ぽっぽやのむすめのブログ

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2010.05.01
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カテゴリ: カテゴリ未分類

【ワシントン=村山祐介】米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移転問題をめぐり、

米自治領北マリアナ連邦議会の下院は4月30日、日米両政府に同連邦テニアン島への

飛行場移転の検討を求める誘致決議を全会一致で採択した。

同連邦では16日に上院も同様の決議を全会一致で採択している。

 決議は、テニアン島は「移転先として最適」で、「日本から議員が訪れ、

普天間移転を支える島民の意欲に注目した」として、移転を歓迎している。

決議文の写しを国防総省と日本政府に送るという。

テニアン島は第一次世界大戦後、日本の委任統治領となり、第二次世界大戦前は

多くの日本人が入植し、砂糖黍栽培などに従事していた。

一方、この島の戦略的価値を見出した日本海軍は同島に飛行場を建設。

当時南洋最大といわれたハゴイ飛行場が完成する。

そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は

日本本土爆撃および内南洋における日本軍の海上、航空兵站線を攻撃する基地を

確保すべく、1944年6月、マリアナ諸島攻略計画を発動させた。

一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、

陸上兵力が少なかったため満州の遼陽から陸軍第50連隊連隊長 緒方敬志大佐)を

移駐させた。

6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、

サイパン島の攻略を完了、それに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。

テニアン島 (テニアンとう、 Tinian )は、北マリアナ諸島の島の一つ。

面積は約100 km²で、サイパン島からは約8kmの距離にある。

現在はアメリカ合衆国の自治領である。  オセアニア ミクロネシア 北マリアナ諸島

戦闘経過

テニアン島と米軍の侵攻図 テニアン沖で撮影された海兵隊とM4 シャーマン

1944年7月24日早朝、米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、

テニアン港前方に一斉に前進させた。

しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、

一斉に重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。

また、日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、

駆逐艦ノーマン・スコットも命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。

しかしこれは米軍の陽動作戦であった。

7時頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボー)、LVT(水陸両用装軌車)からなる

上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に上陸。

水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のため

ほとんど全滅し、米軍は日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、

さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊を上陸させた。

この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

そして、24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と

照明弾による妨害により、日本軍の進撃が遅れた。

それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2500名にも及ぶ損害を受けて

反撃は失敗に終わった。

 この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長は戦死し、

戦車は4両を残すだけとなった。

日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は、25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、

南下を開始した。日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から

16歳から45歳までの男子、約3500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し

、戦闘に協力させた。だが、7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破し、

テニアン市街を占領した。

7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、

マルポ水源地、テニアン町南側付近、第三飛行場南側で戦闘を行った。

戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。

この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、

日本軍は長期の抵抗を行うことが困難となった。

夜半、緒方連隊長はグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し、

最後の報告を打電する。

翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。

海軍の栗野 原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。

8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が

アメリカ軍に対し突撃を敢行した。

アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、

日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。

また角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下

海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令大家大佐も戦死した。

結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は

8月3日の夜明けに終結した。

その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、

テニアン島は隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。 

破壊されたテニアンの集落

戦いの後、テニアン島は B-29の基地として整備され、

アメリカ軍による日本本土などへの爆撃基地に

使用された。

なお、終戦後の1945年8月下旬、生存者の最上級者であった桝谷中尉以下は投降し、テニアンの戦いは完全に終結した。松本50連隊の生き残りはテニアン島の南の4つの島の守備隊120名で各島30人ずつで終戦まで無傷で生き残り終戦日に昭和天皇の玉音放送をラジオで聞き全員、アメリカ軍に白旗上げて武装解除し、戦後グアム島の捕虜施設で2年半おりその後日本に帰国し2000年頃まで全員、長野県内で生きている、テニアン島守備隊長の緒方大佐は玉砕後、1階級上げて少将に昇進している。

テニアン島では日本軍守備隊側が民間人の安全に配慮した事、

民間人が軍と共に自決する行為を戒めた

(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はないのですよ」と

説明を行ったとも言われている)事から、『サイパンの戦い』で発生した民間人の

集団自決はあまり見られなかったと言われている。

飛行機で行くテニアン島日帰りツアー

ビーチ派も、カジノ派も、テニアン島!サイパンの南側の自然豊かな島テニアン島。星の砂が取れるチュルビーチや、

本格的カジノ。


古代遺跡のタガストーンや日本統治時台の面影の残る島。


海がめの産卵地としても有名なテニアン島を、お手軽にお楽しみ頂けます。

日本から僅か3時間半で行ける南洋の楽園、テニアンへようこそ。


透明度が非常に高く、美しい熱帯魚達の住むブルーの海に囲まれた島です。


うっそうと茂るジャングルの様なグリーンの自然が心を癒し、どこまでもブルーな空と

海、そして爽やかな風が身体を癒してくれる。


決して便利な島ではありませんが、逆に何も無い事が魅力と言える島。


時間を忘れてのんびり出来る贅沢。自然を独り占め出来る贅沢。


その贅沢がテニアン島にはあります

http://www.tinian-web.com/






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最終更新日  2010.05.02 01:16:12
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