のんびり生きる。

のんびり生きる。

彼が死なねばならなかったのは、


 自殺する前々日、浅野が鳥尾の目を盗むようにして私の席にやって来た。彼を促して空いている会議室に入った。
「部長、俺、頭がおかしいんです」
浅野の身体が奇妙に傾いでいる。目はこちらに向けられているが、瞳が小刻みに揺れていた。
「おかしいって、お前」
その瞳の動きを見つめつつ訊いた。
「これからやらなくてはならないことと、もうやってしまったことの区別がつけられなくなってるんです。訪問済みの得意先に次の日また出かけたり、まだ出していない営業報告を出したとばかり思い込んで鳥尾部長に怒鳴られたり。何だか頭の中で過去と未来がごっちゃになって、時間がよく分からなくなってるんです。部長、俺どうしちまったんだろう。どうすればいいですか、部長」
 浅野の仕事ぶりが変だという噂はすでに部署内に広がっていた。その日は金曜日だったから、「とにかく、この土日ゆっくり休め。よく考えて、どうしても自分はヘンだと思うなら月曜日、休暇を取って奥さんと二人で病院に行って来い。お前は頭が良すぎる分、いろいろ考えすぎるんだろう。最近はいい薬もあるというから、怖がらずに医者に相談してみろ。会社には風邪だとかなんとか適当に言っておけばいいんだからな」
と言った。もしも週明け、浅野が何もせず出社してきたら、夫人に直接連絡して、必ず病院に連れて行かせようと心に決めていた。
 だが、浅野はその二日後、三月十三日、日曜日の朝、自宅の書斎で首を吊ってしまった。まだ三十一歳という若さだった。   89頁




 死ぬ二日前、私の席にいまにも泣き出しそうな顔でやって来て、何だか頭の中で過去と未来がごっちゃになって、時間がよく分からなくなってるんですと悲痛な声で訴えていた浅野の姿が脳裡に浮かび上がってくる。
 あのとき浅野が本当に見失っていたのは、過去でも未来でもなかった。彼が死なねばならなかったのは、現在の自分を見失ってしまったからに他ならない。
 浅野に死なれ、さらには私自身が病気になって初めて、そのことに気づくことができた。163頁






© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: