マサの部屋;心のネットワーク

マサの部屋;心のネットワーク

PR

×

Calendar

Profile

マサ1788

マサ1788

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

ガーベラ@ Re:幸福を人と分かち合えば、それは減るどころか更に増大するのです 初コメントお邪魔致します少なからずや…自…
H4O@ Re:どう思いますか?(10/24) 病院だけのせいにするのはおかしいのでは…
まさみ2240 @ 日本脳炎 三年前のワクチン積極勧奨中止のきっかけ…
Mar 26, 2008
XML
東京から南へ1200キロの地点にある硫黄島。第二次大戦中、日本の領土で初めて日米の

ため、その存在はサイパンから日本本土を爆撃していたアメリカ軍にとって、大きな障害と
なっていた。この日本本土攻略するには硫黄島を占領する必要があったのである。
このアメリカ軍の猛撃を受けたのが、栗林中将率いる22000名の日本軍であった。
制空権、制海権を奪われた日本軍が、この小さな島での戦いに勝つことができないのは明白
であり、栗林中将は、勝つための作戦ではなく、アメリカ軍の本土進攻を一日でも遅らせる
ための作戦をとるのである。それは日本に住む家族を守るためでもあった。この作戦のため
に島内に18キロの地下壕を堀巡らせた。しかし、硫黄島は気温が高く、地下壕の中は40

雨水を溜めて飲んでいたが、70度ちかいお湯になって、火傷をした唇では飲むことができ
ないので、冷やして飲んでいたらしい。耐え難い水不足のなか、硫黄ガスが噴く熱い壕内の
穴掘り作業は重労働であり、多くの兵士たちが、この苦しみのなかでやせ細り、疲労の極致
に至るのである。アメリカ軍は5日ほどで攻略できると予想していたが、日本軍の徹底抗戦
が続いたため、一ヶ月以上もの間、戦闘を続ける。この激戦のなか、日本軍22000名の
うち、生存者はたったの1023名であった。そして、この遺骨がまだ硫黄島に眠っている
、いや閉じ込められているのである。その地下壕の上には、今も尚、自衛隊の滑走路として
飛行機が離発着しているのである。一日も早く、この日本に帰してあげないといけないので
はないだろうか。この日本のために死んでいった勇気ある人たちを、帰してあげるのが私た
ちの役目だと思います。また、なぜ栗林中将のことを知らない人がいるのかと言うと、栗林
中将は、最後まで戦争に反対していたのです。それもアメリカとは絶対にしてはならないと

と思う。

翌昭和20年(1945年)2月19日からの硫黄島の戦いの指揮を執る。圧倒的な劣勢の中、米軍の予想を遥かに上回り、粘り強く戦闘を続けるが3月16日、ついに大本営に訣別電報を打電。翌17日、特旨を以て陸軍大将昇進。これは非常事態の下ではあるが、史上最年少の大将昇進である。3月26日、数百名の将兵と共に、自ら最後の突撃を行ない戦死。享年53。総攻撃に際し、階級章を外して参加したため、現在でも栗林の遺体は確認・発見されていない。

昭和42年(1967年)になって、勲一等に叙せられ、旭日大綬章が授けられた。

死後、米国からは高評価を得ていたが、日本国内ではさほど注目されていなかった。しかし2006年、映画「硫黄島からの手紙」が公開され、渡辺謙が栗林役を演じた。再び、その人となり・軍人としての能力等に注目が集まっている。
硫黄島の戦い


合理主義者で、用意周到な大規模地下陣地を構築し、将兵を爆撃・艦砲射撃に耐えさせ、万歳突撃による玉砕を禁じ、徹底的な持久戦を行って出血を強いる作戦に出た。これは本土防衛のための時間稼ぎであると同時に、アメリカ国内の世論が戦闘結果より米軍の死傷者数に敏感なことを意識してのことでもある。その結果、日本軍の死傷率は実に96%を越えるが、物資も豊富で兵力も3倍以上のアメリカ軍に対して敵・味方も予想し得ぬ長期にわたる善戦をし、大戦末期としては異例の打撃を与えた。

彼自身は、3月26日にアメリカ軍に対して突撃を敢行し戦死を遂げた。突撃前に防諜上の意味をもって軍衣の階級章・徽章・軍刀の刀緒等を外し、兵士同様に戦死したため、戦闘終結後のアメリカ軍による調査でも栗林の遺体を特定・発見出来なかった。

この最後の突撃は、いわゆる万歳突撃の形を取らず、隠密に敵陣に近づき敵側の油断を突いた夜襲・ゲリラ戦に近い戦法を取ったため、予期していなかったアメリカ軍に対して最後の打撃を与えることに成功した。なお、師団長自らが突撃したのは日本軍の戦史として初めてのことである。

栗林の最期については雑誌「SAPIO」2006年10月25日号において、アメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説が唱えられたが、文藝春秋平成19年2月号において梯久美子による検証がなされ、ほぼ否定された。

評価
米国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていた事もあり、この戦闘・栗林の知名度は高い。当時の陸軍では数少ない親米派であり日米開戦に最後まで反対していた事が理由であると思われる。

特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争に於ける日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか。」と質問した際、「クリバヤシ将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いと云われている。結果的に敗北に終わったものの、僅か22平方km(東京都品川区程度)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力、しかも物量・装備全てに於いて圧倒的に有利であったアメリカ海兵隊の攻撃に対し、最後まで兵の士気を低下させずに、アメリカ側の予想を上回る一ヶ月半も防衛した事は、名将と言って差し支えない実績であろう。また硫黄島と沖縄での苦戦から米国上層部では自国軍に甚大な被害が予想される本土上陸戦はできるだけ避けたいと思うようになり、これが連合軍による日本分割という形での終戦を避けることに繋がる。

逸話など
軍人であると同時に良き家庭人でもあり、アメリカ駐在時代や硫黄島守備隊長当時には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、イラストを入れた絵手紙になっている。一方、硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。
「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」
また、妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙は戦後にまとめられて「『玉砕総指揮官』の絵手紙」(小学館文庫、2002年)として刊行された。なお、留守宅は東京大空襲で焼失したが、家族は長野県に疎開しており難を免れた。
自由民主党の衆議院議員・新藤義孝は、栗林の孫(次女・たか子の子)に当たる。
弟が中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと海軍兵学校へ行く様に薦めた。事実、栗林は陸大を次席卒業したが、陸軍省や参謀本部などの主流には配属されなかった。
優秀な騎兵将校かつ文才のある軍人としても知られる。自ら選定にあたった愛馬進軍歌の「取った手綱に血が通う」という一節は、栗林が筆を入れたといわれている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  Mar 26, 2008 11:21:17 PM
[マサの今日、思ったこと] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

Freepage List

Archives

・Oct , 2026
・Sep , 2026
・Aug , 2026
・Jul , 2026
・Jun , 2026
・May , 2026
・Apr , 2026
・Mar , 2026
・Feb , 2026
・Jan , 2026

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: