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8時間掛けてプラハよりクラクフに到着。ポーランド、再びだ。極寒も再び。(苦笑)白い息を怪獣のように吐いている。 只今、午前7時を回ったところだ。ガイドの中谷さんとは、アウシュビッツ博物館入場棟前で9時半に待ち合わせとなっている。 弱虫の私だが、ポーランドまで来てアウシュビッツを無視はできないだろう。 ワルシャワから素直に南下すればいいものを、遠回りして やっと本日辿り着く。 プラハで毎夜 歌劇場に通ったのも、チェスキー・クルムロフで気持ちをほぐしたのも全て、前もって どん底に落ち込む心をオブラートで包んでおきたかったのかも。 だが、ここを訪れるなら絶対に冬だ、という思いはその通りになった。 ポーランド時間 7:15 クラクフからオシフィエンチム(アウシュビッツ)へ向かう列車にて
2013.04.03
チェスケー・ブディェヨヴィツェからプラハへ戻る列車が遅れた。連結する列車を待ってのことだったが、出発に20分程度の遅れが出た。 やっと動き出したと思ったら、何度も繰り返すブレーキ音。 嫌な予感がした。 だが、何かあってもなるようにしかならない。 私は腕組みをし、窓の外を眺めていた。 案の定、途中の駅で下車させられる。 いつものこと、バスが代理運行だ。数駅分飛ばした後、見知らぬ駅で再び乗車。その後は順調にいってくれ、大幅に遅れることなくプラハ本駅に到着した。 ただプラハに戻るだけなら気にはしない。だが、今夜 寝台列車に乗るのだ。 乗継に余裕を持ってはいたが、少々焦りを隠せなかった。 よくある事だが、なんでだろ? 次がある時に限って いつもトラブる。 それも旅の面白さではあるが、終わり良ければ全て良しということか。 ま、とりあえず ひと安心。 チェコ時間 22:00 プラハ本駅にて
2013.04.02
私達を乗せた船は東へと漕いでいく 朝焼けを夕映えを果てしなく追いかけて月をよぎる雲の色も波のしぶきさえも 二度と同じ姿はない永遠の万華鏡私達を乗せた星は涼しげに輝いて木星を金星を導いてゆくように 同じ時を旅している沢山の人の中になぜかとても ああ懐かしいあなたがいてよかった 恐れずに 生きてゆける 彗星のように燃え尽きたい 遠い海を旅してゆく小さな船の上に もっと遠い夢を見てる あなたがいてよかった なぜかとても ああ懐かしいあなたがいてよかった 松任谷由実 『青い船で』この場所に立ち、今 なぜか この詩が頭の中を流れていく. . . チェスキー・クルムロフ
2013.04.02
世界遺産にもなっているチェスキー・クルムロフに来た理由は、リラックス。(笑) だから今日、重いスーツケースはプラハ本駅のコインロッカーでお留守番。この街は、まるで玩具箱をひっくり返したみたいだ。そして、15分毎に鐘が鳴る。少し街歩きをして、目の前のレストランに入った。 今日は少し寒いけど、暖かい部屋でチェコビールを飲みながらシュニッツェルでも食べようと思う。 後は何もせず、可愛いこんな部屋で読書をして、早めに休むのも旅の醍醐味。チェコ時間 17:20 スヴォルノスティ広場前、レストラン・u hroznu にて
2013.04.01
「横になって、足を伸ばしておやすみ。」 うつらうつらする私に、フランターさんは優しく言った。 私が居たコンパートメントに、途中から乗り合わせてきたおじいさんだ。 「チェスケー・ブディェヨヴィツェに着いたら起こしてあげるよ。」 分からないチェコ語だが、揺さぶり起こすジェスチャーで、彼の言わんとすることは分かった。 「ジェクユ ヴァーム。」 ガイドブック巻末にあるチェコ語会話を使って、私は即席でお礼を言った。 「いやいや、こういう時は、プロスィームだよ。」 「プロスィーム?」 調べてみたら、「お願いします」の意味。なるほど、でも横にならなくても大丈夫だよ、私。 それでもコクリコクリする私に、フランターさんは小声で何かを歌い始めた。 「子守唄さ。」 フランターさんには私が孫ほどの歳に見えたのだろうか。 にっこりと微笑みながら、温かくそっと頭を撫でてくれた。チェコ時間 14:15 ブディェヨヴィツェからクルムロフへ向かう列車にて
2013.04.01
歴史は常に上塗りされる。そして歴史は人間が作るものだから、作り変えられることもある。見ている瞬間、目の前だけが事実であって、すでにワルシャワやベルリンの今を私は知らない。プラハだってそうだ。当然のこと、真実を知るなんておこがましいこと以ての外。ちょっと色々考える。写真は、プラハの旧市庁舎塔で時を刻む天文時計。
2013.04.01
せっかくの巳年なので、プラハで見つけた金のヘビを。 王の道と呼ばれるカレル通りの一角に、それはある。 プラハで最初にできたカフェの紋章なんだとか。 あ、これを見たらお金持ちになれるという話ではなさそうなので、悪しからず。(笑)* * *また空が重くなってきた。吹雪いてきたかと思えば、それは窓ガラスの汚れであった。(笑)今日は、プラハからチェスキー・クルムロフへ向かっている。 その為にまず、チェスケー・ブディェヨヴィツェ行きの列車に乗った。 なんて覚えにくい地名だ。 行き先を聞かれても、咄嗟に答えられないではないか。 さて、手元にはヨーロピアン・イーストパス。 ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリアの列車を乗り放題できる切符だ。 ま、色々制限があるから便利過ぎることはない。 バスの方が若干安くあがるだろうが、私はやっぱり鉄道が好き。 駅のホームは旅情を駆り立ててくれるし、停車する時のキキキキィーという音で時間も戻る。 そして、何より線路がいいかな。 不安がりの私は、何処までも繋がっている安心感を得られるのだろう。 まずは終点まで。 降り間違えの心配もなし。(笑) チェコ時間 12:00 プラハからチェスケー・ブディェヨヴィツェへ向かう列車にて あ~、何度読んでも覚えられん。( ̄~ ̄)ξ
2013.04.01
サマータイムが始まった途端 冷え込んできたプラハだが、昨夕からの雪は止み、今日は天気が良さそうだ。ちょうどイースター休暇と重なって、プラハの街は恐ろしいほど人の波で溢れかえっている。いや、渦が巻いている。(笑)真っ直ぐに歩けないストレス、急いでも速く行けない苛立ち。それでも、多くの人を魅了してやまないプラハの良さを感じないわけではなかった。プラハは手頃に音楽が楽しめる街だ。しかも、スメタナが指揮していた劇場だとか、ドボルザークがヴィオラを弾いていた場所だとか、モーツァルトがオルガンを演奏した教会などで連夜連日催される。オーストリアやドイツほど格式張ってもいない。ビールの楽しみ方がチェコ人とドイツ人とでは違うように、すごく楽に自然な感じだ。私は三夜連続で赴いた。一日目が、国立歌劇場でバレエ「ジゼル」、二日目はスメタナホールで管弦楽の演奏を、そして昨晩、スタヴォフスケー劇場 (こちらではエステート劇場という呼び方の方を耳にする) でモーツァルトの「レクイエム」を聴いてきた。エステート劇場とは、モーツァルトがオペラ「ドン・ジョバンニ」を初演した処といえばご存知の方もいるだろうか。そして、彼を描いた映画「アマデウス」のオペラシーンが撮影された場所としても有名だ。贅沢な場所だが、そんな気負いはない。欧州はどこもそういう感じではあるが、プラハも音楽と人と街が溶け合っている。街が音を奏でるんだな。こう書けば、遊んでばかりいるようだが、時には勉強(?)だってしている。エステート劇場から一本通りを入るとある「共産主義博物館」では、チェコの社会主義時代に関する展示と、「プラハの春」から「ベルリンの壁崩壊」に続く「ビロード革命」までの当時の映像を見ることが出来た。ベルリンの壁を見た後に、しかもつい今しがた歩いた場所での映像に言葉失う。だが、プラハを知りたい人にはぜひ足を運んでもらいたい場所である。チェコ時間 10:00 Hotel Crystal Palaceにて写真は、プラハ国立歌劇場内部。
2013.04.01
プラハといえばカレル橋、チェコといえばビールであろう。 「チェコのビールは最高だ!」 この台詞を何人から、そして幾度聞かされただろうか。 今日、ついに私の番がやって来た! カレル橋を越えて見上げるプラハ城も、これまた至って優雅じゃないか。 上機嫌に私はぐいっと一気に飲み干した。 なんだか大声で歌い出したい気分である。(笑)チェコ時間 13:10 スメタナ博物館に隣接の KLUB LAVKA にて
2013.03.30
歴史上のプラハの春ではない。毎年恒例のプラハの春国際音楽祭のメイン会場となる市民会館、別名『スメタナ・ホール』一階のカフェで寛いでいる。アールヌーボー調の、まるでミュシャの絵の中にいるような華やかな錯覚。 今日は慌ただしく観光するのではなく、この中世の街並みをのんびり散策でもしようと思う。スメタナの『モルダウ』を聴きながらカレル橋を渡るもよし。そして今宵、この会館でヴィヴァルディの『四季』とモーツァルトの作品が演奏されるんだそうだ。「明日は、ドボルザークの『新世界より』とプッチーニだよ。」そうか、ドボルザークもチェコ生まれだもんな。う~ん、どちらも良さそうだ。そんな幸せ過ぎる悩みのプラハの春は、ワルシャワの冷たさに鍛え上げられた私にとって案外暖かったりする。 チェコ時間 10:30 カフェ・Kavarna Obecni Dum にて
2013.03.30
予定では、午後5時過ぎの列車でドレスデンを発つつもりだった。ドレスデンから30分程に位置するマイセンへ、磁器工房の見学も考えていた。だが前述のように聖十字架教会を選ぶと決めた私は、もう一つ大幅に行動を変えることにした。今晩、プラハ国立オペラ劇場で行われる、バレエ『ジゼル』を観に行こう!ジゼルは午後7時から、プラハ本駅と劇場は目と鼻の先にある。昨夜のオペラでは、道中の寒さを懸念してセーターを着たが 、、、せっかくだもの、私だってドレスアップして行きたい。余裕を持ち、ドレスデンを13:08発でプラハを目指すことにした。*:*:*プラハでの宿泊先は、Stepanska St. の17番地。スーツケースをゴロゴロ、石畳はさすがに辛い。それなのに 、辿り着いた17番地にはホテルはなく、一階にあるブティックのお姉さんに「そんなホテル、ここにはないわよ」と冷たく言われた。道端の警察官にも聞いた。 でも彼女はこの通りで合っていると言う。?すぐに見つかると思ったホテル、大荷物で30分以上探し回った。別のホテルも考えた。考えて、近くのホテルで警備していたおじさんに、半べそかきつつ これまでのことを打ち明けた。親切なおじさん、iPhoneで検索しながら笑って言った。「ん? ははは、 お嬢さん、Stepanska は Stepanskaでも、そこは Mala Stepanska。 頭に Malaって付いてるだろ?だから、Stepanska 通りから派生した そこの小道にあるはずだから大丈夫。ほら、もう心配しないで。」今日も無事にベッドの上で眠れることを あのおじさんに感謝して、これから横になろうと思う。おじさん、どうもありがとう。チェコ時間 23:40 プラハは Hotel Crystal Palaceにて
2013.03.29
