奇   知   外   記

奇  知  外  記

PR

Free Space

にほんブログ村ランキング参加中
↓ 応援クリックお願いします ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

2021.10.04
XML
​​​​​​​​​​​​​​​​ 「神のみ旨と感謝の日」

1978年2月12日
マンハッタンセンターにて


 私たちの目的

 きょう、あなた方が、私と私の妻の誕生日に、こうして来てくださいましたことを感謝いたします。きょうお話しする内容は、摂理と感謝奉献、あるいは神のみ旨と感謝の日です。

 この会場に集まった人々は、それぞれ異なった背景をもっています。過去において異なった生活様式、異なった文化背景を担ってきました。

 さらに、あなた方の背後には、先祖の血統のつながりがあります。その先祖の血統の線の中には種々様々な状態況、伝統、文化が含まれており、今日でさえ、私たちの生き方は多岐多様に分かれています。そのように一人ひとり違った文化背景から発祥しているのです。

 しかし、たとえ私たちの歴史が違っても、生活方法、伝統が異なっても、私たちの日指す目的は同じです。私たちは一つの共通の目的を中心にして集まっています。そこにおいて重要な決定事項は、その目的が自己中心であるか、世界を中心としたものであるかということです。私たちの共通の目的は、実に全世界の利益のため、福利のためであり、真に万人のため、全人類の大望のめであります。私たちは、いずれこの地球の人々すべてが幸福になることのできる目標に達します。

 では、共通の目標とは何でしょうか。どのようにそれを定義づけますか。その理想を達成するためには、お金だけではどうすることもできません。あなた方に知識がどれほどあり、力を如何にもっていようとも、それだけではその目的を可能ならしめることはできません。その目的は万人の切望であり、この地上の万人を幸福にし、全人民の福利を保護するものでなくてはなりません。

 私たちたちのその大望を、愛と共通に呼びます。私たちがここで語る愛というものは、人間の愛の基準に相当するものなのか、それとも人間を超越するものであるか、それが問題です。また、その愛は、変化するものなのか、一時的なもので時を経ると朽ちるものなのか、あるいは、その内容において、永遠で不変なものであるかということが問題になってきます。私たちの共通の目的は愛であるに違いありません。しかしながらその愛は、その質において、永遠、絶対、不変のものでなくてはなりません。もし、そのような愛が私たちの目的であるならば、神がおられる場合、それは神に連結するものに違いありません。問題は、私たちが、そのような愛を所有できるか否かです。

 神の愛を所有する



 では堕落とはなんでしょうか。ひと言でいえば、堕落とは離脱です。それは、力や置位、あるいは理解からの離脱ではなく、今、私たちが話しているところに、まさに神の愛からの離脱なのです。ゆえに人間の完成は、その特別の愛の上にかかっています。

 もし、神がおられるとした場合、神は全能で永遠で、どこにも遍在されるお方です。だから神の愛も永遠で不変であるに違いありません。それゆえに、私たちはその愛を所有さえすれば、神、宇宙を含め、すべてのものを所有することができることになります。すべてのものは、あなた方のものとなるのです。

 神の愛を所有するということは、すべてのものを完成することです。万物の完成です。あなた方がよく解っているように、私たちの体には異なる部分があります。しかし、その目的が有されれば、私たちの体の部分がその愛に呼応し、感謝を捧げるのです。私たちの霊人体があるとするならば、どの点で、私たちの霊人体と肉身は結合されるのでしょうか。本来、霊人体と肉身は互いに平衡し呼応しあって、一つの体として調和して、作用しあうようになっているのです。実際、完全な調和は、音もなく形成されるのです。本当の音楽は、神の愛です。神の愛が霊人体を通して共鳴しあうときに、調和にあふれて響きあうのです。たとえば、ある一つの物体を打って音波を生みだすと、その音波は他の物体を打って同じ音を創りだします。それと同じように、神が一面を打つと、霊界、肉界にこだまする時、それらはその愛の振動に一斉にこだまするのです。それらが、その愛の音響に呼応する時、どんな感じがするでしょうか。

 その愛の波があなた方を打つ時、それはあなた方の霊肉に渡り、すべてが絶対的に満ちた感じを生みだすものです。それ以上の余地、空間が、あなた方の体にはないという状態です。そのような感覚でなければなりません。さらに神の愛があなた方を打つ時、その人の体中全体に満ち渡り、消え去るのではなく、永遠にそれは持続されます。それが発電機となって、あなた方の周りの全てのものの中心エネルギーの源となり、あなた方の周りの雰囲気、環境がすべてこだまするようになります。

 心の方向性

 一度、神の愛があなた方に満たされて、十年、二十年、三十年と生き始めると、その源泉は神であり、神は継続した全能なる永遠性の方であるから、その愛のエネルギーで充たされる限り、あなた方は神の方向に引っぱられ、神により近づくのです。それは神の愛の方向によって導かれるのです。私たちは羅針盤を持たない船ではありません。私たちの羅針盤は、真北にむかっています。これが私たちの生きる方向性です。

 すべての男性は、神の愛の方向で完成するはずであり、女性もそうです。その両者がお互いに出合い、一体化を生み出して愛の完成を成し、成長していくと、窮極的には神との結合が成されます。それが創造の理想なのです。これが神のデザインした自然の型であるとするなら、その方向で歩むと苦悩が伴うでしょうか。それともその方向性は自然と生まれるでしょうか。堕落以前の生活にあっては、そんな不明瞭な事は何もなく、ただ明確な目標と方向性のみがあり、誰も混屯とはしなかったはずでした。

 本来、私たちが知るべきであった世界では、地上において、どのような生活を営むべきであったでしょうか。私たちの人生の終わりは決して終焉ではなく、そこから永遠なる人生が開かれることを見る事ができたはずでしょう。心の中に動揺するものは決してなかったでしょう。愛の中に生まれ、その愛の完成の中に育っていき、愛の源泉、即ち神と完全に結合する人。これが幸福な人の定義です。万人に平等にあるその神の愛を、皆が有するのです。そのような世界では、あなた方は真に同じ特権を唱えることができるでしょう。皆が同様の方向に生き、同じ世界の中で生活する事ができるのです。そして同じ目的にむかって終える事ができます。もし、そのような理想世界が実現するとするならば、それ以上に素晴らしい理想世界はありません。

 ゆえに、お金や権力、知識というものが窮極的な目的ではなく、また、民主主義思想や共産主義思想のどちらも窮極的ではありません。これらの人間のつくった思想のすべてを超越する何かがあります。それが愛の世界です。この世界が本来、私たちが、住居すべきであった世界です。私たちの限られた頭脳であってもこれほどのことが考えられるとするならば、神の心にあってはそれ以上、如何ばかり考えられるでしょうか。神様は人間以上にはるかに知識のある方で賢しいのです。神様の知恵は、私たちの想像に及ぶ以上にはるかに美しい愛の世界を考えられているのです。

 暫くの間、私たちを神の立場において考えてみましょう。何が最も理想的な世界でしょうか。この質問に対して、神は、私たちが描くのと同じ結論に到達されるに違いありません。愛の世界における統一は、神が御計画できる最も理想の世界です。神が本当に全能であられるなら、人間が苦悩の中に生まれ、苦痛の中に育っていき、その人生の終焉に始めて愛に到達できる、というような設定は決してはれないはずです。もしそれが唯一の幸福に至る道であるとするならば、神は決して全能なお方ではありません。それでは、このような私たちのこの世界の結果は、どのように理解すればいいのでしょうか。それは、人間の堕落が、神の理想において定められた本来の人間の位置から、人間を離れさせたという事実によるのです。人間が別離してしまったのです。

 神と人間は、本来、共に平衡して生き、互いにこだましあって生きるはずでした。しかし、今は、そのような両者の関係はなく、互いに別々の方向に歩んでいます。これは堕落の結果です。さらに人間自身においても、精神と体が互いに平衡しあい響きあうようになっていますが、これも同様に分は分離しています。このような結果について、私たちは神さまに何かの欠陥があるといえるでしょうか。神さまは決して変わってはおられません。間違いは人間に生じたのであり、決して神ではないのです。

 私たちは、神の如き者へと再びその作業を始めなくてはなりません。それは絶対的勅命です。しかしながら修理作業は、決して一度になされることはできません。一歩一歩の大プランがあり、原理が最初に一つずつ設定されているのです。では、この復帰の作業は、どこから始められるものでしょうか。それは、神により近いもので、神が最初につくられたものからです。私たちの心と体では、どちらが最も神に近いですか。もちろんあなたがたは心というでしょう。神は最初に、人間の心を自然に真直ぐに整頓される作業を始められます。



 旅路に必要な刺激

 このようなわけで神は、各人の心に対して目標を定められる必要があります。各自が、個人の目標、国家の目標、世界の目標を見出し、そして窮極的には全てを貫く同じ目標があるということを見出さなくてはなりません。そのようにして私たちの心がどこに向かうかによって神は方向づけられ、その心によって運行開始されるのです。この世界は、実に混沌と混乱の世です。しかし、ここ統一教会にあっては、少なくとも私たちには目標と方向があることを宣言することができます。私たちの心は、范然としたり混沌としたりすることがありません。では、私たちの共通の目標とはなんでしょうか。

 私たちの目標は、二月十二日にマンハッタンセンターに来て、私とおかあさまを祝賀することではありません。きょう確かに私たちは祝賀を催しています。しかし、これがその目標ではないのです。では、なぜ、私たちにとって、これが必要なのでしょうか。なぜなら窮極的な目標に達する旅を促進するために、それは私たちの心を刺激してくれるでしょう。そのために、それが必要なのです。ある人は、「なぜ私たちは、もっと気楽にのんびりと、一日休日にしてこの祝いの日を楽しめないものでしょうか。それが最善の祝い方であると思うのだけれども。」と考えるでしょう。あなた方は、そんな容易な祝賀をしたいと願いますか。ある人の心は「はい」と言い、ある人の心は「いいえ」と言うでしょう。

 私たちは、神の愛に達成するために、共通の目的を有しています。それをするために、私たちは旅をしなくてはなりません。それを完行するためには、自分自身に拍車をかけるような、その目標選成を早くせしめる刺激が必要となってきます。実際、その目的に向かって滑命に努力する人は、幸福な人です。なぜでしょうか。なぜなら、窮極の目標を得るや否や、苦悩すればする程、それは私たちに意味を深め、より経験を多くし、あなた方自身に拍車をかけるところの精力となるからです。そして、それはあなた方の資産となるのです。

 私たちのように真に高い理想を掲げた人々が、苦悩し、苦痛を覚えることは、必ず悪いことといえるでしょうか。一度も、苦悩したり苦痛を通過しない人々は、真の幸福の価値をどれほど味わい感謝することができるでしょうか。真理を見つけるにあたって、それがいとも簡単に見つけられるものであるとするなら、それを真に感謝することはできません。しかし、その真理を追求し、苦労のはてにそれを得る人は、実に感謝に溢れ、その真理の価値の各々一片一片を理解することができるのです。苦労や困難を、今まで全然経験したことのない人は、たとえその大いなる祝福を受けても、それを当然のごとく思い、それが一体、ダイヤモンドなのか、石なのかということにど、まったくわからないのです。しかし、まず艱難辛苦の道を経た人は、その愛の価値を理解できるのです。そして、その愛と真理を得ることは、実に歓喜となってくるのです。より以上に苦労すれば、その以上に喜びに満たされるのです。

 あなた方が映画を見るとき、ある平凡な人間の単調な生活を見たいとは思わないでしょう。あなた方は、何か劇的なものを見たいと願うでしょう。何が、その映面を劇的にするのでしょうか。苦悩の高い丘、そして低い谷、九死に一生を得て、ほとんど殺されそうになりながら、真理になんとか辿り着いたというような、そういうものが人々をぞくぞく興奮させ、血を湧きたたせるのです。ここでも同じです。

