小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

第一章 「キャリア」 五節


一人ずつメルアドを交換し帰り支度しながら、またこんな風に会う時があるのだろうかと考えていた。


お礼のメールくらいは大人の礼儀として送っても、それから先の行動はどうしたらいいんだろう。


「また飲みましょう。」と私から誘うのは、ありなのか。


こういう事に悩んでいるようでは先行不安だけど、ここが三十代ギリギリ、キャリアウーマンの戸惑うところである。


だけど素敵な人達と有意義な時間を共有出来た事を、後輩達に感謝しなくちゃ。


「一行、ありがとね。
とっても楽しかった。

私がご馳走しなくちゃね。」


「それは今度お願いします。

今日は割り勘っす。」



大抵、年下の連中にはご馳走するのが当たり前になって、私はいつの間にか「男化」とでも言うべき姿になっていたのかもしれない。


割り勘かぁ。
久しぶりだ。


会社の連中には「また明日」でいいけど、正幸さんもそして涼くんもこれっきりは寂しい。


せっかく知り合えた幸運に乗っかって、少し勇気を出してみよう。


「あのね、素敵なお店があるんだけど、近いうちお誘いの一斉送信していいかな。」


「おっ。

俺は明日でもいいですよ。」

と、正幸さんの言葉にみんなも

「その話、早くしてくださいね。」と喜んでくれた。



なんだ、こんな風で良かったんだ。

みんな同じなんだ。


帰る方向が一緒の者同士、それぞれが背を返し涼くんは女の子達に囲まれ帰って行った。

私は一行と二人になった。


「ねぇ、一行。

私ういてなかった?」


「いや、今日もカッコ良かったっすよ。」



思いがけない言葉を聞いて、不覚にも涙が流れた。



明らかに驚いている彼は、


「鬼、いや、上司の目にも涙。」

とおどけて私の方を見た。


泣き笑いした顔はクシャクシャで、私は「見るな」と彼の後ろに回りこんだ。


そして一行はちょっと困ったような顔をしながら

「一人で大丈夫っすか。俺こっちなんで。」

と腰をかがめて私の目をじっと見た。


私は涙と鼻水をぬぐいながら


「明日遅刻するなよ。」

と、その私を見つめた瞳に言った。


「了解っす。」

一行はそう言って、そこから帰って行った。


どうして泣いてしまったんだろう。


私がそう在りたいと望んでいた言葉に思わぬ所で出くわし、突っ張っていたものが弾け飛んだようだった。



涼が一行から聞いたと言っていた私の姿は、どれ程のものなのか。

感じた事のない心のざわめきに出会ったようだった。



心地良い疲労感の中、眠りにつこうとした時プルプルとメールがなった。

時計を見ると、もう二時になろうとしている。

アドレス交換したばかりの相手は


「先ほどはとても楽しかったです。
対局も忘れないでくださいね。

お休みなさい。 涼」


眠気が飛んだ。


ベッドに正座し、何度も読み返した。

私の身に何が起ころうとしているんだろう。

いや特別な事ではなく、みんなに送った中の一通だ。

自惚れるにもほどがある。


慌てて返信しようと何度も何度も書き直したのに


「こちらこそ楽しかったです。今度はお誘いメールします。

おやすみなさい。 麗子」

こんな事しか書けないなんて。


ましてハートの絵文字なんかありえないし、たったこれだけの返事に二十分はかかり過ぎだろう。


今日はなんて一日なんだと、鏡の中の自分に向かって


「さぁお肌のために早く寝ないと。」なんてため息をついた。


えっ、メールだ。


「こっちからもお誘いメールします。涼」



携帯を持つ手に力が入る。



夢か幻か、眠れぬ夜がやって来た。





つづく・・・




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: