『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2024.06.20
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カテゴリ: 鉄道のものがたり

13 鉄道よもやま話①

 日本で初めて鉄道が営業開始したのは、明治五年五月七日のことであった。明治三年に測量開始し、建設を進めていた新橋・横浜間鉄道のうち、品川・横浜(いまの桜木町)の間がこの日に開業したのである。これは外国から輸入されたレールや枕木などの資材を横浜港に陸揚げをし、そちら側から線路を敷設していた。とにもかくにもこの日から、この区間に二往復の旅客列車が運転を開始し、翌日には六往復、八月十一日には八往復に増発された。徳川幕府が滅び、明治新政府が発足してからわずか五年という短期間で日本に鉄道が開通したのだから、まさに驚異的スピードと言える。鎖国政策により欧米諸国の技術発展から取り残されていた日本は、なんとかそれに追いつこうと必死だったに違いない。そして明治五年九月十二日には、新橋(のちの汐留貨物駅)横浜間が本開業をした。当初開業日は九日を予定していたが。当日が雨のためこの日に延期された。この鉄道が一般の乗客に解放されたのは翌十三日からで、一日九往復の列車が運転を開始した。

 ところで、この明治天皇のご乗車の祝賀列車を運転したのは外国人であった。運転を担当したのはイギリス人の汽車機械方(要は運転手)のトーマス・ハートであったが、この祝賀列車に限らず、すべての列車の運転手はイギリス人であった。それは運転手だけではなく、開業当時の車両は、機関車も客車も全部イギリスから輸入されたもので、さらには列車ダイヤを組むのもイギリス人ならば建設における指導を行ったのもイギリス人であった。まさにイギリス人なくして日本の鉄道は開業できなかったのである。創業当時の鉄道員は日本人が駅務を中心に配置されていたのに対し、イギリス人を中心とした外国人は高級職員だけではなく。建設部門や列車運転に関わる現業機関のほとんどの職場を独占していた。けれども、それは至極当然なことであった。この時代の日本人に鉄道に関するノウハウなどあるわけがなかったため、経営から技術、管理、車両、諸施設の供給に至るまでありとあらゆることがイギリス人の指導の下に行われていたからである。

 ただし北海道開拓使が管轄した初期の北海道の鉄道では本州とは異なり、アメリカ人技師の指導のもと、アメリカ製の資材を購入して建設がすすめられた。また、私鉄の九州鉄道は、ドイツ人の指導のもとドイツ式鉄道を採用していたから、鉄道を取り巻く技術的環境が混在していたことになる。大正十四年に全国で車両の連結器が一斉に同じ物に交換されたのは、このような状況にあったからである。いずれにしても、創業期の日本の鉄道は、イギリス人を中心とした外国人が主導権を握っていた。これら外国人技術者、俗に言うお雇い外国人の数は、明治七年ごろがピークで百十五名を数えたという。ただし、それも長くは続かなかった。まず明治十二年四月には新橋鉄道局で初の日本人運転手が三名、ついで同年八月には神戸鉄道局でも三名の登用を見たと記録されている。そして同年十一月には新橋・横浜間の全列車に日本人運転手が乗務するようになったという。

 さて踏切といえば、列車優先であることは言うまでもない。例えば地方のローカル線のように一日十本ぐらいしか列車が通らなくても、そして道路側の交通量が多くても、決して列車の方を遮断するということはない。ところで、鉄道創業期の踏切は現在とは異なり、列車の方を遮断していた。『踏切』は、基本的に『道』の方に焦点を当てた用語で、鉄道を踏んで横切る道、といった概念の用語である。鉄道創業期の踏切では、遮断のバーはもちろん手動で、常には線路の側を遮断していた。そして列車が接近してくると係員がバーを動かして道路側を遮断し、列車を通行させたのである。しかし明治二十年頃からは、今度は道路側を遮断するような形に変更された。ただし、現在の踏切とは異なり、常に遮断のバーを下した状態にしておいて、通行人が現われると係員は列車が来ていないことを確認した上で、線路側を遮断して通行させたというから、これまたのんびりした話である。当時の道路交通の主と言えばあくまでも人間であり、スピードが速いものと言っても、せいぜい人力車か馬くらいしか通行しなかったから、こんな方法でも特に問題は無かったのであろう。しかし、明治も終わりの頃になれば当然列車の本数も増え、スピードも向上。急行列車も走るようになったわけだから、いちいち通行人があるたびに線路側を遮断していては。危険きわまり無い。そこで現在の踏切とほぼ同じ方式になったのは、およそ明治の末から大正時代にかけてのことと推測されている。


 工部省鉄道寮では、明治五年五月七日の品川・横浜間の仮開業の時点から列車の発車時刻表を駅構内に掲示した。それには品川発車午前八時、横浜到着午前八時三十五分などと書かれており、現在と同じように分刻みで列車の時刻を示されていた。さらにその下には、乗車における諸注意が掲示されていた。それには、『乗車セムと欲スル者ハ遅クトモコノ表示ノ時刻ヨリ十五分前ニ、ステーションニ来リ切符買入ソノ他の都合を成スベシ』とか、『発車時限ヲ遅ラサルタメ、時限の五分前ニステーションノ戸ヲ閉ザスベシ』といったことも書かれていた。要は発車時間の十五分前には切符を買い、その他の手続きを済ませておくこと。発車時間を厳守するため、発車五分前には駅の入り口を閉めるから注意しろ、と言っているわけで日本の鉄道は今同様、その初期から時間にはかなりうるさかったようである。しかし、ここでちょっと考えていただきたい。

 当時の日本は、寺の鐘の音を聞いて暮六つとか五つ半とか言っていた江戸時代からわずか五年しか経っておらず、二時間単位の古い時間の感覚から抜け出ていない人も多かったのではないだろうか。そこへ八時というような西洋式の時間が出てきた上に、三十五分などの分単位の時間など、当時の人には感覚的に合わせることができなかったと思われる。
それよりなにより、まず一般庶民では時計など持っている人などいなかったわけだから、一体どうやって発車時間の十五分前までに駅に行けたのかという疑問に突き当たる。当時の庶民が時間を正確に知る手がかりは、皇居内で発していた正午の号砲ぐらいのものだったというから、考えてみれば実に不思議な話である。この問題の解決は実のところ乗客の慣れ以外の何ものでもなかったようだ。そもそも列車に乗って旅することなど、いくら品川・横浜間の短距離とは言え、当時の庶民にとっては大旅行であり、当然それなりの緊張感が伴っていたので、中には夜明けと共に駅で待機していた人もいたという。それでもやはり乗り遅れる人はいたらしい。鉄道寮でも開業前からこの庶民の時間感覚の問題には危惧していたようで、一時は芝増上寺の大鐘を芝の愛宕山頂に移し、一時間ごとに鐘を鳴らして正確な時間を庶民に伝える計画まで立てたというが、これは寺側の反対により実現しなかったという。結果、庶民の自覚に頼るしか方法はなかったのである。新橋・横浜間の本開業に伴い、切符は十分前、駅の入り口を閉めるのは発車三分前と多少は緩和されたものの、その後も発車間際に駆け込む人や乗り遅れる人が後を絶たなかったという。
(この稿、所沢秀樹著『鉄道地図の歴史と謎』より。





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最終更新日  2024.06.20 08:00:16
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