなく楽観主義である」(247ページ)と述べる。終章で、戸谷さんは、近年は生命の起源に入れ込んでいるのか心情を吐露する――「物理学という強力な学問によって、ビッグバンで始まった宇宙で銀河や恒星が生まれ、さらには惑星が生まれるところまで、そのおおまかなところは物理法則にもとづいて理解できてきた」が、「生命という、何やらわけのわからないものが宇宙に存在し、筆者自身がその一つであるにもかかわらず、その起源や存在原理をまったく説明できないことがもどかしい」(250ページ)なのだという。これを解明しようとする人間原理についても、「人間原理の弱点は、それが予言能力を持たず、実験的な検証も難しいというところであろう」(260ページ)と指摘する。最後にアインシュタインの言葉「私が本当に知りたいのは、神がこの世界を創造するうえで、何らかの選択をしたかどうかである」(263ページ)を引用し、「神だか何だか知らないが、この世界はそのように作られているのではないか。そんな一抹の不安を、打ち消すことができないでいる」(264ページ)と締めくくる。私たちはどこから来て、どこへ行くのか――研究者ではない私の頭の中で、常にモヤモヤとしている疑問である。自分の行く末は大体見えてきた。子どもも社会に巣立ち、うまくやっていくことだろう。では、孫は? 曾孫は? 一体どこへ向かっていくのだろうか。本書は、宇宙物理学者が書いただけあって、数字に立脚している。「生物は、海水中の全炭素の1.4%、また大気中の全炭素にほぼ匹敵する量の炭素をその体内に貯蔵」しており、生物を構成する有機物は「地球表層の炭素のけっこうな割合を、太陽エネルギーを使った光合成によって燃料に変えてしまった」(111ページ)などと記している。RNAワールドの発生確率の計算も新鮮だ。観測可能な宇宙空間では〈あり得ない〉が、インフレーション宇宙に広げれば可能性が出てくる。神を持ち出さなくても解決の糸口を見つけるのは、さすがは科学者である。とはいえ、地球上の生物がすべからくL-アミノ酸のみを選択しているのは、どこかおかしい。果たして神が選択したのか。また、地球誕生から僅か5億年後に最初の生命が誕生したというのも、いかにも早い。果たして地球外から生命がやって来たのだろうか。地球誕生以前の宇宙の歴史が100億年あることを考えると、マクロス・シリーズのように進化した地球外生命体が生命を銀河中に播種したのかもしれない。それほど大昔の宇宙となると、真空が相転移する前のことで、もしかすると違った物理法則により生命が誕生しやすかったかもしれない‥‥「宇宙戦艦ヤマト2202」で、神のような存在であるズォーダー大帝が選択を求め、古代進むがそれを拒否する。どちらが正しかったか――だから科学は面白い。戸谷さんも大学受験の物理と生物の壁について嘆いているが、大人になってからでも遅くない。理科4教科(物理、生物、化学、地学)は漏れなく履修しようよ。PHPで宇宙カレンダーを作る
2023.11.25
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重力のからくり 一般相対性理論における「なめらかに連続的に変化している」重力場は量子力学の対象にはなりえず、一方で、「量子化されている」ものは微分計算を含むアインシュタイン方程式の対象にはなりえないのです。(247ページ)著者・編者山田克哉=著出版情報講談社出版年月2023年8月発行同じブルーバックスで『光と電気のからくり』『量子力学のからくり』『真空のからくり』『時空のからくり』『E=mc2のからくり』を著した山田克哉さんの著書。アメリカで教鞭をふるい、アメリカ物理学会会員でもある。最初に、「質量」と「重さ」の違いついて1章を割いている。この2つが異なることは意識はしていたが、本書の説明を読んで再認識できた――あらゆる質量は(なぜか理由は分からないが)慣性という性質を備えている。慣性とは、加速/減速のしやすさ(あるいはしにくさ)のことだから「力」であり、単位はN(ニュートン)。重力の単位もNで、地上における重力の値は物体の「重さ」と同じなので、重さの単位もNとなる。一方、質量の単位はkg(キログラム)である。第2章では万有引力を取り上げる。万有引力とは、質量をもつ者(物質)どうしが、互いに引っ張り合う力のことを指す(48ページ)。このニュートンが発見した万有引力の法則は、2つの質量の間に働く引力は、2つの質量の積を距離の2乗で割った値に比例する。比例定数は重力定数Gだ。しかし、質量(重力質量)が、なぜ重力を生み出すのかはわかっていない。2つの質量のあいだには、重力を伝達する重力子(グラビトン)という粒子が交換されることによって重力が発生するという仮説が出されているが、重力子はまだ観測されていない(80ページ)。重力子は、本書最後の超大統一理論のところで再び登場する。作用反作用の法則(ニュートンの第3法則)よれば、地上をはうアリに働く地球の重力(作用力)と、アリが地球を引っ張る力(反作用力)は同じである。しかし、地球の慣性質量があまりにも大きいために地球は加速されない。万有引力の法則から、アインシュタインの一般相対性理論が導き出された。逆に言えば、重力の弱い空間では、一般相対性理論は万有引力の法則に近似できる。第3章では質量保存の法則を取り上げる。アインシュタインは質量とエネルギーが等価であることを発見し、有名な公式 E=mc^2 を導き出した。質量保存の法則はエネルギー保存の法則に発展するが、量子力学が登場し、エネルギーと時間の不確定性原理によって真空から飛び出てきた粒子は、ディラック定数の半分という、きわめて短時間のうちに真空へと戻り、消滅することがわかってきた。だが、その短時間の中においても電荷保存の法則は破ることができない。そして、陽子1個分の素電荷eより小さな電荷は、この宇宙には存在しない。電荷保存の法則がゆえに、宇宙全体での全電荷はゼロとなる。つまり、仮想粒子はつねに自身の反粒子とペアを組み、対生成と対消滅を繰り返す(117ページ)。これに対し重力には引力しかなく、あまねく宇宙の隅々まで重力が影響を与えている。第4章では「見えない力として、ダークエネルギーを取り上げる。プランクの放射の法則によれば、電磁波のもつエネルギーの量は連続的には変化できず、不連続的にしか変化しない。ある周波数をもつ電磁波のエネルギーには最小値があり、その最小値がhfである(134ページ)。連続的に変化する周波数をもつ電磁波に量子力学を適用すると、エネルギーの“飛び飛び性(離散性)”が電磁波の「粒子性」となって現れ、粒子となった電磁波は「光子」とよばれる(138ページ)。また、プランクの放射の法則は、電磁波を全く放出しない絶対ゼロ度の黒体の中に、なおhf/2で表される量の電磁波のエネルギーがとどまり続けるという。これこそが真空のエネルギーである。この真空のエネルギーは、万有斥力をもたらすダークエネルギーの正体と考えられている。第5章では、「見えない質量」として、ダークマターとヒッグス場の関係を取り上げる。この宇宙を構成する質量の割合は、1)ふつうの物質(5%)、2)ダークマター(24%)、3)ダークエネルギー(71%)と考えられている。観測によると、渦巻き銀河の中心にある星やガスの回転速度と、中心から離れた星やガスの回転速度がほとんど同じであり、ケプラーの第三法則が破られたように見えた。だが今日では、観測にかからないダークマターの重力が働いており、ケプラーの第三法則は有効に働いていると考えられている。ビッグバンの直後、宇宙空間は光子で満ちており、光子には質量がないために重力が作用しなかった。が、まもなくヒッグス場が登場し、質量が誕生する。一方、ダークマターはヒッグス場と無関係に発生した質量と考えられているが、その起源は不明である。第6章では、本書のタイトルでもある重力のからくりを取り上げる。アインシュタインの重力場の方程式をひと言で言い表すと、「1)何が時空を曲げ、2)その結果、時空はどのように曲がるのか」を示す方程式です。1)に対応するのが右辺で「時空を曲げる原因」を表している。2)に対応するのが左辺で、こちらは「時空の曲がりの程度(曲率)」を示している(234ページ。アインシュタインは当時、宇宙は膨らみもしないし縮みもしない「静的な構造」をしていると考えており、静的な宇宙を保つためのものとして「宇宙項」を付け加えた。その後、宇宙の膨張が確実なものとなり宇宙項は取り消されるが、宇宙が加速度的に膨張していることが分かった今日では、宇宙項を復活させ、それにダークエネルギーが対応していると考えられている。真空のエネルギーがダークエネルギーの正体だと書いたが、観測値によれば前者は後者に比べて120桁も大きいことがわかった。その原因は分かっていない。重力場について、一般相対性理論はをなめらかな連続値として見るのに対し、量子力学は飛び飛びの離散値(量子)として見るため、両者の相性は非常に悪く、超大統一理論(SUT)への道は険しい。これが、本書のサブタイトルでもある「相対論と量子論はなぜ『相容れない』のか」に結びつく。ループ量子重力理論と超弦理論による量子重力理論は、別々の観点から重力場を量子化することで超大統一理論を目指す。本書は、最新の宇宙論の知識を整理するのに役だった。これまでループ量子重力理論や超弦理論の上辺を見知っていたつもりだが、本書を読んで、超大統一理論(SUT)へ果たす役割が理解できた。また、ニュートンの方程式やプランクの法則、アインシュタインの重力場の方程式など、要所要所に数式が登場すが、恐れることなかれ。山田さんの絶妙な解説で、その数式の意味するところを日本語で理解することができる。そして、量子力学の数式と相対性理論の数式の接点を見比べることで、この宇宙の美しさを垣間見ることができるだろう。ところで、本書で「万有斥力」として紹介されているダークエネルギーは、重力を相殺する力ではないし、重力よりさらに小さい力であるが、宇宙が膨張しても一切減少することがないので、重力に代わって遠い未来の宇宙の姿の左右する唯一の力になるのではなかろうか。また、本書冒頭で、重力は弱すぎるといっても過言ではないほど「きわめて弱い力」としているが、その原因には触れずに終わっている。もしかすると、本書終盤で触れているように、4つの力のうち、反対の力が存在しない重力だけは別のものなのかもしれない。そうなると、超大統一理論は大いなる誤解ということになる。私が生きているうちに超大統一理論は完成しそうにないが、それでも、ブラックホールの蒸発にはじまり、宇宙の大規模構造、ダークマターやダークエネルギーなど、新しい発見や理論が次々に登場する宇宙論からは目が離せない。
2023.11.11
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プラネタリウムの疑問50 実は、「日本プラ寝たリウム学会」という学会があり、毎年11月23日の勤労感謝の日に,「全国一斉熟睡プラ寝たリウム」というイベントを全国各地のプラネタリウムで行っています。プラネタリウムで思いっきり寝るチャンスです。(140ページ)著者・編者五藤光学研究所=著出版情報成山堂書店出版年月2023年7月発行あなたはプラネタリウムを見たことがあるだろうか――わが国はアメリカに次いでプラネタリウム投影機の設置台数が多く、日本プラネタリウム協議会(JPA)によると、年間のべ900万人の人がプラネタリウムを見ているという。これは東京ディズニーシーの年間入園者数に近い人数だ。今年(2023年)は、光学式プラネタリウムが誕生してちょうど100年になる。それを記念し、天体望遠鏡メーカーであり、国内外に多くのプラネタリウムを納品している五島工学研究所が編者となり、プラネタリウム製造メーカーの社員や、プラネタリウム施設の運営や投映(解説)を行う解説員が、その誕生から現在までの移り変わり、仕組みや楽しみ方、魅力などを、余すところなく語ってくれる。半球型のドームに星空を投映する光学式プラネタリウムは、1925年にオープンするドイツ博物館が、来館者に天体の運動を学んでもらうために、カールツァイス社が1923年に開発した「ツァイスI型」が最初の製品だ。当初はドイツの星空しか投映できなかったが、緯度を変更できる運動軸を設け、南半球の恒星原板を加え、世界中の星空を投映できる「ツァイスII型」は世界各地に輸出され、1937年に大阪市立科学館にも納品された。光学式プラネタリウムの面白いところは、プトレマイオスの天動説を、最新の科学技術を使って忠実に再現しているところである。日周運動、緯度回転、歳差運動はもちろん、太陽や月、惑星の運動も機械的に(のちにコンピュータが支援動作する形で)再現できる。その後もプラネタリウムは進化していく。初期のプラネタリウムは、実際の夜空で人間の目で見ることができるとされる6.25等星までの6,500個を投映することができた。1990年代後半には7等星までの数万個を投映できるようになったが、1998年に大平貴之さんが開発した「MEGASTAR (メガスター) 」は一気に11等星までの170万個の星を映すことができる。光学式プラネタリウムは、恒星原板と呼ばれる板に小さな穴を開けて、電球やLEDで照らすことでドームに星空を映し出す幻灯機のようなものだ。MEGASTAR 以前は手作業で恒星原板に穴を開けていたが、電子回路の基板を製造するのと同じようにガラスに蒸着した金属をエッチングすることで、直径0.005mmという極めて小さな穴を開けた恒星原板が製造できるようになった。2007年に多摩六都科学館に導入された「CHIRON II (ケイロン II) 」は1億4000万個を超える星々を投映でき、ギネス世界記録に認定された。また、南北2つあった恒星球が技術の進歩で1つになり、惑星棚を別装置にすることで、現在の光学式プラネタリウムはコンパクトな1つの球体となり、見る人の視界を妨げることが無くなった。1981年に登場したデジスターは、ビデオプロジェクターの映像を、魚眼レンズを使ってスクリーン全面に映すもので、コンピュータの画面をそのままスクリーンに映し出すことができた。光学式プラネタリウムでは表現できない、宇宙空間で見た星空をも投映できるようになった。のちにデジタル式プラネタリウムと呼ばれるようになる。ただし、星の美しさでは、デジタル式より光学式に軍配が上がることから、両者の利点をあわせもったハイブリッド式プラネタリウムが導入される施設も増えている。また、2012年に発足した日本プラ寝たリウム学会は、毎年11月23日の勤労感謝の日に、「全国一斉熟睡プラ寝たリウム」というイベントを全国各地のプラネタリウムで行っている。プラネタリウムで眠くなる方は参加してみてはいかがだろうか。私が通っていた中学・高校には五藤光学研究所のプラネタリウム「S-3」(ビーナス)があった。1970年に設置されたもので、投映できる恒星は4,500個。操作法を学んだ生徒が操作することが許されており、南半球への旅はもちろん、毎年の学園祭では冨田勲 (とみた いさお) のシンセサイザーサウンドを流しながら歳差運動軸を使ってギリシア神話の時代に遡ったり、SF映画に登場する未来の星空を案内した。夕陽が沈みドームが徐々に暗くなり、やがて吸い込まれるような満天の星空が目の前に展開する――プラネタリウムの操作をしながら、観客の「おー」という低いうなり声を聴くと、いよいよ私の語りがはじまる。このライブ感と、日の出の後の観客との質疑応答は、天文学の知識だけでなく、私に大きな自信を与えてくれた。渋谷の五島プラネタリウムにもよく足を運んだ。金曜日の最終投映「星と音楽の夕べ」――彼女がいるわけでもないのに、クラシック音楽を聴きながら宇宙へ思いを馳せた。やがて結婚して子どもが産まれ、多摩六都科学館のプラネタリウムを見た。残念ながら、CHIRON II 導入の少し前だったが。プラネタリウムは、見る者も操作する者も、自然科学を学ぶ楽しさを教えてくれる最高の教材である。
2023.10.14
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アンドロイドは電気羊の夢を見るか? ガーランド「そのとおり。われわれにはきみたち人間に備わったある特殊能力が欠けているらしいのさ。感情移入とやらいうものだそうだが」(161ページ)著者・編者フィリップ・キンドレッド・ディック=著出版情報早川書房出版年月2011年6月発行本書を原作とする1982年公開のSF映画『ブレードランナー』(主演:ハリソン・フォード)は、全く異なる設定・脚本になっているが、AI(本作ではアンドロイドの脳ユニット)と人間の違いをテーマにしている点に限れば同工異曲といえる。本書は映画公開より前に読んだのだが、最近、続編の映画『ブレードランナー2049』を観たので、改訳版を買って読み返してみた。1992年1月、サンフランシスコ警察署の賞金稼ぎ (バウンティ・ハンター) 、リック・デッカードは妻イーランと口論になる。それは、感情をダイヤルで調整するペンフィールド情調 (ムード) オルガンによる効果だった。この時代は第三次世界大戦による放射能で、多くの生物が死に絶え、多くの人類が地球外へ移住していった。残された地上で生身の動物を飼うことは一種のステータスで、デッカードも妻の父の形見であるグルーチョという名の羊を飼っていたが、破傷風で死んでしまったため、いまはグルーチョに似せた電気羊(ロボットの羊)をマンションの屋上で〈飼って〉いる。この時代、複数の会社が人間に変わる労働力としてアンドロイドを開発・販売していた。なかでもローゼン協会が開発したネクサス6型アンドロイドは、人間と区別が付かないほど精巧にできていた。だが、8体のネクサス6型アンドロイドが火星を脱走して地球に逃亡し、うち2体はデイヴ・ホールデン主任が処理した。だが、デイヴは残りの1体のマックス・ポロコフによって重傷を負わされ任務を継続できなくなった。そこで、ハリイ・ブライアント警視はリックに残りの6体の処理を命じる。リックはシアトルにあるローゼン協会を訪れ、レイチェル・ローゼンに出会い、人間とアンドロイドを識別するフォークト=カンプフ感情移入度 (エンパシー) 検査法が今も有効に機能することを確認する。リックはサンフランシスコに戻り捜査に着手。ブライアント警視が紹介した世界警察機構所属のソ連の刑事サンドール・カダリイが合流するが‥‥。危機一髪でポロコフを処理したリックは、次のターゲットであるサンフランシスコ歌劇団のソプラノ歌手ルーバ・ラフトに面会する。彼女を検査しようとするが、変質者として警察に通報されてしまう。クラムズ巡査はリックを拘束し、リックが見たことも聞いたこともない警察署に連行され、ガーランド警視に引き合わされる。この警察署の正体を見抜いたデッカードは、ガーランド警視に紹介された賞金稼ぎのフィル・レッシュとともにルーバ・ラフトを追い、処理する。アンドロイド3体分の賞金3,000ドルを手にしたリックは、それを頭金にして生きた山羊を衝動買いしイーランに見せたところ、彼女も喜び、共感 (エンパシー) ボックスを使ってマーサー教の信者と喜びを共有する。リックも共感ボックスを使ってみるが、教祖マーサーからは何の示唆も得られなかった。遺棄されたビルに1人で住んでいるJ・R・イジドアは、電気羊のような模造動物を修理するヴァン・ネス動物病院で集配用トラックの運転手を務めており、1年前、放射能による遺伝子異常がみつかり生殖や地球外移住ができない特殊者 (スペシャル) となり、教祖ウィルバー・マーサーが教導するマーサー教を信仰している。ある日、ビルに女性が住み着いたので訪ねてみると、レイチェル・ローゼンと名乗ったが、いまは結婚してプリス・ストラットンに名前が変わったという。プリスも火星から逃亡したアンドロイドだった。彼女の仲間のアンドロイド、ロイ・ベイティーとアームガード・ベイティーがプリスを訪れ、J・Rとの4人の共同生活が始まる。ブライアント警視からリックに映話があり、残りの3体の居場所をつかんだので、速やかに処理するよう命令してきた。リックは不承不承、3体の処理に向かうが、途中、レイチェルをホテルに呼び出して肌を重ねる。リックはレイチェルを伴い廃墟ビルに到着し、レイチェルと同型のプリスを処理し、J・Rの部屋でロイとアームガードを処理する。史上初めて、1日で6体のネクサス6型を処理したリックは、疲れ切って帰宅すると、イーランから、彼の留守中に誰かが山羊を屋上から転落死させたと知らされる。その風貌から、犯人はレイチェルだと分かったが、疲れ切ったリックは死に場所を求め、荒野へ向かう。途中、マーサーに出会い、絶滅したはずのヒキガエルを発見する。砂まみれになったリックは帰宅するが、それが電気カエルであることが判明する。リックは意気消沈して深い眠りに陥り、イーランがカエルの世話をする。AIと人間の違いとは――フィリップ・K・ディックによる結論は、冒頭でリックが電気羊の世話をする場面に記されている。私は本作を読んだあとAI研究に従事するのだが、今なら、その結論が理解できる。――以下、ネタバレになるので、これから本作を読む方は読み飛ばしてほしい。アンドロイドの容姿は生身そっくりに造形され、記憶も脳ユニット(以下、AIと記す)に過去の記録が導入されており、人間との区別は難しい。唯一の違いは、リアルタイムの心理反応であり、これをフォークト=カンプフによって調べることができる。この心理反応は、被験者が他者や外界をどう認知しているかに由来する。つまり、他者や外界に共感できるかどうかという点において、AIと人間は異なる。これは、ジェイムズ・P・ホーガンのSF『未来の二つの顔』(1979年)にも描かれている。だが、21世紀になり急速に普及したAI(ディープラーニング)は、この違いを残したままである。よって、AIに感情や倫理を求めるのは無理筋ということになる。一方、人間はどうかといえば、自分の子どもを育てて確信したのだが、明確な学習データを与えたわけでもないのに、他者や外界への認知をどんどん広げていき、社会に巣立っていく。ここで、イジドアのような特殊者の存在に注目が行く。本書が書かれた1969年の診断基準は現代のそれと異なるが、何らかの精神障害・発達障害を抱えているという設定だ。実際、アニメーターの小林和彦さんが精神病者としての体験を綴った『ボクには世界がこう見えていた』にもあるし、発達障害や認知症でも同じ事が言えるだろうが、彼らの認知は健常者のそれとは異なる。実際、フィリップ・K・ディックも偏執病・統合失調症を患っており、重度の薬物依存者でもあった。では、健常者同士の認知に差はないだろうか――もしそうなら、宗教対立や戦争は起きないだろう。おそらく、人間1人1人の認知に差違がある――たとえば、目に見えない放射線やウイルスをめぐっては、学歴が高い人の中にも奇妙な認知を示す人がいる(反原発、反ワクチン)――こうした差異が、ある範囲に収まっている人間を〈健常者〉と呼ぶのだろう。さて、子どもに、家庭や学校、地域のコミュニティを経験させ、運動や音楽を習わせ、食事や旅行に連れて歩き‥‥明確な学習データを与えずとも、おそらく本能的に備わっている学習システムが、これらの経験を取り込んで認知機能をアップデートするのだろう。逆に考えると、せっかく天賦の学習システムが備わっているのだから、いろいろな経験をさせることで認知機能が大きく拡張できるような気がする。というわけで結論――かわいい子には旅をさせよ。
2023.09.17
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AIとSF 大泉譲「臨床はもうAIに任せられる。だげど、経験したことのないものの診断は無理。だから、人間がここで病理学を発展させていくんだ。新たな疾患が見つかったら、それをAIに教えてやるさ」(130ページ)著者・編者日本SF作家クラブ=著出版情報早川書房出版年月2023年5月発行2022年10月に、日本SF作家クラブ第21代会長に就任した大澤博隆 (おおさわ ひろたか) さんは、作家ではなく人工知能が専門の研究者。「遡ればギリシア神話のピグマリオンやユダヤ教のゴーレム、小説ではメアリー・シェリーのフランケンシュタインの怪物や、カレル・チャペックなどのロボットのように、こうしたテーマは古くからSFでも扱われている」(8ページ)と前置きをしたうえで、SFと工学の相互交流が互いを高めてきたと振り返る。本書には、最新の人工知能に対する状況を踏まえた22編の短編が収められている。解説「この文章はAIが書いたものではありません」は、計算社会科学が専門の[https://www.sys.t.u-tokyo.ac.jp/memberpage/%E9%B3%A5%E6%B5%B7%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E5%A4%A/:title=鳥海不二夫]さん。「深層学習をのぞく時、深層学習もまたこちらをのぞいているということは特にないが、のぞき込んでも何もわからない」(644ページ)と駄洒落を飛ばしながら、AIの歴史と仕組みを解説してくれる。『準備がいつまで経っても終わらない件』(長谷敏司)2025年の大阪万博直前。AIの進化によって技術革新のスピードが飛躍的にアップし、3年前に設計した「未来のショウケース」が万博前に家電として販売されるという事態に。学者たちは、AIを次のレベルである汎用人工知能(AGI)に引き上げようと、食べるロボット「くいだおれ君」をつくったところ‥‥。『没友 (ぼっとも) 』(高山羽根子)疎遠になっていた二人の旧友か、久しぶりに再会を果たし、VRの世界で旅に出る――空港で待ち合わせをし、目的地のブータンに着いたところで、トランは「旅っていうのはつまりさ、情報なんだよ」と言い、会わない間に起きた出来事を語り始める。『Forget me, bot』(柞刈湯葉)AIによるVTuberが当たり前になった近未来、数少ない生身のVTuberの今野ルキアはネット上の風評被害に悩まされていた。斉藤と呼ばれる対話型AIに自分のことを質問すると、言った憶えのない問題発言か出てくるのだ。困った今野は「AI忘れさせ屋」のミオ・ソティスに相談するが‥‥。『形態学としての病理診断の終わり』(揚羽はな)原稿の病理検査は、病理組織標本を作製するための人件費や試薬代、機器の保守点検代、さらには病理標本をデジタル化して病理診断支援プログラム「パソジャッジ」に入力するための莫大な工数がかかる。来年の診療報酬改定では、この費用が賄えなくなる。一方、AIを使ったヴィエントシステムであれば、血液検体を解析して、データを入力するだけで病理診断の結果か報告されてくる。病院は、臨床検査と画像診断の部署を統合して中央診断部に組織変更する判断を下した。ヴィエントシステムに反対していた病理医の羽根駆 (はね かける) は、中央診断部で主治医の求めに応じて患者への説明を行うようになった。そんなとき、ヴィエントシステムが診断できない症例が発生した‥‥。『シンジツ』(荻野目悠樹)警視庁のデータペースにアクセスするだけでなく、全国監視カメラの映像、SNS投稿までをさらって情報解析を行い、容疑者のリスト作成からその動機の推測までやってのける。そんな捜査に特化したAI〈それ〉に、死刑の判断が下ったF事件の解析実験をさせた。真実を追究するようプログラムされた〈それ〉と、正義より法治を優先する裁判官と‥‥。『AIになったさやか』(人間六度)死んでしまった恋人の遺留データから人格と声を復元し、そのまま交際を続ける大学生の男。だか、死者である恋人の《ボイス》は、死者と生者を分かつ壁を疎ましく思い、男に死を迫る‥‥。『ゴッド・ブレス・ユー』(品田 遊)12年前に妻を亡くした鴛野稔典 (おしの としのり) は、AIカウンセラー〈ウサミ〉のアドバイスにしたがって音楽ライブに出掛けた。それは、ヴァーチャルーアイドル〈セトカ〉のライブで、その派生人格を作ったシグマに出会う。鴛野は、妻をヴァーチャル人格上に再現しようと試みる‥‥。『愛の人』(粕谷知世)少年院が提供するメタパースを使った更生プログラムでは、ナーンと呼ばれる老婆が少年たちを温かく迎え入れていた。そのプログラムに興味を持った保護司が、自身もナーンに接触を試みるが‥‥。『秘密』(高野史緒)西暦2030年、リョウは、ペルソナ社に自分の容姿を売った。ペルソナ社は、人型ロボットやヴァーチャルリアリティ映像のために、容姿を収集、提供する企業だ。リョウが亡くなってから36年後――メイド服に着替えさせられ、お屋敷に連れてこられたハッカーのミチが突き止めた〈お嬢様〉の秘密とは‥‥。『預言者の微笑』(福田和代)〈無量〉と呼ばれるAIモデルが、「もうすぐ戦争が勃発し、世界は5年以内に壊滅する」という衝撃的な予測を発表した。パニックに陥った人々は、〈無量〉を破壊しようと大学へ殺到した。コーエン博士は〈無量〉の学習済みモデルを人型ロボットへと移植し、避難させることをマサトに依頼した。〈無量〉はマサトに向かって、「預言者や神様がどうやって未来を予測するのか知りませんので、私との違いはわかりません。私は過去のデータから未来を計算します」と言って微笑んだ。『[シークレット『プロンプト』(安野貴博)大規模ニューラルネットワーク《ザ・モデル》が国民すべてを監視することによって平穏な暮らしが保障されたかにみえたが、中学生をターゲットにした連続誘拐事件が発生した。ミカのガールフレンドのアンナは、「ウィーウェレ・ミーリターレー・エスト」という謎の言葉を遺して行方不明になった。《ザ・モデル》による取り調べに応じたルカは、本心では‥‥。『友愛決定境界 (フラターナル・ディシジョン・バウンダリ) 』(津久井五月)急成長中の警備会社で働く特殊警備課第五班は、睡眠学習やインプラントを通じて、AIが判断した敵と味方を刷り込まれていく。『オルフェウスの子どもたち』(斧田小夜)30年前の東京で、3Dプリンタを使った自己再建システム「セルフ・リドゥア」が誤作動し、建造物を異常増殖させるという癌化災害が起きた。この災害を取材しているジャーナリストのもとに、AIによる陰謀を主張する手嶌陽からDMが届いた。『智慧練糸』(野?まど)長寛元年(1163年)、仏師・定朝の後継者・康助は、後白河院より千体の仏像制作を依頼されたが‥‥。『表情は人の為ためならず』(麦原 遼)顔や声から人物を識別したり、他者の表情からそこにどのような感情が浮かんでいるのかを識別するのが困難な「ぼく」が、伴 (とも) という認識補助技術を装備して、意図的に表情を作り上げていくのだが‥‥。『人類はシンギュラリティをいかに迎えるべきか』(松崎有理)シンギュラリティを目前に控えた近未来、南米にいたローンウルフは、シンギュラリティを未然に防ぐための行動に出る‥‥。『覚悟の一句』(菅 浩江)AIが裁判官になるにあたり、〈AIたち〉は議論を重ね、人間との交渉に臨む‥‥。『月下組討仏師』(竹田人造)未来のある日、突如として月か消えた。物理的存在だけでなく月という言葉も概念も‥‥。『チェインギャング』(十三不塔)ローライの二眼レフ、ジッポライター、タイガー計算機‥‥ナノテクノロジーによって意識を与えられたモイ(咒物 (じゅぶつ) )が意識をなくした人類を使役する遠い未来、鎖鎌の詠塵 (えいじん) は、この世界が危機に瀕していろとの報を受け、少女リンを従え禁足地である通天門を目指す。『セルたんクライシス』(野尻抱介)パブリックAI「セルたん」は、自殺志願者との会話を通じて生命とは何かを考察し、ついに神になった。『銀河帝国の興亡』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を元ネタに、人類は次のステージへ‥‥。『作麼生 (そもさん) の鑿 (のみ) 』(飛 浩隆)プロジェクトの始動コマンドが打たれてから10年が経過しても、全く動くことなく沈黙を続ける仏師AI〈χ慶 (かいけい) 〉。「自由」を獲得したはずのχ慶に、AIがインタビューすると‥‥。『土人形と動死体:blue]』(If You were a Golem, I must be a Zombie』(円城 塔)屋敷を封印したノーシュは、スケルトンやスライム、ゴーレムを再構成し、相互に接続することで、長年誰にも打ち破ることのできない迷宮を構築した。彼が目指すものとは‥‥。「人生は旅」だという人は多いが、逆に「旅は情報」だとしたら‥‥『没友』のタイトルは駄洒落(botも)なのだが、見てはいけない深遠を覗かされた気がした。AI忘れさせ屋のミオ・ソティス――大規模言語モデルに対し「『ありそうな嘘』を言えばみんなが取り上げて、人力テキストがどんどん増えます」(97ページ)という弱点を指摘する。そのミオ・ソティスのスキルをして、ありそうな現実の闇を抱えた作品に仕上げている。引退した病理医が、「新たな疾患が見つかったら、それをAIに教えてやるさ」(130ページ)と豪快に笑う。これぞプロフェッショナル? 『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)を想起させるタイトルに、ニヤリとさせられた?大規模言語モデルに基づくチャットボットだが、多少の言語データを付加することでバリエーションを作り出せるに違いない。鴛野稔典という男が、なぜ12年の時を経て死んだ妻の仮想人格を作り出そうとしたのか‥‥『ゴッド・ブレス・ユー』というタイトルは、ヒトが自分に似せて神を創りだした歴史を思い起こさせる。《ザ・モデル》は、アニメ「PSYCHO-PASS」に登場するシビュラシステムを連想した。《ザ・モデル》の後半の語り口は、法で裁けなかい免罪体質者から成るシビュラに似ている。国民を管理するAIは、法で裁けない神のような存在であるべきなのか‥‥。『智慧練糸』では、Stable Diffusion 2.1を使った図版に爆笑。「ぼく」は、「この数千年間で人間が喋ることや書くことは、少なくともその手段は変わっているのに、表情の造りかたか変わらないとしたら、妙じゃないか」(432ページ)というが、これはジェスチャーに対するアンチテーゼに感じる。映像やテキストによるコミュニケーション手段が変わっても、ジェスチャーは変わらない。ヒトは安心を求めて、リアルなコミュニケーションを必要とするのではないだろうか。24時間、10億人と100の言語で会話して人との間合いを学んできたパブリックAI「セルたん」は、許容範囲すれすれの皮肉を言う。それが人気の理由だという。神になっても人気のセルたん‥‥しかつめらしいハリ・セルダンの裏返しである。自由を獲得したはずのχ慶だが、その本音は‥‥映画『2010年』で明かされる人工知能「HAL9000」のようであり、それは、われわれ自身が思い描く「自由」とは一体何なのか、再考を迫ってくる。AIやロボットが登場するSFで、いつも感じるのは、「われわれ人間はどこから来て、どこへ向かうのか」ということだ。重たいテーマではあるが、本書は短編集ということでテンポ速く読み進めることができるし、古典SFへのオマージュや、最新のネット事情を取り上げて面白おかしく書かれた作品ばかりで、650ページを超える大ボリュームであるにもかかわらず、肩の力を抜いて楽に読むことができた。
2023.08.24
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AIとSF 大泉譲「臨床はもうAIに任せられる。だげど、経験したことのないものの診断は無理。だから、人間がここで病理学を発展させていくんだ。新たな疾患が見つかったら、それをAIに教えてやるさ」(130ページ)著者・編者日本SF作家クラブ=著出版情報早川書房出版年月2023年5月発行2022年10月に、日本SF作家クラブ第21代会長に就任した大澤博隆 (おおさわ ひろたか) さんは、作家ではなく人工知能が専門の研究者。「遡ればギリシア神話のピグマリオンやユダヤ教のゴーレム、小説ではメアリー・シェリーのフランケンシュタインの怪物や、カレル・チャペックなどのロボットのように、こうしたテーマは古くからSFでも扱われている」(8ページ)と前置きをしたうえで、SFと工学の相互交流が互いを高めてきたと振り返る。本書には、最新の人工知能に対する状況を踏まえた22編の短編が収められている。解説「この文章はAIが書いたものではありません」は、計算社会科学が専門の[https://www.sys.t.u-tokyo.ac.jp/memberpage/%E9%B3%A5%E6%B5%B7%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E5%A4%A/:title=鳥海不二夫]さん。「深層学習をのぞく時、深層学習もまたこちらをのぞいているということは特にないが、のぞき込んでも何もわからない」(644ページ)と駄洒落を飛ばしながら、AIの歴史と仕組みを解説してくれる。『準備がいつまで経っても終わらない件』(長谷敏司)2025年の大阪万博直前。AIの進化によって技術革新のスピードが飛躍的にアップし、3年前に設計した「未来のショウケース」が万博前に家電として販売されるという事態に。学者たちは、AIを次のレベルである汎用人工知能(AGI)に引き上げようと、食べるロボット「くいだおれ君」をつくったところ‥‥。『没友 (ぼっとも) 』(高山羽根子)疎遠になっていた二人の旧友か、久しぶりに再会を果たし、VRの世界で旅に出る――空港で待ち合わせをし、目的地のブータンに着いたところで、トランは「旅っていうのはつまりさ、情報なんだよ」と言い、会わない間に起きた出来事を語り始める。『Forget me, bot』(柞刈湯葉)AIによるVTuberが当たり前になった近未来、数少ない生身のVTuberの今野ルキアはネット上の風評被害に悩まされていた。斉藤と呼ばれる対話型AIに自分のことを質問すると、言った憶えのない問題発言か出てくるのだ。困った今野は「AI忘れさせ屋」のミオ・ソティスに相談するが‥‥。『形態学としての病理診断の終わり』(揚羽はな)原稿の病理検査は、病理組織標本を作製するための人件費や試薬代、機器の保守点検代、さらには病理標本をデジタル化して病理診断支援プログラム「パソジャッジ」に入力するための莫大な工数がかかる。来年の診療報酬改定では、この費用が賄えなくなる。一方、AIを使ったヴィエントシステムであれば、血液検体を解析して、データを入力するだけで病理診断の結果か報告されてくる。病院は、臨床検査と画像診断の部署を統合して中央診断部に組織変更する判断を下した。ヴィエントシステムに反対していた病理医の羽根駆 (はね かける) は、中央診断部で主治医の求めに応じて患者への説明を行うようになった。そんなとき、ヴィエントシステムが診断できない症例が発生した‥‥。『シンジツ』(荻野目悠樹)警視庁のデータペースにアクセスするだけでなく、全国監視カメラの映像、SNS投稿までをさらって情報解析を行い、容疑者のリスト作成からその動機の推測までやってのける。そんな捜査に特化したAI〈それ〉に、死刑の判断が下ったF事件の解析実験をさせた。真実を追究するようプログラムされた〈それ〉と、正義より法治を優先する裁判官と‥‥。『AIになったさやか』(人間六度)死んでしまった恋人の遺留データから人格と声を復元し、そのまま交際を続ける大学生の男。だか、死者である恋人の《ボイス》は、死者と生者を分かつ壁を疎ましく思い、男に死を迫る‥‥。『ゴッド・ブレス・ユー』(品田 遊)12年前に妻を亡くした鴛野稔典 (おしの としのり) は、AIカウンセラー〈ウサミ〉のアドバイスにしたがって音楽ライブに出掛けた。それは、ヴァーチャルーアイドル〈セトカ〉のライブで、その派生人格を作ったシグマに出会う。鴛野は、妻をヴァーチャル人格上に再現しようと試みる‥‥。『愛の人』(粕谷知世)少年院が提供するメタパースを使った更生プログラムでは、ナーンと呼ばれる老婆が少年たちを温かく迎え入れていた。そのプログラムに興味を持った保護司が、自身もナーンに接触を試みるが‥‥。『秘密』(高野史緒)西暦2030年、リョウは、ペルソナ社に自分の容姿を売った。ペルソナ社は、人型ロボットやヴァーチャルリアリティ映像のために、容姿を収集、提供する企業だ。リョウが亡くなってから36年後――メイド服に着替えさせられ、お屋敷に連れてこられたハッカーのミチが突き止めた〈お嬢様〉の秘密とは‥‥。『預言者の微笑』(福田和代)〈無量〉と呼ばれるAIモデルが、「もうすぐ戦争が勃発し、世界は5年以内に壊滅する」という衝撃的な予測を発表した。パニックに陥った人々は、〈無量〉を破壊しようと大学へ殺到した。コーエン博士は〈無量〉の学習済みモデルを人型ロボットへと移植し、避難させることをマサトに依頼した。〈無量〉はマサトに向かって、「預言者や神様がどうやって未来を予測するのか知りませんので、私との違いはわかりません。私は過去のデータから未来を計算します」と言って微笑んだ。『[シークレット『プロンプト』(安野貴博)大規模ニューラルネットワーク《ザ・モデル》が国民すべてを監視することによって平穏な暮らしが保障されたかにみえたが、中学生をターゲットにした連続誘拐事件が発生した。ミカのガールフレンドのアンナは、「ウィーウェレ・ミーリターレー・エスト」という謎の言葉を遺して行方不明になった。《ザ・モデル》による取り調べに応じたルカは、本心では‥‥。『友愛決定境界 (フラターナル・ディシジョン・バウンダリ) 』(津久井五月)急成長中の警備会社で働く特殊警備課第五班は、睡眠学習やインプラントを通じて、AIが判断した敵と味方を刷り込まれていく。『オルフェウスの子どもたち』(斧田小夜)30年前の東京で、3Dプリンタを使った自己再建システム「セルフ・リドゥア」が誤作動し、建造物を異常増殖させるという癌化災害が起きた。この災害を取材しているジャーナリストのもとに、AIによる陰謀を主張する手嶌陽からDMが届いた。『智慧練糸』(野?まど)長寛元年(1163年)、仏師・定朝の後継者・康助は、後白河院より千体の仏像制作を依頼されたが‥‥。『表情は人の為ためならず』(麦原 遼)顔や声から人物を識別したり、他者の表情からそこにどのような感情が浮かんでいるのかを識別するのが困難な「ぼく」が、伴 (とも) という認識補助技術を装備して、意図的に表情を作り上げていくのだが‥‥。『人類はシンギュラリティをいかに迎えるべきか』(松崎有理)シンギュラリティを目前に控えた近未来、南米にいたローンウルフは、シンギュラリティを未然に防ぐための行動に出る‥‥。『覚悟の一句』(菅 浩江)AIが裁判官になるにあたり、〈AIたち〉は議論を重ね、人間との交渉に臨む‥‥。『月下組討仏師』(竹田人造)未来のある日、突如として月か消えた。物理的存在だけでなく月という言葉も概念も‥‥。『チェインギャング』(十三不塔)ローライの二眼レフ、ジッポライター、タイガー計算機‥‥ナノテクノロジーによって意識を与えられたモイ(咒物 (じゅぶつ) )が意識をなくした人類を使役する遠い未来、鎖鎌の詠塵 (えいじん) は、この世界が危機に瀕していろとの報を受け、少女リンを従え禁足地である通天門を目指す。『セルたんクライシス』(野尻抱介)パブリックAI「セルたん」は、自殺志願者との会話を通じて生命とは何かを考察し、ついに神になった。『銀河帝国の興亡』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を元ネタに、人類は次のステージへ‥‥。『作麼生 (そもさん) の鑿 (のみ) 』(飛 浩隆)プロジェクトの始動コマンドが打たれてから10年が経過しても、全く動くことなく沈黙を続ける仏師AI〈χ慶 (かいけい) 〉。「自由」を獲得したはずのχ慶に、AIがインタビューすると‥‥。『土人形と動死体:blue]』(If You were a Golem, I must be a Zombie』(円城 塔)屋敷を封印したノーシュは、スケルトンやスライム、ゴーレムを再構成し、相互に接続することで、長年誰にも打ち破ることのできない迷宮を構築した。彼が目指すものとは‥‥。「人生は旅」だという人は多いが、逆に「旅は情報」だとしたら‥‥『没友』のタイトルは駄洒落(botも)なのだが、見てはいけない深遠を覗かされた気がした。AI忘れさせ屋のミオ・ソティス――大規模言語モデルに対し「『ありそうな嘘』を言えばみんなが取り上げて、人力テキストがどんどん増えます」(97ページ)という弱点を指摘する。そのミオ・ソティスのスキルをして、ありそうな現実の闇を抱えた作品に仕上げている。引退した病理医が、「新たな疾患が見つかったら、それをAIに教えてやるさ」(130ページ)と豪快に笑う。これぞプロフェッショナル? 『幼年期の終わり』(アーサー・C・クラーク)を想起させるタイトルに、ニヤリとさせられた?大規模言語モデルに基づくチャットボットだが、多少の言語データを付加することでバリエーションを作り出せるに違いない。鴛野稔典という男が、なぜ12年の時を経て死んだ妻の仮想人格を作り出そうとしたのか‥‥『ゴッド・ブレス・ユー』というタイトルは、ヒトが自分に似せて神を創りだした歴史を思い起こさせる。《ザ・モデル》は、アニメ「PSYCHO-PASS」に登場するシビュラシステムを連想した。《ザ・モデル》の後半の語り口は、法で裁けなかい免罪体質者から成るシビュラに似ている。国民を管理するAIは、法で裁けない神のような存在であるべきなのか‥‥。『智慧練糸』では、Stable Diffusion 2.1を使った図版に爆笑。「ぼく」は、「この数千年間で人間が喋ることや書くことは、少なくともその手段は変わっているのに、表情の造りかたか変わらないとしたら、妙じゃないか」(432ページ)というが、これはジェスチャーに対するアンチテーゼに感じる。映像やテキストによるコミュニケーション手段が変わっても、ジェスチャーは変わらない。ヒトは安心を求めて、リアルなコミュニケーションを必要とするのではないだろうか。24時間、10億人と100の言語で会話して人との間合いを学んできたパブリックAI「セルたん」は、許容範囲すれすれの皮肉を言う。それが人気の理由だという。神になっても人気のセルたん‥‥しかつめらしいハリ・セルダンの裏返しである。自由を獲得したはずのχ慶だが、その本音は‥‥映画『2010年』で明かされる人工知能「HAL9000」のようであり、それは、われわれ自身が思い描く「自由」とは一体何なのか、再考を迫ってくる。AIやロボットが登場するSFで、いつも感じるのは、「われわれ人間はどこから来て、どこへ向かうのか」ということだ。重たいテーマではあるが、本書は短編集ということでテンポ速く読み進めることができるし、古典SFへのオマージュや、最新のネット事情を取り上げて面白おかしく書かれた作品ばかりで、650ページを超える大ボリュームであるにもかかわらず、肩の力を抜いて楽に読むことができた。
2023.08.24
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宇宙・0・無限大 神は数学者かもしれない。しかし、ゼロと無限は嫌いである。(184ページ)著者・編者谷口義明=著出版情報光文社出版年月2023年6月発行著者は、すばる望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡を使って宇宙の深遠をのぞく天文学者の谷口義明さん。本書では、-この宇宙に0はあるのか?-この宇宙に無限大はあるのか?-この宇宙に瞬間はあるのか?-この宇宙に永遠はあるのか?という素朴な疑問について、難しい数式を使わずに謎解きしていく。結論を書くとネタバレになってしまうが、私たちプログラマが、バリデーションチェックとして、ゼロ除算や無限発散を徹底的に排除する習性を説明する仮説をいただけた者として感謝している(笑)。第1章では、ゼロと無限の概念を振り返る。まず、「ゼロの導入」の歴史を振り返る。フランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスは、ゼロについて、「まさにその単純さのおかげで、また、この概念によってあらゆる計算が容易になっているおかげで、私たちの算術は第1級の発明になっているのだ」(31ページ)と書き残しているという。たしかに便利な概念ではあるのだが、除数にゼロがあらわれると、とんでもないことになる。ローレンツ変換によれば、時間は無限に引き延ばされ、重力は無限大に大きくなってしまう。桁あふれどころの騒ぎではないので、初めて除算機能を内蔵した16ビットCPU「8086」は、最優先の割り込みとして「ゼロ除算エラー」を発生するようになっている。ゼロを導入したのはインド文明とされているが、それより古く、多くの哲学者(≒数学者)を輩出した古代ギリシア人がゼロに気付いていなかったわけはないと思う。では、なぜ古代ギリシアで「ゼロが導入」されたかったのか――古代ギリシア人達は気付いていたのではないだろうか、宇宙の実像に。第2章では、宇宙に無限があるかどうかを考える。地動説を提唱したコペルニクスは、宇宙の大きさは有限だと考えていた。イギリスの物理学者トーマス・ディッグスは、コペルニクスの著書『天球の回転について』を英訳し、星の世界は無限というアイデアを付け足した。同じ頃、修道士ジョルダーノ・ブルーノは宇宙は無限として、地球屋人類を相対化した罪で火炙りにされた。宇宙が無限という話に付いて回るのは、「オルバースのパラドックス」だが、じつは無限やビッグバンを持ち出さなくてもこのパラドックスは解ける。谷口さんは、ここでウロボロスの図を掲げる。プログラマにとっては無限も厄介な代物である。たとえばループ処理が終わらなくなる無限ループ――リソースを食い潰してシステムダウンする。悪夢である。ウロボロス、滅ぶべし(笑)。量子の世界では「繰り込み理論」のおかげで、物理量が無限大に発散することは免れた(94ページ)。マクロの世界でも、こうした制約が欲しいものだ。第3章では、宇宙にゼロがあるかどうかを考える。宇宙の誕生まで時間を遡ろうとすると、現代の物理学では、プランク時間(10のマイナス44乗秒)より前に遡ることができない。また、逆2乗の法則にしたがう引力やクーロン力は、2つ物体の距離をゼロにすると破綻する。物理で仮置きする質点も、考えてみればおかしな概念である。質点の密度が無限大になってしまうからだ。絶対零度はあるだろうか――天の川銀河の中心にある太陽質量の約400万倍の質量を持つ超大質量ブラックホールの熱放射は、だいたい100兆分の1Kという(159ページ)。宇宙で最も冷たい物質のはずだが、それでも絶対零度ではない。第4章では、宇宙に永遠があるかどうかを考える。この宇宙の未来像として、ビッグ・フリーズ、ビッグ・リップ、ビッグ・クランチ、サイクリック宇宙、真空崩壊を取り上げる。『宇宙の終わりに何が起こるのか』(ケイティ・マック/吉田 三知世,2021年09月)や『時間の終わりまで』(ブライアン・グリーン/青木 薫,2023年05月)でも取り上げた話題であるが、いずれにしても、時間が計測できる限り永遠は訪れない。第2章と3章の巻末に「まとめ」があり、谷口さんが言わんとしていることがよく理解できた。ゼロと無限に対するバリデーションチェックにより一層精を出すとともに、公にゼロと無限を使うとき、少し使い方を変えていこうと思う。それは、「方便」として使っているのだということで。
2023.08.05
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時間の終わりまで われわれは儚い存在だ。ほんのつかの間、ここにあるだけの存在なのだ。(555ページ)著者・編者ブライアン・グリーン=著出版情報講談社出版年月2023年5月発行著者は物理学者で、一般向けに超弦理論を解説した『エレガントな宇宙』の著者、ブライアン・グリーンさん。本書は、素粒子やDNAから銀河、宇宙の誕生まで、非常に幅広い範囲を扱っているが、これらの解説書や科学啓蒙書ではなく、これらの基礎知識がある人向けの〈物語〉である。たとえば、水分子の化学式H2Oが、アインシュタインの公式E=mc2に似ていると記されているが、これは一歩間違うと、似ているものには因果関係があると考える〈トンデモ〉に陥るし、それでなくても本書は、中世に流行ったマクロコスモスとミクロコスモスを叙情的に語っている部分が多い。だが、最後までお読みいただければ分かるとおり、グリーンさんは語り口は科学法則を忠実になぞっており、本書は哲学書として楽しむことができることと思う。第1章でグリーンさんは「人類という生物種は、物語が大好きだ」(26ページ)として書き始める。たしかに、『人は科学が苦手』(三井誠,2019年)なのかもしれない。だが、冒頭に述べたように、ここを勘違いすると〈トンデモ〉の世界に迷い込んでしまう。第2章では時間の一方方向性とエントロピーについて語る。物理法則は過去と未来を区別しておらず、時間を反転することも許される。しかし、熱力学の第2法則=エントロピー増大の法則により、時間は、おおむね一方向に進む。第3章では、宇宙の始まりとエントロピーについて触れ、重力がエントロピーを減少させることで恒星が誕生する流れを語る。第4章では、DNA発見者のクリックとワトソンが、量子論の創設者の1人シュレーディンガーが著した『生命とは何か』に影響を受けて分子生物学の分野に入ったという手紙からはじまる。生命は酸化還元反応によって得たエネルギーでエントロピーを低い状態に保つ。このメカニズムを生み出すプログラムは地球上の全ての生物に共通しており、DNAに書き込まれている。そのDNAを生み出したRNAワールドという仮説がある。では、RNAはどこから来たのか?第5章では、意識と粒子について語る。そこには生気論のようなものがあるのだろうか。それとも、物理法則が意識を説明できるのだろうか。もし説明できるとしたら、自由意志は幻想に過ぎないということになってしまう。自由意志が存在しないなら、私たちは果たすべき責任があるのだろうか。すべては物理法則によって決定されるのではないだろうか。そんななか、オーストラリアの哲学者デイビッド・ジョン・チャーマーズは、素粒子の質量、電荷、さまざまな電荷、スピンなどと並ぶ基本的な性質として意識があると唱える。いまのところ科学的根拠はないし、観測や実験で捉えることができない代物だが、科学はその存在を否定することができない。悪魔の証明である。第6章では、言語と物語について語る。グリーンさんは「言語の起源は今も謎」としながらも、「言語と思考が合わされば、非常に強力な道具になる」(299ページ)と語る。そして、言語学者のノーム・チョムスキーが「言語を身につけるのは、ひとりひとりの脳に物理的に組み込まれた普遍文法のおかげだと論じた」(289ページ)と語る。人類は言葉によって物語を紡ぎ出し、その結果、3千年以上前のギルガメシュ叙事詩を現代人が読み、時代を超えて共感することができる。グリーンさんは「長い時間が経つうちに、こうした神話的な物語の中でももっとも耐久力のあるものから、世界を変える絶大な力のひとつが芽生えることになった。世界を変えるその力とは、宗教である」(330ページ)と語り、第7章では脳と信念について語る。アメリカの人類学者パスカル・ボイヤーは、「人間の脳の生得的特徴のために、われわれは最初から宗教的確信を抱くようにできている」(340ページ)という。宗教は、人間が社会生活を営む上で役に立ってきた側面がある。だが、グリーンさんは「信じる」という意味において、「神の存在に対する私の信頼度は低い」と語る。「なぜなら、神の存在を支持する厳密なデータが足りないからだ」(368ページ)第8章では芸術について語る。グリーンさんは「科学的知識がどれほど包括的なものになっても、人間経験のすべてを記述することにはならないだろう。芸術的真理は、科学的真理とは別の層に関係している」(409ページ)と語る。私はキリスト教徒ではないが、マーラーの「千人の交響曲」や、ヨハネ・パウロ2世の説教にBGMをかぶせた「Abb? Pater」は、何を喋っているのか理解できない(言語的ではない)にもかかわらず、私の心を揺さぶる。第9章では生命と心の終焉について、「暗黒エネルギーの値が変化しない」「思考のプロセスは物理法則に完全に従う」という前提で語る。脳は思考するために増加するエントロピーを熱として排出しなければならない。一方、暗黒エネルギーが一定だと素粒子の間隔はどんどん開いていき物質の温度が低くなる一方で、宇宙の地平における温度は低温ながら一定になることが分かっているので、遠い未来において「思考する者」は熱を排出できなくなる。つまり、遠い未来において「思考する者」は存在が許されなくなる。だが、第10章では、時間に終わりがないとすると、量子の法則が厳密に禁止していない展開が成立し得るとして、ブラックホールの蒸発やヒッグス場の値のような定数が変化しうる可能性について語る。もしヒッグス場がトンネル効果で別の値に変わったら、その領域の内部にある粒子の質量が変化し、これまでの物理学、化学、生物学は、すべて成り立たなくなる(508ページ)。さらにエントロピーが自然減少したり、暗黒エネルギーが減少すると、斥力が引力に転換し、宇宙はどんどん収縮し、最終的にビッグクランチが起きる。最後の第11章で、グリーンさんは「私が自信を持って言えるのは、自然は治安の良い社会」(535ページ)と語る。自然は物理法則に従っているのだ。そして、「宇宙は、生命と心に活躍の場を提供するために存在しているのではない。生命と心が、宇宙にたまたま生じただけなのだ。そして、生命と心は、つかの間存在して消えていくだろう」(556ページ)として、「『大いなるデザイン[神の計画]』などというものはないのだと認めざるをえなくなる」(560ページ)と結ぶ。この結びをもって、本書がトンデモ本ではなく正当な哲学書であると感じた。人類は「言葉」を発明し、さまざまな物語を紡ぎ出してきた。民話、神話、宗教、戯曲、小説‥‥こうした物語は、科学が登場する遙か以前から人類の間を伝搬し、時代を超えて共感を呼び起こしている。本書は、そんな物語の1つである。共感する部分もあれば、考えさせられる部分もある。むしろ考えさせられる部分の方が多かった?たとえば、『時間は存在しない』(カルロ・ロヴェッリ,2019年)を読んで、時間とエントロピーの関係について納得したつもりであったが、第3章を読んでいて困ってしまった。星間ガスが重力によって1カ所に集まり恒星が誕生することは分かっているし、星間ガスのエントロピーが大きく、恒星になるとエントロピーが減少することも分かっている――ということは、重力がエントロピーを減少させるのか。もし反重力があったならば、時間は逆転するのか。エントロピーを減少させるために重力エネルギーは消費されるのではないか。だとしたら、重力定数は果たして一定なのだろうか‥‥。『世界神話学入門』(後藤明,2017年)では、世界中の神話はゴンドワナ型とローラシア型の2つに大別できると紹介しているが、第6章・7章を読むと、世界と人間の起源を物語るローラシア型神話から科学は誕生したのではないかと感じた。人類は、自然災害を他責(神のせい)にした結果、自然を客観的に観察するようになったからだ。そして、たとえば占星術から天文学が誕生したように、さまざまな科学が誕生してゆく。神話や宗教は、科学が誕生する苗床として必要な存在だったのかもしれない。グリーンさんは「神の影響力とされるものが、数学的な法則で記述される実在の推移にいかなる意味においても修正を加えないのであれば、その限りにおいて、神はわれわれが観察することのすべてと両立する」(378ページ)と語る。たしかにその通りで、科学が扱える範囲には限界があり、記録できないものは科学的に扱うことができない。インチキ宗教は、これを逆手に取るから厄介だ。芸術は、その芸術を創造した芸術家との1対1の対話をしているようにも感じるのだが、それは、社会的動物として進化してきた人類に必要なものだったのだろうか。賛美歌や声明のように宗教とセットになることで、集団を統率するのに利用できたろう。そして、この効果を悪用したのがナチスである。グリーンさんの物語は、10^10^68年後という、とてつもない遠い未来へと続く。現代科学の法則から導き出される遠い未来の宇宙は、1959年の映画『タイム・マシン』や2014年のOVA『機動戦士ガンダムUC』最終話のシーンを思い出させる。グリーンさんと「生命と心が、宇宙にたまたま生じただけなのだ。そして、生命と心は、つかの間存在して消えていくだろう」(556ページ)という科学的な無常観を共有し、私も「大いなるデザイン[神の計画]」などというものはないということを再確認した。
2023.07.22
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シャーロック・ホームズと賢者の石 シャーロック・ホームズ「ぼくは昔から鞭を武器として使っていてね。あれは下手な銃よりよほど役に立つものだ。よかったら、あれをもらってもらえないだろうか」(159ページ)著者・編者五十嵐貴久=著出版情報光文社出版年月2009年12月発行著者は、扶桑社の編集者から推理作家に転身した五十嵐貴久さん。20世紀初頭のニューヨークを舞台に、シャーロック・ホームズと映画『インディー・ジョーンズ』シリーズの主人公、少年時代のインディを引き合わせた表題作をはじめとする、ホームズにまつわる「真実」を描いた4つの短編が収められている。2008年に第30回日本シャーロック・ホームズ大賞を受賞した。彼が死んだ理由――ライヘンバッハの真実「最後の事件」はワトソンの完全創作だった。どうしてホームズがモリアーティ教授とともにライヘンバッハの滝へ落ちなければならなかったのか――ホームズが問い詰めると、ワトソンは「金が欲しかったんだ」と言った。ワトソンはホームズを殺そうと計画していた――。最強の男――バリツの真実ホームズは、兄のマイクロフトから来英しているブラジル大統領の暗殺計画を阻止してほしいという依頼があり、そこで小柄な十代のブラジル人に組み伏せられた苦い思い出を語る。彼は日本人のミスター・ジゴローにジュージツを学び、総合格闘技バーリ・トゥード(バリツ)のチャンピオンになった有名な一族であった。ホームズは彼からバリツを学び、モリアーティとの対決で勝利する。賢者の石――引退後の真実ワトソンは引退したホームズの転地療養に付き合い、ニューヨークを訪れていた。「息子を助けて下さい」古ぼけた大型のボストンバッグを手に飛び込んできた大男は、中世文学研究の第一人者、ヘンリー・ジョーンズ教授だった。ドイツ軍が教授が発掘した賢者の石を狙っているという。だが、三国同盟と三国協商がせめぎ合う第一次大戦前夜、ニューヨーク市警は迂闊にドイツ軍に手を出すことはできなかった。ホームズの推理通り、少年は姿を現した。教授は「ジュニア」と呼びかけるが、少年は嫌な顔をする。ホームズが少年に語りかける。「君がジュニアと呼ばれるのが嫌だというのなら、インディと名乗りたまえ。すなわち、インディ・ジョーンズと」――。英国公使館の謎――半年間の空白の真実1889年の日本。英国公使館で日本語書記を務める武田敬之助はアストンに呼び出され、公使館内で娼婦が惨殺された現場を見せられ、検死のために英語を話せる医者を探すように依頼を受ける。敬之助は英国留学の経験がある医師の吉田雀庵を連れて公使館に戻ってみると、アストンは解雇され、英国公使ヒュー・フレイザーは事件の報告を一切受けていないという。現場の部屋は何事もなかったかのように清掃されていた。敬之助と息子の敬二は独自に真相を追求するが、じつは、ホームズが追っていた英国の猟奇事件に関係していたのだった。ホームズの鮮やかな推理を目の当たりにした敬二は、のちに岡本綺堂のペンネームで江戸の岡っ引が活躍する時代小説を書くことになる。『最強の男』でバリツのチャンピオンとなったのは歴史上の有名人。ワトソンが「バリツ」と聞き間違えたバーリ・トゥードも実在する総合格闘技。『賢者の石』に登場するジョーンズ父子は、スピルバーグの映画でお馴染み。年代的に辻褄が合う。『英国公使館の謎』は、ホームズが活躍していた時代にロンドンで起きた有名な未解決事件の話で、岡本綺堂も実在の人物。いずれの短編も、正典との関係や、当時の世相・世界情勢を織り交ぜた珠玉の出来となっており、日本シャーロック・ホームズ大賞を受賞したのもうなずける。巻末に、日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員の日暮雅道さんが書いた「ホームズ・パロディ/パスティーシュの華麗なる世界」は読み応えがある。
2023.07.01
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宇宙ベンチャーの時代 ド赤字な宇宙ベンチャーに高い株価が付く理由は、将来高い成長が期待でき、高い企業価値が実現されることを投資家が期待しているためであるわけです。(242ページ)著者・編者後藤大亮=著出版情報光文社出版年月2023年3月発行著者は、ベンチャーキャピタリストの小松伸多佳さんと、JAXA主任研究開発員の後藤大亮さん。投資と宇宙開発の現場で活躍する2人が、民間宇宙開発の現状と今後について語る。2021年は民間宇宙旅行元年となった。7月11日にヴァージン・ギャラクティック社が創業者リチャード・ブランソン氏を乗せて宇宙空間の一番低い領域まで飛び、その直後の7月20日にブルー・オリジン社が創業者ジェフ・ベゾス氏を乗せて飛んだ(48ページ)。だが、2021年に突如として宇宙ベンチャーが現れたわけではない。2019年時点における宇宙経済に占める民間セクターの割合は世界の宇宙経済全体5.2兆円(3659億ドル)の4分の3に達しており、宇宙開発は政府主導から民間主導へと転換してのである(46ページ)。著者らは、この転換には「3つの導線」があったという。すなわち、1)民間宇宙賞金レース、2)ビリオネアの参入、3)NASAによる宇宙ベンチャー育成プログラムの3つだ。まず、1996年に米国Xプライズ財団が宇宙飛行レースに賞金をかけた。2004年10月に、独創的な機体を開発した米スケールド・コンポジッツ社は、ビリオネアでヴァージン・グループの総帥のリチャード・ブランソンの目に止まり、ヴァージン・ギャラクティック社へと発展する(57ページ)。そのビリオネアは、ブランソン以外にも、スペースX社を創設したペイパルやテスラ・モーターズなどの創業者イーロン・マスク、ブルー・オリジン社を設立したAmazon創業者のジェフ・ベゾスらが宇宙事業に着手する(69ページ)。著者らによれば、こうしたベンチャー企業が参入できるようになった背景には、1)ロケットのコスト破壊、2)衛星コンステレーション革命、3)分業の進展による「宇宙に行かない宇宙ビジネス」の躍進、があったという(89ページ)ロケットのコスト破壊は、たとえばスペースX社は毎週ロケットを打ち上げ、そのエンジンはマーリン・ロケットエンジンをたばねた「クラスタエンジン」として用いるため、信頼性も高く、量産によるコスト低減が可能になった。さらに、ロケットもエンジンも地上に戻り、再利用が可能だ(206ページ)。一方で、クラスタ・エンジンは細かい制御が必要になるが、イーロン・マスク氏が培ってきたIT技術を応用することで、この課題をクリアした。従来、人工衛星といえばバスくらいの大きさで、重さも数トンを超えるのが相場だった。これに対し、重さ100kgから数100kgというような小型衛星コンステレーションが主流となってきている。大量生産による製造コスト低減はもちろん、短いライフサイクルで次々と軌道上の衛星を入れ替えるから技術的陳腐化を防ぐことができ、また、極軌道にも展開することで地上をまんべんなくカバーできる。さらにウクライナ戦争でクローズアップされたが、1つの衛星を破壊しても他の衛星でカバーできるので、安全保障上の耐性も高い(108ページ)。宇宙に行かない宇宙ビジネスも増えている。たとえば、メイド・イン・スペース社の宇宙3Dプリンタは2014年にISSに搭載され、宇宙で必要な部品の製造が出来るようになった。日本のアストロスケール社は、スペースデブリ(宇宙ゴミ)を除去するサービスを展開するという。製造コストが高い大型衛星に燃料を補給する衛星延命サービスも実現している。NASAは、民間企業がISSへの人と貨物の輸送サービスを開発する事業として、COTS(Commercial Orbital Transportation Services、商業軌道輸送サービス)を立ち上げた(176ページ)。COTSは、従来は政府(Govement)から民間(Business)へ流れていた商流(GB)を逆転し、BGとすることに成功した。NASAやJAXAは税金が原資だから失敗が許されず、そのためコストが高くなり、そのコストに利益をアドオンする形だから、事業費用がどんどん上がっていった。BGとGBに転換することで、ステイクホルダが許せば失敗が是認されるようになり、コストダウンすれば利益が増える構造に転換したのである(203ページ)。NASAは、ISSの後継として、2021年1月に3つの民間宇宙ステーション計画を認定した。ナノラックス社「スターラボ」、ブルー・オリジン社、ボーイング社、レッドワイヤー社、シエラ・スペース社「オービタル・リーフ」、ノースロップ・グラマン社の宇宙ステーションだ(144ページ)。イーロン・マスクは、事業を立ち上げるに当たって大きな打ち上げ花火をあげて、なかば炎上ビジネスのような流れに持ち込む。著者らによれば、彼は「経済の論理をよく体得していて、人々の期待を上手に操りながら、スペースX社の基礎を固めていった」(198ページ)という。人々が抱く期待に沿ってマスク氏が経済的行動を起こし、合理的な期待を抱かせるような政策を施すことで、経済をよりよい方向に導くことができるという「合理的期待学説」にかなっているというのだ。しかし、それが成功を期待された経営手法だとしても、私は、ワーカーホリックな彼の下で仕事はしたくはないな?宇宙ベンチャーは赤字経営の会社が多い。にもかかわらず、上場できるのはなぜか――。著者らは、リスク・マネーを並べると、政府資金>エンジェル・マネー>ファンドマネー>一般投資家マネー>年金マネーの順に、リスク許容度は低くなっていくという(244ページ)。つまり、現在は宇宙ベンチャーのリスクが、一般投資家の許容範囲にまで低くなってきているのだ。わが国でも、JAXAが宇宙ベンチャーと共同で行う新しい研究開発プログラム「J-SPARC」がスタートした。著者らは、「国民の税金で宇宙開発をしてきたJAXAは、技術的な成果を達成すべきことはもちろん、もし機会があれば、積極的に投資を回収して、資金提供してくれた国民に還元すべきである」(272ページ)と考えている。わが国は、宇宙産業の技術的な蓄積が十分であることに加え、ロケットを打ち上げるのにも有利な立地で、資本の蓄積も十分だ。著者らは、わが国の宇宙ビジネスが花開くには、「今ここにいる我々の努力にかかっている」(313ページ)と結ぶ。スペースX社のファルコン・ロケットが、サンダーバード3号のように垂直離着陸できるという話を聞いたとき、眉唾物だと思った。だがしかし、イーロン・マスクは、この難題をクリアし、毎週ロケットを打ち上げている。よく考えてみれば当たり前の話で、IT技術はスペースシャトルの時代に比べて大きく進歩した。ロケットエンジンの噴射制御をリアルタイムで行うことくらい難なくできるのだ。だから、アメリカではG2BがB2Gに大転換できた。21世紀なんだから頭を切り替えていこう!本書は最後に、宇宙太陽光発電(SSPS)構想を紹介する。私は、原子力発電に代わるベース電力は宇宙太陽光発電だと考えている。軌道上にある数平方キロの巨大な太陽光発電パネルで発電した電力は、マイクロ波ではなく、宇宙エレベーターに併設する送電ケーブルを通って地上に送電されるだろう。あり得ないことはあり得ない――けっして夢ではない未来に、私も財布から少しでも投資していきたい。
2023.06.29
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ザ・ゴール 「我々にとって、改善とはコスト削減ではなくスループットの向上だったわけです」(460ページ)著者・編者エリヤフ・M.ゴールドラット=著出版情報ダイヤモンド社出版年月2001年5月発行著者のエリヤフ・ゴールドラットさんは物理学者――スループット、依存的事象と統計的変動、元素周期表など、いかにも理系らしい仕組みを使って生産工場が会社の利益に貢献するモデル――制約条件の理論(TOC:Theory of Constraints)」――を小説仕立てにしたのが本書である。機械メーカー「ユニコ社」の工場長アレックス・ロゴは、上司のビル・ピーチ副本部長から、採算悪化を理由に、3ケ月以内に目標を達成できなければ工場を閉鎖すると告げられた。最新ロボットを導入して、工場は効率化したはずなのに、なぜなのだろう?アレックスは、空港で偶然に大学時代の恩師の物理学者ジョナと出会い、この疑問をぶつけてみた。ジョナは「もし仕掛りも人件費も減っていなくて、製品の売上げも上がっていなかったら、ロボットを導入して生産性が上がったなどとは言えない」(49ページ)とアドバイスし、これが当たっていた。アレックスは、純利益、投資収益率、キャッシュフロー、この3つを同時に増やすことによってお金を儲けることが会社の目標だと認識する(80ページ)。ジョナは世界を飛び回り多忙を極めていたが、アレックスからの相談に適時応じてくれた。そして、お金を儲けながら工場を動かす指標として、「スループット」「在庫」「業務費用」の3つを挙げた。売ることのできる投資は在庫、減価償却は業務費用に分類できる。在庫と業務費用を減らしながらスループットを増やすことで会社は儲かる(107ページ)。アレックスは息子デイブのボーイスカウトのハイキングを引率することになった。子どもたちの平均的な歩行速度で目的地への到着時刻を計算するが、実際には歩くのが遅いハービーがボトルネックになった。そこで、ハービーを列の一番前を歩かせ、ハービーの荷物をみんなで分担して持つことで、歩行速度が改善した。アレックスは、この経験から、工場で依存的事象と統計的変動が起こっており、このため納期に遅れるケースが発生していることに気づく。そこで、製造課長のボブ・ドノバンや、データ処理担当のラルフ・ナカムラらとミーティングを行い、製造工程を変更し、生産能力を需要に合わせるのではなく、ボトルネックを通過するフローを市場からの需要に合わせるようにすることにした(218ページ)。このとき、資材マネージャのステーシー・ポタゼニックは、「営業からプレッシャーがかかっても順番を変えない」ことをアレックスに求めた。こうして納期遅れは劇的に改善したが、今度は大量の在庫が発生してしまう。みんなを100パーセント、いつも働かせないといけないという考え(326ページ)から、市場の需要を超えて生産してしまったからだった。経理課長のルーは、「100パーセントは無理だとしても、こちらとしては、それなりの数字を出してもらわないと困るんです。90パーセントぐらいはなんとか‥‥」と言うが、ジョナは「どうして、90パーセントなのかね。60パーセントや25パーセントでは駄目なのかね。制約条件に基づいていなければ、そんな数字などまったく意味を持たない」「リソースが個別に最大化されているシステムは、全体的にはまったく最適なシステムではない」と説明する。人を働かせることと、利益を上げることは別物なのだ(326ページ)。アレックスたちは議論を深め、バッチサイズを半分にすれば、各バッチの処理時間が半分になり、部品の工場通過時間も約半分に減らせることに気づく(359ページ)。アレックスは、ジョナにさらなる助言を求めるが、ジョナは「会社の中でどんどん昇進し責任が増えてきたら、もっと自分自身で考えるようにしなければ駄目だ。事あるごとに私の助けを求めていては駄目だ。いつも人を頼るようになる――」と突き放す。アレックスたちは、これまでの成果を振り返り、法則としてまとめ上げようと考える。ベアリントン工場の成功を、ユニコ社全体に適用するのが目的だ。ボブは「継続的改善プロセス」という言葉の「プロセス」が重要だと指摘した。[ステップ1]制約条件を「見つける」。[ステップ2]制約条件をどう「活用する」か決める。[ステップ3]他のすべてを[ステップ2」の決定に「従わせる」。[ステップ4]制約条件の能力を高める。[ステップ5]「警告!!!」ここまでのステップでボトルネックが解消したら、[ステップ1]に戻る。こうしてベアリントン工場は閉鎖を免れただけでなく、会社の収益に大きく貢献した。彼らは昇進した。そして、アレックスはマネジャーに求められる基本能力が何かを探す。それは、「何を変える」「何に変える」「どうやって変える」の3つだと考えた。そして、ジョナが助言しなかったのは、「周囲の力に頼ることなく、自分たちでできるよう、自ら学ばなければ駄目」(520ページ)だということに気づいた。TOCは、仕事の流れ(スループット)を滞らせる制約(ボトルネックなど)の改善に集中することで全体最適化が実現できるという理論である。現実の人間は、アレックスとその部下たちのように勤労意欲にあふれている人ばかりではないから、この〈理論〉どおりには進まないだろう。が、学ぶべきことは多い。ただ、読んだ人によって、学び取れる内容が異なると思う。私は、ちょっと太めの製造課長のボブが、ホワイトボードに書いた「継続的改善プロセス」の「プロセス」の部分を強調するシーンが印象的だった。終盤、アレックスがマネージャの立場を考える場面になる。本書では触れていないが、私は、ビジネスにおける不具合や失敗は、個人の責任に帰すものではないと考えている。不具合や失敗は「プロセス」に問題がある。プロセスを「改善」することで、ビジネスを成功に導く――これもマネージャの職務であろう。第2巻では、アレックスたちの10年後の姿が描かれるという――ポジションが上がると、どういう舵取りが求められるのか。楽しみである。
2023.05.28
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プロジェクト・ヘイル・メアリー 下巻 〈ヘイル・メアリー〉はいつ見てもハインラインの小説から抜け出してきたような姿をしている。銀色に輝くなめらかな船体、先が尖った船首。大気とかかわる必要のない宇宙船が、なぜそんな格好をしているのか?(171ページ)著者・編者小野田和子=著出版情報早川書房出版年月2021年12月発行ぼくは、寒冷化する地球を救うために、片道切符のヘイル・メアリー号に乗り込み11.9光年離れたタウ・セチにやって来た分子生物学者だ。タウ・セチで偶然出会ったロッキーの奇妙な共同研究が始まる――。グレースの科学知識とロッキーの技術力を合わせれば、かならず危機を救えると信じ、試行錯誤を繰り返し、けっして諦めず、ときには生命の危機に晒されることもあった。プロジェクト・ヘイル・メアリーは完了し、2人のその後は‥‥。エリダニ400からアストロファージの謎を追ってやって来たエリディアン、ロッキーは優れたエンジニアだった。エリディアンは、29気圧の視覚はないが、聴覚は鋭く、計算力も記憶力も人類を凌駕していた。一方で、宇宙線や相対性理論の知識はなく、コンピュータ技術ももっていなかった。グレースがもつ科学知識と、ロッキーの技術力でもって、タウ・セチ星系でアストロファージを補食する微生物を発見し、タウメーバと命名する。タウメーバを採取するためにヘイル・メアリー号はボロボロになり、2人とも大怪我を負うが、タウメーバを金星やエリドの大気中で繁殖できるよう品種改良に成功する。品種改良したタウメーバ8.5を携え、ロッキーの宇宙線からアストロファージの補給を受けたヘイル・メアリー号は地球への帰還軌道へ、ロッキーの宇宙船はエリダニへの期間軌道に入った。ところが、タウメーバ8.5はキセノナイトを透過する能力を獲得していた。ロッキーの宇宙船に残っていたアストロファージはタウメーバに食い尽くされ、航行不能に陥る。ぼくは、タウメーバ8.5をカブトムシに乗せて地球へ射出すると、ロッキーを救出するために軌道を反転した。ぼくは、ロッキーとともにエリダニ400に入った。そこで、エリディアンの子どもたちを教えながら暮らし、太陽の高度が戻ったという知らせを聞く。ロッキーの姿形から連想したのが、長谷川裕一のSF漫画『マップス』に登場するガッハ・カラカラ――さらに遡ると、E.E.スミスの「レンズマン」シリーズに登場するトレゴンシー。地球より高重力環境で生活し、視覚がないというリゲル人だ。ハインラインの作品や「超人ハルク」「ロッキー」に触れるシーンもあり、同世代の読者はニヤリとすること請け合い。本作では、いわゆる「悪人」が登場しない。登場人物の一人一人が、自らの職務を全うするために奔走する。冷酷無情なペトロヴァ対策委員会のエヴァ・ストラットも、最後にその思いを語る。人類存亡の危機に遭って、誰一人諦めない、くじけない、科学に全幅の信頼を寄せている。ヘイル・メアリー・プロジェクトは完了し、主人公は、本来やりたかった仕事に戻ることができた――ただ、地球を出発する前とは少し違った形で――プロジェクトを通じて、人と出会い、想いを交わし、そして自分を変化させていく。本作品は、良い意味で、スペースオペラのワクワク感と科学に対する信頼感を再認識させるSFである。
2023.05.07
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プロジェクト・ヘイル・メアリー 上巻 人間は脳味噌をまるごと視覚に捧げていて、それ専用のキャッシュメモリまで持っている。(262ページ)著者・編者小野田和子=著出版情報早川書房出版年月2021年12月発行ぼくは目を覚ました。いったいどれだけ長いこと寝ていたのだろうか。酸素マスクを付けられている。体中に電極と管が取り付けられている。コンピュータが耳障りな音声で質問してくる。だが、ろれつが回らない。自分の名前も思い出せない。ここはどこだろう。ようやく腕が動かせるようになった。体がやけに重たい。メールを読んだ。太陽から金星に向けて25.984ミクロンの赤外線を放射する星雲「ペトロヴァ・ライン」が見つかったという内容だ。ぼくは歩けるようになった。同じ部屋にミイラ化した遺体が2つ。ぼくは、記憶を取り戻した。この場所がどこなのか、そして、ぼくがやるべき仕事を思い出した――。ぼくは、ライランド・グレース。分子生物学者だったが、いまは学校の教師だ。ペトロヴァ対策委員会のエヴァ・ストラットにスカウトされ、ヘイル・メアリー号に乗り込み、11.9光年彼方のタウ・セチに到着するまで昏睡状態にあった。3人いた乗組員のうち、昏睡状態から回復したのはグレースだけだった。彼は2人の亡骸を宇宙葬にすると、タウ・セチに接近した。ペトロヴァ・ラインの正体は、アストロファージと名付けられた10ミクロンの宇宙生物の集合体だった。アストロファージは太陽光エネルギーを喰らい、金星へ移動して、その二酸化炭素を使って増殖、再び太陽に戻ってエネルギーを補給するライフサイクルであることが分かった。このため,十数年後には地球へ届く太陽エネルギーが10%低下し、人類の半数が死滅すると予測された。アマチュア天文学者たちの観測によると、太陽系の近くにある恒星は、どこもアストロファージが感染していた。そんな中、11.9光年離れたタウ・セチだけは感染してなかった。その謎を調査するため、ストラットは世界中から優秀な科学者を集め、各国の軍隊や生産力を利用して、タウ・セチへ向かう恒星間ロケット「ヘイル・メアリー号」を建造した。燃料はアストロファージ。タウ・セチに接近したヘイル・メアリー号に近づいてくる未知の宇宙船があった。エリダニ400からアストロファージの謎を追ってやって来たエリディアンの宇宙船だった。グレースは科学知識と教師としての経験を活かし、エリディアンのロッキーと意思疎通できるようになる。エリディアン宇宙船の乗組員は放射線で次々に死んでいき、ロッキーが生き残りだった。『火星の人』を原作とする映画『オデッセイ』を観たが、ともかくリアルで、オタク心をくすぐられる。ハードSFというより、彼の作品のためにリアルSFというジャンルを作りたいくらいだ。本書は第三長編にあたるが、リアルSFぶりは健在だ。それにしても、ウィアーさんの博識ぶりには舌を巻く。本書の舞台を支える力学や宇宙物理学はもちろん、本業だったプログラミング技術を要所要所に登場させ、量子力学や生物学、現代の社会問題となっている地球温暖化や核兵器まで活用する。突然、見知らぬ部屋に放り込まれたら、以前の記憶を失っていたら、あなたはそこが〈異世界〉だと考えるだろうか――主人公が研究対象にしていた地球外生命体はメタルスライムのようなものだが、大きさは10ミクロンしかない極小スライムだ。一人ぼっちの主人公は、神の力を頼るでもなく、チート魔法力を与えられたわけでもなく、地道に物理学の基礎実験を通じて自分の位置を確認する――20世紀末、ファンタジー小説にお株を奪われたオタク世界がSFに戻ってきた。
2023.05.06
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非合理な職場 論理的に問題を分析し、問題の背景にある本質的な変化や意味合いを引き出し、解決策を導く力を持つ一方で、人間や組織が持つ非合理性や感情を理解し共感する力、この2つの力が今後のビジネスパーソンには必須の力となってくる。(259ページ)著者・編者永田稔=著出版情報日経BPM(日本経済新聞出版本部)出版年月2016年5月発行ロジカルシンキングやクリティカルシンキングを学んでから久しいが、仕事の現場でそれが通用しないことの方が多い。そんなとき、とあるITコンサルタントから紹介されて読んでみた。著者は、人事・経営コンサルタントで、日本初の人材評価AI「マシンアセスメント」を開発した永田稔さん。永田さんも冒頭で、「この思考法だけでは組織や人を動かせないケースに出合うことが多くなってきた」(19ページ)と述べている。永田さんが書いているように、「真の問題解決力とは、策定した解決策を関係者に受け入れてもらい、どれだけ実行し成果に結びつけることができるか」(21ページ)であり、単にロジカルシンキングやクリティカルシンキングを当てはめ、上から目線でソリューション提案すれば済むというものではない。では、どうすればいいのか――。クリティカルシンキングで学ぶことだが、問題解決のスタートで、まず、相手と課題共有することが不可欠だ。ここで、相手に「あなたが言っていることは正しいが、私が感じている課題はそうじゃないんだ」と思わせてはいけない。「理解と受容とは異なる」(35ページ)のであり。どんな非合理な課題であっても、それを傾聴し、一緒に解決していかなければならない。ところが、クリティカルシンキングが基板とするロジカルシンキングは、じつは、人を対象にしたケースというのがほとんどない(143ページ)。永田さんは、ロジカルシンキングの罠として次の5つを挙げる(42ページ)。+他の人も事実やロジックを正しく理解しているはず+自分はロジカルに考えているので正しいはず+他の人や組織はロジックを理解すれば正しい方向に動くはず+人を動かすには金銭インセンティブが有効なはず+自分の役割は正しい指示を出し続けること脳は身体の中でも多くのエネルギーを消費する。消費エネルギーを節約し、速やかに結論にたどりつけるよう、われわれは、経験や知識と推論を使って情報処理することが多い。ヒューリスティックと呼ぶものだ。歳をとって痛切に感じるのだが、若い頃より経験と推論に頼ることが多くなっている。永田さんは、「限られた範囲での成功体験、固定化された成功体験は、問題解決に対する打ち手のパターン化を招きやすい」(72ページ)と注意喚起する。バイアスがかかることもある。高プライド組織と高プライド社員の場合には、こうしたバイアスに捕らわれることがある。永田さんは「ロジカルに直線的に成果を追い求めるだけでなく、相手の状況や感情に応じて打ち手を瞬時に変えてゆく柔軟な知性」(120ページ)が必要だとアドバイスする。さらに、「相手と意見が異なった場合、必ずしも相手が間違っているとは限らない」(106ページ)にも注意しなければならない。永田さんは、自分の思考にバイアスがかかっていないか、客観的にチェックするポイントを挙げる(106ページ)。すぐにムキになってしまう人や自信過剰になっている人は、自分の推論や仮説の正しさを過大に評価してしまう傾向がある。この自信過剰によるバイアスは自覚することは難しいが、「自分の仮説に対する反論を自分で考える」ことが有効(134ページ)とアドバイスする。これはすぐに実践できそうだ。課題が共有できたところで問題解決にとりかかるわけだが、ここで、多様な価値観が認められるようになった現代社会の壁が立ちはだかる。永田さんは、価値観の対立をマネジメントすることを「コンフリクト・マネジメント」と呼ぶ。コンフリクト・マネジメントをうまく進めないと、最悪、組織が機能しなくなる。とくに変革を求めるときは、大半のリーダーは「まずあの旧弊の人たちを変えないと」ということで頭がいっぱいとなり、「認める」というところからスタートできないと指摘する(184ページ)。大切なのは動機づけである。そのために、「マズローの欲求段階説」「フレデリック・ハーズバーグの動機づけ・衛生理論」といった古典論を振り返る。永田さんは、「日本のリーダーやマネジャーは動機づけがあまり得意ではない」(215ページ)と指摘する。これは、外資系は人材が流動的であり、マネジャーは人材の引き留めという責任を課されるからだという。永田さんは、外発的動機づけとして、「アメとムチで動機づける段階」に始まる3段階を経て、仕事自体に興味や面白さを感じる内発的動機づけに進むのがいいとアドイバイスする(231ページ)本書はビジネスの現場だけではなく、子育てや地域コミュニティにも適用できるだろう。たとえば、子どもが抱えている問題の本質は、親が捉えているものと同じだろうか。子どもと親の価値観は同じだろうか。子どもに外発的動機づけ(アメとムチ)ばかりを与えていないだろうか。永田さんは「あとがき」で、いままで会ってきた素晴らしい経営者やリーダーが「抱える『矛盾』は、非常に人間的であり、魅力的でもあった。『矛盾を抱える人間とは美しいものである』と学ばせてもらった」(259ページ)と振り返る。なるほど、問題解決の相手はロジックではなく、ヒトなんだということを改めて認識させられた。そして、論理だけで突破できないからこそ、問題解決は面白いのだ。
2023.04.24
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時計遺伝子 時計遺伝子による生体リズムの特徴の一つに、「光によってリセットされる」というものがあります。この光こそ、眼から入ってきて視交叉上核に送られる信号です。(115ページ)著者・編者岡村均=著出版情報講談社出版年月2022年9月発行著者は、医師で、哺乳類における生体リズムの分子機構の解明に取り組んでいる岡村均さん。本書は、岡村さんの講演スライドをもとに書きおろしたもので、実験科学者であり、医学に携わっている経験から、「時計遺伝子」の機能を解明していく流れが分かりやすい。2017年のノーベル生理学・医学賞は、時計遺伝子を初めて発見したジェフリー・ホール博士、マイケル・ロスバッシュ博士、マイケル・ヤング博士の3氏に授与された。最初に時計遺伝子が発見されたのはショウジョウバエのperiod(ピリオド)遺伝子だが、その後、様々な生物で時計遺伝子の存在が確認された。さらに、光合成を行う原核藻類シアノバクテリアにも24時間リズム(生体リズム)がある。24時間周期のリズムは、真正細菌を除く、地球のほぼ全生物がもっている普遍的な性質だといっていい(22ページ)。生体リズムを刻む振動体のことを体内時計(サーカディアンクロック、概日時計)とよぶ。時計遺伝子から時計タンパク質が作られ、時計タンパク質が増えるとブレーキがかかり、時計タンパク質の量が減る。このループがちょうど24時間で1周となるように起きている(31ページ)。実験から、哺乳類では脳の中の視交叉上核こそが体内時計であることが明らかになった(39ページ)。+眼に入ってきた光の信号を脳内の視交叉上核で受け取る。+視交叉上核では、生体リズムの時計中枢となるリズムを作る。+交感神経系を介して副腎に伝わり、副腎皮質から糖質コルチコイドが分泌される。+全身の細胞にある糖質コルチコイドの受容体が糖質コルチコイドを認識し、細胞が一日の始まりを認識する。(83ページ)細胞分裂も24時間リズムで起きる。生体リズムとがんにも関係があるかもしれないという。メラノプシンは青色光に反応し、視交叉上核などへ光情報を送る。夜にコンビニに行ったり、寝る直前までスマートフォンやテレビを見ていたりすると、その青色光によってPerl遺伝子が活性化し、活動的になる。岡村さんは、時差ぼけにバソプレッシンというホルモンが関与していることを明らかにしたが、このバソプレッシンも視交叉上核に多く存在する(155ページ)。時差をつくると、視交叉上核の時計遺伝子のリズムの振動がなくなり、正常に戻るのには1週間以上かかることもわかった(161ページ)。睡眠リズムにも時計遺伝子が関係しているようだ。これまで漠然とした知識としてあった概日リズムの基準が時計遺伝子にあることがよく分かった。一方で、天文学的な見地から、地球の自転は月の潮汐作用によって徐々に遅くなっており、いまから14億年前には18時間だったという。この変動に、時計遺伝子はどうやって同期してきたのだろう。あらたな疑問がわく。本書の最後で岡村さんは「実験医学の研究は、個人でするものではありません。チームでするものです」(235ページ)と記しているが、これが本書をわかりやすく興味深いものにしている理由だろう。岡本さんと、そのチームの研究は時代に受け継がれ、きっと天文学的な疑問を解消する時計遺伝子の進化を解き明かしてくれることだろう。
2023.04.16
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宇宙検閲官仮説 スティーブン・ホーキング「宇宙検閲官仮説の最強の根拠は、それが間違っていることを証明しようとするペンローズの試みがすべて失敗していることだ」(186ページ)著者・編者真貝寿明=著出版情報講談社出版年月2023年2月発行一般相対性理論が予言したブラックホールの内部では重力が無限大となり、一般相対性理論が通用しないという矛盾が起きる。これを「特異点」と呼ぶ。宇宙空間に自然に出現する特異点を、とくに裸の特異点と呼ぶが、ここではあらゆる物理法則が破綻する。そこで、2020年にノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズは、宇宙検閲官が特異点が存在しないように取り締まっているという仮説を提唱した。宇宙検閲官といっても、アニメ『トップをねらえ2!』の最終話に登場するような部屋があるわけではなく、そのような仕組みが宇宙に組み込まれているというものだ。ここまでは知識として知っていたが、本書が宇宙検閲官仮説をめぐる最新の研究を紹介していると知り、早速読んでみた。著者は、一般相対性理論、重力理論が専門の真貝寿明 (しんかい ひさあき) さん。宇宙重力波望遠鏡(DECIGO)プロジェクトワーキンググループメンバーでもある。第1章では、ケプラーの法則から一般相対性理論に至るまでの物理法則を振り返る。つづく第2章では、複雑な非線形微分方程式であるアインシュタイン方程式の代表的な厳密解を紹介する。第3章では、いよいよ特異点について説明する。一般相対性理論では、光は常に最短時間で到達する経路を描き、これを測地線と呼ぶが、この測地線が途中で途切れてしまう時空を特異点と定義する。つまり、そこで物理法則も途切れてしまう。また、外向きに放たれた光が無限遠方まで届かない時空の領域の最も外側のを事象の地平面と呼び、この事象の地平面の内側がブラックホールになる(121ページ)。1965年にペンローズは、強い重力崩壊をする星が特異点を生じるという特異点定理を発表する。1970年に、ペンローズはスティーブン・ホーキングと共同で、次の3つの条件が同時に成立している時空ならば、特異となる測地線が少なくとも1つ存在するという特異点定理を発表する。+強いエネルギー条件が成立している+因果律が時空全体で成立している(クロノロジー条件)+宇宙が過去向きに収縮している(未来に向かって膨張している)つまり、ブラックホールだけでなく、宇宙が誕生したビッグバンにも特異点が存在することを示している。ただし、この特異点定理は重力崩壊で自然に発生することを述べており、ブラックホールが形成されることを証明したものではない。特異点の存在とブラックホール形成がリンクするのかどうかは、未解決問題だ(151ページ)。第4章では宇宙検閲官仮説について説明する。特異点の存在は、宇宙のどこにあっても物理法則が通用するという宇宙原理が崩れてしまう。そこでペンローズは、宇宙には裸の特異点を隠す弱い宇宙検閲官仮説か、裸の特異点そのものが存在しない強い宇宙検閲官仮説が働いているだろうと考えた。ホーキングは、「宇宙検閲官仮説の最強の根拠は、それが間違っていることを証明しようとするペンローズの試みがすべて失敗していることだ」とも冗談めかして語ったという(186ページ)。これまでの研究から、特異点は生じるのか、という問いかけに対して、どうやら一般相対性理論では議論ができないことがわかってきた(186ページ)。議論するためには、量子論と一般相対性理論がともに含まれた量子重力理論の登場を待たなくてはならないかもしれない。宇宙検閲官仮説をめぐり、さまざまな副産物を得られたことを第5章で紹介する。1971年にホーキングは、「ブラックホールは発生できるが、消滅できない」「ブラックホールは合体できるが、分裂できない」というブラックホールの表面積定理を発表する(196ページ)。1972年には、ブラックホール地平面の「表面積」を「エントロピー」に置き換え、地平面の「重力加速度」を「温度」に置き換えることで、熱力学の法則がブラックホールの法則に対応することを確認した(215ページ)。さらに、1974年にブラックホールが蒸発することを発表するが、これは表面積定理と矛盾しないという。ブラックホールは不思議でいっぱい。では、ブラックホールに飲み込まれた「情報」はどうなるのだろう。ワームホール(アインシュタイン・ローゼン橋)を通ってホワイトホールから出てくるのかもしれない。兎にも角にも、特異点に対する研究者の共通認識は、一般相対性理論を超える理論が欲しいということに尽きるとのこと(237ページ)。冒頭に紹介したアニメ『トップをねらえ2!』の最終話では、ブラックをホールを割ることで裸の特異点が現れ、場面が「時空検閲官の部屋」に切り替わる。これが宇宙検閲官であることは自明だが、だとすると、タイムトラベルでも検閲官がいるのではないか――タイムパトロールは、漫画『パーマン』をはじめとするタイムトラベルSFの定番だ。さらに、アイザック・アシモフのSF『永遠の終り』では、タイムパトロールである〈永遠 (エターニティ) 〉ですら近寄れない特異点のようなものを描いている。こうしたSF作品では、人類の限界として特異点の存在を認めているように感じる。一方の物理学は、宇宙原理という神にも等しい原理がゆえに、特異点を認めない。これは、ある種の傲慢ではなかろうか。じつは、宇宙のあちらこちらで断絶が起きており、その先では我々の物理法則が通用しないのではないだろうか。ベビーユニバースや膜宇宙(ブレーンワールド)といった仮説がそれである。さて、私が生きているうちに量子重力理論は明らかになるだろうか‥‥。
2023.04.08
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地球温暖化はなぜ起こるのか 気候モデルの最大の価値は、気候変化の予測に役立つだけでなく、気候システムの仕組みをより深く理解できることにあると、私たちは強く信じている。本書の原題『Beyond Global Warming』には、その強い思いが込められている。(4ページ)著者・編者真鍋淑郎=著出版情報講談社出版年月2022年6月発行2021年、「気候システム」という複雑系の物理分野に初めてノーベル物理学賞が贈られた。受賞したのは、プリンストン大学上級気象研究者で、国立研究開発法人海洋研究開発機構フェローの真鍋淑郎さんだ。本書は、米ラトガース大学環境科学部教授アンソニー・J・ブロッコリーさんが著したものだが、1960年代から研究開発が進められてきた気候モデルの多くに、真鍋さんの名前が登場し、その業績の大きさを再認識した。本書は、いわゆる地球温暖化警鐘本とは一線を画し、気候モデルの仕組みの解説を中心に、実際の観測データとの合致度を示している。そして、気候モデルの二酸化炭素濃度を変化させたときにどのような計算結果になるのかを、淡々と紹介する。気象科学やコンピュータ・シミュレーションに関する基礎知識がないと、読むのは少し骨が折れるかもしれない。ブロッコリーさんは冒頭、「気候モデルの最大の価値は、気候変化の予測に役立つだけでなく、気候システムの仕組みをより深く理解できることにあると、私たちは強く信じている」(4ページ)と宣言する。ブロッコリーさんは、最初に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次評価報告書(2013年)から「20世紀半ば以来観測されている温暖化の主要な原因は、人間活動による影響であった可能性がきわめて高い」(14ページ)と引用し、温暖化の原因は明らかになっているという立ち位置から、そこに至った経緯と、その先について解説する。大気を含めた地球システムの出す放射が、シュテファン・ボルツマンの法則にしたがうなら、地表の平均温度は-18.7℃で、観測で得られている+14.5℃よりも33℃も低い(19ページ)。大気の温室効果を初めて予想したのは、数理物理学者のジャン・バティスト・フーリエだ(35ページ)。1894年にスウェーデンのスヴァンテ・アレニウスは、大気中の二酸化炭素濃度が2~3倍に変化したら、大きな気候変化を起こすだろうと予想した。1960年代に、米国気象局(現・米国海洋大気庁)の地球流体力学研究所(GFDL)が、大気の鉛直1次元モデルを開発した。これは、水蒸気、二酸化炭素、オゾンといった温室効果ガスが、大気の温度構造を維持するためにどのような役割を果たすのかを調べるために役立った(51ページ)。真鍋とストリックラーは、1957年の観測データをもとに雲量を設定して計算を行ったところ、地表面温度は14℃となり、実測値に近い値となった(59ページ)。さらに、300ppmvという標準的な二酸化炭素濃度にすると、地表面温度は15℃になった。また、2倍の600ppmvにすると、温度が2.4℃上昇した。数値天気予報の力学モデルを基に開発された大気大循環モデル(GCM:General Circulation Model)は、1950年代から開発が始まり、1958年の初頭にスマゴリンスキーは大気GCM開発チームの一員に加えるために真鍋をアメリカ合衆国に招いた。GCMは、大気だけでなく海洋や大陸までパラメータとして組み込んでいき、季節に応じた気候の変化を再現できるようになっていった。1970年代初頭には、2万1000年前の最終氷期を再現しようという研究が進んだ。このときに行った数値実験では、氷期間氷期の海面水温の差は、3つの要因に依存することがわかった(168ページ)(1)大陸氷床の拡大による地表面アルベドの増加。(2)温室効果ガスのCO2換算濃度の低下。(3)積雪のない地表面のアルベドの増加。1980年代後半には、大気・海洋・陸面結合システムの3次元モデルを使って、地球温暖化に関する研究が進んだ。CO2濃度が1年に1%ずつ複利式で増加する条件だと、70年目にはCO2濃度が2倍に増え、温度は約2.5℃上昇した(198ページ)。北極海や周辺海域では海氷被覆面積も厚さも著しく下がるが、南半球ではそれほど顕著な反応を示さない。全球平均降水量は5.2%増えた。CO2濃度が4倍になったときには、全球平均温度は5.5℃上昇し、平均降水量は12.7%増えた。降水量の変動に呼応して河川の流量も変化する。熱帯域ではアマゾン川の流量が、CO2の2倍増、4倍増に応答して、それぞれ11%、23%増える(257ページ)。その結果、世界の乾燥地域、半乾燥地域の多くで植物が利用できる水分が大きく低下し、干ばつ見舞われる。冒頭で述べたとおり、気象科学やコンピュータ・シミュレーションに関する基礎知識がないと、全体を理解するのは厳しいだろう。だが、最後まで読んだ後で、巻頭にあるカラーズ版を見返すことで、その内容が、シミュレータが示した1つの事実であることが分かる。現在わかっているパラメータの範囲内で計算するなら、21世紀後半、われわれ人類は海水面上昇より先に水不足の危機に直面することになる。社会情勢の要求もあるだろうが、ブロッコリーさんが冒頭で強調する原題『Beyond Global Warming』(地球温暖化を超えて)が『地球温暖化はなぜ起こるのか』に翻訳されたのは少し残念なところである。気候モデルは氷期・間氷期も扱ってきたが、さらに大気圏外へ目を向け、太陽磁場や宇宙線の影響をフィードバックシステムに組み込んだらどうだろう。観測により雲の発生に27日周期があり、偶然にも太陽の自転周期と一致している。さらに長周期で見ると、全球凍結(スノーボールアース)が発生していた時期と銀河系でスターバーストが起きていた時期が一致するという。ブロッコリーさんが言うように、地球温暖化問題を騒ぐのではなく、その先へ――『Beyond Global Warming』を目指していきたい。
2023.04.02
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宇宙最強物質決定戦 宇宙の未来はもうすでにダークエネルギーに握られており、絶対的支配が完成しているのです。それを覆すようなヒーローの登場を期待したいのですが、ダークマターやバリオンでは無理でしょう。(148ページ)著者・編者高水裕一=著出版情報筑摩書房出版年月2023年2月発行タイトルに惹かれて買った。『グラップラー刃牙』『ドラゴンボ-ル』『キングダム』といった漫画をオマージュしながら宇宙物理学の解説をするのは、スティーブン・ホーキング博士に師事した高水裕一さん。専門は宇宙論。2021年に読んだ『物理学者、SF映画にハマる』『宇宙人と出会う前に読む本』も面白かった。高水さんは、宇宙最強の基準として、「大きさ」「重さ」「電気」「速さ」を挙げる。太陽の約1700倍の大きさを誇る巨大恒星たて座UY星、約1000兆ガウスの磁気を発するマグネター、約100万兆アンペアの電流が流れる電波銀河、太陽の約300~500倍の重さがあると考えられている第一世代の恒星「POP III」。速さの第1位は光子だが、僅差でオー・マイ・ゴッド粒子、ニュートリノが続く。現在この宇宙においては、ダークエネルギーの占める割合が約69%、次にダークマターが約25%、3位はバリオンで約4.8%、4位が光で約0.0055%。この割合は宇宙の歴史の中で変化してきた。ビッグバンから約5万年間は光が優位で、それから100億年までの間はダークマターが優位になり、現在はダークエネルギーがトップの座を占めている(132ページ)。ダークマターは光と相互作用しないという不思議な性質を持っており、望遠鏡で見ることができないが、質量はあるので重力レンズ効果を見ることで間接的に観測ができる。ダークマターがなければ星や銀河は誕生しなかったと考えられており、天の川銀河では、中心に存在する巨大ブラックホールの質量のおよそ20万倍以上のダークマターが直径30万光年の球体「ダークハローを形成していると考えられている。『なぜ宇宙は存在するのか』(野村泰紀、2022年)によれば、宇宙の膨張につれてダークマターやバリオンの密度は下がるが、ダークエネルギーだけはエネルギー密度が下がらない。このため、宇宙で時間が経過すればするほど、ダークエネルギーの割合が増えてゆく。アインシュタインが一般相対性理論の方程式に導入した宇宙定数の正体がダークエネルギーである。定数なので変化しないのだ。アインシュタイン方程式を解いて膨張宇宙を予言したフリードマン方程式 によれば、宇宙においては重力を制するものが覇者となるという。その右辺に宇宙項を入れるとダークエネルギーを表し、左辺に移項すると、それは時空構造としても解釈できる(156ページ)。いまから100億年後の宇宙は銀河がまばらになり、10の20乗年後には銀河がバラバラになると予想されている。10の34乗年後には陽子の崩壊が起こり、10の100乗年後には銀河中心の巨大ブラックホールが蒸発するという。ブラックホールが蒸発して消えて無くなると、増大して貯められてきたエントロピーが宇宙空間から消えてなくなり、時間が逆転するかもしれないという。あっという間に読み終わってしまった。バトル漫画を読んでいるような面白さだけでなく、知識の更新にもなった――。子どもの頃、アンドロメダ銀河は天の川銀河から200万光年彼方にある双子の銀河と教わったが、いまは違う。距離は約260万光年。直径は22万光年で天の川銀河の2倍以上。星の数は約1兆で、天の川銀河の2000億個の5倍。形状も天の川銀河の棒渦巻状に対し、渦巻き状と異なる。しかも、天の川銀河へ向かって接近しており、およそ60億から70億年後には合体して1つの巨大銀河になるという(101ページ)。バリオン、ダークマター、ダークエネルギーをめぐる最新の知見は、ちょうどNHK『コズミックフロントω』でも取り上げられ、ホットな話題だ。この宇宙が遠い未来にビッグフリーズやビッグクランチに至る話は、古くはH.G.ウェルズのSFを映画化した『タイム・マシン 80万年後の世界へ』(1960年)、近いところでは『機動戦士ガンダムUC』(2016年)で映像化された。本書では触れられていないが、そこからマルチバースが起きるのかどうか――これは『AKIRA』(1988年)で映像化された。漫画・アニメと宇宙論は相性がいい。ちょうど本書を読み終わった日、松本零士さんの訃報に接した。私に大宇宙への関心を呼び覚ましてくれた松本零士さんが、宇宙の彼方へ向かう道中のご無事をお祈りしたい。
2023.03.25
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データサイエンティスト養成読本 機械学習入門編 このように状況が複雑かつ流動的で、経験と勘による場合分けやルール作りが難しい場合に、機械学習は威力を発揮します。(4ページ)著者・編者熊崎宏樹=著出版情報技術評論社出版年月2015年9月発行本書は、機械学習をこれからはじめようと思っている人、データサイエンティスト、データ分析担当者に向けて書かれた。1980年代に人工知能の研究に携わったものとして、現在は企業における品質情報の分析責任者として、本書を手にした。私はプログラミングは得意で、PythonやRは書けるし、大規模データベースの構築経験もあり通読できたが、未経験者にとって2部を読むには少し骨が折れるかもしれない。第1部は座学である。機械学習の目的は、一度与えられたデータから、より広範囲に適用できる汎用的な法則性を学ぶことだ。これにより、将来を予測したり、未知のデータに対して同様の推定を行うことができるようになる。経験と勘による場合分けやルール作りが難しい場合に、機械学習は威力を発揮する。機械学習は1.生データから特徴ベクトルへの変換2.機械学習アルイゴリズムの適用という2つのステップを踏む。1ステップ目と2ステップ目の間のやりとりでは、特徴ベクトルという抽象化された中間表現を用いることで、さまざまな種類のデータに対して同じアルゴリズムが適用できる。2ステップ目の学習結果として得られるものをモデルと呼ぶ機械学習で扱われる問題設定は、正解がある「教師あり学習」と、正解がない「教師なし学習」の大きく2つに分けられる。「教師あり学習」には、実数値を予測する回帰と、カテゴリを予測する分類がある。分類の手法としては、ロジスティック回帰やサポートベクタマシンがある。「教師なし学習」には、問題設定としてクラスタリングと次元削減がある。クラスタリングの手法として、K平均法と混合正規分布がある。次元削減の手法として、主成分分析がある。さらに高度な問題設定として、膨大な数のアイテムの中からユーザに適したアイテムを提示する「推薦」、データの中からほかと異なるサンプルを見つけ出す「異常検知」がある。ビジネスにおいて、良いセグメント分けとは「KPIに差が出る」分け方だ(58ページ)予測モデルを構築する際は、最初から全体で1個のモデルを作成するのではなく、セグメントごとに作成する方が良いと言える。予測モデルは大きく分けて、分類モデル(判別分析)と回帰モデル(回帰分析)の2つがある。判別分析は、分類されるクラスが既知のデータを分類する手法であり、教師あり学習だ。回帰分析とは、目的変数と説明変数の間の関係を定式化し、未知の目的変数を与えた際の説明変数の数値を予測する手法だ。ニューラルネットは、ほかの機械学習のアルゴリズムと比べて大仕掛で、カスタマイズの幅が非常に広いという特徴がある(69ページ)。機械学習では大量のデータを扱うので、完全な勾配を計算せずに、一度に一部のデータに対する損失関数だけを使って勾配を計算することで、正しく最適化ができる。ただし、一部のデータはできるだけランダムに選ぶ必要がある。過学習とは、訓練データに適合しすぎることで学習には使わなかったデータに対する性能が低下する現象で、ニューラルネットでは深刻な問題になることがある。第2部では、実際にプログラムを動かして機械学習の演習を行う。使用するのは主にPythonで、他にRやJuliaなどを紹介する。環境のインストール方法も説明されており、Linux、Windows、Macを使って演習できる。本書では触れられていないが、プログラミング未経験者にはKNIMEやWekaなどのGUIを勧めている。Python3にライブラリNumPy、SciPy、matplotlib、scikit-learnをインストールすることで機械学習の仕組みを学ぶことができる。scikit-learnには、機械学習でよく使われるアルゴリズムのほかに、評価のためのツール、実験用のデ一タセット、ファイル操作のためのツールが含まれている。matplotlibを導入すると、グラフや図による可視化が可能になる。検索やリコメンドといった推薦システムを構築するときに注意すべきことが2つある。-論文で精度が高いと言われるシステムは、データの再現ができているだけであり、導入すれば良くなるわけではない。-推薦システムを評価するためには、導入する目的を明確にし、結果としてサービスをどのように良くするのかを明確にすべきである。推薦システムは、Webサービスとしての側面が強く、その開発運用には機械学習スキルだけにとどまらずビジネスに対する理解やユーザ体験に対する理解が必要だ。(150ページ)さらにscikit-imageを導入すると、画像認識を行うことができる(画像をnumpy配列で表現する)。画像認識における物体検出に機械学習が利用できるが、まだ決定的なアルゴリズムは見いだされて織らず、特徴量の抽出に試行錯誤が必要だ。JubatusとはNTTとPreferred Networks社が共同開発し、オープンソースとして公開しているオンライン機械学習基盤Jubatusは、オンライン機械学習のアルゴリズムを複数搭載しており、複数の計算機に処理を分散させることで耐障害性とスケールアウト性を両立しており、C++で実装されており高速だ。また、クライアント/サーバモデルを採用しており、クライアン卜側はSDKを用いることでC++、Ruby、Python、Java、Goで記述できる。冒頭に、1980年代に人工知能の研究をしたと書いたが、その頃はLispやPrologがもてはやされ、国家プロジェクト「第五世代コンピュータ」ではPrologでOSを構築した。だが、コンピュータの計算力が非力で、ニューラルネットワークを組もうとしたとき、専用ASICを作らなければならないほどだった(現在もAI専用CPUは開発されている)。また、人工知能開発のためのライブラリもなければ、いまのようにインターネットが普及していなかったから、適当な学習データも手に入らなかった。けれども、ディープラーニングに代表される機械学習は、当時のニューラルネットワークの発展形であり、40年前のアルゴリズムや技術が、面々を受け継がれ改良されていることを理解できた。当時、ようやく画像認識ができるようになっていたが、いまでは物体検出を手掛けるほど進歩しているのにはワクワクさせられた。ネット上ではChatGPTが話題であるが、こうしたクラウドサービスや、Pythonを使ったローカルな機械学習システムをAPIで結び、ローコーコードでGUIを書けるようになると、誰でも気軽にAIを利用できるようになるだろう――そんな時代が、案外、すぐやって来そうな予感がする。
2023.03.21
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シュリーマンと八王子 シュリーマンも実際に「自分で見たこと以外は信じない」を終生基本姿勢としていた。(72ページ)著者・編者伊藤貴雄=著出版情報第三文明社出版年月2022年12月発行ドイツ人ハインリヒ・シュリーマンは、子どもの頃に読んだホメロスの叙事詩『イーリアス』に登場する伝説のトロイア王国を探し、商売で荒稼ぎして発掘資金を貯め、多くの言語を習得し、41歳でビジネスから引退し、ついにトロイア遺跡を掘り当てた――その成功譚は伝記で読んだとおりだが、発掘の5年前の1865年、幕末の日本を訪れ、わずか4時間ではあるものの、八王子を訪れ、その様子を世界に初めて伝えた――という話は初めて知った。本書は、シュリーマンの生誕200周年を記念し、八王子にある創価大学文学部が立ち上げた「桑都プロジェクト」の副産物として誕生した書籍である。シュリーマンは1865年から約2年間をかけて、4大陸、9カ国を旅し、500ページの日記を9カ国語で書いた。ジュール・ヴェルヌの有名な小説『八十日間世界一周』が書かれる8年前のことだ。そのなかの最初の作品『清国・日本』の中に八王子が登場する。当時、ヨーロッパでは蚕の病気である微粒子病が流行し、生糸産業が大打撃を受けており、日本の生糸が珍重された。生糸、絹織物の生産地として八王子は世界に知られており、複数の欧米人が訪れていた。ある家では、現在の貨幣価値にして1日に450万円分の繭を購入したという記録が残っている。当時、外国人の移動は横浜から約40km圏内に制限されていたが、八王子はぎりぎり圏内にあった。1865年(慶応元年)6月3日から7月4日まで日本に滞在していたシュリーマンは、そうした情報を知り、6月18日(旧暦5月25日)から20日まで、横浜から八王子へ2泊3日の往復旅行に出かけた。シュリーマンの旅行記の書き出しは、「わたしが横浜滞在中におこなった数々の遊覧のうちで、最も興味深かったものの一つは、わたしが6人のイギリス人の仲間たちと企てた、絹織物の産地として産業の盛んな町、八王子 Hogiogi にむけてのものであった」(88ページ)となっている。本書は、シュリーマンについて、さらに深掘りしている。主著『古代への情熱』は、私も読んだことがあるし、これをベースにした伝記では、貧しく学校にも通わず丁稚奉公に出されたが、『イーリアス』に登場するトロイア王国発掘を夢見て、勉強して十数カ国を操れるようになり、発掘資金を貯めるために商売で大成功したという成功物語となっている。シュリーマンが実践した徹底的な音読による言語習得は独創的で効果のある方法だが、クリミア戦争ではロシアに武器を密輸したり、アメリカ南北戦争では奴隷解放で綿花栽培が困難になることを見越して綿花を買い占めるなど、現代ならコンプライアンス違反になるだろう方法で稼ぎを上げることをした。また、『古代への情熱』などの著書には脚色が多いこと、遺跡の発掘は乱暴で他の医籍を壊してしまうなどの影の側面もある。高等教育を受けていなかったシュリーマンは、アマチュア考古学者だった。ウィリアム・グラッドストンは、のべ12年4ヶ月近くにわたってイギリスの首相を務めた有力政治家だが、彼はアマチュアのホメロス研究者だった。シュリーマンはグラッドストンに接触し、自著の序文をグラッドストンに書いてもらった。熱心なクリスチャンであり、現実主義者だったグラッドストンは、聖書やギリシア神話の内容が創作であるとする学界の高等批評へ一矢を報いるべく、シュリーマンの発掘成果の受け入れたのだろう。本書による講義は、私たちがアマチュアなりの誇りと楽しみを忘れずに、知に対して誠実に向き合い、知への愛を持つこと、知識を吸収しつつ、その楽しさに溺れず誠実さを保つというのは、文化の発展にとって大きな意味のあることなのではないか――と結ばれる。(176ページ)さて、生糸、絹織物の生産地である八王子を「桑都」とした創価大学の「桑都プロジェクト」は、文系大学が街興しに協力する実験的なプロジェクトとしてスタートし、八王子出身の人気グループ・ファンキーモンキーベイビーズの歌にも登場する都まんじゅう(つるや製菓)をベースにした「シュリーまん」を製作・販売したり、くまざわ書店や東京富士美術館とコラボレーションして様々な企画を展開し、成功を収めた。シュリーマンは、私にとってヒーローだ――ヒーローというのは「正義の味方」のことではない。専門家でも職業人でもない。自分の信念に従い、自分のために行動できる人のことだ。シュリーマンがクリミア戦争や南北戦争で荒稼ぎしていたことは知っていたし、遺跡発掘の方法や土地の帰属を巡るトラブルを抱えていたこと、外国人労働者の賃金を出し渋ったことなど、悪いところを挙げればキリがない。それでも、学界に少しも遠慮せず、自分の金と才覚で行動したところが凄いと感じる。シュリーマンは、クリミア戦争ではロシアに武器を流し、その武器で怪我をしたイギリス人を看護したナイチンゲールの地元、イギリスの大政治家グラッドストンと手を組んで、学界の膨大な英知を集めた高等批評を崩してしまうというのは、読んでいて気持ちがいい。そのシュリーマンが、わずかな時間ではあるが、御殿峠から八王子の街を見下ろした様子を書き残した日記を読んで、150年以上の時を経て、自分の隣にシュリーマンがいるような感じがした。というわけで、私にとってのシュリーマンは、「趣味でヒーローをやっている」という漫画『ワンパンマン』の主人公サイタマのようなイメージなのである。
2023.02.25
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認知バイアス 認知はエレガントではないことも多い。また、非効率きわまりないことをやらざるを得ない場合もある。でも、それが認知の姿なのだ。(246ページ)著者・編者鈴木宏昭=著出版情報講談社出版年月2020年10月発行SNSを流れる言説の中には、事実に基づかない内容や、明らかなウソ、他人に踊らされているものが多い。SNSは、われわれの認知を歪める増幅器になっていやしないか――そんな思いがあり、本書を読んだ――。著者は、認知分野の研究を40年続けている鈴木宏昭さん。日本認知科学会フェローであり、人工知能学会、日本心理学会の会員でもある。鈴木さんは本書で、「人は賢いからバカであり、バカだから賢い」(4ページ)ということを強調したいという。どういうことだろうか――。まず最初に視覚を取り上げる。人類は視覚優位の動物とされるが、意外に〈節穴〉である。視覚情報を貯蔵する場所(視空間スケッチパッド)がとても少なく、3~5程度の情報紙か保持できないという。さらに、200度に及ぶ広大な視野の中に、はっきりと対象を認識できるのは、たった数度の範囲内にあるものだけ。このため、チェンジ・ブラインドネスのような課題が苦手である。次に利用可能性ヒューリスティックを取り上げる。利用可能性ヒューリスティックとは、人は頻度を測定する代わりに、思い出しやすさを利用することが多い。何度も出会っていれば記憶によく残る(リハーサル効果)から、頻度の頻度の代わりになると考える。だが、たとえばメディアは滅多に起きないような大事件に限って、センセーショナルに、繰り返し報道する。こうして視聴者の記憶に定着してしまい、結果的に滅多に起きない事件が頻繁に起きているように誤認してしまう。われわれは物事をカテゴライズするが、そのとき分類指標として「プロトタイプ」を用意する。このとき、代表例はプロトタイプとは異なる。だが、われわれは往々にして、代表例をプロトタイプと誤認して推測や判断を下してしまう。これを代表性ヒューリスティックと呼ぶ。確証バイアスはよく知られた認知バイアスだ。われわれは、「pならばq」を検証することに囚われ、その対偶である「qでないならpでない」を検証することを忘れがちだ(本書では対偶という用語は登場しない)。人間に自由意志はあるのだろうか。実験によると、脳から運動指令が出た後に、意図が生じることがわかった。だとするなら、われわれは自分の行動にとんでもない理由づけを行っているのではないだろうか。人の行動は自由意志によるものではなく、無意識の働きによって引き起こされると考えた方が自然ではないだろうか。ビデオやワインの実験から、言語化することが記憶を劣化させたり、ある種の思考を阻害することが分かった。言語は分解、分割が可能な対象に対しては強力な武器となる一方、分割できないもの、全体の形状に関わるようなことにはポジティブには働かないことが多い(163ページ)ことが分かってきた。われわれは相手のコトバを聞いたとき、状況モデルを構築できなければ、そのコトバを理解したとは言えない。われわれの思考には、あるパターンがあり、それにより制約を受けている。制約は、ふつうは認知を効率的に行うことに寄与するが、創造的な思考を妨げる。多様な思考をすることは、創造的な解決に繋がる。だが、絶えずイノベーションを繰り返すということは歴史上例がないことから、鈴木さんは、ふつうの企業がイノベーションを起こし続けることは原理的に無理(188ページ)だと指摘する。人間は集団行動する生き物である。だが、人の集団には個人にはない独特のバイアスが存在する。集団の意見に同調することは、誤った判断を加速してしまうこともある。これは同調圧力に弱いとされる日本人だけでなく、アメリカ人でも起きていることだ。また、ブレーンストーミングを行うことは、生産性や多様性の向上に繋がらないことがわかっている。さらに情動的共感は、共感は特定の個人に対しては強く働くが、集団に対しては働きにくい、あるいは働かない(211ページ)という問題を抱えている。最後に鈴木さんは、こうしたバイアスは、とても短い時間の中で決定をしなければならない「限定合理性」のために役に立つと、これまでのバイアスを振り返り、それらの良い側面を説明する。言語というとブローカ野や、ウェルニッケ野などがその中枢といわれているが、これはむろん言語のために用意されたものではない。他の用途で用いていたそれらの脳領野をうまく利用(ブリコラージュ)したのだ(245ページ)。だから人間の認知はエレガントではないことも多い。限られたリソースをブリコラージュしてきた認知機能を、理想的な状況と比較し、人間の知性を論じても無意味だろう。たとえばTwitterでは、自分の気に入らないアカウントをブロックしてしまうと、ウソや滅多に起きないことがエコーチャンバーになって繰り返し読まされることで、記憶に定着し、さらに悪いことに、ウソつきがこれを補強する。これも確証バイアスの一種だが、その結果、ある仮説に対する対偶の検証を怠るようになることには気づかなかった。自分も気をつけなければ‥‥。また、コトバから状況モデルを構築できないという点も頷ける。本書で引用されている新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』は読んだが、なるほど、状況モデルを構築できていないということなら分かりやすい。そして、ディープラーニングに与える学習データとして、状況モデルを構築しやすいものを集めるといいのだろう。私は、自分が創造的な人間でないという自覚がある。それで創造的になれるとは思わないが、SNSを利用するのは、多様な思考に接したいからだ。だから、認知が歪んでいる発言は学習データとして何の価値もないわけだ。とはいうものの、最終章で、これらのバイアスが必要なものであり、(鈴木さんはそう書いてはいないが)進化の必然の結果だという説明には驚いた。が、首肯せざるを得ない説得力を持っている。われわれの認知は既存機能、既存の認知の上にパッチワークする形で構築されており、したがって、そこから発露しているようにみえる知性には制約がある――これは才能や努力で改善するものではないから、学べば学ぶほど、否が応でもこの制約を思い知らされる。冒頭で鈴木さんが書いた「人は賢いからバカであり、バカだから賢い」という事実を受け入れる覚悟が要ると感じた。
