明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water    ケン高倉☆彡

明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water ケン高倉☆彡

四章





離れ離れに暮らさせている子供達の為一生懸命に働いた「源一郎」
4人の娘に恵まれた「源一郎」に朗報が・・・それは、大正12年以降恵まれなかった男の子の誕生だった。その後、「源一郎」達を襲ったのは、戦争と言う悲劇だった・・・


昭和12年、日中戦争が勃発し、太平洋戦争が始まる2年前、町で「人生の並木路」「愛国行進曲」が流れ、日立の助川町職業紹介所が開設された年、次男「栄二郎」が誕生しました。この頃、日中戦争に出て行った兵士達の為にと千人針慰問袋作りが盛んに行われていました。
女性達は、「戦争に行った兵士達の千人の命が助かるように」と、千人針に心をこめて一人一人ひとつずつ白い布に赤い糸で玉を作るのに街角に立ち街を行く女性たちに
ひとり一個赤い糸で玉を作って貰っていたそうなのですが、寅は強いので戦争に勝つからと言う意味もあり、寅年の女性は、自分の歳の数、玉を作ったところもありました。女学校でも学生達が千人針の玉を作るのにひとりひとつずつ赤玉を縫い中でも寅年の女学生はせっせと自分の歳の赤玉を作っていました。

祖父は、正妻に子供が出来ても妾と一緒に住み正妻と子供たちとは一緒に住まなかったので、正妻が亡くなるまでの31年間、子供たちは、何にいくらかかったか(鉛筆などの金額など)生活に掛かったものと金額を紙に書きその一ヶ月間に使っただけのお金を祖父の居るお妾さんの処に貰いに行ったそうです。子供たちは、どんな思いでお妾さんのところにお金を貰いに行ったのでしょう。屈辱に耐え、「いつもお父ちゃん家にどうして居ないの?」と始めは、思っていたでしょうが、子供たちが大きくなるに連れ不信感が抱かれるようになって、それが何時しか憎しみに変わって行ったのではないでしょうか。父も子供の頃、お妾さんにお金を貰いに行った事もあったそうです。当時、子供だった父やそのきょうだいそして、正妻であるわたしの祖母「かん」は、とても、人には、想像もつかない位の屈辱的な生活していたのです。
でも、そんな生活をしていても「かん」は、愚痴ひとつ漏らさず、そんな屈辱を受けた事などひとつも顔に出さないで、いつも明るく、近所付き合いを大切にし笑みを忘れる事はしませんでした。でも、歯を食い縛りながら陰で随分泣いていた事でしょう。「かん」は、31年間子供達の為に、祖父と離れて生きてきました。何が「かん」を支えたのか。それは、子供が、居たからそう言う生活も耐えられたのだと思います。「かん」の家族・・・
それは子供たちだけだったのではないでしょうか。
『子は宝』と言います。始め、一人暮らしだった「かん」は、子供達を守る為、また、その子ども達に支えられながら生きてこられたのだと思います。

昭和12年、子供たちも育ち長女「イキ子」14歳、次女「たけ子」13歳、3女「千代子」11歳、4女「正子」9歳、長男「壮直」6歳、次男「栄二郎」3歳になりました。
小さな頃から映画館を切り盛りしている父「源一郎」を見てきていたので、14歳の「イキ子」は父親「源一郎」と一緒に住めないそんな生活をしていても父の映画館を一生懸命手伝いました。
「源一郎」にとって「栄二郎」は、遅くに出来た子供でしたので、何の事情もわからず育ったまだ3歳で幼かった「栄二郎」は、お妾さんのところに遊びに行っては、アメ玉を貰っては喜んでいました。行く行く自分の継母になるとは知らず『良いおばさんだ』と思っていたのでしょう。お妾さんとの間に子供が居なかった祖父は、何も知らずに遊びに来る末っ子の「栄二郎」をとても可愛がりました。
そして、子供達が、学校へ通う歳になった頃、活動写真、いえ、映画は、誰も知らない人など居ないくらいになり、学校指定で映画を見に来るくらいにもなったのです。
でも、昭和14年、祖父「源一郎」43歳、映画法が公布され、二つの町(日立町と助川町)が合併し、ひとつになり、日立市となった年に第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発しました。この頃、街には、「上海の花売り娘」の曲が流れ、その横では、「兵隊さんよありがとう」などが唄われて、街の路地では闇取引なども行われ、戦争に町も染められてしまったそんな暗い時代の幕開けでもありました。
昭和10年に日本に来たパーマネントも『パーマネント追放運動』がはじまり、「パーマネントは止めましょう」等と言うキャッチフレーズが出来、女性達は、着飾る事さえ出来なくなってきてしまい、食べ物も無く、米ぬかさえも食べ物に変わってしまった時代に突入したのです。

その年、昭和14年福島の江名と言う小さな漁村で、「千恵子は、産声を上げました。
江名の一層大きな船を持ち、何人か人を雇っていた小さな網元の長女として産声をあげたのです。
この年、日立では栄座と市民会館(松竹館が改称)と相賀館の従業員30余人が毎月5日間の休館日に館主以下総員で盤城セメント日立工場に勤労奉仕を行ってもいました。

映画館では、客席の後などに警官席が設けられ、その頃の映画とは、もう子ども達は映画を見る事は許されず、学校の補導係の教師などが目を光させていました。子ども達が見れるのは、学校の引率のあるものだけだったのです。ですから、引率無しで映画を見たい子ども達は、学校の補導係や警官の目をごまかして映画をどう見るか、一種のスリルを味わっていました。
この時代の映画とは、陸海軍情報部の将校や翼関係者による戦況報告会や戦争昴場の講が盛んに行われ、その講演が終わるとお目当ての映画を見る事が出来ました。「ハワイ沖海戦」やドイツの記録映画の「民族の祭典」「美の祭典」などで、ベルリンオリンピックを通してナチス・ドイツの有様を人々に見せていました。
そんな時代でも、相賀館では、劇映画が多く、上原謙や佐野周二の二枚目によるメロドラマ調から藤田進の兵隊物と変わって行きましたが多くの人が求めていた物は、喜劇物で、エノケン・柳家金悟楼・古川ロッパ・エンタツ・アチャコなどによる映画が多くの人々の心を和ませませていました。
その頃と言うのは、今のように市民会館などの様に講演する場所が無かった為、相賀館は、選挙の講演 演説などに使われる事もありました。

また、昭和18年の映画と言うと、「海軍潜水艦西へ」「望楼の決死隊」「決戦の大空へ」などが上映されている中、相賀館では、「無法松の一生」や「姿三四郎」などが上映されていました。
その年の4月、祖父の弟の「兼吉」が31歳で戦死しました。その5ヵ月後の9月もう一人の弟の「金四郎」が、26歳の若い命を戦争に焚くしたのです。この頃、日本の女子達には、軍事教練が行われ、国民唱歌運動がはじまっていました。また、燃料不足で入浴など、ろくに出来ない時代を迎え、『(1)入浴時間は30分以内(2)男女とも洗髪禁止(3)使えるお湯は1人7杯まで』と言う燃料が配給制となってしまい、多くの人達はシラミやノミに悩まされる(清潔にする事が出来なかった為ノミやシラミが身体に付き体中かゆくて仕方ない)日々を過ごしていました。今では信じられないそんな時代だったのです。 

その年、中国から帰還して来た、一人の男性が良く映画を見に来ていました。祖父は、その男性を「良く戦争から無事帰って着た。」と、長女「イキ子」の結婚相手に選んだのです。
祖父「源一郎」は、18歳になったばかりの長女「イキ子」達に小さな映画館を任せました。イキ子は、「やーい チンドン屋チンドン屋の娘」などと他の人に馬鹿にされながらも14歳の頃から映画館の仕事を一生懸命手伝っていたので、祖父は、そんな「イキ子」に「良く手伝ってくれた」と、結婚したお祝いに相賀館とは別の小さな映画館を任せたのです。

そして、空襲が酷くなって来たので正妻と子供たちは、昭和19年から20年まで、栃木に疎開しましたが、「イキ子」は、祖父に任された映画館を守るため疎開はせず、日立に残りました。
「かん」は、駆け落ちをしてから栃木に帰るのは初めての事でした。戦争中の疎開の出来事でしたが、「かん」の母親は、駆け落ちをし、ずっと会えずに居た娘と初めて会う孫達にどんなに喜び感動した事でしょう。
昭和20年、映画のフィルムの配給にも影響を及ぼし、相賀館は、無期限の配給業務停止館になって兵士達の食料配給所として使われる事になったのです。
 その為「源一郎」と弟「定治」達は戦争の現場には行かず、兵士達の配給に精を出していました。

>>>

戻る


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: