小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

第二十章 「あこがれ」 二節




日本に帰って来て、全て一から全てがこの手から作り出される会社設立の準備は、

ゆっくり構えている時間など何も無く、

その忙しさは大阪にいる一行も同じで、

いつまでも新人だからと許してもらえる社会の甘えなどない日々に、

日本に戻って一週間が過ぎたけれどまだ父と息子は会う事が出来ずにいる。



時間を見つけて父は、愛しい我が子に

「け~ん」と、電話の向こうから呼び掛け、

絢はキョトンとした瞳で一行の居場所を探しながら、

聞き覚えのある声に身体を揺らして喜んでいる。


週末には三人一緒にゆっくりしようと約束をし、

私は私の礎をくれた懐かしい会社へ出向く日を決め、

その旨を会社とそして専務に、

アメリカへ行けと勧めてくれた感謝すべき恩人となった小池専務に連絡を取った。


岩沢との尊い二年を私に授けてくれたのは、

穏やかだけれど鉄のような固い意思を持つ、

小池の形のない応援だったように思える。


それが小池の造り出した意思でないとしても、

そういう力を秘めた人生を、

彼は引き寄せながら進んでいるのだと私は信じている。


そして私があのまま会社に残っていたとしたら、

小池のその深い人生に気付く事もなく、

不思議な巡り逢わせを経験する事もなく、

一行をそして絢を抱きしめる事もなかったのかもしれないのだ。


会社を辞めようと決心をした時、

それを独り身でいる事の理由づけにして、

結婚とか年齢とか、ひとり取り残されたような場所から逃げるように思われないかと、

そんな考えがなかったなんてけっして言おうとは思わない。


だけど歳の離れた一行に愛されていると云うことだけで、

あの時の私は十分だったはずなのだ。


一行の大きな手で一行の大きな未来をつかむ時を、

静かに見ていたいと思っていたはずだから。



もし人生にその時々で勝ち負けがあるとしたなら、

敗者にしか分からない事だってあるんだと云うことを、

どんな時にも忘れてはならないと岩沢は教えてくれた。


何かを犠牲にして何かを切り捨てて、それでも進み続けるには、

命がけの覚悟が必要なんだと。




会社を訪ねる前に、約束を信じて待っていてくれる、

私と共に会社を作って行こうと夢を持ってくれた後輩達に、

気持ちの変化はないかとメールを送った。


”専務はもう知っています“と、送られてきた返事に

きっと”いいかげんにしてくれよ“と、

有望なキャリアウーマンを二人も引き抜いてしまう事を叱られそうな予感がする。


そして私は真っ先に小池の所へ向かった。


「失礼します。 鈴木です。」

ドアの向こうから

「どうぞ」と、声がした。


「専務、やっと戻りました。

専務には大変よくして頂いて、なんてお礼を申し上げたらいいのか・・・」


そう言いながら下げた頭を、なかなか上げられずにいる私に


「おい、やめてくれよ。

私の秘密を知られたんだぞ。

恥ずかしいじゃないか。」


そう言って、照れ臭そうに笑いながら


「ご苦労様。

よく頑張ったな。」


と、真っ直ぐ私の目を見つめ続けた。



誰もが平等に生きて行くのはきっと不可能に違いなく、

それを知っているからこそ、私達は悩み嘆き、そしてまた立ち上がる。


私も専務も、岩沢の名前を口にすることはなかった。


それはここが仕事の場だという事。

そして今は岩沢との事は、必要とはしないという事なのだ。

いつかゆっくり、話せる時が来るだろう。



「専務、これからも相談に伺って良いでしょうか。」


「あぁ、もちろんだ。

でもな市川、社員の引き抜きまでは聞いてなかったぞ。」


「あ・・・」



やっぱり。



この二年の月日の中で、何度笑って何度泣いて、

何度一行を愛しいと思ったのか。

絢が大きくなった時、ちゃんと話してあげられるように、

小池の年齢になるまで、たくさんの出会いを見逃さないように

私は進んで行こう。


帰りがけ、専務は私を呼びとめ


「市川、近いうち時間を作ってくれないか。

ここでも外でもいいんだが。

話しておきたい事がある。」


話しておきたい事?

ちょっと不思議に思ったけれど、

気にすることもなく

「わかりました。」


そう言って、私は部屋を後にした。


どこまでも、どこまでも、こうして日本に帰って来てからも、

私と一行の進む道は、見えない何かを探し続けていた。






つづく・・・





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