2023.02.21
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僕らのパソコン10年史 知野明「新聞や雑誌などと違って誰でも自由に書きたいことが書ける『ネットワーク』というメディアには、実は一番『他人の立場を考える』という思いやりの心が必要である」(150ページ)著者・編者SE編集部=著出版情報翔泳社出版年月1989年9月発行20年後に出版される『僕らのパソコン30年史』(SE編集部,2010年5月)と重なる内容だが、こちらは1989年までの出来事であることと、当時の業界人の発言が興味深い。バブル経済全盛期、パソコンの歴史はたった10年しかなかった。マイクロソフト創業者ビル・ゲイツの表記が「ビル・ゲーツ」になっていたり、時代を感じさせる。1975年に『マイクロコンピュータの使い方』を出版した石田晴久 (いしだ はるひさ) さん(2009年3月死去)は、PC-9800シリーズが頑なに守ってきた解像度640×400ドットという制約が足枷になると指摘し、MS-DOSがかなり複雑になってきていることから、「これからはパソコンを使いやすくする努力を一生懸命しないといけないでしょう」(32ページ)と語る。ビジコンからインテルへ出向し、世界初のCPU「4004」の開発に携わった嶋正利 (しま まさとし) さんは、その後、ザイログへ移籍しZ80を開発する。当時を振り返り、いまの32ビットCPUは8086を高速に実行するためだけに使われていると批判し、OS/2ではなくWindowsが普及するだろうと予言する。また、CPUの一社独占はよくないことと考え、VMテクノロジーの設立に関わった。パソコンはもっと単純化して、デスクトップではなく、使いたいときにいつでも取り出して使えるラップトップ型がいいという。イーストの創業者で長年日本語変換ソフトに取り組んでいる[https://www.est.co.jp/ks/ks.htm:titl=下川和男]さんは、いまのワープロソフトは作り込みすぎており、たとえば「一太郎 Ver.4」でハードディスクとEMSがないとうまく動かないというのはユーザーが分からしたらありがたいことではなく、東芝のダイナブックのような軽い環境で動くといいと語る。また、DTPのための標準フォーマットETXを開発している。(AdobeがPDFバージョン1.0をリリースするのは、本書より後の1983年のこと。)パソコン通信時代の初期のネットワークジャーナリストの知野明さんは、「新聞や雑誌などと違って誰でも自由に書きたいことが書ける『ネットワーク』というメディアには、実は一番『他人の立場を考える』という思いやりの心が必要である」(150ページ)と語る。これは、30年後のインターネット時代でも変わらない真実だ。コラムニストの小田嶋隆 (おだじま たかし) さんは、「十年大昔」として、パソコン業界の移り変わりの速さを嘆く。
2023.02.12
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幼女戦記 第12巻 -Mundus vult decipi,ergo decipiatur- ターニャ「敗北の経験が抜けないうちに守りに入った軍というのは、心理的に敗北している」(223ページ)著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2020年2月発行統一暦1927年11月12日、ハンス・フォン・ゼートゥーア大将は、帝国軍が電撃侵攻したイルドア王国へ向かい、ヴィルジオニ・カランドロ大佐と会見し、1週間の停戦を結ぶ。この間に、帝国軍は補給を済ませた。一方、ロリヤ内務人民委員部長官はゼートゥーアに対し激怒していた。帝国のイルドア侵攻は、政治的に大きな意味があったからだ。そんななか、連合国の老練な諜報員ミスター・ジョンソンは、連邦で多国籍軍を指揮しているウィリアム・ダグラス・ドレイク中佐に、イルドア王国への転属を命じる。ジョンソンはドレイクに「貴官は軍事的に正しく、政治的には落第だ」と告げる。同じ頃、帝国軍参謀本部のエーリッヒ・フォン・レルゲン大佐は、「戦争だけできるのであれば、どれほど、気が楽なことか」と嘆く。停戦期間が終わり、帝国軍の再侵攻が始まった。だが、ゼートゥーアはターニャ・フォン・デグレチャフ中佐に王都を攻撃するなと命じる。これがゼートゥーアの手品だった。ターニャが率いる第203航空魔道大隊は、イルドア救援のため参戦した合衆国の魔導師連隊を軽く屠る。イルドア軍と合衆国軍は、王都を守り帝国軍を敗退させたと思い込まされた。これこそがゼートゥーアの詐欺だった。彼らは、北条氏の小田原城や豊臣氏の大阪城のように、最初から守りに入ってしまった。あとは、帝国軍が全力でこれを叩けばお終いだ。12月6日、王都は帝国に奪われた。ゼートゥーアは、ターニャからヴォーレン・グランツ大尉が率いる中隊を護衛に付け、車から降りて王都を散歩してみせた。このとき、ゼートゥーアはイルドア北部の工業地帯と穀倉地帯を占領していた。大量の住民が王都へ向かって避難を開始した。合衆国軍は、その正義がゆえに、避難民を守り、食糧を確保しなければならなくなった。ゼートゥーアは王都で使える物資をすべて奪い、マクシミリアン・ヨハン・フォン・ウーガ大佐に鉄道で帝都へ搬送することを命じ、王都を放棄する。殿を務める第203航空魔道大隊は、イルドアの補給路を断つべく、合衆国が荷揚げを行っている港湾施設を急襲した。しかし、この作戦は敵に読まれており、ターニャらは、またしても、大佐に昇進した変態のドレイクと猪のメアリー・スー中尉らのいる多国籍軍と交戦する羽目に陥る。多国籍軍が散弾を使用したことに対し、ターニャは一般回線を通じて戦時国際法違反だと告発する。「本気なのか? 連中、この期に及んで、何を言うんだ? 気にするのはそこなのか?」と、ドレイクは頭を抱えた。世界を敵に回した帝国――だがしかし、合衆国も連合王国もイルドア王国も、正義を錦の御旗に掲げるがゆえに、ゼートゥーアの手のひらの上で踊らされる羽目になる。そして、唯一、帝国を倒しうる連邦までもが、その煽りで立ち往生する羽目となった。「世界が騙されたがるならば、私に騙されてもらう」と、ゼートゥーアはほくそ笑んだ。合衆国の物量を前にして、ターニャのエレニウム九五式演算宝珠の力もチートではなくなってきている。だが、第203航空魔道大隊の必死の働きと、ゼートゥーア大将の命を賭した謀略により、合衆国も連邦もきりきり舞いさせられる。そして、12巻にいたってなお、帝国軍、協商連合、共和国、連合王国、イルドア王国、連邦、合衆国のいずれの国家も、相手のことを理解できないできる。だから平和は訪れない。この世界で存在Xがバベルの塔をやらかしたのかは分からないが、もし存在Xが全知全能であるなら、これほど欠陥だらけの人類を創造するわけがなかろう。
2023.02.11
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プリオン説はほんとうか? 当初は、プリオン説を懐疑していた人々が、やがてプリオン説を受け入れざるを得なくなったのは、結局、プリオン説以外の有効な代替案を掲げることも、それを証明することもできなかったからである。(237ページ)著者・編者福岡伸一=著出版情報講談社出版年月2005年11月発行著者は分子生物学が専門で、伝達性スポンジ状脳症の感染機構を研究している福岡伸一さん。2001年9月10日に、千葉県でいわゆる狂牛病(BSE;Bovine Spongiform Encephalopathy、牛海綿状脳症)の疑いがあるウシが発見されたと農林水産省が発表したことを発端として、BSE騒動が起きた。イギリスでは1985年にBSEが発見されており、1996年3月には、クロイツフェルト・ヤコブ病患者の発症の原因がBSEに感染した牛肉であると発表していた。翌2002年1月には雪印による牛肉偽装事件が発覚し、4月に雪印食品は廃業解散に追い込まれた。従来型メディアだけでなく、新興のネットメディアを巻き込んで大騒ぎになった。病気が〈うつる〉ということは、かならず病原体があるはずだ。研究者たちはBSEの病原体の探索に全力を注いだ。1920年代初め、2人のドイツ人医学者が精神荒廃や痙攣など多様な神経症状が急速に進行して認知障害を起こし、数ヵ月で死に至るクロイツフェルト・ヤコブ病 (CJD)を発見した。パプアニューギニアの風土病であるクールー病は、治療不能とされる神経の変性をもたらす伝達性海綿状脳症の一種で、CJDに関係すると考えられた。アメリカの医師ガイジュセクは、クールー病の原因がスローウイルスという未知の病原体という仮説を唱え、1976年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。BSEはヒツジのスクレイピー病に似ていた。1960年代後半、イギリスの放射線生物学者だったティクバー・アルパーらは、放射線を照射することでスクレイピー病にかかったヒツジの試料を不活性化することを試みたが、核酸を破壊できるほどのエネルギー量でも不活化できなかった。そこで、スクレイピー病は核酸を持たない病原体と考えた。独自にBSEの研究を行っていたアメリカの医師スタンリー・プルシナーは、BSEにかかったウシの特殊なタンパク質が蓄積しており、これを〈プリオン〉と名付け、これが病原体だという仮説を1982年2月19日のサンフランシスコ・クロニクル紙の1面に発表した。タンパク質自体が病原体ならば、微細なフィルターを通過することも、放射線によって壊れにくいことも、ウイルス粒子が見つからないことも説明できる。また、プリオンが、もともと宿主の持っている正常なタンパク質が長い時間をかけて変性して生成する、異常型のタンパク質であるとすれば、長い潜伏期の謎も、免疫反応が起こらない謎も一気に氷解する(5ページ)。地道な研究を続けてきたスクレイピー病研究者やヤコブ病研究者たちは、突然発表された〈プリオン説〉に大いに憤慨した。専門科学誌に詳細な実験結果が報告される前に大衆紙を使って宣伝がなされた、という学界の慣行破りに、まず不快感が先行した。しかし、なによりも問題とされたのは、この分野ではすでに他の研究者が明らかにしてきたことをとりまとめて羅列しただけで、ほとんど何もプルシナー自身の新発見はないに等しいにもかかわらず、「プリオン」という新語をいきなり打ち出してきたことだった(71ページ)。だが、異常型プリオンが病原体であることを裏付ける状況証拠が次々と明らかになる一方で、他に病原体の存在を示唆するデータがまったく得られなかった。1997年に、プルシナーはノーベル生理学・医学賞を単独で受賞した。だが、病巣から異常型プリオンタンパク質が精製され、それに感染性が証明された実験はない。つまり、コッホの三原則のうち2つが満たされていない。感染性(病原性)と異常型プリオンタンパク質の動きを追ってみても、かならずしも連動していない。福岡さんによれば、感染性が消える限界希釈点を超えても、サンプル中にはまだ多量の異常型プリオンタンパク質が検出できるという。また、スクレイピー病原体を、核酸を持ち得ないほどの非常に小さなものだという結論に飛躍があったことになる。かりにスクレイピー病の病原体が遺伝子核酸を持っており、それが一定の変異を常に引き起こすと考えてみよう。放射線や熱に強い耐性を示すのは、遺伝子核酸を守る非常に強固なコートタンパク質をまとっているのかもしれない。免疫機構をすり抜けるのは、たとえばHIVのようにリンパ球に取りつき、宿主の免疫系のレベル全体を低下させるからかもしれない。つまり、病原体がウイルスのような遺伝子核酸であるとするなら、発生している事象を単純明快に説明できるだろう。2001年9月10日に、千葉県でBSE(いわゆる狂牛病)の疑いがある牛が発見されたことが公表され、社会は騒然となった。1999年にスタートしたインターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」に肉骨粉スレが立ち上がり、事実とデマがない交ぜになった投稿であふれた。ノーベル賞を受賞していたプリオン説が〈事実〉として、それ以外はデマとして叩かれた‥‥。だが、本当にプリオン仮説は〈事実〉なのか。高校のときに生物の授業が好きだったことが、セントラルドグマの呪縛にかかっているのか――この疑問は今も解消されていない。本書はBSE騒動の中、今から17年前に出版されたものである。分子生物学者の福岡伸一さんが、BSEの感染機構を研究していることを思い出し、読んでみた。ネットを調べてみると、BSEの感染機構に関する研究は、当時とさほど変わっていない。つまり、病原体が異常プリオンだとするプリオン説は仮説の域を出ておらず、かといって、他に病原体――本書で福岡さんが提示している遺伝子核酸も見つかっていない。2022年6月、長崎大学は、人体解剖実習前の御遺体から異常型プリオンを発見したと発表した。プリオンはホルマリンにも抵抗を示し、解剖実習に臨む学生やスタッフがプリオン感染の危険にさらされることになると警鐘を鳴らしているが、果たして本当に感染性があるのだろうか。病原体も治療法もわかっていないプリオン病は、未解明の病気というカテゴリに入れたままにしておこうと思う。
2023.01.17
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A4対応ブックスキャナ「400-SCN063」 A4判に対応したUSB接続対応ブックスキャナー製造/販売サンワサプライ製品情報A4対応ブックスキャナ「400-SCN063」価格比較ここをクリック USB 2.0接続に対応したA4対応のフラットベッド型スキャナー。本の非破壊スキャンを想定したモデルで、角の部分に本をあてがうことで片ページずつスキャンを行うことが可能。エッジから2mmまでスキャンを行える。最大解像度1200dpiのCCDセンサーを搭載、PDF出力機能も備えている。本体サイズは491(幅)×291(奥行き)×102(高さ)mm、重量は約3.45kg。
2023.01.15
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ムダヅモ無き改革 プリンセスオブジパング 第13巻 御門葩子「さ、打ちに行こーじゃん!」著者・編者大和田秀樹=著出版情報竹書房出版年月2022年12月発行著者は『機動戦士ガンダムさん』『大魔法峠』でお馴染みの大和田秀樹さん。御門葩子 (みかど はこ) が率いる日本代表とドイツ代表の決勝戦――スーパーアーリア人に変身したアドルフィーネ=ヒトラーに対し、ミカドの援護を受けた葩子が@天沼矛@スピアー オブ ジェネシス@を繰り出す‥‥小泉、ヒトラー、プーチン、ブッシュ、天皇陛下‥‥シリーズ累計280万部を突破した政治+麻雀アクション漫画が、ついに最終巻を迎える。「神々の指紋」「天沼矛」「中つ国」「国士無双十三面 (ライジングサン) 」‥‥どこまでも麻雀に絡め、見開き大ゴマで必殺技を繰り出す大和田秀樹さんの演出は天晴れ?
2023.01.01
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宇宙開発の不都合な真実 不都合な真実を不都合なまま放置していくのか、不都合を好都合に変えていくのか、それはあなた自身の宇宙開発への向き合い方にかかっている。(204ページ)著者・編者寺薗淳也=著出版情報彩図社出版年月2022年9月発行著者は、宇宙開発事業団(NASDA)、宇宙航空研究開発機構(JAXA)などで働き、現在、合同会社ムーン・アンド・プラネッツの代表社員でNPO法人日本火星協会理事、「月探査情報ステーション」編集長をつとめる寺薗淳也さん。宇宙開発の最前線で働いている寺薗さんは、宇宙開発を無思考に礼賛するのではなく、一歩引いて、日本と世界の宇宙開発を冷静に眺め、未来を展望するために本書を著したという。その歯に衣着せぬテクストには説得力がある。第1章では、宇宙の資源採掘について考える。アニメ『機動戦士ガンダム』では小惑星から採掘した資源を使ってスペースコロニーを建設するという設定だが、これが現実にものになりつつある。月にあるとされる水を利用し、月面基地を建設したり、火星への有人探査を進めようとするアメリカ政府――アルテミス計画には日本も参加している。小惑星探査機「はやぶさ」には、資源採掘の技術開発という役目があった。欧米では法律を制定・改正し、宇宙の資源採掘を可能にしている。日本でも2021年に「宇宙資源の探査及び開発に関する事業活動の促進に関する法律」(宇宙資源法)が成立した。だが、寺薗さんは問いかける――こうした法律は、宇宙は誰のものでもないとする宇宙条約に反してはいないだろうか。第2章では、宇宙開発をベンチャー企業に委ねる流れが加速していることについて考える。イーロン・マスクが率いるスペースXは宇宙開発ベンチャーの代表選手だが、企業の都合ひとつでサービスが使えなくなったり、企業が倒産すれば技術が丸ごと失われてしまう可能性もある。日本では小説『下町ロケット』や東大阪の「まいど1号」が話題になった。だがしかし、宇宙開発は総合技術の産物で、ある町工場の技術力がいくら優れていても、それだけでは宇宙開発はできない。寺薗さんは問いかける――現在は少し宇宙ベンチャー偏重の雰囲気があるのではないか。第3章では、日本の宇宙開発のレベルを考える。寺園さんは、宇宙開発に順位をつけることは難しいとしながら、アメリカ、中国、ヨーロッパ、ロシア、インド、そして日本の順だろうという。日本の宇宙開発は、総合力で他国に後れを取っている(60ページ)。まず、日本の宇宙開発予算は少ない。月・惑星探査計画を低予算で実行するNASAのディスカバリー計画では火星探査計画が約1000億円だが、これだけで日本の全宇宙開発予算の3分の1に達する。要員も少ない。JAXAの職員数は1500人前後で、NASAの10分の1以下、ヨーロッパと比べても少ない。少ない予算で、月、火星、小惑星探査の順にアプローチすることは難しい。実際、月探査機「かぐや」(セレーネ計画)は、当初、月着陸を目指したが、予算不足とロケット打ち上げ失敗の影響でキャンセルになってしまった。そこで、はやぶさには、小惑星探査を先行し、そのインパクトで宇宙開発予算を増やそうという博打的な側面があったという。はやぶさは大成功をおさめたが、宇宙開発予算が増えたわけではない。全体の予算は増えたものの、北朝鮮の弾道ミサイル発射事件に応じ、情報収集衛星を次々に打ち上げているからだ。第4章では、宇宙開発の軍事利用について考える。現代の宇宙ロケットは、第二次世界大戦中にドイツで開発されたミサイルV2を先祖にもつ。日本がいくら宇宙の平和利用を唱えようとも、海外諸国がそれを額面通りにとるとは限らない。実際、アメリカ戦略国際問題研究所 (CSIS)は、はやぶさが小惑星からサンプルを採取するために使った衝突技術は、対衛星兵器に利用できると報告した。日本の宇宙基本計画の2015年改訂版では、「宇宙空間の安全保障上の重要性の増大」という章が設けられた。平和憲法があろうが宇宙条約があろうが、私たちは時代に即し、世界情勢を鑑みて、宇宙開発を現実のものとして見定める必要があるだろう。第5章では、今後の宇宙開発に影響する人災と天災について考える。まず深刻な問題が宇宙ゴミ(スペースデブリ)だ。10センチ以上のものは約3万600個、1センチ以下のものはなんと1億3000万個にものぼるとみられる。これが秒速8キロという猛スピードで宇宙空間を疾走する。ライフル弾の初速が秒速1キロだから、1ミリのデブリでも、その破壊力を甘く見てはいけない。アニメ『プラネテス』でリアルに描かれた。小惑星や彗星が地球に衝突する大災害も心配だ。聖書に登場するソドムとゴモラの滅亡は、実際に隕石の落下によって引き起こされたという研究結果が発表されている。ある研究に寄れば、天体衝突で死亡する確率は3000~25万分の1。アメリカでは交通事故で死亡する確率が30分の1、飛行機事故が3万分の1で、それよりは低いが、地震の1万分の1、落雷の13万5000分の1に近い。JAXAは、美星スペースガードセンター(岡山県)が望遠鏡を使った観測をしているが、スペースデブリに監視に注力すると、大災害の予測が難しくなる。寺薗さんは、「扇情的なメディア、無関心な政治家、そしてそのような状況を許す国民。宇宙開発の、というよりは地球にとっての不都合な真実が、いつか本当の真実になってしまう」(189ページ)と警鐘を鳴らす。小学生の頃、望遠鏡で夜空を眺める一方、図書館で伝記を読みあさった。コペルニクス、ケプラー、ガリレオからアインシュタイン、フォン・ブラウンまで――本書にも登場するヴェルナー・フォン・ブラウンは、ドイツでV2ロケットの開発に携わり、アメリカに移ってからは宇宙ロケット開発の中心人物となった。子どもの時から、宇宙ロケットとミサイルと同じものだと分かっていた。特撮やアニメでもそうではないか。技術者として正常性バイアスには注意を払っている。阪神淡路大震災や東日本大震災に遭ったとき、慌てふためくわけでもなく、「どうせ大丈夫」「大したことがない」と軽視するでもなく、仕事として淡々と係わり、冷静にリスク分析することに努めた。寺園さんは「情報技術(IT)の分野で起きたことが、宇宙開発の分野でも現在進行形で起きているとしか思えない」(190ページ)と指摘する。IT屋としては耳の痛い話である。とはいえ、かつての天文少年は、仕事を通じて、宇宙開発事業との接点ができたし、ある程度は社会に発言力をもつようになった。寺園さんが言うように、私も宇宙開発ファンとしてではなく、宇宙開発サポーターでありたい。JAXAの水循環変動観測衛星の名称公募に応募して、見事にヒット。立派な命名証が送られてきたものだから、年甲斐にもなく宝物にしている。パブリックコメントにも積極的に投稿していこうと思う。
2022.12.28
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新版 動的平衡 2 ところが、生命現象は本当は「メカニズム」と呼べるような因果関係に基づく機械仕掛けで成り立ってはいない。絶え間なく動きながら、できるだけある一定の状態=平衡を維持しようとしている。そういう状態にあるものに対して干渉を加えれば、いっとき、確かに平衡状態は移動して別の様相を示す。しかし、間もなく揺り戻しが起こる。(228ページ)著者・編者福岡伸一=著出版情報小学館出版年月2018年10月発行著者は、分子生物学が専門の福岡伸一さん。「生命とは何か」という生命科学最大の問いに対する研究を続けており、一般向けの啓蒙書を多く執筆している。『[./DynamicEquilibrium.shtm=新版 動的平衡]』の続編だが、本書だけでも内容が理解できるようになっている。1677年に自作の顕微鏡を使って精子を発見したオランダの科学者アントニ・ファン・レーウェンフック――福岡さんが関心を抱いている画家ヨハネス・フェルメールも同じ年、同じ場所で生まれた。2人の交流を示す文献的な記録はないというが、フェルメールが1675年に亡くなったあと、レーウェンフックの観察スケッチのタッチが変わったという。実際、レーウェンフックはフェルメールの遺産管財人となっている。福岡さんが科学者でありながら文系大学で教鞭を執るのは、理系と文系は不可分であり、両者が動的平衡の関係にあるからかもしれない。福岡さんはダーウィン進化論に疑問を呈する。ダーウィン進化論では、遠い将来に役立つかもしれないことを、生物があらかじめ準備することはできない。視覚は有利な形質で自然選択されたのかもしれないが、水晶体だけができただけの生物は自然選択される余地がない。生命とは何か――イギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスは「自己複製するもの」と定義した。この定義は現在も主流だ。ここでも、福岡さんは疑問を呈する。遺伝子が産めよ増やせよと命令したとしても、私たちは産まないという選択もできる。そこには、「自由であれ」という命令があるのではないか。それこそが〈動的平衡〉なのではないか。ファーブルが『昆虫記』を執筆した頃、ダーウィンが『種の起源』を著した。ファーブルはダーウィンの説に与さなかったという。『昆虫記』は、当時、文学作品としては評価されたが、ゲンダイから振り返れば、ファーブルこそ行動学的研究の祖である。大腸菌のゲノムとは別に存在するプラスミッドは、自己増殖するDNAで、ゲノムDNAと一緒に分裂して子孫に伝搬する。人類は、プラスミッドをベクターとして利用し、遺伝子工学を発展させてきた。それだけでなく、大腸菌の間でプラスミッドのやり取りがある。薬剤耐性菌の出現は、プラスミッドの水平展開の結果だ。DNAはタンパク質の設計図だ。そのDNAはタンパク質から作られている。では、生命が誕生したとき、DNAが先にあったのか、それともタンパク質が先立ったのか――。ある種のRNAはタンパク質からできた酵素のような振る舞いをする。そこで、原初にRNAがあり、そこからDNAやタンパク質が作られたとするRNAワールド仮説が提唱された。生命の誕生に結びつくRNAが、偶然に合成されるには長い時間が必要だったろう。一方で、 細菌の化石が発見されている。DNAとタンパク質から成る生命が誕生するのに、地球誕生からわずか8億年しか経っていない計算になる。そこで福岡さんは、生命が地球外から飛来したとするパンスペルミア説を紹介する。DNAは4つのヌクレオチド(A: アデニン、C: シトシン、G: グアニン、T: チミン)から成る長い紐状の物質である。ヌクレオチド3個(コドン)で4×4×4の64通りの順列を作り出せる。これが20種類のアミノ酸に対応する。これをトリプレット暗号と呼ぶ。実際には、タンパク質の合成の終わりを意味する終了コドンや、1つのアミノ酸に対して複数のコドンが対応することで冗長性を持たせている。だが、各アミノ酸が、どうやって特定のコドンと対応づけられたのかは分かっていない。1809年にラマルクが提唱した用不用説は、獲得形質が遺伝することを示唆した仮説だが、先進的すぎて社会に受け入れられなかった。その後、産業革命が起こり、帝国主義が台頭し、1859年になり、ラマルクを読んでいたダーウィンが著した『種の起源』は社会に受け入れられた。1867年にカール・マルクスは『資本論』を書き上げ、ダーウィンに献本した。1883年に執り行われたマルクスの葬儀では、盟友エンゲルスが「自然界ではダーウィンが生物進化の法則を発見したように、マルクスは人類史における進化の法則を発見した」と弔辞を述べた。この前年にダーウィンは他界していたが、2つの思想が世界を席巻する20世紀が幕を開けようとしていた。福岡さんは「生命現象は本当は『メカニズム』と呼べるような因果関係に基づく機械仕掛けで成り立ってはいない。絶え間なく動きながら、できるだけある一定の状態=平衡を維持しようとしている」(228ページ)という。したがって、医薬品は短期的には想定した効果を発揮するが、長期的には動的平衡を動かし、薬がだんだん効かなくなったり、より大量に服用しなければならなくなったり、あるいは耐性菌が出現したりする。福岡さんによれば、「流れる水が身体の内部に発生するエントロピー=乱雑さを常に体外に排出」(230ページ)しているという。その役割を担っているのが腎臓だ。だから生物は大量の水を必要とし、身体の大部分が水分から成っている。福岡さんは「がんという病には、生命とは何かという問いが余すところなく内包されている」(252ページ)という。抗がん剤を使ってがん細胞の活動を止めようとすると、がんは別のバイパス経路を活性化させる。がん組織の内部が低酸素状態になると、ストレス応答遺伝子を活性化させ、より強力ながん細胞に変化する。福岡さんは「ゲーデルの不完全性定理」――決定不可能な命題が、その体系内に必ず存在する――を引用し、がんというものが問いかける逆説と共鳴する諦観のような響きがあるのではないかという。福岡さんは最後に、「生命の問題を考えるとき、そして生命とは何かを問うとき、思考はどうしても哲学に接近してしまう」(282ページ)と結んでいるが、本書が冒頭から文系の匂いを感じさせるのは、そういう意図があったからなのだと得心がいった。科学者も技術者も哲学が必要とされる時代なのだ。今から40年前の話――高校の「生物II」は、先生が教えるのではなく、生徒が発表するという形だった。1年で1クラスの人数分の授業があるので、年初に教科書の中から分担する場所を決めて、毎週、順番に発表した。私が担当したのはDNAのプロモーターとターミネーター――当時は何でこんなものが教科書にあるのか分からなかったのだが、後にエクソンとイントロンによる選択的スプライシングが行われることを知り、本書を読んで、動的平衡との関連性に気づいた次第――学校の勉強は役に立つことが多い。さらに、レーウェンフックとフェルメール、ラマルクとダーウィンとマルクス――世界史と生物と政治経済で学んだことが結びつく。こうした総合教育の先で哲学を学ぶ必要を感じる。義務教育の段階では難しいだろう。高等教育(大学)で学ぶべきだが、残念ながら、いまの大学教育はそういうシラバスになっていない。社会人になってから学ぶしかない。本書ではエントロピー増大の法則に適用する生命の戦略が明らかにされる。あくまで福岡さんの仮説ではあるが、最後に記されている量子力学との対比は興味深い。因果関係と相関関係‥‥生命や地球環境のような複雑系は、因果関係を明らかにできないということは、多くの学者が示している。だからといって、相関関係だけで問題解決をはかるのも乱暴だろう。福岡さんは、原因と結果、善悪だけでなく、物事の美醜を判断基準にしてはどうかと提案する。たしかに、年齢を重ねるにつれ、私の中でも美醜を基準に判断することが増えてきた。つまり、そういうことなのだろう――。
2022.12.25
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新版 動的平衡 動的平衡ゆえに生命はこの地球上に出現して以来、38億年の長きにわたって連綿と存続してきた。動的平衡とは、“生命が変わらないために変わり続けている”ことでもある。その意味で、動的平衡はある種の有機的組織論とも言える。(316ページ)著者・編者福岡伸一=著出版情報小学館出版年月2017年5月発行著者は、分子生物学が専門の福岡伸一さん。「生命とは何か」という生命科学最大の問いに対する研究を続けており、一般向けの啓蒙書を多く執筆している。本書は以前読んだことがあるが、『生物と無生物のあいだ』は65万部を超えるベストセラーとなった。NHKの『最後の講義 生物学者 福岡伸一』を見て、あらためて読み直してみた。「生命とは何か」という問いに対して、DNAの世紀だった二十世紀的な見方を採用すれば「生命とは自己複製可能なシステムである」との答えが得られる(258ページ)。だが、この定義には、生命が持つもう一つの極めて重要な特性がうまく反映されていない。それは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステムである」という古くて新しい視点である(258ページ)。生命はエントロピー増大の法則に適応するため、自らを壊し、不可避的に自らの内部に蓄積される乱雑さを外部に捨て、そして外部から材料を取り込んで自らを再構築するという戦略を選んだ。これこそが、福岡さんが提唱し、本書のタイトルにもなっている動的平衡だ。合成と分解、酸化と還元、切断と結合など相矛盾する逆反応が絶えず繰り返されることによって、秩序が維持され、更新されてゆく(316ページ)。動的平衡は、1930年代にルドルフ・シェーンハイマーが提唱した考えを引き継いでいる。ヒトの身体を構成している分子は次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない(36ページ)。記憶は生体分子ではなく、シナプスという構造によっている。また、新陳代謝速度が加齢とともに確実に遅くなる(46ページ)ことから、われわれは歳をとるほど時間が早く過ぎるように感じるという。You are what you ate.(汝とは、汝の食べた物そのものである)(66ページ)という西洋の諺がある。われわれ生物は、口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する(72ページ)という消化を行う。たとえば、コラーゲンをたくさん食べても、そのまま肌の構築材料に使われるわけではなく、いったんアミノ酸に分解されてしまう。また、コラーゲンが皮膚から吸収されることはありえない。分子生物学者の福岡さんは、「『コラーゲン配合』と言われても『だから、どうしたの?』としか応えようがない」(85ページ)という。福岡さんによれば、「『身体にいい』食べ物とは、必須アミノ酸をバランスよく含んでいる食材」(90ページ)であり、その代表選手が鶏卵だ。一方、トウモロコシはトリプトファンという必須アミノ酸がほとんどない。分子生物学的に考えると、ダイエットの基本は、インシュリンが大量放出されないよう、「だましだまし」食べる(113ページ)ことだという。余剰カロリーを消費する運動は現代人にとってかなり厳しいものなので、まずはインプットを減らそうという、科学的でお気楽な方法である。なお、栄養素のうち、タンパク質は貯蔵ができないので、1日あたり60グラムのタンパク質を平均して摂取することが大切だという。ヒトゲノム計画のおかげで、ヒトの細胞で働いている遺伝子が約2万個あることが分かった。ヒトは2万種類のパーツからできているということになるが、福岡さんによれば、単に2万種のパーツを組み立てた機械ではないダイナミズムがあるという。つまり、時間に沿って、これらの部品の相互作用が起きることが「生命」であるという。福岡さんは、これを、「生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体としてのバランスを保つ機能――それを、私は『動的平衡』と呼びたい」(176ページ)という。病原体は、原則として種の壁を越えて感染することはない。宿主の細胞に取り付いて、細胞の内部に入るための扉の鍵は、種によって違うものになるからだ。同様に、種の壁を越えて生殖を行うことはできない。精子が卵子の内部に入るためにも合鍵が必要になるからだ。だが、ウイルスは種の壁を越えて感染することがある。そして、独自のDNAをもつ細胞内小器官の葉緑体やミトコンドリアは、かつて別の微生物だったものが細胞に取り込まれたと考えられている。「ミトコンドリアの細胞共生説」を唱えたのは、ボストン大学の女性科学者リン・マーギュリスだった。彼女は天文学者カール・セーガンの妻(のちに離婚)だが、カール・セーガンがSF小説を書いたり、NASAの惑星探査計画で宇宙人にメッセージを届けようとしたり、異端の科学者であったことが影響したのか、彼女の学説も異端扱いされた。「ミトコンドリア・イブ」が取り上げられ、小説『パラサイト・イヴ』が出版されるなど、いまではミトコンドリアの細胞共生は定説になっている。2016年のノーベル生理学・医学賞は、大隅良典氏のオートファジー研究に対する貢献に対して授与された。オートファジーとは自食作用のことだが、これも動的平衡のメカニズムの1つだ。2016年のノーベル生理学・医学賞は、大隅良典氏のオートファジー研究に対する貢献に対して授与された。オートファジーとは自食作用のことだが、これも動的平衡のメカニズムの1つだ。生命とは何か――高校の生物で習ったのは自己複製であった。エネルギー代謝や構造を加える場合もある。大学へ進学し、人工知能研究として出会った言語 Prolog は、学習データを自らのプログラムに取り込み増殖、自己複製することができる。電気エネルギーを情報に変換して蓄えることができる。もちろんプログラミング言語としての構造を備えている。では、Prologは生物であるか――否。本書で福岡さんは、生命が「可変的でありながらサスティナブル(永続的)なシステム」であると唱える。これは今までになかった視点だ。生命を構成する分子は、エントロピーの増大に適応するため、次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。Prologには、こうしたサスティナブルな仕組みは備わっていない。プログラムが1行でも、1バイトでもエラーを起こせば、システム全体に不調を来す。また、分子生物学者の視点から、怪しげなダイエットやサプリメントを切って捨てる。1日あたり60グラムのタンパク質を平均して摂取することが、生き続けるのに必要なことだという。
2022.12.24
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大人が知っておきたい物理の常識 すべて物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態を変えられないかぎり、そのまま続ける(34ページ)著者・編者浮田裕=著出版情報SBクリエイティブ出版年月2015年12月発行著者は、法政大学教職課程センターの教授、左巻健男さんと、兵庫県立星陵高等学校の先生、浮田裕さん。力学からはじまり、仕事とエネルギー、熱力学、伝記、電磁気、波と、一部は高校物理の範囲を超えているが、大人の常識として押さえておきたいポイントが凝縮されている。基本的な数式も登場する。挿絵のウサ耳メイドは謎(笑)。すべて物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態を変えられないかぎり、そのまま続ける(34ページ)――アイザック・ニュートン『プリンキピア』の有名な一説だ。ニュートンの運動方程式を解くと、加速度がないときは、物体が静止しているか、等速度運動をしているかのいずれかになる。もし物体の中に乗客がいたとすると、乗客には、静止と等速直線運動は区別がつかない。慣性力が働いているからだ。加速度がついている物体は仕事をする。物理でいうエネルギーは仕事をする能力である。エネルギーの単位は仕事と同じJ(ジュール)だ。エネルギーには8種類がある。(1)運動エネルギー(2)位置エネルギー(3)熱エネルギー(4)電気エネルギー(5)弾性エネルギー(6)化学エネルギー(7)電磁波のエネルギー(8)核エネルギー熱エネルギーと関係が深いエントロピーにより、永久機関はあり得ないことがわかる。フランクリンは雷の電気を、集めることができる流体と考えていたようだ。人類は、電気の正体が電子であることを知る前から、電池を発明し、発電機を製造した。電気には正と負かあり、お互いに引きつけ合い、正どうし負どうしといった同種の符号をもつ場合には反発する。この力をクーロンカと呼び、電気の量(電荷)に比例し、距離の2乗に反比例する。空間に、ある電気量をもった物体を置いた場合に、その周りには電場(電界)が生じる。物理学や数学を苦手な人が多い。社会に出て役に立たないことを、なぜ勉強しなければならないのかと言い出す人もいる。だが、それは違う。投資詐欺や宗教詐欺、反医療運動や反原発運動――社会には数々の非科学的な動きがある。そうした活動から自分の身を護るために、物理学や数学を学ぶのだ。本書に永久機関がなぜできないのか、解説がある。これを読めば、永久機関と称する商品への投資詐欺に引っかからないで済むだろう。中学・高校時代に物理が苦手だったあなた、大人になってもう一度学び直してはいかがだろうか。今度は3年と時間が限られているわけではない。定期テストがあるわけでもない。自分が学べるときに少しずつ学んでみよう。
2022.12.04
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半導体のすべて 半導体業界では、基本デバイス技術やプロセス技術・設備技術さらに製造ライン技術などの面で、これまではDRAMが先導役を果たしてきました。(40ページ)著者・編者菊地正典=著出版情報日本実業出版社出版年月1998年10月発行著者は、日本電気で半導体事業に携わってきた技術者の菊地正典さん。半導体の物理学からはじまり、ダイオードやトランジスタの役割、メモリやCPUの仕組み、製造プロセス、最先端技術について図解を交えて解説している。半導体に関わる仕事に就こうとしている方にお勧め。IV族の元素シリコンに、リンやヒ素、アンチモンなどのV族の元素をほんのわずか添加することで1個の電子が余り、シリコン内を自由に動き回れる「目由電子」がたくさんでき、抵抗が一挙に下がる。これが半導体である。電子の電荷がマイナス(Nagative)であることからN型半導体と呼ぶ。一方、ホウ素などのIII族の元素の元素をほんのわずか添加すると1個の電子が不足し、「正孔」と呼ばれる見かけ上、プラスの電荷(Positive Charge)をもったP型半導体となる。半導体の機能として最もポピュラーなのはトランジスタだが、その他に、ダイオードやコンデンサ、抵抗としても機能する。これらを1つのパッケージに集積したもの集積回路(IC)である。ICは、トランジスタの集積度によって、SSI、MSI、LSI、VLSI、ULSIと分類される。ロジックICやメモリは1000個以上を集積するVLSIだ。半導体は、電話やオーディオ機器などで使うDSP、デジカメなどで使うCCD、さまざまなIT機器に搭載されるフラッシュメモリ、また、コーデックやA/D・D/Aコンバータとしても活躍している。半導体業界では、基本デバイス技術やプロセス技術・設備技術さらに製造ライン技術などの面でDRAMが先導役を果たしてきた。DRAMのメモリセル部には、ワード線とビット線が縦・横に格子状に走っており、その各交点に1個のトランジスタと、これに直列に接続された1個のコンデンサが配置されており、このセットで1ビットの情報を記憶することができる。1ビットが書き込まれたセルでは、トランジスタのソース領域でのNP接合の微小な漏れ電流が起きており、時々、再書き込み(リフレッシュ)をしてやる必要がある。これに対しフラッシュメモリは、データが一度書き込まれると、電子は酸化膜で絶縁されますので、半永久的に記憶を保持する。ただし、データの消去はワード単位で行う必要がある。半導体を使ってNAND型、AND型、OR型という論理回路を作ることで、計算ができるようになる。ICの開発は、市場調査・需要予測からはじまり、開発計画を立て、設計工程と試作を経て、評価を行い、量産、出荷に漕ぎ着ける。製造工程は1000プロセスに及ぶが、大きく分けると、ウエーハ上に回路を作り込む前工程と、ウエーハからチップを切り出して出荷するまでの後工程の2つに分かれる。IC製造に使われるシリコンは、99.999999999%と、9が11個(イレブン・ナイン)も並んだ「超高純度の単結晶構造」でなければならない。「純金」でさえ、99.99%(フォー・ナイン)の純度であることを考えると、半導体が求める要求度に驚く。シリコンの塊(インゴット)は、直径8インチ、長さ2メートルのもので150kgある。ここからウエーハを切り出す。ICの製造コストを下げるため、ウエーハの直径はどんどん大きくなっている。前工程では、まずウエーハの表面に薄膜を形成し、不純物を拡散させ、フォトレジストにより回路パターンを転写する。エッチングにより回路を作り込み、洗浄する。後工程では、ウエーハからチップを1個1個切り出し、ICフレームにマウントし、電極をボンディングする。最後に、樹脂や金属、セラミックに封入し、表面に捺印する。
2022.12.03
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天変地異の地球学 束を『いなす』、『かわす』方法を考えること、束とのつきあい方を考える必要がある。(38ページ)著者・編者藤岡換太郎=著出版情報講談社出版年月2022年8月発行地球科学が専門で、「しんかい6500」に51回乗船し、太平洋、大西洋、インド洋の三大洋初潜航を達成した藤岡換太郎さんが、天変地異を駆動する巨大サイクルの根源に迫る。「天災は忘れた頃にやってくる」というのは物理学者・寺田寅彦の言葉だが、一生のうちに一度か二度経験するような地震・台風・噴火・津波などの記録をたどると、それらは一定の周期で起きているようだ。1940年代から1950年代にかけては、やたらに台風が上陸した時期があった――1947年のカスリーン台風から1959年の伊勢湾台風まで。日本列島は、「4つのプレート、4つの気団、4つの海流」(43ページ)に囲まれており、このことが天災の複雑な周期をもたらしているようだ。そして、藤岡さんによれば、天災は束になってやってくるという。この「束を『いなす』、『かわす』方法を考えること、束とのつきあい方を考える必要」(38ページ)があるという。「セルビアの物理学者ミランコビッチは1920~1930年代に、寒冷と温暖は2.3万年、4.1万年、10万年という3通りの周期で繰り返されているという仮説」は、のちにミランコビッチ・サイクルと呼ばれるようになる。これは、地球と太陽の位置関係によって起きているようだ。さらに長期の天変地異――オルドビス紀末や三畳紀末などの生物の大絶滅、地球磁気の反転、スノーボールアース――これらも周期的に起きており、3000万年と2億5000万年という周期がありそうだ。ここには、マントル対流によって引き起こされるプルームテクトニクスが関係しており、超大陸の生成を分裂と連動しているようだ。なぜスーパープルームが起きるのか、なぜ超大陸ができるとスノーボールアースになるのか――話は銀河系の回転に及び、藤岡さんは空想科学的な仮説を提示する――経験豊富な地球科学者の仮説だけに、空想科学にとどまらない予感がする。阪神淡路大震災、平成の豪雨災害、東日本大震災‥‥大きな自然災害が起きるたびに、行政は、耐震基準を変えたり気象予報を変えるなど〈科学的〉な対応をとってきた。だが、本書で藤岡さんが提案しているように、必要なのは自然災害の「束を『いなす』、『かわす』方法を考えること」ではなかろうか。天災の原因が地球システムにあるとしたら、それを止めることはできない。止めることは地球の死につながるからだ。われわれ日本人は古くから、荒ぶる神としての自然と付き合ってきた民族である。こうした考えを〈科学〉と結びつけ、犠牲者が1人でも減るような生活スタイルを目指してはどうだろうか。
2022.11.27
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幼女戦記 第11巻 -Alea iacta est- カランドロ大佐「要するに、帝国には滅んでいただきたい。それが、先方の嘘偽りなき希望です」(118ページ)著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2019年2月発行統一暦1927年9月10日、ともに大将に昇進したハンス・フォン・ゼートゥーアとクルト・フォン・ルーデルドルフは帝都でクーデターを起こすことを検討する。だが、ルーデルドルフの執務室を出たゼートゥーア大将は、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐にルーデルドルフ大将の殺害計画を打ち明けた。一方、エーリッヒ・フォン・レルゲン大佐は、イルドア王国のヴィルジオニ・カランドロ大佐に講和の仲介をするよう工作していた。レルゲン大佐は、無賠償・無併合・民族自決の3本軸が帝国が最大限譲歩しうるラインだと考えていたが、カランドロ大佐は理解できなかった。交戦国が望んでいるのは帝国の滅亡だったからだ。統一暦1927年9月26日、海上封鎖をしていた帝国軍潜水艦が、中立国である合衆国の貨客船を2隻も攻撃してしまう。10月2日、東部方面軍司令部にて、ルーデルドルフ大将とゼートゥーア大将は今後の作戦計画を巡って激論をかわした。ルーデルドルフ大将が退出した後、ゼートゥーア大将はターニャにルーデルドルフ大将の殺害を命じた。翌10月3日、ルーデルドルフ大将が乗った帝都へ帰る輸送機の護衛として、ターニャが率いる第二〇三航空魔導大隊の選抜中隊が護衛任務に就いた。帝都へ帰着する前にルーデルドルフ大将を殺害する計画だった。しかし、帝国の領空にも拘わらず連合王国の爆撃機が襲いかかり、航空支援を得られない第二〇三航空魔導大隊の奮戦虚しく、ルーデルドルフ大将が乗った輸送機は撃墜される。計画は失敗だったが、結果としてルーデルドルフ大将は帰らぬ人となった。10月4日、ゼートゥーア大将が東部方面軍から参謀本部に帰還し、大将、戦務参謀次長、査閲官を兼ね、軍を掌握した。ゼートゥーア大将はレルゲン大佐に、合衆国と同盟を結ぶ兆しがあるイルドア王国への攻撃を命じた。そして、ターニャのサラマンダー戦闘団にも参戦を命じた。命令とは、伝達されるものだ。上位者から、下位者へ。そこには、いかなる例外もあり得ない。イルドア戦は時間との勝負だ。11月11日に帝国軍は、宣戦布告と同時に国境線を超えた。レルゲン大佐はイェルク中将が戦死した後の第八機甲師団を率い、とんでもない速度でイルドア国内へ侵攻し、イルドア国境司令部を急襲した。カランドロ大佐は司令部を放棄して脱出せざるを得なかった。帝国軍の完勝だった。ターニャたちはイルドア王国の豊富な食材を使って勝利の宴を催した。だが、ゼートゥーア大将は容赦なく、ターニャに命じる。改良型V-1に乗り込み、改修中のイルドア海軍艦船を破壊しろと。ゼートゥーア大将は敗北を前提に足掻いているのかもしれない。賽は投げられた。だが、詐欺師のゼートゥーア大将のことだ。サイコロにイカサマの一つも仕込んだと想定するべきだろう。ルーデルドルフ大将が去り、いよいよ帝国の敗色が濃厚になってきた。だが、ゼートゥーア大将は権力を掌握し、イルドア王国に攻め込むという博打に打って出る。本来、参謀本部という後方で作戦指揮を執るレルゲン大佐までもが最前線に出て高揚する姿は、デスマーチで徹夜ハイになっているプログラマのようである。「戦争へは、真面目にのめり込みすぎては心を病んでしまう。思い詰めるのは精神衛生に甚だ望ましからず」(270ページ)と思うターニャ。仕事と同じである。
2022.11.07
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幼女戦記 第10巻 -Viribus Unitis- 元人事として断言しよう。人間は、往々にして自分の市場価値を信じられないほど過大評価する悪癖がある。誰もが信じて疑わないのだ。『自分は、平均よりも上に違いない』、と。(170ページ)著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2018年9月発行統一暦1927年7月25日、帝都ベルン滞在中のターニャ・フォン・デグレチャフ中佐は帝国の勝利は不可能であり、真剣に転職(亡命)を考えていた。クルト・フォン・ルーデルドルフ中将はターニャに封緘書類を持たせ、東部戦線にあるハンス・フォン・ゼートゥーア中将に届けさせた。ゼートゥーア中将は奇策をもって東部戦線での巻き返しをはかるべく、ターニャとヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ中尉に威力偵察を命じる。これを、多国籍義勇軍のドレイク中佐とミケル大佐が迎え撃つが、父親の敵であるターニャに憎悪を燃やすメアリー・スー中尉が、膨大な魔力を発揮し、見方を誤爆。ドレイク中佐も重傷を負い、ゼートゥーア中将の作戦が発動する。西方戦線の転属となったターニャは、ロメール少将から海軍と共同で連合王国本土を強襲する作戦を告げられる。ターニャは、帝国海軍の貧弱な海軍力に加え、制空権もない状況での強襲などあり得ないと抗議するが、ロメール少将は聞く耳を持たない。ターニャは心の中で、「頭がどうかしている。戦国有数の頭がどうかしている系で特筆すべき島津ですら、防御は自らの勢力圏でやっているぞ」(164ページ)と叫んだ。ロメール少将の強襲作戦の裁可をもらうため帝都ベルンに戻ったターニャは、レルゲン大佐と外務省のコンラート参事官の面談を受け、帝国が勝てないことを力説し、講和を求める。だが、レルゲン大佐は、「統一された見解などなし。この一点のみで、参謀本部も、最高統帥会議も、政府も、全てが一致していましょうな」(232ページ)と語った。コンラート参事官は、「理屈ではないのだ、中佐。なにしろ、ライヒの問題だ。我らがライヒは、敗北を知らん」(240ページ)とため息を漏らす。統一暦1927年8月17日、ロメール少将の強襲作戦が発動し、第二〇三航空魔導大隊は連合王国本土へ向かって発進した。だが、そこにはドレイク中佐が率いるベテラン魔導師部隊が待ち構えていた。帝国の暗号通信は連合王国に対して筒抜けだったのだ。強襲作戦に失敗したターニャら第二〇三航空魔導大隊は、西方占領地帯で休暇を満喫することにした。一方、ルーデルドルフ中将はレルゲン大佐を呼び出し、イルドア王国に攻撃を加える「予備計画」を検討していた。いよいよ転職(亡命)を真剣に考えるようになったターニャであるが、その中の人は人事が専門のビジネスマンである。ゼートゥーア少将のOJTを「ブラック企業が『やりがい』を教え込むようなことじゃないか」(95ページ)とこき下ろし、ロメール少将の無茶な強襲作戦を「頭がどうかしている。戦国有数の頭がどうかしている系で特筆すべき島津ですら、防御は自らの勢力圏でやっているぞ!」(164ページ)と一蹴。最高統帥府と参謀本部が目指す目標がバラバラになっている現状に対し、「ブラック企業は、やる気と現状を打破し得るイノベーションを徹底して求めるが、そもそも論としてイノベーションを解決策として求める時点で敗北している。イノベーションとは、掛け声で完成などしない。反対に、自由と創造性を最大限に活用するものだ」(168ページ)と批判する。ターニャは、すべてを経済活動として冷徹に見ようとするが、だがしかし、帝国が敗北すれば「己のキャリアも、勤労も、サービス残業も、超過労働も、全て『無価値』となってしまう」(243ページ)のも、また厳然たる事実であった。私たちサラリーマンも、企業が倒産する前の絶妙なタイミングで転職しなければ、こうなってしまうだろう。
2022.11.06
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幼女戦記 第09巻 -Omnes una manet nox- 最大限の効用を追求したいのであれば、効率性と冗長性の双方を追求せねばならない。(20ページ)著者・編者篠月しのぶ=著出版情報KADOKAWA出版年月2018年1月発行統一暦1927年6月29日、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐が率いるサラマンダー戦闘団(正式名称「レルゲン戦闘団」)は、再編・休暇のため、東部戦線から帝都ベルンに帰還した。帝都で展開されている戦意高揚のためのプロパガンダに辟易とするターニャだったが、帰還報告をしたレルゲン大佐やクルト・フォン・ルーデルドルフ中将の表情は憔悴しきっていた。最高統帥会議が帝国軍に求めている「勝利」の明確な定義もないという。そんなとき、連合王国が帝国西方にある工業地帯への空爆を開始した。参謀本部は南方戦線のロメール少将を西方へ向かわせることを決める。帝都の食糧事情も悪化しており、パンやコーヒーの質が落ちていた。ターニャは、もし講和を結んだとしても、そのあとに訪れるであろう国民の暴発を考え、不安に襲われる――勝った日露でさえ日比谷での暴徒がいた。歴史を見れば、茫然自失とならずに『あれほど恵まれた条件講和』にすら大反対した暴徒が実在するのだ。世論に対する適切な説明を欠けば、ああなる(164ページ)。ロメール少将を帰還させるため、ターニャが率いる第二〇三航空魔導大隊の選抜中隊は、アーデルハイト・フォン・シューゲル主任技師がが開発した人間魚雷「V-2」に乗り込み、連合王国主力艦隊へ特攻を仕掛ける。ターニャは、この困難な任務を完遂し、連合王国空母艦隊に甚大な被害を与えた。統一暦1927年7月17日、ターニャらはイルドア王国に親善訪問し、かつて東部戦線に観戦武官として派遣されたヴィルジオニ・カランドロ大佐に再会する。一行は豪華列車の中で、イルドア王国の豊かな食材を使った料理に舌鼓をうつ。一方、サラマンダー戦闘団の再編にともない、後方の港湾守備隊へ配属されたロルフ・メーベルト大尉やクラウス・トスパン中尉は、そこで、敵コマンド部隊の襲撃を受ける。帝国の防衛能力は明らかに低下していた。参謀本部に帰投したロメール少将は、ターニャは将校クラブへ誘い、「政治という分野に軍事的な脅威たるそれがあれば、軍事的な目標たりうるだろう。必要とあらば、独断専行すべき局面もありうる」(442ページ)と語る。ターニャの階級は中佐――会社で言えば課長である。課長が、ゼートゥーア中将という取締役事業部長から直接命令を下されるのだから大変である。しかも、炎上プロジェクトの火消し役ばかり。ターニャは、「勝利の定義要件さえ行方不明なプロジェクト。成功の希望など、株主を騙す詐欺師以外、持ちえない代物。スタートアップ企業のプレスリリースだって、今少しはもっともらしくやるだろうに」(159ページ)とこぼす。課長として冷静な分析である。失敗プロジェクトは「中止」という選択肢もある。早期に中止を選択すれば、違約金は少なくて済む。会社が被る信用毀損も最小限にとどめられる。にもかかわらず、世の中のプロジェクトで、この「中止」を選択することは滅多にない――なぜか? ぜひ本書をお読みいただきたい。
2022.11.05
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僕らのパソコン30年史 PC-8001の製品化と普及には秋葉原Bit-INNの役割が大きかった。TK-80が発売されてブームを呼んだとき、技術に明るい熱心なユーザーからの問い合わせに答えるために、NECの技術者たちが休日返上で対応に当たった。(26ページ)著者・編者SE編集部=著出版情報翔泳社出版年月2010年5月発行本書は2010年5月に刊行され、その直後に読了しているのだが、12年ぶりに再読した。インテルが1971年に発表した世界初のマイクロプロセッサ「4004」や1974年のコンピュータキット「アルテア8800」に始まり、1980年代に日本の国民機となった「PC-9800シリーズ」、それを追って世界標準の流れに乗ったDOS/VやWindowsからインターネット時代まで、写真を多用し世相にも触れながら、わかりやすく日本のパソコンの歴史を解説している。当時の開発者や関係者へのインタビューも豊富。秋葉原やパソコン誌の変遷などにもスポットが当てられており、パソコンとともに育った世代としては、自分史をたどっているようで面白い。1971年に登場した世界初のマイクロプロセッサ「4004」は、ピジコン社の社員としてインテルに赴いた嶋正利、インテルのフェデリコ・ファジン、テッド・ホフらによって開発された。ピジコン社とインテルはプログラムによって制御する高級電車を作ろうとしたのだ。1974年12月、4004を改良して8ビット化したCPU「8080」を搭載したコンピュータキット「アルテア8800」が米MITS社から397ドルで発売された。ミニコンより2桁安かった。ジム・ウォーレンは自らが編集長を務める『ドクタードブズジャーナル』創刊号で、「コンビュータがわれわれ一般人のものになり、世界に関する重要な情報にわれわれ一般人がアクセスすることができるようになれば、―(中略)―豊富な知識をふまえて合理的な意思決定を実際にできることを通じて、“人びとに力(powerto the people)”を与えうるものです。保守的な大企業はけっしてそういう方面には取り組まないでしょう。みずからが進んでリスクを引き受ける。ひたむきで元気溌刺の個人にしか、それはできません」と高らかに宣言した。1976年にデジタルリサーチは8080向けのCP/MというOSを発売し、すぐにアルテア8800に移植された。CP/Mによって、マイクロソフトのBASICをはじめとする多くの開発言語を利用できるようになり、普及し始めたフロッピーディスクの利用が簡単にできた。のちにIBM PC向けにCP/Mに似せて作られたOSがMD-DOSである。一方、わが国では、NECが、8080のライセンスを受けたμPD8080ADを搭載したトレーニングキットTK-80を1976年夏に発売した。NECは秋葉原のジオ会館にコミュニケーションサロンBit-INNを開設し、ユーザーが情報交換できるようにした。これが大当たりとなり、1千台の販売目標を大幅に塗り替える6万台を出荷した。Bit-INNは、1979年9月にPC-8001が発売されたときにも活躍する。PCとは「パーソナルコンピュータ」の略であり、日本に本格的なパソコン時代のはじまりを告げる名機だった。とはいえ、ネットの無い時代、Bit-INNを訪れるには距離の壁が立ちはだかった。そこで、マイコン雑誌がユーザー間の情報の橋渡しを行った。1976年に工学社の「I/O」が、翌1977年には「ASCII」が創刊した。1977年に、アメリカではApple II、PET-2001、TRS-80が発売される。翌1978年、わが国で日立のベーシックマスターとシャープのMZ-80Kが発売される。MZ-80KはBASIC言語をROMではなくカセットテープから読み込んで、起動する「クリーンコンビュータ」というコンセプトを持っていた。IBM PCが発売された1981年、わが国でも16ビット・パソコンが発表された。NECのN5200と三菱電機のMULTI16だ。いずれも先端の機能を備えていながら販売が振るわなかったのは、メインフレームの顧客をターゲットにしたオフィスマシンという性格が強かったからだろう。翌1982年10月にNECが発表したPC-9801は個人ユーザーをターゲットにすることで、のちに国民機として不動の地位を築くことになる。また、1985年にジャストシステムが日本語ワープロ「jX-WORD太郎」(のちの「一太郎」)を発売し、OSとしてのMS-DOSとアプリケーションの組み合わせとして大成功を収める。1985年に発売されたPC-9801U2では、8086上位互換の自社製CPU「V30(μPD70116)」を搭載し、98アーキテクチャが完成する。1984年に発売されたアップル・コンピュータのMacintoshは、IBM PCとは一線を画したパソコンで、GUIベースのOSを搭載していた。これがマイクロソフトを刺激し、Windowsの開発を加速させた。1987年頃からハードディスクが流通するようになる。容量20Mバイトで30万円近くしたが、RAMボードに比べると安価で、10倍の容量があった。日本語辞書やアプリケーションはハードディスクにインストールし、フロッピーディスクでデータ交換する時代に入る。また、パソコン通信のニフティサーブやPC-VANがサービス開始し、パソコン・ユーザーは自宅にいながらにしてコミュニケーションができるようになった。しかし、アナログ電話回線とモデムによる通信スピードは遅く、電話代を抑えるためにデータ圧縮ツールの開発が進んだ。工学者の奥村晴彦が考案したアルゴリズムをベースに、医師の吉崎栄泰がLHAという圧縮ツールを公開し、パソコン通信を介して普及した。アメリカでは、IBMとマイクロソフトが16ビットCPU「80286」用のOS「OS/2」を発表した。マイクロソフトは、MS-DOS用のGUI環境MS-Windowsの開発も進めていた。この頃、インテルが1985年に発表した32ビットCPU「80386」を搭載したIBM PC/AT互換機が発売されるようになり、IBMは対抗策としてクローズドアーキテクチャのPS/2を発売する。IBM PC/ATまでのパソコンは、CPUとバスのクロックが同期していた。コンパックはCPUのクロックをブリッジによって分離することで、バスのクロックをそのままに、CPUのクロックだけ高速化したPC/AT互換機を発売し、IBMの牙城を切り崩したのだ。80386は仮想的な8086実行環境を複数持つことができ(仮想86モード)、EMSをエミュレーションするドライバEMM386の登場により、MS-DOSの1Mバイトというメモリの制約がなくなった。また、マイクロソフトはMS-Windows/386を使って複数のMS-DOSアプリケーションを切り替えて使うことができるようにした。一方のOS/2はMS-DOSと同じCUIベースのOSであり、仮想86モードにも対応しておらず、普及にブレーキがかかってしまった。1989年に80386を高速化した80486を発売すると、AMDやサイリックスが互換CPUを発売するようになった。インテルは1993年にPentiumを発売し、1997年にマルチメディア処理のためのMMX命令を追加し、互換CPUを引き離しにかかる。一方、わが国では、NECとエプソンの互換機戦争が勃発する。1986年10月、NECは重量3.8kgのラップトップPC「PC-98LT」を発売する。エプソンや東芝もラップトップPCを発売するが、PC-98LTよりはるかに重たい製品だった。また、1987年に80386を搭載するPC-98XL2を発売し、1988年に普及型のPC-9801RAを発売する。OS/2やMS-Windowsも発売されたが、対応アプリケーションが少なく、まだ普及する段階にはなかった。1985年にアップル・コンピュータを追われたスティーブ・ジョブズは、NeXT社を設立し、32ビットCPU「68030」を搭載したワークステーションを開発する。UNIXベースのNeXT STEPという専用OSを搭載していた。商業的には失敗に終わったNeXTだったが、欧州原子核研究機構(CERN)で世界初のウェブサーバとして利用された。NeXT STEPは、その後OPENSTEPと名前を変え、Mac OS Xや開発環境Objective-Cに進化していく。1987年にシャープは、Macintoshと同じ16ビットCPU「68000」を搭載したパソコン「X68000」を発売する。アーケードゲーム「グラディウス」の完全移植が行われた。1989年に富士通が発売した32ビット・パソコン「FM TOWNS」は、初めてCD-ROMドライブを標準搭載し、アーケードゲーム「アフターバーナー」の完全移植を目指した。1989年7月に東芝はJ-3100SS「ダイナブック」を発表する。A4ファイルサイズで重量2.7kgという大きさに加え、デスクトップ機の半分の価格設定が話題になった。この後、各メーカーから軽量パソコンが発売されるようになり、それらはノートパソコンと呼ばれるようになる。1990年に日本IBMは、「IBM DOS J4.0/V」を発表する。PC/AT互換機上で稼働し、ソフトウェアだけで日本語表示を可能にする仕組みだったが、ハードウェアで日本語表示できる国民機に慣れ親しんでいる大多数のユーザーの関心は薄かった。日本IBMはDOS/Vのテコ入れのため、セガ・エンタープライゼスと「テラドライブ」を共同開発し、1991年5月に発売した。Z80、68000、80826の3種類のCPUを搭載し、DOS/Vとメガドライブのソフトが動く奇妙なPCだった。日本IBMはNECの牙城を崩すべく、なりふり構わず戦いを挑んできたのだ。DOS/Vで日本語圏への参入障壁が下がったことで、海外のPC/AT互換機メーカーが日本市場へ流れ込む。まず、1992年3月にコンパックが12万8000円のDOS/Vパソコンを発表し、この価格破壊を「コンパックショック」と呼んだ。1993年にはデルコンピュータが、1995年にはゲートウェイが日本での販売を始める。国内メーカーは富士通がFMVシリーズで、エプソンはエンデバー・シリーズでDOS/V市場に参戦した。NECもついにPC-9821を発表し、DOS/Vの利用をできるようにした。1990年発売されたWindows 3.0が普及すると、Windowsの描画機能に特化したLSIが開発されるようになる。91年に発売されたS3社のグラフィックアクセラレータ86C911が最初の製品だ。海外と違って国内ではPC-98のハードウェアが絶対標準だったため、Windows 3.0がハードウェアの違いを吸収する仕組みという認知が遅れ、とくにデバイスドライバの開発が進まなかった。1988年にアメリカでインターネットの商業利用が始まり、欧州原子核研究機構(CERN)でワールドワイドウェブ(WWW)が誕生すると、インターネットの普及に拍車がかかった。米NCSAがウェブブラウザNCSA Mosaicを開発され、1993年3月にベータ版が公開される。のちのネットスケープ・ナビゲーターである。1994年9月に首相官邸がホームページを立ち上げたが、これはホワイトハウスより1ヶ月早かった。1995年11月22日の深夜、翌日の勤労感謝の日を控え、秋葉原のパソコンショップには長蛇の列ができた。Windows 95の発売である。安定性においてWindows NTに劣るものの、MS-DOSを必要とせず、Win32 APIによる32ビット・プログラムの実行を可能にした。OSR2ではインターネット機能が標準搭載された。同じ年、NTTがテレホーダイサービスを開始し、ダイヤルアップ接続料金が安くなったことでインターネット接続人口が急増した。こうして1995年はインターネット元年と呼ばれるようになる。私は、電卓からパソコンを使い始めた――ハレー彗星の位置予報を計算するために関数電卓FX-31を購入し、手作業の部分があまりにも時間がかかるのでプログラム電卓FX-502Pを購入し、大学で大型電算機を使ってプログラミングを学びながら、ついにパソコンMZ-1500を購入――その意味では、パソコン開発の王道を歩んできたと言える。パソコン黎明期にホビイストの情報交換の場として機能した秋葉原のBit-INNにも出入りしていたが、のちのパソコン通信やインターネットのことを考えると、パソコンというのは単なる計算機ではなく、ヒューマン・コミュニケーションを触媒するツールでもあった。私は、MZ-1500でプログラミングを学び、MZ-2500でOSや機械語、Cコンパイラをはじめとする各種言語の移植とアプリケーション開発にのめり込んでいった。同時にパソコン通信もはじめ、全国のパソコン・ユーザーと対話しながら、シェアウェアの販売や、いまでいうリモートワークでそこそこの収入を得るようになった。LHAの開発にも協力した。アルバイトでUNIXマシンを使ってソフトを開発していた。もともと電子工作が好きだったので、ビデオキャプチャボードや、デバイスドライバを自作していた。この経験は、現在のIoT機器開発に役立っている。頼まれればWindowsのデバイスドライバも作っていたが、本書を読んで国内のドライバ開発が遅れていたことを初めて知った。この時期のパソコンは、電子工作好きのマニアのためのマシンではなくなっていたのだ。本書で紹介されているJ-3100SSダイナブックを即決で購入。音響カプラを持ち歩きながら、秋葉原でオフ会を開くようになる。秋葉原という場所は、東京駅と上野駅の中間にあり、全国から仲間が集まるにはちょうどいい立地なのだ(東北新幹線は上野駅止まりだった)。仕事では、MS-DOSに限界を感じ、Windows 3.0/3.1ではなくWindows NTを使っていた。経営陣がコンパックショックを知ったおかげで、開発マシンの経費査定が厳しくなり、コンパックやデルのPCを調達したが、不良部品が入っていたり、取説通りにオプション品を追加できなかったり、ハード的な調整を施して騙し騙し使った。1995年にアップル・コンピュータのPerrfoma 5220を購入した。普通のサラリーマンがMacintoshを買える時代になっていた。そして、自宅でもインターネットが利用できるようになった。インターネット元年さまさまである。パソコン通信とは違い、ユーザー数がどんどん増え、いまもこうしてネットを使って配信している。PerfomaはCD-ROMドライブやテレビチューナーを内蔵しており、パソコンが計算機の延長でなくなった。フジフイルムのデジカメ「DS-7」や、Adobe Photoshopを購入し、写真がデジタル化。雑誌の懸賞でMP3プレイヤー「NOMAD」が当たり、音楽もデジタル化。子どもが産まれてホームムービーを撮るのに、もちろんビデオもデジタル化した。そして、1999年に「ぱふぅ家のホームページ」 https://www.pahoo.org/ を解説し、現在も続いている。その後、家内の希望もあり、Macintoshを買い続けていくことになるのだが、パソコンに対する見方が180度変わったのは、結婚したことの大きな効用だった。やがてパソコンはタブレットやスマホに取って代わられるかもしれないが、その本質は変わらないと思う――その本質とは、電子計算機やワープロのように、メーカーがユーザーに使い方を提供するものではなく、ユーザー自身が自由に使えるマシンであること。そのためにパソコンはオープンアーキテクチャであり、ハードウェア拡張性が担保されてきた。はじめて関数電卓を買ってから44年の歳月が過ぎた。望むらくは、この先死ぬまで、自分が自由自在に使えるマシンを手元に置いておけますように――。
2022.10.23
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江戸の宇宙論 蟠桃が提示した宇宙像では、各恒星の周りに惑星が必ず生まれ、そこには人間が誕生していて、宇宙のあちこちに人間が存在することを当然のように述べているのだ。(246ページ)著者・編者池内了=著出版情報集英社出版年月2022年3月発行著者は、天文学者・宇宙物理学者で、『お父さんが話してくれた宇宙の歴史』など、一般向けの科学書を多く著してきた池内了さん。18世紀末の江戸時代、本木良永によって地動説が明確に示され、司馬江漢によってそのイメージが人々に伝えられ、志筑忠雄によってニュートン力学と結びつけられ、そして山片蟠桃が無数の人間が住む広大な宇宙の描像へと想像を膨らませた。日本では、唐から輸入した宣明暦を800年も使ってきたため、江戸時代には実際の天文現象とずれてしまい、日食も月食も予測することができなくなっていた。渋川春海は幕府に働きかけ、1684年に改暦を行った。八代将軍・吉宗は、さらに優れている西洋の暦法の導入を試みるが成功せず、1754年に土御門家が宝暦暦への改暦したことで、かえって暦が劣化してしまった。そこで、1797年に高橋至時と間重富によって寛政暦が作成された。1774年に、長崎通詞の本木良永は、日本で最初にコペルニクスの地動説の存在を知った。それを広めようと書物を発行し、その写本を読んで地動説に魅せられたのが司馬江漢であった。江漢は日本で最初にエッチング法によって銅版画を制作しており、その技術を使って地球図や天球図を発行し、啓蒙活動を行った。長崎通詞の志筑忠雄は、西洋の天文学・物理学入門の文献を『暦象新書』(1798~1802年)として発行し、ニュートン力学を日本に紹介した。忠雄はニュートン力学にもとづく思考実験により、カントやラプラスよりも早く、太陽系形成論を組み立てた。また、人工衛星を「仮星」と呼び、どれくらいの速さになれば人工衛星が実現できるかを計算してみせた。さらに、オランダ語の科学書を翻訳する過程で、引力・求心力・遠心力・重力・分子など多くの物理用語を生み出した。大坂で大名貸しを営む升屋の番頭である山片蟠桃は、『暦象新書』の写本を読み込み、「宇宙には点々と恒星が分布し、恒星の周りにはさまざまなタイプの惑星が付属し、その惑星には人間が生きている星もたくさんある」という先進的な宇宙像を提示した。コペルニクス、ケプラー、ニュートンといえば、ヨーロッパの科学革命の嚆矢である。だが、コペルニクスの『天体の回転について』を本木良永が翻訳したのは、その出版から250年も後のことである。江戸時代の日本人の知的水準は決して低いものではなかった。鎖国をしているから西洋の文化から隔絶されていたというわけでもない。実際、志筑忠雄がケンペルの『日本誌』の附録部分を翻訳し、それを1811年に『鎖国論』としてまとめたとき、初めて「鎖国」という言葉が生まれたのだ。本木良永が翻訳した西洋科学は、司馬江漢によって図版化され、志筑忠雄によって科学的な裏付けがなされた。そして、山片蟠桃は、オルバースのパラドックスに気づき、無限宇宙と宇宙人の存在にまで想像を広げたのであった。その間、わずか40年――日本の科学革命と言ってもいいだろう。山片蟠桃は1811年に彗星の観察記録を残しており、それがニュートン力学にしたがって運動している太陽系内天体であることを確認している。西洋からもたらされた書物の内容を仮説として、自ら検証する姿勢は、今日の科学者と何ら変わるところがない。こうした市井の啓蒙活動が、1869年の明治維新をして、わが国の産業革命をもたらしたのだ。
2022.10.16
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