東方見雲録

東方見雲録

2026.08.08
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カテゴリ: ランドスケープ


使用開始日    2022年10月17日
意匠図案説明   法明寺山門とミミズクを描く
開設場所     〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷2-7-14

雑司ヶ谷 地名
江戸時代後期に成立した江戸および江戸周辺の名勝旧跡に関する紀行文『遊歴雑記』によると、東は小石川護国寺、南は目白台組屋敷より高田四家町・下高田村、西は巣鴨村代地より池袋村、北は巣鴨村の辺りを境とする範囲が雑司ヶ谷村とされている。

  さて、古書では「曽司谷」「雑司谷」「蔵司谷」「僧司ヶ谷」など表記はまちまちであり、その地名の起源についても諸説いろいろである。

例えば、法明寺、小日向金剛寺の雑司料に由来するもの。つまり、寺社の経済的な支えとなる所有地のことを

雑司といい、土地で収穫される農作物などを納めさせていたことが分かる。そして南北朝時代、朝廷の雑事を扱う雑色職(ぞうしきしょく)を勤めた柳下若狭守、長島内匠、戸張平次右衛門などの武士が南朝の衰退を嘆いて官を辞し、この地に住みはじめた。また、曹司とは郡領の子を指すが、つまり御曹司が始めた土地という意味もある。

いずれにしても鎌倉時代以後に起こる地名であり、統一されたのは徳川八代将軍吉宗の時代。吉宗が放鷹(ほうよう)でこの地に訪れた際に「雑司ヶ谷」村と記すよう命じ、それ以後使用されるようになったと言われる。



弦巻川は昭和7年に暗渠となり、その川の流れを確認することはできないが、『江戸名所図会』には「水源は池谷の辺りに発し下流は清土の辺へ出でて音羽町の西方を歴て江戸川に会せり」と記されている。江戸川とは現在の神田川のことである。江戸時代後期の雑司ヶ谷地域では、寺社が点在する台地の下を弦巻川が横断して流れているのが分かる。周囲に野と畑が広がる起伏に富んだ眺望で、その川の流れを利用して滝をつくるなどして景勝の地となり、多くの俳人・趣味人も足を運んだのだろう。



法明寺山門



法明寺/雑司ヶ谷鬼子母神堂
引用サイト: こちら

関連サイト:法明寺   こちら


雑司ヶ谷・目白・高田・落合・鼠山全図






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Last updated  2026.08.08 00:00:07
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