 真のムーニーと偽のムーニー



 歴史上のあって、唯一のユニークなグループが、今や出現しているのです。それがムーニーと呼ばれる者達です。確かに私たちは目標を明確に持つ団体であり、私たちの目標は歴史上、他に類をみないものです。歴史上、すべての聖人を含め、誰も、私たちほどに鮮明な目標を有する人もいませんでした。ゆえに私たちの目標の価値は、それほどまでに高く、他の何物にも遠慮し、差し控える必要はないのです。私たちは真に、私たちのもてるすべてをもって投入することができるのです。それがムーニーです。

 しかしながら二種類のムーニーがあります。一つは正真正銘の本物であり、もうひとつは偽のムーニーです。あなた方は、どちらのムーニーになりたいですか。多分、実用合理主義のアメリカ人は、「自分はどちらにしても極端は行きたくない。自分は悪のムーニーになりたくもないし、真のムーニーにもなりたくない。自分は中間ぐらいのムーニーでいいんだ」と言うかもしれません。あなた方はどちらのムーニーになりたいですか。あなたは白人が好きですか。黒人が好きですか。どちらも両極です。それとも、その中間の黄色人が好きですか。もしもあなた方が白人を好きであってもいいのです。しかし、たとえどんなに表面が白くても、もしその人に、真に愛の心がなければ、それはいかさまになるのです。白か黒か、なんであるかは、それは心の色で決まるのです。その人の心の中に何が燃えているかが問題です。

 実に、心の中に燃えるものは本来の神の愛です。その人は白人よりも白いのです。愛の眼鏡をかけて見るとき、もはや白色の皮膚、黒色の皮膚も見えません。真の愛が重要なのであって、決して肌の色ではありません。真の心が重要であって、他の何物でもありません。

 愛の活動

 人間の体の生理学的機構をみると、あなた方は、種々様々な機能をみつけるでしょう。すべての活動を一つの調和ある基準に保つことのできるような器官があるでしょうか。眼球は好きなように動き、耳は聴き、そしてすべての手足は様々な違った方向に動きます。それらは一見すると、なんの調和もないようにみえます。両方の手が、一つの方向に向かって進もうとるとき、片方の手が「自分は正しい方向へと案内することができる。ほら、ここに愛の源泉があるのです」と言うと、もう片方の手はそれを聞いてショックに思うでしょうか。いいえ、もう片方の手も、愛の暖かみを感じて、そこに留まっていたいと思うのです。一度、手がその愛の源泉に愛着すると、二度と離れられなくなります。それが愛の力です。

 実際、私が言っているものは、全エネルギーを一つの方向にまとめあげていくことのできる一つの力のことです。双方がその場に留まっていたい。その両眼が、その方向に向いていたい。そして、鼻も口も耳も、すべてが磁石のように吸い寄せられるのです。磁石のエネルギーのように、あなたはその方向に引っぱられていきます。心はどうでしょうか。愛の力によって引っぱられるでしょうか。心は、実に欲張りです。欲張りの心には、それを妨げる境界線はありません。それゆえに愛の核心に向かってすべてを貫通してずーっと下っていくのです。心はいつもそれに近づこうとし、そして、そこに至るべき道をいつも見つけるのです。

 どのような力が、全ての器官を一つの方向に活発にさせるのでしょうか。それは、愛です。涙や恐怖、銃口やお金はなんの力にもなんの力にもなりません。愛の力のみが、全ての器官の作用を、一つの方向にまとめることができるのです。

 どうして、すべての男性は、普遍的に女性が好きなのでしょうか。驚くべきことは、いかに醜い男であったとしても、美しい女性を探し求めるということです。自分が醜ければ醜いほど、より美しい女性を求めるのです。誰でも、美しい女性を目につけると、その眼も手も全てが皆、動きだすのです。さて、男性だけが、こういう仕草をするのでしょうか。それとも女性もしますか。もし、その衝動、あるいは引かれる力というものが、男性のみに働くものであり、決して女性には、その力が働かないとするならばどうなるでしょうか。愛の力の活動とは、どのようなものでしょうか。これは一つの例なのです。

 私たちは、自動的に愛の源泉があるところに引っぱられていくようになっています。では、神の愛はどうでしょうか。それは、美しい女性、あるいは醜い男性の愛よりも弱いものでしょうか。あなた方がいうように、愛の力は至高のものであり、そして神は世界中の中で最強なのです。他のなんの力も、神の愛に近づく衝動を止めることはできません。

 より偉大な愛は、より小さな愛の犠牲を要します。神の愛、すなわち窮極的、かつ最高の愛を求めるためには、あなた方は、女性への愛、家族への愛などを犠牲にし、しかも自分自身の生命までも犠牲にすることができるのです。なぜなら、その価値が至高だからです。その愛を実際に発見し、そして、その実在を世に宣布した人、その人こそイエス・キリストでありました。イエスさまは革命的な宣布をなされました。彼は、神の愛の具現の立場にありました。そして、イエスさまは、「私以上に自分の父母を愛する者は、私にはふさわしくない」と言われたのです。

 愛の表現

 さらにイエスさまは言われました「私は道であり、真理であり、生命である。私に依らなければ、天の父に至る事ができない」。しかし、イエスさまは実際、大事な言葉をいえませんでした。聖書でさえも、窮極の目標である愛の明確な定義は、提示されていないのです。私たちは、愛の中に生まれ、愛の中に育ち、完成すべきです。最終的に私たちは、愛の中に自己の完成を成していくのです。もちろん私たちは、真理と道と生命の復活もあることを理解することができまふ。愛は自動的に来ます。しかし、窮極的なものは、その愛です。真理でも道でもありません。

 最も強烈な、その神の愛を、たとえば得ることができたことを想定してみてください。まず最初に、あなた方は本当に感謝していますか。どれほど感謝していますか。あまりにも感謝して、大きく絶叫して全宇宙が裂き分かれるくらいですか。それは、感謝しても言い尽くすことのできない、どんなに感謝をしても充分に言い表わすことのできないものでしょう。だから叫ぶ事を忘れ、ただ、その中に没頭して我を忘れるのです。「ありがとう。おとうさま、ありがとう、おとうさま」と、あなたの唇は自動的に動いて咳きます。どちらの方が、最も劇的ですか。意識的に大きく叫ぶのと、無意識の中で「おとうさま、ありがとう」と口の中でもぐもぐ言うのとでは、どちらですか。

 二人の愛人が出会って、非常に形式ばって、「わが愛する人よ、私は今からあなたに近づいて、あなたに接吻します」と言うのと、それとも、お互いに陶酔の中に、その場を忘れ、その愛が実に美しく、しかもそれさえ気がつかないほどにうっかりするのとでは、どちらが好きですか。

 表現には、さまざまな方法があります。大きく音量を一杯にするときもあるし、ときには完全に没黙の中に表わされることもあります。あなた方の口が動いていない時でさえ、あなたの心は語っています。どちらの方が、さらにもっと深いでしょうか。

 ここに二組の恋人同志がいるとします。一方は、常に愛のことばかりについて話しており、もう片方は、常に愛のことばかりについて話しており、もう片方は決して「愛している」とは口では言わないが、しかし心の中にあっては、また、行動の中においては完全にその愛の中に酔っている。そのどちらの方が深いでしょうか。西洋と東洋の間に、全く相反する比較対照が愛の表現の中にあります。西洋では、いつも声にだして「私はあなたを愛しています」と、公衆の面前で接吻します。それがアメリカの方法です。しかし、東洋では、韓国の夫はほとんど、「私はあなたを愛します」とは言いません。それより以上に、深く愛を表現する方法があるのです。それは心で語るのです。どちらが深いでしょうか。

 湖には波があります。大洋の海は深ければ深くなるほど、その波は高くなりますか。それとも低くなりますか。浅い湖や小川は、常に音をたてています。それは絶えず忙しく走っているからです。しかし、海洋の深く深く、奥深くに入ると、そこは実に静かで隠やかです。ここにおいて、その判断の基準は、目に見ることができるか、いいえ、そうではない、という結論に達します。尊いものは、常に目に見ることはできないのです。たとえば、水唱のように、愛が目に見えるものとしましょう。あなた方は、そのような愛が好きでしょうか。

 愛は見えないもの

 最も高価なもの、無限の価値あるものを、神は目に見えないものとされました。それは愛のように、また、神のごとく、あなた方の心は尊いものです。あなた方は自分の心を見たいと思いますか。そしてポケットに入れて運びたいですか。心という、目に見えない容器だけが、目に見えない神を包含することができるのです。これは最も高価なもの、神の最も大切なものです。それがどこにあるかわからないために、誰もそれを取り去ることができません。それは、誰も、それがどこにあるかわからないためです。

 誰かが、百カラットのダイヤモンドを、いつも運ぼうとしていたとしましょう。というのは、彼は、それを隠す場所を見つけられなかったからです。彼がそこで足の中にそれを隠すとすると、夜中の内に誰かがそれを取っていくため、足が失くなります。私は神が、私たちの貴重な心を目に見えないものにしてくださったことを、本当に嬉しく思うのです。神が、愛を目に見えないものにして、誰も愛を盗めないようにして下さったことに対して、本当に嬉しく思うのです。

 もし、愛が目に見えるものであれば、愛に対する真の味わいというものが失くなります。それにあきてしまうのです。見えないがゆえに、愛は無限なのです。愛の形は丸くにも、鋭くにも、また、最も長く、最も幅広くにもなるのです。

 誰かが、愛とはどんなものかと問うと、ある人は、それは月のように丸いとも答えるでしょうし、また海洋のように広大だとも答えるでしょう。そしてまた、あるロランティックな人は、それは美しい岩ばった山のようだとも答えるでしょう。またある人は、ナイヤガラの滝のように力強いものであると答えるでしょう。実際、そのすべてのものが正確なのです。というのは、そのすべてのものが、愛のある側面を描いているからです。ある人はいいます、愛は乞食のようなものであると。実に、それも正解なのです。ある人は、愛はガラスよりも滑らかだといいます。それも正確です。愛は風船ガムのようです。それは、私が伸ばした分だけ、伸びるからです。そういう具合に、愛はロマンティックなのです。もし、愛とは、赤色で、その上に小さい点があるとしましょう。すると、人は皆、その点が愛であると知って、その愛をそれだけに限定してしまい、もはや、愛はロマンティックではなくなるでしょう。

 あなた方は、神が、愛をそのように目に見えないものとされたことに対して感謝しますか。あなた方は、自分の心が見えないことを嬉しく思いますか。神が御自身を目に見えない姿にされている事に対して感謝しますか。限りなく神秘的で、海のごとく深深淵で、空のごとく高遠に。それこそが神様です。

 あなた方に知っていただきたいことは、すべての中で最も尊いものは、常に目に見えないものです。だから神が、いつまでもおられるとうのは解です。神がアメリカの表を歩きまわり、あちこちでその姿を見られるよりは、神が神秘の覆いの裏に隠れておらるのが、よほど良いのです。無限の理解と知識でもって、神はそれぞれの見方で、神を知るために想像できるようにされているのです。

 天の習慣

 人と対するとき、一時間、二時間の会話で、既にその人の深さを知ることができます。そして、それ以上は興味が失せてしまいます。しかしながら真の人間は、たとえその人をどれだけ理解しようとしても、いつも到達しえない世界が常に残るのです。そしてその人は、自分にとってますます魅力的になってくるのです。最も高価なものは、目に見えないのです。

