小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

第二十章 「あこがれ」 一節




「麗子さん」


空港の人混みに紛れながら、私を呼ぶ声がした。

背中から聞こえてきた声に驚いて、ゆっくり振り返った私の前に見えたものは、

美しく微笑んだ西山涼、その人だった。



もしも私が、キャリアウーマンなんて呼ばれていない、

若く今と違った時代を生きていたなら、

ここでまた涼に会う事などなかったのかもしれない。


だって、一行に会っていなければ、涼に会う事もなく、

一行に人生を委ねる選択すら私は出来ずにいたはずなんだから。


「麗子さん」


日本に戻ってはじめに顔を合わせた人が、私をただひとり見送ったその人だなんて、

どこまでも罪作りな運命が、

私を追い掛けて来るような気さえする。


「アメリカから帰ってきたんですか?」


だけどその顔は、あの日この空港で佇んでいた、思いつめた瞳の曇ったその人ではなく、

スクランブル交差点で後ろを向いたまま手を振ったその人でもなく、

背筋の伸びた強い自信に満ちた青年だった。


「そう。今戻ったの。」

すぐに涼は

「おかえりなさい。」

そう言って、少しだけ頭を下げた。


心の決着ならとっくについているはずと、

気掛かりな想いはもう過去の出来事だと、

その瞳が言っているようだった。


「涼君こそどうしてここに?」


出迎える人などいないと分かってはいても、涼が言った

”おかえりなさい“

その言葉に、心踊る私がいた。


そして私を見た瞳は、すぐに私の腕に抱かれたもうひとつの運命を見つめた。


両膝に手を置き、背をかがめて目線を合わせ、

「はじめまして」

そう言った涼の美しい顔が、幼子を包んで笑っている。


いつもならすぐに泣き出す絢が、

珍しく恥ずかしそうに微笑みながら、私の胸に顔を埋めた。


「名前を教えてください。」

そのまま視線を変えずに、涼は私に聞いた。


「絢。

鈴木 絢」


「絢くんかぁ。

絢くん、はじめまして。

お父さんの友達です。」


いつもなら黒と白の石を持ち、厳しく碁盤を打ち抜く細く長い指を広げて、

涼はその手で静かに絢の頭に触れた。


触れながら言った。


「試合です。

これから対局なんです。

中国の大会に出る事になって、そこに良い先生がいるんで、

少し修行も兼ねて行く所なんです。」


「でも、プロ試験はいつ?どうするの?」


「半年先です。

麗子さん、大会が済めば戻るんですよ。

プロ試験のために、試験に勝つために闘って来ますから。」


涼は、私がアメリカへ旅立つ時のように泣いたりはしない。

迷いや嘆きや不安や失望までも、希望という名の未来への夢の前では、

すでに色あせてしまったんだろうと、今の涼の姿を見て私は思った。


子どもの頃に思い描いた大人と言う漠然と感じていた高い壁は、

いつごろから目の高さになっていたんだろう。


見上げ憧れたそんな大人に、追い付けるのはいつなんだろう。


「涼…」


そう言いかけた時、案内のアナウンスが流れ涼は私に言った。


「じゃ麗子さん、行って来ます。

麗子さん、僕に力をくれますか。

麗子さんがアメリカで頑張って来たみたいに、僕も頑張れるように。」



涼はあの時と同じように、私を見送ってくれた時と同じように、

私の前に右手を出し、私はそれに答えその手を握った。


強く握ると壊れそうな繊細な指は、それに負けないくらいしっかりと私の手を握り返し、

そして私の目を見つめこう言った。


「あの時の時計じゃないんですね。」


そうよ、涼 もうあの時とは違うのよ。


「一行が誕生日に、挙式の時くれたの。」


涼はそれ以上の美しさはないと思うほどの優しい微笑みで


「そうですか。」そう言いながら手を離した。



二度目のアナウンスを聞いて、涼は荷物を持ち歩き出した。


「麗子さん、さっき何を言おうとしたんですか。」


「何でもないわ。

頑張ってって、言おうとしたのよ。

それだけよ。」


「そうですか。

じゃ、一行によろしく。」



涼、さっき言いかけたのはね、


今のあなたと はじめて会った時のあなたが、

やっぱり私のあこがれだって云う事。


愛したり恋したりしなくても、あこがれたのは涼だったと言おうとしたのよ。


私は絢を抱き直し、周りの目を気にする事もなく叫んだ。



「涼ーーがんばれぇーー」


涼は振り向きもせず、右手をあげてゲートをくぐり姿を消した。


私の大きな声に驚いて絢が泣き出した。


こんな運命があっても神様は罰を与えたりはしないだろうと、

ふと岩沢の顔を思い出した。





私はもう一度、この地に帰った。

絢、みんなで一緒に生きていこうね。



「もしもし、一行。

聞こえる?

帰って来たよ。

ただいま。」





つづく・・・







© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: