キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

ウェスレー「神の国への道」


~キリスト教古典叢書9(新教出版社)昭和33年(1958年)7月20日発行
 著作権者・日本基督教協議会文書事業部

「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)。

 これらの聖句は、われわれを第一に真の宗教の性質、すなわち、ここにわれらの主によって「神の国」と言われているところのもの、主が「近づいた」と言い給うところのものについて、必然的に考えさせ、第二に、主が「悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉により示しているところの、神の国に至る道について考えさせる。

 一

 (1) われわれは最初に、「神の国」と、われらの主によってここに言われている、真の宗教の性質について考えるべきである。それと同じ表現を偉大な使徒(パウロー訳者註)がそのローマ人への手紙に使っている。そこで、また、彼は、主の言葉を、「神の国は飲食ではなく、義と平和と聖霊における喜びとである」(ローマ14:17)と言って説明している。
 (2)「神の国」すなわち真の宗教は「飲食ではない」。悔い改めないユダヤ人ばかりではなく、キリストを信じた多くの人々までもが、それにも拘らず、「律法について熱心」(使徒行伝21:20)であった、すなわち、モーセの儀式的な律法について熱心であったということは、周知の事実であった。それ故に、モーセの律法に書かれているすべての事柄を、それらが素祭と灌祭に関するものであっても、または、潔き食物、汚れた食物との区別に関するものであっても、彼らは、彼ら自身それを守ったばかりでなく、「異邦人の中の主に帰依した」人々にも同様のことを無理矢理に押しつけたのであった。然り、その押しつけ方の激しさは、彼らの中のある者が次のように教えたということによって想像出来る。すなわち、異邦人で主を信じた者が、いずこから彼らの中に入って来ようとも、「割礼を受け、律法(儀式的律法のすべて)を守らなければあなたがたは救われない」(使徒行伝15:1)と教えたのである。
(3) この人々に反対して、使徒はここでも、また多くの他の場所でも、真実の宗教は、飲食や儀式を厳守することによって成り立っていないということを言っている。それは、何ら外的な事柄に、すなわち、心情の外側に立つものから成り立っていない。その本質は、「聖霊による義と平和と喜び」にあるのである。
 (4) たとい最も秀れているものであっても、形式や儀式のような外的な事柄から、真実の宗教は成り立っていないのである。仮に、それらが非常に立派な、意味のあるものであっても、また、内的な事柄をよく表現するものであってもそうなのである。仮に、それらが、ほとんど目に見えるもの以外理解しないような、庶民に対してばかりでなく、疑いもなくしばしばそうであるように、理解力ある人々、すなわち、より秀れた能力を持っている人々に対してまで助けになるものであっても、真の宗教は形式や儀式から成り立ってはいないのである。然り、仮にそれらが、ユダヤ人の場合の如く、神御自身によって指定されていたとしても、しかも、その神の定めが効力をを持っている間でさえも、真実の宗教は主としてそれらの形式や儀式からは成り立っていないのである。否、厳密に言うならば、全然成り立っていないのである。この事実は、ただ人間によって定められたところの儀式や形式については更によく当てはまるのである。キリストの宗教はこれらのすべての形式や儀式よりも無限に高く、限りなく深くある。それらの形式や儀式が、事実、真実の宗教の手段となっている限り良きものである。また、それらが、単に人間の弱さのための、時折の助けとして使用れる時に反対するのは迷信である。しかし、それ以上のことを主張してはいけない。何人も、形式や儀式が固有の価値をもち、宗教がそれらなくしては存在し得ないと夢見てはならない。もし、そのように夢見るならば、儀式や形式を、主なる神にとって、嫌悪すべきものとするのである。
 (5) 宗教の本質は、これらの礼拝や、礼式や、儀式の形式によって成り立つことからはるかに遠いので、それは、いかなる種類の外的な行為によっても、全然成り立っていないのである。もちろん、悪意に充ちた、不道徳な行為をする罪人や、また、同様な境遇におるならば、他の人々からはされたくないようなことを他の人々にするような人が、宗教を持つことが出来ないというのは事実である。また、「善を知りてそれをなさざる」者が、真実の宗教を持っていないということも本当である。しかし、外的な悪を避け、善をなすものが、なおも宗教を持たないということがある。然り、二人の者が同じ外的な業をして、例えば、飢えたる者こ食を与え、または、裸なる者に着せても、その間、一方は真実に宗教的であり、他方は全然宗教を持たないということがある。なぜならば、一方は神への愛から善をなし、他方は、賞賛への愛から行うことがあり得るからである。それ故に、真実の宗教は、自然にすべての良い言葉や行いに導くけれども、その本質は、更により深く、「心情の内なる人」の中に存在していることが明らかである。
 (6) 私は心情こついて言う。なぜならば、宗教は、正統の教えや正しい意見から成り立っていない。それらは、外的な事柄であるというのは適当でないが、心情ではなく、理解力に届する。或る人はあらゆる点において正統であり、単に正しい意見を支持するばかりでなく、熱心にそれらをすべての反対者に反対して守るかも知れない。彼らは主の受肉について、または主、永遠に祝福されてレる三位一体の神について、また、神の言業に含まれているすべての他の教理について、正しく考えているかも知れない。彼はすべての三つの信条ーー使徒信条、ニケア信条、アタナシウス信条といわれているものーーに同意するかも知れない。しかもなお彼がユダヤ人、トルコ人、異教徒と同様に、全然宗教を持たないということが可能なのである。彼は正統であるかもしれない
ーーほとんど悪魔と同様に(しかしながら、全く同様にではない。なぜならば、すべて人聞は何事かについて誤っている。ところが、われわれは、悪魔が、何らかの誤った意見を持っていると考えることは出来ないからである)。
それにも拘らす、心情の宗教から、悪魔と同様に、全く門外漢でありうるのである。
 (7) 次のことのみが、真実に宗教と呼ばれるものである。次のことのみが、神の前に偉大な価値を持つのである。使徒はそれを三つの点に要約している。すなわち、「聖霊による義と平和と喜び」である。さて、最初に、義についてであるが、もし、義の二つの偉大な部分を説明している、われらの主の言葉を思い出すならば、これに関して、われわれが当惑することはあり得ない。そして、義のその二つの部分に「律法全体と預言者とがかかっている」のである。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる貴方の神を愛せよ。これが第一の偉大な誡めである」(マルコ12:39)。すなわち、これが、キリスト教的義の最初の偉大な部分である。貴方は、主なるあなたの神において喜ばなくてはならない。あなたは、神においてすべての幸福を求め、また見出さねばならない。神は「あなたの盾である。あなたの受ける報いははなはだ大きいであろう」。時間においても永遠においても、報いは大きいのである。貴方は衷心から言うであろう、「わたしは汝の他に天において誰を持つであろう。そして私がこの地上に望むのは汝の他に誰もおりません」と。
貴方は、「わが子よ、 あなたの心情をわたしに与えなさい」と言い給う者の声を聞き、そして成就しなければならない。そして、神が競争相手を持たずに支配するべく貴方の心情を、貴方の最奥の魂を、彼に与えた時に、貴方は心溢れて叫ぶことが出来る、「私は、主よ、私の力なる貴方を愛します。主は私の強き巌であり、私の櫓です。私の信額するわが救主、わが神、わが力よ、わたしの盾、わたしの救いの角、わたしの避け所よ」と。
 (8) さて、第二の誡めは以上と似ている。キリスト教的義の、第二の偉大な部分は、密接に、離れ難く以上のものと関係している。すなわち、第二の部分は、「貴方は自分を愛する様にあなたの隣りを愛しなさい」ということである。あなたは愛しなさいーーすなわち、貴方は、最も情のある善意でもって、最も真摯な、真心こめた愛情を持って、隣人のためにすべての悪を防ぎ、または、取り去るための、最も熱心な欲求をもって、また、彼のために、可能な限りすべての善を招来するための、最も熱心な欲求をもって、彼を抱擁しなくてはならない。あなたの隣人ーーすなわち、ただ単に、あなたの友人、親戚、知人、また徳ある者、友情ある者、あなたを愛する者、あなたの親切に先んじる、または答える者ばかりではなく、すべての人の子、すべての人間、神が作
り給うたすべての魂を意味しているのである,貴方が決して肉においては見なかった人、顔によっても、名前によっても知らない人を含んでいる。悪意があり、感謝の念を持たないとあたたが知っている人、あなたをなおも軽蔑して使い、迫害する人を含んでいるのであって、彼をあなたはあなた自身の如く愛さねばならないのである。 あらゆる種類の幸福を、常に変わらず渇き求め、彼の魂や肉体を悲しませ、また傷つけるすべてのものから、彼を庇うために、疲れることなく注意する愛をもって愛さなければならないのである。
 (9) さて、この愛が「律法の成就」で、すべてのキリスト教的な義の全体ではないか。またすべての内的な義の全体ではないか。なぜならば、この愛は、必然的に (「愛はほこらない」がゆえに)「あわれみの心・謙遜」 (「愛はいらだたない」し、反対に「すべてのことを信じ、望み、耐え忍ぶ」ので)、「温和・柔和・忍耐」を意体するからである。また、この愛はすべての外的な義の全体である。なぜならば、言葉によっても、行いによっても、「愛は隣りをそこなわない」からでめる。愛は、故意に誰をも傷つけたり、悲しませたりすることは出来ない。また愛は良き業に熱心である。人類を愛するものは、機会があれば、「すべての者に対して善をなす」のである。なぜならば、
彼は (偏見なく、虚りなく)「あわれみと良い実とに充ち」ているからである。
 (10) そこで真実の宗教、すなわち、神と人とに正しく向かっている心情は聖潔と共に幸福をも包含している。ただ単に、「義」であるばかりでなく、「平和と聖霊とによる喜び」でもある。どんな平和か。神のみが与え、世が取り去ることの山来ない「神の平和」。「すべての思いに過ぐる平和」、すなわち、すべての単なる理性的な概念を越えるところの平和である。なぜならば、それは、「来たるべき世の力」の超自然的な感動であり、神的な経験であるから、どれ程、この世の事柄に賢くても、生れながらの人が知らないところのものである。また、実際、彼の現実の状態ではそれを知ることが出来ない。「それは霊的に認められるからである」それはあらゆる疑惑、あらゆる苦痛に充ちた不安を追放する平和である。神の霊が、キリスト者の霊と共に、彼が「神の子」であることを証しするのである。またそれは恐怖を、呵責を与えるようなすべての恐怖、神の怒りの恐怖、地獄の恐怖、悪魔の恐怖、特に死の恐怖を追放するのである。神の平和を持つものは、それが神の御旨であるならば、「世を去りてキリストと共ならん」ことを望むため、死の恐怖さえも追放されるのである。
 (11) 神の平和が魂の中にある時には、それと共こ、「聖霊によるよろこびもある」。それは聖霊によって、永遠に祝福された神の霊によって、心情の中に作られる喜びである。われわれの中に、あの平静な、謙遜な、神による喜びを作るのは聖霊である。「われらが今や贖いを受けた」、すなわち、神との和解を得たのは、キリスト・イエスによるが、聖霊は、キリスト・イエスを通して神による喜びを与え給うのでめる。あの立派な詩篇作者の言葉、「その不義を許され、その罪を覆われたる人は祝福されている(むしろ幸福という言葉の方があたっている)」との真理をわれわれに、大胆に確信させるのは聖霊である。彼が神の子であるという聖霊の証しによって起る、平静な、確実な喜びを、キリスト者の魂に充たすのは聖霊である。彼が神の子であるという聖霊の証しによって起こる、平静な、確実な喜びを、キリスト者の魂に充たすのは聖霊である。「神の栄光の望みによる言い難き喜びを持って喜ぶ」ことを彼に与えるのも聖霊である。神の栄光の望みとは、現在は部分的であるが、将来は全き姿で「彼において表わされる」、栄光に輝く神の像を望むことであり、また、彼のために天に備えられる、消え行かざる栄光の冠を望むことである。
