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2021.04.12
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​​​​​​​​​​​​ 心情の三位基台を成せ

1963年1月18日(金)前本部教会
(孝進様、誕生3×7日=21日にされた御言)


 皆さんがここに集まった目的は何ですか? この地上の民族なら民族の悲しみ、国家の悲しみなら国家の悲しみ、数多くの悲しみがありますが、この悲しみを取り除き、喜びの何かを残すというところにあるのです。残すには、どこから残すのか? 良い場からではダメなのです。必ず残す時は、良い場からではダメなのです。難しい場から残していって良い場に上がってくるのです。


 全体のために与えれば全体と因縁を結ぶ

 皆さん、大統領選挙をやれば全て、地方から広がってくるでしょう? 地方からわき興ってこなければなりません。民衆が主でしょう。これは天の法度を立てるための因縁を捜し求める歴史と同じです。であれば全て自分が全体を代身してやらねばならないのです。この民族の前において、良いといえる何かを残せるか、あるいはやれるかという立場に立ってこそ、全体の因縁の前に立てるのです。

 このように見る時、統一教会なら統一教会が、この悲しみの世の中に、喜ぶことのできる内容を直接与えるか、やれる内容を得てこそ、これからこの民族の前に残り、この民族の前に必要な宗教となるのであり、そうではなくこの悲しみの世の中の悲しみを克服できない統一教会であるなら、必ず押し流されてしまうのです。

 今我々が因縁をもつ世界がこのように動いていますから、今日この統一教会はこのような因縁を知って行かなければなりません。それではどのように成さねばならないか?

 この民族のために苦労して、責任を負わねばなりません。責任を負う時は前後・左右・上下を全てやらねばなりません。前後・左右・上下には、天地全部が入ってくるのです。そうでしょう? 上下は天地です。前後は父母であり、左右は兄弟なのです。全部このように立場をはっきりさせ、ここに変わることのない自分自身の位置を立てていかなければなりません。この位置だけが立ったなら、完全な人間になるのです。

 ですからあれこれ考えてみれば、いつ何を・・・。時間がないのです、時間が。皆さんの年配の人をじっと見ればです、いつ真に生きたことがあったでしょうか。皆さんたち、じっと見てください。子女たちを生んで家族を持ち、前後を得た家族であり、その村なら村で真の模範となる家族となり、このような全ての内容を得た人間がいるでしょうか。世の中もそうであり、天も同じなのです。ですから父母がいなければ寂しく、膝元に子女がいなければわびしいのです、これが人間の本心の作用でありますから、復帰路程におきましても、このような道を捜し求めて行くのです。


  愛の心情的三位基台を成せ



 これが合わさったものが心情的基準です。これが三位基台です。4数です。ここに相反する人間は、あの世に行けないのです。また、このような基準で愛を受け、愛の味を知って、その穏やかな春の季節、心情的な春を知らない人間は、あの世に行って拍子が、呼吸が合わないのです。目がおかしいとか、何か不自然なのです。環境に合っていなければ不自然でしょう? うん?

 復帰歴史がこうなのです、復帰歴史が。イエス様がこの地上で復帰歴史をなさるにおいて、男性の代表として来られて何をしなければならないのか? お母さんを真情から愛することを知り、妻を愛することを知り、姉を愛することを知り、娘を愛することを知らねばならないのです。お父さんは無論ですが。それでは・・・。(録音がしばし切れる)

 完成しなければなりません。その次には兄さんに対する心情基準を通過しなければなりません。そして弟を愛する時にも、天が見るに偏ってはいけません。

 それでは主様、新郎としての主様として来られたそのお方は、どんなお方か? 父の心情と兄の心情など、この世の側で男性としての愛という条件を得て、体験するという内的な全ての体験をして、一人の新郎的な基準で全てに繋がっているのです。そのようになっていたのです。

 ですから皆さんが新郎たる主様を迎えるには、新婦にならなければならないので、新婦の資格者になるためには、お父さんを愛することを知り、お兄さんを愛することを知り、夫を愛することを知り、弟を愛することを知らなければなりません。また自分の側においてはお母さんを愛することを知り、お母さんが「愛するわが娘よ、わが心情的愛を全ておまえに与える」とするお母さんからの心情的な全ての所有を相続する立場に立たなければばならないのです。また、自分の姉までも「あ、うちには誰それしかいない」と言われるほど、そのお姉さんが心情を全て委ねるような、心情の主人にならなければなりません。その次には弟の心情までも全て委ねる、心情的に親しい立場に立たねばなりません。そうすれば新郎になることができ、新婦になることができるのです。分かりますか?「ハイ」 イエス様も地上に来て、このことをされようとしたのです。ところが堕落した世の中ですから、堕落したこの世ですから、一つもなかったのです。お母さん、お父さんもなかったのです。

 サタン世界はみなイエス様の前に、屈伏しなければなりません。ですから神様を父と侍り、堕落前の理想的な命の木、完成したアダムをお兄さんとして侍り、堕落することなく神の悲しみを感じない本然の完成した男性、天地を主管することができる本然のアダムを兄として侍り、神の心情と、理想的アダムの心情を相続しなければならなかったのです。 このようにしてアダム時代に愛する息子娘までも、また愛する弟たちまでも・・・。兄弟がいたなら、こんな基準において弟たちの心情までも、息子娘の心情までも全部みな相続することのできる心情的基盤を築いたなら、新郎という名をもって現れることができたのです。そのようになるのではないでしょうか? そうなれば完全復帰するのであって、何で復帰するのか? 新郎として来られたら、どのようにして完全復帰するのでしょう? それでは、イエス様がこのような心情的な中心をもって来られたら、今日この地上の新婦たる人々は、どのようにしなければならないのでしょう? 新婦たる人々はどうしなければならないの? 聖霊を母として侍り、その昔に堕落しない本然の娘となるエバを、堕落せずに完成して、本然の娘となるエバを兄として侍り、その次にはこれから来られる主様の前に立つことのできる信徒たちを、自分の弟と同じように愛することができなければなりません。こうしてこそ新婦の立場に出られるのです。心情的三位基台を得てこそ成るのです。

 これがこれから一時がくれば、平面的になるのです。今までは天と地を中心に、主と因縁を結んできましたが、これから主様が来れば、これが平面的に起こってくるのです。父母という名を得ていって・・・。すでにお話した通り男性は父の代身、兄の代身、弟の代身、平面的にそのような心にならねばなりません。これが理想世界です。

 ですからこれから心情において、父母の心情であれ夫婦の心情であれ、子女の心情であれ兄弟の心情であれ、このような問題をたどってゆく時、これを侵犯することは許されないのです。新郎、新婦の原則、これらの基盤が築かれてこそ、新郎、新婦の基準が起こってくるのです。

 この心情的な足場がこの基盤を通して起こってくるので、これに逆らい、このような原則を否定する人間は、天国へ入ることはできないのです。そこに行って完全な家族の一員になれないのです。弟がいない、兄さんがいない、お母さんがいない、お父さんがいないということを感じるようになるのです。分かりますか?

