小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第十二章 「必然」 三節




「麗ちゃん、どうかした?」


立ち止まった私の後ろから歩いて来た一行が、私の前に回って静かに聞いた。


「ううん、何でもないの。

あの店に行く事はもうないんだろうと思って。」


でも本当は、通りの遠くに小さく涼の姿があったんだよと、

涼もちゃんと気付いていたよと、

その事をなぜか一行には言ってはいけないような気がして、

私はもう一度小走りで一行の隣に並んだ。


私が今ここですべきことは、一行と涼を会わせる事とは思えず、

もう妻となった私が夫である一行の心を乱すかもしれないきっかけを、

わざわざ作る事はない。

もう一行は、自分の心に従うだろう。

この大きな手は、見えない何かにきっともう触れているんだろう。


「麗ちゃん、涼に会えなかったね。」


「うん。

もしかしたら、近くにいたのかもしれないね。」


「涼は、プロになるまで俺達に会わないつもりかな。」


「どうかな。

もしそうなら一行はどうするの?」


「どうしたらいいかなぁ。

涼がそれで頑張れるんなら、その方がいいのかなぁ。」


私は返事をしないまま考えていた。


永遠の時間なんて誰もつかみ取れない事を知っているから、

無駄だと感じる時間もたぶん必要なんだろうと。


泣いたり、笑ったり、怒ったり、苦しんだり、

後になって身に染みてくる本当の意味を、

こんな風にして理解出来る大人になって行くのだろうと。



自分のために他人が存在しているわけでは無いことを、

ずっと問いながらもがき生きて行くんだろうと。



「ねぇ一行。

園さんは一行の事が本当に好きだったのね。

歌を聞いて良く分かったわ。

聞く前までは過去の事だと思っていたけど、

一行の曲だから歌い続けているのかもしれないわね。」


「そんな事言われたら、どう返事したらいいのか分からないよ。」



「一行、私の所に電話かける前に、園さんに電話したでしょ。

正直に言ってもいい?」


「あれは、涼の事聞こうとして・・・」


「解ってるわよ。

私が一行のそばにいないのは私のせいだもの。

自分でそうしたんだもの。


ねぇ、私の誕生日プレゼント覚えてる?。

半日遅れの温泉。

温泉に行く日に一行がなかなか帰って来なかった事あったでしょ。

あんな気持ちになっちゃった。

だから私ね、慌てて帰って来たの。

もちろん一行の事は心配だったけど、

私本当は一行の事少し疑って、園さんのとこ行っちゃうかもしれないって。

勝手よね。

自分の事しか考えてない。

アメリカへ行くのも、日本へ帰るのも、みんな自分勝手。」


一行はうなずいただけで、何も答えなかった。


一行が本社出張を終えるまでの二日間を、私達の本当の出発に出来るように、

もう一度出来る事をやり直してみよう。






一行は早くから会社へ出向き、私も後輩達へ久しぶりのメールを送った。


”鈴木麗子 一時帰国しましたので、ランチはいかがでしょうか?“


”相変わらず、驚かせ上手“と、嬉しい返事もすぐに返って来た。


時計を見ながらお昼までのわずかな時間に、

会長さん、いやもう辞任した正幸さんにもお祝いの電話を入れる事にした。


「もしもし、正幸さん。

麗子です。

ご無沙汰しています。」


「おぉ、麗子さん。

久しぶりですね。

アメリカからはいつ?」


「はい。昨日です。

ご結婚なさるそうですね。

本当に良かった。

おめでとうございます。」


「一行に聞いたんだ。

わざわざありがとう。

アメリカへ戻る前に一度飲みたいね。

あっ麗子さん、ちょっと待って。」


電話の向こうで誰かと話す気配がしたけど、

少し時間があいて私の耳に届いて来た声は、


「もしもし」


「えっ?」


「もしもし」


「涼くん?」



どこまでもどこまでも、目には見えない何かが私を追いかけて来る。


私達が同じ場所へ導かれ続ける理由が何かあるとしたら、

それはそういう運命だったからだと、そんな言葉でひとくくりにしてはいけない、

別の意味がきっとあるのだろうと私は思っている。


空港で、あの人混みの中でエールをくれた美しい人は、

確かに私を愛し真実に打ち砕かれ、

そして私の前から姿を消した。


でも約束された将来を選ばず、自分のために前進する事を、

そしてその道をちゃんと探し当てた。

私のためではなく、たったひとり自分自身のために。


私は私を愛してくれた涼に話さなくてはならない言葉がある事を知っていながら、

一行と生きて行くと云う理由付けで逃げていたのかもしれないと、

だからこうして行く先々で、

触れ合ってしまうのだろうと思わずにはいられないのだ。


気付いていないふりをして、痛い傷口に触れないまま、

初めから何もなかった事のように、もう過去の事と無理矢理置き去りにしたあの日の事が、

遠くからずっと私を見ている気がする。


あの時のずるい私を、そっと見逃してくれたあなたに、

謝らなければいけない事があるとずっと思っていた。


どこからか聞こえて来る声は私を責める。


だらしのない女だと。



電話の声は、すぐ正幸さんに代わり、


「麗子さん、涼はね、これからしばらく大事な試合が続くから、

結婚式には出られないってお祝いに来てくれたんですよ。

丁度、涼の事は応援はしてるけど心配もしてるって話してたら、

麗子さんから電話だから、涼に決着は自分でつけろって、

けつ叩いてやったとこです。」


この二日間は、私こそが決着をつけなければならない人生の、

特別な日になるのかもしれない。


そのために、きっとここに呼ばれたんだろう。


やはり会うべきなんだと、電話の声にたずねてみる。


「もしもし、涼君。

久しぶりね。

元気だった?

新聞で優勝した記事読んだわ。

おめでとう。

頑張ってるのね。

まさか、そこにいるなんて思わなかったから驚いたわ。

昨夜、曲がり角で姿が見えたから、もう偶然なんか無いと思ってた。」


「麗子さんどうしてこっちにいるんですか。」


「うん。色々あって、ちょっと休暇を取っただけよ。

涼君私ね、一行と結婚したのよ。」


こんな切ない想いに、言葉を震わせてしまうのはなぜなんだろう。


「涼君、これから会えない?」


正幸さんには改めて連絡をすると伝え、

待ち合わせしていた後輩達にも、キャンセルのメールを入れた。



一行の転勤が決まり、それをひとり抱え込んでいたあのパーティの日、

久しぶりのバンドで初めて一行の演奏を聞いた日、

涼とあのショットバーで時を共にした日、


そうあの日、私はたった一度だけ涼と泣きながらキスをした。


ビルとビルの隙間で、美しい瞳に見つめられたまま、長いキスをした。



ごめんね、涼。


心の中で言うだけじゃ、伝わらない事もあるんだとちゃんと知っていたはずなのに。



ごめんね、一行。







待ち合わせたスクランブル交差点でも、涼のまわりだけ光があたっているように、

すぐにその姿は私の目に飛込んで来た。


見覚えのあるオレンジ色のシャツは、初めて待ち合わせたその時をプレイバックさせる。


だけど私はあの日の私じゃない。


うつ向いていた顔を上げて私の前に立った涼は、

美し過ぎて眩しいほどだった。



雑音に紛れて涼は言った。


「会いたかった。」






つづく・・・






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