東方見雲録

東方見雲録

2023.01.01
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カテゴリ: 政経
日本人の「信仰」を象徴する富士山が世界的にみて「比類のない崇高な存在」と世界遺産委員会が認めたことだ。いっぽう、富士山が日本人の「信仰」の象徴であると認めてもらったのに、「信仰」に関わる富士山の「最大の問題」を日本人はいまだに解決できないままである。

それは、富士山の所有権をめぐる「県境」問題だ。

「県境」決定で、本宮浅間大社は富士山八合目以上の土地登記を行うことができ、所有権を確定する。この確定があってこそ、本宮浅間大社は晴れて富士山をご神体として守っていくことができるのだ。

富士山本宮浅間社記では、垂仁(すいにん)天皇3年(紀元前27年)富士山麓に浅間大神を祀ったのが始めとされる。景行天皇40年(110年)に日本武尊(やまとたける)がやはり浅間大神を祀ったとされ、その後の長い歴史の中で、源頼朝、北条義時、武田勝頼らが社殿を造営したことなどが記されている。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、応仁の乱後、長い戦乱が続いた日本の平和を願い、1604年現在の社殿様式となる浅間造りの豪壮な社殿を造営した。1609年、家康は富士山頂上を本宮浅間神社が支配することを認めている。1779年、徳川幕府は宗教上欠くことのできない奥宮境内地の富士山八合目以上を本宮浅間神社所有と認め、裁許状を発行した。

明治時代に入ると、国による政教一致の政策が行われ、富士山は本宮浅間神社所有から国有とされた。日中戦争および太平洋戦争が始まると、富士山は大日本帝国によって皇国思想に利用された。「ああ晴朗の朝雲に そびゆる富士の姿こそ 金甌(きんおう)無欠ゆるぎなき わが日本の誇りなれ」(「愛国行進曲」)と歌われるなど、軍国主義の象徴となった。戦後、富士山は侵略国日本の象徴として、一部の知識人から忌み嫌われる存在となってしまう。

熱海市在住だった版画家・池田満寿夫(1934~1997)は「戦争時代の記憶があり、富士山が大嫌いだった。しかし、長く日本を離れて帰国した時、洋上から見た富士山を見て、わけもなく感動した。自分自身が日本人であることを強く意識した」と話していたほどだ。

戦後、政教分離の原則に基づき、社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律が施行される。1948年、本宮浅間神社は宗教上欠くことのできない富士山八合目以上の返還を求めた。

1952年になって、ようやく富士山八合目以上を本宮浅間神社へ返還する方向で話が進んでいたが、山梨県民らを中心に「富士山頂私有化反対同盟」などが結成され、国会周辺でむしろ旗を連ねるなどの強硬な反対運動が起こった。政治問題に発展した結果、衆議院行政監察特別委員会は「富士山八合目以上を国有のままとして、そのための特別立法をすることが望ましい」とする意見書を当時の大蔵大臣に提出した。



1974年4月、最高裁は国の上告を棄却、富士山八合目以上を本宮浅間神社の所有と認めた。1982年に本宮浅間神社は本宮浅間大社と改称している。その後も国は判決に従わなかったが、2004年12月になって、突然、富士山八合目以上の払い下げ譲与決定通知書を本宮浅間大社に交付した。

長い闘いの末に勝ち取った最高裁判決以降、本宮浅間大社は静岡県に「県境」確定を求めているが、県の対応は遅々として進まなかった。県は2008年6月に研究会を設けて関係市町の意見を聴いていたが、2013年8月以降は研究会開催も途絶えてしまった。

と言うのも2014年1月、世界遺産登録が決まった後、川勝知事は当時の横内正明・山梨県知事と会見を行い、「富士山の県境を定めないで仲良くやりたい」などと明言してしまった。それ以来、静岡県庁内では富士山の「県境」問題はタブーとなっている。


静岡県上空から富士山の初日の出を拝む(塩津治久撮影)© 現代ビジネス



富士山本宮浅間大社の大鳥居越しに望む富士山(静岡県富士宮市、筆者小林 一哉撮影)© 現代ビジネス
引用サイト: こちら





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Last updated  2023.07.18 22:10:57
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