2002年11月06日
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心の貧しい者は幸いです


カリフォルニアで、「聖書と神学のミニストリー」を主宰されている上沼昌雄先生が、3年ぶりに大浜教会にお立ち寄り下さり、メッセージをして下さった。(通常は、祈り会の時間)


新約聖書 マタイの福音書 5章3~11節  山上の説教

  心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

  悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

  柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

  義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

  あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

  心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

  平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

  義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

  わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を
  言われたりするとき、あなたがたは幸いです。



この箇所は、山上の説教と呼ばれる有名な箇所。しかし、簡単なようで、なかなか深く、ある意味、なぞかけ、なぞ解きのような箇所。求められている「心の状態」を示していると言えるのかもしれない。

開口一番のことばが、 「心の貧しい者」
「霊的貧しさ」 を、説教冒頭に持ってきたことには、どんな意味があるのだろうか。

「霊における貧しさ、弱さ」  それは、誰もが抱えている、心の闇の部分。自分で気づいていながら、目を背け、ふたをし、認めないこと。自分で触れたくない、見たくないと思うこと。いわば、罪の本質。神さまは、その闇の部分を、いろんな形で、私たちに気づかせようとされる。しかし、認めたくない私たち。まさに 「霊の戦い」 。そのことに気づくことは幸い。


また、この山上の説教の内容は、イエスご自身の歩みとしても、とれるかもしれない。貧しくなられたキリストの姿を、パウロは思い巡らす。


  ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。  ピリピ2:6~7

  主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、
  キリストの貧しさによって富む者となるためです。  第2コリント8:9


パウロの気づき。
それは、キリストが人間の体を取って下さったがゆえに、精神的にも、肉体的にも、私たち人間と同じ悩み苦しみを、味わってくださったこと。また、キリストが貧しくなって下さったゆえに、私たちが富む者とされたこと。「ご自分を無にし」て下さったキリスト。自分に死んでいく必要。


イエスのたどられたもう一つの「心の貧しさ」 ゲツセマネでの祈り。

  「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、
  わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 マタイ26:39


避けて通りたいけれど、避けられない、どうしようもないこと。自分自身に死ぬこと以外に、道はない。神さまは、私たちに、そのことを気づかせるために、苦しみや困難を取り除かずに、そのままにされる場合があるのかもしれない。そのことを通して、さらに、私たちが、自分の霊的貧しさに気づくことを求めておられるのかもしれない。

それは、 完全なギブアップ

ヨブの最後のことば= 「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ記42:6)
ヨブは、正しい人と呼ばれたが、想像を絶する不幸と試練に見舞われた。最後にギブアップした時、主は、すべての所有物を2倍に増やされた。


主が、心の一番痛いところに、触れてくださる時
「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(19節) 、「私は、ほんとうにみじめな人間です。(24節)」と告白せざるを得なかった。しかし、次の25節では、神に感謝を献げている。それは、自分の罪の姿=弱さ・貧しさに気づくことが、まさに、紙一重で、恵みが届いていることに、パウロは気づいていたから。

心の貧しい者は幸い‥‥‥

アダムの罪で縛られている私たち、しかし、それにまさるキリストの恵み。


先生のお証。昨年、自宅近くの山火事で、避難勧告。ご夫婦で非難の準備。その後、先生が、奥さまに、山火事を通して、先生ご自身の中に恐怖心があること気づかされたことを告白。プライド。奥さまは、「以前から知ってたわ。」 でも、気づき、ことばにしたことで、言いようのない平安が与えられた。


霊的な貧しさに気づいていく時、山上の説教のような者とされていく。
どうしようもない霊的貧しさ・弱さに気づき、知ることで、 「悲しむ者」 となる。
霊的貧しさ・弱さの中、神さまの取り扱いを受け続ける時、 「柔和な者」 とされる。
自分の力でどうすることもできないことで、キリストゆえに 「義に飢え乾く者」 とされる。
弱さ・貧しさに気づき、それにも関わらず、生かされていることを知る時、 「憐れみを知る者」 となる。

山上の説教は、霊的成長と言うよりは、霊的な歩みを、イエスさまが語って下さったのではないか。そして、イエスご自身がその道を歩んで下さり、私たちに、その姿を見上げつつ、同じ心構えでいなさいと語られているのではないだろうか。








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最終更新日  2003年06月23日 00時58分16秒
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