東方見雲録

東方見雲録

2022.06.15
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カテゴリ: ランドスケープ









2022.01.26散歩
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愛宕信仰 Wikipedia情報:​ こちら ​
     消防人の投稿:​ こちら

追記
関連サイト: こちら
愛宕社は慶長8年(1603)、徳川家康の命により江戸の防火の神として祀られた。 徳川家康が建立した経緯や、また周囲に武家屋敷が多かったことから、特に武士の信仰が篤かった。そして、江戸に出てきた地方諸藩の武士達は幕府に忠誠を示す意味もあり、参勤交代の折りに、江戸の愛宕の神様のご分霊を地元に持ち帰り、宿場や地元の小高い丘に愛宕社を建立していく。各地に愛宕社が多いのは、徳川の影響と見込まれる。武士の隠し砦といった性格の山もあり、場所によっては、武士しか立ち入れなかったということもあったようだ。
・・・・
旧出雲街道の紹介の杭。
古代において出雲地方を中心とした宍道湖・中海圏は大陸から伝来したと思われる鉄文化、及びそれに伴う鉄の生産において大変繁栄した地域であった。この地域から鉄を大和に運ぶ道は鉄の道と呼ばれ整備されていた。この道が出雲街道と呼ばれるようになったのは、江戸時代からのことである。美作を経由して京・大坂へ地域の物産品を運ぶ重要な道であり、当時は大変賑わった。また城下に及ぶ要衝として、神社・仏閣が配置された。

日野郡史に、寛文年中(1661-1673)、二部の足羽五衛門、根雨の恩田市左衛門、緒方一郎右衛門、板井原の矢田貝七左衛門・桂藤伝衛門の諸氏に働きにて間地峠を修理し、中安井に渡船を造り舟場と称し板井原の作州四十曲を改修し此路線を出雲街道と公称するを得、其功に依り前記の人々を出雲侯の御本陣、或は御茶屋の亭主を許されたりと云へり、とあり参勤交代の街道設置の尽力で御茶屋の営業圏を保有したことになり、出雲街道が生まれる。

伯耆民談記
深浦は湊山の横、飯の山と感応寺山との間なり、諸州の廻船共此の所に入浦す

伯耆国内の出雲街道は、米子・溝口・二部・間地峠(標高480m)・根雨・四十曲峠(770m)で、米子周辺では、上方往来とも呼んでいたということだ。米子から美作国境まで九里二八町(39km)ほどだったようだ。後に日野川を経由(日野往来)しない手間要害山麓の天万宿から二部・根雨へのルートが出来たようだ。
滝山探しに二部から峠を越えた先に茶屋という地名看板があったが・・・工事中で峠の名前は見なかった。





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Last updated  2025.07.19 02:24:22
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