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2017.08.16
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『「独生女」批判の終焉(黒・天聖経から)』  のお父様のみ言を見られて、家庭連合の中にもショックを受けられた方もおられるかもしれません。

しかし、原理講論をもう一度見直されて、イエス様の使命を継承された再臨主がどのような位置で来られたのかを整理してくださることをお願いします。




第三節 イエスを中心とする復帰摂理

(一) 第一次世界的カナン復帰路程 
(1) 信 仰 基 台
(2) 実 体 基 台
(3) 第一次世界的カナン復帰路程の失敗

(二) 第二次世界的カナン復帰路程 
(1) 信 仰 基 台

  ② イエスの荒野四十日の断食祈祷と三大試練
  ③ 四十日断食と三大試練とをもってサタンを分立した結果
(2) 実 体 基 台
(3) 第二次世界的カナン復帰路程の失敗

(三) 第三次世界的カナン復帰路程 
(1) イエスを中心とする霊的カナン復帰路程
  ① 霊的な信仰基台
  ② 霊的な実体基台
  ③ メシヤのための霊的な基台
  ④ 霊的カナン復帰

それゆえ、あたかもモーセの霊的カナン復帰路程を、ヨシュアが代わって実体路程として歩み、民族的カナン復帰を完遂したのと同じく、イエスは、今までの霊的カナン復帰路程を、再臨されてから実体路程として歩まれ、世界的カナン復帰を完遂されることによって、地上天国をつくらなければならないのである。 このように再臨主は、初臨のときに実体をもって成就されようとした地上天国を、そのごとくにつくらなければならないので、あくまでも実体の人間として、地上に生まれなければならないのである (後編第六章第二節(二)参照)。

しかし、再臨主は、初臨のときの復帰摂理路程を蕩減復帰しなければならないので、あたかも彼の初臨のとき、ユダヤ民族の不信によって、霊的復帰路程の苦難の路程を歩まれたように、再臨のときにおいても、もし第二イスラエルであるキリスト教信徒たちが不信に陥るならば、その霊的な苦難の路程を、再び実体をもって蕩減復帰されなければならないのである。イエスが「しかし、彼(イエス)はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ一七・25)と言われた理由は、とりもなおさず、ここにあるのである。

それゆえに、イエスは初臨のときに、彼のために召命された第一イスラエル選民を捨てられ、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立て、新しい霊的な摂理路程を歩むほかはなかったのと同様に、再臨のときにも、キリスト教信徒たちが不信に陥るならば、彼らを捨てて新しく第三イスラエルを立て、実体的な摂理路程を成就していくほかはない。さらにまた、 イエスは再臨のときも初臨のときと同じく、彼の道を直くするために洗礼ヨハネの使命(ヨハネ一・23)を担ってくるはずの先駆者たちが、その使命を全うし得ないときには、再臨主御自身が、再び洗礼ヨハネの立場で、第三次世界的カナン復帰摂理のための「信仰基台」を実体的に造成しなければならないので、苦難の道を歩まれなければならないようになるのである。

しかし、再臨主はいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、初臨のときのように、復帰摂理の目的を完遂できないで、亡くなられるということはない。その理由は、神が人類の真の父母を立てることによって(前編第七章第四節(一)①)、創造目的を完遂なさろうとする摂理は、アダムからイエスを経て再臨主に至るまで三度を数え、この三度目である再臨のときには、必ず、その摂理が成就されるようになっているからであり、その上、後編第四章第七節に論述されているように、イエス以後二〇〇〇年間の霊的な復帰摂理によって、彼が働き得る社会を造成するために、民主主義時代をつくっておかれたからである。イエスは、初臨のときには、ユダヤ教の反逆者であると見なされて亡くなられたのであったが、彼が再臨なさる民主主義社会においては、たとえ、彼が異端者として追われることがあるとしても、それによって死の立場にまで追いこまれるようなことはないのである。

それゆえに、再臨主がいくら険しい苦難の道を歩まれるといっても、彼が立てられる実体的な「信仰基台」の上で、彼を絶対的に信じ、彼に従い、彼に侍る信徒たちが集まって、第三次世界的カナン復帰の実体路程のための「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を造成することによって「メシヤのための実体的な基台」をつくるようになることは確かである。