昨夜は、色気ある女たらしのテノールにたぶらかされたので、 あ、お分かりと思うがオペラの話。(笑) 今朝はひっそりとした雪道を歩き、聖十字架教会の礼拝に参列してきた。 ドレスデンの聖十字架教会は、700年もの伝統を持つ少年合唱団が有名である。 昨日、ドレスデンに到着早々その場を訪れ、偶然 聖歌隊の練習に出くわした。パイプオルガンと調和した美しい歌声が、質素だが厳かな教会内部に反響し、天使が舞い降りて来るという表現が正にぴったりな空間だった。練習だから、先生の注意がところどころ曲を遮る。 祭壇に立つ数人は、並び方から何度もやり直させられていた。 それでも、欧州の教会で合唱団の歌声を初めて聴いた私にとって、運の良すぎた偶然だった。 その教会で、今朝は9時半から聖歌隊付きの礼拝があると知った私は、女たらしに乱れた心を鎮める為、観光客は必ず行くであろうツヴィンガー宮殿を取り止めた。(笑) そして心を清めた(はずの)今、ドレスデンを発つ前にもう一度夢をくれた女たらし、いや(笑)、歌劇場はゼンパーオーバー前まで別れを告げにやって来ている。 ドイツ時間 12:00 ゼンパーオーバー前の広場にあるカフェ・Schinkelwache にて 写真は、そのゼンパーオーバー。
2013.03.29
今 目覚めてカーテンを開くと、外は真っ白に変わっていた。ドレスデンの朝である。明け方になって気温がぐっと下がったのだろうか?私は昨日、午後11時を回ってホテルまで戻ったので、昨晩は雪もなく、さほど冷え込んでいないことも知っている。どちらかと言えば もう少し冷たく、身体の火照りを冷ましたかった。*:*:*私は午後7時半から、知る人ぞ知るドレスデンは「ゼンパーオーバー」という歌劇場へオペラを観に行った。その建物も第二次世界大戦の爆撃を受け、一度は瓦礫と化した場所だ。ドレスデンといえば、10年以上もの歳月をかけたフラウエン(聖母)教会の再建が有名だが、それは東西ドイツが統一されて後の話。歌劇場はそれ以前、すでに1985年には復興を果たしている。それは、東ドイツのプライドをかけてのものであったか?その歌劇場は、ここで指揮者として活躍したワーグナーが、彼の代表作「タンホイザー」を初演したオペラファン憧れの場所。また、その専属オーケストラ「シュターツカペレ・ドレスデン」の人気も高い。建物もドイツらしい重厚な趣きと、内部の華やかさがある。繰り返すが、そこで昨晩、私はヴェルディ作曲・オペラ「リゴレット」を観て来た。外国の贅を尽くした豪華な歌劇場を見物するのは大好きだが、これまでは若干ミュージカルの方が私には馴染みやすかった。だが、今は違う。オペラだ! 絶対にオペラだ!こんな美しい旋律があるのかと、重なり合う歌声に吸い込まれていった。終わった時のスタンディングオベーションでの拍手の渦はすでに経験済みだったが、昨日はもっとすごかった。拍手よりも口笛よりも、「ブラボー!」の叫び声よりも、興奮で床を踏み鳴らす激しい音にびっくりした。でも、それだけの興奮は私にも分かる。だって、本当に最高だったもの。歌も演技も演出も! オーケストラも大道具も会場も!!帰宅途中、思わず劇中の有名なアリア・公爵の「女心の歌」を口ずさむ若者も多かった。観客も若者が多かった。こういうものが特別ではなく身近にある欧州の素晴らしさ。オペラは高尚な趣味じゃない。たぶん、昨日のオペラを観てもらったら、誰しもがオペラは楽しめるということを理解できるだろう。オペラはどこか手が届きにくい、そんなイメージを植え付けられている日本人はとても損していると思った。日本にもこれほどの歌劇場があれば違うと思うが、致し方ないか。書き出したら今日一日ホテルに篭りそうな勢いなので、今はここまで。そのゼンパーオーバーの美しき姿の内部写真も、私が帰国するまでのお預け。(笑)ドイツ時間 7:30 ドレスデンのホテル The Royal Inn にて
2013.03.29
切り取って くしゃくしゃになったガイドブックを手に、 ベルリンの街をうろうろする。やっぱり「地球の歩き方」が一番使いやすいかな。時々 間違いもあるのだが、「歩く」という視点からは、よく出来ていて有難い。カフェでのんびりした後、私は前日も行ったジャンダルメン広場へ向かった。ワッフルの美味しさと温かさにホッとして、ちょっと長居しすぎたかな。連日 石畳の上を歩き回って痛む足を引き摺りながら、だが出来るだけ歩を速めた。昨日、14時から広場中央にあるコンチェルトハウスでコンサートがあったのだ。ほぼ毎日 何かしらのコンサートが催されているが、その日は手頃なことに、たった5ユーロで楽しめる企画だった。最近、日本でも見かけるワンコインコンサートのようなものだろう。 そして、始まる前後には珈琲が振舞われる。名付けて、エスプレッソ・コンサートというらしい。それは月に2度ほど、市民も待ちに待ってるようだった。だが平日だし、さほど混まないだろうとたかを括っていた。30分前に会場到着。私はすぐさまチケット売り場へ降りて行った。だが、「残念、sold out だよ。」売り場のお兄さんも申し訳なさそうに、両手を持ち上げた。「立ち席でいいから、珈琲はいらないから。」私の後ろにいた老婦人も身を乗り出して頼んだ。この婦人も、きっと私のように前日か当日に会場に貼られたスケジュール表で知ったばかりなのだろう。同じように、がっかり肩を落とす人達がその後続いた。ダメなのかな、本当に無理なのかな。。。諦めの悪い私は、しつこく会場の周りをうろついていた。キャンセルでないかな。とことん諦めの悪いヤツは私だけだった。「チケットいる?」 ドイツ語だが、ある女性が私に声を掛けてきた。「え? 今日の?」 「そうよ。」 「欲しい!」 そう、諦めの悪いヤツが勝つ。(笑)おかげで私もコンサートを聴くことが出来た、一流の会場で、しかも5ユーロで。とはいっても200人弱のミニコンサート、会場は最上階の小ホールだったが、珍しいチューバのソロの演奏に幸せを感じた45分だった。言うまでもなく、時間がなく一気飲みしたエスプレッソも美味しかった。ドイツ時間 6:30 Hotel Amelie Berlin West にて写真は、コンツェルトハウスと同じ広場にあるフランス大聖堂。ここには、これと対になるドイツ大聖堂も建っている。追伸 * 3月3日に実技試験を受験した介護福祉士国家試験、無事に合格できました。たった今、確認出来ました。皆さま、励ましの言葉を沢山ありがとうございました。
2013.03.28
ベルリン観光で最も人気ある場所のひとつ、ペルガモン博物館へ行って来た。ここに復元されている「ゼウスの祭壇」と古代バビロニアの「イシュタール門」を、是非とも一度見たかったのだ。 それを知って8年、やっと念願叶ったことになる。確かそれは、「世界ふしぎ発見!」で紹介されたんだと思う。見た後すぐにガイドブックを買いに走った。巨大な博物館の場所が移動するわけはないし、いまさらベルリンの壁が増えるわけもない。だから私は、その2005年度版ガイドブックのまま、今もドイツを旅している。 若干、博物館などの料金がアップしているのは仕方ない。 時間の変動も多少はあるだろう。 そして私は、昨夕それを手にしてドイツ連邦議会議事堂を訪ねてみた。 料金は無料のまま、夜遅く22時までの入場も変更なかった。 ふむ、私は頷きながら議事堂を見上げた。そのテッペンに、高く掲げられた黒赤黄のドイツ国旗。 重厚で厳かな建物の上ではためく姿は無条件にカッコ良かった。東西統一後に改築され、新しくデザインされたガラス張りのドームは斬新的。これも新たなベルリンか。ふむ、では入ろうぞ。ガイドブックには、人気スポットなだけに入場には30分ほど待ち時間が必要とある。 だが、さほど列は長くない。寒さの中、待たずにすむのは有難い。何気なく列に加わると、周囲の人すべてが白い紙を手にしている。 うんん? それがなければ入れないとか?そう、、、入れないのであった。2年前からだそうだ、この議事堂に入るには、少なくとも3日前に予約が必要となっていた。最新情報を調べなかった自分が悪い。 満足そうに議事堂から降りて来る人々を、ただ恨めしく眺めていた。そして、今日のペルガモンでも変更はあった。 昨年9月末から、ギリシャとヘレニズム文化の展示場所が閉鎖中だった。それらは博物館の半分を占める。まぁ、お目当ての展示物が見れたのだから良しなのだが、正直ちょっとがっかりだ。 そして、がっかりしながら博物館前にあるカフェに入った。 がっかりしながら、そこで食べたワッフルが、これまで口にしたことのない美味しさだった。お分かりの通り。ペルガモン博物館の半分も、連邦議会議事堂だって、もうどうでもよくなっていた(笑)。ドイツ時間 12:40 博物館島前のカフェ・Wilhelm にて写真は、ドイツ連邦議会議事堂 外観。
2013.03.27
まだベッドでゴロリとしている。今日は曇り空か、窓から射し込む陽の光も弱い。外からは、そろそろ動き出した町の音が聞こえている。廊下を歩く、ギィギィと床が軋む音もする。ワルシャワのホテルが良過ぎたせいで、ベルリンで滞在している このホテルの居心地がイマイチだ。鍵はオートロックじゃないし、しかも固すぎて容易には開かない。バスタブがないのは仕方ないとして、ダブルベッドなのにシングル使用だからか布団も枕も一つしか置いてくれない。セルビアはベオグラードで泊まったホステルのように、ビルの1フロアを利用するタイプのホテルで、今にも壊れそうなエレベーターが一基あるのみ。それこそベオグラードでの事件を思い出し、乗らないようにしている。(笑)だから、大荷物でベルリンに着いた時は苦労した。ホテルは2階、疲れを引き摺っての階段は大変だけど、それくらい辛抱しなくちゃ。で、ふうふうスーツケースを2階まで運び上げてから気が付いた。ここ、日本じゃなかった、、、、欧州で2階ということは、日本でいう3階だ。。。エレベーターを使わなかったことを後悔しながら、もう一階を上りきった。このエレベーター、1階以外の階からは他のフロアに繋がらない。人間、贅沢にはすぐ慣れるから気を付けなきゃな。昔なら、こういうホテルだからこそ知れる その国らしさを楽しめたのに。いいホテルはどこもサービスがほぼ行き届いて、そこに物足りなさを感じたのに。今じゃ、文句ばかりだもんな。まだ贅沢すべき年じゃない、、、無職だし。(爆)ただし、今回は一人のまったり時間が欲しかったから、ホステル利用だけはやめている。ドイツ時間 7:00 Hotel Amelie Berlin West にて
2013.03.27
