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山田維史の遊卵画廊
■Yamada's Article (11) 江戸の「松風」私論
「松風」といえば「源氏物語」の十八帖「松風」を連想する人は少なくないであろう。須磨の浦のいわくありげな松にまつわる海女の物語である。能の「松風」も同じ伝説をもとにした女の恋の妄執の物語である。恋に狂い死んだ松風と村雨という名の双子の汐汲み女の墓が、須磨の浦の松だった。
松は海からの風避けのためや防砂林として浜辺に植えられることが多かったこともあり、景勝地として広重の「東海道五十三次」にも描かれた静岡市の三保の松原、万葉集に詠まれた敦賀市の気比の松原、あるいは羽衣伝説がある天橋立の松原など、各地に海辺の松原の名所がある。唱歌「海」は、作詞作曲者は不明ながら、「松原遠く 消ゆるところ 白帆の影は 浮かぶ」と、知らない人はいないほど親しい歌である。「磯部の松」という成語もある。須磨の浦の松も、身も蓋もない言い方だが、元はといえばそのような磯部の松、浜の松だったのだろう。
私はこの稿で、江戸時代の俳諧において「松風」がいかなる感性で表現されたかを検証する。平安、鎌倉、室町と時代を経てその表現に変化があったのかどうかを、各時代の文芸作品を瞥見して比較検討する。
片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典』(増訂版・笠間書院)は「松」の項に、「松の梢を吹く風、つまり松籟も云々」と述べ、拾遺集雑上の斎宮女御の歌と新古今和歌集雑中の藤原家隆の歌を例示している。すなわち、
琴の音に峰の松風かよふらし
いづれのをよりしらべそめけむ 斎宮女御
(琴の音に似通う松風はどんな緒締めで奏ではじめるのだろう)
滝の音松の嵐も馴れぬれば
うち寝るほどの夢は見せけり 家隆
(滝の音も松の嵐も慣れてしまえば寝て夢をみるように風雅な夢をみさせてくれる)
『拾遺集』(1006年頃か)は勅撰和歌集の第三番目であるが、最初の『古今和歌集』(905年)には、「松風」という成語の歌はない。あえてとれば、巻七卷賀に素性(そせい)法師の歌として次の一首がある。ちなみにこの歌の作者は、一説に柿本人麿とある。
住の江の松に秋風吹くからに
声うち添うるおきつ白波 素性法師
(住之江の松に秋風が吹くとその音に沖の白波の声が添って聴こえる)
素性法師の生没年は不詳である。909年(延喜9年)に醍醐天皇御前で屏風に歌を書いたことが知られているので、その頃には在世していたはずである。桓武天皇(737ー806)の曽孫。桓武天皇の孫である遍照(良岑宗貞)の在俗中の子。父が出家して天台宗の僧となり仁明天皇の皇子常康親王の御所雲林院への参内を子素性とともに許され、親王薨御後に雲林院の管理を任され、後には素性法師が受け継いだ。雲林院は鎌倉時代までは天台宗の寺院であったが、一時衰退し、1324年(正中元年)に復興し、これより臨済宗の禅寺となった。
臨済禅が、「松」ないし「松風」について検証するうえに重要だと思われるので、少し述べておく。
臨済宗が日本に請来したのは任明天皇の母、すなわち嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ・786ー850)が唐から義空を招き禅の講義を聴講したのをはじめとする。
臨済宗は唐(618ー907) 後期の臨済義玄(生年不詳・866/867没)を開祖とする。その言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』として編纂された。日本に『臨済録』の初伝年代は明確ではないが、柳田聖山氏の研究によれば、円明国師が帰朝した建長六年(1254)に『臨済録』を招来したのであろうとしている。 (註1)
この『臨済録』の「行録」に「師栽松次。黄檗問、深山裡栽許多作什麽。師云、一與山門境致、二與後人作標榜。道了、将钁頭打地三下。黄檗云、雖然如是、子已喫吾三十棒了也。師又以钁頭打地三下、作嘘嘘聲。黄檗云、吾宗到汝大興於世。(句読点;山田)」とある。 (註2)
(臨済義玄は次に松を植えた。黄檗が問うた、山奥にこんなに沢山の木があるのに何をしている。臨済は云った、第一に山門に関すること、第二に後世の人の道標にするため。そして、地を金槌で三度叩いた。黄檗は云う、それでもお前はすでに我が痛棒を三十回食らった。臨済は再び金槌で地を三度叩いて、はーっと息をついた。黄檗は云う、吾が宗はお前に到って世に大いに繁栄するだろう。)(山田解)
右の事は、「巌谷栽松(がんこくさいしょう)」という句となっている。「硬い岩や険しい谷に松を植える」ということである。
禅画においても松は重要なモチーフである。大和文華館所蔵の『松雪山房図』(嘉吉2年:1442年)の華嶽建冑による画賛(題記および詩)「松雪山房記」の序に「臨水之境 洞山之嶺 唯言松而已(臨水の境、洞山の嶺、ただ松を言うのみ)」とある。 (註3)
「松」は『臨済録』の核心を汲む句であり、禅境の核心である。
8世紀前半に嵯峨天皇の皇后橘嘉智子によって 請来された臨済宗は、鎌倉時代末期に臨済宗の僧虎関師錬(1236ー1346)が著した『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』によれば、「皇帝甚ダ渥シ。太皇ハ檀林寺ヲ創リ居リ、時々ニ道ヲ問ウ。官僚ハ指受ヲ得ル者多シ。中散大夫藤公兄弟ハ其ノ選ナリ。」とある。 (註4)
『元亨釈書』の記述が意味するのは、日比野晃氏の研究によれば「どのような内容が義空によって指導されたのか不明であるが、義空に教えを求めた階層は社会の上層部の者であったことがわかる」と。
しかしながらこのことは臨済宗が日本に深く根付いたことを意味しない。日本において臨済禅が上層階級のみならず広く受容されるのは、12世紀末に虚菴懐敞(こあん えしょう・生没年不明)から禅要受けて中国から 帰国した「富も権力も持たない出家である(日比野晃氏)」栄西(1141ー1215)を待たなければならない。 (註5)
ところで先に例示した斎宮女御の「 琴の音に峰の松風かよふらしいづれのをよりしらべそめけむ」についても述べておかなければならない。
この歌において「松風の音」が、「琴の調べ」に喩えられている。じつは後に検証する慶紀逸(けい きいつ)の俳諧においても「松風の音」が「琴の調べ」に喩えられているのである。どうやらこの比喩は個人的な感性による特異なものではなく、文化的な(伝統的な)比喩表現らしい。
それではその感性を培った源泉が存在するであろうか。
橘嘉智子による臨済宗請来に遅れること僅か、唐代中期の詩人元稹と白居易の詩集『元白詩集』を藤原岳守によって中国商品のなかから発見され任明天皇に献上された。838年のことであった。6年後の844年、留学僧恵萼により『白氏文集』が伝来した。白居易が在世中のときである。この『白氏文集』卷三の「五弦弾」は次のような詩である。
五弦弾 五弦弾 (五弦の弾 五弦の弾
聴者傾耳心寥寥 (聴く者は耳を傾け心 寥寥
趙壁知君入骨愛 (趙壁は知る君の骨に入りて愛するを
五弦一一為君調 (五弦一々君の為に調す
第一第二弦索索 (第一第二の弦は 索索
秋風拂松疏韻落 (秋風は松を拂って 疏韻落つ
(以下8行略) (註) 趙壁は唐代の琴の名手
白居易(白楽天・772ー846)の詩は平安時代の文学に多大な影響をおよぼした。その代表作『長恨歌』は『源氏物語』に引用され(註6)、上記「五弦弾」は、謡曲『経政』『蝉丸』に引用されている。また12世紀に成立(1013年~1018年頃か)した藤原公任が編んだ『和漢朗詠集』の全588首のうち136首が白居易の詩である。
『和漢朗詠集』に採録されている源英明の次の漢詩は、「五弦弾」の直接的影響と断言してもよいと思う。
露滴蘭叢寒玉白 (露は蘭叢に滴りて寒玉白し
風銜松葉雅琴清 (風は松葉を含みて雅琴澄めり
秋風颯然新 (秋風颯然として新たなり
「松風の音」が「琴の調べ」に比す感性の文化的な背景は白居易の「五弦弾」の詩に源泉がある、と私は思う。そしてさらにほぼ同時期に日本に伝来した臨済禅の受容を俟って鎌倉・室町時代の文芸、ことに和歌において「松風」は、いわば時代の感性を表現することになった、と。
片桐洋一『歌枕 歌ことば辞典』が『新古今和歌集』(1205年)から家隆の歌を引いていることは前述したが、『新古今和歌集』にはほかに三十首の「松風」を詠み込んだ歌がある。そのなかからいくつかを現代仮名遣いにし、原文の仮名書きを漢字に直して引用してみる。 (註7)
秋くれば常盤の山の松風も
うつるばかりに身にぞしみける 和泉式部
ながむれば千々にものおもう月にまた
我が身ひとつの峯の松風 鴨長明
まれにくる夜半も悲しき松風を
絶えずや苔の下に聞くらん 藤原俊成
また、1204年の春日社歌合において兼題「松風」があったことが、藤原有家、藤原家隆の詞書によって知れる。その二首、
我ながら思うか物をとばかりに
袖にしぐるる庭の松風 藤原有家
(少しばかり物思いに沈む私だが涙で袖を濡らす庭の松風であるよ)
かすがやま谷の埋れ木くちぬとも
君につけこせ峯の松風 藤原家隆
『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の勅命により編まれた。『古今和歌集』以後に編まれた八っつの勅撰和歌集の最後である。その後鳥羽上皇(1180ー1239)が、承久の乱によって配流された行在所(現在の愛知県)海部郡葛田山源福寺の庭の池畔に次の歌を詠んでいる。 (註8)
蛙なく葛田の池の夕畳
聞くまじ物は松風の音 後鳥羽上皇
(蛙が鳴く葛田の池の夕べは深まるが松風の音は聞こえそうにない)
私は平安・鎌倉時代の歌のなかの「松風」を見てきた。当時の貴族たちは、「松風の音」には特別な雅趣あるいは哀愁を感じていたようだ。そして邸宅や寺院の広大な庭に松を植栽した。禅刹大徳寺方丈の庭は禅寺に多い枯山水の平庭であるが、ここには嘗て「古巌松」と称した松が植えられていた。旧松は一七〇〇年代にはすでに枯れてしまい、その後、方丈南庭に植えられた松に「古巌松」の名は受け継がれた(註9)。また同じ大徳寺の寸松庵の庭には赤松のみごとな樹林があった(現在は失われてしまった。註10)。このように寺院の庭園は枯山水といえども松に彩られていたのである。兼好法師(1283?ー1350)『徒然草』の第139段冒頭に、「家にありたき木は、松・さくら。松は五葉もよし。花はひとへなる、よし」とある。庭に風情をつくる植栽として松が取り入れられるようになっていたのである。
庭に植栽した松は、造園など想いもおよばなかったであろう庶民生活の感性から遠い存在であっただろう。さらに時代が下って徳川幕府の治世においては、常緑の松の象徴性は、一層封建的な文化的差異の象徴となった。公家や名門武家の姓氏(中御門松木家、華族と武家の流れを汲む松平氏、備前松田氏など)であり、城を頂く地名(松本、松代など)である。衆知の江戸城「松の廊下」のように障壁画に描かれ、権威と儀式性を象徴した。
さて私は貴族文芸として発達した和歌を離れ、以下に、新しく興ってきた俳諧に表現された「松風」をめぐって、江戸時代には「松風」がどのような景色をつくっていたかを試みに検証する。