 私たちの体の中で、最も高価なものは、私たちの心です。そして、それは見えません。私たちの心は、確かに見えないのですが、しかし、それは個々独自に存在しているのではありません。それは常に、ある源泉と呼応しながら存在しているのです。そのように心とは結果的な存在であるがゆえに、常にその源とつながっているのです。どこかに、その主体となるべきものがあるのです。ですから、本心は常に本来の存在へと向かっていく傾向があります。というのは本心は対象だからです。たとえ目に見えなくても、それはあなたをその方向へと向かわすのです。それは方向と目標を知っています。宗教的な生活というのは、心によって導かれ、ある生き方へと引っぱられていく生き方です。

 では、統一教会はどうでしょうか。心は常に、体の好むものを否定します。体は常にや官能的な肉感的な欲望をもつのですが、心は常に、それに対して「いやいやそうではない、私はあなたをより良い方向へと導きます」というのです。

 あなた方の体は、朝になると食事をしよう、エネルギーを得ようとしますが、心はいつも外に出ていって何かをしなさいと言うのです。心は常に体に先行します。また朝になるとあなた方は、もう少し長く休んでいたいという体と、起きなければならないという心との大きな戦いをします。心は常に振り返りながら、従ってくる体を導いていくのです。「おお、眠たがりの体よ、お前は、まだもっと進まなけりゃならないんだよ」と、心は常に先になって歩み、体の言う不平を聞かなければなりません。心は、あなた方の体を、共に、一つの丘へと導いて行かなければなりません。体が後戻りする道はもうありません。また既に、あなたがたは、ある世界を築いているのですから、そね心が後戻りする事もできません。それが私たちのいう習慣です。

 自分の体を、ある習慣、躾として訓練すると、それは、もはやそこから離れることができません。あなた方はパンが好きでしょう。でも私はご飯が好きです。それはなぜでしょうか。習慣です。たとえばそこに、新鮮で暖かいパンと、三日目になる古い一茶腕のご飯があったとします。私は、それでもなお、ご飯をとります。それは習慣です。。誰も自分の体をそのようにしたのではありません。長年かかって、そういう習慣が築かれるのです。

 統一教会も例外ではありません。私たちの心は、常に天の習慣へと体を仕付けるのです。あなたがたが働いている前線は、ほとんど信じ難いものです。ある習慣がすでに身につけていると、最初、前線から出るようになっても、その人は前線から出たくなくなるのです。前線で本当に習慣を身につけた人は、休日を彼に与えても、自動的に朝食を終えると前線へ出かけるのです。

 私たちは、自分自身を鍛練することによって、この重要な丘を乗り越える訓練をしなければなりません。そうすると問題はなくなるのです。あなたがたの体は、決して逆戻りすることがありません。毎日毎日の旅で、私たちは、丘を乗り越える訓練をしなければなりません。一日、二日、三日とその丘は高くなっていきますが、そのうちに私たちは、より高い高い目標に達成するのです。

 神の愛を受信する心の大きさ

 私たちは、同じケーブルカーに乗っています。私は、ケーブルカーのエンジンのようなもので、あなたがたは、皆乗客です。あなた方は、実際には、車を動かす必要がありません。ただ中にいて、山を乗り越えていくのかを中から見るだけなのです。なぜでしょうか。あなたがたはすでに、あなたがたを引っぱっていく機関車のついた正しい車に乗っているのです。

 三年間の間、私は言ってきました。この統一教会のケーブルカーが、究極的な目標に向かっている時、あなた方も中にはいって何かをします。それは必ずしも困難ではありません。しかし労働や伝道などをすると、たくさんの人が統一教会に疲れ飽き、「どうして私たちは、毎日同じことを行なうのか、自分は違ったように生きたいのだ」と言います。そして外に出て、やってみるのですが、そこに実際、真のおもしろさを覚えないのです。あらゆる自由や、おもしろさが得れると思っていたのにもかかわらずです。だから彼らはすぐに帰って来て、「自分を受け入れてほしい」と言いに来るのです。このようなことは、実になん回も起きているのです。

 一度外に出てみると、あなた方は、統一教会の生き方がいかに貴重なものかということが良くわかります。いかに貴重な目標をもった私たちでありましょう。外に出ると、あなた方は、それを羨ましく思い、また再びそれに帰ってきたくなるのです。そこに、真の喜びと真の幸福があるからです。

 あなた方の目標は、目に見えるものでしょうか。それとも、目に見えないものですか。最も重要なものは、心、愛、神の三つです。これら三つのものは、貴重で永久のものであり、絶対的であり、しかも自目に見えないものです。では、なんの力が、それらを結合して一つとするのでしょうか。目に見えない愛が、それらすべてを統合するのです。統一教会では、心はたやすく目に見えない神によってコントロールされ、その心が体をコントロールするのを知ることを強調します。それが一番肝心な事柄なのです。体は心に従わなければならないのです。

 一度、あなた方の体が、完全にあなたの心と結ばれると、たちまちあなた方は、宇宙の高い真理へと接近する事になるのです。人間の頭脳でさえも、私たちはレーダーやラジオやコンピューターを創り出しています。では神の創られたラジオ、すなわち心は、どれだけそれに優って素晴らしいものでしでう。

 神は、私たち以上に、はるかに賢くていらっしゃいます。では、あなた方の心は、どれぐらい目に見えない根源である神を受信できるでしょうか。心は目にみえません。ですからそれは、さまざまな形をとることができます。もし心が丸いとしても、神を受信する時には、心はアンテナのような細長い形となるのです。その心のアンテナは、とても高いので、神を受信することができます。

 あなたの心は、どれほど大きいものでしょうか。心は、神を包含することができるほど大きいのです。それはとても大きいため、巨大な神が入って住みます。それでもなお、あなた方の心は余地があるというほどに大きいでしょうか。あなた方は、それほどに膨大な心を所有しているということを知っていますか。あなた方は、自分の心が、全世界を把握して、それでもなお余りあるほど大きな心であるということを考えたことがありましたか。あなた方は、大きな心の人と小さな心の人と、どちらが好きですか。大きな心の人は、まるで広大な海原のようですが、実際、彼の体は、とるに足りないちっぽけな指のようです。たとえようもないほどです。私たちは大きく話し大きく考えなくてはなりません。

 今まであなたは、自分の心が、この宇宙を包むほどに大きいということを考えたことがありますか。さて、アメリカはどれほど大きいでしょうか。私たちが今、問題としていることは地理的な問題ではなく、アメリカの心の大きさのことです。アメリカは黒人を収容するに足る大きな心があります。では、アメリカとは、豊かな国でしょうか。貧しい国でしょうか。それは、黒人を収容することのできるような余地を持たない狭心な国であるという結論に達します。アメリカ人は、このようなことを聞きたくありません。

 統一教会が、どれほど大きいか想定してみてください。一般のアメリカ人と統一教会のメンバーとでは、どちらが大きな心をもっているでしょうか。「はい」と答えるのは、たやすいことです。しかし、そこまで生活の中で実践することは困難なことです。

 神の愛のチャンピオン

 人々は、「レバレンド・ムーンとは誰か」と尋ねます。多くの人々にとって、私は理解し難い者なので、皆、迷惑がるのです。私は、彼らに、私自身のことを計算してほしくありません。私は、ビジネスマンのように見えるし、また、他の人々にとっては、宗教家、あるいは文化推進者や学者にみえます。また、ある人にとっては、私は漁夫のようです。いったいレバレンド・ムーンは誰なのでしょうか。

 なぜ彼らは、私のことに関して、わからないのでしょうか。それは、彼らの視点があまりにも一方的であるために私を計ることができないのです。

 アメリカの政治家や多くの人々は、テレビや新聞と一緒になって私を攻撃しています。しかし、そういうものは、私を悩ますことはできません。私は、いったい、どのような人でしょうか。外部の多くの人々は、私が反対の大衆意見によって砲撃されて、病院で完全に打ちのめされることを考えています。しかし私は反対に、実際、アメリカ全土で働いているのです。

 彼らは私を打つことによって、私かや本当の反応が返ってくると考えたのですが、しかし実際には反応が返ってこないばかりか、私ではなく彼ら自身が力を失ってしまったのです。私は生涯を通じて、信じ難いほどの反対にあいました。それが私の人生です。しかし私は全然気にしません。ただ、ますます骨折って努力し、騒々しい群衆を超越するだけです。

 では、私の誇るものは、一体なんでしょうか。私の使命にあって、陽の下にあって、誰もまねることのできないことは、私は、神の愛のチャンピオンだということです。神は、御自身の愛を真に顕現させることができ、そして、地上の隅々にまで与え尽くすことのできる人を必要としていらっしゃいます。もし神が、私のような人物を見つけることができなかった場合、確かに誰も、その使命を完遂することができません。自らの敵を愛する人、自分を滅ぼそうとする人を救おうとしている人、神はその人を愛されます。神は報復する人を愛されるのではありません。

 私は、決して仕返しの戦いはしません。それよりも敵国に行って、その国を救うために許し、教育し、救いのために養育するのです。人々は、私が脆弱だから次のラウンドには耐えることができないと考えるのですが、私は実際、ノックアウトされるどころか、ますます繁栄し前進するのです。では、不思議な力は何でしょうか。私は目に見えない背後の力をもっています。人々は目に見えるものだけを見ますが、私たちは今朝、目に見えない力について話しをしています。そして、それが私の支えられている内容です。

 神の愛の下に

 昨日、私とおかあさまの誕生日の前に、日本から十五組の夫婦が来てくれました。多年、教会にきている夫婦です。彼らは日本で推薦されてやってきたのですが、私の前で、今後も神のみ旨を考むことを誓ってくれました。ある組は五十歳、六十歳の年令であり、一九四五年までは彼らは韓国にとって、また個人的にも韓国人である私の敵でした。しかし彼らは、この国にやってきて、神のみ旨のために私と共に祈ったのです。さらに驚くべきことは、これらの日本の人々が、神のために何もかも捨てて考むことができるというのです。いったいなんの力が、彼らをそのようにしたのでしょうか。

 一体、何の原理が彼らをそのように変化させ、また幸福にしたのでしょうか。それは、私の力や技巧ではありません。目に見えない、彼らの背後の力が、神の力が、そうさせたのです。愛には、なんの形式もありませんし、面目を保つ必要もありません。たとえあなた方が、どのような称号を得ていようとです。たとえばあなたが合衆国の大統領であったとしても、ある女性を真に愛しているとしたら、自分の帽子をぬいで自分の愛する心を彼女に打ち明けることでしょう。

 多数のアメリカ人にとって、韓国は、美しいバラ園にあるゴミ箱のような存在として考えられています。家の中の屑箱は、まだ必要とされるので時には美しく飾られますが、バラ園の近くにあるゴミ箱は見捨てられています。それが韓国の位置です。人々は、バラの香を楽しみ、そして、どうしてそこに汚ないゴミ箱があるのかと尋ねます。私は、そのゴミ箱から来たのです。

 私は、その市民であることを誇り、そのアメリカの国にきました。そして私は、自分こそ、この病める国の医者である、また、火事で燃える家の消防者であると宣言しました。あなた方は、そういう事を耳にして、気持ちがいいですか。もちろん、アメリカの人は、それを気持良く思いません。しかし敵意の反応が返ってくることを知りつつも、私は、故意にその宣言を行ないました。アメリカ人が、私を蹴ることによって、却って神の力を悟ることができるようにアメリカ人の反応をみたかったのです。

 アメリカ人は、実に、第二次世界大戦まで、力強い第一等国として存在していました。しかし、その後三十年も経ないうちに、アメリカの威信は衰退していきました。かつては、アメリカはアジア大陸における天使とみなされました。東洋人は、街頭でも口を開けて、賞賛の服でアメリカ人を見ました。しかし今日、アメリカ市民は、殊にヒッピータイプのアメリカ人は、人々から犬のようにみなされ、もはや人間とはみなされていません。

 根性のある誰かが、この国に来て、アメリカ人に真の信仰と真の自分自身を再発見させなければなりません。神の審判は、決して美しい宮廷には訪れません。それは、神の力でもちあげられた謙遜な人にやってくるのです。そういう具合に、神の力は歴史を通して顕現されてきましたし、今日も例外ではありません。

 私はアメリカを破壊するために来たのではありません。とんでもないことです。私がこの国に来た真の目的は、この国を大いなる救済のために覚醒することと、アメリカの真の神の伝統というものを復興することにあります。あなた方が、その証しです。というのは、かつてあなた方は、この崩壊する文明の中の一部でしたが、今は、このアメリカの唯一の希望をもたらしているからです。あなた方こそ、未来を形造る美しい希望の人です。今に人々は、この人たちは神の力と先生の教えでもって集まり、この国を救おうとして立ちあがっている、ということを悟る時がくるでしょう。しかし、現時点においては恐れ、脅威を感じています。でも今にアメリカは、あなた方を歓迎しなくてはならなくなります。なぜなら、その他に残された道はないからです。

 人々は、そのようにした人は誰であるかということを窮極的に探る時がくるでしょうゝ私がそれをしたのではありません。力の根本は神であり、目に見えない神が私をして働き、アメリカに新しい希望をもたらしているのです。神の力は、ここにあります。神の愛は、今も持続してきています。それが私たちのすべての力です。たとえ何が起きようとも、神の愛は決っして錆びることなく、朽ちることもありません。アメリカが何よりも必要としているものは、まさに神の愛なのです。

 きょうの日の意義

 奇跡は、今、この部屋で起こっています。私たちの誕生を祝うために、ここに五種の民族が集まっています。このこと自体が、きょうの奇跡です。誰がそうしたのでしょうか。レバレンド・ムーンではありません。神のみ旨と摂理とが、そして殊に、神の愛が、あなた方を一つにしたのです。あなた方は、それを真実だと思われるでしょう。あなた方以外には、誰もあなた方の心を知りません。多分、ニューヨークやアメリカの中で、あなた方以外には誰も知らないでしょうが、あなた方も私も、私たちの心がどこにあるかを知っています。

 一度、あなた方が、自分の心の中に宿りを成就すると、あなた方は、それが陽の下にあって、他の何よりも、国家や世界以上に貴重であることを悟るでしょう。そうすると、たとえ全国家が反対してきても、あなた方を止めることはできません。躊躇する必要はありません。なぜなら、あなた方は、より以上の価値を有してうるからです。私たちは、神の愛で堅く武装しているからです。どのような困難がこようともかまいません。私は前進し、乗り越えることができます。

 もし、何かが、神のみ旨の窮極の成就を損おうとするなら、私は生命をかけてそれを守護します。これが私たちの生き方です。私は、この原因、目的を守護するためには、なんでもしますというのが、私たちの信条です。私たちは誇りをもって宣言します。「私は神の愛のチャンピオン。神の愛を復興し、創出するための、神の愛の守護者。なんの力も、私を阻止することはできない。」

 あなた方にとって、あなた方の先生である私の誕生日の祝賀は、素晴らしく尊いものでしょうか。しかし、私が言ったように、これは単なる、世界のために神の窮極の目的の成就を高め、神の愛の守護のための拍車であります。きょうは統一の日です。私とあなた方が一つになって、窮極の目的、神の愛に向かって行進するのです。私たちは、私の生誕以上に、神の勝利を祝うのです。私たちは、神の名を讃美し、神の臨在を讃えるのです。それが、きょうの真の意義です。

 韓国人は、何世紀も通じて憐れな民族です。五千年の歴史の中で、この徴弱な国家は、とてつもない苦難の圧力を周囲から受けてきました。韓国の誇りである韓国の歴史は、ユダヤ史の六千年に匹敵し平衡します。統一教会の歴史は、ユダヤ教もキリスト教も継続しているのです。

 神は四千年前、選民であるユダヤ民族を通して働かれてきました。神は、四千年前も同じ目標であるところの、地上における神の愛の成就にむかって、一歩一歩進んでこられました。神は、成就の一日に向かって邁進してこられたのです。その日がイエスさまの誕生の日です。全人民が一体となって、イエスさまの誕生を祝うと同時に、神の栄光を讃えるのです。それが神が待ち望んだ日です。その時、すべての人種が全世界の各地から集まり、一つの共通の目的に向かって一つに集合し、その日を祝してその栄光を神に帰するのです。キリスト教の歴史は二千年に亘って引き継がれ、そして、窮極の成就が、アメリカの国の誕生によってされたのです。

 アメリは、世界の中で象徴的なキリスト教の国家であり、そこには、あらゆる民族が集まって、人種のるつぼを形成しています。アメリが最終的に誇るものは、アメリは神に選ばれた国であるということです。それは、ちょうどユダヤ人が選民であることを誇るようになだていたのと同じように、アメリは、神の道を選んだ国家として、それを誇るのです。

 しかし、この理想は、未だ完了されていないのです。今日、アメリに対する命命は以上の事柄です。神のみ旨の中で孕まれ、五種の民族の集合したこの国家が、神のみ旨から離れ、それを成就するのに失敗するとしたら、この国家の運命は、はっきりしています。アメリカは崩壊し、神はこの国を罰するでしょう。もし、神の愛と神ご自身までもが、この国から離れてしまうと、あなた方は希望のない、実に悲惨なものとなります。キリスト教は崩壊するでしょう。なぜなら、キリスト教は、目的を失うからです。

