東方見雲録

東方見雲録

2026.06.21
XML
カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日    1981年3月12日
意匠図案説明   砧緑地公園を描く
開設場所     〒157-0073 東京都世田谷区砧3-17-4
引用サイト: こちら

砧公園 こちら










砧 地名
砧
古く7、8世紀のころ、朝廷に納める布を衣板(きぬいた)でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。
引用サイト:世田谷区   こちら

「砧」の由来は古代に求められる。多摩川流域に住みついた朝鮮半島からの渡来人が、税として大和朝延に納める布を河原でさらしてたたき、昔、麻やからむしの皮を砧という道具で打って、柔らかくして織物を作った。その道具が地名となった。これは女の人の夜なべ仕事だったため、衣を叩く音が夜のしじまに響いたのだろう。それが歌心を誘うのか、和歌の題材ともなってきた。ただし、土地の名としての砧はなかった。明治22年の市制町村制施行の際に、この故事に基づいて砧村ができたのである。ところが昭和二年に砧村が世田谷区に吸収されて、この名は消滅した。そして昭和30年、飛地整理の結果、砧町として復活し、44年の新住居表示によって現在の砧となった。
こちら

全国でも唯一の地名「砧」。この土地だからこそ生まれた地名。
明治の初めの頃、この辺りは「神奈川県大蔵村」と呼ばれていました。明治22年に市町村制が
施行され、喜多見、大蔵、宇奈根、鎌田、岡本の5つの村が合併し「北多摩郡砧村」となりました。
当時の村の有識者たちが集まって、新しい村の名前を協議したと思われます。その際、この地域が 奈良・平安時代から絹織物の生産が盛んであったことから「砧という名前がいいのではないか」と考えたのでしょう。有識者たちは、この地に響き渡る「砧の音」を地名に選びました。雑木林や竹やぶが点在し畑が広がる風景の中、「砧」はどんな風に聞こえていたのでしょうか。先人が選んだ 「砧」という字。「砧」という地名。ずっと愛着をもって、まちの誇りにしていきたいですね。
*明治26年に北多摩郡が東京府に編入され、「東京府北多摩郡砧村」となりました。
現在(いま)と違う過去(まえ)のすがた。「砧」は一度消滅した?!
昭和11年、北多摩郡砧村と千歳村は「世田谷区」に編入されます。その際、「砧村」は元の
喜多見、大蔵、宇奈根、鎌田、岡本の5つの名称となり、ここで一度「砧」という地名は消えてしまいます。鎌田町は18の飛地から成っており、大蔵町や祖師谷町内に点在していました。昔は川の周辺に生活の拠点が設けられていて、人々が最初に住みついたのも川の近くでした。そのような人々は、洪水の際の避難場所として、あるいは農地や農作業の休憩場所として、川から少し離れたところに点々と土地を持っていたようです。それがこの地域の「飛地」です。昭和30年に鎌田町の統合を中心とした飛地整理が行われました。それにより、「登戸道(ほぼ現在の世田谷通り)以北の大蔵町の区域とその区域内にある飛地」で「砧町」が新設されました。ここで「砧」は再登場するのです。よかったですね。
いかがでしたか?「砧」の由来。耳をすませば「砧」の音が聞こえて きそうですね。このミニコミ紙の「砧のひびき」という名前は、本当に いい名前だな、とみんなで感動しました。
引用サイト: こちら

関連サイト:砧地域の見どころ  世田谷区   こちら

関連日記:2025.11.28の日記 こちら
関連日記:2026.03.09の日記  砧公園でまた倒木    こちら

・・・・追記
砧公園のもととなる砧大緑地は、昭和15年、東京府が計画した6箇所の大緑地のひとつとして誕生しました。当時の東京は、大震災の復興事業もおわった昭和初期から人口の増加、マンモス都市化現象がおこりはじめ、都市環境は悪化しつつありました。

そして都民(当時は府民)の、いまでいうレクリエーションへの要求が高くなり、これに対応するために、総合的な緑地計画が必要になってきたのです。それは総合的、本格的な緑地計画として日本最初のものでした。

歴史と文化の散歩道しかし、この緑地計画がすすめられている間に、日華事変が拡大しはじめ、国家防衛がいそぎ必要になっていました。そして昭和13年、緑地に防空的機能をもたせるよう示されたのです。これを機に、「防火緑地」や「軍事緑地」という言葉がつかわれるようになり、有事のさいには防空的役割もはたす大緑地をつくることを決定しました。



■

昭和16年になると、用地買収と同時に学徒動員によって整地をはじめ、その後、 昭和17年には砧公園の整地が完了。さらにその翌年からは軍事訓練場、滑空訓練場、戦技術訓練場などの建設をはじめました。

戦争の長期化により、食料事情にも影響をおよぼし、イモ類、マメ類、雑穀、そばなども作られるようになります。戦争がはげしくなると食糧の増産に協力し、戦争が終わってからは戦災の復興に役立てるため苗木の生産をしたのです。

そして昭和19年になると戦局は緊迫し、砧緑地にも防空壕がつくられました。当時は、鉄カブトに防空服姿の人々が用賀方面から砧緑地へ避難してくるようになったり、また、ある時などは、B29が超低空飛行でとんできて、1500発近い焼夷弾を投下していったこともあるそうです。

ちなみに当時、砧緑地では麦やイモを作っており、それらは上野動物園の動物飼料としても用いられました。当時は、人間でも食べることがむずかしい時代でしたので「国民でも栄養失調で倒れる人がいるのに、動物のエサどころではないだろう!」と警察に取り調べをうけたり、没収されてしまうこともあったそうです。上野動物園と砧公園とは、こんなところでつながりがあるんですね。

■

戦中はもっぱら食糧生産と野外訓練にもちいられていた砧緑地ですが、昭和20年に戦争がおわってみると、そこには広大な草地と農場がのこされていました。それからは、失業対策事業によって、整地などをおこない、昭和24年には野球場とキャンプ場が新設されました。当時の野球場というのはとても珍しかったそうです。

同時に、当時の公園職員は、『公園マン』としての職業意識に燃え「この砧緑地を廃墟の中に立ち上がっている都民にうるおいをあたえる場にしよう」と、一丸となって整備にとりくみはじめました。彼らは、建設設備する予算などまったくないにもかかわらず、移動動物園、樹木園、生産緑地の構想など、都民の誘致をはかろうと情熱をかたむけたのです。

そのころの砧緑地内ではヤギや乳牛を飼育していたので、大草地に放牧し、その中でピクニックができるようにして、牛乳やヤギの乳をしぼって来場者に提供したりもしたそうです。戦後の混乱もすこしずつ復興の方向にむかいはじめ、人々の間にレクリエーションの要求が芽生えはじめてきました。

■

レクリエーションへの欲求が高まるにつれ、東京都は、砧緑地をレクリエーション用に提供しようと計画をすすめ、昭和30年、『東京都砧ゴルフ場』として公用をはじめました。当時は、都立のゴルフ場ということで使用料も安く、会員制ではなく、公開制だったのでかなり好評だったようです。ちなみに当時の使用料はコース1日一人300円。混合練習場1日一人120円、ドライバ練習場 ボール2ダース80円でした。

そして昭和41年、公営のパブリックコースがひとつくらいあってもよいのではないかという声があったものの「より多くの都民の、レクリエーションの欲求にこたえるのが緑地本来の姿である」という意見が大勢を占め、砧ゴルフ場を廃止しました。その後、ゴルフ場跡地は、『砧ファミリーパーク』として開園をしました。
引用サイト: こちら

関連サイト:東京都の軍事遺跡一覧 こちら

・・・・
関連日記:2026.06.29の日記  ネット散策 砧公園   こちら

・・・・
関連日記:2023.02.24の日記  インクルーシブ公園 砧公園「みんなのひろば」国内初   こちら


引用サイト:東京都公園協会   こちら






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2026.07.20 13:21:50
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: