東方見雲録

東方見雲録

2023.11.02
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カテゴリ: スクラップ
2006.11.02の日記 こちら


花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。

花園神社は寛永年代(1624~1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛永年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。


内藤家が拝領した頃の新宿は、街道筋とはいえ宿場もなく、静かな一帯でした。その当時日本橋を起点とした甲州街道で一番初めの宿場町は高井戸にあり、その距離は約4里2町(約16km)であったといわれています。最初の宿場町まで、あまりに遠く不便なため、元禄11年(1698)に浅草安倍川町の名主であった喜兵衛(後の高松喜六)が同志4人(市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛)とともに、5600両の巨額の金を上納することを条件に、その中間に新しい宿場町の開設を願い出ました。その場所が内藤家の屋敷前であったことから、新しい宿場町の意を込めて「内藤新宿」と呼ばれるようになったのです。内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになります。

当時の花園神社は既に現在の地に移転しており、宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めていました。安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行して好評を博しました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。

やがて明治維新により江戸は東京へ名が改まり、明治18年(1885)に日本鉄道品川線(赤羽~品川)が開業し、新宿駅ができました。「内藤新宿」は南豊島郡内藤新宿町から、豊多摩郡内藤新宿町へ、そして大正9年(1920)に東京市四谷区に編入され、「新宿」となりました。
引用サイト:花園神社ホ-ムページ   こちら


酉の市は、11月の『酉の日』に開催されます。『酉の日』とは、十二支を日付に当てはめたとき、10番目の干支(えと)『酉』に当たる日です。

酉の日に限らず、どの干支の日も12日ごとに巡ってきます。しかし、1年は365日と12で割り切れないため、酉の日の日付は年によって異なります。



ただし、1回目の酉の日が7日以降だった場合、11月には酉の日が2回しかありません。

酉の市は11月の酉の日に合わせて開催されるため、酉の日が2回しかない年は、酉の市も2回だけ行われます。
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現在は関西や九州でも行われている酉の市も、もともとは関東のみで開かれていたお祭りです。東京都にある以下の神社は、『関東三大酉の市』として古くから知られています。

浅草『鷲(おおとり)神社』
新宿『花園神社』
府中市『大國魂(おおくにたま)神社』
中でも、浅草の鷲神社は酉の市発祥の神社といわれ、酉の市の当日0時に『一番太鼓』が鳴らされて盛大に始まります。開催時間は24時間です。
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もともと農具として使用されていた熊手は、落ち葉や枯れ木などをかき集めるために使われていました。長い竹の棒に曲がった爪が付いた形状や用途から、『福や金銀をかき集める』という意味を持つ縁起物です。

『商売繁盛』に御利益があるとされてきた熊手は、やがて『おたふく』や『七福神』『松竹梅』や『大判小判』など、縁起の良いモチーフがプラスされるようになりました。



稲穂やお札で飾られた竹の熊手は通称『かっこめ』と呼ばれ、神棚や仏壇などに飾ることで『福をかき込むご利益がある』といわれています。

引用サイト: こちら





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Last updated  2023.11.02 07:00:13コメント(0) | コメントを書く


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