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2021.04.15
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ 「行かなければならない私」

1963年5月15日(水) 前本部教会


 皆さんはいつも復帰歴史を考えなければなりません。もしも神がここに集まった皆さんを呼び、この死亡の世界に責任を負い「今からはあなたを通してこの世の中を復帰しなければならない」とされたなら、皆さんはどうしますか? このようなことを考えてみましたか?

 復帰歴史に責任を負えという命令を受けたなら

 神様は6千年の間、苦労されてきましたが未だに終結されていない復帰歴史、しかし必ず終結しなければならない復帰歴史、この復帰歴史を終結させるためには、神のみではダメなのです。必ず神と人間と万物が合わさらなければならないのです。天地人、すなわち天と地と、人間が合わさらなければならないのです。人間のみでもダメであり、神のみでもダメなのです。必ず神と人間と、万物が合わさってこそ、復帰歴史を終結させることができるのです。

 このようにどえらい問題を・・・、もしも皆さんが神から「誰それよ! 今からあなたがこの大きな使命に責任を負い、復帰歴史を成せ」という命令を受けたならどうするのですか? 我々統一教会員は今まで原理を学び、実践してきましたが、我々が感じなければならない最後の立場とは、どのようなものか? すなわちこのような立場なのです。

 この世の中は、死亡と暗黒の権勢に囚われています。神が足場を占める栄光の痕跡さえ少しも見出すことができない、暗黒の圏内にあるのです。こんな暗黒圏内にある皆さんが千辛万苦の苦労をして、誠精を注いだ基盤の上に神の召命を受けたなら、これは大きな福なのです。

 もしも神が皆さんに「天と地、そしてこの世界を全部あなたに任せる。全天地があなたによって福を受けるようになれ。こんな無限なる恵沢をあなたに与えるので、あなたはこの責任を担当せよ」とされたなら、皆さんはどんな立場に立つのですか?

 神は人間を捜し求められていますが、個人から家庭、社会と国家と世界と全天宙まで捜し求められているのです。神はこのように、復帰摂理の範囲を拡大してこられたのです。結局、神と万物と人間まで入ることのできる圏の復帰、すなわち完全復帰を目標にされてきたのです。

 神は個人を立てて役事されることもあり、家庭を立てて、あるいは氏族や民族、国家、世界を立てて役事をされますが、このように役事される最後の目的は何ですか? これは被造万物全体が、神が願う所望の創造理想圏内にとどまるためなのです。



 人間を指して万物の霊長と言いますすが、万物の霊長となることのできる人間はどんな人間でしょうか? 今の皆さんのように、家庭のためだけに生きる人間? 社会に責任を負うと自認する人間? あるいはこの世界の、二大陣営を中心として動く巨頭たち? 違います。

 この天と地、全体を任せられる人間が必要なのです。任せるときは全ての勝利を基盤として、立派に築かれた栄光の基台を任されるこことは違います。この暗黒の世界、怨讐の駄々っ子が世界的に広がっている、どえらい暗黒の世界を任されるのです。今日この使命を負い、世界に責任を負うという、信念を持った人間が来なければならないのです。そうでない限り、この世界は危険圏内から脱することができません。

 このような責任と使命を担わなければならない人間が、救援摂理のみ旨に従ってゆく信仰者たちであり、修道の道を求めてさまよう人々ですが、真にこのような立場でこの全ての天宙的使命に責任を負うと、神のまえに召命を受けた人間がいますか? いたとしても彼が、この責任を担いましたか? これは未だに未解決なことして、残っているのです。


 統一教会が指向するもの

 それでは統一教会が指向するものが何であり、またこれから我々はどんな人間にならねばならないのでしょうか? この世界のまえに召命を受け「こんな暗黒圏内で世界的な使命を担うか」という神の質問に「アボジ、やります。全ての事をこの私にお任せ下さい」と言える人間にならねばなりません。そのようになるために、今まで統一教会の聖徒たちは集まり、活動して戦ってきたのです。

 それでは最後に我々が留まらなければならない一つの固定した位置、決定的な位置とはどんな位置か? この世が全て怨讐として神に背反する立場ですが、自分だけは天のお父様からの最後の命令を受け、この責任を担ってゆくという立場に立たねばなりません。

 今日までの復帰歴史とは、アダム一人を捜すための歴史なのです。アダム一人を捜すために6千年を経て来たのです。6千年かかったのです。ある一つの時代でなく、ある一世紀ではありません。歴史における一過程ではないのです。人類歴史全体が失った先祖を捜してゆく復帰歴史であったのです。6千年という間、神は失ったアダム一人を捜すことをされてきたのです。

 神はこのアダムを捜しだして勝利の基盤を築いた後に、人間全てに勝利の戦法を教え、個々人を完全な基台の上に立たせようとされたのです。もしもこんな基台の上に立って、私は天下を屈伏させることのきる基準を得たという信念と、これを実践する面において自信を持ち、ここに初めて完成という言葉がでてくるのです。これを皆さんは知らねばなりまん。分かりますか?

 ですから我々がいつも考えなければならないことは、天も地も知らず、誰も全然知らない内にみ旨のまえに召命を受けたなら、どのようにするかということです。統一教会の原理を通して知ったことではなく、原理が何であるか知らない空なる天地の中において、神のまえに召命を受けて「これこれの使命を担ってゆけ」という命令を受けたならば、どんな責任感と、どんな覚悟と、どんな決意をもって行かなければならないかということを、我々は考えてみる必要があるのです。

 皆さんがこのような立場に立ってみない限り、先祖たちの事情を知ることもなく、これまでの歴代の数々の我々の先祖たちが苦労した、歴史的な因縁を知ることはできないのです。このような立場で見る時、「あ、ノアはこうだったのだなあ 」というようになるのです。こんな立場で、家庭的な単位で責任と使命を果たさねばならなかったノアの事情、氏族と民族を代身して、民族的な分野で責任を果たさねばならなかったモ-セの事情、あるいはメシヤの立場で、怨讐たちが無数に多いこの天地を一つの世界に造り、怨讐の子たちを神の息子娘に、直系の子女にしなければならない、どえらい使命を担わなければならなかったイエスの事情を知るようになるのです。こんな立場に立って見る時、イエスがどんなお方であるかを知るというのです。

 今日、統一教会信徒である皆さん、先生もこのような立場に立ってきたのです。このような立場を察することを知らない人間は、無責任な人間であり、天上的な人間ではありません。ある一分野に制限された人間なのです。しかし皆さんはこの時代に、このような過程を経てきた天の歴史的な因縁を知ってこれを収拾して、勝利の基準を立て、怨讐に復讐をするという信念に燃える心を持たねばなりません。

 こんな心が、一時的なものであってはなりません。過去からの歴史を踏まえて上ってきて、惨めな艱難の中にあるこの時代を打ち破って収拾し、福地を建設しなければならないという信念があってこそ、天上的な人間なのです。こんな人間であってこそ、終わりまで倒れることなく信仰の道を行けるのであって、そうではない人間は自分がどんなに行こうとしても行けないのです。



 このようにしてアダム家庭を自分が収拾して立て、ノア家庭を自分が収拾し、アブラハム家庭を自分が収拾し、収拾するばかりではなく、自分が彼らに命令もすることもできなければなりません。皆さんが今日の暗黒世界で神の召命を受け、世界的な使命を担わなければならない総責任を負ったとして、モ-セにイスラエル民族を導く時はこのようにするのだ、と言うことのできる立場に立たなければなりません。


 例外がない原理

 イエスが30余年の生涯を経て死なれるまで、これこれの事がありましたが、こんな事がこの時代に起こったら、このように解決しなければならないと指示をする皆さんにならねばなりません。今日この時代に、理念を中心として起こる事に天の召命を受けた者として、また天の使命を負った者として、どうすべきかという立場で、責任を負わねばなりません。自分でなければダメだという立場で、責任を負うというのです。ある限界圏内で担う責任を負っているということを、皆さんは考えねばなりません。

 皆さんは今まで、み旨のまえに未熟な者です。我々統一教会信徒の持たねばならないものが何ですか? この世の中では、何にもないのです。「私だけが残ったのです」という心なのです。

 原理は誰にでも同じなのです。人間が行かなければならない復帰の路程においては、全て同じなのです。ノアの立場もモ-セの立場も、イエスの立場も、今日皆さんを指導している先生の立場でも全て同じなのです。「誰だれはある特別な使命を負っているので、こんな責任を負わなければ」という話はないのです。例外がないということです。普遍妥当なる立場において、万人が責任を負う立場に立たなければなりません。「お! この人はこんな人間なので例外としよう」ということはないのです。「誰それだからこうだ。イエス様だからこうだ」ということはあってはならないのです。例外として扱うなというのです。ここは誰でも公平であり、平等なのです。原理には例外がないというのです。


 艱難に勝つことのできる心情基準

 先生が3年期間を越えた今、どこへ行っても話したいことが、昔に帰ろうということです。昔に帰るのです。分かりますか? 今までの無慈悲な闘争を経て、世の中の終わりまで来ましたので、今は再び帰ろうということなのです。昔から今まで、世の中を捜し求めて来ましたので、今再び求めて帰らなければならないのです。こんな過程におきまして、責任を負ったということが重要なのです。



 皆さんは今、祈祷する時にはこのようにやってご覧なさい。皆さんは原理を学んでいても、何にも知らないのです。何にも。何を知るというのですか? 堕落がこうで何がこうだということではないのです。何にも知らない立場ではありますが、これを求めなければならず、サタンからもこれを奪って来なければなりません。

 こんな立場で人格者とはこうだという基準のもとに、歴史的な怨讐サタンと対決して、このサタンを打ちのめし、時代的な環境において勝利の基盤を築かねばなりませせん。このような基盤を持って、未来の開拓者の立場で、サタン世界に残る全ての艱難と苦痛を受けたとしても屈伏せずに新しい世界、すなわち一つの理念世界を成すために心情の基準を中心として、すみやかに立てなければなりません。苦難の真ん中に立って、こんな心情の基盤を得て、すみやかに立てなければなりません。こんな見地から見れば、皆さんは悔い改めなければなりません。

 皆さんはいつ、アダムが堕落して神様から追われる時の悲しみを感じてみましたか?