一日中、今日はベルリンの壁を巡っていた。壁の崩壊から23年を経た今、壁はある種の観光名所か、一応跡は残っているが、その上を普通に人も車も往来し、あの過去すら日常の雑多に流されてしまうか、そんな両極端な場所へと変わっていた。朝からずっと集中していたのだろう。午後に訪れたベルリンの壁博物館で、西へと逃亡を図る人々のドキュメンタリー映画を薄暗い中見ていた時、私はつい居眠りをしてしまった。手にしていた資料がバサッと床に落ち、目が覚めた。私も驚いたが、それ以上に隣に座っていた中国人の女の子の方がびっくりしたのだろう。彼女も「ハッ!」と声をたてた。そのドキュメンタリーは終盤、東に居たある家族とその知人達が気球を使って壁を越える。途中、追手もヘリコプターで出動したりと、ドキドキの展開がある。だが、そのクライマックスで寝てしまった。(苦笑)気が付けば、脱出を試みた人々は抱き合って成功を喜びあっていた。助かったのか、良かった 良かった。ホッとして、だが最も貴重な場面が分からず残念。ただ、こんな風に成功した例は極々僅かであったろうと、壁跡の傍に刻まれた、壁を越えようとして殺された人達の名前が刻まれたプレートと、壁の東側に並ぶ墓石の列を思い出し、その場をそっと立ち去った。さて、そのベルリンの壁博物館であるが、お土産に壁のかけらが入ったキーホルダーやら葉書などが売られている。そういえば、一時話題になったよなと思い出し、私も一つと手にとって、でもやめた。だって、ロシアに落ちた隕石の偽物のニュースが記憶に新しいんだもの。これだって実に怪しい、、、で、やめたのだ。写真は、ポツダム広場の壁跡ライン。ドイツ時間 23:10 Hotel Amelie Berlin West にて
2013.03.26
昨夜、ベルリンに到着した。ポーランドから出てきた私には、すでにベルリン中央駅がめっちゃくちゃ都会に思えた。車窓からの街は高層で、駅も煌びやかだ、、、いや、そう見えた。ま、香川から直接ベルリン入りしても同じことか。(苦笑)私が滞在するホテルは、中央駅から近距離列車Sバーンで7つ目の駅。途中、乗り換えが必要だ。ガイドブック片手に眉間に皺をよせ、眉毛なんて まさに八の字をして掲示板を見上げていた。ベルリンは初めてだ。「Can I help you?」振り返ると駅員さんだったが、丁寧に路線図をくれ、切符の買い方を教えてくれた。乗り換えのヴエストクロイツ駅でも、同じようにスマートな紳士が声を掛けてくれ、ホテル前を走るカイザーダム通りへの出方までiPhoneで詳しく説明してくれた。私、そんなに困ってたのかな?(笑)それにしても、やっぱりドイツだ!相性もあるのだろうが、ジェントルマンは多いし、車内を流れるドイツ語の響きは分からないながらも安心できる。夜、しかも大きなスーツケースを持つ慣れない旅人には有難かった。* * * そういうところ、ポーランドは少し不器用なのかな?英語で尋ねても普通にポーランド語で返ってくるし、駅の表示もほぼポーランド語だけで分かりにくい。日本の田舎に来て困ってる外国人の気持ちがよく理解できた。でも、逆にだからこそ面白くもある。 いくら英語が出来ない私でも、英語圏やドイツなどではこのスリルが半減する。(笑)そうそう、そんなポーランドらしい庶民の味「ピエロギ」だが、もしポズナンの町へ行くことがあれば、その旧市庁舎前にあるレストラン・Gospoda Pod Koziolkami で是非ともご賞味あれ。餃子の皮のような部分はもっちりと、挽肉の具も程よく味付けされている。添えられたカリカリのベーコンが その味を飽きさせず、ちょっと感動してしまったピエロギであった。ドイツ時間 6:40 Hotel Amelie Berlin West にて
2013.03.26
荷物は軽くコンパクトに。 なのに私は、4冊の文庫本を共にした。思いの外 読書が進んだ昨秋の旅。好きな小説を手に、その舞台が目の前に広がる贅沢を知った。歴史を感じるエレガントなカフェでおもむろに本を開く。 ふふふ、なんだか とてもお洒落じゃないか。 だが、、、今回は忙し過ぎて本が読めない。恨めしく、それらを見下ろす。邪魔だよ、君たち。。。だけど、このためにわざわざAmazonで注文したんだ。ケチな私は絶対に日本まで連れて帰るぞ。 だから、仕方なくお土産を少なめに。(笑)ポーランドでの戦利品は、手袋とマウスパッドの2つのみ。 マウスパッドはキュリー夫人博物館で、彼女の爪の垢代わりにと。(笑) そして手袋は、さすがに耐えきれないワルシャワの冷たさに負けてしまった。広場のマーケットで見つけたもの。 25zt、750円くらい。 実際は、淡いパープル。今 着ている若草色のコートとは合わないなと思ったが、それが私の思うポーランド色だった。(笑) ドイツ時間 22:40 ベルリンは Hotel Amelie Berlin West にて
2013.03.25
逆立ちしたってスマートな旅ができない負け惜しみなのだが、 毎度毎度無駄の多い旅を続けているな、と思う。だが、旅というもの自体が最高の無駄なのかも。 人生の前半(まだ、辛うじてそう思っている(笑))に、そういう無駄ができた贅沢への感謝を常に忘れないでいたいし、 自由に旅できる時代に生きられることの素晴らしさを忘れずにいたい。写真は、ワルシャワ旧市街と人魚像。ワルシャワ蜂起に失敗して壊滅させられた街並みを、市民は「ひびの一本にいたるまで」忠実に復元したんだそうだ。
2013.03.25
ポズナンで降りた理由がこれ。 今も「ポオ~~~!」と汽笛が鳴った。 汽車って、本当にシュッポシュッポと走るんだ。(笑) ポーランド鉄道では、ポズナンから一部の区間を現在でも蒸気機関車が走っている。 汽笛はもちろん、SLならではの振動も軋む音も石炭の臭さだって味わい深い。(笑) 車窓からはもくもくと煙る蒸気の帯が、そして積もった雪の上を蒸気の影が飛んでゆく。時折、それらが視界を遮ることも。長く続いた重い歴史を知るのもポーランドの旅ならば、何処までも続く真っ白な大平原をSLで突っ切る爽快さもポーランドならではだろう。ポーランド時間 9:40 ポズナンからウォルシュティンへ向かうSLにて ポズナンからウォルシュティンまでは、およそ2時間、80km。
2013.03.25
同じような写真が続くが、これがポーランドの冬景色。 ポーランドという意味が「平原」というのも納得できる。 ところで、先程 私が乗っていた車両の乗客全てが移動させられた。ポーランド語のみのアナウンスの後、どよめきが起こった。 ため息をつきながら無言で荷物を降ろす人々。 ちょっと声を掛けづらい。聞いたところで分かりもしないし、とりあえず走り出したから、まっいいか。 ポーランド時間 7:50
2013.03.25
ポーランド人もロシア人のように表情は堅いが、この冷たさでは顔が緩まないのも当然か。(笑) だが、此処でも親切な人との出会いがあった。怖そうな表情だから、優しくされると余計に嬉しい。(笑)ショパンの生家を訪ねた時のこと。 ソハチェフ駅で飛び乗ったバスは、アナウンスがあるわけでも、バスの中からバス停の表示が見えるわけでもなかった。ガイドブックには所要25分とあるが、それは目安にはなっても確実ではない。 ドライバーさんに着いたら教えてくれるようお願いし、一安心を得て少しうつらうつらした。 「あんた、ジェラゾヴァ・ヴォラへ行くんだろ? ここだよ。」ドライバーかと思ったら違った。不慣れそうな日本人、その行き先はショパンの生家しかないのだろう。乗客の三人が、指差しながら私を急かした。その時一緒に降りたおじさんは、私が迷わないようにと少し先で立ち止まっては手招きする。 一本道だから大丈夫だよ。私は笑った。彼が話すポーランド語を理解できることはなかったが、その温もりは3年前にロシアで出会ったベラルーシ人のバッセーリさんを思い出させた。 そういえば、バッセーリさんのロシア語もちんぷんかんぷんだったよな。それに、このおじさんもどこか不器用そう。全然かっこ良くもないし(笑)なのに、不思議な安心感だ。そして、握手して別れた時のはにかんだ笑顔までもがどこか似ていた。 写真は、その道すがら。ポーランド時間 7:00 ワルシャワからポズナンへ向かう列車にて車窓からの景色も真っ白。
2013.03.25
一昨日の夜は、何故か神経が高ぶって眠れなかった。だからかな、昨日は夕方に大統領館邸の傍にあるピエロギ(ポーランド風餃子)専門店でお腹いっぱい食べた後、早々と17時にホテルへ引き上げるやいなや、バタンキューだった。って、もうそんな言い方しないか?(笑)今、早朝のワルシャワ中央駅にいる。これからに西へ、ポーランドで最初に首都となった街を目指す。ポーランドに少し明るい人は、西じゃないでしょ、南でしょ?と思うだろう。だが実はポーランド、クラクフの前にも首都が置かれた場所がある。だから、そこはポーランド初期の君主達が眠る場所でもある。あ、お墓が目当てではないので、あしからず。もうワルシャワとお別れだと思うととても淋しい。やっと土地勘もでき、本当ならこれからがワルシャワとより深く関われるはずなのに、此処を経つ。一日目は市街地を隈なく歩き、その後に訪れた「ワルシャワ蜂起博物館」で、嫌という程ナチスドイツに爆破され続けた場面を見た。そして昨日は旧王宮で、第二次世界大戦後に街を復元するにあたり参考にされた絵画の数々を見た。そして、再び市街地を歩く。どれほど苦しい道のりであったか、そしてそれでも立ち上がり続けてきたポーランド人、ワルシャワ市民になぜか感謝の気持ちが湧き起こった。僅かな時間であったが、ここにこれて、此処に出会えて良かったと、素直に思う。ポーランド時間 5:35 ワルシャワ中央駅にてたった今、若い兄ちゃんが隣に座って、いきなり「ポーランド語喋れる?」って聞いてきた。No!と一言返事をすると、「じゃぁ、バイバイ」って去って行った。近くのおじさんにも「ハロー」と声を掛け、手を振っていた。朝っぱらから酔ってもないのに元気で変な若者だ。(笑)
2013.03.25
ワルシャワから西へ50km、私は今 ショパンが生まれた地、ジェラゾヴァ・ヴォラにいる。 確かに彼のピアノ曲は親しみやすいが、だからといって ワルシャワからはるばる列車とバスを乗り継いでまで生家を訪ねるほど好きだったかといえば、これまでは そうじゃなかった。だが、ポーランドの地で彼の曲を耳にする度、その魔術の虜になっていった。 生家がある公園は、当時 ショパンの母の遠縁にあたるスカルベク伯爵家の広大な敷地だった。今朝ワルシャワを出た時は重く雲がのし掛っていた空も、ここに着いた頃からショパンの優しい微笑みのような柔らかい陽射しが射し込んできた。 大人しく、自然の中ショパンの調べが流れていく。不思議だ。昨日ショックを受けた「革命のエチュード」も、ここでは また違って聴こえる。そして これからは、彼の音楽を聴く度に、きっと私はこの眩しい真っ白な雪景色と、そこに残された動物達の可愛い足跡、近くを流れる小川のせせらぎを思い出すだろう。ポーランド時間 11:00 ショパンの生まれ故郷にて
2013.03.24
ワルシャワに着いてから、ひとつ気になることがある。 君、カラス?、、、だよね? この子だけじゃない、ワルシャワで見かける烏はどの子もツートーンカラー。 ふふふ、なかなかお洒落じゃない?(笑) これまで気にしたことはなかったが、海外では意外といるようだ。烏は真っ黒、というのは思い込みだったんだ。 ポーランド時間 8:00 ワルシャワ中央駅にて
2013.03.24
ノーベル賞といえば、昨今の日本人なら一番に山中教授が浮かぶだろうか? ここワルシャワは、そんなノーベル賞に最も縁の深い人物と関わりがある。 マリア・スクオドフスカ・キュリー、日本人にも有名なキュリー夫人だ。彼女は1867年、ワルシャワは新市街の一角で生まれた。ポロニウムとラジウムの発見に、金属ラジウムの分離などと言われても、お馬鹿な私はピンとこないが、 彼女は それらの業績で2つのノーベル賞を受賞している。 一度目が36歳の時。夫ピエールとヘンリー・ベグレルという人物と共にノーベル物理学賞を。 それから8年後、今度は一人でノーベル化学賞。 自分と比べることもないが、私の年齢時にはすでにノーベル賞を受賞しており、しかも2つ目となる研究に勤しんでいた。 ま、キュリー夫人を胡瓜夫人と呼び間違えるようじゃ、話にならないね。(苦笑) ちなみに、彼女の娘夫婦もノーベル化学賞を受賞し、下の娘の旦那もノーベル平和賞。(-_-)現在博物館になっている彼女の生家には、そんな特異な人達の写真でいっぱいであった。キュリー夫人のご両親、兄弟姉妹の写真もある。 誰ひとり私のように抜けた顔の者はない。 ふむ、遺伝か、、。 ならば、わが家の負の連鎖は私のせいではないな。(笑) いや、どちらの出発点もアダムとイヴ? ん??? ポーランド時間 3:30 シェラトンホテル345号室のベッドにて
2013.03.24
生まれて初めてダイヤモンドダストを見た。冷たい中、頑張った私へのご褒美だと思った。今日は12時間近く外にいた。歩いた距離は12~3km。 だが、慣れない石畳と雪と氷に私の足裏は悲鳴をあげていた。小一時間くらい掛かるな。かつてショパンのお気に入りだったカフェ、その跡地にあるカフェ・Telimenaで珈琲を飲みながら、次に向かう「ワルシャワ蜂起博物館」への道順を確認していた。すでに足に疲れを感じていた私だが、バスやタクシーは利用したくなかった。ワルシャワを知るには、この冷たさの中を歩くことからだと思った。ウォークマンを出し、この旅の為に用意したショパンのピアノ曲を聴く。聴きながら、足の痛みを紛らわそうと思った。ショパンの曲で、ワルシャワを感じたいとも思った。限界か、足裏の痛みにもう一歩も踏み出せなくなりそうな時、曲は「革命のエチュード」に変わった。瞬間、電流が身体を駆け巡った。目頭がギュッとなる。訳もなく哀しくなったが、逆に力も湧いてきた。この曲がこんなに熱いものだったとは、頭と心ではなく身体が感じた。ワルシャワだ! ポーランドだ!祖国を思うショパンの気持ちが、一瞬私に乗り移ったようだった。こんな足の痛み、祖国を奪われたショパンの痛みに比べたらなんてことない。私の足は、それから5kmを乗り越えた。写真は、聖十字架教会の石柱。この場所に、ショパンの心臓が納められている。ポーランド時間 22:00 シェラトンホテルにて
2013.03.23
「Chopin~」 今朝から何度 その名を呼んだかしれない。今日はショパン縁の場所を巡っている。彼はワルシャワ郊外で生まれ、ここワルシャワで育った。 街の至る処に彼の足跡があり、息づかいが残る。 それら思い出の地の殆どは地図さえあれば容易に見つけられるのだが、困ったことに 時々迷子になるのが この私。(苦笑)そのひとつ、「ショパン家のサロン」と名付けられた彼のポーランド最後の家は、現在美術アカデミーの一角となっており、私はやはりそこで迷った。 仕方なく近くの人に尋ねてみたが、年配の方に英語は殆ど伝わらない。なので簡単に、「Chopin~」と恋人を呼ぶように繰り返していた。(笑) 彼の名前だけで十分なのだ。写真は、旧市街の通りに置かれた「ショパンのベンチ」。なんと、彼の音楽も流れる。だが恋人よ、この冷たさの中で ここに座ると、お尻の先から百年の恋も冷めそうだ。(苦笑)ポーランド時間 13:30その愛しの恋人が生前通ったという、ポーランド料理レストラン・Honoratkaにて ショパンが食べていたというメニューを頼んでみたら、前菜とスープだけでお腹がいっぱい。山盛りのメインディッシュを前に途方に暮れている。。。
2013.03.23
この冬、私が体験したことのない冷たさの中にいる。 耳なし芳一もびっくり!picchukoになりそうなので、顔にスカーフを巻き、帽子を被り、その上からパーカーを被っている。(笑) あぁ、耳当てもいるんだった。 さて、ワルシャワのフレデリック・ショパン空港から市内へ入る時、『地球の歩き方』には市バス175番かタクシーに乗ればいいと書いてあった。 だが、オススメは鉄道だ。 道行く人に尋ねても、そう答えていた。 キオスクで切符を買う。 4.4ズオティ、140円くらいだろうか? 空港駅には2つのホーム。 駅員さんに「中央駅へ行きたい」と言えば、難解なポーランド語が読めなくとも親切に教えてくれる。それも、嬉しくなる笑顔つきで。中央駅は空港から大体7つ目。 小さな駅ではポーランド語のみのアナウンスだが、西駅や中央駅などメインステーションでは英語でも放送してくれるから大丈夫。 不安なら、近くの美女に「着いたら教えてね」と一言頼んでおけば完璧だ。(笑) ポーランド時間 8:30 ワルシャワは、バラジャムが入ったイーストドーナツが人気のカフェ・A. Blikleにて
2013.03.23
未だに言われる。昨年9月にスロベニアはリュブリャナで泊まったホステルのことを。。。そう、「picchukoは誰とでも寝れる」疑惑だ。(笑)関空にいる私に元同僚のK西さんからメールが届いた。今度は誰とでも寝ないから?安心しました。マジあれを聞いた時は…付き合い方考えないとと思ってました。(笑)彼女に変な心配をかけてはと、「今回はホテル予約してます」と予め知らせた返事がこれだとは。(苦笑)ま、どちらにせよ、とにかく今日から三夜はこんなホテルに泊まっている。どう?(笑)ここワルシャワのシェラトンホテルは、最高級ホテルなのに信じられないほどお得だった。立地もいい。明日は歩いて市内を観光しようと思う。道端に盛り上げられた汚れた雪が、一層冷たさを感じさせる。手袋を買おうかどうか迷ったり、ポーターさんが被っていて思い出した、モスクワで買った毛皮の帽子がめちゃくちゃ恋しい。それくらい寒くて寒くて凍えそうだ。>_
2013.03.22
飛行機から見下ろす景色は、白く凍ったバルト海と黒い森ばかりだった。氷点下8℃と機内アナウンスは伝えていたが、思うほどは寒くない。頬を霞む冷たい空気と吐く息の白さは、逆に気持ちいいくらいだ。この冬は雪を見ることなく終わると思ったが、これからが彼(?)との付き合いになりそうだ。だが、ここではトランジットのみ。後1時間で経つ。これから向かうのは、その街の名を耳にするだけで胸がきゅんとなるところ。(笑)名前の響きにすら哀愁がある。白いハイネックのセーターを着て、ガスストーブの前で分厚い本でも読むのが似合いそうだ。どこからか微かにピアノ奏でるポロネーズは、私の読書の邪魔にならない。曇ったガラス窓の外には雪化粧した重厚な街並みに、石畳を踏みしめる滲む靴音。そんなイメージを持つ街だ。フィンランド時間 15:55 ヘルシンキ空港にて
2013.03.22
明石大橋を渡る時は、いつも私はハンドルを握っている。 だが今日は運転手付き。(笑)しかも、運良く大型バスの最前列だ。お、これで写真が撮れる!この橋をくぐると、何故か「魅せられて」を歌うジュディ・オングさんの衣裳を思い出すのは私だけか?(笑) 明石大橋は中から見上げる姿が一番素晴らしい、と私は思う。この喜び、分かってもらえるだろうか?(笑) 私は今、全ての手続きを終えて、関西空港の北ウィング・12番ゲートで搭乗を待っている。 さて、今後は世界地図を片手に私を探して頂きたい。 極々平均的な観光地を巡るだけだが、picchukoを探しながら自分も旅している気分を味わってもらえると幸いだ。日本時間 10:30 関西国際空港にて
2013.03.22
今朝(?)は2時から掃除の仕上げ。 海外へ出向く時は、部屋の床に髪の毛一本落ちていても、本が一冊傾いていても許せない私だ。(笑) ま、それは大袈裟だが、常日頃は大雑把でも こういう時だけ超几帳面なA型になる。さて、そうやって張り切って早起きをし、先程 バスターミナルまでやって来た。関空行きのバスは4時15分発なのに、30分以上も早くターミナル到着。(苦笑) 真っ暗で誰もいない。そして、寒い。。。 で、気がついた。 私ったら、手袋忘れてるわ。(涙)
2013.03.22
今年の桜は諦めていた。私はもうじき旅に出る。たぶん、桜は私と行き違いで終わるだろう。だが、例年より一週間早い開花宣言に、期待半分諦め半分で高知まで車を走らせた。昨年も思ったが、四国山地のトンネルを抜けると陽射しの強さが一変する。高知の冬は、私の住む瀬戸内沿岸より風が強く 寒さ厳しい時もある。だが、この時期だけは完全に、一足早い本格的な春が高知を包む。そして気温だけでない、この陽射しのキツさに南国土佐を感じる。 天気は晴れ。もしも桜が咲いていたら、きっと青空の下に薄桃色が映えるだろう。いや、咲いているのは間違いない。 朝のニュースでも3分咲きだと言ってたもの。そして、やって来たのが土佐国分寺。こちらも昨年同様、境内に咲く垂れ桜を愛でに来た。ふふふ。 咲いていた!まこと見事に咲いているではないか! まさに見頃。梅は梅で初春の喜びを感じたが、この桜の淡さと軽さと優しさに、これまで着こんでいたコートを脱ぎ去ったような開放感。心持ち、肩が軽くなる。さあ、今年も私に桜が咲いた!* 明日 日本を発ち、僅かな期間 旅に出ます。 家を出るのは午前3時半。(笑) 渡航先からもブログをアップする予定です。 しばらく皆さまからのコメントへの返事ができないと思いますので、一旦 コメント欄を閉じさせていただきます。 これからも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。 皆さまも、素晴らしい日本の春を満喫してくださいませ。
2013.03.21
うちの母が詐欺に遭った。といっても、私が途中で気付いたので被害に遭うことはなかったが。以下、母から聞いた話。3日前の夕方のことだ。 電話が鳴る。「突然、申し訳ございません。日立新生ゴールドの木村と申しますが、そちらに、黄色い封筒は届いてませんか?」母 : 「届いてませんけど。」木村 : 「もし届いたら、その封筒を捨てずに置いていてくださいませんか。 その中身が大切で、色んなお宅にお願いしているんです。 そして届いたら、今から言う番号に電話してくれませんか? 06-6210-6211です。」母 : 「分かりました。」そして、昨日。 封筒が届く。母は木村という人物に電話せず、そのまま放っておいたと言う。そして、夜。木村 : 「先日 お願いした封筒ですが、もう届きましたか?」母 : 「ああ、届いてますけど。」木村 : 「ちょっと中を見てもらえますか? その中にある申込用紙が当方に必要なので、明日の午前中に顧問弁護士を連れて貰いに伺っても宜しいでしょうか?」母 : 「別にかまいませんけど。」木村 : 「それと、もう一つお願いがあって、どうしても、今日中にその申込予約が必要なので、先に電話予約だけして戴きたいのですが。」母は愚かにも木村という人物の言う通り、その封筒の送り主、金鉱山投資ファンドの会社に電話をし、予約する。しかも、自分の名前で。電話番号は、03-5962-9951。電話の相手は、新生ゴールド株式会社の山下という人物。山下 : 「それでは、このご予約は日にちが経つとキャンセルできなくなるので、ご注意ください。」そして、今朝だ。 日立の木村から電話があった。木村 : 「今日 お伺いに参る予定だったのですが、顧問弁護士が脳梗塞で倒れてしまって、すぐに伺うことができなくなりました。」母 : 「では、もうこの話はなかったことにしませんか?」木村 : 「いやいや、それでは当方も困ります。 