東方見雲録

東方見雲録

2025.11.20
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カテゴリ: 郷土









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引用サイト: こちら

幕末の松江藩で、同じことが起こった。

慶応4年(1868)1月、戊辰戦争に際して松江藩は朝廷側(新政府軍)に味方することと決した。

しかし朝廷は徳川将軍家と縁の深い出雲松平家を疑ってかかり、鎮撫使として西園寺公望らを松江へ派遣した。藩主・松平定安が、松江藩の決定を報告するため、上洛しており、。入れ違いになってしまった。

鎮撫使の副将である川路利良は忠誠の証として所領の半分を差し出すか、重臣一人を切腹させることを条件とした。

藩論がまとまらない中、鎮撫使らは朝廷の権威を振りかざして傍若無人の振る舞いを繰り返した。藩主のいない上層部は何も決定できず、藩内の不満が募っていた。

松江のはずれに錦織玄丹という盲人が娘のおかよと暮らしていた。「家老の大橋茂左衛門様が切腹と決まったそうだ」という話を聞いた玄丹は、かつて目を患う前に奉公していた頃を思い出した。

「あの方は責任感が強い人だった。この度の理不尽な要求を引き受けられたのだろう。何とかしてお助けしたいものだ」と



父の願いを叶えたい。こんな理不尽なことで血が流されてはならない。かよは、一人で鎮撫使らの宿舎へ出向いた。宿舎の手伝いを買って出た。鎮撫使の乱暴狼藉に宿舎で鎮撫使の世話をする女がいなくなっていたのだ。

酌婦として川路利良に近づいたおかよは、家老の赦免を願い出た。

「この出雲に、畏れ多くも天朝さまに逆らおうなんて不届き者が一人だっているものですか」

抜刀し、食膳の蒲鉾を突き刺し、かよの前に突き付けた。

「これを食ってみせれば、信じてやろうか」と言った。

もし利良が刀を振れば、たちまち斬られてしまう状況だった。かよはひるむことなく、蒲鉾を平らげ、「これが出雲人の誠です」と言ってのけた。

その態度に心を打たれた利良は、翌朝に予定していた大橋筑後守の切腹を取りやめ、京都より帰国した松平定安に起請文を書かせ、松江の町から立ち去った。

「女がたった一人で横暴な鎮撫使を追い払い、藩と家老様を救った」と松江藩の人々はかよを称えたが、妬む者もおり、「女のくせに出しゃばって、とんでもないあばずれだ」と誹謗中傷が飛び交うようになった。

SDGsの世の中の実現は、永遠のテーマなのだろう。時が経つと、松江藩の恩人であるかよのことも記憶から薄れていく。失意の中、父・玄丹も亡くなった。このエピソードは口伝えのうちに、変化し、「敵に身体を売った裏切者」などとも噂された。婚期も逃し、花柳界に身を投じるしかなかったかよは、酒席で、このエピソードが、彼女のキャラクターよなり、芸妓としての人生を全うし、大正7年に77歳で天寿を全うした。

松江では彼女の名誉を回復するため、白潟公園に胸像や顕彰碑を建立した。彼女の眠る光徳寺には、お加代地蔵が祀られている。

引用サイト: こちら

灯籠の話 こちら
玄丹お加代の墓(光徳寺) こちら

鎮撫使の副将である川路利良(かわじ としよし)

鎮撫使の副将である川路利良(かわじ としよし)は忠誠の証として所領の半分を差し出すか、藩の重臣ひとりに腹を切らせるかを迫ります。もちろん断れば戦争です。

さぁ、大変なことになりました。所領の半分を差し出せばみんなが飢えるし、抵抗したというならともかく、何の咎もなしに腹を切らされてはたまりません。

藩論がまとまらない中、鎮撫使らは朝廷の権威を振りかざして傍若無人の振る舞いを繰り返しました。それでも毅然とした態度をとれない上層部の弱腰に、藩内の不満が募ります。

そんな中、松江のはずれに錦織玄丹(にしきおり げんたん)という盲人が娘のおかよと暮らしていました。



町人たちから話を聞いた玄丹は、かつて目を患う前に奉公していた頃を思い出します。
引用サイト:松江藩を救った幕末の女傑・玄丹おかよ   こちら

山陰鎮撫使
釋瓢斎こと永井栄蔵氏が立命館出版部から『鎮撫使さんとお加代』(1935年)を発行している。永井栄蔵氏は大阪朝日新聞の論説委員で、お加代の物語はその原作をもとに大阪で芝居として上演された。その売り上げをもとに現在、宍道湖畔の松江白潟公園にお加代の銅像が建てられ顕彰されている。

 『鎮撫使さんとお加代』は史実と異なるところも見られるが、『山陰鎮撫日記』は「恐らく一行の接待等に与りて、その侠気を謳はれたるものなるべし」としており、また『米子市史』などでも鎮撫使一行の接待にあたったことが記されていて、松江藩のために薩長藩士の接待をして名を遺した人物であった。
引用サイト: こちら
引用サイト:山陰道鎮撫の道を辿る   こちら


玄丹蕎麦 こちら
昭和の初期、作家の永井瓢斉がお加世の業績に着目して、彼の脚本によるお加世の芝居が大阪で上演され、その収益で石橋町の順光寺(光徳寺)にお加世の墓(お加世地蔵)が建立されました。

また宍道湖大橋の南詰にある白潟公園には、お加世の像やお加世が芸妓として所属していた鳴玉楼の隣に有り、お加世がいつも酒席に呼ばれていた当時松江最大の料亭であった青柳楼の大灯篭(通称お加世灯篭)があります。

ちなみに松江に玄丹蕎麦という蕎麦がありますが、減反政策で休耕となった田で生産した蕎麦で、玄丹と減反の語呂合わせで名付けられたもので、お加世が蕎麦に関わったという史実はありません。

