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2004年5月10日は三代王の誕生という祝賀と同時に、韓氏オモニの堕落の危機も抱えている状態だったのです。そのことが、6月14日の雲の形象で、まざまざと表現されていたのです。霊通者と称しながらも、雲の形を見ては妄想を膨らまし自分勝手な解釈でH4に結び付けているに過ぎない。2000年以上も前のイスラエル民族が空を仰ぎ見てはエリヤの再臨を待ち望んでいたように、こんにちなおそれを見つめては「雲に乗って来るイエス様の再臨」を待ち望むクリスチャンの姿そのものだ。
まずは、当時2004年6月14日の霊性日記をそのまま引用します。
**2004年6月14日(月)霊性日記より**
午前10時ころ、私は南寄り頭上に、父子の姿を連想させる雲の形象を見つけた。父は喜びに満ちて万歳を叫んでいるのか、それとも心の自由を得て、天空に飛び立とうとしているのか・・・。その父の下に、まるで鉄腕アトムが左手を突き出して空に飛び立つような姿で、元気に溢れる子供が見える。父と子は南の空から、ぐんぐんと北へ進み、やがて一体となり神々しいまでの輝きを放つようになる
ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。 もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。 したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。
新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。もちろん、真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである(前編第三章第五節参照)。 既に述べたように、人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。 すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている(前編第三章第五節参照)。
このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。 それゆえ神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。 人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。また、 「文亨進様が真の後継者であることを立証する60の論題」小冊子(紙くず) も60番まで終わり、上から次のもの(情報)が降りてこなければ、とうごま氏も静かなものだ。典型的な指示待ち族。私からの矛盾点の指摘に対してとうごま氏の考えなど一切ない。
ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。
暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。H3、H4ともに、最早、家庭連合の「後継者」などということ自体が「道化師」となった。
一休さんのような機知(トンチ)ではありません。
奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵
奇知の外の凡人
が徒然なるがままに書く日記です。
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