第三次民族的カナン復帰路程において、モーセのときには、磐石を中心とする「出発のための摂理」をするようになっていたのであるが、ヨシュアのときには、磐石よりももっと内的なそのわき水を中心とする「出発のための摂理」をされたのであった。これと同じく、イエスも初臨のときには奇跡をもって「出発のための摂理」をされたが、再臨のときには、それが内的なものとなった、み言を中心として「出発のための摂理」をされるのである。 なぜなら、既に前編第三章第三節(二)において論及したように、み言をもって創造された人間が(ヨハネ一・3)、堕落によってみ言の目的を成就することができなかったのであるから、神はこの目的を再び完遂なさるためには、「み言」の外的な条件を立てて復帰摂理をなさり、摂理歴史の終末に至って、「み言」の実体であられるイエス(ヨハネ一・14)を再び送られて、「み言」を中心とする救いの摂理をなさらなければならないからである。

神の創造目的を、心情の因縁を中心として見るならば、神は、霊的な父母として、人間を実体の子女として創造されたのである。そして、最初に神の二性性相の形象的な実体対象として創造されたアダムとエバは、神の第一の実体対象として、人類の父母となるのである。それゆえに、彼らが夫婦となって子女を生み殖やし、父母の愛と夫婦の愛、そして子女の愛を表し、父母の心情と夫婦の心情、そして子女の心情によって結ばれる家庭をつくるようになっていたのであるが、これがすなわち三対象目的をなした四位基台であったのである(前編第一章第二節(三)参照)。

このように、神は天の血統を継承した直系の子女によって、地上天国をつくろうと計画されたのであった。しかし、既に堕落論において詳しく述べたように、人間始祖が天使長と血縁関係を結ぶことによって、すべての人類はサタンの血統を継承して、みな悪魔の子女となってしまったのである(マタイ三・7、マタイ二三・33、ヨハネ八・44)。それゆえ、人間始祖は神と血縁関係を断ちきられた立場に陥ってしまったのであるが、これがすなわち堕落である(前編第二章参照)。

それゆえに、神の復帰摂理の目的は、このように神との血統関係が断たれてしまった堕落人間を復帰して、神の直系の血統的子女を立てようとするところにあるのである。我々は、このような神の復帰摂理の秘密を聖書から探してみることにしよう。

先に論じたように、堕落して殺戮行為をほしいままにしたアダム家庭は、神との関係を断たれてしまったのである。しかし、ノアのときに至って、その二番目の息子であり、アベルの立場におかれていたハムの、その失敗によって、神と直接的な関係を結ぶところにまでは行かれなかったが、それでもノアが忠誠を尽くした基台があったので、僕の僕(創九・25)としての立場に立つことができ、神と間接的な関係を結ぶことができたのである。これがすなわち、旧約前の時代における神と人間との関係であった。

信仰の父であるアブラハムのときに至り、彼は、「メシヤのための家庭的な基台」をつくって、神の選民を立てたので、彼らは初めて神の僕の立場に復帰することができた(レビ二五・55)。これがすなわち、旧約時代における神と人間との関係であった。イエスが来られてのち、洗礼ヨハネの立場でもって立てられた、その「信仰基台」の上に立っていた弟子たちは、初めて、旧約時代の僕の立場から、養子の立場にまで復帰されたのである 。彼らが神の直系の血統的子女となるためには、イエスに絶対的に服従して「実体基台」をつくることにより、「メシヤのための基台」を造成し、その基台の上に立っているイエスに、霊肉併せて接がれることによって(ロマ一一・17)、彼と一体とならなければならなかったのである。

イエスは、原罪のない、神の血統を受けた直系のひとり子として来られ、堕落したすべての人類を彼に接がせて一体となることにより、彼らが原罪を脱いで神の直系の血統的子女として復帰することができるように摂理しようとしてこられたのである。イエスと聖霊とが、人類の真の父母として、このように堕落人間を接がせ、原罪を脱がしめることにより、神との創造本然の血統的因縁を結ばしめる摂理を、重生というのである(前編第七章第四節参照)。それゆえに、イエスは、野生のオリーブである堕落人間を接がせるために、善いオリーブとして来られた方であるということを、我々は知らなければならない。

しかし、弟子たちまでが不信に陥ったために、イエスは、洗礼ヨハネの立場から、一段上がってメシヤの立場に立つことができないままに、十字架で亡くなられたのである。それゆえ、復活したイエスが、霊的洗礼ヨハネの立場から、復活四十日のサタン分立期間をもって霊的な「信仰基台」を立てられたのち、悔い改めて戻ってきた弟子たちの信仰と忠節とによって、霊的な「実体基台」が立てられた結果、そこで初めて「メシヤのための霊的な基台」が造成されたのである。そしてついにこの霊的な基台の上に霊的メシヤとして立たれるようになったイエスに、霊的に接がれることによって、初めて信徒たちは、霊的な子女としてのみ立つようになったのであるが、これがすなわち、イエス以後今日に至るまでの霊的復帰摂理による神と堕落人間との関係であった。それゆえに、イエス以後の霊的復帰摂理は、あたかも神が霊界を先に創造されたように、そのようなかたちの霊的世界を、先に復帰していかれるのであるから、我々堕落人間はまだ、霊的にのみしか、神の対象として立つことができないのである。したがって、いくら信仰の篤いキリスト教信徒でも肉的に継承されてきた原罪を清算することができないままでいるので、サタンの血統を離脱できなかったという点においては、旧約時代の信徒たちと何ら異なるところがないのである(前編第四章第一節(四))。このように、キリスト教信徒たちは、神と血統を異にする子女であるので、神の前では養子とならざるを得ないのである。かつてパウロが、聖霊の最初の実をもっている私たち自身も、嘆いて養子とせられんことを待ち望んでいると言った理由も、実はここにあったのである(ロマ八・23)。

それゆえに、イエスは、すべての人類を、神の血統を受けた直系の子女として復帰するために、再臨されなくてはならないのである。したがって、 彼は初臨のときと同じように、肉身をもって地上に誕生され、初臨のときの路程を再び歩まれることによって、それを蕩減復帰されなければならない。それゆえに、先に既に論じたように、再臨のイエスは、み言を中心とする「出発のための摂理」によって、「メシヤのための基台」を実体的に造成し、その基台の上で、すべての人類を霊肉併せて接がせることにより、彼らが原罪を脱いで、神の血統を受けた直系の子女として復帰できるようにしなければならないのである。

それゆえに、イエスは初臨のときに「メシヤのための家庭的な基台」の中心人物であったヤコブの立場を蕩減復帰なさるために、三人の弟子を中心として十二弟子を立てられることによって、家庭的な基台を立てられたのであり、また、七十人の門徒を立てられることによって、その基台を氏族的な基台にまで広めようとされたように、 彼は、再臨される場合においても、その「メシヤのための基台」を、実体的に家庭的なものから出発して、順次、氏族的、民族的、国家的、世界的、天宙的なものとして復帰され、その基台の上に、天国を成就するところまで行かなければならないのである。

神は、将来、イエスが誕生されて、天国建設の目的をいちはやく成就させるために、第一イスラエル選民を立てることによってその土台を準備されたのであったが、彼らがそれに逆らったので、キリスト教信徒たちを第二イスラエルとして立てられたように、もしも、再臨イエスの天国建設の理想のために第二イスラエルとして立たせられたキリスト教信徒たちが、またもや彼に背くならば、神はやむを得ず、その第二イスラエル選民をも捨てて新しく、第三イスラエル選民を選ばれるほか、致し方はないのである。それゆえに、終末に処しているキリスト教信徒たちは、イエスの初臨当時のユダヤ民族と同じく、最も幸福な環境の中におりながらも、また一方においては、最も不幸な立場に陥るかもしれない運命の岐路に立たされているとも考えられるのである。




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Last updated  2017.10.15 10:26:21
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