松江のジャンヌ・ダルク
郷土を守るために、「一大事となれば一身を捧げて対処する」とい信念の基、藩の窮地を救ったのです。
会津藩の山本八重のように銃の名手だった訳でもありませんが、いざとなれば命を惜しまない勇気ある行動には、出雲女の芯の強さを感じます。
この功績を後世に残すために宍道湖畔の白潟(しらかた)公園には、お加世の胸像が建てられています。
また、減反田を玄丹にかけた玄丹そばの栽培が松江市郊外の田んぼで始まりました。
生産農家、そば職人、製粉会社、商工会議所、松江市などが「松江ならではの出雲そばを作りたい」と始めたものです。
スローフードの時流に乗って地元産の玄丹そばを使うそば屋も増えてきています。また、玄丹そばを素材としたそば焼酎もお目見えの予定だそうです。
松江のジャンヌ・ダルク玄丹かよがそばの名前を借りて松江に出雲女の心意気を継承しています。
引用サイト: こちら

『玄丹お加代』(げんたんおかよ)あらすじ
【解説】
 『玄丹お加代』(1842~1918)は幕末に危機に陥った松江藩を救った女傑として知られる。新政府軍は諸藩を従わせるための鎮撫使(ちんぶし)を各地に派遣する。松江藩へ進出した鎮撫使・総督の西園寺公望は藩に無理難題を突き付け、さらに傍若無人なふるまいで町人を苦しめる。そこで鎮撫使の宿泊する宿舎へ乗り込んだ、玄丹お加代は…。
 松江市の宍道湖湖畔にある白潟公園には「玄丹お加代」の像が、同じく松江市内の光徳寺は墓がある。
【あらすじ】
 慶応3年の10月、大政奉還により徳川の世から朝廷を中心とした新政府へと変わる。慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦いが始まり、各藩は徳川側に付くか、新政府側に付くかで頭を悩ませることになる。出雲国松江藩松平家は当初は徳川方に付くつもりだったが、越前松平家の説得により新政府側に付くことになる。しかし、朝廷は出雲松平家に疑いの目を向け、西園寺公望を総督とする鎮撫使(ちんぶし)を松江藩に送る。入れ違いに藩主の定安(さだやす)は藩の立場を説明しに京都へと上洛してしまっていた。
 鎮撫使の副将、川路利良(としよし)は、藩の領土の半分を朝廷に差し出すか、武力で戦うか、藩の重臣ひとりが切腹するか、3つのうち一つを選べと要求する。「これはえらいことになった」藩の重役たちは相談するが、話はまとまらない。
 鎮撫使の一行は、米子のある豪商の家を宿舎として、昼から酒宴をしている。女性に乱暴狼藉を働くので、「あんな奴らは追い出せ」と藩の若侍は怒る。藩のために腹を切る重役はいないのか。
 松江の町の外れに錦織玄丹(にしきおりげんたん)という者がいた。元は侍だが、視力を失い、妻に先立たれ、今は娘の「お加代」と二人で暮している。お加代は27歳になるが、父親の世話のため、まだ嫁にもいかないでいる。ある時、隣に住む「おしか」婆さんが声を掛けてきた。讃岐屋という商家の倅との縁談話を持ち込んできたのだが、父親のことを思うお加代はどうするかためらう。
 松江藩では、家老の大橋筑後守が切腹することになる。玄丹は「大橋様は責任感の強い方だった」と言うと、お加代は「私が父上の代わりになんとかします」と応える。
 お加代は鎮撫使の宿舎まで赴き、番頭にお手伝いをしたいと申し出る。乱暴な連中で、女たちはみな逃げ出してしまっている。座敷では兵士たちは酒に浮かれ、奥には副将の川路利良が座っている。お加代は「出雲では帝(みかど)に逆らおうなんという者は一人もいないという」と言う。川路は刀にカマボコを突き刺し、「これを食え」とお加代に迫る。するとお加代は自ら刃(やいば)の方の顔を近づけ、カマボコを口にする。「この国の者たちの心が分かったでしょう」、お加代は言った。
 明日、大橋筑後守は安来の寺で切腹することになる。夜が明け、大橋が間もなく腹を切ろうとしていた時に、川路が「この切腹は取りやめじゃ」と言う。川路はお加代の気丈さを思い出し、昨夜考えを変えたのだった。間もなく、藩主の松平定安が帰国し、朝廷に従う旨の誓紙を西園寺に差し出し、事は済んだ。鎮撫使は松江の町を出立した。
 さて、藩の人々は最初のうちは「玄丹の娘が大橋様と藩を救った」とさんざん持ち上げたが、まもなくして、「あの『お加代』という娘は、女のくせに出しゃばったアバズレだ」という噂が広まる。讃岐屋の倅との縁談も破談になり、父親も間もなく亡くなった。
 お加代は座敷にでるようになり、この話をすると一躍人気者になる。大正7年、76歳で亡くなった。昭和になり、大阪では『玄丹お加代』の芝居が掛かるようになり、故郷には胸像が造られたという。
参考口演:宝井琴桜
講談るうむ(http://koudanfan.web.fc2.com/index.html)
引用サイト: こちら

玄丹お加代 上演情報
作品名   :玄丹お加代
分類    :演劇
主催    :東宝株式会社
劇場    :帝国劇場
上演開始日 :1993年
上演終了日 :(不明)
上演地域  :東京
関連タグ  :ジャンル:演劇
Start Date :1993
スタッフ
脚本    :堀井康明
演出    :井上思
美術(装置):石井強司  美術(装置) / 石井 強司 舞台美術作品は登録されていません。
引用サイト: こちら


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Last updated  2025.11.20 09:00:12
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