日本語はダメか2

日本語はダメか2

2011.07.03
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 岩手・青森について思いを巡らす日曜日。
 改めて、光太郎と智恵子を想う。
 時代の波と人との出会いと個人の精神の流れ、そして……高貴な闘いを闘った光太郎。

花巻郊外のあの山小屋……周囲に人家のない孤立した山小屋(三畳ほどの小さな土間があった)は、今はどうなってしまったのだろうか。
 買ったばかりのマークX(「ツー」は、依存文字ということで表示されない楽天)を走らせて北海道へ渡り、はたまた秋田・青森を気ままに走り回った。そんな元気な昔。
 そのときにその山小屋に出会ったのだった。

 著名な仏師・高村光雲を父として東京に生まれた。
 1905年(22歳)、ロダンの彫刻『考える人』の写真を見て衝撃を受け、翌年に欧米へ留学。父親譲りの彫刻技術でニューヨーク美術学校の特待生になる。
欧州の自由で近代的な精神を身につけて帰国した26歳の光太郎は、日本の社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義と衝突、これに強く反発する。

「自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするため」に詩を書く、と考えていた。1911年(28歳)、雑誌『青鞜』創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた3つ年下の女流洋画家・長沼智恵子と出会う。

 3年後の1914年(31歳)、詩集『道程』を刊行、同年智恵子と結婚する。
 以前の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は
 だが、智恵子と出会ってからは、ハート穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになった。
 光太郎は語る「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」。

 ところが、1931年頃から智恵子は実家の破産などもあって精神を病み始め(統合失調症)、睡眠薬で服毒自殺を図る。未遂に終わったものの症状は進行し、1938年10月5日、智恵子は7年にわたる闘病の末、肺結核のため
 1941年(58歳)、智恵子が死んで3年の後、ハート30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集『智恵子抄』を刊行。

 智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争賛美の詩を作ってしまう。
 終戦後、ほとんどの知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と開き直って活動を続ける一方で、光太郎はこうした態度をよしとしなかった。
 彼は旗振り役となって戦争遂行に協力したことを恥じると共に、これについていっさい弁明せず、岩手県花巻郊外の山間に身を引いた。
 62歳から69歳まで7年間もの懺悔の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、三畳ほどの小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。
 1956年、智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。

「山小屋」などと軽く書いたが、並の精神力では、あんな環境で生き延びられなかっただろう。





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最終更新日  2011.07.03 12:22:48
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