東方見雲録

東方見雲録

2025.12.02
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カテゴリ: ランドスケープ



鳳翔閣前の広場に植えられていたソテツ
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江戸期
元々は中海の沿岸部であり、米子城が築城された当時、現在の公園内にある 清洞寺岩 は亀島と言われていた[1]。その亀島に米子藩主加藤貞泰が光泰の供養のために曹渓院を建立した。池田家の城預かり池田由成の時代には海禅寺を建立し2基の五輪塔を立てた。海禅寺は後に自分手政治を行う荒尾氏によって禅源寺と改められ、荒尾氏の菩提寺となったが、洪水により博労町へ移転し、了春寺となった。江戸期には断続的に埋め立てが行われており、中海に突き出す形で当時の海岸線と亀島を繋げていた。禅源寺跡地は荒尾家重臣村河氏によって江尾より清洞寺が移転され村河氏の菩提寺となったが、明治期には衰退し廃寺となった。
明治・大正・昭和初期
明治中期までにはかなりの範囲が埋め立てられ清洞寺岩周辺は田んぼとなっていた。明治37年1月に西伯郡が3170坪のを総工費9840円で公園として整備することを決定し、2年後の明治39年12月に竣工した。錦公園(米子公園)と命名された。その際、明治40年に皇太子山陰行啓が行われることから、御旅館となる鳳翔閣と隣接地に近習の宿泊施設として公会堂が公園内に新設された。皇太子手植えの松は湊山公園内に移植され、石碑と共に現存している。鳳翔閣前の広場に植えられていたソテツも移植され現存している。皇太子行啓の際に米子駅から鳳翔閣までの道路が整備され、「記念道路」という名称で呼ばれていた。
大正12年に郡制廃止に伴い米子町へ経営が移行された。大正14年には拡張工事が行われることとなった。このころから桜の名所となっており、他にも柳やつつじなどが多数植えられていた。昭和2年に市制実施された際にその記念として噴水が整備された。真ん中には鯉の銅像があり、口から水が噴き出る構造となっていた。鯉の銅像は現在でも米子市児童文化センター前にて保存されている。
中海沿いには漕艇場が設けられ公園の堤防をスタンドとして市民がレースを見物するのが風物詩となっていた。また、ここを練習拠点としていた米子中学校が十数回の全国制覇をするなどの活躍をしたため、漕艇は米子の市民スポーツとなっていった。
この頃米子市内のいくつかの場所を公園として定めているが、計画的に整備された既設公園はこの錦公園のみであり、残りは自然緑地などを公園として指定したものであった。その中には湊山と飯山の範囲を湊山公園と称していたものがあった。

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日本庭園
清洞寺岩を中心として新しく日本庭園が設けられることとなり、海岸であった清洞寺岩付近に池を設けた。また松を50本植えた。池のほとりには鳳翔閣の前庭に植えられていたソテツが移植されている。池の水が入れ替わることがなかったために程なく水質汚濁が始まった。そのため昭和56年に米子ライオンズクラブ設立25周年事業として人工の滝と渓流を設置して水質改善を図った。

引用サイト:Wikipedia情報  ​ こちら









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Last updated  2025.12.02 10:51:32
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