東方見雲録

東方見雲録

2025.11.26
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カテゴリ: まちづくり




引用サイト:今昔マップ on the web   こちら

明治中期までにはかなりの範囲が埋め立てられ清洞寺岩周辺は田んぼとなっていた。明治37年1月に西伯郡が3170坪のを総工費9840円で公園として整備することを決定し、2年後の明治39年12月に竣工した。錦公園(米子公園)[注釈 1]と命名された。その際、明治40年に皇太子山陰行啓が行われることから、御旅館となる鳳翔閣と隣接地に近習の宿泊施設として公会堂が公園内に新設された。皇太子手植えの松は湊山公園内に移植され、石碑と共に現存している。鳳翔閣前の広場に植えられていたソテツも移植され現存している。皇太子行啓の際に米子駅から鳳翔閣までの道路が整備され、「記念道路」という名称で呼ばれていた[注釈 2]。

大正12年に郡制廃止に伴い米子町へ経営が移行された。大正14年には拡張工事が行われることとなった。このころから桜の名所となっており、他にも柳やつつじなどが多数植えられていた。昭和2年に市制実施された際にその記念として噴水が整備された。真ん中には鯉の銅像があり、口から水が噴き出る構造となっていた。鯉の銅像は現在でも米子市児童文化センター前にて保存されている。

中海沿いには漕艇場が設けられ公園の堤防をスタンドとして市民がレースを見物するのが風物詩となっていた。また、ここを練習拠点としていた米子中学校が十数回の全国制覇をするなどの活躍をしたため、漕艇は米子の市民スポーツとなっていった。

この頃米子市内のいくつかの場所を公園として定めているが、計画的に整備された既設公園はこの錦公園のみであり、残りは自然緑地などを公園として指定したものであった。その中には湊山と飯山の範囲を湊山公園と称していたものがあった。

戦後期以降
昭和26年3月31日に都市計画法(旧法)に基づいて錦公園と湊山および後藤グラウンド(のちの湊山球場)を合わせて湊山公園と命名されることとなった。その後、市の中心となる大規模都市公園(いわゆるセントラルパーク)の必要性や市の施設用地の確保などのため、昭和46年度より清洞寺岩から出山を結ぶ中海を埋め立てることとなった。その際に老朽化していた鳳翔閣と公会堂は取り壊された。その後、一部は隣接している鳥取大学医学部附属病院の用地となった。昭和51年より多くの施設の整備が開始され、現在の湊山公園の形となっている。
引用サイト:Wikipedia   こちら


湊山公園の中には日本庭園・自由広場・遊具広場・桜の園・猿ヶ島などが設けられています。春の桜祭り、夏のがいな祭り花火大会、お盆の精霊流しなどが毎年開催され、多くの市民の憩いの場となっています。
こちら




















関連サイト:米子市都市公園条例   こちら
関連サイト:米子市風致地区内における建築等の規制に関する条例   こちら
関連サイト:米子市文化財保護条例   こちら
関連サイト:米子市体育施設条例   こちら
関連サイト:米子市児童文化センター条例   こちら
関連サイト:米子市景観条例   こちら

周辺エリア都市計画規制等























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Last updated  2025.11.26 18:09:25
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