とりあげたのは慶紀逸(けい きいつ・1695ー1762)が編纂した『武玉川(むたまがわ)』(1750年刊)。岩波文庫の山澤英雄氏校訂の同書(一~四)を使用した。『武玉川』十八篇を収める。
慶紀逸は、本名を椎名件人(しいなかずひと)、父親は幕府御用鋳物師でいわゆる町人である。私があえて町人と記したのは、慶紀逸が『武玉川』に選定した俳諧を見ると、先人松尾芭蕉 (1644ー1694)やその後の与謝蕪村 (1716ー1784)の俳句にはほぼまったくといってよいほど見られない庶民の日常(性事情などを含めて)が息づいているからである。しみじみとした哀感や、読み手の含み笑いや爆笑をさそう・・・じつは現代人の私には解釈不明な句も多いのだが・・・まさに「あっ!」と驚くような江戸時代の生活が観察されている。松尾芭蕉が西行を敬愛して高尚文芸としての俳句を目指して生活感を排した(と私は思っている)のとは大いに異なり、慶紀逸の句は軽妙洒脱、ときに社会戯評、あるいは警句のようでもあり、季語もなく、のちに興る川柳のさきがけと評されるのも宜なるかなだ。
そうした慶紀逸の本質を論じるには「松風」よりむしろ江戸の性事情のほうがふさわしいのだが、それはまた後の事としよう。
まず慶紀逸の選定した句の「松風」の前に、松尾芭蕉と与謝蕪村の「松風」を見てみる。しかしその前に芭蕉より五歳年長で十三年長生した伊勢射和の人、大淀三千風 (1639ー1707)の一句を見る。
鳴門時雨て浮世の松は風もなし
句の味わいは動と静の対比にある。鳴門の渦潮はげしく、さらにも時雨である。しかしひとたび目を浮世に向ければ、松の緑蔭には風もない。・・・遠く和泉式部や鴨長明に通じる心のいささかの反映と、その風雅にまさる世に巌生の松への強い眼差しを私(筆者)は感じる。
さて芭蕉の句である。・・・ところが芭蕉の全句を調べて、「松風」に言及しているのはただ二句だけである。
松風の落葉か水の音涼し (蕉翁句集)
松風や軒をめぐって秋暮れぬ (笈日記)
次の句を採って三句というところか。
松杉をほめてや風のかをる音 (笈日記)
あえて解釈することもないだろう。
蕪村の句は、岩波文庫・尾形仂氏校注『蕪村俳句集』の全1055句を調べた。「松風」は一句も無かった。
次に岩波文庫『武玉川』の「松風」という語がでてくる句をすべて列記してみる。ただし原句は読みにくいので、山澤英雄氏の校訂に拠りながら、送り仮名等を加え漢字を替えて読みやすくした。
風車外山の松の吹くあまり
(風車が回る。人里近くの山から松風がはげしく吹くからだ)
松風や関の障子の喰違い
(隔ての障子の食い違いで松風が吹き込んでくる)
洗った馬のかはく松かぜ
(洗った馬が乾くのも松風のため)
松風ともに質に取る山
(ふところ寒く持ち山とともに松風も質草に)
松風に気の付かぬ剛力
(重い荷を背負う剛力は松風に気を留めていることなどできない)
金剛杖を倒す松風
(修行者の金剛杖を役に立たなくするほど寒い松風が吹いている)
此ころの銭座つぶれて松の風
(近頃、銭貨発行役所が潰れた。寒々とした松風が吹いている)
乞食生るゝ松風の中
(世は不景気、寒い松風吹くなかで乞食に身を落とす者が出て来る)
松風も骨の出来たる小六月
(松風もおよそ六月頃には枝葉を伸ばす)
盗まれた伽羅を又聞く松風
(高価な伽羅香を盗まれたが松風の香りにそれを聴く想いだ)
琴屋が手では松風も来ず
(琴屋が弾いてみせる琴の音では、琴の音に喩えられる松風も吹きはすまい)
逃げるうき世を松風が追う
(つらい浮世から逃げたとしても、寒々とした松風はどこまでも追って来る。あるいは別解釈。浮世を捨てて出家をしても、「江月照吹松風」で厳しい修行が待っている)
松風の吹きくたびれて竪に降り
(松風が口を尖らせて吹いているが、いいかげん疲れてきて首を縦に振っている。風の吹き様を軽妙に詠んだ。)
杉を吹く少しの事で松の風
(この句の解釈は素直に読めるが、一方、捻った読みもできるかもしれない。むずかしい。あえて試みれば、芭蕉門下の俳人に杉山杉風(すぎやまさんぷう)がいる。もう少し吹けば杉風になるのに、残念、高さがちがう。松風だ。)
松風計る住吉の升
(住吉大社の神事の「升の市」は、現在もおこなわれている。その市で売られる升で吹く松風を計る、という句。句頭の松(マツ)と末尾の升(マス)と、音の遊びが感じられる。)
あがたの神子(みこ)の松風に乗る
(県神子(あがたみこ)は諸国を勧進しながら神降ろしや口寄せをした。松風とともに訪れる。あるいは松風という名の薫物(たきもの)の香りにのせてやって来る。薫香「松風」は、沈香、丁子、鬱金、甘松、朴の根を練り合わせたもの。)
松風を凩にする材木屋
(材木屋が材を寝かせて乾燥させるには木枯らしが適している。材木屋は松風さへも木枯らしにしてしまう。)
松と風との甘い相談
(もとはといえば松は松、風は風。それが親密な相談をして合体して松風となった。)
暑い日に折りても見たき松の風
(暑い暑い。松に風が吹くなら、折って手元で風を吹かせたい。)
松風に案じが付くと銭の息
(松風も心配事があると金の工面のため息になる。風流がってばかりいられない。)
濡れ手へしかと請ける松風
(濡れ手に粟という。商人が濡れ手で粟を受けると、粟は掌に貼り付き、その分だけ儲けになる。これを踏まえて、松風も濡れ手で受ければ貼りつくという、庶民の知恵の喩え。読んだ人は軽く笑うだろうような句。)
銭の有るうちは聞こえぬ松の風
(懐にたっぷり金があるうちは、侘びた松風の音など聞こえない。)
江戸の友には合わぬ松風
(せわしなく賑やかな江戸の友人には、京風な侘びた雅な松風は似合わない。およびじゃない。)
松風の裾分けをする扇かな
(松風が吹き、着物の裾を割る。手にした扇で抑える色気。ただし表向きの意は、香りのよい松風を扇であおいで隣の人へお裾分け。)
松風と代わり合いては千鳥啼く
(浜の松風である。吹いてはちょっと止む。すると松風の音に代わって千鳥の啼く声が聴こえる。交互に鳴き交わしているかのようだ。・・・俳句では千鳥は冬の季語。)
杉へ来て心の直る松の風
(杉はまっすぐに立つ。松は幹も枝も曲がっている。曲がった松から吹く風も、杉に来て真っ直ぐになる。)
淋しい銭を使う松風
(懐が淋しいなぁ。ちぇっ、これっぽっちの銭だ。使えば吹く松風にいっそう侘しくなるぜ。)
水道に反りの合わぬ松風
(この水道は、現代の栓をひねると水が出る水道ではない。玉川上水や安積疏水、そこから引いた上水道のことだ。江戸は上水道が発達していた。むろん各戸に引かれていたのではない。庶民は戸建に住めなかった。長屋の共同井戸に引かれていたのである。そのような水道には、松風の風流は似合わない。・・・上述の芭蕉の句の情景とは逆である。)
松風を琴とは常の耳でなし
(あらっ、誰かが琴を。おまえ、あれは松風の音だよ。そうかしら、私には琴の音に聴こえますわ。おまえの耳は、どうも常人の耳じゃないね。・・・白居易の「五弦弾」がここに谺している。)
松風は風の中での通り物
(松風といえばそれだけで通用する、風の中の有名だ。)
松風に蓋をして置く六(むつ)の花
( ああ、雪が降ってきた。六角形の結晶が美しい。松風には蓋でも被せて、ちょいと遠慮してもらおう。「六の花」とは雪の結晶のことである。)
松風の都へ引ける十二月
(江戸じゃ十二月の松風は雅趣もなにもあったもんじゃねぇ、ここは都へ引き取ってもらおう。)
衣がえもう松風を顔へうけ
(さて、この衣替えは春夏か、それとも秋冬か? 「更衣 (ころもがえ)」は夏の季語、現代では五月の季語。しかし『武玉川』を繰っていると、夏の着物を質に入れて冬物を請け出す句に出会う。しがない庶民にとっては季節の変わり目、二つながらに衣替えだったのだろう。そのどちらかによって松風の吹き様と、この句のおもむきがことなる。読み手の心まかせというところ。)
呑み込んで枯野を通る松の風
(人の世のなにもかにもを呑み込んで、松風は枯野をわたって行く。芭蕉の「旅に病み夢は枯野を駈けめぐり」を踏まえているかもしれない。)
袂振るえば松風が出る
(松風が着物の袂に入って袂をふくらませる。ふくらんだ袂をあわてて振れば松風は出てゆく。)
裾からあたる曽根の松風
(兵庫県高砂市曽根町の曽根天満宮に「曽根ノ松」という神木がある。菅原道眞の手植えの松と伝わる。約680年後、羽柴秀吉による播州征伐の戦火にあいながら生き永らえ、その200年後の寛政10年(1798)に枯死した。現在の「曽根ノ松」は何代目かであるが、この句が詠まれた当時は初代の道真手植えの松であったはず。かなりの巨木だった。その神木から吹く松風は、拝する者の足元から頭まですっかり包み込むのである。)
松風は老い行く坂の這入口
(常盤の松の風は老いて行く身の坂の入り口までだ。・・・松の緑に若さを、それと対照的に老いを想うことは、例せば西行の「老人翫月といふこゝろを」の詞書がある歌、「われなれや松の梢に月たけて 緑の色に霜ふりにける」 (『西行集』伝甘露寺伊長筆本 秋/『西行全歌集』久保田淳編 258番))
松風の裾かさばってこぼれ萩
(松風が通り過ぎるその裾のひろさに萩の花がこぼれる)
手附のうちは松風で置く
(この解釈は難しいが、・・・手付けの金を要求されても無い袖は振れない。そこは魚心あれば水心、どうだい松風を置いてゆく。それで勘弁しておくれじゃないか。)
松風も最う十月は怖く成り
(秋の松風も、もう十月になると冬の寒さを想いゾッとしてしまう)
松風にふっと気の付く三十九
(秋吹く松風にふっと気がつけば私も三十九歳。来年は四十だ。・・・論語「三十而立、四十而不惑」が下にあるか?)
松風がふくはづれ開帳
(松風吹く端の寺で秘仏の開帳。・・・あるいは、賭場の賽の目はづれて寒い松風が吹く、か?)
百夜の傘のかわく松風
(百夜通いの傘も松風に乾く。小野小町伝説は能『通小町』などから派生したものだが、曰く、深草少将が百夜通いのすえ、最後の雪の夜に思い遂げることなく死んだとする。また「雨乞小町」は浮世絵にも多く描かれていて、天下大旱魃に小野小町が平安京の新泉苑で雨乞いの歌「千早ふる神もみまさば立ちさばき天のとがはの樋口あけたまへ」と詠んだところ、たちどころに大雨となったというもの。(『原色浮世絵大百科事典』昭和56年11月30日、大修館書店)。・・・これらの事が下敷きにされているであろう。)
秋さびて俵へつめる松の風
(もの静かな秋。米の俵詰めも終わり、今は松風を詰めるばかり。)
笛あたゝめて松風を聞く
(篠笛を温め、琴の音にも喩えられる松風を聴こう。・・・篠笛は冷たいままだと低い音、温めると高い音が出る。曲調に合わせて笛の温度を調整するのである。)
松風寒き古い瘡毒
(松風が寒い。その寒さのせいで古い傷跡が痛む。・・・ここでの瘡毒は梅毒かもしれない。私が「毒」とした字は、原文ではヤマイダレに毒。)
松風のかゆい所へしはく吹き
(松風が痒いところへは吝くさき吹く。もっと強く吹いてくれりゃいいのに。)
松風のたまる所に炭俵
(松風の吹き溜まりに炭俵が積んである。寒い季節がやってくる。)
松風の方がよっぽどいくじなし
(寒い松風が遠慮深げに吹いている。吹くなら一層強く吹いてみな、この意気地なし!)
杣がちぢめてまわる松風
(樵が松の枝を払ってゆくので、松風まで小ぶりになっている。)
檀林に居すわると死を松の風
(寺に居座ると死を待つばかりの松風を聞く。檀林は禅寺の意。 この句の松の風は「巌谷栽松」の因縁である。「只管打座」の禅の境地に作者慶紀逸の皮肉と諧謔があるかもしれない。 )
押詰めし空に根のなき松の風
(・・・この句も解釈が難しい。松風は空に根をはらずに吹いて流れる。空(くう)に議論の限りを尽くして、檀林の松は根をはることなく禅境の松風を吹いている。)
以上五十二句を解釈してみた。
私の解釈が正しいとは断言できないし、私が読み取れない江戸時代には常識であった隠れた意味があるのかもしれない。ただ言えることは、この時代、「松風」は、平安・室町時代のあの須磨の浦の松から遠く隔たっている。恋の妄執のイメージ、死してなお煩悩に苦しむ哀れのイメージを託された「松風」は、俳諧『武玉川』の句にはその朧な影さへも揺曳していないのである。
ここで一つ考えられることは、平安時代の貴族文芸における「松風」と江戸町人文芸の「松風」の趣の違いは、文化的階級差のあらわれかもしれないということだ。町人である慶紀逸が、「江戸の友には合わぬ松風」と言い、「松風の都へ引ける十二月」と言うのは、あきらかに貴族文化の影響がある京都と町人文化が武家文化を凌いで盛んになりつつあった江戸との対比である。たんに対比しているのではなく「張り合って」いる気風がうかがえる。
慶紀逸の逞しささへある率直・荒削りな句に比べると、平安時代の西行を敬慕した松尾芭蕉の松風一句「松風の落葉か水の音涼し」は、いかにも嫋やかだ。作品としての俳句において、世俗に行動的に関わってゆこうという意思はない。その意思は、俳匠としてなかなかの政治家であった松尾桃青芭蕉の本性とはことなる。その点、芭蕉は近代的な芸術家だった。
しかし私は「荒削り」と評したばかりだが、慶紀逸に俳句の五七五の定型を破ろうという意思があったと考えるなら、七五調ないし五七調の伝統的な日本語のリズムに対する果敢な挑戦だったと言えるかもしれない。
「江戸の松風」は、意外にも、見過ごしにできない日本文化の文化的階級差の問題を示唆しているのではないだろうか。
【註1】 柳田聖山 「中国臨済草創時代に関する文献資料の綜合整理覚書(その五)臨済録ノート(続)」花園大学『禅学研究』56, P12, 1968年2年20日
【註2】 『頭書 臨濟録 完』萬治三年(1660)、京都 敦賀屋三右衛門刊。p63-64。/ 『首書増補 臨済慧照禪師録』出版年不明、京都 松栢堂刊、p79。/ 早稲田大学図書館蔵アーカイブ)
『臨済録』入矢義高訳注、岩波文庫、p185。
【註3】『松雪山房図』の画賛に関する研究書は多い。参考までに次の論文をあげておく。芳沢勝弘「画賛解釈についての疑問」花園大学『禅文化研究所紀要』第25号、2000年
【註4】『訓読 元 亨釈書』全2巻(禅文化研究行)
www.zenbunka.or.jp/deta/text/entry/post.html
【註5】日比野晃『禅の受容についての一考察 橘嘉智子と栄西の場合』中日自動車短期大学研究紀要「論叢」1972 第3・4号
https://nakanihon.ac.jp>nac_ronso_003_11
【註6】源氏物語の開巻「桐壺」は、最初に書かれたのではないという説が定説となっているが、それはともかくとして、「桐壺」が『長恨歌』を下敷きにした物語であることもまた定説である。『長恨歌』の中の「太液芙蓉未央柳 対此如何不涙垂 芙蓉如面柳如眉」の詩句は、「桐壺」において「太液の芙蓉、未央の柳も、げに通ひたりし容貌を(句点山田)」と、直接引用されている。
源氏物語への長恨歌の影響についての研究は少なくないが、上野英二氏の『源氏物語と長恨歌』(成城大学文学部紀要所載)が参考になる。
https://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/japanese/pdf/sbun-036-05.pdf
【註7】引用した和歌五首の出典は、全て『新古今和歌集』から次のとおり。和泉式部(巻四和歌上)、鴨長明(巻四和歌上)、藤原俊成(巻八哀傷歌)、藤原有家(巻十七雑歌)、藤原家隆(巻十八雑歌)。
【註8】南方熊楠の論文「鳴かぬ蛙」に、『隠州視聴合記』にこの後鳥羽上皇の歌があることを記述してる。(『南方熊楠文集 2』平凡社、p.56)
【註9,10】秋里籬島『都林泉名勝図会』(白旗洋三郎監修、講談社学術文庫上巻、p.42, 62)
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