日本語はダメか2

日本語はダメか2

2009.07.22
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 二本では46年ぶりの皆既日食。
 上海では、434年ぶり。
 二本で次に「観察」出来るのは26年後の2035年。はぁー。
ウィンクワシは生きていて、空を見上げている!?

「自然の営み」として、大勢の人たちが「楽しんでいた」。

 だが、「悪魔が太陽を飲み込んでしまう」と不安そうな顔で鉦や小さな太鼓を叩きながら祈りを捧げているインドの人々の表情・姿電話が印象的だった。
しょんぼり
 大きな口を開けている<悪魔>も写っていた。意外や、赤を主として明るく描かれた絵だった。

 分かりきってしまっていい、というものでもない。
 が、今では幼稚園児に「ウサギさんがいるんだよ、月には」「お餅をついているんだよ」と言ったところで馬鹿にされるだけ、だろう。 
 いるかも知れないし、いないかも、と言うわけにはいかないのだろう。だが、それだけでは、ああ、窮屈だ、厄介だ、不便だ、豊かさがそがれる、遊びが殺される、色気が抹殺される。

 そういう「分かってしまっている」子どもたちを相手に民話や童話や昔話を語って聞かせるには、かなりの話術が必要となるだろう。抑揚と間合いとリズムと。
 ということは、本来、「語り」はオナゴの天職であるか!?
ハート甲府のアイちゃんや信濃のアズさん。頑張っているか。上野(こうずけ)のノブちゃんや能代のアキちゃん、語っているか。

 昨日も一昨日も、原稿を読んだ。
 木、金、土、日と同人に会う。ある意味では、天を見上げるしょんぼり
 解明出来ないヒトのココロ、女と男のココロを描き続ける星我がサークルの会員たち。
 ここでは、話術ならぬ文章力が必要とされる。
「正解」などはありはせぬ。だから、何を「発見」してもいい、何を「発明」してもいい、新しい視線で描写できれば。

メール人体についても、ほぼ同じことが言えるだろう。
 基本は基本で、「人体の構造」はそれなりに解明されているだろう。
 だが、「肉体は肉体」として「ココロ」から離れてしまっているものではないだろう。
 バイク大王よ、「人体」もまだまだ謎に包まれている、手書きハート語りかける、あるいは耳を傾けるその加減一つで、痛みを抱える相手の傷は癒されるかも知れない、相手に触れる指先一本の位置加減で、とてつもない効き目を差し出すことができるかもしれぬ。

 ココロの奥のそのまた奥の、神秘、謎、闇、襞、変化、もつれ、などを描ききろうとして会員たちが血反吐を吐いている……。太郎、次郎、英樹、お菊、たまよ、あけみ、みどり、ひろお。
 それをだらしない文章で書き続けたら、ただの「うそ」「妄想」でしかなくなってしまう。その辺のお喋り、愚痴、垂れ流しでしかなくなってしまう。


 そういう<世界>から画像つきの「報道」「解説」の世界へ移動することは、かなりの馬力を求められる。言葉や文字の構造が相当に次元の違うものだから。


 同志よ仲間よ、作業をやめないで。思索を中断しないで。手にしたメスを休ませないで。
 手につかんだ塩を内臓にすりつけよ。









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最終更新日  2009.07.22 23:54:47
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