そう仰らずに。」母 : 「いいえ、もうやめにしましょう。 私も昨晩から気になって嫌ですし。」ここで、その木村からの電話で変に動揺している母に、私が気付いた。電話を切った後、「何の話?」と聞いてみた。だが、母は言葉を濁して話そうとしない。しかし、私がキツイ口調で問い詰めると、黄色い封筒を持って来た。それだけなら、ふ~んと流して終わったかもしれないが、何故かその封筒の宛名の部分と消印が押された切手部分が切り取られていた。それは、どうやら何かあった時の為に証拠を残そうと切り取ったらしいが。私 : 「なんで、ここを切ったの?」母の返事からは、その場だけ言い逃れればいいという感じが見えた。私は再び問いただす。それでも、母は言葉を濁す。そして、母は席を立ち、別の部屋から電話をかけ始めた。私はもう一つの電話で、内容を盗聴することにした。山下 : 「ですから、先日お話したように、これはキャンセルできないんですよ。 今日中に800万円入金していただかないと、請求書を送らせてもらいますよ。」母 : 「では、その話は日立の木村さんとしてください。 私はお金持ってませんし。」山下 : 「それなら、木村さんにそう言って戴けますか?」胡散臭い、私は思った。母は木村に電話する。木村 : 「そう言われても、顧問弁護士さんの印鑑がないとお金下ろせないんですよ。 せめて、18日の月曜日にしてもらえませんかね。」母 : 「じゃあ、直接 木村さんから山下さんに電話してもらえませんか?」木村 : 「それをしたら、僕が会社を首になります。 電話の取り次ぎだけでもしてくださいよ。」母 : 「そう言われても困ります。 じゃあ、木村さん個人からということで電話してくださいよ。」木村 : しぶしぶ、、、「分かりました。 では、とりあえず、僕の携帯から掛けますけど、待てないと言われたらどうしたらいいですか?」母 : 「そんなこと言われても、こちらが善意でしたことがこうなるんですから、木村さんがなんとかしてください。」一旦、木村との電話を切る。5分後、山下からの電話。山下 : 「木村さんに支払うよう電話されたそうですね。 ですが、予約したのは あなたのお名前ですよね。 そして、言いましたよね、キャンセルはできませんと!それに、予約の電話は全て録音してますよ。」動揺しきっていた母は、必死で言いわけを始めた。山下 : 「色んなこと仰ってますけど、一言も「迷惑をおかけして、すみませんでした」という言葉がないですよね。」母 : 「「すみません」と言えばいいのなら、言いますよ。」ここで、今だ!と思った。 それまで黙って聞いていた私が、二人の話に分け入った。 私 : 「謝る必要はない! これは、詐欺だ!!! 間違いない、詐欺だ!」山下 : 「詐欺じゃないです。 あなた、誰です?」私 : 「名乗る必要はない。 詐欺だ!」その時、クリスが鳴いた。山下 : 「後ろで鳴いてるのは犬ですか?」私 : 「関係ない! 詐欺だ!」山下 : 「犬が鳴いてるんですか?」母 : 「鳴いてません。」山下 : 「じゃぁ、あの鳴き声は何ですか?」ここで、電話を切った。その後、消費者センターと警察に連絡。まあ、予約したといっても契約をかわしたわけではないし、申込用紙に記入したわけでもない。こちらの口座番号を知られているわけでもないので、消費者センターも警察からも、以後 その電話を無視するようにと言われた。「ひと月前にも同じ内容の被害があったのですよ」と、警察の方。「もしも家まで押し掛けてきた場合は、110番通報してください。」後で私が調べると、新生ゴールド株式会社という名の会社は、パンフレットに記載されてる住所「東京都港区虎ノ門5-13-1 虎ノ門MTビル 7F」には存在しないし、日立新生ゴールドという会社も、改めて非通知で電話すると、「日立メディカルです」と出て来た。そして鎌をかけてみると、「うちは法人担当だ」とも言っていた。「個人宅に電話することはないですね」と言う私の問いかけにも、はっきり「ない」と答えた。正直、「詐欺だ!」と電話口で叫んだ時、少しだけ不安もあった。だが、その時 鳴いたクリスのおかげで、はっきり詐欺だと断定できた。真面目な取引なら、「詐欺だ!」と叫ばれても、後ろで犬が鳴こうが無視するだろう。いきなり「詐欺だ!」と叫ばれて、相手も一瞬動揺を隠せなかったに違いない。ま、こんな詐欺まがい、ひっかかるのは うちの母くらいなもんだろうが、こうやって、年寄りは騙されるのだ。ちなみに、母は満79歳になったところ。数時間後、山下と名乗る男から再び電話があった。「キャンセルできましたからね~。 木村さんが支払ってくれましたからね~。」圧力ある無言の私に、小さな声でそう繰り返した。耳元で、しかも大声で「詐欺だ!」と叫ばれたのがキツかったのか、、、 情けない男だ!恥を知れ!と思った。ちなみに、新生ゴールドのパンフレットの最後には、こう書かれている。「弊社は利益分配として世界の復興支援活動に参加しています。」まさに、へそで茶を沸かすとは、こういうことだ!とにかく、今日のお手柄は、なんといっても わが愛犬・クリス。おかげで、強気で「詐欺だ!!!!!」と連呼できたもの。騒動の後、ぼそっと母。 「picchukoが一番怖かった。。。」
2013.03.15
香川県下の梅の名所といえば、一番は滝宮(たきのみや)天満宮であろうか。天満宮という名からも分かるように、祭神は菅原道真公である。そこはかつて讃岐国国司の官舎が存在した場所といわれ、道真公も光孝天皇の御代である886年に讃岐守として赴任してきた。道真公、42歳の春であった。滝宮天満宮の拝殿の前にある2本の梅は、太宰府天満宮より寄与された「飛び梅」であるとか。そして、境内には250本の梅の花が香る、まさに梅の名所である。その滝宮天満宮に、私は今年こそ梅を愛でに参ろうと思っていた。だが 何となく面倒で、気が付けば見頃を逃してしまった。そんな時、朝のニュースで「まんのう町の枝垂れ梅」が紹介された。92歳と言っていただろうか、家主の松本さんが35年間 丹精込めて育ててきた垂れ梅。松本さんのご厚意で、一般にも開放されている。私も早速、出掛けてみた。花の盛りには少し遅かったようだが、それでも「お見事!」としか言いようもない姿を見せてくれた。ここにも、春。近所の公園に咲く河津桜は、すでに葉が伸びて来た。
2013.03.12
遅まきながら、お雛様を見に行って来た。最近は私の住む田舎町の、アーケードさえ取り払った商店街でも、店先にお雛様を並べているのを見かけるが、昨日、ちょっくら瀬戸大橋を渡って、岡山は倉敷にある、江戸時代の塩田王のお屋敷までお邪魔した。以前から、そのお雛様を見たいと言っていた前職場の先輩方とともに。それは、倉敷といえども有名な美観地区からは車で40分、瀬戸内海に面した児島という場所にある。以前にもこのブログで紹介したが、国指定重要文化財・野崎武左衛門の旧宅だ。その界隈では、まだ町中にお雛様が展示してあり、野崎家別邸においては百畳敷の大広間で「おひな同窓会」なんぞも催されていた。過去に徳島の勝浦町へ「ビッグひなまつり」なる、3万体もの雛人形を見に行ったこともあるが、この度は数よりも、由緒あるお雛様の数々とその丁寧な飾り方に、一つ一つの人形に対する敬いの念というものも感じられ、結構感動させられた。そして、雛人形にも「格」というものがあるのだということを、つくづく感じた。それは、その家の格でもある。人形の価値そのものが、これほど高価で立派なものに出会ったことも少ないのだが、古さとお金だけでは出しえない「格」の高い人形を見たのは初めてかもしれない。「格」といえば、昔 好きだった漫画に、こんなことを書いてあったなって、思い出した。「父親(男性)は家庭の格を高めるために働き、母親(女性)はその格を守るためにつとめる」昔の旧家の在り方は、きっとそうであったろう。見ていて、背筋がピンとなるお雛様ばかりであった。こちらは、「享保雛」といって、明治5年に野崎家が池田家より拝領したもの。その池田家とは、ご存知、備前国岡山藩主を指し、今上天皇の姉君にあたる池田厚子さまの嫁ぎ先の家系である。以上、全て江戸時代のお雛様。また、この野崎邸には「明治天皇雛」という軍服姿の珍しいお内裏様もあったようだが、あまりにも見事な雛人形の数々に見落としてしまった。。。代わりにといってはなんだが、愛子さま(敬宮 愛子内親王)のお顔に似たお雛様を偶然見つけた時は嬉しかったりなんかして。(笑)そして、品の良いお雛様は、いつになく素敵な春を運んできそうだ。
2013.03.10
問題が配られた時、「おぉ?簡単かも?」と思った。でも、緊張はした。その反面、心のどこかでワクワクしている自分もいた。で、本題。試験課題は、坂田トシさん(85歳)は、右上下肢に麻痺があります。歩行器型杖で自室に戻る途中、右膝に痛みを感じたので、歩いて自室に戻るのは「不安だ」と言っています。坂田さんが歩行器型杖から車いすに移乗し、自室のいすに座るまでの介助をしてください。車いすの点検は済んでいます。坂田さんの返事は「はい」または、うなずくだけです。(試験時間は5分間以内です。)要は、杖を持って立っている坂田さんを車いすに乗せて、部屋まで介助し、自室の椅子に座らせればいいだけのことで、ベッドから起き上がらせたり、ポータブルトイレに座らせたり、視覚障害の方を誘導して食事介助したり、、、というような面倒なこともなく、危険を伴うことの少ない、ボーナス試験だったと思っている。だから、私はまず「おぉ?いけるかも?」と思ったわけだ。たぶん、多くの受験生がそう思ったと思う。そして、試験会場で。狭い部屋の真ん中に、反対側を向いてドンッと立つ坂田さん演じるモデルの、なんとも言えないオーラに一瞬、ごくりとした。そして その直後、これも たぶん 受験生の殆どが思ったこと。何これ? 見たこともない杖!何これ? 邪魔な杖!いや、見たことも 扱ったこともあるはずの杖なのだが、実はその歩行器型の杖がクセものだった。ウォーカーケインという杖で、これを使って実技練習をした人は、たぶん殆どいないだろう。まさか、その杖から車いすに移乗せよ、とは。いやというほど練習したベッドからの移乗の方がどれほど有難かったことか。(><)とりあえず、これまで習ってきたように、丁寧な声かけを忘れず、右麻痺を庇い、麻痺のない左側の両手足を使ってもらう自立支援をし、自室の椅子移乗までの介助は終わらせたけれど、最後の安全確認と挨拶までの時間が若干不足してしまった。まあ、時間切れでも、椅子まで介助しているので、そこまでの介助が丁寧で問題がなければ合格になるはずなのだが、要はそこまでが大事。杖から車いすへの移乗のやり方にも不安が残るし、細かい部分を含めると、どうしても「できました!」とは言えない。う~ん、微妙。。。救いといえば、私と同じような受験生が大勢いたということだけだ。(苦笑)精いっぱいやっての結果がこれというのも悲しいが、ダメなら基本からやり直せということだと真摯に受け止め、もう一度挑戦しようと思う。そして、もしも合格していたら、例え介護の現場で働かなくとも、今後も介護技術の向上に努力しようと心に誓った。いやあ、それにしても、待機する時間の独特の緊張感。どこかワクワクする余裕も少しはあったが、口の中はカラッカラであった。「坂田さん、こんにちは。 お世話させていただくpicchukoです。 宜しくお願いしますね。今、右膝が痛むようですね。 それでは、私が車いすでお部屋まで介助致しますが、宜しいでしょうか?」「しっかり立てれていますか? 車いすを取りに少しこの場を離れますが、大丈夫でしょうか?」カラカラの口で、そして緊張の中、思う以上にスラスラと声かけできた自分を、唯一 褒めてあげたいと思う。(笑)合否の発表は、3月28日☆