 み旨を果たせないと千辛万苦、頑迷な環境に苦しめられながら120年の間、舌を噛みしめてきたノアの心情を感じてみましたか?

 その当時ノアに勧告して「行け」と指示された神と同じ立場で、皆さんがこの世界的な使命をもって、ノア爺さんと同じ立場にいる人々に指示できなければなりません。モ-セと同じ立場にいる人々に、指示できなればならないというのです。こんな責任を負っても残るという信念を持たねばならず、万宇宙のまえに立って、自らを認定する自然的な価値を持たねばなりません。強制的な価値ではありません。皆さん、果たしてこのような立場に立っていますか?

 ノア家庭を中心として見る時、ノアがやることは全部個人がやることではなく、家庭がやることなのです。アブラハムがやることは、アブラハム自身がやることではなく、アブラハム家庭がやることなのです。ヤコブのやったことも、ヤコブがやることではありません。ヤコブが21年の間苦労したことも、自分自身のためのみのことではなく、12人の兄弟のためであったのです。モ-セも同じです。希望のイスラエルのための苦労であったのです。


 神の代身者がしなければならないこと

 皆さんはある一時、こんな立場に立ってみましたか? 考えてみて下さい。今からはこんな考えをしなければなりません。先生も神もいないという立場で、そんな使命を負ったならば、これは死んでもやらなければならない責任なので、これをやらなかったならどうなるのでしょうか?

 皆さん、考えてみて下さい。どこから手をつけなければならないでしょうか? もしもまずアダム家庭から手をつけようとしても、この家庭が問題を解決する方法を知らなかったなら、皆さんは手をつけることができません。ところでこの時、師がいてこの問題を解決する材料を与えてくれるなら、どんなに良いことでしょうか?

 この前ある大学に通っている学生からですが、学者たちは自分の専門分野の材料を収集するために歩き回っていて、世界的な材料、もちょっと役に立つ材料がどこにあるかと、これを求めるために自分の身のふり方も忘れて、ありったけの力を尽くして必死に駆けずりまわっているという話を聞きました。自分の専門分野のためなら、自分の財産をみんな注いでもその材料を求めようというのが、学者たちの心なのです。命をかけて自分の専門分野に対して研究するという立場の人であればあるほど、何を惜しむということがないのです。

 皆さんがこのような立場で、アダム家庭に対する材料を収集して、アダム家庭の全ての問題に責任を負い、どう解決するかと苦悶する時、この問題を解決するために苦喪を感じている時、良い材料を持ってきてくれて、このようにしなければならないと教えてくれる師がいたならば、どんなに有難いでしょうか? どんなに感謝するでしょうか?

 皆さんはどのように考えているか知りませんが、先生は原理の価値を知って、このために一生を捧げてきました。原理のみ言の一言一言に結ばれている理念は、偶然に得られたものではありません。億千万金を積んでも買うとのできない、宇宙的な材料なのです。心情の世界に切れぎれに連結されている、宇宙的な材料なのです。私にはこの世の中を収拾しなければならない使命と責任がありますので、私がこの原理を求められなかったなら、人間として生まれた目的を達成できなくなり、全人類が死亡のどん底に沈むことになると考えました。こんなどえらい問題を考える時、皆さんならどうなることでしょうか?

 ノアの家庭を始めとして、過去の人々はこのような事実を知らずに過ごしてきました。けれども今、我々はこれを知りましたので、これらを収拾して一致させる神の代身の立場に立たなければなりません。

 神は全てのことを知っておられますが、この事実を人間に教えることができなかったのです。皆さんは原理を学んで知っていますが、神はこんな立場に人間を立たせて、自らが求めてくれることを苦待されているのです。神はどんなにこの道を教えたかったことでしょうか? しかしながら教えることができなかった神の身の上が、どんなに絶望的だったことでしょうか? 堕落の動機が何であり、その結果がどうだということを誰かが解明して、サタンを自然屈伏させなけばならないのですが、これを教えることができずに願ってばかりおられた神は、どんなに切ないことでしょうか?

 皆さんはこんなことを感じる場で「アボジよ! 私が責任を負う者になります。あなた様は所望のみ旨を抱かれて、私を立てたことを知りました。アダム家庭の苦喪を解決するために、私を立てたことを知りました。アダム家庭の苦喪がこうではありませんか?」と解決して差し上げなければなりません。イエスもこんな立場に立つ時、怨讐が認める立場で「神よ! こうでありますか?」と神の痛みの心情を感じたのです。皆さんもこのような心情を感じなければなりません。歴史はこのような心情的な因縁を中心として、今まで流れてきたのです。


 統一教会信徒の持たねばならない信仰観

 皆さん、復帰の道を行くにおいては、肉体は何ほどのこともありません。ある人はどこがいいとか、どこがどうしたとか言っていますが、そのようなことは何でもないのです。今までの歴史路程で数多くの先祖たちが、修道の道を捜し求めて行くにおいて、自分の体を大切に思った人がいましたか? 全てが腹をすかしていたのです。彼らも苦痛を受ければ苦痛を感じるのです。しかし彼らはどんなことに衝撃を受けたでしょうか? ただ一つ神の命令に衝撃を受けたのです。彼らは神のまえに召命を受け、世界的な責任を果たすという開拓者の使命に燃えて、自分の一身を省みなかった人々です。自分の氏族も民族も、考えなかった人々です。自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、自分の氏族を無視し、自分の国を無視した人々です。そしてついには自分の生命までも無視した人々でした。

 しかし彼らはこの暗闇の世界において、神がなぜ自分を召命されたか、世界万人の中でなぜ自分を呼ばれ、命令されたかを知りませんでした。ただ神のみ旨があるということだけを知って、この悪の歴史をどのように収拾するかは知りませんでした。ところで皆さんはこの終わりの日にきて、原理を学んで歴史がどうなるか全て推し量ることができます。それでは知ってみればこの原理が、本当に皆さんのものとなっているでしょうか? 知っていることが、自分のことになっていますか? 知ってはいますが、それが自分のことですか? 乞食も聞けば分かるのです。

 問題は何でしょう? この宇宙的な使命感と関係を結ぶことです。関係を結ぶ時は心情を通して結ばねばなりません。このようにして復活したアダムの生き方をしなければなりません。失敗しないアダムとして立たなければなりません。このようになれば堕落をしていない、恨嘆する失敗したアダムではなく、勝利したアダムの立場に立たなければならないのです。失敗したノアではなく勝利したノア、失敗したアブラハムではなく勝利したアブラハム、失敗したモ-セではなく勝利したモ-セ、死したイエスではなく、生きて勝利したイエスの立場に立たなければならないのです。

 このようにして天宙のまえに立って「誰が私の聖殿を征服できるか? 誰が私の理念を征服できるか? 誰がみ旨を愛するこの私の心を審判できるか?」と少しも審判されないのです。神もされないでしょう。このようになれば天地も公認しなければならず、神も公認しなければなりません。万宇宙の存在は、彼を公認せざるを得ないのです。皆さんがこのような勝利の栄光を中心として立った実体を通して、神と心情的に一致した不変の基台の上に立つ時には、6千年の実りであるとすることができるのです。

 先生がなぜ今、このような話をするのかといえば、先生が特別に強調したいことがあるからです。今から皆さんは、これまでの皆さんであってはならないのです。信念に燃える徹頭徹尾なる信仰者にならなければなりません。徹頭徹尾でなければなりません。この世界のどこに行ったとしても同じことです。何ものも信じないで下さい。信じる何を信じましょう。信じるものは何もありません。先生も信じないで下さい。最後にはただアボジと私との関係だけが問題になるのです。こんな信念を持って「歴史的なサタンめ、来い! 暗闇よ来い!」としなければなりません。こんな覚悟をもって行かなければならないのが我々の立場なのです。

 こんな立場で皆さんは考えなければなりません。十字架にかかっても、つまらない十字架にかかるなというのです。分かりますか? つまらない横町の十字架が何ですか? どっかの村の十字架? いけません。一国の十字架もダメです。天地の十字架、天と地の十字架を私が背負うという信念を持たねばなりません。

 怨讐サタンが支配するこの世界、怨讐サタンが籠絡しているこの世の中を私が総責任を負い、怨讐の都城を、怨讐の祭壇をぶち壊すとしなければなりません。世界的なゴルゴダは怨讐の祭壇です。しかしこれをぶち壊さなければなりません。イエスは死んでゴルゴダをぶち壊しましたが、我々は死なずに実体でぶち壊さなければなりません。

 これが統一教会の信徒たちの持つべき信仰観です。分かりますか? 統一教会の信仰観は、こんな使命を担って行くということです。統一教会員といえば、こんな責任を背負って、生活的な舞台を開拓してゆく人々を言うのです。であってこそ統一教会員ということができるのです。ところがちょっと難しいと尻っぽを巻いて、それでいいでしょうか?

 皆さん、イエス様が十字架にゆく時、何を背負ってゆかれましたか? 皆さんはこれを知らねばなりません。イエス様は歴史を背負って行かれたのです。その日イエスはアダムを背負って行き、ノアを背負って行き、アブラハムを背負って行き、モ-セを背負って行き、数多くの先祖たちを背負って行き、その時までの世界的な全ての艱難を背負って行ったのです。イエスは世の中の艱難を避けることなく、むしろこの世の中の艱難を完全に所有したのです。歴史的な全ての先知者たちの功労を全部所有して、時代的な艱難を踏まえて上がってくることによって、この時代のまえにメシヤ的な責任、メシヤ的な使命を果たしたのでした。イエス様の十字架は歴史を代身して背負った十字架であり、時代の艱難を背負って行った十字架でした。イエスはこのように勝利したのでした。神が勝利したのではないのです。イエスが勝利したのです。

 理念を料理できる人間になるには

 それでイエスは歴史的な恨を抱いて逝った全ての先知者たちを復活させ、艱難の中にある世の中の人々に、正しく新しこを開拓したのです。イエスの復活と同時に、先祖たちの復活も起こったでしょう? それで彼らもイエスと共に、霊形体級霊界から、生命体級霊界に上がってきたのです。

 この世の中においても艱難を踏み越えた人間、世の中に対して闘って勝った人間を高い位置におくのです。ですから十字架を経なければ、その場に行くことができないのです。 ですから人生の最後は、ゴルゴダ山頂において決定づけられるのです。サタン側か、神側か、ゴルゴダ山頂で決定されるのです。

 それでは皆さんは今、どこまで来たのですか? 統一教会員たちが信じている理念は本当に素晴らしいのですか? これは自他共に認めるところです。これから遠からず世界の人々が、我々の理念を認定するのです。

 それでは皆さんは、この理念を動かすことのできる人間になっているか、この理念のまえに活動することのできる人間になっているか? 皆さん、この理念のまえに祭物になっているか、この理念を動かす人間になっているか? 理念が僕になっているか、人間が僕になっているかが問題です。どうです? 皆さん、どんな人間になっていますか? 理念の僕になってはダメです。理念のまえに命令をしなければなりません。理念が僕にならなければなりません。

 ここで我々は新しい歴史を、創造しなければなりません。これまでのことはすっぱりと切って捨て、新しい歴史を創造しなければなりまん。今まで世の中になかった事をする人間にならなければならないのです。イエス様は旧約の法においては、打ち殺される他はない人も許されました。イエス様がその場で罰を受けて、死ななければならない人間を許されたということは、彼が最高の理念のまえに支配された人間ではなく、最高の理念を料理する主人公であったからです。でありましたから天地を創造された神を、アボジとされたでしょう。何の話か、分かりますか?

 それではこの理念を支配することのできる決定権は、どこで受けられるのですか? 堕落した人間としては、到底行くことのできなこを行かねばなりません。今日この世界は全ての理念の僕になって互いに争っている局面であって、この理念を支配することのできる権限はどこで受けるのですか? 理念を支配することのできる特権は、どこで決定されるのか? 世界的なゴルゴダなのです。分かりますか? 世界的なゴルゴダで理念を支配することのできる特権を受けられるか、受けられないかが決定されるのです。

 天地が生まれて以後、これまでは家庭的なゴルゴダ、民族的なゴルゴダ、国家的なゴルゴダ、世界的なゴルゴダ、イエスが霊肉を中心として来られたが霊的勝利の基盤だけを築いて往かれたそのゴルゴダがありましたが、終わりの日にはこれを全て併せた世界的なゴルゴダが未だに残っているのです。この最高の世界的なゴルゴダの山頂を踏み越えて行くには、神の心情を通さずにはダメなのです。このようなゴルゴダ山頂を踏み越えて行く使命を負った人々が、修道の道を求める人間なのです。それで心情的な宗教観が必ず現れなければならないのです。

 最高の世界的なゴルゴダを越えていくそれ自体は、人間ではありません。神がこのてっぺんを望み見て、これまで勝利して来られてたのです。神がこれまで、このてっぺんに向かって行かれたので、このてっぺんを我々が越える時、神と我々が出会うのです。ここにおいて神と心情的な因縁を結んだ後に、サタンを立てておいて、サタンから公認を受けて勝利の覇権を受けなければならないのです。こうしてこそ、初めて理念を料理することのできる人間となるのです。これが我々統一教会員の行かねばならなこなのです。分かりますか? 分かるかというのです。

 この最後の峠を越える時、どのように越えなければならないのか? この峠を越えて受ける苦しみよりも、天の責任を負う者として、その使命を担うにおいて内的な闘いの苦痛が、さらに大きくなければなりません。動機が大きければ、結果も大きいのです。全天地の使命を自分が独り責任を持ちますから、これをどのようにしてでも死ぬ前にやると、歯を噛み締めて行かなければなりません。誰知らぬ中にあって何千万回誓い、自身の不足なるを自ら悟って涙を流し、転げまわる苦痛を受けねばなりません。こんな内的な苦痛が、世界的なゴルゴダ山頂で受ける苦痛がより大きければ、大きな歴史に責任を負うことができるのです。でなければ十なら十、全て越えなければならないのです。分かりますか、何の話か?


 人間の必然的な路程

 最後の十字架の峠、世界的な十字架を越えるために、必ず越えなければならない峠が、天地の怨恨のゴルゴダなのです。この天地の怨恨のゴルゴダを越えねばなりませんが、どのように越えるのでしょうか? 今までの人間は越えられず、神お独りで内的心情の苦痛を受け、この世界的ゴルゴダに向かって行かれたのです。

 「この峠を越えることのできる人間はどこにおるか」として来られた神は、6千年の間血のにじむ苦痛に染みたのです。仇を返すという内的に染みるものがあったなら、天下のどんな怨讐が現れたとしても問題はないのです。こんな天宙的な感情が残っているがゆえに、神は世界的なゴルゴダも無難に越えることができるのです。

 ですからこんな神のまえに、世界的なゴルゴダで勝利の基台を築いていって、天宙的な理念を料理することのできる神の息子娘が来なければならないのです。神のまえに召命を受け、内的な使命に責任を負ったその日から、歴史的な苦痛と時代的な苦痛を背負い、世界的なゴルゴダを越えて行ける息子娘が来なければならないのです。今日のゴルゴダは、内的な苦痛がイエス様がゴルゴダ山頂で受けた試練よりも、何百倍も大きな経験をした人間だけが行くことができるのです。それで人間に苦労をさせるのです。それで苦労しなければならないのです。また、そんな艱難の峠を越えねばならないのです。何の話か、分かりますか? これが人生なのです。人生! これは堕落した人間として、行かなければならない必然的な路程なのです。

 ですから皆さんがこのような宇宙的な責任を負い、神のまえに召命を受けた息子娘の立場に立って行かなければならないのです。「私は独りこんな宇宙的な責任を負っていかねばならない私」として行かなければならないのです。恨多き過去を経て、恨多き生活路程を経て、恨多き世界的なゴルゴダ山頂を越えるという信念を持たねばなりません。私はこの場で10年戦っても後退せず、一生を捧げなければならない歩みを進めるとしても、後退という言葉は残さず、頂上に登った。頂上に登って、死ぬ恨があったとしても後退しないという決意を持たねばなりません。命を捧げなければならない艱難があったとしても、この試練を通して勝利の期待を立てなければなりません。

 億千万サタンも占領することができない勝利の基盤を築いて、自慢の理念を料理することができる人間になるのです。分かりますか? これが今日、道人たちの求め行く基準なのです。

 これから来られる主様の使命も正にこれなのです。主様が何をされるお方かといえば、正にこのような使命をされるお方なのです。再臨の主様が正にこのような使命を成すために来られるお方なのです。分かりますか?

 再臨主がどんなお方か? すなわち真の父母なのです。真の父母がどんなお方か? 人類の祖先です。世界人類のアボジとオモニです。アボジ・オモニの歴史はすなわち子女の歴史です。一家の法度は、その後孫が代々守っていかなければならない法度なのです。


 統一教会が越えなければならないゴルゴダ

 神は歴史的をどんな人間に造られたのでしょうか? この被造世界の僕として造られたのではないのです。この天宙を手に取って、万物世界のまえに号令して、彼らを料理することのできる人間として造られたのです。それで神はこれまで、人類をゴルゴダへと押しやられてきたのです。人類歴史を造ってこられるに、個人的なゴルゴダはアブラハムが責任を負い、家庭的なゴルゴダはヤコブが責任を負い、民族的なゴルゴダはイスラエル民族が責任を負わねばなりませんでした。世界的なゴルゴダはこれまで、キリスト教徒たちが責任を負ってきたのです。これからな天宙的なゴルゴダを越えなければなりませんが、これをキリスト教歴史を根本として、新しい時代を開かなければならない我々統一教会が越えねばなりません。そうですか、そうではありませんか?

 先生はいつも考えるのです。私が統一教会の先生の立場に立っていますが、私は先生の立場にあることを好んでいる人間ではありません。先生の立場にいますから、全てのことに神経を使わないといけません。一時でも神経を使わないわけにはいかないのです。

 これから世界的なゴルゴダを越える時に起こる闘いにおいても、元来は我々統一教会員が責任を負わねばならないのですが、私はこの作戦に統一教会員を先頭に立てようとはしません。

 これからは霊界を代身して動く人間を、先頭に立てるのです。いままでは皆さんを先頭に立てました。それで多くの犠牲者が出ました。しかし何百人が犠牲になることが問題ではありません。でも全ての人々を率いて行かなければなりません。

 今まで時代的な使命を背負ってきた人々、統一教会を証ししてきた人々は全部、統一教会を証してから落ちてしまいました。10人のうち9人は落ちてしまいました。これは何を意味しているのでしょう? 彼らは先頭に立って、霊界を開拓する使命をなしたのですが、その人たちは祭物になったのですよ。ご覧なさい。今まで数多くの人々が証ししたのですが、みな落ちてしまいました。そんな度ごとに、先生は良かったと考えたのです。その人たちの包みは全て奪い取ったのです。

 神は彼らの苦労した功績以上の基準で対されたのです。神は責任を果たされました。彼らは神のまえに責任を取らねばなりません。そんな時、責任を取っていなかったらへし折られてしまうのです。

 今まで先生は恩恵を受けた人たちを、多く審判しました。なぜ? 霊界に通じる人たちは僕だからです。僕! そうでしょう? 今までは僕たちが子女を利用してきましたが、今は子女たちが僕を利用しなければなりません。これが蕩減復帰路程です。このような道理が通りますので利用するのですが、彼らが責任を取らなければ切ってしまうのです。

 皆さんは良く知らないでしょうが、証しをすれば良き相対となるのです。ところが責任を果たさないで落ちてしまったのです。落ちていってしまったのですよ。とすれば彼が積んだ功績は我々のものになるでしょう。このようにして我々はこれまでの道を築いてきたのです。今は時が来ましたので、先生がこのような話をするのです。ですから皆さんは今強い信念を持たねばなりません。分かりますか? 今だいたい流れが分かったのです。どのようになっているか、分かったでしょう?

 皆さんにこのようなことを認識させて今日の話をしますので、良く聞いて下さい。分かりますか?

 今皆さん各自が全天地のまえに独りアボジの召命を受けて、世界的な責任を背負って行けという命令を受けなければなりません。このようにして歴史を収拾して、勝利の基盤を立てて、サタンを屈伏させなくてはなりません。サタンを屈伏させる時は世界的なゴルゴダ山頂において、屈伏させなくてはなりません。そんな後で、天宙的な主管者にならなければなりません。

 こんな責任を負って来られる方が主様ですから、皆さんが主様の子女となるには、その主様の行かれた道に従って行かねばなりません。復帰歴史をなされるにおいて、数多くの人々を苦痛の道に追いやられた原因がここにあるのです。

 苦痛の道には家庭的なゴルゴダがあり、氏族的なゴルゴダがあり、民族的なゴルゴダがあるのです。3年間にかけてこの路程を行きますが、まず初めに個人的な迫害を受け、その次には家庭的な迫害を受け、氏族的な迫害、民族的な迫害を受けるのです。今、世界的な迫害時代が来て、いっぺんに入って来るのです。今年はいっぺんに入って来る世界的ゴルゴダを越える年です。分かりますか?


 我々が立てなければならない信仰の基準

 皆さん! 人間は堕落した? 堕落したという事実が分かりますか? 堕落は何でしょうか? 堕落とは、僕を失ったことです。これが分からなければなりません。天使長は僕でしょう? 答えてみなさい? なぜこのように問うのかというと、皆さんが眠そうだからです。眠てはいけません。眠たらこんな話を聞けないでしょう。

 堕落はどうなったのでしょうか? 僕を失ったのでした。僕の中の僕、忠僕を失ったということです。そして子女を失いました。子女の中でも最も孝子、孝女を失ったのです。ここで万物までも失ったのです。これらは神が失ったものです。その次に、人間は何を失ったかといえば、神を失い、真の父母を失い、万物まで失ったのです。そうでしょう? ですから復帰するには、これらを全て復帰しなければなりません。

 近頃、信仰者たちはイエスを信じて天国に往こうとしています。天国往きがこのように簡単ならば、私も統一教会の先生はやっていません。このように簡単なら、どんなに良いでしょうか?「あ! 神様、信じました。主様も信じました」という心だけで救われるなら、どんなに良いかというのです。

 信仰の内容が何であるかということが、問題なのです。この信仰の内容は、被造世界を捜し求めるためであり、天宙を求めるためでなければならないのです。また真なる人間を捜し求めるための信仰であり、真の家庭を成すための信仰であり、真の国家を立てるための信仰でなければならないのです。そして真の天国を求めるための信仰でなければならないのです。信仰の内容が漠然としていてはいけません。イエスを信じれば天国に行けるのですか? イエスを信じたという時、その信仰の標的は何ですか? 信仰の内容が何であるかということが重要だというのです。分かりますか?

 「この天地はわがものだ。全世界人類はわがものだ。霊界にいる天使長たちもわがものだ。天におられる神様もわがものだ。イエスもわがものだ」とするのでなければなりません。信じれば世の中の大王や、サタンよりも大きな腹をもって信じなければなりません。これが信じて天国に往くことですか? 往ってみなさい。往けるなら。このように信じて天国に往けますか?

 信じる時においては、誰よりも欲心をもって信じなければなりません。誰よりもより大きく信じなければなりません。サタンよりも強い心で信じなければなりません。このようにしてサタンも、わがものとしなければならないのです。自分が夜でも連れてきて使いたければ使い、掴まえたければ掴まえてくる、そんなわがものとしなければならぬのです。信ずるならこれくらいの腹をもって信じろというのです。今どのように信じるかということが分かったでしょう? そこのお爺さん、なぜ笑うの? 信仰の内容がこうだというのです。信じるということ、信じて救援を受けるということは、このような内容を標榜して言うことなのです。

 天国往きがそのように簡単ならば、今日統一教会文先生が、このように苦労しません。私が至らなくて今、このことをしているのでしょうか? よくよく知らねばなりません。今、信仰の内容が分かったでしょう? 信仰の標準とは、すでに先生が話したことです。 堕落することによって人間は、万物と天下を失ったのです。霊界も肉界も、全部失ったのです。その次には神の僕、神の息子娘、また神の立てられた真の父母を失ったのです。 ですからサタンまでもわがものとすることができる境地、神までもわがもの、世の全てのものがわがもの、という境地に入らなければなりません。神もわがもの、神の愛も勿論わがもの、としなければならぬという話です。

 神は人間を、天下の大王者とするために信仰という名詞を立てられました。ところで今日、この信仰という名詞はどれほど天の徳になっているでしょうか? 罪を負っても「信じなさいというので信じましたから、私の罪を許して下さり、天国に送って下さい」というのです。このようにして天国に送られたなら、どんなに良いでしょうか? しかし信仰の標準はどえらいことなのです。分かりますか? これが分からなければなりません。


 正しい信仰観を持たねばならぬ時

 イエスが主張した信仰観には、天下が入ってくるのです。神までも入ってくるのです。こんな信仰の中においてのみ、聖殿のみ旨が成るのです。神様までも入らなければならないというイエスの信仰理念が完結すればイエスのみ旨が成り、イエスのみ旨が成れば、神のみ旨がなるので、結局神がイエスの体中に入らなければならぬのです。体が神の聖殿でありますから、この聖殿のみ旨が完成する日、神のみ旨が成るのです。それで我々の体が天下を代表する基準に立つ時、聖殿のみ旨が完結するのです。そうじゃありませんか? それで信仰生活をすることが、どれほど素晴らしいことでしょうか?

 先生は今日まで、このような見地で信仰観を広げてきたのです。本来、出発もこのようであったのです。イエスを信じるにおいても、このような信仰観を持って信じなければならないのです。いいかげんに信じてはダメです。

 そんなにやすやすと信じて天国に往けるなら、どうして世の中がこのようになってしまったのでしょう? そんなにたやすく天国には往けないのです。我々が言うところの信仰圏内で、信仰の勝利者といえば宇宙史的であり、天宙史的な存在であるのです。

 メシヤ、イエスもこのような信仰観を基盤にして、勝利的な個体になれなかったので、あの世(霊界)に往っても祈祷しているのです。イエスがなぜに祈祷しているのですか? 所願を成就できなかったので、祈祷しているのです。所願を成就したら、なぜ祈祷をするでしょうか? 聖霊が今まで産みの苦しみをしていることも、みなこの理由によるものです。皆さんが祈祷し、伝道することも、みなこのためなのです。分かりますか?

 堕落しましたので、我々人間は天と地を失い、我々のお使いとして使う天使を失ったのです。これは誰の失敗ですか? みな人間の失敗によってこのようになったのです。ですから今、我々が再び全て捜し求めねばなりません。天下を求めねばならず、天使すなわち僕を求め、子女を求めねばなりません。そして真の父母を捜し求め、神もわがものとしなければなりません。ぶっ倒れても求めて行くのが、今日の信仰の道なのです。

 すでに先生が話したことも、こんな宇宙的な使命を言っているのです。この暗黒の世界を独り責任を持つという信仰観と、このサタン世界、この暗黒世界の中においても、わが信仰は絶対に壊れないという信仰観を持たなければなりません。

 棒にならなければなりません。棒になって、世界を叩けば世界が壊れることがあっても自分は壊れぬという基準があってこそ、この闘いが解決されるのです。歴史路程は闘いの路程でした。闘いによって全てのことを解決づけてきた歴史だったのです。それで歴史的な終末時代にも、必ず闘いが起こるのですが、この闘いは信仰的な闘いなのです。

 宇宙史的な、天宙史的な信仰を持ってぶち当たれば、世界はみな壊れ倒れるのです。こんな信仰理念を持った人間を中心とする時、この世界はこの人間によって一つの世界になるのであり、この世の中は新しい天地となるのです。

 今まで皆さんはどれほど多くのものを失って生きてきたでしょうか? このようなことを考えれば、皆さんが何千万ウオンをいっぺんに失っても、これを捜し求めることが問題にはなりません。これを捜すことが問題になりますか? 「私はこんな人間にならなければならない。これが人生の目的だから、ここにわが命一つが問題になろうか?」イエス様もこのような信仰圏内で生きてゆかれたのです。世の中には下らない奴が多いのです。しかし先生はこんな人々を助けはしません。彼らが責任を果たさなければ、彼らは滅んで、私は滅びないのです。


 メシヤが来てやるべきこと

 過去に「統一教会の文先生はこうでああで・・・」という話がとても多かったのです。しかし先生は「私は滅んでも、祝福を受けた教員何名かは滅んだとしても、尊い神のみ旨だけは滅びることがない」という基準で闘ってきたのです。このようなことを考えてみなかった先祖たちは、みな滅んで落ちていったのです。「私はこういう事情なので、私はある大学に行くので、私はこうで、ああで・・・」という人々はこんな内容を知らないのです。こんな連中は滅びなければなりません。滅びるか滅びないか見てていなさい。彼らが滅びなかったなら、私が滅ぼすのです。そんな時が来るのです。

 皆さんは堕落した後孫でしょう? 堕落した後孫ですか、違いますか? 堕落した後孫でしょう? 恨めしく思わないで下さい。堕落した後孫なのです。堕落は何を失ったのですか? 天地を失い、僕を失い、真の息子娘を失い、真の父母を失い、神を失ったのでした。堕落によって失ったのです。

 皆さんはこれまで何を、どれほど失いましたか? 言うこともできないほど、大きなものを失ったのです。もしもこの失ったものが得られるなら、何かできないことがあるでしょうか? 自分の息子より大きなものを得られるなら、息子も犠牲にするでしょう。自分の肉体よりも大きなものを得られるなら、自分の肉体をそのために捨てなければならないのです。これが無限なる価値を知った者の、持たねばならない信仰なのです。それでこの失ったものを捜し求める歴史が、復帰歴史ですよ、復帰歴史。言い換えれば、失ったものを再び求めて、失う前の姿に立てる路程が、復活の歴史なのです。今日までのこの地上の歴史は、失ったものを求めるための復帰歴史なのです。堕落したこの地を復帰するための全体的な責任を背負って来られるお方が、メシヤなのです。

 それではこのメシヤは、この地上に来る時、どんな使命を背負って来るのか? 失った天と地を求め、失った万物を求め、失った僕を求め、失った神を求めるのです。この全てのことを捜し求めていって、これを人間の先祖から後孫にそのまま相続させるために来るお方が、メシヤなのです。そうでしょう?

 ところでイエス様は2千年前にこの地上に来られたが、追われるメシヤになってしまいました。人類の父母としての使命を成さねばならなかったのにです。使命を成す時には、どのように成さねばなりませんか? 復帰の路程を経て行かなければなりません。復帰路程を行く時においては、必ず再創造の歴史を経なければなりません。神が天地を創造される時、天使をまず造り、万物を造り、その次に人間を造られました。そうでしょう? それで復帰歴史は、この路程を反対に行かなければなりません。逆に遡って行かねばならないのです。

 ですからイエスがこの地上で歴史の全体に責任を負うためには、ご自身の一個体が歴史的な実体、天宙史的な復帰の実体ですから、このご自身の実体を中心に、歴史的な因縁と内容を全部完結させなければならないのです。過去の因縁を経て、現実的な因縁を経ていって、未来的な因縁まで立てなければならないのです。こんな使命がありますので、イエスはこの地上に来て人生をかけ、与えられた使命を果たすために、僕の立場から経て来られたのです。こうして僕を求め、万物を求め、同時に世界を求め、子女を求めなければならなかったのです。その次には真の父母の立場で、神と一つになって、初めて神の所願である創造目的を完成するのです。

 神と真の父母の三位的な基盤の上に、心情的に一体を成さなかったことが、その昔アダムとエバが、サタンと愛の因縁を結んで侵犯されることになったのです。これが億千万年が過ぎても、処置することができないことなのです。神も愛する子女が、このような愛によって一度結ばれてしまったならば、どうしようもないのです。皆さん、堕落した世の中でも、自分の息子がこのような愛の因縁を結んだなら、この関係を父母がどんなに切ろうにも切れないのです。神様もやはり同じだというのです。

メシヤたるイエス様が飼葉桶に生まれて・・・

 神とイエスと聖霊が本然の三位基台を中心として一つになり、一つの基盤を完結しなければならなかったのに、堕落によって全部壊されてしまったので、逆に上がって来なければならないのです。分かりますか? 逆に上がる時には、平安な立場で行くことはできません。極めて高く尊い立場で、土くれに落ちなければダメなのです。最初に神が造られた土くれに、再び落ちるのです。また僕に落ちるのです。メシヤが来ても、こんな位置に来られるのです。高くにおられる神の心情的な因縁を経て、低い地上に来る時は、高い立場で来れば低い立場にいる人間と因縁を結ぶことができないのです。それで低い立場に来るのです。低い立場の中でも、最も低い立場にと、来るのです。

 イエスが飼葉桶に生まれたでしょう? そうでしょう? 私が以前に汽車に乗ったのですが、ある婦人が赤子を産んだのです。この時に人々はお金を集めてあげました。なぜそうするのですか? イエスがこのように生まれたからです。私はこのように思います。バスの中でも道端でも赤子を産んだなら、みな同情するのは人間の心理です。このような風習はなぜ生まれたのでしょう? イエスがこのように生まれたからです。私はそのように思っているのです。ですから道を歩いていて、もしも赤子を産むお母さんがいたら、洋服でも脱いであげようという思いがするのです。その赤子にあげたいのです。我々統一教会食口の皆さん、先生が通る時、その時間に合わせて道端で赤子を産んでみなさい。

 イエスはどのようなお方かといえば、神の皇太子です。素晴らしい言葉でしょう。イエスはどんなお方です? 天地を創造された神の皇太子だという話です。それでは神はどんなお方ですか? 天地全ての万物の大主体、すなわち主人です。天地を造られた方であり永遠無窮なる王の中の王としておられるお方です。ですからどれほど大きいでしょう?

 皆さんが形容できないほどに高く大きいのです。イエスはこのように大きなお方の息子として生まれた、このように言えば実感がわくでしょう? メシヤ、救い主といえば実感がわきませんが、神の皇太子と言えば実感がわくのですよ。神の独り子。一人しかいない独り息子として生まれた方が、イエス様なのです。ところがそんなイエスを、人間どもが捕らえて殺したので、神はどんなに胸が痛むでしょうか?

 神の皇太子、神の独り息子イエスが天の宝座をおいて地上に生まれた時、どのように生まれたのですか? 口にも言えない惨めな場所に生まれたのです。馬小屋の飼葉桶がメシヤの寝る場所ですか? 皆さんが生まれる時はおむつや、沐浴する所を準備するのに大騒ぎだったのです。イエス様は皆さんより、はるかに惨めに生まれたのです。部屋が何でしたか? 飼葉桶に寝かされたのです。そうじゃありませんか?

 我々統一教会の祝福家庭、私は言いませんが、我々祝福家庭の中に、こんな家庭が一つは出なければと考えているのです。あの山のてっぺんに赤子を産んでおいて降りてみるのです。禿鷲がその周囲をぐるぐる回っても、神が守って下さるのです。先生はこんな考えをする時があるのです。素晴らしいことでしょう。

 飼葉桶の中のイエスを、誰が守ったのですか? 誰が守ったでしょう? 神の息子ですから神が守り、天使が守ったのです。また神に従う牧者たちが、その場を守ったのです。イエスは生まれはこのように生まれましたが、持ったその内容は、正に全てを持って生まれたのです。


 霊界で祈祷するイエスの痛わしい事情

 それではイエスは、なぜこのように生まれたのでしょう? 最もどん底に落ちた世界を救うのですから、最も下から出発しなければならないのです。神が最もてっぺんなら、イエス様は最も底であったのです。そうしてこそこの世界を救うことができるのです。この世界、すなわち理念世界という丸い世界です。円の世界です。ですから回らなければなりません。このように回る世界を造ったので、神はイエスを立て、役事されるのです。

 回らない世界、滅んでしまう世界、堕落したこの世界を回わすので、神は最もてっぺんで、イエスはどん底から、役事しなければならなかったのです。このようにして回りまわって神が地上に降りて来られ、イエスが神の場に上れば成るのです。分かりますか?

 ところで、イエスはどこにおられる? 神の場に上らないで、楽園に留まっているのです。楽園で祈祷されているのです。「神様、この天地にいる人間を救援して下さいませ」と祈祷されているのです。

 回る世の中ですから、神は右側から下り、イエスは左側から上がるのです。ですから、イエス様の路程は全てが逆路なのです。天上的な路程ではありません。反対の路程であり世の中と反対に行くのです。世の中がよければイエス様は悲しむのです。このようにして回ってゆくのです。

 こうして今、どこまで来たのか? 天国の門の内ではなく、楽園に立っているのです。神の法座の右に往ったのでしょうか? これは神の髷に昇ったという話ではありません。神を代身したという話です。統一教会を異端というなら、天国に往くという牧師、長老、博士たち、見ててみなさい。世に中で信頼を受けている者たちは、最後になれば敗者になるのです。皆さん、堂々とみ旨を成してゆくという信念を持って「反対するならせよ」としなければなりません。イエス様は今、心では神を望み、体では地上を望み見る立場なのです。ですから、哀れなイエス様なのです。

 心と体が一つになり、一つの方向に動くべきなのに、天上的人間の道なのにイエスは、霊界に往かれたイエス様は、心では神を仰ぎ見、体では地上を望み見る哀れなイエス様なのです。初めて来た人たちは、こんな話は分からないでしょう。哀れなイエス様を説明するには、何日やっても足りないのです。

 この地上の最も惨めな場所に来られましたが、万王の王として即位されるのが、イエス様の本来の使命なのです。ところがこの事を成さぬまま残して逝った後、夢でのみ望み見たのです。再臨という所望の一日を望み見て、新郎・新婦の名を求めてこられたのです。ですからイエス様の事情が、どんなに哀れでしょう! 我々統一教会員たちは、こんな内容をよく知っているでしょう?

 このように哀れな方を新郎として侍るという者たちが、今日のキリスト教徒なのです。欲張りな者が多くて「良いことは全て私に与えて下さり、悪いことはイエス様にお任せ下さい。私の苦痛はイエス様に全て負わせて、私を平安にさせて下さい」というのです。祈祷をしても全て福を下さい、世界で一番にして下さい、という祈祷をするのです。祈祷はこのようにするものではありません。「あなたの苦労を私めに負わせて下さい。あなたの喜ばれることがあったなら、いつでも私に分けて下さい」このように祈祷しなければなりません。これが本来の天上的な祈祷なのです。

 ところで今日、既成教会で捧げている祈祷を、神様が聞かれるでしょうか? 罪あるものの後孫となって、責任を果たさないで福ばかり下さいますか? ぶち壊さなければなりません、根本的にうち壊して、木っぱみじんにしなければなりません。先生はこのようなことを考えれば、今も歯ぎしりするのです。


 イエス様の新婦になるには

 哀れなイエス、このように哀れなイエスを、どこの誰が真に新郎として侍ることを願うのですか? この地上に来て、神の宝座まで往こうとされたイエスの所望を抱え、この地上にために闘うという信念を持たない者は、イエスの新婦となることはできません。イエス様が残された十字架の道は未だに残って、世界的なゴルゴダの山頂が残っていますからこれを取り壊して平坦な大路とする前には、自分がそのお方にお会いできないという信念を持たなかったら、イエスとは何らの関係もないというのです。

 イエスを信じて、福を受けるのですか? とんでもありません。イエスは福を与えようとはされません。そのように信じるなら世界的は滅んでしまうのです。滅びるということは、人間のためでも世界のためでもなく、神のゆえに滅びるのですから、神が興れば興るのです。

 今、信仰をしても、正しい信仰をしなければなりません。イエスを信じて福を受けようという人間は、全て強盗です。

 修道の道を行く人々は、全て反対の道を行くのです。キリスト教のみならず、他宗教も同じことです。ですから宗教の中心の道理を立てる教会がキリスト教だとすれば、キリスト教はなおそうでなければなりません。ところでイエスを信じて、福だけ受けられるのですか? そんな者は異端です。異端とは何ですか? 彼らが異端だという話です。と言っても皆さん、既成教会の牧師たちに対して「我々の先生が言うには、あなたたちは異端です」とはしないで下さい。心のうちで知って、口では言わないで下さい。そうすれば終わりに、神が彼らを審判する条件が成立するのです。

 今日この統一教会の先生は、何をしようとこの事をやっているのですか? このような問題を解決するためなのです。世界的な、歴史的な恨がこり固まっていますので、解かなければなりません。新郎が来られる道に、トゲの藪があれば切り払わねばならず、泰山峻嶺があればこれを崩して平坦な大道にしなければなりません。このようにする使徒たちが新婦なのであって、新婦たらんとする者が、新郎の肉と血を食べてなるのでしょうか?

 新郎は新婦のまえに何ですか? 烈男です。烈男! 世界的な烈男ですよ。烈女という言葉は聞いても、烈男という言葉は聞いたことがないでしょう? イエス様は新婦たる万民に対して、烈男なのです。天と地が公認し、歴史が公認し、時代が公認し、現在と未来が公認する男の中の男なのです。こんなイエスのまえに、新婦たらんという人々が、烈女という名も立てられないでなれるでしょうか? 烈女にもなれないで、イエス様の新婦になろうというのは強盗と同じです。乞食の土蔵に住んでいる女が、世界的な大統領を自分の夫にするというならどうなりますか?「お! ケネデイ大統領は私の夫だ」と言うなら他人は狂ったと言うのです。

 キリスト教徒は、こんな遊び事をやっているのです。乞食のような立場で、神の王者に「お! 新郎よ、どうぞおいで下さい」とやっているのです。ボロ包みを逆さにしてイエス様に「ここに来て私と一緒に暮らすのです」とやっているのです。ですから恨多きイエス様は、未だに解怨成就がなされないのです。イエス様の解怨がなされないので、イエスを送られた神の恨が解怨されますか? できません。神も解怨されず、イエスも解怨されないので、神から造られた天地万物も解怨されないのです。

 ですからこの天地の恨を、解怨しなければなりませんが、どのように解怨するのでしょうか? この堕落の恨を解怨するために来られるお方が、メシヤなのです。

 解怨する時は、万物の恨を解怨しなければならず、神の真の息子娘になれない人類の恨を解怨しなければならず、その次には聖霊がこの地上で苦労の歴史をたどって嘆息していますので、聖霊の恨を解怨しなければならず、その次にはメシヤ自らの恨を解怨しなければならないのです。その次に初めて、神の恨を解怨してあげるのです。そうすればメシヤの使命が終わるのです。


 神がイエス様を送った目的

 イエス様もこの地上に来られる時、このような歴史的な恨を解怨するという目的を持って来られたのです。神の心情を持って、神の歴史的な所望の実体として、神の代身者として来られたのです。神がイエスを送られた時、4千年の歴史の所望の結実体として送られたので、イエス様お独りが世界的な復帰の中心であったのです。ですからイエスを中心とする人類、イエスを中心とする万物、イエスを中心とする天使たち、イエスを中心とする霊界、すなわち全てのものがイエスを中心として成る日、神は初めて人間と共におられるようになるのです。これがイエスを送られた目的でした。分かりますか? イエスをこの地上に送られた神の目的は、イエス独りを抱えてゆくためではないのです。創造本然の世界全体を求めるためであり、4千年の間、勝利的な基盤を築いた後に、本然の世界を求める主体として、イエスを送られたのです。

 ですから地上に来られたイエスは、万物の恨、人類の恨、歴史的な恨、時代的な恨、未来的な恨まで全て解怨して、イエス様自身の恨まで完全に解怨して世を収拾して、その次に神のまえに出ていって、神の愛と一致しなければならないのです。これがイエス様の最高の目的でした。この世を収拾する前には、神のまえに行く愛の因縁を持てないのが創造の原則なのです。ですから原則的な目標を達成するために、イエスはこの地上に来られたのです。ところで彼がこの地上で、世界を収拾しましたか? 人類を収拾しましたか?

 できませんでした。この地上の全ての主権者たちを収拾しましたか? できませんでした。収拾できないまま、審判という名詞を残して、逝かれたのです。

 こんなイエスが万王の王としてこの地上に再び来て、全てのことを収拾して、勝利の条件を立て、歴史的な恨を精算して、アボジのまえに出ていって「この世界を全部、アボジにお返しします」という時が、終わりの日なのです。ですからこの終わりの日にはイエス様も復活しなければなりません。「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない、最初はキリスト、次に主の来臨に際してキリストに属する者たち(コリント前書15:20-23)」と聖書に記されているでしょう? イエス様も復活しなければなりません。全てのことは聖書の中にあるのです。最初の熟した実であるイエス様も復活しなければなりません。復活とは、何の復活? 楽園にいる恨を脱ぎ捨て、神の心情を中心として世界を統治する王として、神の代身として天上天下を統治する王として復活しなければならないのです。

 心では神を見上げ、体では地上を見下ろさなければならないのです。このように体と心が一つになって、愛によって世界を統治することのできる基準まで行かなければなりません。このような条件が残っていますから、イエスは復活しなければならないのです。その次に、キリストに属する者、すなわち聖徒たちが復活しなければなりません。「それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力を打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである(コリント前書15:24)」とあるでしょう? その時が終わりの日です。サタンの世の全てを滅ぼす時が、終わりの日だというのです。分かりますか? 終わりの日が、どんな時でしょうか? 皆さん、よくよく知れという話です。この世の中の全てのもの、サタンの世界、サタンの国を滅ぼし去って、創造当時の神がアダムとエバに、万物を主管せよとされたその主管を立てていって、アダムの後孫たちが唯一の神を中心として、神の心情に通じる一つの国を成して「神様、お受け下さい」という時が終わりの日なのです。

 神が送られたイエスは勿論、内的な基準において万物を代身し、万人を代身し、全ての息子娘を代身することもできます。しかしその息子娘が、神の息子娘になっているでしょうか? 違います。造られた被造世界の嘆息を解怨しなければ、神の息子娘にはなれないので、万物を嘆息圏内から解放してやらなければなりません。また、万人を嘆息圏内から解放し、天上天下、霊界の嘆息圏までも、完全に解放しなければなりません。サタンを完全に屈伏させ、このようにして「この国を神のまえにお返ししますので、お受け下さい。あなたが所望された国がこの国ですから、お受け下さり、この国にあなたが立てたかった万王の王を、主権者として下さい」としなければなりません。このようにして国を捧げ、神が所望された代表的な存在が、この国の主権者として立てられる時が、天下が統一される時です。これが正しいキリスト教の信仰観なのです。


 キリスト教の使命

 ところでこんなイエス様が、雲に乗って来ていいのでしようか? 世を収拾しなければなければならないのに、雲に乗って来れば成るのかという話です。これは夢の中なら可能なことです。目を開けて、しっかり考えてみて下さい。

 では今日、新婦たる皆さんの所望が何か? このような国を造って、このような方を新郎とて迎えることです。これが今日、新婦たる聖徒たちの責任なので、聖徒たちはこの世界を、一つの世界にすることが今日のキリスト教徒の使命なのです。

 今ヨハネ23世が、汎世界的にキリスト教の大会を宣言しているでしょう? 時が来たからです。世界のキリスト教を併せ、一つにしようとしているでしょう? こんな内的な運動が起こっているこの時に、全世界的に広がっている宗教人は団合して、どんな民族や主権も勝つことができない、世界的な主権を造らなければなりません。それで眠っている国連を、目覚めさせなければなりません。今は共産主義が反対すれば、国連は身動きできないでしょう? ですから宗教の国連を造らなければなりません。そんな次に、左右側の世界を収拾しなければなりません。そのようにして主様の新婦たる我々が、世界を収拾して神のまえにお返しすることは当然のことです。そうでしょう?

 ところで今、キリスト教徒たちは何をしようとしているのでしょうか?「お! イエスはわがイエス、私に全て下さい」というのです。これはみな泥棒です。泥棒が他にいますか? 他人のものを自分のもののようにすれば、泥棒でしょう。他人のものを自分のもののように勝手にする人間は、泥棒ではありませんか? 強盗と違いますか? 他人の事情も考えないで盗んだ人間は、強盗じゃないですか? 神がなされようとしたことを、サタンの息子たちがやったら、泥棒ではありませんか? 間違いなく泥棒です。私が一つ聞いてみましょう。違うという人がいたら、立ってみて下さい。じっとしているところを見ると、みな泥棒ですか? 生まれるのもきっと、泥棒のように生まれて。(みな笑う)


 終末の聖徒は新婦の内容を持たねば

 皆さん! 事実先生は今、他のことは考えないのです。寝ても覚めてもこの事だけ考えているのです。皆さんもそうでなければいけません。先生はこのようなことを、天上的な信仰者の姿勢と見ます。先生もこんな姿勢で、一貫して来たのです。

 イエスは我々の新郎たるお方として、神のまえにそのような使命を持って苦労されているのです。ですから新婦たる者たちは、一つにならねばなりません。一つにならねば。

 この世においても家庭を破壊させるのは、女たちです。そうじゃないですか? 女が毒々しい二枚舌をのばして、ひらひらさせたらその家は滅びるのです。この地上で新婦たる者たちが二派に分かれたら滅びるのです。今日のキリスト教をご覧なさい。教団が分かれています。分かれれば分かれるほど、神は離れるのです。長老教も始めは二派に分かれて再び一派が分かれたでしょう? 3回分かれたら神は離れるのです。こんな時になって、恩恵が受けられますか? どんなに恩恵を受けようとしても、眠気ばかりが来るのです。 今日、世界に広がっているキリスト教徒は、考えなければなりません。主様が来れば、新婦の中の新婦を立て、この世を任せようとするのですが、その時にどうするのですか? 「我々の教会には主様の新婦となる人間がいません。あなたの教会にはいますか? 我々は共にそんな新婦を捜すのです」と声を高くして、世界史的は新婦を捜し立てなければならないのが、聖徒たちの責任です。ところが新婦となる人間を捜す考えもなく、これは異端だ、邪教だ、ひどい教会だ何だと、悪口ばかり言っているのです。

 先生もこんな話は沢山聞いています。それでも肥ったという話がありますが、事実、私は仕掛けられたイバラを切り抜けて、肥ってきた人間です。本当に健康な人間ではありませんか? そうでしょう?(笑い)皆さん! こんなことを考えたことがありますか?

 終わりの日が近づくほど、イエス様はどうされているかという話です。口を開けて笑っているのですか?「あ! 今や終わりの日が近づいて来たので、天下に一斉に号令して審判して、刈るものはゴシゴシ刈り取って、あれやこれやさっと引っこ抜いて捨ててしまって気分良し」というのでしょうか? こんなことを考えたことがありますか? イエス様は終わりの日になれば、大口を開けて笑っていると考えるのですか? そんなことは考えたこともなく、飛んだり跳ねたりしていますか?

 終わりの日になればなるほど、イエス様は最後の十字架の場に降りて来られるのです。なぜ? 新婦が遇わなければならない世界的な艱難の峠、最高のゴルゴダの道を越えなければならないからです。新郎の立場で、新婦たちが遇わなければならない艱難まで、当たらねばならないからです。新婦たちは知らないでしょうが、そんな峠を越えてこそ成る天国の門を見つめながら、イエス様は終わりの日の準備をして、その一時に勝利する新婦を迎えるために苦待しつつ、2千年の間、苦痛を受けて来られたのです。終わりの日が来れば来るほど、苦痛を受けるイエス様を、皆さんは考えてみましたか? これを考える時、兄弟同士が互いに噛みつき、剣で争っている様子を見やり、眠ることもできないのです。こんな状態で新郎たる主様を来られるのを願ったら、雷に打たれるのです。

 ところで、家庭がこのようで、教会がこのようで、国がこのようで、世界までこのようですから、この世界はどうなるのでしょう? 滅びなければなりません。滅びねばならないでしょう。終わりの日には、国と国が滅びるとされていなかったですか? 終わりの日の兆候が見えています。こんな時において我々統一教会員たちは、こんな理念圏内にあって、我々は泰平らしく眠っていてはいけないのです。

 イエス様がこのように苦痛を受けておられるので、我々もこのような心情をもって世界を見やり、我々がやらなければならない使命を考え、心情的な立場で万民を代身し、新郎の心情に到達することのできる新婦の内容をもった人間にならなければなりません。そうしてこそ終わりの日に、主様の新婦として、神のまえに出ることができるのです。

 イエス様がみ旨を開始する前にされた生活

 もう一度、イエス様のことを考えてみます。イエス様は天の宝座をおいて、復帰の使命を負われ、この地上の惨めな場に来られました。このように来たイエス様は、何をしなければならないのか? 彼には万物を復帰しなければならない責任があり、万民を復帰しなければならない責任があり、僕(天使)を復帰しなければならない責任があり、また子女を復帰しなければならない責任がありました。

 ですから彼は、父母の中でも世界的な父母の心を持たねばならず、兄弟の中でも大きな兄の心、兄の中の兄の心を持たねばならず、世界的な孝子の心を持たねばならず、世界的な忠臣の心を持たねばならず、また世界的な祭司長の心を持たねばなりませんでした。そしてこの地上で神のまえに忠誠を尽くし、善の実績を積んだ先祖たちがいたなら、彼らにおくれをとらない忠誠の心まで持たねばなりませんでした。それゆえ、イエス様はエルサレムに暮らしてもごはんを食べる時「神様、私がごはんを食べていますが、アブラハムが祭壇に捧げた3つの祭物もお受け下さい」というような生活をされたのです。

 皆さん、聖書を知っていますか? 聖書を読んで知っているでしょう? 分かってみれば、イエスの心情はこのようであったのです。なぜ? 世界的な責任を負わなければならないイエスであったからです。堕落によって全てのものを失い、嘆息圏内にある万物と、人間の全ての嘆息の条件を内的に蕩減しなければならない使命が、彼にはあったからなのです。それでイエス様は他人が知らない中にあって、こんな歴史的な生活の基盤を築いていかねばなりませんでした。彼は人間の世にあって、み旨を始める前、人知れず内的な心情の世界において、歴史の背後を中心として生活せざるを得なかったのです。

 彼は30年の間、世の中で笑い、どうにでも生活したようですが、彼の生活は全てが祭司でした。彼が見て聞いた全部が、アボジから受けたものであったのです。「私が泣くのは、アボジの苦痛と因縁を結んだのであり、私が動くのはこの地上、この悪なる世の中をアボジのこととして差し上げるためです」という基準で生活したのでした。このようにして地上の全万物と関係を結ぶことを、絶対的な目的としたのです。このようなことを、皆さんは知らねばなりません。

 イエス様は寝ても覚めても、ご自身によって万民の罪が贖罪されることを願う心情を持っておられました。寝る時も、万民の罪が贖罪されることを願う心情を持ってやすまれたのです。人知れず寝静まった夜に目覚めても、眠る万民を代身して独り祈祷して、祭司を捧げる祭司長の使命をなされたのです。「アボジ、天宙的な恨の条件を蕩減するための、一つの実体として私をお受け下さい」という心に染みる祈祷の生活をされたのでした。

 神が失ったものが何でしたか? 神は僕を失いました。また万物を失い、子女を失いました。しかしイエス様は神のまえに「万物の代身として善なるものとしてお受け下さい」という準備期間がなければならず、その次には神のまえに僕として奉仕する期間がなければならず、息子として孝道をなす期間がなければなりません。

 しかしイエス様は孝子という名は残しても、忠臣という名は残さなかったのです。彼はこの世界の天使長の立場に立ってこの世を収拾し、神の息子の立場までいかなければなりませんでした。この地のまえに天使長の立場で忠誠を尽くし、神の子女の立場で孝誠を尽くさねばなりませんでした。すなわち、神のただ独りの息子にならねばならず、ただ独りの忠臣にならねばならなかったのです。

 ですから今日、この地上で新婦たらんという群れがあったなら、まず地上に残るサタンを屈伏させなければなりません。これが僕の使命を果たすということなのです。このようにして、息子の使命をなすイエス様と連結され、神の宝座の前まで行かなければなりません。イエス様の生活を見れば、彼は万物の価値を無限において、万物の恨を解くために力を尽くしました。また僕の恨を解くために力を尽くしました。また僕の立場で、僕の中の僕の生活をしました。そして息子の使命を持って、息子の中の息子の使命をなしました。かくのごとく30余年の短い人生路程を行った彼は、この人生において復帰の全体を一身にかけ、蕩減の条件を立て、ゴルゴダの山頂まで行ってサタンを屈伏せしめたのです。しかし実体世界は、イエスの理念圏内も復帰されなかったのです。イエス様は霊的復帰の理念のみを立てたのでした。こうして再臨という名詞を残して逝った後、今まで2千年の間この実体世界を捜し求めておられるのです。


 イエスの3年公生涯の期間

 イエスは3年公生涯期間の間、どんなことをしなければならないのか? 僕の立場において個人から家庭を経て、民族、氏族、国家、世界、天宙まで復帰しなければならないのです。また子女の立場で、個人から世界まで復帰しなければなりません。さらには父母の立場をもって世界まで復帰しなければなりません。それでイエス様は生前、何をされたのか? 僕の体で息子を代身して、父母を捜し求めることをされたのです。

 3年公生涯路程、3年準備期間には僕としておられました。僕として、サタンと闘わなくてはならないからです。天使長が天の法、すなわち天法を破ったので、天使を屈伏させなければならないのです。天使長が僕として神に背反したので、背いた天使長の立場を、復帰するための準備期間が、3年公生涯の路程であったのです。 この3年という準備期間を経て、天使長の立場を復帰した実体として立たれ、息子の責任を果たさなければならないのです。

 そんな次に、何をしなければならないでしょうか? 勝利した天使長の立場で、天の側のエバ、すなわち新婦を立てて、復帰の準備をしなければならないのです。こうして息子の立場に立たねばならないのです。神の息子がいるなら、娘もいなければなりません。ですから男性、すなわちアダム的な新郎たるイエスは、女性であるエバ的な新婦を望み見て来られたのです。分かりますか? 一代でみな蕩減しなければならないからです。

 このようにイエス様は僕的な天使長の使命を、3年準備期間の間に完結して、使命を完結しなければならなかったのです。子女の使命を完結する時には、兄弟と因縁を結ぶことのできる環境を造って、兄弟の足場を造らねばなりません。このようにしてその足場を中心として、父母の立場まで上がって来なければならないのです。イエス様が父母の立場に立つ時には、新郎と新婦がいなければなりません。こうしてその新郎・新婦は、堕落しない人間祖先として、人類の真の父母にならなければなりません。ここで真の父となられるお方が、イエス様なのです。この地上において、人類の真の父として立つには、真の母がいなければなりません。ところでイエス様は息子の使命は完結しても、真の母となる新婦を求められなかったのです。それで霊的にのみ父母の因縁を残して、逝かれたのです。

 それでイエスは新郎として天を代身し、聖霊は新婦として地を代身して、霊的父母の基準を立てたのです。本来、夫婦という実体をもって、平面的に成さなければならないのです。またこれがイエスが本来、成さなければならない目的だったのです。ところが霊的にのみ成されましたので、霊界と肉界が一つになっていないのです。こうして新郎たるイエスは天にと上り、新婦たる聖霊は地に下って、再び霊界と肉界を一つにすることをされているのです。それで今日、世界の全ての人類は、霊界と肉界圏内において引っくり返っているのです。分かりますか?

 世界人類はこれに対する動機も知らず、目的も知らないのです。ですから母の体内から未だ産まれていない子供と同じです。分かりますか? 皆さんは今目をパチパチさせて、いろんなことをして生きていますが、未だ真の父母の腹中から産まれていない赤子と同じ圏内に留まっているのです。ですから人間は、人生をどのように生きてゆくかを知らないのです。


 重生しなければならない人間

 将来、人類を再び生みかえる日が来るとして、その時が世界的な終末なのです。お産と同時に、息子娘が産まれるようになるのです。ところで息子娘が産まれるためには、天地の万物が神の圏内に入ってこなければなりません。人間を創造される前に、天地万物を創造されたように、真の子女が産まれる前に、外的な天地の形態を得て、必ず神が支配することのできる外的な世界を形成しなければならないのです。ですから目下、世界の全ての思潮は一つの世界を指向しているのです。最高の理想世界、平和と統一をうたい、幸福と愛をうたうことのできる世界を指向して行っているのです。

 堕落した人間世界、その中にあってもアメリカ等の先進国においては、10代の青少年たちを中心に、多くの混乱が起こっているでしょう? これはアダムとエバが10代圏内で堕落したからなのです。

 神はどのように今、真の子女を産みだされるのか? どんな人間に産みだされるのか?神の愛を知る人間にと、産みだされるのです。過去の人間は神の愛を知らずに堕落しましたが、今日復帰の歴史を経て終末、世界的な息子娘を産みだされる時には、神の愛を知る息子娘として産みだされるのです。神の愛を知る息子娘が生まれたなら、その息子娘を中心として起こる世界で、すなわちその息子娘の世界で初めて神の国、神の世界ができるのです。分かりますか。何の話か?

 すでに神の愛を語りましたが、皆さんは今、腹中にいますから神のお乳を味わってはいないのです。神の顔を見ることはできないのです。父母の顔を見られないので、腹中で生きているのと同じことです。今日このような事情に、人間はおかれているのです。ですから重生しなければなりません。今日、人間に必要なものが何でしょう? 霊的な救援摂理は完結しているのですが、霊的には重生して、霊的なお乳は味わっているのですが、これだけではいけません。霊肉が同時に重生されなければならないのです。

これから主様が来られますが、この主様は真の父母として来るのです。実体を持った人類のアボジとして来るのであり、実体を持った新郎としてこの地上に来て、実体を持った人間の中において新婦を捜し求め、オモニとして立てるのです。それで初めて堕落しない真の父母となるのです。堕落してはいけないアダムとエバが堕落することによって、真の父母を失ってしまったので、今日の人間は堕落した父母は持っていますが、堕落していない真の父母は持ってはいないのです。

ですから復帰摂理を経ていって、実体を持った真の父母の使命を完結するために来られるお方が、再臨主なのです。分かりますか? このように言えば分かるでしょう? 歴史的な真理を持って来られる主様は、どんな使命を成さねばならないか? イエス様が霊的な救援の基盤を築かれましたから、これを基盤として、霊肉とも完全な息子娘を産みださなければならないのです。

 この地上に来たイエスは、ゴルゴダ山頂で死にゆかれました。ですから来られる主様はどのようにして来るのか? ゴルゴダから出発するのです。数億万人類が反対するゴルゴダを越え、死の道を行かれたイエス様は、復活の聖体として再び来られるのです。死によってゴルゴダを越えられましたが、永遠に勝利したのです。それで再び来るのです。そうでしょう? 復活して、再び求めて来るのでしょう? ゴルゴダ山頂を越えられたイエス様が再び来る時には、行ったように来るのです。十字架を負って行きましたから、十字架を負って来るのです。


 終末に統一教会員が担うべき使命

 このような十字架を背負って行く団体が、統一教会なのです。統一教会よりも大きな団体が出てくるかも知れません。しかしどんな団体でも、このような使命をなすという団体は、必ず排斥されるのです。皆さん、信仰の道をゆく時、家のなかの家族が反対するでしょう? 聖書に、自身の家の家族が怨讐になるとあるでしょう。愛する夫も「ぶち殺されるまえに止めろ」と反対するし、父母も「行くな」兄弟も「行くな」と言うのです。全部が反対するのです。はなはだしく反対するのです。刃物を突きつけて殺すと言うのです。このような立場から出発しなければならないのです。その次に、民族的なゴルゴダ、世界的なゴルゴダまで越えなければなりません。このようにして、道を築かなければならないのです。

 イエス様が万物復帰、僕復帰、子女復帰、父母復帰のために天宙を代表した心情をもってゴルゴダを越えて行かれたように、ゴルゴダを越えて行かねばならないのです。イエス様が抱かれた所望が、ゴルゴダで砕かれましたから、ゴルゴダで勝利しなければならないのです。イエスの所望が壊される時、万物が壊され、家庭が壊され、氏族、民族、天宙が壊されたのです。

 正しいということは、勝利するということです。耐えねばなりません。耐えねばならないのです。いっぺんに国家的にゆくことはできません。ゴルゴダの途上は、個人的ゴルゴダ、家庭的なゴルゴダ、民族的なゴルゴダ、国家的ゴルゴダ、世界的ゴルゴダまであるのです。来る氏族的ゴルゴダの基準まで、必ず越えなければなりません。蘇生、長成、完成の基準まで行かなければなりません。このゴルゴダを越えなければならないことが、今日我々統一教会が、担わなければならない使命なのです。このために闘ってゆく期間が、この3年期間なのです。分かりますか?

 我々がこのゴルゴダ山頂で闘ってゆく時には、自分自身のために生きてはなりません。寝ても覚めても食べる時も、全てをこのことのために成さねばなりません。涙を流すことも、このことのために流さねばなりません。イエス様が十字架を背負わねばならないという時「天のお父様! できることならこの杯を去らせて下さい」とされて涙を流したでしょう? なぜ、そうなのでしょう? ご自分がこのような道を行ったなら、従ってくる聖徒たちも、みなこのような道を行くようになることを思い、涙されたのです。 イエス様は救援をおいて、祈祷されたのです。しかし来られる主様は現実をおいて、祈祷されているのです。分かりますか、何の話か? 現実をおいて、骨に染みる祈祷をされているのです。

 主様の憤りと無念さに、あたってみなければなりません。自分のみならず、子女たちまでもこんな苦痛と怨恨を味わってみなければなりません。自分の家族のみならず、親戚までもが、こんな苦痛を味わってみなければならないのです。家庭のみならず、氏族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。民族までもが、こんな苦痛を感じてみなければならないのです。その時までは、来られる主様が行かなければならない十字架の道が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。これは先生の言葉ではありませえん。神の言葉です。祈祷をしてみて下さい。事実か、そうでないか。

 それでは、誰がより哀れでしょうか? イエス様は苦難の十字架を案じて涙を流し、できることでしたらこの杯を去らせて下さい、と祈祷されました。しかし来られる主様は、現実の十字架路程において苦痛を受け、呻吟している子女たちをおいて「できることでしたら彼らから十字架の杯を去らせて下さい」という哀絶なる祈祷をしなければならないのです。


 我々が捧げなければならない祈祷

 子女たちが責任を果たさなければ、祈祷をしたくてもできない悩みと苦痛を感じなければならないのです。来られる主様はこんな立場で、個人から民族、国家、世界的なゴルゴダを越えねばならない使命があるのです。個人的な十字架路程、家庭的な十字架路程、氏族的な十字架路程、国家的な十字架路程が未だに残っていることを、皆さんは知らねばなりません。

 こんな苦しみにあう度に、どんな決心をしなければならないでしょうか?「私はこのように闘ってきました。イエス様が僕として行った道も行きました。イエス様が息子として行くことができなかった道も行きました。イエス様が十字架上で解くことができなかった恨を、私に解かせて下さい」とすることのできる心を持たねばなりません。

 新郎たるイエスのまえに、新婦としてしなければならない責任を完結するという基準を立てなければなりません。自分一個が認定する基準ではなく、家庭、民族、国家、世界、天宙まで、神まで認定することのできる基準を立てなければならないのです。こんな内容を持って行く立場であってこそ、神の息子娘となることができるのです。

 ですから統一教会においては、3年期間があるのです。先生が今まで、皆さんを苦労させてきました。しかし苦労させるということが、先生の心ではありません。

 イエス様は未来の所望をおいて祈祷されましたが、今日の統一教会員たちは現実をおいて、祈祷しなければなりません。現実において涙を流す基準を立て、家庭を代表して生活する基準を立てなければなりません。神が行く道ですから、民族を中心として、世界を代表する基準をもって、世界人の罪を贖罪する使命を果たさなければなりません。ですから皆さんを、家庭的な艱難期間に同参させ、民族的な艱難期間に同参させ、世界的な艱難期間に同参させ、苦痛を受けさせるのです。

 それでどうしなければならないか? 苦痛を受けなければならないのです。でなければ落ちてしまうのです。分かりますか?




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
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Last updated  2021.04.15 22:19:25
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