小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第十一章 「楽園」 一節




その店の中で響いていた曲がそうだと気付くまで、

僕は少しの間その場に立ちつくしていた。


薄暗い店内はカウンター席とテーブルが三つ、

そして小さいステージがあるだけの、古くからあるジャズバーだった。


バンドで歌っていた頃には聞く事のなかった園の静かな低音は、

確実にゆっくりと、心に染み込んで来る。


「こちらへ、どうぞ。」


カウンターから声をかけられ、僕はたったひとりの観客になった。



園が歌うその曲を聞き覚えがあると思ったのは、

バンドに明け暮れていた頃にギターで作った曲をアレンジし歌詞をのせられ、

園の声で生まれ変わっていたからだっだ。


所詮は夢だと、学生時代に作った自分でさえ忘れかけていた曲が、

そっと命を注ぎ込まれ生まれ変わっていたのだ。



信じて惜しみ無く与えたものは、いつか自分に返ってくる。



自分らしい一歩を踏み出す自分らしい選択を、園の姿は形にしていた。



いつだか誰かに、愚直だと言われた事がある。


失敗をしても成功をしても、それぞれが意味のあることだと理解し、

次に繋げるなだらかな手立てを、

僕はまだ知らずにいるのだろうか。


欲望を強さに変える方法は、いつか誰かに教わるものなのだろうか。



挑戦も出発も目標も、そして夢も。



挫折があって限界を知るなら、

ひとり置き去りにされてしまったようなこの身の置き場は、

妻の胸なのではないのだろうかと気弱な心が見え隠れしている。



「初めてですよね。」


マスターらしいその人は


「良い声してるでしょう。」


そう言って、コースターにグラスを乗せた。


「そうですね。

しびれます。」


背中越しに感じる表現のし難い距離感が、

園のオーラを感じさせていた。


歌い終えた園が


「マスター、あの曲を作った人よ。」


そう言いながら、すっと横に座った。


「そうでしたか。

それは失礼しました。

じゃぁ園ちゃんとバンドやってたメンバーですね。

どうぞごゆっくり。」


園の歌声のかわりに、スタンダードなジャズがかかり、

マスターはそのまま席を外した。


「驚いた?」


「うん。

あの曲は生きていたんだね。」


「そうよ。

就職するころ歌は無理かなって悩んでたからさ、

何かしていないと不安で仕方がなかったの。

必死で作ったわよ。

私、あの曲好きだったし。

歌うと思い出しちゃうんだ、あの頃のこと。

ごめんね、一行に断りもなく勝手に歌って。」



「そんな事ないよ。

いいんだ。


園のものだよ。

園はこういう曲を歌いたかったんだ。

タイトルは何ていうの?」



「楽園」



その時ドアが開き、けっして広くはない店の席が少しずつ埋まり始めた。


園は

「じゃ、ゆっくりしていって。」


そう言ってまたステージに戻り、歌う準備を始めた。



僕は少しうなずいただけで振り返らずに

一気にグラスを空け、園には黙って店を出た。







「もしもし、麗ちゃん・・・」


「楽園」の歌詞の中にあったフレーズが、頭の中を廻っている。




”愛されているはずなのに、

愛しているはずなのに・・・“




「もしもし・・・

麗ちゃん、聞こえる?」








つづく・・・





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