 私が統一教会の女性たちを見てみると、我々の教会に来て先生に会ってみれば、先生に従ってきたくなるのです。この心情が何か分かりますか? お父さんとして、お兄さんとして、弟として、そんな心情を持つようになるのです。この心情的な母性の因縁が全てからみ合ってくるのです。また男性たちもそうです、男性たちも。このような作用を起こすことができるものがなければ、天下を統一できません。統一できないのです。この天倫の原則を、天倫の心情の世界を絶対に相続できません。


​  全体を代身して喜び悲しむ立場となれ​

 それでは皆さんが、すでにお話しましたが、生まれたということはただ一度の最も尊い因縁を得たということです。その尊い因縁の目的地はどこか? 心情の場をつかんで勝利した姿で、太平歌を歌うことのできる安息所にあってこそ、心情的な目的が達成されるのです。



 ですからこのような心情の因縁を抱いてこそ、子女となることができるのです。その次には兄となるか姉となるか、また父となるか母となるかという因縁が生じてくるのです。こうして新郎・新婦となるのです。人間の心情を見てみるとき、父よりも新郎・新婦が相対的因縁になりますから、新郎・新婦が最も中心になるのです。それで既存教会では、新郎・新婦という言葉が出てくるのです。

 これが何であるかといえば、前後・左右・上下を持つということです。前後・左右・上下を持つのです。こうして皆さんが悲しめば、四方が悲しむという環境を持つのです。皆さんが良ければ、四方で良いというのでなければならないでしょう?

 ですから我々統一教会では、地方において伝道をよくやって喜べば、統一教会員の全部が良かったとしなければならないのです。これが喜べない奴は全部サタンです、サタン。兄弟が良かったという時、全体が良かったという環境を持たなければ、これは全体理念世界に属していないということです。また、属していない者です。

 それでは全体を代身して喜ぶことができ、全体を代身して悲しむ立場をいかに造るか?じっとしていて出来るでしょうか? これは、悲しむことのできる道、喜ぶことのできる道を捜し求めなければなりません。喜び悲しめば、因縁を結ぶというのです。それで皆さんは苦労しているのです。

 これから我々が苦労していることが全部、今まで苦労した我々の苦しみと、我々が良かったという全てのものが、これから喜びを残すためのものであったのです。この喜びを残すということは、自分だけの為ではありません。人類の為であり、あるいは民族の為に残すことに苦労してきたのですから、それをこの時に受けるのです。「あ、この方たちが苦労されたので、復帰のみ旨が成ったのだ」となるのです。



 こんな材料を収拾してゆくためには・・・。じっと座って、喜んでも悲しんでもみないで、できるでしょうかと言うのです。ところで世の中が、喜びも悲しみもないということはないでしょう。苦痛のこの世ですよ、苦しみの浮き世。じっとしていれば心が悩むのです。心を苦しめる人間は三倍以上、あの世へ行って蕩減を受けなければなりません。体を苦しめることよりも、心を苦しめることは三数を課せられるのです。体は一数を課せられるだけですが。そのようになっているのです。

 なぜ? 歴史的な面というものは、過去、現在、未来ということは、内的な世界の因縁に属しているからです。今日の現実に属してはいないのです。神が復帰摂理をされておられるので、内的な因縁の世界に属しているのです。ですから皆さんがこのような時を迎えて動かなかったなら、苦喪が多いのです。

 ですから心が苦しみ、心に皺を寄せている人々はですね、どこにどれほどあったとしても、翼の折れた鳥と同じなのです。皆さんをこのような環境においてはいけないので、皆さんを・・。体が苦しくとも心が喜べば、彼は勝利者です。

 今我々が悲しみの世の中において、この苦しみの因縁を越えて行く時に、肉体が苦しむことは七、八〇年以内で過ぎてしまうのです。分かりますか? しかし心が苦しむことは億千万年が過ぎても絶つことができないのです。それで肉身をまとっている間に、心が喜ぶことができる基準を立てなさいというの。これが復帰歴史だというのです。


 内的な心情の苦労の道を行け

 それで今日、復帰途上におきまして、皆さんが環境に因縁を持つ全てを経て行く時、これから残して行く喜びというか、あるいは直接に喜びを・・・。皆さん、このようなことはですね、このようなことは地方に行って伝道してみれば起こるのです。苦労して、そのことによって、後代の人々が、皆さんがここに来て飢えて、このように苦労したことをみな知ることによって起こるのです。今までは分からなかったのです。

 「あの人々が来た日から、我々は反対して、やりたいことをみなやって、たらふく食べて温かい部屋に寝ていたが、かの人々は寒い部屋で飢えて、このようなことをみなやったのだな。彼らがこの尊いみ旨を求めて来たことは、誰の使命として来たのだろう?」という考えを持つようになり、自分の兄のように、姉のように、あるいは新郎のように、お父さんお母さんのように、全ての天的な内容の恩賜を持ってきて、苦労してきたことを考える時、自分の父母のものもすっかりやってしまいたくなるのです。お父さんの髷の先からみな切って、お父さんお母さん、自分の兄弟、その門中をことごとく抜き取って与えても不足なることを感じるような心情基準になってこそです。

 それではどのようにしなければならないか? 楽に過ごしていて成るかというのです。それで、やむを得ず苦労の道を行くのです。苦労の中で与えてやり、苦労の中で受けるので、与える人はそこで喜びを受けるようになるのです。また、ここで受けるのであり、こんな苦労をしてあげる一文の金が、億千万の金よりも尊いのです。そうではないでしょうか? 価値から見れば無限の価値ですよ。

 なぜ? 心情の価値を添付して現れるものは、至極小さくても無限なる価値に通ずるからです。これが何の話かというと、内的な苦喪は天主と連結されて、比例する価値なのです。外的なものはどんなに多くても、心情が通じなければこれは小さいのです。それで肉的苦痛は小さいのであり、心的苦痛は永遠と連結しているのです。

 ですから人々が信仰の道において、良心の苦痛を受けて信仰しているなら、絶対に抜けないのです。それよりもさらに大きな、自分の心情基準以上の恩賜の場がなければ、抜けないのです。

 それで今日、統一教会員たちが悔い改めること、恩賜を受けることがどこにあるかと捜すのです。これがなぜ、そうだと分かるの? 皺をのばすのです。心情から悔い改め、心の皺をのばせば、自分の心に皺になったものよりもさらに大きな恩賜の場に行くのです。でなければ、のばすことができません。

 皆さんが今家で、ここはだいたいおばさんたちですから、息子娘を見やる時「あ、この子らは共同墓地に埋めてくれるだろう」みなそうでしょう? 行く道がどんなに急ぐでしょう。復帰の道というものは、一度だけしかない因縁です、一度しかない因縁。

 ご覧なさい。皆さんたち、今は・・・。この一点から度になるのです。回るのです。もつれ合い絡み合って回るのです。(板書されて話される)同じなのです、これが。数多くの人間の良心はこの一点から、この一点を起点として、歴史的な全ての内容を伴って、時代的現象と関係を結び、未来的所望の基台にならなければならないのです。これが我々の良心の基台なので、今日この基台を失ってだんだん曲折が、全てのものが過ぎ去って行っても通じないのです。良心基準、この良心の一点ということは上下、前後、左右が通じなければなりません。これは立体的です。上下、前後、左右、これが通じる基準でさっと場をつかめば解かれるのに、このように行ってしまうときには何だというのです、うん?

 このようになっているのです。

 喜びの心情を悲しみの場で失ったのでその場において求めなければ

 それではこの場はどのようになっているのでしょうか? この場は心情基準でなければなりません。心情でなければダメなのです。心情は何の心情? 天に通じることのできる父母、天に通じる家庭、天に通じる子女の心情です。このようになっているのです。この因縁を今失っているので、これを捜し求める道が復帰の道なのです。

 これをどこで失ったのですか? 喜びながら失ったのではなく、悲しみながら失ったのでしょう? どこで失ったのですか? エデンの園で失ったのです。「アイゴ-、良かった!」といって失ったのですか? おお泣きしながら失ったでしょう? 慟哭して、胸を締めつけ、落ちて、天地を見るに恥ずかしく、恐れながら、骨までやられるその場で失ったのです。そんな場で失ったので、復帰もその場に行ってやらねばならず、心を注ぎ、悲しみで失ったので悲しみによって捜し求めるのです。そうじゃありませんか? 悲しみで植えたので、悲しみによって刈り取らねばならないということです。

 ですから先生も過去にこの道を行きながら・・・。皆さんに会う時に、天が祝福することのできる人間に会うときには良い場、平安な場で会おうとはしないのです。イエス様の最高の悲しみの場はゲッセマネの園であり、その次にはゴルゴダの頂上であるのです。十字架につけられる場においてイエス様を愛することのできる、イエス様と共に死ぬことのできる一人の新婦がいたなら、ここに悲しみの涙を流して行くところから、悲しい世の中の男として、悲しい世の中の女として、このように涙を流して行くところから、悲しみの世が終わるのです。肉体をまとって悲しみつつ生きてきた人間は、ここで終わるのです。 もしもここにこのような因縁を結んで行ったならば、イエスはあの世に行って、今日聖霊を送るような役事をされることはないのです。聖霊を送ることはありません。その昔の旧約時代の天使のような霊人たちが役事したのです。このようなことを考えてみたことがありますか? 聖霊が来ることはないのです。

 もしも聖霊の代わりに実体的な存在が、イエスとゴルゴダの頂上で天の前に共に死んだなら、ここに悲しみの涙を流し、共に死んだなら、人生の悲しみは終わったのです。あの世に行ったなら解放です。ですから聖霊が来るのではなく、誰が来るのですか? 昔の旧約時代の聖人、聖賢たちが来るのです。聖霊が来たので、旧約のモ-セやアブラハムのような人たちが地上に来なかったのです。分かりますか? そのようになったのです。

 今日何かの文書にも書かれずいろいろと・・・。この基準ができていなかったので、今までイエスと聖霊がこの道のために・・・。その時にこのような地上の恨を、悲しみの涙を流した人間として完全に絶ち切ることができなかったことが尾をひき、霊界までついてきたので、この因縁を背負われたのがイエスと聖霊、父と母ですから、この父と母はその時のために人間を捜し求めてゲッセマネの園、ゴルゴダの頂上を求めて来られたのです。 捜し求めてここに苦労の中においても、死の場であっても共に行くという過程を通過して、人生世界においてサタンが讒訴するその条件を、完結させていかなければならないのです。それで天地の新しい法度をこの地上に立てることを願い、再臨役事を今まで準備して来られたのです。

 ですから統一教会でいえば、1960年度に最高に迫害を受けたのです。1960年度が最高の峠です。これがとても、冒険ですよ。死ぬか生きるかの境目です。ここにこんな盟誓の基準が立って、死んでも行くという基準で頑張って越えて来たのです。

 統一教会が全体的なある使命を負うなら、これから皆さんが行く所には、聖霊が地上でイエス様が行く所に来て役事したように、役事するでしょう。これから統一教会員が行く所どころ、役事するのです。どんなに素晴らしいでしょう? これが縦的ではなく、平面的なのです。我々が実体で手紙連絡をすることもでき、自分の事情も告げることのできる場において、サタンの侵犯を受けることなく、サタンと闘うこともなく、平面的にそのみ旨をすることができるのですから、どんなに恵みでしょうか?

 しかしながらイエスと聖霊が行く天地の間は今まで、空中権勢をサタンが占領していましたから、数多くの道人たちがこれを破裂させようと闘い、死んでもイエスと聖霊に出会ってきたのです。ですからどれほど苦労したでしょうか? 全てのものを捨て、誠精を尽くせという言葉がでてくるようになったのです。

 ですから皆さんがこのような内容を知って、貫いて行くなら、どこに行ったとしても、皆さんが我々の教会を代表して地方に行ってみれば、皆さんは聖霊の実体です。霊的に現れた聖霊と同じように、霊的に現れた主様と同じように、役事をすることができるというのです。今日、我々が実体をもって、昔に主様が、霊的な父母がされた事をすることができるのです。こんな事が起こるのです。ですから天的にその素質が無限だというのです。 いま天がこんな役事を対外的にされておられるので、心情には至っていないのです、心情が。その心情をどこで失ったのですか? 悲しみの場において失ったでしよう。ですからその場に行って、復帰して場を占め、ここに父母を慕い、孝子孝女としての称号を受けて、自身の本宮に入って暮らしを始めなければならないのです。これが蕩減復帰ではありませんか? このようなことを皆さんはじっくり考えてみて下さい。このような考えをしなければ、考えなければ、人間ではありません。皆さんが原理を知ったということは、全部うそ話になります。皆さんの前には、原理が何の役にも立っていないのです。

 数多くの人々の中で、長い歳月の中で、皆さんがこのような因縁によって、このような一点に接することができたということが事実なら、こんな時を迎えたということが、どんなに素晴らしいか分かりますか? 先生は今までこんな日を願って、所望のこの時を願って来たのです。


 変わらざる心情で天倫に従え

 今、天においても先生に対して心配していないのです。過去にこの道を出発した時にはどれほど多く心配したか知れません。「おまえはこんな険しこを行くのか?」と言うのです。しかしながら「私はこの道を行かなければなりません」と言うので「ではおまえが行く所に共に行こう」として所望の一日を願いながら神が励まされたので、今とは違うのです。今までこの場を・・・。この場は昔、出発した時から所望の場なのです。

 皆さん、強盗がですよ、十字架にかけられて死なんとする時、右側の強盗がどうしたでしょうか? 楽園に行くということは、全ての所に同参するということです。全てが否定したのですが、その時ここに信じたという条件が尊いのです。何を言っても死ぬ場は同じなのですが、その時に信じて死んだことが歴史において、楽園に一番に入るという要因になったのです。

 死ぬ時に因縁をもつ人間は、天上に行っても誇りになるのです。イエスがあの世に行って、右側の強盗を使徒たちの前に立てるという責任があるのです。これから先生が行けばこのようなことを証すかも知れません。それで苦難に同参するということが、どれほど尊いことか分かりません。さらには死の場に同参したということは・・・。

 先生がこんな復帰路程において、心情をかけて天の前に哀痛する、慟哭する恨を抱いて行く時に、皆さんが涙を一度流したということは、大したことなのです。難しい場において、涙を一度流したことは何か分かりますか? 苦痛を一度受け、悪口を言われ、鞭打たれ、足が折れ、あるいは頭がやられたことが・・・。そいつの頭がえらくやられたらどうなる? これはサタン世界で受けた事でしょう? これがどれほど大きな恵みであるか分かりません。

 あれこれ考えでみれば、皆さんをいまじっと見てみると、まず出てくる食口たちをじっと見てみればですね、先生とはだんだん遠いのです。先生は遠くなっても、皆さんは懇切でなければなりません。昔にはそれでも教会にやって来て、来れなければ目を真っ赤にして「お父様、ああだこうだ、家で反対が多くてどうで・・・」といって、鞭で打たれて恰好がどうなっていようと気にもかけないで、慟哭したものですが・・・。

 先生は昔よりもむしろ今、落ち着いているのです。心情において先生が移り気ですか?自分たちには。これはなぜでしょうか? 懇切だったものがなぜ冷たくなったのでしょうか? 懇切であっても、どの程度か分かれば先生がいてもいなくても、天倫の前において自分が行かなけれならなこを行くことです。そんな責任があるのです・・・。そうなればできるのではないでしょうか?

 お父さんお母さんが産んで、乳を飲んで育ってですよ、その次には自分を中心として一人の人格者として、息子娘として生まれて、その父母の子女であれば子女の全ての因縁を経ていって、長じた後には自身で生きて行かねばならない人生の道を行くのです。皆さんも同じなのです。自身が行かねばならない人生です。自身が行く暮らしを抱いて行くというのです。この暮らしの中において、お父さんお母さんが生きた世の中の生活と同じ法度に従って行かなければなりません。復帰歴史がそうなのです。

 これからこの統一教会なら統一教会の教員たちは、先生が今まで築いてきたこの生活法度に従って生きて、この社会的な生活、この理念的な生活の天的な価値、所望的な価値、あるいは理想的な価値を、生活に接続して、感謝して喜んで生きなければなりません。このように生きることが、我々の理想世界の生活観であるというのです。そうではありませんか? お父さんお母さんが父母として、全部教えてくれたならですよ、その子女たちも結婚して子女をもうけなければなりません。そうではありませんか? でなければ滅ぶ家なのです。


 過去現在は責任を果たさなかったとしても未来には責任を果たせ

 あれこれ考えてみると今日「私」というものは、いたずらに駆けているのではありません。歴史的な私なのです。先生も今まで苦労してきたでしょう? 六千年の間の復帰の因縁を通してきたのです。歴史的な面に立つ私、時代的な面に立つ私です。それで今日、歴史的な面において自身を立て、蕩減歴史をたどってきたのです、今まで。その次に時代的な面において、自身の責任を果たすに、この民族の前に責任を果たせというのです。そしてこれから未来的使命を果たすに、子女を残さねばならないのではないでしょうか?

 息子娘が必要でしょう、息子娘が。これを残さなかったら自分が塞がれてしまいます。初めに舗装道路を、アスファルト道路を造ったとしても、谷間で絶たれてしまいます。出発した時はこの道を行けば、みな天の王宮まで直通だと考えるのですが、行ってみれば切れてしまうのです。

 天はどこに捜し求めるのですか? 個人から出発して、世界の果てまで行くことのできる大路を求めているのです。先生が行く道は、こんな責任を負う道なのです。先生は個人的な5%の時代があるでしょう。分かりますか? 先生は個人的な5%時代、家庭的5%時代、民族的5%時代、国家的5%時代、世界的5%時代、各段階を越える時は5%の責任を全て経て行かなければならないのです。

 しかし皆さんには、こんな苦労をさせないのです。今まで閉じこもって伝道もさせず、じっとほったらかしておいたのはなぜでしょう? この個人的な条件の5%を蕩減するには、力のいることなのです。我々は一民族なら民族に属していて、一民族はひとつの宗族基準を中心にして成る基準ですから、やれなくても皆さんは宗族から民族的な時代に立って、蕩減条件を立てなさいというのです。こうして宗族と民族がある限り、皆さんはあの世に行って宗族と民族の圏内の恵沢を受けなさいというのです。

 ですから今、やらなければならないことは世界的な蕩減です。世界的な5%が残っているのです、先生が考えるには。皆さんの三年期間は、先生が初めに語ったその基準においての蕩減的な基準、条件的な生き方なのです。先生が心なら、皆さんは体となって、本当に心と体が一つになるべきではないでしょうか? 先生がこのように願えば、皆さんはこのように行動しなければならないのです。今までこのようにやった? ですから条件的な闘いですよ、条件的な闘い。

 先生は今回で三年になる子女の日の前に、赤子が産まれるか大変に心配したのです。子女の日が過ぎて産まれたので良かったのです。なぜ心配したのでしょうか。天の全体的な運を持ってくる使命的な何かがあったなら、このような基盤を外的に築いておかなければならないからです。それでみな祝福してあげるのです。嫁ぎめとりなど、先生の思い通りにやれたらこの民族にも良く、後代の人々にも良いのですが、現実はそのようになっていません。

 それで歴史というものはまた・・・。皆さんも従ってきてどうするのでしょう?「教会で何かまたこんな事をやるのだが」というのです。皆さんを見るとおかしいでしょう?

 アブラハムが供え物ひとつ、鳩を裂かなかったことが罪になったのは変でしょう? これが変ではないかというのです。供え物を捧げるとき、羊を裂き、牛を裂き、鳩を裂くのを見るのは変ではないでしょうか?「あいつは何を・・・」となるのです。これは村の人がみなやることです。祭りになれば隣家の何某もやり、アブラハムもやり、何某もやることです。

 やることはみな同じなのですが、見る観点では違うのです。祭物というその祭物の中では、自身の宗族を中心としての祭物があり、また民族を中心として見る祭物があり、天と地を総合して望み見る祭物があるのです。祭物は同じなのですが、見る観点が異なるのです。これが分からない人間は、何だというのです。アブラハムもよく分からなかったのです。しかしながら神は知っておられるのです。サタンも知っていたのです。

 ですから、ここに失敗したのでサタンに対しても、その失敗した事を、その蕩減条件を提示したことを、取り消さなければならないのです。代価を払わねばならないのです。

 「おまえの立会いのもとに、天の命令を受けたのにやらなかったので、そのやらなかった代価を払え」というのです。常に手を突き挙げて蕩減を誓ったのに、それをやらなかったのです。それで民族が引っかかり、世界が引っかかり、今まで全世界キリスト教徒が全て引っかかってきたのです。

 皆さんも同じですよ。我々の教会でも、何だといえば同じですよ。分かりますか? ちょっと違うのが変ですか? しかしながら違うところが、大変なことなんです。皆さんがそのような場に参席してやっていることが、どんなに尊いか知ってますか?

 ですから先生は過去のために、現在のために、未来のために残してゆこうとしているのです。未来のために残す時は、何を通して残すのですか? この国を通して残すのではありません。残す時は自身の愛の血族を通して、残さなければなりません。それで皆さんが過去、現在には責任を果たしていませんが、未来の残すことができる責任者になれというのです。過去、現在は先生が全部やりましたが、未来のことにも連結させて、自身の責任を果たして恵みを受けるのです。ところがそれも嫌だと怨讐のように思って、話をしても信じないで「先生はまたあんな話をしている」というのです。そのように考える人間はあの世に行って、首がさっととぶのです。だまされた思う人間は見ててごらんなさい。

 それではどこに行ってこれを解くのですか? 地上で先生を通して結ばれたので、誰が解くの? 先生が解いてあげるのですか? 神はそのように見ていなくて、自分たちがそう思っているので、その条件があの世に行って首ねっこをつかまれるのです。みな自分たちのためにやったのに、自分の個人的な全ての観念、自分の事情的な環境にとらわれている人々は、その場を抜けることができないのです。それでどうなるの? その次に霊界に行っても、先生が解いてあげなければ絶対に解けないのです。


 怨讐までも許す雅量を持て

 それで今年の正月になる前に・・・。旧暦の四月になれば・・・。我々はだいたい三月四月に行事をやるのですが、天の歴史はそのようになっているでしょう。なぜ? 春になるからです。そうでしょう? で、そうなるのです。それが過ぎる前まで、皆さんは食口同士で結んだことがあったなら、みな解かなければなりません。今年中にみな解かなければなりません。誰と誰が対したこと、自分がしくじったことを、あの人が知っているのに自分が解かなければいけません。自分が自認して、求めて解かなければダメなのです。今年中にみな晴らさなければなりません。

 それで今年は出た人々、出ていって反対する人々までも・・・。先生とは最高の怨讐でしょう。怨讐ですが、怨讐に対してイエス様は福を与えました。そうでしょう? 先生がお話したように、今年までが出ていった人々が戻ってくることのできる年です。それで今劉協会長を通して、全てこのような話をするのです。会ってごらんなさい。会ってごらんなさいというのです。会って受け入れなかったら、どうするのか? 全部サタン世界に奪われてしまうのです。「あなた方もこの次にはこのようになさい。あなた方が天の息子娘なら、戻ってきなさい! 門は開いています!」このようにして対外的に天が役事されるのです。

 この時が来ましたから、先生には怨讐がないのです。怨讐がとても多くても、今まで怨讐として扱わなかったのです。絶対に私は、アボジの前に一言の祈りもしないのです。この怨讐め! どんなに憤ろしいでしょう? 憤ってみれば首を切る? トリタン(薬湯)を飲んでもすっきりしない怨讐が多いのです。しかしながらそんな考えは絶対にしないのです。なぜ? こんな一時があるからです。過去にどんな事をやったとしても、許すというのです。そんな法はあってはならないことです。こいつが今、過ぎ去っていく時であるので、我々がこのような心をもって行かねばならないのです。

 モ-セがパロ宮中に現れて十回も勧告して、その度に災禍を下し、十災禍を降らせても聞き入れなかったので、長子を打ったのです。結局は奪っていって、天が役事されたように、皆さんも同じなのです。この期間に勧告しなさいというのです。こちら側に立って。 この民族を愛する皆さんが、今まではどれほど怨讐の国で苦役をさせられたとしても、それでも命を永らえるほどにこの地の穀物を、あるいは粥を、干し菜の丼の一杯でも食べて、何を食べたとしてもこの国、この地のものを食べているのですから、これを有難く思わなければなりません。これが天の心を代身する人間がすべき、最高の道理なのです。

 良くても嫌でもこの地上に生まれた因縁がありますから、そんな立場に立つここに、民族を代表して立つ人間として良心的にみる時、天地の前に恥ずかしくなく、怨讐の前に堂々と立つことのできる自分でなければなりません。そのためには怨讐までも許すことができる雅量を持って、越えていかねばなりません。分かりますか?

 このようにして聞く聞かないはいいのです。その次に行って呪われても、言わないのです。その次に行って長子を打つような役事をしても、天はどんな条件にも引っからないのです。このような時が近づいて来たのです。皆さん、原理で三位基台復帰を学んだでしょう、三位基台復帰という話? いまはですね、皆さんに原理を詳しくお話しませんが、我々の家庭を中心にしても全部が復帰的な原理を中心にして見る時、どんな部分に合わせてみてもぴったり合っているのです。

 さらには今日、うちの赤ちゃんが産まれた日から三・七日になる日です。今日は皆さんが真に喜ぶべき日です、本当は。心情問題、復帰問題、こんな話もみなこの時を迎えて話すことができるのです。本当は先生が喜ぶことよりも、皆さんが喜ばなければならないのです。また、三・七数という基準を中心に見る時、これが原理的にもとても尊い期間なのです。それで今朝、先生は食口たちとお母様をみな集め、こんな話をしたのです。元来はここにやたらに参席できないのです。皆さんが知っているかどうか?

  第一線で天の勇士として闘う人間になれ

 皆さん、ごらんなさい。今の国際情勢を見てみれば、近頃の国の政治問題をじっと見てみるとこれが・・・。これが転換すれば、先生がえらい爆弾宣言をするのです。そんな時が来ることを願っているのです。伝道に行ってみれば、先生が多くの冒険をしようとしているのです。今まで霊界でもの凄い闘争をしてきた先生ですが。今までは腰の折れた虎のような生き方をしてきたのです。恐ろしくないといえばまるで恐ろしくないのですが、恐ろしいといえば最も恐ろしい人間です。なぜ? 自分がするのではなく、天と地がやることだからです。

 ですから名の出ることを嫌ったのです。裏通りを行ったのです、頭を下げて。ですからアカが工作する心境は良く分かるのです。そんな時ですから、ひっそりと行くのがいいのです。今まではそんな心境でやって来たのです。

 しかしながらこれからは、そうではありません。今は攻撃的です。冒険もやるのです。そのかわり「こんな仕事をやらなければならないが・・・」という命令をする時、動ける人間が何人になるか? 近頃の先生の考えがこうです。「こんな仕事をやるのだが、こんな仕事をやる時、一線に立って天を代表して、真にそのようになって天の勇士として闘争する人間が、どのくらいになるか?」とこうなのです。これが、今このような問題を考えているのです。

 ですからこれから先生が命令する人々は、行って闘う人間ではければなりません。今は工場に行ってみな仕事をしているのですが、これからはいけません。これから三年期間において、み旨のために闘う人々を呼んで工場で働かせるのです。この本部でめしを食べているのもそうです。いま誰でもごはんは食べられません。みなそのようになるのです。だんだん難しくなるのです、だんだん。そうなるのではないでしょうか?

 今日も私が朝お話したのですが、法度が多いのです、法度が。法度が多いのです。一つの方向において・・・。東西南北があるでしょう? 東西南北の一つの位置であれば、自分が立っている位置が、緯度や経度を中心にして何度、何分とみな違うのです。この位置ということは、自分が絶対的な位置に立って、自分だけは絶対的な価値を持つという位置でなければならないのです。このように位置が決定されねばならないのです、位置が。

 既成教会のやっているように、このように礼拝をして、それではダメなのです。我々は生活的に、天に侍って行かなければなりません。あれこれ考えてみれば、ここの年齢の多い女性たちを見てみるに、行く道が急ぐのです。もう先生も44才になって、50に近づいてきたと話したところです。先生自身がこれからやる事をじっと考えてみれば、急がれるのです、急ぐのです。急ぐのですが、皆さんはこんな考えをもっていないようです。千年、万年生きるのですか?

 先生は手を眺めながら「あ、これが文先生の手だ。このように生きて、嬉しい時も悲しい時もずっとやってきた手だなあ ・・・」と思うのです。これが一度死んでしまえば水になってしまうのです。水になるでしょう。腐ったしまうのです、これが。そのようになってしまうのです、死んでしまえば。それがいつですか? 遠くはないのです。みな一度は行くのです。行くのですよ。

 そのうえお婆さんたちを見ればですよ、思いがなぜこのようになるのか分かりません。いたずらに歳月を重ねる間がないのです。嫁入り前の準備をしている娘がいたとして、やる事をほっといて昼寝をしていていいでしょうか? 嫁入りしても追い出されます。再臨役事ということは、来たが追い出されたということです。再臨恵沢といって、これは追い出されたということではありませんか? 来たことは来たが、天国が来たことは来たが、追い出されたのです。それはなぜ? 準備をうまくやらなかったからです。

 先生が責任を多く負えば負うほど、その責任分野において行く道があり、皆さんは皆さんなりに責任があるのです。先生がすでにお話したように、5%の責任ということは、個人時代・宗族時代・民族時代を全て経て行かなければならないのです。これを越えるために皆さんを祝福し、このようなみ旨を成すのです。

 本当は今年を越えれば、皆さんは宗族的な代表になるのです。朴氏なら朴氏、金氏なら金氏、そんな代表を立てて祝福を与えて、越えて行く時になるかも知れません。韓国の代表的姓氏をもつ何人かを呼んで、サタン世界で今まで生きてきた人々に橋を架け、祝福をしてあげなければならないかも知れません。こんな条件をかけて、年のいった人々も祝福してあげるかも知れません。あれこれ考えれば自分たちがどんな時にいるのか、今日の夜にもあるのか、誰が分かるでしょうか? 皆さん、この祝福をする時いつ予告してやるのでしょう? 遠くない日にあるでしょう。いつ、誰を呼んで祝福するか分かりません。どの夫婦を連れてきて祝福するか分かりません。ですから終わりの日には、集まることに力を入れるのです。この話は合っているでしょう。考えてもみないで、アイグ-・・・。どうするんでしょう?「なぜ私には知らせてくれないのだ?」となるのです。今の時がこのような時なのです。

 皆さんが越えて行く時には・・・。こんな棒があったなら、棒に紐を結んで回すのですが、もしも時計の重りのようなものがあったなら、どこに結んで回すのですか? 皆さんの考えでは一番上と答えるでしょう? てっぺんではなくて、一番底なのです、底。どん底に結ぶのです。なぜ? 中間に結んだら切れやすいのです。一番底で結んだら地にさっとつくのですが、中間に結んでごらんなさい。そこに他の奴まで引っかかったらそいつまでひっ張られてしまうのです。

 ですから一番底なのです。我々の教会も今、そうなのです。自ら高くなろうとする者は逆になるのです。どん底にいなければなりません。世の中は混乱して、世の中は死ぬのなんのと騒がしいのですが、どん底で、心が安定した場で、自分の道を行けというのです。ひと回り行けばひと回り近づくのです。二まわり回れば二まわり近づくのです。このように行くのです。

 また、皆さんは外的世界をよく見て下さい。世の中は今すべて・・・。今この国も頭目たち、40代以上の人間では絶対に収拾できないのです。青年たちを中心にして収拾しなければなりません。それぞれの党においても今・・・。近頃、野党が統合だなんだと新聞に出ていましたが、若い連中がやつらを追い出さねばなりません。この髷頭を追い出さなければなりません。まずこいつらを追い払って収拾しなければいけません。今やそんな時がきたのです。ロ-トルを全部、追放するのです。そんな雰囲気があります。本当はそんな煽動をしなければなりません。

 このようにしてどうするのでしょうか? 先生がじっと見ていると、近頃とても面白いのです。興味があるのです。我々は杭を打つのです。海水が満ちてくる時が来たのです。行ったものが出てきて、ザリガニの子も出て、いろんなものが這い出してきたのです。ここに杭を打ち込むのです、杭を。我々は杭を打ち込む連中です。

 一度ここに入った魚がいたら、杭をしっかり立てるのです。経験してみましたか? コンクリ-トでしっかり打って、その水を治めるのです。心情のその水も全て治めて、三千万を救い上げるのです。「あなたたちが耐えられないか我々が耐えられないか。我々の杭をしっかりさせ、あなたたちの湧き出る力を示せ」という闘いをしているのです。

 なぜ皆さんを空腹のままに追い立て、苦労させているか分かりますか? 先生が今、家族を全部切って動きまわって、苦労する期間であるか分からないでしょう。なぜそうしなければならないのか? 今までは蕩減的な苦労です。「アイゴ-、アボジ! 蕩減的な苦労がいつ過ぎるのか?」と気づかったでしょう。神がこのように気づかったのです。神が気づかったのですが、これからは統一教会員たちが、気づかうのです。地上の聖徒たちが気づかう期間がなければならないでしょう。統一教会員たちが気づかえば、先生がやるのです。そうではありませんか? 気楽に食べて暮らしている人間は気づかってみなさい。ぐつぐつ、煮込んで、煎って、あぶって、焼かなければなりません。

 そうすれば先生も復帰の基準を越えていって、その時に神が心配している基準を抜けるのです。こうして神が受けた苦痛を、地上の人間が苦痛として感じられる基準を立ててこそ、その民が神の前に、威信を求め立ててゆくことができるのです。このようなことを考える先生なのです。

 今ある時、この国が良くなれば、その場で荷物をまとめて今晩にでもどこかに行くかも知れません。そんな先生なのです。二つの層で生きるということは、先生の願いではありません。ですから先生は家を買うつもりはないのです、家を買う考えは。教会を修理するの? いつ教会を修理せよと言ったことがあった? 目を落とせばこの通りですが・・・そんな話はしても、教会を修理しなさいという話はしないのです、ヒョウオン氏は時々しますが。これは自分たちでしなければなりません。先生はそんな考えはしません。

 こんな考えをすれば、先生がそんな先生なら、これから祝福を受けた者は苦労させるのです。これから先生が祝福してやれば全部「アイゴ-、おれは嫌だ」と手を挙げて逃げ出すほどに苦労させるのです。コリゴリだというような事をしなければならないのが、祝福を受けた者たちなのです。「アイゴ-、おれは嫌だ」というほど苦労させても、皆さんはこれは既成教会員たちが今まで「あ、天国に行くのです、アボジ」と言っていたのと同じと考えなければなりません。このように力を尽くし、このようにコリゴリするほど小突かれ、苦労しなければならないのです。この苦労をコリゴリするほどしたとしても・・・。今まではこれが「栄光だ、栄光。天国に行くのだ」とこうでした。これがとても素敵だったのです。それでこのように小突かれて通った者たちも、みな死んだのです。地獄に行く者たちです。

 しかしながらこれからは、統一教会の祝福という名に係わった者たちは、全部が生活的な苦しみをつづりながら、いま一度世界に出ていって天に徳を積んでみれば良いのです、それで滅んでも。このようにコリゴリするほどでもここに死を覚悟して、今まで天国に行くとしていた既成教会員以上にやることのできる環境を造ってこそ、天の前に威信を立てる時が来るのです。それで、ちょっとすれば全部みな苦労を嫌というほどさせるのです。先生はこんな考えを持っています。こうすれば滅びないというのです。滅びないのです。 そして復帰時代は三代復帰でしょう、三代復帰。そうでしょう? アブラハム、イサクヤコブ。アダムから第一次、第二次、第三次、三代なのです。ですから今日、我々祝福を受けた人間が苦労し、先生も苦労し、みな苦労するのはこのような一時を経て越えてゆくためなのです。この時を越えていないので苦労させるのです。

 こうして初めてこの地上に平和を建設する時において天の国、天国建設を成す時において、サタンと天地が全部みな頭を下げることができる条件を提示できるのです。世の中で勝利するなら、みな終わるのではないでしょうか? このような事まで我々がしなければならない責任が残っているのです。このようなことを考えてみれば・・・。


​神と世界と国のために10の3条を捧げよ​

 何ですか、その頭は? ちょっと恥を知りなさい。先生は体面などはかまいません。チュイさんは「アイゴ-、先生は大勢の前で恥をかかせた」と言うかも知れませんが、恥をかかなければなりません。頭がそのようにダ-となって、パ-マとは何ですか? 私がこの前あの門に入る時、驚いたのです。「誰が? どこの女が来た?」とよく見るとこの人です。

 来年から統一教会員は口紅を禁じます。ヤンダン(旧式の赤と青模様)チョゴリなり全部が韓国式に変えて着るのです。でなければ先生が、洋服の端に火をつけるかも知れません。火をつける前に、韓服のパジ、チョゴリを着るのです。先生はそれが好ましいです。韓国にいる間はそうであり、どこに行ってもそうありたいのです。

 今まで世の中が、我々を暮らしにくくしたでしょう? 今までそうでしょう? 今や世の中が我々を歓迎する時が来たなら、先生が暮らしにくくするのです、先生が。(笑い)そうなるというのです。「先生の背中にくっついていられない、先生の背中で暮らしていけない」と荷物をまとめて逃げ出す人が多くなるでしょう。家庭でも今、背中にふろしきを背負って逃げ出す人が多いのです。先生の背中に、統一教会の先生の背中に荷物を背負わせて、出てゆく人間がどのくらいになるか見てて、そうなるのではないでしょうか?

ですから先生が金さえ見れば・・・。10ウオンしかないおばさんの財布のお金を見ればその10ウオンも奪ってゆくのです。

 イスラエル民族がパロ宮中で、エジプトから出てゆく時どうしたか知っていますか?

 最後の時になってエジプトの人々は、金の指輪をはめていた人々は全部、モ-セの話を聞いて生きたのです。パロの話を聞いたならみな死んで、痛恨の思いをしたのです。ですから「私がこのようにして、天の罰にそなえてあげましょう」として生きたのです。こうしてここから出てゆく時、イスラエル民族は全部、エジプトの宝物を奪って、盗人ばたらきをしたのではありませんか?

 これと同じようにこれからサタン世界に一文も・・・。一文をなぜやるの、一文を?

 絶対に与えてはなりません。ですからこれから我々の商店を造るのです、雑貨店。こうしてこれからは、米ひとつぶでも勝手に買えません。我々は団結しなければなりません。なぜサタン世界に与えるのかというのです、怨讐の前に。奪ってこなければなりません。体面が傷つく最高の限界線・・・。一文でも許しがないのです。ユダヤ人を知っているでしょう、ユダヤ人たち? あれを見ると、その時に我々はそんな基準の最高の守銭奴のような立場にならなければなりません。この守銭奴は自分のための守銭奴ではありません。天宙のための守銭奴ですからかまわないのです。このようにしてこれからは御飯を食べるにも・・・。これからは昼飯を食べないなら食べないで、他の食堂に行ってめしを食わないという時が来るのです。昼飯を食わないなら食わないで、サタン世界に一文もあげることはないのです。

 ですからこれからは都心地、ここソウルならソウルに、我々の食堂を造るのです。どこの誰の家を売ったとしても・・・。「あなたはひと部屋の家に入れ!」こうしてこの家で食堂をやるのです。そうしても利益をたくさん残すのではありません。せいぜい二割を・・・。三割以上残してはダメです。なぜ? これから皆さんはそうするのです。神が十一条を受けるでしょう? 神に十一条を捧げるでしょう? 商売の原則は十一条件以上残してはいけないのです。神が十一条を受けるのですから、人間が二割を受けたなら・・・。 これから復帰過程において、天の前に近づいてゆく人間は、10の3条をやらなければなりません。一つは天のために捧げ、一つは国にために捧げ、一つは世界のために捧げるのです。10の3条やらなければなりません。統一教会員はそうしなければなりません。 ですから商売をしても、我々統一教会員たち同士が商売する時は、三割以上残しては天がノ-というのです。これが汚れとなるのです。これが災いを招くのです。自分の物を奪われる条件になる時が来ることを、知らねばなりません。我々食口は三割以下、二割を残す考えをしなければなりません。

 これがなぜ? この民族圏内に自分が入っていますので、この民族のために生きるために、世界を生かすためには三割ほどになるのです。これ以上はいけないという時は一割、二割を・・・、残してはいけないのです。しかしサタン世界では九割まで残してもかまわないのです、九割まで。神が一割を残して、九割を与えられたので商売になるのです。奪ってくるのです。だとしても統一教会がぶったくるのではありません。(笑い)我々はこのような原則の元に、これからやってゆけとうのです。

 それで両方に行って・・・。先生も今、これらは行きません、今までは出て行って、中国料理など食べたり、あるいはバスにも乗って劇場にもよく通ったのですが、これからは劇場にも行かないのです。これからは皆さんが先生をもてなしたくて、皆さんの家に招待してもてなすのも悪くありません。「一度おいで下さい」という時、サタンどもがいなければ行くかも知れません。「行きます」という時「いつおいでですか?」と言えば「いつの日」となるのです。そんな約束をすれば「あ、先生がおいでになるから、肉を買うか、なにを買うか?」と準備をすることになるしょう? ならばその前日にでも呼んで「わたしがあなたの家に行くが、なにを準備するの?」と問うてみれば「あれとあれを整えました」と答えるでしょう。ならば「これを整えるにはいくら費用がかかった?」とこうなるのです。(笑い)


 アボジを売った代価を返せ

 今先生はこのようになるというのです。今も時たまそうです。どこかに見物に行くといっても私は行きません。働いている人に肉でも買ってやって・・・。それはとても嫌でししょう。真に有難く思わなければならないのです。

 これから我々はそうでなければなりません。皆さんがどこかで昼飯を食べる時にですよ「あ、本当にあげたいのかしら?」と思って、であれば「それならこのお金をあげる」という時、喜びの心であげなければなりません。昼飯代を払ってやらなければなりません。こんな運動をするのです。こんな運動をして、何をするのでしょう? 公的になるがためです。食べないでこんな運動をしなければならないのです。

 このようにして今から何年かが過ぎてごらんなさい。我々の血の代価をかき集め、天のバベルの塔を積み上げるのです。韓国から積み上げ、これが広がって万民まで・・・。我々がやらなくても、4年もたてばですよ、この国この民族の基礎となり、世界の何か国かの基礎となる基準を造っておくことになるのです。

 皆さんが一心団結すれば、天が祝福して下さるのです。静かに見ていれば、そんな曙光が輝いてくるのです、いま。今まで先生がお金のゆえに・・・。人々を求めるに、お金を立てることができなかったのです。祭物の撤廃が先生の責任です。「この祭物を撤廃するのだ」このようなことに先生が責任を負っているので、お金を前に立ててやることは願っていないのです。人間を立てて、人間が全て立てば、この人々は宇宙とも取り替えるのです。天地とも取り替えるのです。その人々が出てくれば、天地はその人々の間に入ってこなければなりません。これが天理の原則です。こうして自然に復帰されるのです。

 今この国この民族は窮地に陥って、統一教会がだんだん大きくなれば良いと考えるのですが、従ってみれば統一教会員はそうじゃありませんか? 先生は韓国のどんな金持ちを見ても眉ひとつ動かしません。分かりますか?「ハイ」

 眉も描いてはいけないのです。「ハア-、素晴らしい」というのです。ある教会に通っているそのお嬢さんは、何だか立体的な化粧だというのですが、それがどうしたというのです? それを見ると「お、うちの食口たちもこのように来れば素晴らしいのだが」このように考えるかも知れませんが、今からはそうはできません。そのようなものを見たら、その眉をひき抜いてやります。先生の体面がありません。目的以外にはありません。目的の有るところには、共産党でも手段方法を選ばないのですが、先生は体面なり何なりの事情、方法を選ばないのです。

 統一教会がいつまでこの家にいるかというのです。今からは教会を造るのです、お金を稼いで。ですから先生がこの前お話したように、統一教会員は血の代価を返すのです、血の代価? 何の血の代価? アボジを売ってしまった血の代価。この血の代価を返すというのです。それで自分たちが嫁に行く、嫁をめとる以上に誠精を尽くすのです。自分の所に何かの宝物があれば何でもこれを全部、今回の期間に天の前に捧げて血の代価をお返ししなければなりません。

 元来は皆さんの体の三分の一は、切ってしまわねばなりません、本当は。堕落が何でしょうか? 完成基準の三分の二だというのです。そこから父母もぶっ倒れて、全部みなそうなったのです。先生は詳しくは話しません。話をすればどんなにかかるでしょう? 全部そのようになってどうだという話は、今はしません。ですからそれを分かって、皆さんは今から準備するのです。

 皆さんが自ら商売できない人は、他の人を立てて商売させるのです。皆さんたち、三年期間を行けない人たちに、この期間においてまず血の代価を集めても商売をさせることは栄光なのです。であれば自分自身の行くべき道を、準備することです。

 教会を誰が造ろうとしているのですか? この考えが・・・。私が見ていると・・・。世の中の逆をゆけというのです。み旨がこうであることを知って、天の役事がこうであることを知ってやらねばなりません。私からこんな話をしたならば「教会を造る金は私がやります!」となるでしょう。そうなればまた休めないのです。

 このように知って、皆さんが生まれた因縁、この尊い因縁、わが肉身をまとったその時の因縁を失うことなく、過去、現在、未来の悲しみの世の中に、喜ぶことができる何かをこの時代の前に残す条件なりと、残しておかなければなりません。でなければ皆さんがあの世に行って、恨となりましょう。分かりますか?「ハイ」

 これからは、これがみな過ぎてしまえば、先生は命令をしないのです。できれば自分たちでやらねばなりません。先生がいつまでついて、この仕事だけやっていられますか? そうはできないのです。


 統一教会も歴史的な材料を集め歴史を造れ

 洪スネさんが今日、お話をされますが、何の話かというとですね・・・。腹中教の事情が先生ほどかどうか? 私ほど追われたか、私が気合をかけるのです。今までここに生きてきた者たちが、先生が聞いて知っている以上に追われたかどうか? 一度聞いてみましょうか?「ハイ」

 なぜ先生がこのみ旨をやるか、分かりますか? 歴史を造るためです、歴史を。この前にもお話しましたが、歴史を造って、自分の家門の族譜を造るには、必ず何がなければなりませんか? 父母がいて、夫婦になって、子女を持てば族譜にのるのです。そうでしょう? 歴史も同じなのです。

 統一教会の歴史を、今まで造ってきませんでした。今からは我々の教会の歴史を造らねばなりません。歴史的な材料を収拾して、歴史を越えなければなりません。こうして千秋万代に、我々のみ旨がなれば統一家の伝統的歴史となって、数多くの後代の人々がこれからこの門を捜して入る時に、全部が法度にならなければなりません。

 それで今日、先生が生きている時に築いてきたその歴史的な因縁の感情を、時代を超越して、我々が因縁を結んできた心情的な因縁を、そのまま再現させることができる歴史を造っておけば、心情的な世界が成るのです。このようなものを残すには苦労しなければなりません。苦労をすれば効果があるのです。そうではないでしょうか? ここに苦労したという記録を残せば、その時代になって、歴史を超越して平面的なその時代になって、今日我々が感じている感情を早く再現させることができるのです。このような心情と因縁のみを持っておけば、天が今と同じ歴史的因縁を背景にして役事することができるのです。分かりますか? 何の話か、分かるの?

 ではここで話しなさい。話す時は自己紹介をしなさい。私はこんな家柄に生まれ、夫はある良くない人に出会って・・・。そうしなければね。反対されて。よく信仰するには、反対されないと。追い出された話があれば追い出された話もして・・・。自己紹介をするならどこに生まれて、何をしてたかを話さなければね。自分の家庭背景から、自分が生まれて今まで捜し求めて、環境的に築いてきたことを話すのです。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.04.12 18:03:36
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