小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第五章 「休暇」 二節



早朝、行くあてもなく電車に乗り、

人気のない休日の静けさの中に佇んでいる。


ふと見上げた中刷り広告で“アンコールワット展”の告知を見つけた。


そこはいつか行こうと決めている憧れの地。


美術館なんて思い出せないほど訪れていないけど、

このまま足を運んでみようか。


温泉の代わりになどならない事は何処へ行こうが一緒だけれど、

じっとしているとどうにかなってしまいそうだ。


本当は怖くて怖くてたまらない。


一行へ向けて素直に気持ちをぶつければ良かったのかとずっと迷っているけれど、

納得のいく答えになるような気持ちの良い割り切りは

今の私に出来そうにはない。



朝方、“こんな時、涼なら話を聞いてくれるだろうか”と、

想い巡らせている私がいた。


だけど、こんな時だからこそ声をかけてはいけないのだ。


私は涼を選ばず、涼を愛さず、

私は、涼の人生に踏み込む事を私の人生から除いたのだ。


涼にすがるのは、私のすべき事ではない。


私の嘆きが涼の耳に届くのは、もう一つの罪を創り出す事になるのだから。



一行はあれからどうしただろう。


私の嘘は、逆に一行の気持ちを深く傷つけてしまったかもしれない。

引き止めなかった一行を待っていた、もう一人の私。


そして何の意識もしないまま、ひとり美術館の前まで来てしまった。


休日の人混みは容赦なく孤独と云う現実を私に押し付け、

その空気は息苦しささえもプラスさせて来る。


入り口のロビーに腰掛け、展示場の中に吸い込まれて行く人々を眺めなから、

本当ならこんな風に出かけていたはずだった姿を想像していた。



一行と一緒に暮らし始めて、一行の為に私が出来た事はなんだろう。


仕事という理由付けで、自分本意の日々になってはいなかったのか。


せっかくの“アンコールワット展”も、

中に入る気持ちになれずに時間だけが過ぎて行った。


今私がここにいる事は、一行がくれた私に対するひたむきな想いを、

あまりにも簡単に置き去りにしてしまったのかもしれない。



まだ間に合うなら、時間を戻す勢いを私の強い願いで動かせはしないだろうか。


私は携帯を開き一行に電話をかけた。


「一行?今どこ?」


「麗ちゃんこそ、どこにいるんだよ。」


「美術館。」


「そこの美術館には何があるの?」


「アンコールワット展」


「ずっとそこにいたの?」


「うん。

本当は仕事じゃないの。

ウソ言ってごめんね。」


電話の向こうの口調はとても静かだった。


「麗ちゃんお腹空いたでしょ。

もうお昼だよ。」


「怒ってないの?」


「どうして怒るの?

大丈夫だよ。

最初からみんな麗ちゃんに話せば良かったんだ。

ホントにごめん。

だけど麗ちゃん行動力ありすぎ。」


一行の声が愛しかった。


「小さい頃からリレーの選手だったの。」


「やっぱり。

って、そういう事じゃなくてさ。」


一行はきっと電話をくれるだろうと信じて、携帯を握りしめていたと言った。


「これから行くから待ってて。

そこから動いちゃダメだよ。」


私は何分も何分もそこを動かなかった。


しばらくして美術館の入り口から、こちらに向かって歩いて来る一行が見えた。


両肩に荷物をさげ、汗だくで私に手を振っている。


「麗ちゃん、何が入ってるの?重かったよ。

温泉に行く荷物これでいいんでしょ?

遅くなったけど、これから出発しま~す。」



一行。

私はあなたに“ありがとう”と言うだけで、

それだけで愛される事を許されるの。


「ありがとう。」


つないだ手を強く、強く握り返した。




つづく・・・






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