小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第六章 「転勤」 五節



その日は朝から会社の中で一行の姿を見る事はなく、

私は私で次々とこなさなくてはならない仕事に追われ、

人事移動はすぐに話題の中心から外されていった。


それでも、後輩の女の子達は

「先輩、お昼一緒にいいですか?

何だか落ち着かなくて。」

と私を気遣ってくれている。


「了解です。

実は私も落ち着かないのよ。

ありがとう。」


嬉しいお誘いをしてくれる若い女の子達に、

素直に私の気持ちを聞いてもらうのもいいかもしれない。


あのコンパがなければ、こんな出会いもなく、

きっと肩を怒らせ歩幅の広い足取りで動き回っていたに違いない私を、

優しく気にかけてくれているんだから。


そして後輩から誘われる喜びも知らぬまま、

可愛いげのない女で四十を迎えただろう事を思う時、

一大決心をし自分自身を見直す事が、やはりあの時必要だったのだと改めて思うのである。


昼休みになって私たちは食事もそこそこに済ませ、すぐに一行の話題になった。


「先輩、ついて行かないんですか?

でも会社が放さないですよね。

今先輩に辞められたら大変だもの。」


「会社は大丈夫よ。

私の代わりなんていくらでもいるわ。

長く会社にいれば、こんなとこまで来ちゃうだけよ。」


「そんなことないですよ。

鈴木くんだって、だから先輩を選んだんですよ。

失礼かもしれないけど、普通は私達の方に来ますって。」



「あら、誉めてるんだかどうだかよく解らないけどそうなのかな。」


「会社辞めてついて行っちゃえ。」



そんなドラマチックな盛り上がりが私の人生に訪れるとは考えもしなかったけれど、

今がその時なんだろうか。


「ねぇ。

彼はどう思っているかな。

新人では大抜擢でしょ。

喜んでいるよね。」



「う~ん。

正直なところ微妙ですよね。

先輩の事がなければ悩むことはないわけだし、

でも普通ならチャンスだって思いますよね、男だったら。」


そうなのだ。

一行が足踏みをして戸惑うような男なら、

私はこの先も隣で微笑んで生きて行く事はきっと出来ないだろう。



「私が彼について行く事はないわ。」


「先輩、そう言うと思いました。

だけど、本当にそれでいいんですか。」


「決めたのよ。」



“栄転おめでとう”

と一行にメールを入れたら、すぐに


“いつから知っていたの?驚きました。”

と返事が返って来た。


今日は早めに戻って、お祝いをしよう。

私が私らしく在るために、一行の後押しをする。


それが私の出した結論。



少し年代物のワインを買い、綺麗な花も買った。

そしてその日遅く、一行はひどく疲れて帰ってきた。


「ただいま。

麗ちゃん、おめでとうってさ、どういうこと?」


「えっ、帰って来るなり何よ。」


「離れるんだよ。

いいの?」


一行は若い。

突然の出来事に対応しきれず、もがいているのだろう。

今日ゆっくり話すはずだった事も、今は見えていないのだ。


「一行、凄い抜擢なのよ。

もっと喜んでいい事よ。

今日はお祝いしようよ。」



「麗ちゃん、自信がないんだ。」



一行、大丈夫だよ。

一行、ちゃんと私が見てるから。



「麗ちゃん、一緒に大阪行かない?」


それがどんな意味を持っているのか、一行わかって言っているの?


一行が自信がないと言った時、私は迷わず


「仕事はみんな、はっきりとした始まりがあるのよ。

その始まりに立ち会えるなんて凄いじゃない。

一行ならやっていけるわ。」


そう言った。

一行はその私の言葉を遮るように


「そうじゃないんだ。

麗ちゃんのことだよ。

自信がないのは、二人の事だよ。

俺の気持ちじゃなくてさ、麗ちゃんの気持ちが、

ここでずっと変わらずにやって行けるのかなって。

誘惑されないように出来る?

淋しさに負けないでいられる?

でも麗ちゃんは一人が好きだからさ、それも心配だし。」



胸がつぶされて痛い。


私は決めたはずだ。

社会に出たばかりの青年の輝いた将来を想う時、

たとえ離れた場所からでもサポートする方法はあるのだと。


私は平気なふりをして一行に聞いた。


「一行、大阪にはいつまで行く事になるの?」


「半月後」


たったの半月で、おはようと微笑む朝はやって来なくなる。


その間、何度かは大阪に出向き、

仕事だけではなく生活の準備もしなくてはならないだろう。


「私の所には少し前に知らせが来てたけど、どうしても言えなかったの。

ごめんね。」


「麗ちゃん、今すぐじゃないよ。

今すぐじゃないけど、大阪勤務希望とか無理なのかな。

会社はOK出さないかな。」


「どうだろう。

ご承知の通り、結構重要な位置にいるもので。」



希望とか、あきらめとか、急に訪れる出来事に、

私だけの考えで突っ走る事はもうしない。


だけど一行、私もそんな風にキャリアを積んで来たのよ。

あなたが認めてくれた今の私は、長い年月が育ててくれたもの。

あなたはまだ始まったばかり。



「あの彼女のことだけど、パーティの時に麗ちゃんの事見たらしくて、

もう連絡しないって言ってた。

驚いてたよ。

上司っていうから、目のつり上がった怖い人を想像してたって。

悪い事したってさ。」


「そう。

私が涼くんといたから分かったのね。

じゃぁ、私も一行と歩いてる所見かけたし、おあいこだ。」


あの日捨ててしまった涼からのメールは、私への激励だったのかもしれない。

きっとそうだと信じよう。



私たちはワインを開け、美しいグラスにそれを注ぎ、

私はふざけて

「それでは、ご栄転される鈴木一行様よりご挨拶を頂きます。」

と一行のグラスに乾杯をした。


「うぇ、うそ。

麗ちゃん、勘弁して。」


「大阪でこんな場面もあるかもよ。

練習、練習。」


そんな私の言葉に


じゃあと一行は立ち上がり話し出した。



「突然の転勤で動揺を隠せませんが、社会人としてのステップアップだと信じて、

新しい土地で頑張ってみようと決意しました。

待っているもの、置いていかなくてはならないもの、後ろ髪を引かれること、

たくさん有りすぎてすぐには整理しきれませんが、

幸い近くに良い見本のような人もいますので、心配はしていません。

ただ、麗ちゃん・・・

麗ちゃん・・・」



途切れた言葉に私は顔を上げ一行を見た。


必死でこらえようとしている涙は、耐えきれず頬に流れ落ちた。


私達の運命がいつかたどり着こうとするその時まで、一行の涙は私の力になる。


「一行、立派な挨拶だわ。

すぐに追い越されちゃいそうね。」



さっき最後に言いかけたのはどんな言葉だったのだろう。


一行、大阪へ行こうというのは、


私へのプロポーズじゃないんだよね。





つづく・・・






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