東方見雲録

東方見雲録

2025.12.21
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カテゴリ: ランドスケープ



意匠図案説明  芭蕉の像が安置されている芭蕉堂、自画賛の軸を模刻した句碑を描く
開設場所    〒112-0014 東京都文京区関口1-23-6
引用サイト: こちら




芭蕉堂







引用サイト:関口芭蕉庵   こちら

芭蕉句碑

昭和48年(1973年)に芭蕉翁280回忌を期して、史跡関口芭蕉庵保存会が中心となり、芭蕉庵文庫所蔵の『古池や蛙とび込む水の音』の句の自画賛の軸より模刻した句碑です。
引用サイト: こちら


横井金谷による芭蕉の肖像とともに
引用サイト: こちら

こちら
江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住んだ。
当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、工事現場か水番屋に住んだといわれる。
後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家を建てたが、これが現在の芭蕉庵につながる。
その後焼失し、現在のものは第2次大戦後の建築である。

関連サイト:関口芭蕉庵 Wikipedia情報   こちら

関連サイト:神田上水 Wikipedia情報   こちら
関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称、1965年(昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一した)。関口大洗堰が設置された年代はわかっていない。『水戸紀年』によると、1629年(寛永6年)に水戸藩邸に上水が引かれたことから、それ以前に建設されたとされている。堰の規模に関しては『新編武蔵風土記稿』に記されている。

堰 神田上水ト江戸川ノ分水口ニアリ。大洗堰ト号シ、御普請所ナリ。石ニテ築畳ミ、大サ長十間(約18m)、幅七間(約12.6m)ノ水、水口八尺余(約2.42m)、側ニ水番人ノ住セル小屋有リ。
— 『新編武蔵風土記稿』関口町在方分

上記から、巨大な石作りの建造物であったことがうかがえる。この大洗堰があったことから、関口という地名が起こったという。関口大洗堰は流水が大滝となって落ちてくる様子が壮大で『江戸名所図会』に「目白下大洗堰」として紹介されるほどの名所であった。1937年(昭和12年)に、江戸川改修の際に取り壊され、かつて堰があった跡には大滝橋が架けられた。付近の江戸川公園には、石柱の一部がわずかに保存されている。


井の頭池を水源とした神田上水の水を江戸の町に行き渡らせるための重要な設備が、この大洗堰です。井の頭池や善福寺池などから引かれた水が、この堰で2つに分かれます。上水として必要な分は水戸徳川家の御屋敷に送り、その後地下を通って江戸中に配水され、余った水はここで江戸川に落とされたのです。この設備が設けられたのは三代将軍・家光の時代でした。
こちら

関連サイト:江戸での生活の拠点「芭蕉庵」   こちら

<第一次>芭蕉庵
延宝八年(1680年:三十七歳)の冬から天和二年(1682年:三十九歳)の冬まで
第一次芭蕉庵は、江戸幕府出入りの魚問屋主人である杉山杉風(すぎやまさんぷう)の生簀(いけす)の番小屋を改装したものと伝えられている。
杉風は芭蕉に師事した俳人で、江戸における芭蕉の最大のパトロンであったという。

これが芭蕉庵の名の由来となった。
庵号が芭蕉庵になる前は、「泊船堂」としていたという。
それまで桃青と名乗っていた松尾芭蕉の俳号も、庭に植えられた芭蕉が由来である。
天和二年(1682年)十二月二十八日、江戸駒込大円寺を火元とする大火のため第一次芭蕉庵は類焼する。

その後の芭蕉の居所は未詳。
天和三年(1683年)の夏には、甲州谷村藩の家老高山繁文方に逗留とのこと。
高山繁文の俳号は、高山麋塒(びじ)。
松尾芭蕉の門人である。

<第二次>芭蕉庵
天和三年(1683年:四十歳)の冬から元禄二年(1689年:四十六歳)の初春まで¥
天和三年九月、芭蕉庵再建のため門人知友五十二名が寄付。
芭蕉の友人である山口素堂が「芭蕉庵再建勧進簿」を作る。
新芭蕉庵の住所は、深川元番所、森田惣左衛門屋敷とされている。

第二次芭蕉庵滞在中に芭蕉は、「野晒紀行」、「鹿島紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」と旅を続ける。
「野晒紀行」貞享元年(1684年:四十一歳)秋~貞享二年(1685年:四十二歳)四月末。
「鹿島紀行」貞享四年(1687年:四十四歳)八月。
「笈の小文」貞享四年十月~元禄元年(貞享五年/1688年:四十五歳)四月。 
京都・岐阜・大津・名古屋などに逗留 元禄元年四月~元禄元年八月
「更科紀行」元禄元年八月
元禄元年八月に江戸に帰着した芭蕉はその七ヶ月後の元禄二年三月に「おくのほそ道」の旅に出発。
出発前の二月に、第二次芭蕉庵を平右衛門なる者に譲渡している。

<第三次>芭蕉庵
元禄五年(1692年:四十九歳)五月中旬から元禄七年(1694年:五十一歳)五月まで
元禄二年九月に「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、それから二十五ヶ月のあいだ上方を漂泊している。
元禄四年十月に江戸へ帰り着いた芭蕉は、日本橋橘町の彦右衛門方の借宅に仮住居する。
旧芭蕉庵の再入手は譲渡金額の問題で実現できず、仮寓での暮らしを余儀なくされたのだった。

第三次芭蕉庵は、杉風と枳風(きふう)が出資し、曾良と岱水(たいすい)の設計によって工事が進められ、元禄五年五月中旬に竣工。
場所は旧芭蕉庵の近くで、三部屋の間取りであったという。

この第三次芭蕉庵において「芭蕉を移す詞」や「芭蕉庵三ヶ月日記」が編まれた。
草庵は遠来の客で賑わい、句会も活況を呈していたという。
だが、結核で重態に陥っていた甥の桃印を、元禄六年の正月頃から芭蕉庵に引き取り、看病に明け暮れる日が続く。
金銭的にも精神的にも深刻な苦労が続く中、とうとう桃印が病死してしまう。
芭蕉自身も著しく体調を崩したが、仲秋の名月の頃にはやや回復。

芭蕉は老衰の自覚症状を懸念しつつ、元禄七年五月に故郷を目指して最期の旅に出る。
元禄七年十月十二日、芭蕉は大坂(大阪)で臨終を遂げ、第三次芭蕉庵は帰る主のいない草庵となった。

※参考文献 「芭蕉年譜大成」今榮藏著 角川書店

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Last updated  2025.12.21 21:56:27
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