2013.03.03
といっても、試験がボロボロだったわけではない。(苦笑)だって、試験は明日だもの。だが、その緊張と、訳の分からない疲労感でボロボロになっている。ああ、とうとう明日だ。 介護福祉士国家試験の実技試験☆わずか5分、されど5分。ああ、思うだけで、またドキドキ緊張してきた。参加している実技講習で、先日から過去問を毎日2つづつやっている。もちろん、最初の挨拶から始まって、5分間という時間も計っている。「受験番号333番、picchukoです。 宜しくお願いします。」「では、始めて下さい。」ここで、頭は真っ白になる。 頭の中、ピーってなる。(笑)*火曜日、初めて過去問をやってみた日、グループ分けの後、先生が「誰から始めますか?」と言った。すでにこの時点で舞いあがっていた私は、「間違えてもいいですよね、私がやります!」などと、超無謀な挑戦に挑んでしまった。(><)というのも、誰かがやった後だと どういう手順ですればいいか、どこが注意点かを相手の動作を見ながら、少し冷静になって考えられるのだが、最初にやるということは、その全てを自分の中でしっかり組み立てていないといけない。ま、本番の試験では、みんな平等にスタートするのだから、練習で最初に行うということは、いきなり試験会場と同じ条件に挑戦するということだ。どれくらいの緊張か、試してみたかったのが本心だが、ホント、何からすればいいのか、パニック状態もいいところ。頭では、まずベッドに側臥位で寝ている右側片麻痺の人を起こして、端座位にすればいいというのは分かっている。そのためには、まずベッドから両足を降ろせばいいことも分かっている。いや、分かっているはず。。。なのにだ。 身体が動かない。 いや、頭からしてカチンカチンに固まっていた。(苦笑)その上、起こした時点で、麻痺側の手がどちらなのか、つまり右と左が分からなくなってしまった。(爆)極度の緊張とは、パニックとは、こういうことなのだ。日頃、何気なくしていることが、全くもって分からなくなる。(笑)すでに泣きそうだった。それでも、最初に挑戦するという度胸が功を成したか、2度目の問題からは少し落ち着きを取り戻してきた。しかし、毎回のように、新しい失敗を生みだしてしまう私は、ある意味、天才か?(爆)何故か、突然いつもと違うことをしてしまう。まだまだパニックっている証拠☆まあ、そのおかげで、そういう失敗も起こりうるということを、練習の時点で知れたことは有難いのかもしれない。失敗は多い方がいいと、先生も言う。・・・が、それも練習だからこそ。本番で、いったい私はどんな伝説を生むのだろうか、、、不安がいっぱいでボロボロである。「いい? 試験が始まる前に、手のひらに合格の『合』という字を書いて飲みこむのよ!」「ふえ~ん、先生~。(><)」 完全に小学生である。(笑)参加している講習では、他の受験生(10名)も先生方もみんないい人ばかりで、もうすぐお別れというのが寂しいくらい。だが、合格さえすれば、介護福祉士会に登録もできるし、また会えることもできる。いい出会いに感謝しながら、今日 最後の講習に出掛ける。合格の自信は全くのゼロ!だが、ゼロは無限大でもあるはずだ。今は、その可能性にかけるのみ。(><)
2013.03.02
今朝、面白い診断メーカーを教えてもらった。― 貴方が周りにどう思われてるか診断します ―どうやら診断結果は日替わりするらしいが、試しに今日の「picchuko」でやってみた。 結果、「picchukoは周りに、大統領と思われてる。」* * * さて、2006年暮れに私はスイス中央部にあるLuzern(ルツェルン)を旅して来た。その時の想い出は、過去にブログでも綴ったことがあるので 改めないが、澄んだ湖と雪を被った山々は息を呑む美しさだった。本当は、その年末年始の休みで英国へ行くつもりだった。ロンドンまでの飛行機も、ホテルの手配も済ませていた。毎朝 紅茶を飲みながら、英国やアイルランドの音楽を聴いて気分も高めていた。だが、その年のクリスマスから年始にかけて、IL DIVOも休暇に入るという情報を得る。もしかしたら、メンバーの一人であるUrsは 久しぶりに実家のあるスイスに帰るかもしれない、、、そんな気がしてきた。ご存知、IL DIVOは多国籍4人組のヴォーカル・グループである。その中のスイス人テナー・Ursにとりわけ熱を入れていた。IL DIVOの活動拠点はロンドンだが、人混みの都会よりもスイスの方が偶然に出会う確率は高いはず、そう思い立った。スイスへ行こう! 思った時には、すでに手元のチケットは関空~チューリッヒ間になっていた。(笑)でも今思えば、Ursに関係なく、昔からスイスへ行きたかったのだ。子供の頃に好きだったアニメ「私のアンネット」の舞台もスイスであったし、小学時代に使っていた算数の参考書「学習自在」、その見開きのページにあったアルプスの山々の写真に、私はずっと憧れていた。Ursはきっかけを作ってくれたにすぎない。(2006.12.31)スイスの国民食とも言われるジャガイモ料理のレシュティ(Rösti)だが、2つの目玉焼きを乗せるとウルトラマンに変身する。(笑)あ、当然と言えば当然であるが、スイスでUrsとご対面~は夢のまま。。。(悔)
2013.02.24
「picchuちゃんなら、ここへお母さんでも連れてきてあげたらいいと思って。」一週間前も前職場の方達とフレンチコースを食べに行ったばかりだが、今日も先輩方から声を掛けて戴いた。中には半年ぶりにゆっくりお会いできた方もいて、楽しくてあっという間の時間だった。そして、先輩達の細やかな心配りも嬉しかった。行き先は、四国霊場八十七番札所・長尾寺。その本坊膳所において、月に八日程度、美しい庭園を眺めながら菜懐石や点心を楽しむことができる。運ばれてくる料理はどれも身体に優しいものばかり。だから、私の母にもどうかしら?と思い出してくれたのだ。「良かったら、今度、連れて来てあげたら。^^」美味であり上品ながらもメリハリのある丁寧な味付けに、ホント、ここなら母も喜ぶだろう。舌鼓を打ちながら、私もそう思った。(写真はすべて、クリックで大きくなる)― 八寸 ―― 温物 ―― 油物 ―― 蕎麦 ―― 御飯 ―先日もみんなで頷いたのだが、職場において気心が知れ、一緒にいて落ち着ける相手というのは、不思議と自分が就職したての頃からお付き合いのある先輩方が多い。後輩の中にも気が置けない人はもちろんいるが、新米当時 厳しく優しく指導してくれた先輩方に対しては安心感もある。職場を離れても、自分を知ってくれた上で 今も受けとめてくれる相手がいるというのは、本当に有難いものだと、この団欒のひとときも そう思った。― 甘物 ―2時間掛けてゆっくり戴いたので、お腹がいっぱいというより、お腹の底から温まったという感じ。女4人、ぺちゃくちゃ他愛ない話に時間の経過を感じなかった。そうそう、食事を戴いた本坊膳所も趣きある佇まいだった。 庭には、梅にマンサク、胡蝶佗助、土佐ミズキ、、先輩から花の名前も教えてもらったが、私が覚えられたのはこれくらい。(笑)そして、ブログにアップしようとして気がついた。食べ物の写真しかない!お寺ならではの落ち着きや風情を感じられる本坊、いや草花一枚 写していない。(笑)次回、母を連れて来た時にでも、改めてご紹介できればと思っている。旬菜とお椀の写真はもともと撮らなかった。とろとろ写真を撮ってるうちに冷めてしまっては勿体ないと、すぐに口へと運んでしまったのだ。(笑)あ、「働かざる者食うべからず」には、耳栓っ☆(爆)
2013.02.21
「明日、太ももが筋肉痛になってると思うよ。」昨日、介護福祉士国家試験の実技試験に向けての講習がスタートした。それは、県の介護福祉士会が主催するもので、2時間(PM7時~9時)を10回、私の家から車で30~40分離れた老人ホームで行われている。定員20名に対し、昨日の参加者はたったの4名。講師も4名ということで、つきっきりの指導だった。初日ということもあり、まずは基礎の基礎、シーツのたたみ方、敷き方、外し方から徹底的に練習。シーツ交換なんて~って思われがちだが、意外と基礎ってできていないのだ。しかも、ベッドに人が寝たままの状態でシーツ交換するなんて、きれいさっぱり忘れていた。まして、私は12年以上も現場を離れているので、全てに戸惑うやら緊張するやら。しかし、他の3名の参加者も、緊張のあまり手が動いていなかったので安心した。(笑)というのも、介護の仕事に携わっていても、施設で働くのか在宅なのかで全く異なる。施設であっても、介護度の重い利用者を相手にするのと、見守りが主の比較的元気な利用者を相手にするのとでも大きく違う。現場は12年前といっても、最初の4ヶ月を特養(特別養護老人ホーム)、後の5年を重度者の多いデイサービスセンターで働かせてもらっていた私は、現在 訪問介護や介護支援専門員をしているという他の3名よりも、実際にやったシーツ交換、おしめ交換、着脱、車いす介助等々の回数ははるかに多い。これは、すごく恵まれていたのだと改めて気付く。様々なベテランの先輩方を常に観察できるのも、施設の良さだ。だが、そこには少し落とし穴もある。諸先輩方の介護を見よう見真似で覚えたこと、それが必ずしも正しいわけではないということ。あ、間違ってるという意味ではない。今回の講習では、国家試験に向けてという前に、明日から活かせる介護方法をみっちりと指導してくれる。それは、利用者だけでなく、介護者である われわれの身体に負担をかけない介護方法ということだ。「そんなこと、せんでもええ。 しんどいやろ?」が、先生の口癖。(笑)無駄な動きや無理な姿勢というものは、知らず知らずに癖になっている。長年慣れた現場では、利用者への介助や声掛けなどには気を配っても、シーツ交換時の足の向きであるとか、腰の高さといった細かい部分まで、一つ一つ注意しあうことは少ないと思う。あ、時間と人出が足りない!というのも原因のひとつ。それを、昨日 徹底的に指導された。そこで、明らかになったのが、意外と膝を使っていないということ。これでは腰痛になっても当前だ。先生は「太ももが筋肉痛になるだろう」と言っていたが、まだまだ無駄な動きの多い私は、朝起きてみると全身筋肉痛になっていた。ま、忘れた頃に筋肉痛~よりはいいかな?(笑)「腹筋と背筋、それと太ももの筋肉を付けると介護する時に楽になるよ。腰痛も防げる。」これは介護とは関係なくても言えることだな、、、そう思いながら、聞いていた。その流れで、こんな笑い話も。 だが、実際にあった話。「何年か前の実技試験でね、僕もその時 会場にいたんだけど、会場に救急車が入って来たんだ。 なんでかって言うと、受験生がぎっくり腰になっちゃってねえ。(笑)」どうやら、その年の問題は、ベッドから降りているお年寄り(実際の試験では福祉系の学生さん)を、まず声掛けしながらベッドまで戻すというものだったらしいが、たぶん、お年寄りを起こす時点で変な姿勢をとったのだろう。その場で動けなくなったらしい。その話にみんなで笑ったが、実際は笑いごとではない!!!私も昔、職場でぎっくり腰になったことがある。それは軽症で、自力で家まで帰れたのだが、それも笑える話。なにも介護していたわけではない、その時 私はすでに事務職であった。目の前に落ちていた紙切れを、ゴミ箱に捨てようとしてギクッとなった。拾う時ではなく、捨てる時。 しかも、紙切れ。(爆)でも、それがぎっくり腰というものだ。 重い荷物を持つ時は、頭からすでに指令が出ている。 軽いものほど、思わぬ時ほど油断しがち。大きな段差ではなく、何もないところで躓くのと同じ。。。笑えない。 鍛えなくては。もう若くない、脂肪を落とすというのも大切だが、筋肉つけなきゃ。久々のシーツ交換 + 緊張感くらいで、いちいち筋肉痛になっていたのでは情けない。今日は、寝たきりの利用者に対する衣類の着脱を練習する。上から被る服と前開きの服、そしてズボンが持参物。和気あいあいと、緊張感も取れて来た。 楽しい。早く夜にならないかなあ。。。
2013.02.19
いつもクリスを撫でてくれる、とても可愛い10歳の女の子がいる。毎日、仲良しの男の子と一緒に下校している。 今日も学校帰りの赤いランドセルに、手には紙袋。 その男の子の家の前まで来ると、「はい!」ってその袋を手渡した。突然のことに、男の子は何も言えない。ちょうど裏口から顔を出したおじいさんに、「ほら、ありがとうと言わんかい!」と叱られていた。(笑)「そっか、今日はバレンタインだもんね。^^」それに偶然出くわした、犬を連れてるおばさんがそう言うと、女の子はほっぺたを真っ赤にしながら頷いて、そして、恥ずかしそうに走り去った。スカートの裾からは、折り上げたジャージがちらっと見えた。 片やおばさんは、クリスとお散歩~~~~~~。( ̄。 ̄ )))~~~
2013.02.14
まだヨンサマが居た3ヶ月程前までは、外へ出しても私の足元にまとわりつく小心者のクリスだった。好奇心旺盛で、一瞬目を離せばどこへでも飛んでいくヨンとは違い、私の周りをぐるぐる回るだけだった。ちょこんと首を傾げて上目遣い。ちょっとおとぼけな表情がクリスの魅力である。(笑)そんなクリスに変化が起こる。一匹になり、段々と本性を現わし始めたのだ。(笑)いや、これまでも甘えん坊で、自分の思うままに行動していたと思うのだが、ここ最近、わがままな表情がやけに目立つ。挙げ句に、火曜日なんか、ちょっと目を離した隙にバックするゴミ収集車めがけて走り出した。いくらどんくさいクリスでも、夢中になると私より足が速い。間一髪で、下敷きになるのを免れた。「クリス! 轢かれちゃったらおまえなんか ぺちゃんこよ!」痛いじゃないか! むんずとしっぽを掴まれて、不満顔したクリスに腹も立ったが、ホッとした。あんなに私の足元から離れなかったクリスが、今じゃ好奇心むき出しで手に負えない。「おまえも もうリードなしではお外に出られないね。」 そんな私にまた不満顔。寝顔はこんなに可愛いのに。バレンタインを前に、昨日 車で小一時間掛かる大型スーパーまで買い物に出掛けた。自分用のチョコレートと、クリスへのバレンタインプレゼントを買うために。(苦笑)私はイタリア土産で有名な、Baciチョコレートがチョコの中では一番好きだ。ご存知、Baci はイタリア語で Kisses の意味。田舎なこちらでは、この時期でないと店頭に並ばない。もう10年くらい前になるかな、親友のM子がお土産に買って来てくれたのが、Baciとの出会い。続けてその翌年も、また別の親友K美嬢から貰った。以来、私の中でのチョコレートNo.1はBaciになった。あのビターな甘さ加減が私の味覚にマッチした。 ヘーゼルナッツも好き☆それは、たぶん大好きな二人への私の気持ちもあるのだろう。どんな高級チョコレートでも、彼女達への私の思いに敵うものはない。そんな特別なチョコレートを今年も食べられる幸せ…☆で、クリスへの「かぼちゃと豆乳のムース」と並べるとこんな感じ。(笑)(注:もちろん、ムースはワンコ用である。)お皿に敷いたクロッシェレースのホワイトドイリーも、M子から。「picchuちゃん、刺繍やレース編みが好きだったでしょ? これチェコのお土産よ。^^」
2013.02.14
ちょっとまだ自分では消化しきれなくて、ここに感想を書くのはやめようと思ってた。なのに、何らかの思いを綴らなければ次の本へ進めない。いつまでも本棚に戻せない、机の上にあり続ける一冊があった。そういう作品もあるんだな、と知る。だが、読後半月以上経過しているため、詳細は定かでない。*それが、『カティンの森』。随分長く積読していた本だが、わが年下の彼女(笑)、ブロ友nanaco☆さんの、映画化された同作品のレビューで読む決心がついた。そこで彼女も触れていたが、思い出すのは 2010年4月に起きたポーランド空軍墜落事故。カティンの森犠牲者追悼式典に出席するためにロシアのスモンレスクへ向かった、ポーランド大統領夫妻と同政府要人96名を乗せた飛行機が墜落、全滅した事故だ。私はその事故で初めて、背景にあるカティンの森事件を知る。ニュースに疎い私がそれを強く記憶し、ざっと歴史を調べた理由は、その翌月にモスクワを旅することにしていたからだろう。あの時、プーチン首相(当時)の冷めた目に、ロシアに対する胡散臭さをどうしてもぬぐえなかったことを覚えている。また、その事故の3日前にも行われた式典に、ポーランド首相と共に参列したプーチン首相は、カティンの森事件について改めてソ連の責任を認めた上で、ロシア国民に罪を被せることは間違いだとし、謝罪しなかった。その式典参列者の中に、この作品の映画監督アンジェイ・ワイダ氏もいた。ロシア側のその態度に、その時 ワイダ氏はどう思っただろう。ワイダ氏の父は、カティンの森事件で虐殺されている。ひょっとしたら父親は生きている、、、彼の母親は、ほとんど生涯の終わりに至るまで夫の無事を信じ、帰りを待ち続けたという。彼は、この映画があの事件の真実を明るみに出すだけでなく、カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実を、永遠に引き裂かれた家族の物語として描くことで、歴史的事実よりはるかに大きい感動を引き起こし、祖国の過去から意識的、かつ努めて距離を置こうとする若い世代に語りかけたかったのだ。この作品は、そう映画化されることを前提に、アンジェイ・ムラルチク氏によって執筆された。ムラルチク氏は言う。「独りでは、この主題を取り上げる勇気はなかったと思います。カティンについて虚構の物語を書くと考えただけで、身が震える思いでしたよ。でもそれが映画の原作となれば、別です。俳優が演じるわけですから、仮構も可能になるのです(訳者あとがきより抜粋)」「ワイダと約束しました ― 彼には映画監督として独自のヴィジョンを創造する権利がある。わたしは自著で自分のヴィジョンを守ると。でも、映画と小説は理想的に補い合っていると考えています(同)」私も思う。この作品は原作を読み、映画を観ることによって、より深く理解できると。映画の中で強烈な印象を残すのは、エンディングの、ただ淡々と、同じ血が通った人間の仕業とは思えない凍りつくような虐殺シーンだが、片や原作では、そのような露骨な描写はなく、待ち続ける家族の痛々しい感情が細かく丁寧に記されている。待つ女性たちに、一段とスポットを浴びさせている形だ。それは、ポーランド将校であるアンジェイ・フィリピンスキ少佐の、母・ブシャと妻・アンナ、そして娘・ニカの物語。ブシャとアンナは、アンジェイの生還をひたすら信じて待ち続けている。「カティン以前」の光に満ちた生活と、「カティン以後」。娘ニカも父との懐かしい想い出、父の誇らしい姿を忘れたわけではないのだが、彼女は父との再会をほとんど諦め、今を楽しみたいという気持ちの方が強くなる。カティンを奇跡的に生き抜いたアンジェイの部下・ヤロスワフ大佐と、後にニカのボーイフレンドとなる、戦時にパルチザンとして抵抗運動をしていた美術学生のユル、この2人も物語を展開さす上で要となる人物である。その6人の苦しみ、哀しみ、諦め、うらぎり。ニカはある出来事から、アンナと同じ道(気持ち)を歩むこととなる。それらを生み出したのが、カティンの森事件であり、その罪をナチス・ドイツになすりつけたソ連の嘘であり、そして、その真相に触れることすら しばしタブーであったポーランドの弱さであった。強国に挟まれ、常に侵略され続けたポーランド。このカティンの森事件の直接な背景に、1939年のドイツとソ連によるポーランド侵攻がある。さらに遡ると、ドイツ・ロシア・オーストリアの三国に分割された時代にぶつかる。弱国ゆえの宿命か。だが、だからといって、なぜソ連によって優秀なポーランド将校がカティンを含め1万数千人も虐殺されなければならなかったか?訳者はこう記す。それは、ポーランドとソ連関係の「過去」と「未来」に関わると。「過去」とは、ソ連が敗北したポーランド・ソ連戦争を根に持つスターリンが、ポーランド軍人に対して強い不快感を持っていたこと。事実、虐殺された捕虜の多くが、ポ・ソ戦争に従軍した者だった。それではなぜ、そのポ・ソ戦争が起こったかというと、第一次世界大戦後、ロシア革命で混乱しているソ連(ロシア)に対し、ポーランドがかつての領土を取り返すために侵略したからであった。では、なぜそこに「未来」も関わってくるのか?それは、ポーランドの軍人と知識人たちを抹殺することで、指導者を失ったポーランドに真空状態を作りだし、そこにソ連仕込みの連中を入れることで、結局、いつの時代もソ連(強国)の思惑通りにされてきたということだ。これらを頭に入れた上で改めて物語と向き合うと、もっとすんなり話に入っていけるだろうし、映画の冒頭シーン、ドイツ軍から逃れるアンナ母娘たちと、ソ連軍から逃れてきた人達が橋の上ですれ違う、進んでも引き返しても先はないポーランド人の姿を理解できるだろう。真実を闇に葬る為に消された人々のことも。。。真実を知ろうとすると、いつも現れる「なぜ?」。この「なぜ?」に歴史があり、「なぜ?」をどんどん遡っていくことが歴史教育だと思う。答えは見つからないかもしれないが、それを導き出そうとする過程が、今後 我々の未来に必要なこと、同じ過ちを繰り返さずにすむヒントを教えてくれると思っている。ほぅ。。。苦し紛れにこう締めくくろう。(笑)
2013.02.11
昨日、早朝からブロ友さんの記事を読んでいた。そこには、見る者の心まで華やかにしてくれる蘭の世界が広がっていた。今、写真を撮ることが楽しくてたまらないというふる~るさんのブログだ。日々、新しい発見を求め、自分の感性を磨いてゆく彼女。私は生命力を与えられた写真に憧れる。気持ち良くコメントを書きながら、急に私も蘭の花と触れ合いたくなってきた。高知へ行こう!と思い立った。高知県出身で、"日本の植物界の父"と称される牧野富太郎氏の業績を記念して建てられた広大な植物園が、高知市にある。その牧野植物園において、毎年2月に温室でラン展が開催されることを知っていた。それに、つい先日の母の話を思い出した。「今、龍馬像が貸出されているそうよ。 で、その間、龍馬と同じ目線から眺められるようにしてるんだって。」龍馬の目線か~。 ついでに、遠くアメリカでも眺めて来るか!(笑)そんなことを考えながら、高速を飛ばした。ソロモン諸島の地震による津波注意報はすでに解除されていたが、まずまずの高波。駐車場では「波打ち際には近づかないでください」というビラを渡され、桂浜中に聞こえるよう放送もしていた。打ち寄せる波の音を聴きながら、本来 龍馬像が建っている高台へと向かう。お馴染みの風景と広がる水平線に、桂浜に来た!と気持ちが高ぶる。そして、自分の体に流れる土佐の血が騒ぎ出した。(笑)もうすっかり春めいた潮風を頬に感じながら、目的地へ歩を進めた。 ・ ・ ・あれ? 龍馬がいる!「あんた、なんでいるのよ?」という私のトボケた顔に、「いたら悪いのかよ」とでも言う表情で見降ろす龍馬像。「あんた、どこかに貸し出されたんじゃなかったの?」ふてぶてしい龍馬の顔に、思わず私もむっとした。だが、私が腹を立てたからといって、龍馬が場所を譲るはずもない。仕方なく龍馬目線は諦めた。なので、残念だが龍馬目線の写真はなし。偉ぶる龍馬像の写真も逆光のため却下!代わりに、横綱の土俵入りを撮ることにした。 500円也。生後4ヶ月という、幼く見えない幼い土佐犬にも会って来た。龍馬よりイケメンじゃん! ちょっとやけくそ。家に帰って文句を言った。「桂浜に龍馬いたじゃん!」「え? 私、桂浜って言った? 貸出されてるのは高知駅前の龍馬像なのに。」「もうっ! 龍馬像って言ったら桂浜に決まってるじゃん! 桂浜って思うじゃん!(><)」 思いっきり八つ当たり。(苦笑)あ、私、蘭を見て来たはずだった。 なのに蘭のことなんか忘れてしまったのも龍馬のせい。牧野植物園ではこの17日まで、珍しい青い蘭の花も楽しめる。
2013.02.08
大学時代、中国からの留学生、露さんにこんなことを言われた。「picchukoさん、砂漠へ行ったことある?もしまだだったら、人生観 絶対に変わるから、一度は必ず行くといいよ。」その時は自分が外国と縁があるとは思っていなかったし、日本を出たいと思ったこともなかったので、ふ~んって聞き流してた。だが、それから8年後、モンゴルはウランバードルへ飛ぶ途中、飛行機の窓からゴビ砂漠を見た。それが生まれて初めて見た砂漠だったと思う。露さんはこの砂漠を見て人生観が変わったんだろうか?砂というより、乾燥した茶色い大地を見降ろしながら、彼を思い出していた。二度目に思い出したのは、さらに1年半後、オーストラリアへウルル(エアーズロック)を訪ねた時のことだ。それが、私が初めて降り立った砂漠だった。オーストラリア大陸の中央部に広がるシンプソン砂漠だ。どこまで車を走らせても延々と続く赤土の砂漠。ドライバーのスコットは、大きなフロントガラス越しのパノラマに、「ごらん、これが僕のオフィスさ!」と自慢した。確かに、凄い!と思った。 しかし、その時はまだ露さんの言う「人生観を変える」ところまでは感じなかったように思う。それからしばらく、私は砂漠へ行くこともなかったし、彼の言葉を思い出すこともなかった。それが昨年の暮れ、NHK紅白歌合戦を見て思い出した。MISIAである。摂氏50℃のアフリカはナミブ砂漠から、民族衣装を着たMISIAが熱唱した。砂漠が凄いのか、彼女が凄いのか、その時、私は露さんの言葉のほんの一部をやっと理解できた気がした。人生観を変えるほどの感動は、心が感動するレベルではない、魂が震えるんだということを。しばらく邦人歌手の曲を聴かなかった私が、それを機に彼女のCDを買った。2月20日まで待てばデビュー15周年のベストアルバムが発売されるのだが、それまで待てなかった。彼女の描く詩も、彼女の歌唱力も素晴らしい。地球を感じるし、宇宙を感じる。とりわけ気に入ったのが、『飛び方を忘れた小さな鳥』。今日ご機嫌だった私は、お風呂に入りながら歌っていた。そして、気付いた自分の正体。そっか、私って地球人という宇宙人だったんだ。(爆)地球も太陽系も超えた大きな銀河系という船に乗ってる自分が想像できた。空を翔ける飛行機 窓から見下ろす雲は雪のようあなたの住む場所へと向かって この心は揺れています季節も時間も 全て変わっていくねえ見てよほら オリオンが地平線に輝く飛び方を忘れた鳥のように 僕は何かを見失って傷ついたその場所から生まれ出た 痛いほどの幸せを見つけたすり抜けていく幸せ程 儚い夢とは知らずにいたすれ違いや憤りに そっと瞳をそらしていた季節も時間も 追いかけてみよう ねえ見てよほら 太陽が昇る淡い空を飛び方を忘れた鳥のように いつか何かを見つけたなら 気がついてその場所から生まれ出た 痛いほどの幸せに きっと飛び方を忘れた鳥のように 僕は何かを見失って傷ついたその場所から生まれ出た 痛いほどの幸せに 今 気付いて*You Tubeで見つけた、トルコ人が歌う『飛び方を忘れた小さな鳥』不覚にも、出だしに一瞬だけ笑ってしまった。。。
2013.02.06
前評判の高い映画は、正直苦手な私。天邪鬼な私は、ついケチをつけたくなる。(笑)というより期待しすぎるのかな、その時は感動したつもりでも、心に残る作品はわりと少ない。だから、現在上映中の『レ・ミゼラブル』も見に行くつもりはなかった。けれど ある日のこと、スマホがメール受信を伝えた。「picchuちゃん、最近なにしてる?私は、先日 久しぶりに映画を見に行きました。 レ・ミゼラブルです。picchuちゃん、おススメですよ。 ミュージカルだけど、曲が良いわぁ、と思ったの。picchuちゃんに伝えよう、と思ってメールしたの。」岡山に住む親友M子からのメールだった。M子と私は非常に好みが合う。 男性以外は、彼女が良いと言ったものは大抵 私も気に入る。M子が言うならと、ちょうど目の前にいた母に声をかけてみた。『レ・ミゼラブル』なんて洋物、本を読まない母は知るまい。そう思い、ちょっとふふんって感じで誘ってみた。「知らないと思うけど、昔 日本では『ああ無情』って題名で有名な作品が映画になってるんだけど …」ここまで言った時、母が私の言葉を遮った。「あ、レ・ミゼラブルでしょ。 母さん、中学2年の時に舞台を観たことあるのよ。」「へ? だって母さんが中学生の頃っていったら、、、」「そうそう、戦後3年くらいだったけど、母さんが通ってた女学校の講堂が、当時県下では珍しく設備が整ってて、そこで上演されたのよ。」なんか、無性に悔しくなった。「じゃ、観に行かなくていいのよね!」「そんなこと言ってないじゃない。 もちろん観るわよ。」こんな感じで、結局 観に行くことになったのだ。(笑)* * *泣ける話ということだが、私は映画や舞台を観て、そう簡単には人前で泣かない。とりわけ男女や親子の情を誘う話ほど、意地でも泣かない。(笑)なんか自分の過去や心の内を覗かれるようで、変に見栄をはってしまう。だが、そんな私でもホロロとくるものもある。それは、健気な動物ものと、、、このレ・ミゼラブルのように、自由を求めて立ち上がる民衆の姿だ。そうなると、ホロロではすまなくなる。自由・平等・博愛を表す三色旗がはためくだけで、胸が熱くなる。そういえば高校時代、再放送された『ベルサイユのばら』で、三色旗を掲げたオスカルに胸が震えたことを思い出した。私、フランスの国旗にも弱いんだよな。(苦笑)民衆がそれらを勝ち取るまでに流した血と涙を思うだけで涙が出る。今では多くの人を惹きつけてやまないパリの街も、礎になった彼ら抜きでは語れない。しかも散っていったのは、多くの勇ましい(カッコいい)若者達だ。<民衆の歌>が頭から離れない。思いの全てを絞り出して歌い上げたファンティーヌにさえ泣かなかったのに、若者にやられた。だが、隣りに母が居た。 私はぐぐぐっと涙を呑みこんだ。(笑)M子に返事を書こう。「M子の言う通り、曲がすごく良かったわぁ。色んな愛と涙と感動が詰まった作品だね。 いい映画を教えてくれてありがとう。」あ、若者達と共に戦った、あの幼い少年が超~私好みだった。
2013.02.01
今日はサンメッセ香川において、第25回介護福祉士国家試験(筆記)を受けてきた。本当は昨年受験のつもりだったが、今年初めての挑戦となった。現在、無職である私に勉強時間はいくらでもあったはず。だから、「余裕でした~!」と報告できて当然!!!なのだが、時間というものは、あればあるだけ無駄にしてしまうのが凡人の常であろう。12月、やっと重い腰を上げ、チェックドリルというものを一通りやってみた。テキスト? そんな効き目の高い睡眠薬は初めから手を出さない。その上、12月と今日までの間には、お正月という特別な期間が存在していた。元日は勉強しなくても大丈夫よね、三が日くらい勉強しなくてもなんとかなるよね、、、、そして、気が付けば一週間前になっていた。(苦笑)年明けて三週間、一問すら問題を解いていなかった。私は慌てて模擬問題集を買い、二回通りやってみた。そして迎えた試験前日、、、昨日だ。 やっぱり勉強しなかった。実は、、、、、変なヤツだと思われるだろうが、前回の日記にも書いたアルジェリア人質事件が何故か頭から離れなかった。試験前だからと友人達からの誘いを断り、極力外出も控え、 で、テレビでアルジェリアに関するニュースばかり見ていた。(笑)遺族の方達の言葉に涙し、会ったこともない犠牲者の写真にまた涙する。運悪く、その時 ちょうど読んでいた本が「カティンの森」。第二次世界大戦下、ソ連によって虐殺された数千人のポーランド人将校と、彼らの帰還を待ちわびる家族の話だ。アルジェリアとカティンがだぶる。そして、そんなたまらなく落ち込んでいる時に、ちょうどレンタル予約していたDVD(カティンの森)が届く。すぐに見る必要もないのに、試験の前日である昨日、それを見ていた。この上なく残酷な、直視できないシーンが次々と流れる。そして、また ここでアルジェが頭に蘇る。自分でも、何故にここまでアルジェリアの事件が頭から離れないのか分からないが、とにかく信じられないくらいショックだった。国家試験のことなんて、私の中ではすっかり他人事のようになっていた、、、私は本物の馬鹿だ。当日の今日は、朝7時前に家を出た。さすがに今朝は、アルジェリアよりも試験のことが気になった。電車で問題集を開く。山をかけた。この試験は午前に「人間と社会」・「介護」、午後に「こころとからだのしくみ」と、領域を分けて行われる。問題は120問。一問一点で、正解率60%以上、かつ10科目群全てに得点があった者が合格となる。「過去問いっぱい解いたのに、今年は傾向が全然違うよね。」昼休み、そんな会話があちこちに飛び交っていた。過去問を解いてない私にはそれすら分からなかったが、かけた山はことごとく外れた。(苦笑)*結果、8割の正解。 10科目全てに得点はあった。これだけ勉強もせず、アルジェリアにばかり気を取られていた私が8割取れた理由を考えてみた。一つだけ言えることは、分からない問題でも、適当に答えを選んだものは一問もない。もう10~15年も前になるが、現場で先輩方から教えていただいたこと、実際に行っていた介護を頭に浮かべながら、一つ一つ丁寧に解いていった。それが今日の私を救ってくれたのだと思う。当時、先輩方は厳しかった。 芯は優しく温かくても、指導はとても厳しかった。改めて、あの頃 私を導いてくださった諸先輩方に深く感謝したい。さあ、次は3月頭にある実技試験だ。
2013.01.27
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