 神の愛の奴隷

 そこで、終わりの日には、それを防ぐために神は一人のチャンピオンを選ばれます。それが統一教会です。ここ三十年間、統一教会は、アメリの崩壊を阻止し、崩れゆくこの国を本来の理想へと復興するために、神によって選ばれたのです。私たちは、その理想と本的な真理とを背後に持っているのです。神のみ旨と神の愛は、私たちの聖なる勅令です。私たちは、その主旨のために、神の愛の真理を伝技し、繁栄させるチャンピオンです。

 キリスト教と統一教会は、窮極的な崩壊と絶望の域に入るでしょう。そして、人々が、絶望の域から希望に向かい、統一教会をつかむために必死になるときが来るでしょう。人々にとって、そこが残された唯一の希望の道なのです。それが世界の運命です。

 統一教会は、力の塔として出現しています。アメリの指導者は、私たちに脅威を覚え、統一教会を埋葬しようと試みています。しかし、統一教会が引きずられて下降していくかわりに、彼ら自身がずるずると落ちていっているのです。逆に、統一教会が上昇していっています。それが、今日、アメリでも生じている現象です。去年、私たちが、私とおかあさまの生誕を祝賀して以来、私たちは、プラス、マイナス互角の水平の立場にきました。私が重要な宣言を行なうたびに、私たちは上昇していっているのです。私たちの行なうすべてのものは蓄積され、そして、目に見えない塔となっているのです。

 人々は、私に関して、いやらしいでたらめを言ってきました。一九七六年、一九七七年と、彼らは私をこきおろそうとして、偽りのイメージを与えようと必死になってきました。殊に、政治的に発祥した委員会や、あらゆる限りの調査機関が探しまわりましたが、一つずつ彼らはあきらめていきました。なぜでしょうか。それは、皆、何も見つけられなかったからです。私は、神の命令で動いているのに、どうして一国家のためのものであることができましょうか。一国家のためだけに働くということは、信じ難いことですし、また考えられないことです。

 一九七六年から一九七七年の期間、人々は全面的に、私が洗脳しているのだと言ってきました。人々が、私が特別な仕掛けの機械を持っていて、同心者となるために、暗室に入ってスイッチが入れられると、その人の頭脳が洗われると思っているのです。もし、そのような仕掛けを彼らが探そうとしているのであれば、彼らは永遠に探しあてることができません。まるで、風船がふくれあがり、それを小さなピンでつついて小さな穴をつくると、パンと割れて、それ以上、何も残らないというのと同じです。私は、こうして批難を、笑い話として、時には面白くさえ思っているのです。あなたがたは神の愛によって、仕掛けられたのです。この教会に来た頃は、あなた方は私を見ることさえなかったことでしょう。

 噂もある一面は正しいでしょう、もし、あなた方が、神の愛の奴隷であるならばです。実際のところ、陽の下にあって、あなた方が最も幸福な人です。なぜなら、それが私の目的でもあるからです。あなた方が、労働者、商人、波止場の労働者であるとしても、なんの相違もありません。最終的に人間の心が切望していることは、神の愛の奴隷になることです。もしあなた方が、そのような奴隷になろうとしているのなら、それこそ、私が救めているのと同じ目的です。私は、神の愛の一番の奴隷になりたいのです。あなた方は嬉しくないのですか。

 たとえ、私の手が、人から卑しめられる職業をしている手であるとしても、この手は、神の愛の高貴な世界を救おうという目的のために働いているのです。この目的は神の目的であり、神はこの世界を再創造するために、私の手を使っておられるのです。なんとそれは幸福なことでしょうか。

 私は、神の選り抜きのチャンピオンであり、神の奴隷であります。私が、反対者に全然注意を払わない理由としては、そこには注意を払う価値がないからです。戦う必要もありません。私は、あなた方に、今ある立場を誇らしく思ってほしいのです。チャンピオンとなって、この目的のために立ちあがり、妨害を乗り越えて行くことは、なんと喜びであることでしょう。

 私たちは、すでに最高の能な限りの価値をつかむことができました。あなた方は幸福ですか。あなた方は、私が不幸だと思いますか。それはとんでもないことです。私は誇らしく思っています。私は、決して臆することのない闘戦者です。私は粘り強い頑丈な男です。なぜなら、私は陽の下の最高の力である神の愛を有しているからです。何を恐れる必要があるのでしょうか。

 神の愛とともに

 きょう、そのようなわけで、私は「神のみ旨と感謝」の日の題のもとに説教しています。一度、私たちが、神の愛をそこで修得するのだということを知ると、私たちはその愛の所有者となり、そして溢れる感謝がこみあげてくるのです。愛なくして何の感謝も、そしてまた、愛なくして神のみ旨も終結しません。愛は体能です。私たちは神の愛の中に、窮極の真理を得るのです。その力が、私たちの心と体を一つにまとめ、また、その神の愛と神自身と共に私たちは、神の理想世界を真に築くことができるのです。きょうに匹敵するような日は、歴史上にかつてありませんでした。なぜなら、私たちは、全真実の覚醒という新しい高原に立っているからです。

 あなた方が泣き悲しむ時、そこには神の悲しみがあなた方と共にあります。あなた方が無限に幸福を感ずる時、神もまた、無制限に幸福を感ずるのです。ですから私たちが歓喜の勝利を創出するために前進を重ねるとき、神もそのとき、喜びを感じておられることを、私たちは知るのです。その神の愛とその力で、私たちは前進するのです。あなた方に是非わかってほしいことは、私たちの前方には、希望と喜びがあるということです。

 一九七八年のこの年は、その神の愛と共にあって神の勝利の目標のために、まさに前進と跳躍の年です。きょうのこの祝賀にあって、私たちは一つになって、さらに強靱な神の兵士となりましょう。私たちは神の愛の火を引火し、真にこの世界を新生し復活させて、新しい世界を創造するのです。一緒に歩もうと決意する人は、手をあげて神に誓いましょう。ありがとうございました。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
↓↓ にほんブログ村 ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓

​​​​​​​​​​​​​​​​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.10.04 17:50:42
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: