のんびり生きる。

のんびり生きる。

記憶の底に生きているものは


三木はひび割れた唇をなめた。実藤は生理的な恐怖感を覚え、手を離しそうになった。
「生むのをやめれば、魑魅魍魎が襲いかかってくる。君は戦争に行ってない。当たり前だな。原体験のない今の若者に、小説など書けん。いいだろう。書けない方がいい。塹壕の壁から、顔の無い男が起き上がって来るんだよ。本当に顔が無いんだ。ちょっと様子を見ようと顔を出したとたんに、被弾した。油断したのもしかたない。新兵だったのだ。神々しいほど、白く美しい顔をした少年兵だった。能の喝食面を知っているかな、あんな艶めいた若衆の面が、ひらりと土の上に落ちていた。そうだよ、俺が可愛がった体には、もう顔が無かった。西瓜みたいな赤いものの真ん中に穴が開いて、そこから息を吐きながら、それでも俺にすがってきた。戦場では、普通の光景なんだ。平和になった町の中で、みんな悪夢だったと記憶の底に閉じ込めて、平然と生きている。ところがちょっとしたきっかけで、蘇ってくるんだ。可愛がったやつに、俺は吐き気を催して、両手で突き飛ばした。塹壕の外に放り出した。それはくねってなおかつ俺を慕ってすり寄って来たんだ。その光景は目の奥深くに、生きている。愛って言葉を女は好きだ。文学屋も好きだ。彼らも女のようなものだからな。しかし日本語本来の意味での愛という言葉を知ったら、ぞっとするぞ。現実に在るものは壊せる。生きているものは殺せる。しかし記憶の底に生きているものは、壊せないし消せない。どうしても無くしたければ、自分の頭をぶっ壊すしかない」(102頁)

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