小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第十章 「宿命」 一節




「お仕事ですか?」

と、静かな声でコーヒーを手渡された時からアメリカへ到着するまでの間、

私は見知らぬその紳士に私の知らない生き方を教わる事になる。


「はい。半分は勉強です。

先ほどは恥ずかしい姿をお見せして失礼致しました。」


「いや、恥ずかしいことなどないですよ。

人にはそれぞれの事情ってものがありますから。」


五十代後半ぐらいだろうか、

慣れたスーツの着こなしは、それなりの山場を踏んで来た品格のある、

自信にあふれた余裕さえ感じさせるものに見える。


「失礼ですが、観光にはお見受け出来ないのですが。」


「えぇ、東京へは二十年ぶりに戻りました。

妻の分骨を済ませて、これから帰る所です。」


優しいと見受けられた微笑みの裏には、

心の中に折りたたんだ哀しみがあった。


「あっ、そうでしたか。

それは痛ましい事でした。

まだお若くていらっしゃったでしょうに・・・」


「はい、亡くなって半年が経ちます。

やっと妻の想いを叶えてあげる事が出来ました。

僕はあまり良い夫ではなかった事に、

妻が亡くなってから気付いた愚か者なんですよ。


アメリカへ行ってから一度も日本へ帰る事はなかったんです。

帰りたいと何度も聞いていながら、

実現出来ずに見送ってしまった事が悔まれます。

骨になって戻っても、妻は喜んでくれているかどうかわからないんですが。

失礼ですが、ご結婚は?」


「はい。

半月程前にしたばかりです。」


「おぉ、それはおめでとうございます。

そうすると、見送りされていた方はご主人でしたか。

ちょうどあなたの後ろにいて、見る気などなかったのですが

目に入ってしまいました。」


「いえ、彼は夫の友人です。

夫は間に合いませんでした。」


何か共通の哀しみを見つけた気がした。


私の事には触れず、彼は話し始めた。


「僕は仕事ばかりしていて、

妻が病気になっている事にも気付いてあげられなかったんです。

ばちが当たったんですよ。

最期の時に意識が混濁して私の手を握りながら、

妻は私の知らない男の名前を呼んだんです。


僕の名前じゃなかった。


一緒にいたはずなのに、妻が故郷へ帰りたいと云う気持ちも、

その淋しさも後回しにして、ずっと隣にいるものだと思っていたんです。

これから先の人生をひとりで考えてみろと、

妻は私に大きな宿題を置いていきました。」


「失礼を承知でお聞きしますが、その男性は奥様とは・・・」


「僕と結婚する前の恋人だとわかりました。

不貞があったわけじゃないんです。

ただ故郷を忘れられなかったんでしょう。


そうでも思わないと、こんな歳でもとても耐えられそうにありませんから。」


孤独は、素直な問いかけにさえも、

その答えを受け付ける余裕や、

導き出す方法を簡単には教えてくれない。


「すみません。

聞いてはいけない事でした。」


「いや、そんな事はないですよ。

私こそ、結婚されたばかりの方に話すべき事ではなかったかな。」


それぞれの心と会話をするのに、

少しの間 沈黙が流れた。



「あの、教えて頂けますか。

私が今日からアメリカで過ごす数年は、

妻の役目をちゃんとはたせるでしょうか?

放棄することにはならないでしょうか。」



「あなたは面白い方ですね。

どういう事情であなたがアメリカへ行くのか僕は何も分からないけれど、

あなたの顔はちゃんと答えを見つけているように見えますよ。」



機内のアナウンスが流れ

暗闇から見えて来たのは、果てしなく続くネオンの海。


ここに、私は立つ。


「道案内ぐらいは出来ますよ。」

と、差し出された名刺には

私の仕事で関わりがあった、知っている会社の名前が書いてあった。




「どこかで擦れ違ったら飲みにでもお誘いしますよ。

でも新婚さんには断わられるかな。」




空港に着いて私はまっさきに電話をかけた。



「もしもし、一行。

聞こえる?」



「麗ちゃん、ごめん。

間に合わなくて。

ちゃんと着いた?」



「うん。着いた。

一行、聞こえる?

ちゃんと聞いて。

一行の奥さんにしてくれてありがとう。」



「えっ?麗ちゃん、改まってどうしたのさ。」


「ちゃんと言ってなかったから。

空港で言えなかったから。」


「どういたしまして。」




奇跡とは信じる者の内側にあるものが、

祈りで実現させるものなのだろうか。




さぁ 道は開かれたのだ。





つづく・・・





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