 (12) この、聖潔と幸福とが一つにこせられているものを、しばしば聖書は(テキストで、われらの主によって呼ばれている如く)「神の国」と呼び、またしばしば「天国」と呼んでいる。「神の国」と呼ばれているのは、それが、魂の中における神の支配の直接的な実であるからである。神がその全能の力を発動し、われらの心情の中にその王座をを据え給うや、われらの心情は、直ちにこの「義と平和と聖霊による喜び」で充たされるのである。「天国」と呼ばれているのは、それが(或る程度)魂の中に開かれている天であるからである なぜならば、これを経験するものはすべて、天使と人との前に、聖書の主旨に従って、
  永遠の生命が獲得せられ、
  栄光が地上にうちたてられはじめた。
と断言することが出来るからである。聖書は至る所において、神が「われらに永遠の生命を与え、そしてこの生命はその独子によるものである。御子を持つもの(すなわち彼の心情を支配しつつある御子)は生命を持つ」、すなわち、永遠の生命を持つ(第一ヨハネ5:11、12)と証ししている。なぜならば、「永遠の命は汝、すなわち、唯一の父なる神と、神が遣わし給うたイエス・キリストを知ることである」(ヨハネ17:3)から。たとい燃ゆる炉のただ中にいても、永遠の生命を与えられているものは、神に向かって次の如く、自信を持って言うことが出来るであろう。
  主よ、汝のカにより守られて、
  我らは汝、神の子エホバを崇めまつる。
  この世に現れんとて、人の像をとりて降り給う。
  汝に向かって、絶えざるハレルヤが与えられよ、
  天における汝の王座に向かっての如く、われらはここにおいて讃美を捧げる。
  なぜならば汝の現在があるところ、そこが天国であるから。
 (13) さて、この「神の国」または天国は「近くにある」。これらの言葉が本来語られた時には、神が「肉において現われ」、その王国を人類の中に築き、その民の心情に君臨し給う「時」が充たされたということを意味したのである。その時は今成就されていないであろうか。(神は言い給う)「わたしは、世の終りまで、何時もあな方と共にいるのである」(マタイ28:20)ーーすなわち、神の名において罪の赦しを宣べ伝える者達と共に、神は世の終わりまでい給う。それ故に、キリストの福音が説かれているところはどこでも、この「神の国は近づいている」のである。それはあなたがたすべての一人一人から遠くにはない。もしあなたがたが、その言葉である「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」に耳を傾けるならば、あなた方は、今、この時に、その国に入ることが
出来るのである。

  二

 (1) これが道である。あなた方、その道を歩きなさい。そして、先ず第一に、「悔い改め」なさい。すなわち、あなたがた自身を知りなさい。これが信仰に先立つ最初の悔改めである。すなわち、悔悟、または、自己を知ることである。それ故に、眠れる者よ、目を覚ましなさい。あなた自身が罪人であり、そして、いかなる種類の罪人であるかを知りなさい。あなたの内奥の性質の腐敗を知りなさい。あなたはその腐敗のために、原義から遠く離れているのである神の律法に従順でなく、また実際従順であり得ない」、「神に敵する」ところの「肉の思い」によって、常に、「.肉は霊に逆って望む」のである。あなたがあなたの魂のすべての力、またすべての機能において、腐敗していることを知りなさい。基礎がくずれているので、全く、以上のすべての機能において、汚れていることを知りなさい。あなたの理解の目は暗くせられ、神や、神の事柄を認識することが出来ないのである。無知と誤謬の雲があなたの上にかかっており、あなたを死の蔭をもって覆っているのである。あなたは、未だ知るべき事柄、すなわち、神、世界、あなた自身について何も知っていない。あなたの意志は、もはや、神の意志ではなく、全くねじけて、歪められている。
そしてすべての善を、神が愛し給うすべてのものを嫌い、すベての悪、神が憎み給うすべての醜行に向かいがちである。あなたの愛情は、神から切り離れて、全地にわたって散乱している。あなたのすべての情熱、すなわち、あなたの欲望と嫌悪、喜びと悲しみ、希望と恐れは、粋から外れており、その程度において、度を過しているか、または、ふさわしからぬ対象に向けられている。それ故、あなたの魂には何ら健康さがない。かえって(預言者の強い表現を用いるならば)、頭の頂から足の裏まで、傷や、打身や、膿んだ腫物」があるのみである。
 (2) 以上の如きが貴方の心情、貴方の最も内奥の本性の、生れつきの腐敗である。あなたは、このような悪の根から、どんな種類の枝が成長すると期待出来るか。そこから、生ける神からますます離れて行く不信仰が発生するのである。不信仰者は言う。「神は何者なれば私は彼に仕えねばならないのか。馬鹿な。汝、神は、私のことなど気に掛けはしない」と。そこから、いと高き者の如くならんとする人間の自律が発生する。そこから、あらゆる形態の傲慢さが発生する。「私は金持であり、財産がふえ、何者をも必要としない」と言え、と傲慢はあなたに教える。この悪の根源から、劇しい虚栄の流れが、賞賛への渇き・野心・食慾・肉慾・目の慾・生活の傲慢が流れ出るのである。ここから、怒り、惜しみ・悪意・復讐・羨望・嫉妬・猜疑心が発生する。また、こ
こから今「多くの悲しみをもってあなたを貫き通し」、そして良き折に制御されなければ、遂にはあなたの魂を永遠の破滅の中に溺れさせてしまう、あらゆる愚かな害ある欲望が発生するのである。
 (3) さて、このような枝からは、どんな実が成長し得るか。絶えず苦い、悪いものばかりである。傲慢からは争い、空威張り、人の誇りを求めまた受けること、そして、神から、神が他のものに与え得ない栄光を、奪い取ることが生ずるのである。肉慾からは、聖書の宮として作られている肉体を、いろいろと汚すところの、暴食・泥酔・贅沢または好色・姦淫・不潔が生じ、不信仰からは、すべての悪しき言葉や業が生ずるのである。しかしながら、貴方が、至高者を怒らせ、イスラエルの潔きものを悲しませて語ったすべての無駄な言葉、またあなたが、それ自身全く悪であるか、または、少なくとも神の栄光のためにはなさなかったすべての悪しき業ーーもしあなたがたが、これらすべてを数え上げるならばとても時間か足りないであろう。なぜならば、貴方の現実
に犯した罪は、貴方が言い表すことの出来るよりも、また、あなたの頭の髪の毛よりも多いのである。誰が海の砂や、雨の滴や、貴方の不正を数えることが出来ようか。
 (4) 貴方は「罪の払う価は死である」、すなわち、時間的な死ではなく、永遠の死であることを知らないか。「罪を犯す魂は死ぬであろう」と主は言い給うた。それは第二の死を意味しているのでいるのである。罪に対する宣告は終わることのない死、「主なる神の御前から、またその力の栄光から捨てられて、永遠の亡びにより罰せられる」ことである。貴方は、すべての罪人が、enokos esti te geevve tou puros であるのを知らないのか。これを「地獄の火の危険ある」と訳すのは適当でない。その表現は余りに弱すぎる。むしろ、「地獄の火にまで宣告されている」、すなわち、今処刑に引きずられて行き、既に破滅と運命づけられてしまったということを意味している。貴方は永遠の火を当然受くべき罪人である。それは貴方の内的な、また外的な邪悪さの当然の報いである。そして処刑が今執り行われるということは全く正当である。貴方はこれが解り、これを感じているか。貴方は、あなたが神の怒りに、また、永遠の破滅に価しているということを、徹底的に確信しているか。もし、神が、大地を裂かしめ、貴方を飲みむように、今、命じ給うたとしても、またもし、貴方が今奈落にこ突き落とされ、決して消えることのない火の中に落ち行かねばならないとしても、神が貴方に何ら不当なことをなし給わないと確信しているか。もし、神が、真実に貴方が悔い改めることを赦し給うなら、あなたはこれらの事柄が全く当然であることを深く感じ、そして、貴方が亡ぼされず、大地の表から運び去られないのは、全くの神の憐れみによるということを
知るだろう。
 (5) 貴方は、神の怒りを宥めるために、すべての貴方の罪を贖うために、また貴方が当然受くべき刑罰を逃れるために、何をするだろうか。貴方は何もすることが出来ないのである。いかなる方法によろうとも、唯一の悪しき業、言葉、思想のためにさえ、神に償いをなすことは貴方に出来ないのである。たとい、貴方が今、すべての事柄を立派になすことが出来ても、また今この時から、貴方の魂が神に帰るまで、貴方が、完全な、絶えざる服従を行うことが出来たとしても、それは、過ぎ去ってしまった事柄まで贖いはしないであろう。
貴方の負い目を増さないということは、それを、弁済することではないであるう。それは今までと同じように、大きな負い目として、残るであろう。然り、地上のすべての人間、天にあるすべての天使達の、現在および未来の服従は、唯一の罪のためにも、神の正義を決して満足させないであろう。故に、貴方のなし得ることにより、貴方自身の罪を贖おうという考えは、何と無益なことか。一つの魂を救うためには、全人類が支払うことが出来るよりも、はるかに多くの犠牲を必要とするものである。それ故に、罪人のため、何か他の助けがなかったならば、疑いなく、彼は永遠に滅びなければならなかったのである。
 (6) また、これからの完全な服従が、過ぎ去ったところの罪を贖うことが出来ると限定しても、このことは貴方を何ら益しないであろう。なぜならば、貴方はその完全な服従を、決してなすことが出来ないからである。今、試しに、それをやってみよ。貴方に、容易に付き纏う、あの外的な罪を取り除けよ。貴方はそれさえも出来ない。その間に、どのようにして、あなたは、貴方の生活を、全き悪から全き善へ変えるのか。実際、先ず貴方の心情が変えられないならば、それをなすことは不可能である。なせならば、木が悪である間は、良き実を結ぶことが出来ないからである 貴方は、貴方自身の心情を金き罪から、全き聖潔にまで変えることが出来るか。罪に死にたる魂を、すなわ
ち、神に対して死に、世に対してのみ生きている魂を、甦らすことが出来るか。それは、死せる肉体を甦らせ、墓の中に横たわっている者を生命に甦らすことが出来ないと同様、貴方にとって不可能である。然り、死せる肉体に生命を少しでも与えることが出来ないと同様に、貴方の魂をいかなる程度においても甦らすことは、貴方に出来ないのである。貴方は、この事柄については、全然何も出来ないのである。あなたは全く力なきものである。貴方がいかに咎あるものであり、罪深きものであるかということと共に、いかに助けなきものであるかということを、深く知ることが、神の国の先触れである、あの「悔いのない、悔改め」である。
 (7) 貴方の内的なまた外的な罪についての、また貴方の全く咎あるものであり、助けなき者であることについての強い確信に、適当な感情が加えられるならば、私は貴方に主なる神の名において、「貴方は神の国から遠くない」と言うであろう。わたしがここに言う、適当な感情とはーー憐れみを持つことを軽蔑したことへの心情の悲しみ、言うべきことを言わずにしまった後悔と自責、天に目をあげるのを恥じる気持、あなたの上に止まる神の怒りや、貴方の頭上に懸っている神の呪いや、神を忘れ、われらの主イエス・キリストを忘れた者を、亡ぼさんとしている強烈な神の憤りを恐れる心、またその憤りから逃れ、悪を止め、善を行うことを学ぽうとの、熱心な欲望ーー以上を意味するのである このような感情を持っているならば、後もう一歩で、貴方は、神の国に入るであろう。貴方は「悔い改めて」いる。今や、「福音を信ずる」時である。
 (8) 福音(すなわちよき音信、咎ある、助けなき罪人のための良き音信)は、最も広い意味に使われる時、イエス・キリストにより人類になされたすべての啓示を意味し、しばしばわれらの主が人類の間に宿り給うた時に、なし、また苦しみ拾うた事柄のすべてを意味するのである。その要旨は、「イエス・キリストは罪人を救うために世に来たり給うた」ということであり、また「神はその独子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それはわれわれが滅びないで、永遠の命を得るためである」、すなわち、「彼はわれわれの咎のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲しめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」ということである。
 (9) これを信ずるならば、神の国は貴方のものである。信仰によって、貴方は、約束を獲得するのである。「神はすべて、心から悔い改め、真実にその聖霊を信じる者を赦し、無罪となし給う」のである。神が貴方の心情に、「しっかりしなさい。あなたの罪は赦されている」と語り給うや否や、神の国は来るのである。貴方は「義と平和と聖霊による喜び」を持つのである。
 (10) ただこの信仰の本質に関し、貴方自身の魂を偽らないように注意しなさい。それは、ある人が好んで考えたように、聖霊の真理や、われわれの信条の箇条や、新約聖書に含まれているすべてのことに対しての、単なる同意ではない。それならば、私や貴方と同様に、悪魔も信じているのである。それを信じていても、なお、彼らは、悪魔なのである。信仰とは、単なる同意以上の事柄であり、キリスト・イエスにより、神の憐れみを確かに信頼することである。それは、「神はキりストにおいて世を御自分に和解させ、その(以前の)罪科の責任をこれに負わせることをしない」ということ、また、特に神の子が私を愛し、私のために御自信を与えたということ、私、この私が、今や、十字架の血によって、神に和解せられているということについての、神的な証左であ
り確信である。
 (11) あなたはかく信ずるか。信ずるならば、神の平和が貴方の心情の中にあり、悲しみと嘆息とは逃げ去って行く。貴方はもはや神の愛について疑わない。それは真昼の太陽の如く明瞭である。「私の歌は常にあなたの慈しみについてであり、私は口をもってあなたの真理を世々限りなく宣べ伝え続けるであろう」とあなたは叫ぶ。あなたはもはや、地獄、死、また死の力をかつては持っていた悪魔を、恐れない。更に、神御自身をも、苦しみにみちて恐れるようなことはなくなる。ただ、あなたは、神の気に障らないように気をつかう、優しい、子としての恐れを持つのである。貴方が信ずるならば、その「魂は主を崇め」、その「霊はあなたの救主なる神をたたえる」。「キリストの血による贖い、すなわち罪の赦し」を持っていることをあなたは喜ぶ。あなたは、その心情の中に、「アバ、父よ」と叫ぶところの、「子たる身分を受ける霊」を喜ぶ。あなたは、「不死の希望に充ちて」よろこび、「目標を目指して走り、上に召して下さる賞与」を得ようと努め、神が彼を愛する者の為に備えたすべての良きものを、熱心にに期待するのである。
 (12) 今、あなたは信ずるか。信ずるならば、今や、「神の愛は貴方の心情に注がれている」。あなたは神を愛する。なぜならば神がわれわれを最初に愛したからである。貴方は神を愛するがゆえに、また、あなたの兄弟をも愛する。「愛と平和とよろこび」に充たされているので、あなたは、また「寛容、柔和、忠実、善良、温和、節制」、および、同じ聖霊によるすべての実によって充たされる、一語にして言うならば、聖なる、天的なる、神的なるすべての気質によって充たされるのである。なぜならば(今や蔽いが取り去らているので)あなたは、顔おおいなしに、「むき出しの顔で主の栄光を見」、彼の輝ける愛と、あなたがそれに従って作られたところの像を見る時に、あなたは「主の御霊により栄光から栄光へと同じ姿に変えられて行く」。
 (13) この悔改め、この信仰、この平和と喜びと愛、この栄光から栄光への変化ーーこれが、世の知恵が、狂気、また単なる熱心、全くの乱心と見なしたものである。しかしながら、神の人なるあなたは、それらを、このようには看做さない。あなたは、このようなどんな事柄によっても、動かされてはならない、あなたはあなたが信じた者を知っている。誰もあなたからその栄冠を取らないように、注意しなさい。偉大な、そして、貴重な約束をすべて獲得するまで、あなたが既に到達したところを固守し、前進しつづけなさい。あなたが未だ神を知らないならば、くだらない人々の影響で、キリストの福音を、貴方が恥ずかしく思うようにならないようししなさい。自分達が知らないところの事柄について、悪く話す人々を、何事においても、あなたは恐れてはならない。
神はあなたの苦しさを、間もなく、喜びに変えるであろう。それ故に気落ちしてはならない。もう間もなく、神は、あなたの恐れを取り去り、あなたに鞏固な心の霊を与えるであろう。神はよろこんで「義とし給う。罪に定めるのは誰か、キリストは死んで、否、甦って神の右に座し、またあなたのために執り成して下さるのである」。
それ故に、どれほど、あなたの罪が多くても、あなたのすべての罪を持ったまま、神の子羊にあなた自身を投げかけよ。その時に、「わたしたちの主、また救い主、イエス・キリストの国に入る恵みが、あなたに与えられるであろう」

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