歴史研究家の多くはヘブライ人がエルサレムに帰還したあと 教義の整備が一段落しトーラーや予言書が文章にまとめられた BC 5世紀ごろをユダヤ教の正式な成立ととらえている。
それゆえ BC 5世紀以後のユダヤ教の信者集団をユダヤ人と呼ぶ。
ユダヤ教成立以前のユダヤ人はヘブライ人になる。
バル・コクバは紀元2世紀 第二次ユダヤ戦争の先頭に立って戦ったがユダヤ人の敗北に終わりその結果古代からのユダヤ人王国とその文明が最終的に破壊されてしまうことになった。
それより50年前フラヴィウスヨセフスらが起こし鎮圧されて敗北に終わったのが第一次ユダヤ戦争だった。
バルコクバは謎の人物とされ彼はマカベウスのユダを継ぐような偉大な 自由の闘士だったという説と 一方抑圧者に獰猛であり自分の配下の民衆に対して無責任で専制的な君主だったという意見に分かれるのです。 第二次ユダヤ戦争で命を落としたユダヤ人は58万人に上る。 ユダヤ人にとって一番問題だったのはテイトスがエルサレムを攻略した際に破壊したユダヤ第二神殿の廃墟の上にローマ風の神殿をつくりユダヤ人以外新しい植民市を作ることを思いついた。 怒ったユダヤ人は反抗後に予想される弾圧を恐れながらもバルコクバに指導されながら大規模な反乱をおこした。ローマはエジプトの軍団を鎮圧にさしむけたがバルコクバの反乱軍によって生存者一人という大敗を喫した。
ハドリアヌスはイギリスの軍団まで動員してゲリラ戦をくりかえし バルコクバは斬殺された。 猶太の賢人ラビ・アキバは拷問で死んだ。 ユダヤ教の学塾は破壊され学生はほとんど戦死。ユダヤの地全土が焦土と化した。
第二次ユダヤ戦争敗北後1800年間ユダヤの民は故国をもたず亡国の民として生きてきた。 古代ユダヤ王国の壊滅で初期キリスト教徒になったユダヤ人の行動は勢いづいた。
初期キリスト教徒はバルコクバの反乱の失敗はそのまま正統派ユダヤ教の失敗を意味し キリスト教徒の信仰の正しさを確証したものだとうけとめた。 以後初期キリスト教徒の宣教活動はいっそう攻撃的なものとなる。
バルコクバの反乱の後ガリラヤの地においてタルムードの編集事業が行われ400年かけてタルムードを集大成させる。 離散ユダヤ人はタルムードをかかえて全世界に離散していった。 ユダヤ戦争
紀元70年ローマ軍エルサレムの神殿を破壊。デイアスポラへ
紀元90年ヘブライ語聖書結集
230年ミシュナー編集
紀元70から500年ごろをミシュナータルムード時代といいます。 ラビたちは1つの問に対して複数の正しい答えが存在しえることを熟知していた。
ラビヒレルとラビシャマイの議論を学ぶときどちらが正しいかを問わず両者の見解がそれぞれどのように生きた神の言葉であるか考えるのである。 ユダヤ教を学ぶということは先祖代々受け継がれてきたユダヤ教の伝承を1つ1つ正確に体得しレンガを重ねるように積み重ねていく作業であり一朝一夕に記憶出来るものではなかった。
ユダヤ人は旅に出るときミシュナーをたずさえて旅しユダヤ人の宿に行きミシュナーを通行手形のかわりに見せたら泊めてくれた。
ローマ皇帝コンスタンテイヌス帝在位: 306 年 -337 年は統一を訴える教会にの教えに魅力を感じた。
彼は実の息子を処刑し妻を釜茹でにした。
彼は考えた。軍事力を高め秩序の乱れた巨大な帝国を統一するのにキリスト教はうってつけであると。乱れた帝国をまとめる手段としてキリスト教を利用した。
キリスト教正統派はイエスの死の責任をローマでなくユダヤ人におしつけることによってイエスが反政府活動にかかわっていたという事実をうやむやにした。
イエスが生きてた頃ユダヤ人とローマ人の間では緊張が続いていた。母国を奪われたユダヤ人が怒りを募らせていた。
ユダヤ人でなくローマ人がイエスの反政府活動をネタに彼を殺した。
磔刑はローマ人が扇動家を罰する時の一般的方法だった。
380年テオドシウス帝は法典をつくり教会に逆らうことは違法になり刑罰を受けた。戦艦ポチョムキン、オデッサの階段 2024.08.30
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