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明智光秀が起こした本能寺の変で自害したとされる織田信長。
その廟所や墓所は、主なものだけでも全国に20ヶ所ほどあるそうです。
そもそも信長の遺体は本能寺からは見つかっておらず、
その墓所の「本命」は特定出来ません。
先ずは本能寺にある信長墓。
ある意味「本命」と言えるかも知れませんが、現在の本能寺は移転していて
信長が亡くなった場所ではありません。
秀吉によって信長の法要が行われたのが大徳寺。
都中から3千人の僧が集められたと伝えられています。
そのような盛大な葬儀を行ったのは、
秀吉が信長の後継者であることを世間に印象付ける狙いがあったとか。
遺体がないため、秀吉は信長の木像を作らせて焼いたそうです。
木像は2体作られ、残りの1体は総見院に安置されています。
総見院は、信長の位牌所として秀吉が大徳寺山内に建てた寺。
常時公開はされていませんが、先日その坐像を運良く拝することが出来ました。
総見院には、信長一族の墓石もあります。
手前から順に、
秀雄、信雄、信長公、信忠、秀勝、信高、信好の墓碑。
大徳寺の南、船岡山の中腹にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)。
信長を主祭神とするこの神社の創建は、元々は明治天皇の命によるもの。
「けんくんじんじゃ」と呼び親しまれ、
近くのバス停も「けんくん神社前」となっています。
京都にある「信長墓所」で、最も気になるのが
この阿弥陀寺境内にあります。
ガイドブックにも載らないこの小さな寺は
寺町通り北部にひっそりと佇んでいます。
寺はここに信長の墓があることを宣伝するつもりはないようです。
「信長で一儲けしよう」などとは考えていないのでしょう。
本堂には信長公と信忠の木像が安置されているそうですが、
扉が閉ざされていて拝することは出来ませんでした。
檀家さんたちのための寺であり、観光地ではないのですね。
周辺にも境内にも案内板等は全くなく、
山門前にただ「織田信長公本廟」の石碑が立つばかり。
本堂の裏にある墓地に、ひっそりと建てられている墓石。
墓石の前には、
「織田信長 信忠 討死衆墓所」と書かれた小さな石碑があるだけ。
墓地内では特に目立つものではありません。
信長墓の横に並んでいるのは、本能寺の変の頃
信長の近習中の近習といった存在だった森蘭丸とその兄弟の墓。
崩壊の恐れがあるのか、テープで巻かれてありました。
修復までの応急処置だとは思いますが・・・。
この墓所が最も気になる理由は以下の通り。
NHKの「歴史ヒストリア」で紹介されていた内容ですが
阿弥陀寺には「信長公阿弥陀寺由緒之記録」という記録が残っています。
それによると、
本能寺の変を知った阿弥陀寺の住職、清玉上人は本能寺に駆けつけ
信長の遺骨を密かに持ち帰った
そのことを知った秀吉は、自分が喪主となって
信長の法要を阿弥陀寺で執り行なうことを申し出たが清玉上人は拒否。
そのため秀吉はやむなく上記の創建院を建てることになったようです。
また当然ながら怒った秀吉は、阿弥陀寺を移転させ
その規模も大幅に縮小させたようです。
上の画像は、阿弥陀寺の墓地内にある清玉上人のお墓です。
この清玉上人とういう僧は、織田家で育てられたと伝えられています。
阿弥陀寺は近江で開創され、信長の入洛にともなって京都に移転し
当初は相当な大寺院だったようです。
なお、本堂内の信長像などは
毎年6月の「信長忌」(本能寺の変の6月2日か)に公開されるようですが
正確なことは日時も合わせて未確認です。
信長の遺体がらみでは、遠く静岡県富士宮市に(首塚)があるそうです。
本能寺の変で信長の首を密かに持ち出し、
西山本門寺に葬ったという言い伝えがあるそうです。
私が知っている(訪問した)信長の墓所は、もう1ヶ所あります。
上の画像がそれですが、場所は高野山。
秀吉をはじめ、数々の武将などと同様
奥の院への参道に建てられています。
「鳴かぬなら、殺してしまえ ホトトギス」
そんなイメージからか、歴女たちにはあまり人気がない織田信長。
男性には人気があるようですが、私もその一人。
戦国にはあまり詳しくありませんが、革命児的な信長と
「これぞ武将!」といった感じの真田幸村に惹かれます。
ちなみに歴女に人気ナンバー1は、伊達政宗だそうです。
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